失敗の連続
結婚していないことは不完全か
「結婚して子供は二人つくる、それが出来れば一人前」
偉い立場に立つ議員さんが「結婚していないから、だめだ」という発言をしていることを聞く、教育現場でも、結婚して子供が居ないから生徒の気持ちがわからないと言うことも聞く。
確かに結婚しているからこそわかるし、見えてくるものもあると思うが、今の時代はわざわざ自分に嘘をつき結婚をするという選択を取らなくても良い訳だし、しようと思っても出来ない人もいる。結婚しても子供を作らなかったり、作れなかったり。だって色々な生き方がある。
そもそも結婚して、人生としての雛形に納まり、夫婦という肩書きを得たとしても、不完全なものは不完全だとおもう。(否定的な意味ではなく)
逆に結婚していない方も数名僕の職場にはいるが、完全か不完全かという問題ではなく、自分の意思を持って輝いている人もいる。
結婚しない、出来ない、子供を作らない、作れないと言うことが少子化に拍車をかけ、非生産的で国を滅ぼすと言うのであれば、結婚し子孫を残すという選択肢から溢れた人の持っていた力や選択肢を失うということ。人が前向きになれない、肩書きや雛形だけが優位である社会では、それこそ可能性を持たない滅び行くものだろうと思う。
社会をより良くするためのデザインや試行錯誤、研究。ひとりの人をより良くするための言葉や思い。そんなものだって立派な生産だし、より前向きな社会に対しての原動力だと思う。
教師としてたったひとりの生徒でも良いから何かを残してあげることも生産だろう。
結婚してしない、そして子供が居ないということ、それだけで完全か不完全かなど誰にも決めることは出来ないのではないか。
最後にこんな事を書いたが僕はゲイだけど結婚はしたい派。
法的に守られたいと言うこともあるし、好き人との人生を周りの人に祝福されたい。そして二人で歩むことを表明する時間として、結婚の契約を交わしたいから、僕は結婚がしたい。
Over the Rainbow
(虹の向こうのどこか空高くに
昔、子守歌で聞いた場所がある
虹の向こうのどこかでは空は青くて
信じた夢は本当に現実のものとなる)
「オズの魔法使い」のテーマ「Over the Rainbow」の和訳
この歌も、ジュディ・ガーランドもセクシュアルマイノリティなら殆ど皆さんご存知のもの。
劇中では離れた家族と再会したいと願う少女に、何かが足りないものたちが、その何か(知恵、心、勇気)を得るためについて回る。
結局欲しかったものは自分のなかにすでにあったのだが、僕的にはそれが欠けたままで、それぞれが不完全なままでも良かったのではないかとラストシーンに思う。
不完全で脆いからこそ、他者との差異も味わえるのではないだろうか。
「マルチチュード」(アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート)のなかで述べられた、差異は差異として機能しつつも統合された一つの社会は、そんな事を尊重して、それぞれが歯車となれる社会だろう。
一般的な尺度で計られたとき、何か不完全だと言われて、不要と言われる事が多い。だけれども何かを生産して社会や未来のために生きたいと思っている。
「Over the Rainbow」の歌詞のようなユートピアは、昔の人も今の人もずっと探し求めている。
いつになれば実現するのだろうな。
と、外的なものに求めるばかりでなく、やっぱり自分も何かしなきゃな。
「○○はアスペルガーだから」
「○○はアスペルガーだから」
1年前うちの職場でたまに聞いた言葉。
その時の会話では僕に向けた言葉ではなかったにしても、教員の口からそんな言葉が出ることに驚いた。ちなみにそれはしっかりしていると信頼しかけていた人から聞いた、別な教員に向けた言葉。
スタンダードでなければやっぱり教職につくことは出来ないのか。そんな問いかけに対して、見えない決まりごとのような意識や権力を感じた。
マジョリティが教員であることがやっぱり前提なのか。マジョリティにマイノリティの生徒の気持ちがわかり本当に指導が出来るのか。
「○○はアスペルガーだから」
そんな言葉のなかには、教師にも、生徒にもそんなもはあってはならない。あっても良くない、存在してはならない。そんな意味を感じとった。
それからそんな言葉は聞かない。僕がそうだとわかったから、面と向かってその言葉は出さないのだろう。
特別性への変換
僕のアイデンティティによる生活での問題点
・プライベートの話が出来ないので、会話が嘘
・人と親密になれない
・でも輪に入りたいので道化になって結局傷つく
・課題を見えるようにしないとすぐに忘れる
・気持ちを汲み取れずたまに人を傷つける
・計画性がない、思いつきで行動
・嫌な事をされると感情的になりかなり根に持つ
・他者との意見交換、議論で咄嗟に頭が働かない
・会話中に別な世界をトリップ
・集団の動きが苦手
・大勢の前での話や、ストレスのかかる場面では、話が出来なくなったり吃音が出ることがある
・貯金出来ない
・時間や手続き関係にルーズすぎてひとり暮らしの生活は崩壊
・仕事中もルーズというかマイペース(じゃないと機能しない)
・知識が極端、局所的
なかなかマジョリティの考え方や生き方がわからないのですが、ずっとこのままで生きているので、自分一人だと何も問題はないのですが、集団や仕事になるとやっぱり厳しいなと思う。
定型化された業務をどうやってきちんとこなすか考えもの。
ただし、一生懸命にやろうとしても、周りより時間がかかり、人並み以下にしか出来ないと自覚してる。
だから毎回新しいことや、自分だけに出来ることをしたい。特別性を持ちたい、ポジショニングをしたいと思うのである!
