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神武以来の日本語の歴史(やさしいバージョン)

超かんたん3行まとめ

・「以来」を「このかた」と読むのは漢文訓読のきまりごと。

・「じんむいらい」と「じんむこのかた」、両方使えるのがほんとうの知識人。

・昭和の流行語(例えば「神武以来の天才」「神武以来の美少年」「神武以来の好景気」)の話をしているのに、これは「じんむこのかた」と読むのが正しいんですよ、などというのは間違っています。

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原田泰夫さんと田辺忠幸さんの共著『早わかり将棋なんでも入門』小学館、第44刷(1995年)、p.152より。

 

この文章は、「神武以来」という言葉の読み方について、調べて知ったことをまとめたものです。

調べをすすめていくと、日本人と漢字の関わりの歴史が見えてきました。

これは、やさしいバージョンです(未完成の別バージョン。)。

後半ではマスコミを批判することになりますが、インターネットでよくあるような「マスゴミ叩き」はしたくないと思っています。

例によって出典・参考文献の書き方がハチャメチャです。

材料として集めたけど、ここには書いていないことも、けっこうあります*1

ルビの付け方、カタカナとひらがなの書き分けなども不規則になっています。

公開後にも加筆修正しています。

以来 このかた 違い 語彙 語彙史 ひふみん 中学生棋士 神武景気

 

目次

はじめに:「神武以来」は昭和の流行語

将棋棋士加藤一二三さんを紹介するとき、たびたび使われる「神武以来の天才」という言葉がありますね。

この「神武以来」という日本語を、皆さんはどう読みますか?

・将棋界ではずっと「じんむこのかた」の天才と読まれてきた。

・『広辞苑』や『大辞林』や『難読語辞典』には「じんむこのかた」しかのっていないから、「じんむこのかた」が正しい日本語で、「じんむいらい」は正しくない日本語だ。

ときどき、こうした発言をインターネット上で見かけることがあります。

どちらも間違いです。

 

冒頭の画像は、原田泰夫さんと田辺忠幸さんの子供向け将棋入門本からの引用です*2。 

加藤かとう一二三ひふみ 九だん

(略)

五八ねんに18さいで八だんのぼり"神武以来じんむいらい天才てんさい"とさわがれました。

お二人とも亡くなられていますが、原田さんは将棋のプロ棋士、田辺さんは観戦記者です。

原田さんは、たくさんのプロ棋士にキャッチフレーズを付けたことで知られています。

十六世名人の中原誠さんの自戦記に、こう書かれています*3

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「神武以来の天才」とは、例によって原田泰夫さんの命名です。

中原誠中原誠実戦集-2-タイトルをかけて』大泉書店、1974年、p.239。

熱心な将棋ファンなら、田辺忠幸さんのこともご存知と思います。

田辺さんは「将棋会館」が、しばしば「東京将棋会館」と書かれてしまうのに苦言を呈し、「東京・将棋会館」と書くことを提案するなど、言葉づかいにうるさい人でした*4

このように、「神武以来の天才」の名付け親とされる原田泰夫さん*5、そして言葉づかいにきびしい観戦記者田辺忠幸さんの共著に「神武以来じんむいらい天才てんさい」と書かれています

このことだけでも「将棋界ではずっと「じんむこのかた」と読まれてきた」という説は間違いだとおわかりいただけたと思います。

 

1988年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントで加藤一二三さんと羽生善治さんが対局しました(対局・放送は1989年)。

将棋ファンの間では、「5二銀」という素晴らしい手の出た一局として有名で、2020年に再放送されたのをご覧になった方も多いと思います。

その放送の中で、聞き手で雑誌『近代将棋』創設者の永井英明さんが、加藤さんの若い頃を振り返り、「じんむいらい」の天才と呼ばれたといっています。

引退前後の加藤さんを題材にした、NHKのドキュメンタリー番組のDVD『加藤一二三という男、ありけり。』の冒頭では、雑誌『将棋世界』元編集長の大崎善生さんが「じんむいらい」の天才といっています。

 

加藤さんが18歳で八段(A級棋士)になる1年と少し前、1956年(昭和31年)の暮から「神武以来」という言葉が流行語になりました。

これは「神武天皇の時代以来」、「日本国はじまって以来」といった意味で、当初は好景気を形容するのに使われた言葉でしたが、さまざまなものごとにも「神武以来の○○」という形で応用されました。

加藤さんの「神武以来の天才」や、美輪明宏さんの「神武以来の美少年」も、その流行をふまえたものです。

ただし「神武以来」は当時の新語ではなく、もっと前からある言葉ですが、それについてはこの記事の中盤に書いています。

「神武以来」を、「じんむこのかた」ではなく「じんむいらい」と読んでいた原田さんや田辺さんや永井さんや大崎さんは、間違った日本語を使っているのではありません。

昭和の流行語としての「神武以来」は、「じんむいらい」と読まれるのが普通だったからです。

 

 

どうしてそうなのかというと、「神武以来」が流行した昭和30年代の日本人は、学校の国語の勉強で、「以来」を「いらい」と読む教育を受けてきたからです(これは現代日本人も同じです)。

もっというと、当時も今も、国が定めた現代日本語表記の目安に従うなら、「じんむいらい」が正しいのですが、そのことはこの記事の終盤に書いています。

「このかた」とも「いらい」とも読まれていた熟語「以来」の読み方において、「いらい」が主流になっていく背景には、江戸時代中期、18世紀の知識人たちの意識変化があると考えられるのですが、それは、これからこの記事で、古代から順を追って述べていきます。

 

中国語の「以来」が古代の日本に入ってきて「このかた」と読まれるようになった

漢文訓読

「以来」を「このかた」と読むのは、なぜ?と不思議に思っている人は多いのではないかと思います。

「以来」を「このかた」と読むのは、大昔の日本人に中国語を理解させるための決まりごとです。

一言でいうと漢文訓読くんどくです。

 

大昔、日本語には文字がありませんでした。

話し言葉はあるけれど、書き言葉がない、という時代がありました。

聖徳太子の時代よりも前、中国から日本に漢字が入ってきました。

それを借りて日本語を書いたり読んだりするようになったのが、日本語における文字のはじまりです。

 

日本語で使っている漢字の読み方には「おん」と「くん」がありますね。

「音」は中国語の漢字の発音を元にした読み方です。

「訓」は、ある漢字に、その漢字が表している中国語の意味に近い和語わごを当てはめた読み方が、定着したものです。

「和語」とは、もともと日本語にあった言葉で、「やまとことば(大和言葉)」ともいいます。

「和語」に対して、「漢語かんご」は、いろいろな定義があるのですが、この記事では、もともと中国で使われていた、漢字で書く言葉が日本に入ってきて、日本語としても使われるようになったものをいいます。

例えば「山」という漢字は音読みでは「サン」ですね*6

昔の日本人が「山」という漢字を理解する際に、その漢字が意味する中国語に近い意味の言葉である「やま」という和語を結びつけて読むようになりました。

そういうふうに、漢字に和語が結びついて定着したものが「訓」です。

 

「以来」を、「このかた」と読むようになったのも、同じようなことです。

中国語の文章(漢文)を、大昔の日本人が理解できるようにするため、文中の単語(漢語)の順番を入れ替えたり、漢語に和語を当てはめて読むようになりました。

これが漢文訓読です。

単に訓読ともいいます。

訓読に対して音読おんどくという言葉があります。

現代では音読といえば、単に文章を声に出して読むことをさす場合が多いですが、訓読に対する音読は、漢文や漢語や漢字をおんで読むことです。

「以来」は、もともと中国語です。

中国語としては「イライ」のような発音で、意味は英語でいうとsinceです。

現代の日本語教育を受けた人なら、「以来」を「いらい」と読むのは当たり前で、その意味もわかりますね。

ですが、中国語・漢文を学びはじめた大昔の日本人にとって、「以来」は漢文の中に出てくる、よくわからない外国語でした。

それで、漢文中の「以来」を、日本人の漢文学習者が理解できるように、先生*7が、これは「いらい」のように発音しますが、意味は「このかた」ですよ、というふうに教えました。

「このかた」は、現代語でいうと、「あの」「この」「その」の「この」に、方向を意味する「かた」がくっついた言葉で、「こちらがわ」を意味します。

生徒たちは漢文に出てくる中国語の熟語「以来」を、和語「このかた」で理解し、そう訓読するようになりました*8

「以来」を「このかた」で読むのは一種の翻訳ともいえます。

このように、漢文を訓読する際、中国語の熟語(熟字)「以来」を、「こちらがわ」を意味する和語「このかた」で理解し、読むようにしたのが、熟字訓「以来このかた」のはじまりです。

「以来」を「このかた」と読むようになった具体的な年代はわかりませんが、平安時代にはそう訓読するようになっていました。

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自後以来 ソレヨリコノカタ

興福寺蔵『大慈恩寺三蔵法師伝』巻第六、永久四年(1116年)点*9

 

なお、「以来」だけでなく、「已来・来・以降・已降・以後・以還・已・已去・去」なども、「このかた」と読まれることがありました*10

つまり「同訓異字」が多くできました。

これは、中国語は語彙が多く、和語は語彙が少なかったためです*11

英語で例えると、lookもwatchもseeもgazeも、「みる」と訳すようなものです。

 

また、現代の中学校や高校で漢文教育を受けた読者の皆さんの中には、漢文訓読のやり方(読み方)にはたった一つの正解があると思い込んでいる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなく、漢文訓読には流派*12や個人による読み方の差があり、時代による変化もありました。

江戸時代に起こった「このかた」→「いらい」という読み方の変化については後で述べます。

平安時代の「このかた」は訓点特有語

平安時代の日本語の書き言葉には、漢文とその訓読文の「漢文脈」と、物語や和歌などの「和文脈」という二つの流れがあり、二つは区別されていました。

和歌には基本的に漢語は使われません。

訓読文には平安時代よりも古いかたちの日本語が、化石のように残っているといわれています*13

平安時代の言葉としての「このかた」は、ほとんど漢文訓読でしか使われない、「訓読特有語」とか「訓点特有語」と呼ばれるものです。

訓点」というのは、訓読のために漢文につけられた記号やカナのことです。

訓点」のつけられた文書などの資料を「訓点資料」といいます。

「このかた」は、和文脈では「こなた」に相当する言葉です。

源氏物語』に一例だけ「このかた」が登場しますが、きわめて珍しい例とされています。

 

現代人の読者の皆さんは、「以来」を「このかた」と読むと、何か古めかしい感じをいだくかもしれません。

平安時代の人々にとっても「このかた」は古い言葉で、日常的な話し言葉には使わなかったと考えられ、もっぱら漢文を訓読する時に使う、いかめしい雰囲気の言葉と感じていたのではないかと思われます。

