わかりみ、は本当に分かっているのか
自分の好みが先にあって、それがたまたま相手の意見と合致した…だけではないのか?
本当に相手のことを『分かった』のか?
自分の見たいものだけ探して、安心感を得ているだけではないのか?
わかったんじゃなくて、『分かって欲しい』だけではないのか?
相手のことを分かった気になってしまっているという状況がすごく恐い。
『わかりみ』のベースとしてあるのは相手ではなく自分なわけだよ。それを…相手のことをよく観察せずにわかりみが……と言われてもピンと来ないなぁ。
わかりますかね?
他人の考えを理解するとは
他人の考えを理解できるという傲慢
他人が腹の中で何を考えているかなんて、分かりっこない。観測できるのは、他人がどんな行動をとったのか、ということだけだ。
『他人の考えを理解した。』と傲慢になっていても、その実、想像力をはたらかせて自分の脳と対話しているに過ぎない。他人のことを理解したつもりになって、自分の考えを押し付けているだけだった…なんてこともよくある。しかも、自分の考えを他人に押し付けているという事実を自分自身は観測できないからタチが悪い。
他人の考えを理解しようとするとき、〈もし自分が相手の立場だったら〉というモデルを想定をし、自分の頭の中でシミュレーションを行う。少なくともボクはそうやっている。しかし、そのモデルはたいてい欠陥品だ。
他人の立場なんか知らない
相手のおかれている立場、境遇、環境を正確に把握していないとそもそもシミュレーションできない。はずなのだけれど、相手の立場を都合の良いように解釈しているモデルをたてていることが少なくない(そして、それに気がつくことは出来ない)。世代の違いとか…肩書きの違いとか…知らないはずなのに自分のものさしで相手を想像してしまう。無知を晒して他人を卑下してしまう。
だから知識が欲しい
ただ、その知識だって間違っていたり、偏っていたりするのだけれど。
そして、他人の立場についての知識を仕入れるだけでも大変なのに、そこまでしてやっとモデルを回すスタートラインなのだ。
で、結局何のために想像するのか
相手の立場を想像して、相手が何を考えているのか想像して……。それが正しいという保証なんかどこにもないのに。
そもそも、他人の考えを理解したいという欲求自体がエゴなのだけれど。利他主義にみせかけた利己主義である。
……それでも他人を理解するという行為が自分のためだけであるとは思いたくない。別に世界平和をうたうわけではないが、人間は独りで生きているわけではないのだから。
他人の考えなんて理解できないという命題が真であったとしても、諦めたくないし、いつか出来ると信じている。