そんなことが僕がやってきて、そして教えている美術と密接に関わっているのだろうと思っている。
まだ読めていないのだけど、早いうちに読んで参考にしてみたい本に「フラジャイル 弱さからの出発」(著:松岡 正剛)がある。何かを掴めそうな気がするな。
教師の仕事とプライベート
2年間教師として働いてきたなかで思うことは、教師はただ生徒に勉強や学校生活でのルールを教えたり、生徒の進路や将来への補助をしてあげるだけではなく、生徒と人間としての深いところで関わる必要があるということ。
うちの生徒は皆、同じ形、色の制服を来て、何種類かの限られた色のリボンやネクタイを身につけ、ほとんど同じ髪形、そして1から40や50までの番号を振られて記号化されている訳だけど、そこにはその生徒それぞれの話し方や、考え方、家庭や育ち、興味や交際関係だとか、目に見えない個性や背景があることは当然として理解していて、そんな見えなくて深いところを理解しようと、考えながら関わっているはずだと思う。
それは生徒のことだけではなく、お給料を貰い働く教師も同様に、国語の先生、数学の先生、柔道の先生、美術の先生という肩書きという中にある、自分の生き方をきちんと咀嚼して話せないのなら、それは薄っぺらな言葉で、生徒には届かないはずだろう。
教師という仕事は、ただ仕事ではなく、プライベートと切っては語れない。プライベートの上に教師の仕事は立脚しているのだろうと思う。
そんな事を考えていると、ふと思うことは、クローゼットゲイに教師は勤まるのかということ。適正がないかもしれないということは、マイノリティだからや、変だからとかではなく、自分のプライベートが語れない。自分の言葉で話せない。そんなところが問題なのかもしれない。
尊敬する人/自分の良くないところ
退職という道が目の前に出来てからは、仕事はすべて割りきり、自分の目標を叶える機会は探り、他は極力やらないか、自分の経歴になることだけをやるというスタンスで居た。
メリットの無い縁は切っても良いと思っていた。
ちょっと悪くやりたい、グレてやるみたいな、そんな不良精神のようなところがあったのだろう。
今思えば本当にダメダメ。自分の向いている視野の外から得られる経験も沢山あるし、人生にとって大切なスパイスだろう。
そもそも経歴や、権力だとか社会的地位、身に纏うものの価格、お給料の高さなんかでは心の穴埋めは出来ないし、精神的に成長出来ないとわかっていてもそれにすがってしまうところが馬鹿げたことの堂々巡り。
前に紹介した、カミングアウトを済ませた男性の先輩は、本当に真っ直ぐ生きているし、そんなことが伝わってくる。色々な事を避けずに、受け入れたり、乗り越えたりして今の姿があるのだろう。
そんな姿を職場で見るなかで、今年の自分は本当に腐れていたと自覚するし、なれるはずはないのだけど、そうなりたいと思ってしまう。本当に憧れの人。
人生で最初に振ったダイスの目は変わらないけど、そこから足し算して行く数は変わるはず。
同じようにはならなくとも、自分の形でそんなところを目指して行きたい。
最後に尊敬出来る人に出会えて良かったな。
あー。真っ直ぐ生きよう!