 

「以来」が漢文訓読によって「このかた」と読まれるようになったいきさつをここまで書いてきましたが、「いらい」という中国語の音に即した、音読が滅んだわけではありませんでした。

平安中期、遣唐使の廃止により、中国との公式な交流が途絶えたことで、音読は衰退したといわれていますが、二巻本『色葉字類抄』などの古辞書に「以来 イライ」という記述があるので、「以来」を「いらい」と読む音読も残っていたことがわかります。

ただし、江戸時代よりも前の時代の辞書は、今のように出版されるものではなく、手で書き写すものでした*14

ですから、その頃の辞書を手に取れた人は、知的エリート層に限られていました。

中国語音で漢文・漢詩を読み書きする貴族や、お経を音読する仏教徒(僧侶)といった知識人は、「いらい」「このかた」、音訓両方の読み方ができたはずです。

 

ところで、ここまでは、「以来」をどう読むか?という方向から話をしてきました。

日本人は、漢文訓読によって、漢語「以来」を和語「このかた」で読むようになったという話をしてきました。

逆に、和語「このかた」をどう書くか?という方向から考えることもできます。

和語「このかた」を漢字で「以来」と書くようになった(他の漢字表記や仮名表記、漢字仮名まぜ書き表記もある)といえます。

「このかた」で読む、とか、「以来」と書く、と述べたのは、他の読み方や書き方もあるということで、今野真二さんが『正書法のない日本語』(2013年、岩波書店)で述べているように、読み方や書き方に選択肢があるのが日本語の特徴といえます。

 

鎌倉時代、和漢の混淆

平安時代末期から鎌倉時代になると、和文脈と漢文脈が混じり合っていきます。

そうしてできた文章は、和漢混淆文(わかんこんこうぶん)と呼ばれます。

平家物語』に

神武天皇より以来このかた(「二代后」。他の漢字表記、仮名表記がされている本もある。)

とあったり、

平治物語金刀比羅宮本に

保元ほうげん以来いらゐ岩波書店日本古典文学大系』31巻、p.193。)

とあったりします。

mobile.twitter.com

16世紀になると日本にキリスト教徒が入ってきますが、来日したカトリックの宣教師たちがつくった『日葡辞書』にも「いらい」「このかた」両方の見出しがあります*15

当時のキリスト教徒がつくった本(キリシタン版)には、「御出世以来(ごしゅっせいらい)」という言葉も出てきます。

これは「イエス・キリストが世に出て以来」という意味で、この言葉の後に数字がつくと、現代でいう「西暦」と同じで、キリスト誕生以来の年数をあらわします。

 

江戸時代の訓読批判

訓読から音読へ

江戸時代の頃になり、中国語の学問が発達すると、漢文訓読への疑問、批判が出てきました*16

どういう疑問、批判か簡単にいうと

日本人は漢文を訓読して理解したつもりになっているが、それは漢文を訳した日本語を読んでいるのに過ぎず、中国語として正しく理解できていないのではないか?今までのような漢文訓読をしていても、正しく中国語を読み書きする能力は身につかない(だから漢文は音で直読したほうが良い)。

ということです。

これを英語で例えると「I love you.」という英文があったときに、下の図のように読み仮名や返り点等の訓点をほどこし、「アイラヴユー」という読みをすっとばして、「わたしはあなたをあいする」と読み理解する。それではほんとうに英文を読んだことにならないではないか、という批判です。

 

特に知られているのは、荻生徂徠と弟子の太宰春台による漢文訓読批判・和習批判です*17(「和習」というのは日本人が漢文を読んだり書いたりするときに出てしまう、日本的な癖のことで、「和臭」とも書かれます)。

例えば、太宰春台は「視・察・見・看」などの漢語は、本来それぞれ意味が異なるのに、訓読すると、すべて和語「ミル」になってしまうと述べています。

 

漢文訓読法には複数の流派があり、流派による読み方、つまり訓点の違いがあります。

それぞれの訓読法・訓点は、その読み方をはじめた人の名をとって「○○点」と呼ばれます。

江戸時代前記を代表するのは林羅山による道春点*18、後期を代表するのは後藤芝山による後藤点です*19

江戸時代後期には、幕府が武士の子供たちに、漢文(四書五経)の読みの試験を実施するようになりました。

この試験は「素読吟味」と呼ばれ、後藤点はそのテキストとして使われました。

www.archives.go.jp

 

四書の一つ『孟子』に「自有生民以来、未有孔子也」という一節があります。
この「以来」は、後藤点では「イライ」です。

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左画像は、国会図書館デジタルコレクションより明治14年(1881年)版の後藤点
右画像2つは、道春点で、「コノカタ」です(早稲田大学図書館の元禄8年(1695年)版、pdf2の14と、天保3年(1832年)版、pdf8の12)。
道春点本の「以来」の「以」と「来」の間、左側にある小さい縦棒は訓読みすることを表す記号、訓合符(くんごうふ)です。

このように、江戸時代初期を代表する訓点「道春点」では「コノカタ」だった「以来」の読み方が、後期代表の後藤点では「イライ」になりました。

江戸時代の漢文訓読における主流派の交代においては、音読する漢語が増えていくという流れがありました。

いいかえると、漢文脈では、江戸時代を通じて、訓読から音読へという流れがあったのです。

 

近松門左衛門の作品に「じんむいらい」が登場する理由

成句としての「じんむいらい」、「じんむこのかた」の使用が資料で確認できるのは江戸時代から*20で、古くは17世紀の井原西鶴の作品に登場します。

ただし、西鶴作品での表記は「神武此かた」であり、「神武以来」と書いて「じんむこのかた」と読ませているものはありません(「神代以来」と書いて「かみよこのかた」と振り仮名を付ける作品はある。)。

17世紀の資料は残っているものが少ないので、西鶴作品しか調べられていません*21

 

江戸時代になると辞書が出版されるようになりました。

上で述べたように、それまでは辞書は書き写すものでしたから、辞書を手に取ることのできる人は限られていました。

辞書が出版されるようになると、それまでの時代より多くの人の語学的知識が向上しました。

これは『節用集』と呼ばれる辞書の一つです。

このような辞書で学んだ江戸時代の日本人は「以来」を「いらい」とも「このかた」とも読めるようになったし、「このかた」を「以来」とも書くことができるようになったでしょう。

 

18世紀になると、近松門左衛門浄瑠璃作品に「じんむいらい」と「じんむこのかた」の両方が登場します。

近松の正徳2年(1712年)の作品『嫗山姥』の「廓噺の段(くるわばなしのだん)」に、「神武以来の悋気諍い(じんむいらいのりんきいさかい)」という一節が登場します。

「悋気」は「焼きもち」という意味で、「諍い」は「ケンカ」、つまり「悋気諍い」は「痴話ゲンカ」のような意味です。

清元『文売り』はこれを元につくられ、この曲にも「じんむいらい」は出てきます。

 

この「神武以来」は、なぜ「じんむいらい」なのか?考えてみました。

当時の知識人が、「以来」を「いらい」とも「このかた」とも読めた、つまり選択できたのはすでに述べた通りです。

浄瑠璃は語りを聞かせる芸能ですから、リズムが大事です。

言語学でリズムの単位を拍(はく)と言います。

「神武以来の悋気諍い」を二つに分けると、「じんむいらいの」で7拍、「りんきいさかい」も7拍になります。

これは和歌の下の句と同じで、七五調で安定する日本語のリズム に合っています。

「じんむこのかたの」と読んでしまうと、8拍になって語呂が悪く不安定ですね。

「いらい」の「らい」と「いさかい」の「かい」で韻を踏めます。

「じんむ」の「じん」と「りんき」の「りん」も頭韻になっています。

こういった押韻も意識されていたかもしれません。

江戸時代を代表する文学者の一人である近松門左衛門は、こういった考えから『嫗山姥』では「じんむいらい」を選択したのではないでしょうか。

ついでにいうと、「神武以来の天才」も、「じんむいらいのてんさい」と読めば、「以来」の「らい」と「天才」の「さい」で韻を踏めますね。

 

近松の代表作の一つ『冥途の飛脚』にも「神武以来」は出てきます。

これは正徳元年(1711年)の初演版だと「じんむこのかた」なのですが(そして現在演じられる際も「このかた」が普通のはずですが)、文政3年(1820年)の復活上演版では「じんむいらい」になっています*22

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早稲田大学図書館所蔵(ニ10-00695)、p.23の右から5行目。

これも、訓読から音読へという江戸時代の流れにのったものかと考えています。

 

ちなみに、平賀源内作の浄瑠璃『長枕褥合戦』にも「じんむいらい」の振り仮名のある「神武以来の」が登場します。

 

このように、江戸時代の知識人にとって、「神武以来」は、「じんむいらい」か「じんむこのかた」かを選択できる言葉だったといえます。

 

 

歌舞伎DVDに収録されている、市川團十郎や市川左團次のセリフに登場する「じんむいらい」はこちらを参照してください

 

僕が知る限りでは、「神武以来」の下に「の」と名詞がくっついて、「神武以来の<名詞>」という形になっている江戸時代の文章は他に数例あるのですが、どの「以来」も「いらい」と読まれていたり、振り仮名のないもので、「このかた」と読まれているものはありません。

「以来」の部分が、「この方」や「此方」別表記になっているものでも、下に「の」と名詞がくっついているものは見つけていません。

江戸時代の文章で「神武このかたの<名詞>」という形になっているものをご存知の方は教えて下さい。

井原西鶴の『日本永代蔵』巻4、貞享5年(1688年)には「蓬莱は神代(かみよ)此かたのならはしなればとて」とあるので、17世紀の文章にはあるかもしれません。

 

※追記 

神武以来の<名詞>、江戸時代の『猿源氏色芝居』にあるようです。

 

大正時代にもありました。

 

明治・大正・昭和初期の「以来」

国定国語教科書も「以来」は「いらい」

ここからは国立国語研究所の『国定読本用語総覧』シリーズを利用して、明治以降の国定教科書を見ていきます。

結論を先にいうと、明治にはじまった国定国語教科書では、「以来」はずっと「いらい」と読むように教えられてきました。

 

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左は文部省 『小学国語読本』巻五、大阪書籍、1919年(昭和8年)、p.2。
右は文部省 『小学国語読本』尋常科用巻九日本書籍、1938年(昭和13年)、p.169。

ここで「神代此の方」、「神代このかた」と表記されている言葉は、「神代以来」とも書き得る、読み方も「かみよいらい」、「かみよこのかた」両方ある(「じんだいいらい」などもある)言葉ですが、ここでは「このかた」を「以来」とは書いていません。

同じページに「国初以来」、「祖先以来」という言葉も並んでいます。

この「以来」を「このかた」と読ませるなら、かな書きしているでしょう。

 

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文部省 『小学国語読本尋常科用巻七編纂趣意書・小学書方手本尋常科用第四学年上編纂趣意書』 東京書籍、1936年(昭和11年)、p.10
付録「漢字の読方」。
国立国会図書館デジタルコレクションより。

 

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文部省 『高等小学修身書』 第二学年児童用日本書籍、1910年(明治43年)、p.28。

広島大学図書館教科書画像データベースより。
これは国語ではなく、修身の教科書です。

「開闢以来」の「以来」も「神武以来」と同様に、「いらい」とも「このかた」とも読まれてきた言葉ですが、この教科書では「いらい」です。

 

昭和30年代に「神武以来」が流行語になった時の日本人の大半は、このように「以来」を「いらい」と読む教育を受けた人たちです。

そういった人たちが「神武以来」を「じんむいらい」と読んだのは当たり前のことといえましょう。

明治・大正・昭和初期の新聞の「神武以来」

このように、神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で検索できる記事には、「じんむいらい」と振り仮名がついているものしかありません。

これも江戸時代中期からの、「以来」は音読するという流れにのったものではないでしょうか。

 

ただし、「このかた」を「以来」と書く表記法は滅んだわけではなく、明治期の小説などで確認できます。

そう書くことで、古色を出しているとも考えられます。

 

戦前の『朝日新聞』を聞蔵Ⅱで検索すると、明治43年(1910年)6月2日には、見出しでは「じんむいらい」、本文では「神武より以来」に「じんむ このかた」とルビが振られている例があり、「じんむこのかた」ルビの記事がもう一件ヒットします*23

 

『読売新聞』の明治24年(1891年)2月18日には「じんむいらい」の振り仮名のある「植民開拓は神武以来の国是なり」という一節があります。

戦後、漢字制限で「以来」を「このかた」と読めなくなった

当用漢字表常用漢字表

「日本語には漢字が多すぎて、教育のさまたげになっているから、漢字を制限しよう」という考えが江戸時代の終わり頃から出てきます。

それが国の制度として実現するのは戦後の当用漢字表からです。

当用漢字表は、現在では制限色は薄くなっていますが、常用漢字表と名前を変えて残っています。

当用漢字表常用漢字表では、使える漢字の種類を制限するだけでなく、音訓表によって漢字の読み方も制限しています。

両漢字表は時おり改定されましたが、その中で、「以来」を「このかた」と読む、または「このかた」を「以来」と書くのが認められたことは今まで一度もありません。

当用漢字音訓表の熟字訓

現在の常用漢字表の音訓索引

当用漢字表(内閣告示第三十二号)の冒頭に、こうあります。

現代國語を書きあらわすために、日常使用する漢字の範囲を、次の表のように定める。

 昭和二十一年十一月十六日

      内閣総理大臣 吉田 茂

   当用漢字表

    まえがき

一、この表は、法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で、使用する漢字の範囲を示したものである。

昭和32年度の『経済白書』の序言には「神武以来と称された未曽有の好況」という言葉が出てきます。

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その下の「𧦅歌(謳歌)」の「𧦅」も当用漢字表にない字(表外字)なのに使われているので、↓この意見は撤回します。

『経済白書』は公用文書のはずで、公用文書は当用漢字表に従って書かれなければならず、そうすると、この「以来」は「このかた」とは読まず、「いらい」と読まなくてはいけません*24

 

国会会議録

国会会議録を「神武以来」で検索すると、

該当会議録:261件 / 該当箇所:335

がヒットし、
「神武このかた」では1件1箇所
「神武この方」では2件2箇所

がヒットします。

国会会議録にも書き方の基準があります。

「神武以来」が流行していた当時は『国会会議録用字例』、現在では衆参両議院それぞれに『会議録用字例』というものがあり、基本的に当用漢字表常用漢字表に従って書くことになっています。

国会会議録でも「以来」を「このかた」と読んだり、「このかた」を「以来」と書くのが認められたことはありません。

令和3年に出た『衆議院会議録用字例』では、「以来」は「い」の箇所にあり、「このかた」は「こ」の箇所にあって「五年この方」という例が示されています。

ですから、国会会議録に記載された「神武以来」も「じんむいらい」なのです。

 

将棋の駒の動かし方にルールがあるように、現代日本語の漢字表記と読み方にも常用漢字表(かつては当用漢字表)、そしてその音訓表というルールがあります。

当用漢字表常用漢字表の音訓表に従って書かれた日本語の現代文に出てくる「神武以来」の「以来」は、「いらい」と読むのがルールにかなっています。

ここ数年、マスコミが「神武以来」という昭和の流行語を使う時、そこに「じんむこのかた」とか、「以来」の部分に「このかた」と振り仮名を付けることがあります。

これは「以来」を「このかた」と読むのは常用漢字表では認められていない表外の読み方、ルール外だからです。

そして、ここ数年のマスコミが使う、昭和の流行語に対する「じんむこのかた」という振り仮名は、これから述べるように、誤解に基づいています。

 

三島由紀夫の「「神武以来」考」

 

辞書の誤読

「じんむいらい」が間違った日本語だというのは、これまで述べてきたように誤解なのですが、その誤解の根拠として、『広辞苑』や『大辞林』には「じんむこのかた」しかのっていないから、といわれることがあります。

そういう意見は辞書の誤読です。

現在の版とは違いが少しあるかも知れませんが、『広辞苑』には第二版から上のように書かれています。

この『広辞苑』が示しているのは

・「じんむこのかた」という言葉がある。

・「じんむこのかた」の漢字表記として「神武以来」がある。

ということです。

・「じんむいらい」という日本語はない。

・「神武以来」を「じんむいらい」と読むのは間違い。

とは『広辞苑』には書いていないのです。

これは『大辞林』や『難読語辞典』も同様です。

また、用例の『西鶴織留』は「神武以来」ではなく、「神武此かた」で、これは原典を確認しないとわからないようになっています。

飯間浩明さんの『辞書を編む』や、三浦しをんさんの『舟を編む』文庫版の岩波書店辞典編集部の平木靖成さんの解説などに書かれているように、紙の辞書にはページ数の制限があり、辞書をつくる人たちは記述を簡潔にしたり、省略したりすることに心血を注いでいます。

広辞苑』や『大辞林』のような中型辞書に「じんむいらい」がのっていないのはそのためではないでしょうか。

なお、大型辞書の『日本国語大辞典』には「じんむいらい」ものっています。

『角川古語大辞典』にものっています。

 

2021年末に出版された『三省堂国語辞典』第八版でも「神武以来」は「じんむいらい」とも「じんむこのかた」とも読むことが示されています。

広辞苑』や『大辞林』の記述を、ある日本語がないとか、間違っているとかの根拠に使うべきではありません。

そういうことをしがちな人(いわゆる日本語警察)は、まず『日本国語大辞典』を引くようにしてください。

もちろん『日本国語大辞典』の記述が結論ではなく、そこが言葉調べのスタート地点です*25

 

現代、マスコミがネット情報をコピペしてしまう時代

※古いまとめも参考に

僕の考えでは、「神武以来」は「じんむこのかた」と読まなくてはいけないという誤解が特に広まったのは、2015年夏にウィキペディア加藤一二三さんの項目に「じんむこのかた」という読み方だけが投稿され、同年11月、NHKEテレ将棋番組『将棋フォーカス』の加藤一二三さん特集で「じんむこのかた」という読み方が放送されてからです*26

それ以降、朝日・毎日・読売の3大新聞でも、昭和の流行語の「神武以来」に「じんむこのかた」と振り仮名をつけたり、「以来」の部分に「このかた」と振り仮名を付けたりするようになりました。

『将棋フォーカス』といえば、2021年にこのような無断転載事件がありました。

NHK将棋番組、他サイトの表現「パクリ疑惑」認め謝罪「安易に使ってしまった」 - 弁護士ドットコム

2015年当時のスタッフと、この無断転載に関わったのが同じ人物かはわかりません。

 

「神武以来」が登場する昭和のニュース映画のうち、放送ライブラリー昭和館で見ることのできるものを調べた結果がこれです。

このように、見ることができたニュース映画では、すべて「じんむいらい」と読まれていました。

NHK朝日新聞社も、他のマスコミも、過去の自社の映像や文献を調べれば、流行語の「神武以来」が「じんむいらい」と読まれていたのはわかるはずなのに、それをせず、ウィキペディアなどのネットから手っ取り早く得られる情報、インスタントな知識をコピペして番組や記事をつくるようになってしまったとしたら、嘆かわしいことです。

まとめ

日本人が漢字を読むようになって以来、どの時代においても、ほんとうの知識人は「以来」を「いらい」と読むことができました。

「以来」が「このかた」と訓読された古代から中世、そして訓読から音読へという流れがあった江戸時代を経て、「神武以来」という言葉が流行した昭和30年代には「以来」は「いらい」と読むのが普通になっていて、「神武以来」も「じんむいらい」と読まれるのが一般的でした。

ですから、昭和の流行語の話をしている時、例えば加藤一二三さんの「神武以来の天才」や美輪明宏さんの「神武以来の美少年」の話をする時に、「神武以来」は「じんむこのかた」と読むのが正しくて、「じんむいらい」は間違いですよ、などというのは、親切心から出たものかもしれませんが、大間違いです。

現代日本語の漢字表記のルールである当用漢字表常用漢字表でも「以来」を「このかた」と読む、または「このかた」を「以来」と書くのは認められていません。

ただし、現在の常用漢字表の前書きには、「この表は、(略)個々⼈の表記にまで及ぼそうとするものではない。」と書いてありますから、個々人は「じんむこのかた」を「神武以来」と書いてもいいし、「神武以来」と書いて「じんむいらい」と読ませても「じんむこのかた」と読ませても、どちらでも好きな読み方にしていいのですが、当用漢字表または常用漢字表に従って書かれたことがはっきりしている文章に出てくる「神武以来」は、「じんむいらい」です。

「じんむこのかた」を、常用漢字表の範囲内で漢字を使って書きたい場合には、「神武以来」とは書けませんから、「神武この方」とか「神武このかた」と書くことになります。

 

(本文終わり。2021年11月24日公開。最終更新日、2024年2月12日。)

 

不完全参考文献リスト

本文と注に出てこない、参考になった文献の一部です。

 

沖森卓也(2011)『日本の漢字1600年の歴史』、ベレ出版

亀井孝(1957)「古事記は よめるか」『古事記大成 3 言語文字篇』pp.97-154平凡社

今野真二(2020)『振仮名の歴史』、岩波書店 ほか多数

鈴木直治(1975)『中国語と漢文 訓読の原則と漢語の特徴』、光生館

高島俊男(2001)『漢字と日本人』、文春新書

田島優(2017)『[あて字]の日本語史』、風媒社

鄧慶真(2000)「時間語彙に接続する「サル」についての一考察 『万葉集』を中心に」、『叙説』第28号pp.58-77、奈良女子大学國語國文学研究室

中田祝夫(1954)『古点本の国語学的研究 総論篇』大日本雄弁会講談社

福島直恭(2019)『訓読と漢語の歴史[ものがたり]』、花鳥社 

村上雅孝(1998)『近世初期漢字文化の世界』、明治書院

吉永孝雄(1974)「丸本歌舞伎と人形浄瑠璃」、『季刊 歌舞伎』第26号pp.82-96、松竹株式会社演劇部

*1:例えば「神武」という漢風諡号について。見坊豪紀『ことばのくずかご』に採集された用例。など。

*2:この本は刷によって内容が違う。42刷では、「以来」の部分はひらがな。「神武じんむいらいの天才てんさい」になっている。この本のことはむにえなさんのツイートで知りました。

*3:これは将棋ライターの松本博文さんのツイートで知りました。

*4:田辺忠幸(2003)『最古参将棋記者高みの見物』、講談社

*5:後述するように「神武以来」というのは当時の流行語だから、「神武以来の天才」というフレーズは、原田さんがいい出さなくても、誰かが使っていただろうとは思います。

*6:「セン」はここでは略。

*7:中国や朝鮮からの渡来人や、中国に留学して帰ってきた日本人僧侶らと考えられる。

*8:この記事では触れていない事柄:大学寮と音博士。『万葉集』3299番歌の空間的「このかた」(「是方」、「己乃加多」)、4122番題詞の「以来」。『懐風藻葛野王伝記の「神代以来」。『将門記』の「神代以来」。

*9:築島裕(1965)『興福寺大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文編』東京大学出版、p.207。

*10:築島裕平安時代の漢文訓読語につきての研究』、同『興福寺大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究:研究篇』のほか『訓点語彙集成』、『訓点語辞典』を参照。

*11:築島裕著作集』第1巻、汲古書院、2014年、p.6。

*12:博士家。

*13:「化石」という表現は、中田祝夫か小林芳規の著作にあったように記憶しているが具体的な箇所は失念。

*14:今野真二(2014)『辞書からみた日本語の歴史』ちくまプリマー新書

*15:「幼少よりイライ」

*16:ここでは岐陽方秀のことや『桂庵和尚家法倭点』などは略。

*17:荻生は『文戒』、『訳文筌蹄』、『訓訳示蒙』。太宰は『倭読要領』。

*18:道春は林羅山の別名。

*19:齋藤文俊 『漢文訓読と近代日本語の形成』 勉誠出版、2011年。

*20:神皇正統記』の用例は成句とは考えない。

*21:勉誠出版全集の索引を利用。

*22:上演時期については坂本清恵さんの論文を参照しました。

*23:明治31年(1898年)6月2日、「神武以来無い図の店立(たなだて)」。

*24:ただし、同年度の『厚生白書』には副題に「疾病」という言葉が出てくるが、「病」を「へい」や「ぺい」と読むのは当時の音訓表では認められていなかったから、『白書』であっても、厳密に音訓表通りに書かれていないこともあるようです。

*25:今野真二さんの著作に度々書かれているように、『日本国語大辞典』にのっていない言葉も幾らもあります。

*26:それ以前に出版された「神武以来」の読みに関する誤解が書かれた本としては、前田勇(1964)『近世上方語辞典』、谷沢永一(2003)『知らない日本語 教養が試される341語』がある。

「低能」と「低脳」

目次

この文章は2015年に大部分を書き(未発表)、2019年に加筆したものです。4年間で情報が更新された箇所もあるとは思いますが、本旨は変わりません。参考文献の書き方の不統一など、お見苦しい点もあります。公開後も加筆修正しています。

はじめに

ていのう[低能](名・形動ダ)知能がふつうよりおとる<ようす/人>。 派生 低能さ。

三省堂国語辞典』第七版

てい-のう【低能】<<名・形動>>脳の発育がおくれ、ふつうより知能がおとっている・こと(人)。

『学研現代新国語辞典』改訂第五版

現在出版されている辞書で「ていのう(低能)」を引くと、上のように「知能が低い(劣る)さま、人」という意味が記されているはずである(『学研現代新国語辞典』のように、その原因を記すものもある)*1
だが、「低能」という日本語が考案された当初は、そのような意味ではなかった。

法医学・精神医学用語として考案された「低能」

低能ナル語ノ原語ハこほ氏ノ(Psychopathische Minderwertigkeit.)ナル語ヲ東京帝国大学医科大学教授片山博士ガ法医学上ノ意義ニ於テ精神病者ハ責任無能力者、健全者ハ責任能力者(刑法第三十九章及其附則ヲ見ルベシ)トシ其中間ニ位スル所謂中間精神状態ニアルモノヲ称シテ低能ト訳セリ

(榊1909:429-430)

石川貞吉*2、榊保三郎*3、樋口長市*4の著作によると、「低能」という日本語は東京帝国大学医科大学で法医学教室および精神病学教室の教授を務めた片山國嘉*5*6によって考案された(石川1905)(榊1909)(樋口1911)
明治後期、19世紀末から20世紀の初頭にかけて、片山は日本の刑法に限定責任能力(軽減責任能力)の制度を導入することを望み*7、犯罪を為した当時、健常者と精神病者の中間状態にあった者には、健常者と同じ刑を科すのではなく、無罪にするのでもない処置が必要だと論じた(片山1899)
その際、ドイツの医者ユリウス・コッホ*8によるドイツ語「psychopathische Minderwertigkeit」を訳し、「精神の病的状態と健常状態の中間状態」を意味する言葉として「低能(者)」(片山1899)、「(精神…)病的低能(者)」(片山1901)、「病性低能」(片山1910)として用いた。

「低能」の初出は、1899年11月15日発行の『済生学舎医事新報』第83号に掲載された同年10月の国家医学会第十三次総会における片山の講演録中にある。
片山はそこで、「意志の自由」、「善悪是非を識別し得る心」、「裁決の能力」のある者(健康者)と、ない者(精神病者)の間には「半ば自由あるが如く半ば自由なきが如き」区別の困難な中間状態が存在することを説明し、そのような刑法上の「責任能力者」と「無責任者」の中間状態にある者は、

独逸にては如此者は低能者と称して所謂軽減責任能力者と見做して其罪を軽減するなり

(片山1899:992)

と述べている*9

つまり、片山によって考案された「低能」には、精神能力の中でも特に、物事の善悪を弁識する能力が健康者より低く、刑法上の責任能力が健康者より低い、しかし精神病者や白痴(片山は白痴を精神病に含めている)のように無能力ではない、という意味が込められていた。

片山は新刑法に「低能者」という言葉を盛り込むことを望んだ(片山1899:993)が、結局は以前から民法の中にあった「心神耗弱者」が採用された*10

なお、コッホの「psychopathische Minderwertigkeit」は片山の後任の精神病学教室主任教授である呉秀三富士川游によって「精神病的低格」と訳され(石川1905)(富士川・呉・三宅1910:9)(呉1913:2)、現在の精神医学においても通常、「精神病質低格」(中田1976)(中谷2004)、「精神病質様低格」(福島1993)、「精神病質的低格」(小林ほか1993)と、「低格」を用いて訳される。

教育学用語化した「低能」

「低能」という言葉は片山の主任教授時代に精神病学教室で助手を務め、1901(明治34)年からは高等師範学校で教育病理学を担当した榊保三郎によって教育学に導入された(平田1996:42-44)
教育界においては、「低能者」や「低能児童」や「低能児」という形で、1907(明治40)年までに岩手県や長野県の小学校や、東京市の吃音矯正施設・楽石社の伊澤修二と、伊澤に協力した心理学者の元良勇次郎によって使用されていたが、特に乙竹岩造による1907(明治40)年11月の帝国教育会高等学術講義と、その講義を元にした書籍『低能児教育法』の出版(1908年)によって「低能」という言葉は日本の教育家に普及した(樋口1908)
同時期の新聞記事・広告*11などによって一般大衆にも浸透していったと考えられる。

ただし、乙竹が『低能児教育法』で使用した「低能」は、ベルギーの医者・教育家のドモール*12の理論を援用したもので、「心理的状態が通常の小供に較べると二年乃至三年遅れて居る」(p.212)「白痴或は愚鈍」、「道徳上の劣弱」、「智力上の劣弱」(p.218)「大脳を有って居らぬのと同じ」(p.220)といった状態を含み*13、片山が使用した「Minderwertigkeit」の訳語としての「低能」、すなわち「(健康と病気の)中間状態」という用法よりも意味が拡大している*14

詳しくは茂木俊彦・高橋智・平田勝政の共著平田の諸論文を参照されたいが、当時の教育学者である森岡常蔵が

低能児と云ふ意味がまだ十分明白でなくて人々によって区々に解せられて居るように見える。
(略)
独逸語の「ミンデルヴェルチヒカイト」(Minderwertigkeit)を訳したようにもあり、或は「シュヴァッハジン」(Schwachsinn)に当てゝあるようにも見え、又広い意義に用いた「イディオット」(Idiot)の訳語にもなって居るやうである。

(森岡1909:63)

と述べ、低能児教育施設である白川学園を創設した脇田良吉*15

確定した定義の下せないのが低能児の低能児たる処ではありはしないか

(脇田1912:34)

と述べ、榊も

低能ナル語ハ用ユルニ堪ヘザル程ノ非常ニ多クノ意味ヲ有ス、故ニ其定義ヲ定ムルコト殆ンド不可能ナリ

(榊1909:430)

と述べているように、教育学用語としての「低能」は「能力の低いこと」を意味するという共通認識はあったものの、統一された明確な定義付けがされないまま、多くの教育関係者によって、多様な使い方をされていた。
明治末から大正にかけて多用された教育学における「低能」は、やがて「精神薄弱」に取って代わられていった(茂木・高橋・平田1992)(平田1993c:160-161)
なお、20世紀初期の社会事業の分野においても、片山の「低能」より広義な「低能」が乙竹らによって用いられ、やがて「精神薄弱」に取って代わられた(平田1995a)(平田1995b)

「低能」の一般語化

新聞における「低能」の用例を、朝日新聞社の「聞蔵Ⅱビジュアル」、読売新聞社の「ヨミダス」、毎日新聞社の「毎索」、神戸大学附属図書館のデジタル版新聞文庫で検索した結果、『朝日新聞』1907(明治40)年7月5日朝刊p.4の記事「東京市小学校長会議」中に登場する

伊澤修二、元良博士両氏の低能児教育に付学理及経験上の講演ある筈

という使用が最も古い*16

文学作品においては1910(明治43)年6月1日の『朝日新聞』朝刊p.3に掲載された夏目漱石の『門』(十八の六)に登場する

恰も一個の低能児であるかの如き心持を起した。

が、現在確認されているうち最も古い用例である。

1912(大正1)年には『低能』と書いて「ばか」とルビを振るタイトルの小説(著者は深尾葭汀)が出版されている。

1910(明治43)年の後藤朝太郎『日用と教育上に於ける漢字の活用』「附録の三、新語のかずかず」に「低能児」が当時の新語として掲載されている(語釈は無し)のを始めとして、「低能」は新語辞典の類に取り上げられるようになる。
まず、1914(大正3)年の『現代文芸新語辞典』には

テイノー〔低能=Low ability〕 能力が普通人より劣りてあること。

という語釈で掲載されている。
1919(大正8)年の『模範新語通語大辞典』には

【テイノー】低能、先天的欠陥のため脳の働きが普通人より鈍き者を言ふ。白痴といふに等し。

とあり、1925(大正14)年の『最新現代用語辞典 大正拾四年版』には

テイノウ(低能)人並みの脳力を持ってゐないもの幼時脳膜炎に罹ったものによくある。普通間抜馬鹿の意に用ひられる。

とある。
1927(昭和2)年の『新時代語辞典』には、

能力の普通の人より劣ってゐること。ばか。

と記されている。
他には1920(大正9)年の『現代日用新語辞典』と1926(大正15)年の『外語から生れた新語辞典』が、「能力が劣っている」という語釈を載せている。

国語辞典においては1898(明治31)年の『ことばの泉』、1912(明治45)年の『大辞典』、1914(大正3)年の『辞海』には「ていのう」の項目自体がない。
1917(大正6)年の『大日本国語辞典』には「ていのう」が立項されており

てい-のう{低能(名)智能の発育の甚だしく不良なること。

と、現在の辞書と同様の語釈が記載されている。
1934年(昭和9)年の『大言海』には

ていのう(名)低能〔能ハ脳ノ意〕アタマノ、ハタラキノ鈍キコト。又、智ノ足ラヌモノ。痴愚ト正常状態トノ中間ニアルモノ。ウスバカ。ウスノロ。 

とある。
「能ハ脳ノ意」という記述の根拠が不明であるし、「中間ニアル」という片山の「低能」的な意味が取り上げられているが、知能面に重きが置かれている。

このように、一般社会で使用されるようになった「低能」という言葉は、大正時代にはすでに、現在の辞書に記されているのと同様に、精神能力の中でも知能の低さを意味する言葉として、「間抜け」や「馬鹿」の同義語として用いられていたことが分かる。
先に見たように、「低能」はもともと、「(精神)病と健康の中間状態」を意味する法医学・精神医学用語として考案されたものだった。
現在では「低能」は「知能が低い」という意味の言葉として辞書に記載され使用されているが、これは医学用語から教育学用語を経て派生した一般語としての用法だと言える。

低脳」について

「低能」の最古の用例は片山國嘉の講演録(片山1899)中にあったが
低脳」の最古の用例も片山の講演録(片山1902)にある。
(片山1899)とほぼ同じ「中間心」(中間精神状態)についての説明の後、

精神健康にして且つ身体の完全なる者を完脳者とすれば之に中間心の者を比するときは低脳者と名づけます

(片山1902:13)

と書かれている。

片山による前後の用例はすべて「低能」になっていることと、片山が校閲した門脇真枝*17の『精神病学』(1902)でも「低能」が使われていることから、この1902年の「低脳(者)」は講演を記録した者による誤りであると考えられる。
「完脳者」も、正しくは「完能者」であろう。

新聞における「低能」の最古の用例は1907年7月5日の『朝日新聞』にあったが、「低脳」の用例はそれより1年以上早く、『朝日新聞』1906(明治39)年5月6日朝刊の「直訴者の不起訴」という記事で、その年4月末の大観兵式の際、鹵簿に直訴を企てた男について取り調べた結果、

純然たる精神病者にはあらざるも所謂低脳者にして殊に不敬の故意ありとは認められず

不起訴になったと記されている。
この記事を書いた記者は片山の講演録を読んでいたかもしれない。

「低能」流行期の教育関係の文章においても、(記者などによる)誤記と考えられる「低脳」が見られる*18

文学作品においても、夏目漱石の『門』(1910)における「低能」の使用よりも「低脳」のほうが1年以上早い。
使用しているのは石川啄木で、1909(明治42)年2月の『スバル』第2号に掲載された『足跡』p.131に

それは生来の低脳者で

とある。
青空文庫を手がかりに調べると分かるが、坂口安吾が「低脳」をよく使っている*19他、岸田國士『医術の進歩』での用例太宰治『道化の華』での用例もある。

このように、「低能」はすでに明治時代から「低脳」と書かれることがあった。
これは「低能」の「ノウ」の音が精神能力・知能を司る器官「脳」と同じであることによるものと考えられる。
また、「脳力」という言葉も当時使われていた*20から、「脳力が低い」という意味で「低脳」を使用した者もあるかもしれない。

さて、この「低脳」は誤った日本語、言葉の誤用と言うべきかどうか?
私見を述べると、明治・大正・昭和の法医学・精神医学・教育学上の学術用語としては「低能」と書くのが正しい。
しかし一般語化し、知能が低いという意味に限定され、「馬鹿」や「間抜け」と同じような意味で用いられるようになった「低能」については、「能」を「脳」に置き換えたり、「脳力が低い」という意味を込めた「低脳」も、より俗的ではあるが、誤りとは言えない。
この「低脳」を誤りとするなら、「低能」を知能面に限定して使う現在の用法にも、「本来の用法とは異なる」という但し書きを付けざるを得ないだろう。

なお、国語辞典においては「ていのう」の漢字表記として「低脳」を収録しているもの(『日本国語大辞典』など)、「低脳」は誤りとしているもの(『新選国語辞典』)、両者が存在する(例示した辞典は、どちらも小学館発行)。

参考文献

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乙竹岩造(1908b)「分級教授ならざる可からず」、『内外教育評論』第8号pp.20-21、内外教育評論社
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片山國嘉(1900b)「刑法上の責任能力と精神障礙との関係(承前)」、『国家医学会雑誌』第160号pp.311-313、国家医学会
片山國嘉(1901)「偸盗狂 Kleptmanie. に就て」、『国家医学会雑誌』第171号pp.317-321、国家医学会
片山國嘉(1902)「精神病医学より観察したる犯罪者の処遇方法」、『監獄協会雑誌』第15巻第1号pp.2-23、監獄協会
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平田勝政(1993a)「戦前の教育学分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究 ―教育学者の乙竹岩造と樋口長市の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第44号pp.59-78、長崎大学教育学部
平田勝政(1993b)「戦前の教育実践分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅰ(上) ―東京高師附小「特別学級」歴代担任教師の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第45号pp.139-152、長崎大学教育学部
平田勝政(1993c)「戦前の教育実践分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅰ(下) ―東京高師附小「特別学級」歴代担任教師の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第45号pp.153-167、長崎大学教育学部
平田勝政(1994)「戦前の社会事業分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅰ ―社会事業関係雑誌における「精神薄弱」関係用語の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第46号pp.53-65、長崎大学教育学部
平田勝政(1995a)「戦前の社会事業分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅱ(上) ―全国社会事業大会等における「精神薄弱」関係用語・概念の検討―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第48号pp.73-88、長崎大学教育学部
平田勝政(1995b)「戦前の社会事業分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅱ(下) ―全国社会事業大会等における「精神薄弱」関係用語・概念の検討―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第49号pp.59-76、長崎大学教育学部
平田勝政(1995c)「明治期における「精神薄弱」関係用語・概念の検討 : 「低能児」概念を中心に」、『日本教育学会第54回大会プログラム』pp.114-115、日本教育学会
平田勝政(1996)「明治期における「精神薄弱」関係用語・概念の研究―「低能児」概念を中心に― 」、『日本教育史研究』第15号pp.33-65、日本教育史研究会

福島章(1993)「精神病質」、加藤正明ほか編『精神医学事典』新版、弘文堂

富士川游・呉秀三・三宅鑛一、(1910)『教育病理学』、同文館

南真紀子(2006)「榊保三郎と「優等児」研究 : 明治・大正期の優秀児教育論解明への一端」、『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』第64号pp.19-36、慶應義塾大学大学院社会学研究科

松下正明(2007)「東京大学医学部精神医学教室120年の歩み――とくに、片山國嘉教授をめぐって――」、『東京大学精神医学教室120年』pp.12-22、新興医学出版社

茂木俊彦高橋智・平田勝政(1992)『わが国における「精神薄弱」概念の歴史的研究』、多賀出版

森岡常蔵(1909)『近時に於ける教育問題の研究』、文昌閣

吉田栄次郎(1906)「低能者の処遇に就て」、『監獄協会雑誌』第19巻第2号pp.12-21、監獄協会

脇田良吉(1908)『注意の心理と低能児教育』、矢島誠進堂
脇田良吉(1912)『低能児教育の実際的研究』、巌松堂書店
脇田良吉(1913)「低能児教育の実験」、『救済研究』第1巻第4号pp.332-347、救済事業研究会
脇田良吉(1915)『異常児教育の実際』、金港堂書籍

*1:2017年の『学研現代新国語辞典』改訂第六版、2019年の『三省堂現代新国語辞典』第六版でも同様。

*2:いしかわ・ていきち。1869(明治2)年生、1940(昭和40)年没。東京帝国大学医科大学卒業後、山形県公立病院済生館副院長、静岡県富士病院院長、東京府巣鴨病院医員、保養院院長を経て1913(大正2)年に巣鴨脳病院を設立。

*3:さかき・やすさぶろう。1870(明治3)年生、1929(昭和4)年没。東京帝国大学医科大学卒業後、同大助教授、欧州留学を経て1906(明治39)年京都帝国大学福岡医科大学教授(留学中に同大助教授に就任?)。1925(大正14)年「スタイナッハ若返り法」に絡んだ九大特診事件により辞職。兄の榊俶は東京帝国大学医科大学精神病学教室の初代教授。

*4:ひぐち・ちょういち。以下、教育学関連の人物については『人物でつづる精神薄弱教育史』、その増補版『人物でつづる障害者教育史』、その復刻版『特別支援教育史・人物事典』や『図説教育人物事典』などを参照されたい。

*5:かたやま・くによし、または、くにか。1855(安政2)年生、1931(昭和6)年没。1879(明治12)年(旧)東京大学卒業、同大助教授、欧州留学を経て1888(明治21)年東京帝国大学医科大学裁判医学教室教授。1891(明治24)年には「裁判医学」を「法医学」に改称させた。1897(明治30)年から1901(明治34)年まで、早世した榊俶の後を継ぎ精神病学教室教授を兼任。酒害論者・禁酒運動家でもある。

*6:片山の名の読みは、19世紀の東京帝大『CALENDAR』で「Kuniyoshi」(A)(B)とも「Kunika」(C)(D)とも記載され、『日本近現代医学人名事典【1868-2011】』などの辞典・事典類で「くにか」としているものもあるが、片山の著作物であるローマ字教本『羅馬字之仮名式遣方』では「Kuniyosi」となっているので「くによし」を主とする。留学先であるドイツの19世紀の出版物でも「Kuniyosi」となっている。

*7:改正前の刑法には完全責任能力と責任無能力の区別(旧刑法78条「罪ヲ犯ス時知覚精神ノ喪失ニ因テ是非ヲ弁別セサル者ハ其罪ヲ論セス」)しかなかった。

*8:Julius Ludwig August Kocharchive.org

*9:ただし当時のドイツ帝国刑法典には限定責任能力の制度はなく、コッホらが導入を求めていた。

*10:片山は「耗弱」という言葉は「すり減る」という意味だから、先天的障害の場合は当てはまらず不適当と批判している(片山1910:280)

*11:乙竹の学術講義を予告する記事が『読売新聞』1907年10月17日p.1に、国家医学会総会での低能児教育に関する講演を伝える記事が『朝日新聞』1907年12月2日朝刊p.4に、『低能児教育法』の広告が『読売新聞』1908年4月18日p.1、同年6月22日朝刊p.4、『朝日新聞』同年4月24日p.1に掲載されている

*12:Jean Demoor。

*13:ドモールの著作にある表乙竹の『低能児教育法』の表を比較。

*14:乙竹は1912年の『更訂 低能児教育法』にて「例へば子供の低能といふものと、大人の精神病的の現象或は精神病上の中間者とは、全然同じであるとは言へ無い所もある」とも「広義の低能といへば、所謂白痴をも含めて言ふのであるし、狭義の低能といへば、白痴を除いたもの、即ち低能ではあるけれども白痴ほど甚だしからざるものゝみを指す」とも述べている。

*15:ただし脇田は1913年に「低能児と申すと何だか子供の人格に検印でも押したやうである」から「低能児と云ふ言葉が甚だ不適当である」と述べている(脇田1913:334)

*16:神戸大学附属図書館のデジタル版新聞文庫では『法律新聞』の留岡幸助「人間の整理(上・下)」という記事が「19??.??.?? (明治33)」に発行された最古の記事として表示されていた(2015年2月頃確認)が、これは発行年月日の不明な記事であり、データ上1900(明治33)年発行として処理されたものと考えられる。

*17:かどわき・さかえ。1872(明治5)年生、1925(大正14)年没。済生医学舎卒業後東京帝国大学医科大学助手を経て王子脳病院院長、東京精神病院院長、横浜脳病院院長を務めた。

*18:例えば明治39年の第一回全国小学校教員会議録p.151下段や『元良勇次郎著作集』第11巻p.288で確認できる。長野県松本尋常高等小学校の例も報告されている。

*19:全てではないが初出雑誌でも確認。安吾の文章には「低能」も見られるが、意図的に使い分けていたかどうかは不明。『東京ジャングル探検』は初出の『文藝春秋』1950年6月特別号では「低脳」(低腦)が使われているが、没後、同誌1972年2月特別号の再録では「低能」になっている。

*20:例えば夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』上p.161、6行目

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no 前文脈 キー 後文脈 作品名 副題 著者 役割 初出 分類番号 文字遣い種別 作品ID 人物ID 生年月日 没年月日 文字数
1 そうな表情は、まるで 低能 兒のように見えるので ユダヤ人のブナの木 山深きヴェストファーレンの風俗画 {著者}アネッテ・フォン ドロステ=ヒュルスホフ::{翻訳者}番匠谷 英一 著者::翻訳者  NDC 943 旧字新仮名 058088 001900::001901 1797-01-10::1895-08-14 1848-05-25::1966-06-17 58320
2 。私にはすぐこの男の 低能 なことがわかったので ウィリアム・ウィルスン  {著者}エドガー・アラン ポー::{翻訳者}佐々木 直次郎 著者::翻訳者  NDC 933 新字新仮名 002523 000094::000095 1809-01-19::1901-03-27 1849-10-07::1943-05-24 23674
3 てしまっていた。私は 低能 者になっていた、—— 落穴と振子  {著者}エドガー・アラン ポー::{翻訳者}佐々木 直次郎 著者::翻訳者  NDC 933 新字新仮名 001871 000094::000095 1809-01-19::1901-03-27 1849-10-07::1943-05-24 17516
4 彼はだしぬけに哀れな 低能 を指さしながら、いた カラマゾフの兄弟 01 上 {著者}フィヨードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー::{翻訳者}中山 省三郎 著者::翻訳者  NDC 983 新字新仮名 042286 000363::001061 1821-11-11::1904-1-28 1881-02-09::1947-5-30 409245
5 其家の一子で、少しく 低能 の者、米俵一俵を店先 初代谷風梶之助  {著者}三木 貞一 著者  NDC 788 新字旧仮名 051139 001481 1861 1933 5024
6 も、心に期する処あり 低能 児を懲らしくれんと、 初代谷風梶之助  {著者}三木 貞一 著者  NDC 788 新字旧仮名 051139 001481 1861 1933 5024
7 ざるは無い。如何なる 低能 の人間も、爾の懐に生 みみずのたはこと  {著者}徳冨 健次郎::{著者}徳冨 蘆花 著者  NDC 914 新字新仮名 001704 000279::000280 1868-12-08 1927-09-18 264504
8 弱です。証人の与助は 低能 児で、詳しいことを取 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
9 ろくろくに利かれない 低能 児ですから、一向に要 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
10 悔して、それがために 低能 児となった我が子を可 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
11 に駈けあるいていた。 低能 児ながらも親思いであ 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
12 の後一種の白痴に近い 低能 児になってしまって、 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
13 るといっても、こんな 低能 児に刃物を売るという 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
14 相原医師の身の上も、 低能 児の与助のことも、ま 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
15 ました。というのは、 低能 児の今の挙動です。わ 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
16 を買いに行くその夜の 低能 児の足音かとも思われ 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
17 りませんが、残された 低能 児の身の上も更に可哀 探偵夜話  {著者}岡本 綺堂 著者  NDC 913 新字新仮名 033197 000082 1872-11-15 1939-03-01 140211
18 リーンの訳文にたよる 低能 な観客においてすらも アーニイ・パイルの前に立ちて  {著者}小林 一三 著者  NDC 775 新字新仮名 046657 001256 1873-01-03 1957-01-25 10461
19 く、肺炎はなほつても 低能 児みたやうな風になつ 落葉降る下にて  {著者}高浜 虚子 著者  NDC 913 新字旧仮名 049628 001310 1874-02-22 1959-04-08 11722
20 かにアモオルの神は、 低能 な子供たちに、純粋な ヴェニスに死す  {著者}パウル・トーマス マン::{翻訳者}実吉 捷郎 著者::翻訳者  NDC 943 新字新仮名 055891 001758::001759 1875-06-06::1895-01-20 1955-08-12::1962-02-15 83628
21 家の子はどうしてこう 低能 なんだ、なぞと、学校 旧聞日本橋 20 西川小りん {著者}長谷川 時雨 著者  NDC 914 新字新仮名 004980 000726 1879-10-01 1941-08-22 10523
22 と思いこむのと同様な 低能 である。  捕物小説 胡堂百話  {著者}野村 胡堂 著者  NDC 914 新字新仮名 055089 001670 1882-10-15 1963-04-14 124013
23 まり大した違いのない 低能 である。  また「消 随筆銭形平次 13 平次身の上話 {著者}野村 胡堂 著者  NDC 914 新字新仮名 056323 001670 1882-10-15 1963-04-14 7046
24 、まことに仕様のない 低能 児であったが、たった 随筆銭形平次 14 捕物帖談義 {著者}野村 胡堂 著者  NDC 914 新字新仮名 056240 001670 1882-10-15 1963-04-14 4840
25 比すこともできれば、 低能 あるいは不良に比すべ 味覚馬鹿  {著者}北大路 魯山人 著者  NDC 596 新字新仮名 050005 001403 1883-03-23 1959-12-21 9134
26 心満々、惜しむらくは 低能 」とか、「彼いつの日 次郎物語 04 第四部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043791 001097 1884-10-03 1955-04-20 178724
27 校時代に、いつも君に 低能 あつかいにされていた 次郎物語 05 第五部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043792 001097 1884-10-03 1955-04-20 200411
28 らんがな。」 「また 低能 か。まあそこいらで負 次郎物語 02 第二部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043789 001097 1884-10-03 1955-04-20 146773
29 しかし、今度は大山を 低能 だとは思わなかった。 次郎物語 04 第四部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043791 001097 1884-10-03 1955-04-20 178724
30 思わなかった。大山を 低能 だと思うまえに、自分 次郎物語 04 第四部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043791 001097 1884-10-03 1955-04-20 178724
31 、心の中では、相手を 低能 だと罵りたくなるくら 次郎物語 04 第四部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043791 001097 1884-10-03 1955-04-20 178724
32 っても、お前のような 低能 には、結局わからんが 次郎物語 02 第二部 {著者}下村 湖人 著者  NDC 913 新字新仮名 043789 001097 1884-10-03 1955-04-20 146773
33 い、眼くじらを立て、 低能 児をやたら生産し、金 ふもれすく  {著者}辻 潤 著者  NDC 914 新字新仮名 000852 000159 1884-10-04 1944-11-24 18833
34 て、その息子は、大ぶ 低能 らしく、いつも口をぽ 日本脱出記  {著者}大杉 栄 著者  NDC 289 915 新字新仮名 002582 000169 1885-01-17 1923-09-16 76108
35 まった)人物経済上の 低能 さかげんを、冷笑しな 大菩薩峠 22 白骨の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004338 000283 1885-04-04 1944-04-28 128232
36 着のないところにこの 低能 さ加減がある。  主 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
37   あいつは必ずしも 低能 じゃないだろう、そう 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
38 がかいに比べて幾分の 低能 であって、ここへ来る 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
39 娘だわい、頭こそ少々 低能 ではあるが、肉体は出 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
40 じないでもない。   低能 ではあるけれども、あ 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
41 わないから縛れ」   低能 ではないが、狼狽えき 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
42 どうも忘れられない。 低能 とはいうけれども、菽 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
43 ていた、大柄な、少し 低能 な、そのくせ色情だけ 大菩薩峠 34 白雲の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004510 000283 1885-04-04 1944-04-28 104784
44 は直ちに、これは少し 低能 な奴だなと知りました 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
45 んとなく締りのない、 低能 に近いほどに見ゆる女 大菩薩峠 29 年魚市の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004321 000283 1885-04-04 1944-04-28 239000
46 いらん遊び」  その 低能 に近い女の子を、多数 大菩薩峠 29 年魚市の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004321 000283 1885-04-04 1944-04-28 239000
47 りませんでした。   低能 に近い女の子を連れ込 大菩薩峠 29 年魚市の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004321 000283 1885-04-04 1944-04-28 239000
48 今日このごろは、あの 低能 の来ないことが、いっ 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
49 が、またしても自分の 低能 ぶりを嘲りきれない語 大菩薩峠 36 新月の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004341 000283 1885-04-04 1944-04-28 203607
50 いる。  厄介千万な 低能 め——と呆れ返ってい 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
51 いやだ」  その時、 低能 娘が、ちょっと首をあ 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
52 て見ても、どの組にも 低能 娘がいない。こうなっ 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
53 わからなかった時に、 低能 娘がその点は存外鋭敏 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
54 あっ!」と言ったのは 低能 娘ではなく、三ツ目入 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
55 せて三ツ眼錐の殿様と 低能 娘とを見比べたりなん 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
56 の傍らにうずくまった 低能 娘の、身体の発育の存 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
57 時、主膳は屈んでいた 低能 娘のために、自分の太 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
58 げてながし目に睨んだ 低能 娘の眼を見て驚きまし 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
59 、実はその指先でこの 低能 娘の腋の下を、ちょっ 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
60 ると、いい気になって 低能 娘は、主膳の膝と机と 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
61 出来てきたが、当人の 低能 娘はいっこう平気なも 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
62 聞えるけれども、この 低能 娘はおどり出して、「 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
63 に隠れがを求めている 低能 娘ひとりを当てに叫ば 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
64   それから後、この 低能 娘も、よく遊びに来る 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
65 というわけではなし、 低能 娘もまた殿様だけにじ 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
66 だけのことで、主膳が 低能 娘を始終引きつけてい 大菩薩峠 32 弁信の巻 {著者}中里 介山 著者  NDC 913 新字新仮名 004323 000283 1885-04-04 1944-04-28 200750
67 限り、僕等の如き無識 低能 の読書人には、到底そ ニイチェに就いての雑感  {著者}萩原 朔太郎 著者  NDC 914 新字新仮名 001766 000067 1886-11-01 1942-05-11 6925
68 、およそさうした類の 低能 な感傷的表情を、むや 愛の詩集 04 愛の詩集の終りに {著者}萩原 朔太郎 著者  NDC 914 新字旧仮名 056578 000067 1886-11-01 1942-05-11 4841
69 れで、修業の足りない 低能 児であるかも知れない 老年と人生  {著者}萩原 朔太郎 著者  NDC 914 新字新仮名 001773 000067 1886-11-01 1942-05-11 6489
70 あって、あながち僕の 低能 のせいでもない。第一 詩の原理  {著者}萩原 朔太郎 著者  NDC 911 新字新仮名 002843 000067 1886-11-01 1942-05-11 154389
71 「いやどうして/\、 低能 どころぢやない、しつ 不良児  {著者}葛西 善蔵 著者  NDC 913 旧字旧仮名 051223 000984 1887-01-16 1928-07-23 40449
72 て……」と、どうして 低能 どころではないなか/ 不良児  {著者}葛西 善蔵 著者  NDC 913 旧字旧仮名 051223 000984 1887-01-16 1928-07-23 40449
73 ことを冗々と並べて、 低能 なんぢやないかしら、 不良児  {著者}葛西 善蔵 著者  NDC 913 旧字旧仮名 051223 000984 1887-01-16 1928-07-23 40449
74 のでしたが、やつぱり 低能 なんですな。ずつと早 不良児  {著者}葛西 善蔵 著者  NDC 913 旧字旧仮名 051223 000984 1887-01-16 1928-07-23 40449
75 る。  ことに不具や 低能 児を抱いている母親の めでたき風景  {著者}小出 楢重 著者  NDC 914 新字新仮名 003553 000259 1887-10-13 1931-02-13 109633
76 は疲れはてて奇怪なる 低能 児を抱えたまま行き倒 めでたき風景  {著者}小出 楢重 著者  NDC 914 新字新仮名 003553 000259 1887-10-13 1931-02-13 109633
77 る。  殊に、不具や 低能 児を抱いている母親の 油絵新技法  {著者}小出 楢重 著者  NDC 724 新字新仮名 003554 000259 1887-10-13 1931-02-13 76677
78 疲れはてて、奇怪なる 低能 児を抱えたまま行き倒 油絵新技法  {著者}小出 楢重 著者  NDC 724 新字新仮名 003554 000259 1887-10-13 1931-02-13 76677
79 たからである。百人の 低能 者が最新の軍艦へ乗り 油絵新技法  {著者}小出 楢重 著者  NDC 724 新字新仮名 003554 000259 1887-10-13 1931-02-13 76677
80 それは銘刀の所有者が 低能 者であったからである 油絵新技法  {著者}小出 楢重 著者  NDC 724 新字新仮名 003554 000259 1887-10-13 1931-02-13 76677
81 仲間の哲学者はよほど 低能 じゃなア! 近頃階級 空中征服  {著者}賀川 豊彦 著者  NDC 913 新字新仮名 051160 001468 1888-07-10 1960-04-23 107372
82 エバが、煙筒は男子の 低能 な文明の結果だと言う 空中征服  {著者}賀川 豊彦 著者  NDC 913 新字新仮名 051160 001468 1888-07-10 1960-04-23 107372
83 ます。まったく煙筒は 低能 な男子文明の結果であ 空中征服  {著者}賀川 豊彦 著者  NDC 913 新字新仮名 051160 001468 1888-07-10 1960-04-23 107372
84 ころ』と錯覚している 低能 児である。  そうし ドグラ・マグラ  {著者}夢野 久作 著者  NDC 913 新字新仮名 002093 000096 1889-01-04 1936-03-11 424767
85 、あっても忘れている 低能 連中に過ぎない。その ドグラ・マグラ  {著者}夢野 久作 著者  NDC 913 新字新仮名 002093 000096 1889-01-04 1936-03-11 424767
86 …馬鹿な。朝鮮官吏の 低能 と来たら底が知れない 爆弾太平記  {著者}夢野 久作 著者  NDC 913 新字新仮名 002102 000096 1889-01-04 1936-03-11 49653
87 常識……犯罪者特有の 低能 な、ヒネクレた理智が 白菊  {著者}夢野 久作 著者  NDC 913 新字新仮名 001120 000096 1889-01-04 1936-03-11 12487
88 に届くと、 「こいつ 低能 だな、大きな癖に」  生々流転  {著者}岡本 かの子 著者  NDC 913 新字新仮名 045641 000076 1889-03-01 1939-02-18 297458
89 やりと笑いまして、「 低能 なんだな、こいつ」と 生々流転  {著者}岡本 かの子 著者  NDC 913 新字新仮名 045641 000076 1889-03-01 1939-02-18 297458
90 いません。たゞ均しに 低能 の中に、この癖が底根 生々流転  {著者}岡本 かの子 著者  NDC 913 新字新仮名 045641 000076 1889-03-01 1939-02-18 297458
91 城郭でない、あらゆる 低能 児、あらゆる無茶者が 婦人雑誌と猫  {著者}山本 宣治 著者  NDC 914 新字旧仮名 002087 000319 1889-05-28 1929-03-05 2625
92 、およそさうした類の 低能 な感傷的表情を、むや 愛の詩集 03 愛の詩集 {著者}室生 犀星 著者  NDC 911 新字旧仮名 053947 001579 1889-08-01 1962-03-26 34770
93 れで分らんきやあ君は 低能 兒だ。」先生は本を教 猫又先生  {著者}南部 修太郎 著者  NDC 913 旧字旧仮名 000642 000048 1892-10-12 1936-06-22 14050
94 らないのにあの子供は 低能 児だっていうじゃない 少年探偵呉田博士と与一  {著者}平林 初之輔 著者  NDC K913 新字新仮名 048018 000221 1892-11-08 1931-06-15 5568
95 不良少年というよりも 低能 児といった方がよいか 少年探偵呉田博士と与一  {著者}平林 初之輔 著者  NDC K913 新字新仮名 048018 000221 1892-11-08 1931-06-15 5568
96 っていうじゃないか。 低能 児に三十八九なんて正 少年探偵呉田博士と与一  {著者}平林 初之輔 著者  NDC K913 新字新仮名 048018 000221 1892-11-08 1931-06-15 5568
97 ——船長は蛆虫どもの 低能 さに対して、ちょっと 海に生くる人々  {著者}葉山 嘉樹 著者  NDC 913 新字新仮名 000863 000031 1894-03-12 1945-10-18 161289
98 まった。  三上は、 低能 だといわれていた。彼 海に生くる人々  {著者}葉山 嘉樹 著者  NDC 913 新字新仮名 000863 000031 1894-03-12 1945-10-18 161289
99 倉とであった。三上は 低能 であった。小倉はおと 海に生くる人々  {著者}葉山 嘉樹 著者  NDC 913 新字新仮名 000863 000031 1894-03-12 1945-10-18 161289
100 入って、自分の胎内に 低能 な児が哺くまれている 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
101 者よ。低能な女は他の 低能 な女の精神をまるで模 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
102 って……」 「それが 低能 な女の考えなのだ、世 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
103 のだ。」全く読者よ。 低能 な女は他の低能な女の 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
104   私は悲愁と絶望と 低能 な妹の代りに受けねば 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
105 。」私は涙をこぼして 低能 な妹を見やった。妹は 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
106 のか? おお、それが 低能 の証拠なのだ! 何よ 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
107 る風でもあった。 「 低能 は筋を引くものだ。」 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
108 は重に彼の女の正直と 低能 へ向けられた同情に起 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
109 読書も算術も出来ない 低能 児であった。それにも 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
110  「畜生! この女は 低能 児をはらむ恐ろしさを 職工と微笑  {著者}松永 延造 著者  NDC 913 新字新仮名 000541 000104 1895-04-26 1938-11-20 71138
111 いては、女給の仕事が 低能 にでも出来る確信を得 女給  {著者}細井 和喜蔵 著者  NDC 913 新字新仮名 002578 000371 1897-05-09 1925-08-18 9536
112 意味に受け取るような 低能 者はあまり多くはある 現代哲学講話  {著者}戸坂 潤 著者  NDC 121 新字新仮名 003597 000281 1900-09-27 1945-08-09 267179
113 きました。そこであの 低能 きわまる物質に、私は 白蟻  {著者}小栗 虫太郎 著者  NDC 913 新字新仮名 000666 000125 1901-03-14 1946-02-10 54090
114 す。けれども、最初は 低能 児の試練から発したも 白蟻  {著者}小栗 虫太郎 著者  NDC 913 新字新仮名 000666 000125 1901-03-14 1946-02-10 54090
115 、いかんせん、すこし 低能 でね、自分が見た女の 金狼  {著者}久生 十蘭 著者  NDC 913 新字新仮名 046148 001224 1902-04-06 1957-10-06 89412
116 物変化の過程を、あの 低能 児は、個々の現象とし 金狼  {著者}久生 十蘭 著者  NDC 913 新字新仮名 046148 001224 1902-04-06 1957-10-06 89412
117 な恋である。女は少し 低能 らしい。〔よくは分ら 青べか日記 ——吾が生活 し・さ {著者}山本 周五郎 著者  NDC 915 新字新仮名 059009 001869 1903-06-22 1967-02-14 37292
118 つにしても、あんまり 低能 だと思ふ、興行といふ 古川ロッパ昭和日記 06 昭和十五年 {著者}古川 緑波 著者  NDC 775 新字旧仮名 052688 001558 1903-08-13 1961-01-16 138960
119 つづけた。落第坊主即 低能 と推定されて自分の手 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
120 今は彼に預けられた、 低能 な子供たちの住む「こ 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
121 ら、受持教師の杉本は 低能 児という烙印を抹殺し 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
122 のぞいていた。だから 低能 児なんだと言うが、杉 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
123 校長が無雑作に決めた 低能 児の認定を、いわゆる 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
124 一つの習慣であった。 低能 児はそれにふさわしく 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
125 教育上の新施設として 低能 児学級に編制されたの 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
126   杉本は何も特別に 低能 教育の抱負や手腕を持 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
127 は、しかし、いきなり 低能 組に編入されたのであ 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
128 になって杉本は、この 低能 組の受持に恰好した自 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
129 だい君の受け持っとる 低能 組はわしの話を聞いと 白い壁  {著者}本庄 陸男 著者  NDC 913 新字新仮名 004728 000303 1905-02-20 1939-07-23 25698
130 の誰彼が彼を目して、 低能 といい、阿呆といい、 糞尿譚  {著者}火野 葦平 著者  NDC 913 新字新仮名 051168 001488 1907-01-25 1960-01-24 51967
131 そこで、彼は人が彼を 低能 などと罵ることがあっ 糞尿譚  {著者}火野 葦平 著者  NDC 913 新字新仮名 051168 001488 1907-01-25 1960-01-24 51967
132 を飲んだ。  自分が 低能 のような気がして来た 正義と微笑  {著者}太宰 治 著者  NDC 913 新字新仮名 001577 000035 1909-06-19 1948-06-13 107807
133 い。  社長の実弟で 低能 に近い、「分家さん」 灰色の記憶  {著者}久坂 葉子 著者  NDC 913 新字新仮名 004968 001052 1931-03-27 1952-12-31 65554
134 日に至っている。   低能 児と云われた程に能力 遺愛集 03 あとがき {著者}島 秋人 著者  NDC 914 新字新仮名 058951 001970 1934-06-28 1967-11-02 2746
135 近江の君は、そうした 低能 な人の常で、恋愛に強 源氏物語 31 真木柱 {著者}紫式部::{翻訳者}与謝野 晶子 著者::翻訳者  NDC 913 新字新仮名 005046 000052::000885 ::1878-12-07 ::1942-05-29 22293
136 する方を見ると、少し 低能 じみた、そんな見分け 星座  {著者}有島 武郎 著者 1922(大正11)年5月 NDC 913 新字新仮名 000216 000025 1878-03-04 1923-06-09 118446
137 たけさん級の娘なら、 低能 じみた高笑いをして、 星座  {著者}有島 武郎 著者 1922(大正11)年5月 NDC 913 新字新仮名 000216 000025 1878-03-04 1923-06-09 118446
138 し今の言葉に清逸は、 低能 でない何人からも求め 星座  {著者}有島 武郎 著者 1922(大正11)年5月 NDC 913 新字新仮名 000216 000025 1878-03-04 1923-06-09 118446
139 っている。弟の純次は 低能 に近いといっていいか 星座  {著者}有島 武郎 著者 1922(大正11)年5月 NDC 913 新字新仮名 000216 000025 1878-03-04 1923-06-09 118446
140 の合わないことをいう 低能 者ではあった。しかし 星座  {著者}有島 武郎 著者 1922(大正11)年5月 NDC 913 新字新仮名 000216 000025 1878-03-04 1923-06-09 118446
141 口添えすると、純次は 低能 者に特有な殺気立った 星座  {著者}有島 武郎 著者 1922(大正11)年5月 NDC 913 新字新仮名 000216 000025 1878-03-04 1923-06-09 118446
142 らである。しかし親の 低能 が、それ以上、はるか 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
143 もので、つまり幼年の 低能 さだ。もっと智能が生 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
144 わば詩人の魂である。 低能 だから人を刺殺したが 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
145 解力は低く、いささか 低能 で、辛うじて映画によ 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
146 ッ子の感多く、つまり 低能 であるが、これもヒネ 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
147 智能が生育して、やや 低能 でなくなれば、そうい 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
148 はなくなるだろうし、 低能 でなくなれば、という 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
149 少年はもっと生長して 低能 でなくなれば、幼児の 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
150 ぶりは、やがてもっと 低能 ではなくなるだろうし 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
151 。どんなに幼くとも、 低能 でも、その切なさは万 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
152   しかし、これほど 低能 でも、自分を孤独とみ 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
153 名のつく人物で、こう 低能 なのは不思議でワケが 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
154 人などを冷静に考える 低能 には救いがない。狂犬 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
155 殺人という手段を選ぶ 低能 ぶりというものは、野 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
156 であったろう。少年の 低能 ぶりは、やがてもっと 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
157 と自負しているような 低能 もある。同じ低能殺人 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
158 うな低能もある。同じ 低能 殺人犯にも甚しい相違 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
159 れましたが、あまりの 低能 振りに、武家方からは 銭形平次捕物控 131 駕籠の行方 {著者}野村 胡堂 著者 「オール讀物文藝春秋社、1942(昭和17)年3月号 NDC 913 新字新仮名 056397 001670 1882-10-15 1963-04-14 11054
160 、手のつけようのない 低能 児だな。」と、教師は 天女とお化け  {著者}小川 未明 著者 「キング」1953(昭和28)年12月 NDC K913 新字新仮名 051622 001475 1882-04-07 1961-05-11 4886
161 があるものか。それは 低能 児のお題目だ。無知な 名人地獄  {著者}国枝 史郎 著者 「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日 NDC 913 新字新仮名 044426 000255 1887-10-10 1943-04-08 148978
162 処の少しもない体は、 低能 の人にしか見えません 妾の会つた男の人人  {著者}伊藤 野枝 著者 「中央公論 第三一年第四号」1916(大正5)年4月1日 NDC 910 新字旧仮名 057154 000416 1895-01-21 1923-09-16 4667
163 かった。それに弱者や 低能 者にはそれ相当の理窟 挿話  {著者}徳田 秋声 著者 「中央公論」1925(大正14)年1月 NDC 913 新字新仮名 050188 000023 1872-02-01 1943-11-18 26547
164 りだつた。 「貴様は 低能 ぢやい、脳味噌がない 途上  {著者}嘉村 礒多 著者 「中央公論」1932(昭和7)年2月 NDC 913 新字旧仮名 049655 000249 1897-12-15 1933-11-30 25346
165 言葉に違はず、確かに 低能 児であると思ひ、もう 途上  {著者}嘉村 礒多 著者 「中央公論」1932(昭和7)年2月 NDC 913 新字旧仮名 049655 000249 1897-12-15 1933-11-30 25346
166 、みんなの噂では少し 低能 で、男のいうことは何 ひかげの花  {著者}永井 荷風 著者 「中央公論」1934(昭和9)年8月 NDC 913 新字新仮名 058076 001341 1879-12-03 1959-04-30 47738
167 ャーナリズム特有の、 低能 現象があると思うが、 ひと吾を公式主義者と呼ぶ  {著者}戸坂 潤 著者 「中央公論」1937(昭和12)年8月号 NDC 121 新字新仮名 042189 000281 1900-09-27 1945-08-09 8981
168 あると思うが、文壇の 低能 現象はシステムの意識 ひと吾を公式主義者と呼ぶ  {著者}戸坂 潤 著者 「中央公論」1937(昭和12)年8月号 NDC 121 新字新仮名 042189 000281 1900-09-27 1945-08-09 8981
169 計によると精神病者、 低能 者、体質異常者は殆ど 人類の将来  {著者}丘 浅次郎 著者 「人類の将来」中央公論、1910(明治43)年1月 NDC 460 新字旧仮名 056954 001474 1868-12-31 1944-05-02 20189
170 り、とか、山岸外史は 低能 児なりとか書いてあつ 井伏鱒二は悪人なるの説  {著者}佐藤 春夫 著者 「作品 第二号」1948(昭和23)年11月15日 NDC 910 新字旧仮名 058844 001763 1892-04-09 1964-05-06 1792
171 へ出席する学生は余程 低能 な奴である」とか「気 霓博士の廃頽  {著者}坂口 安吾 著者 「作品 第二巻第一〇号」1931(昭和6)年10月1日 NDC 913 新字旧仮名 045798 001095 1906-10-20 1955-02-17 14447
172 なかったので、いわば 低能 児が学問を強制されて その人  {著者}小山 清 著者 「八雲 第三巻第六号」八雲書店、1948(昭和23)年6月1日 NDC 913 新字新仮名 058192 001867 1911-10-04 1965-03-06 14841
173 じく、自分をわざわざ 低能 化しつつあるのだと思 婦人改造と高等教育  {著者}与謝野 晶子 著者 「大阪毎日新聞」1916(大正5)年1月1日 NDC 914 新字新仮名 003633 000885 1878-12-07 1942-05-29 7897
174 年の頃癲癇を病んで、 低能 の人と化していた。天 渋江抽斎  {著者}森 鴎外 著者 「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日 NDC 913 新字新仮名 002058 000129 1862-02-17 1922-07-09 165449
175 族が極めているような 低能 児とも変人とも思われ 入江のほとり  {著者}正宗 白鳥 著者 「太陽」1915(大正4)年4月 NDC 913 新字新仮名 053030 001581 1879-03-03 1962-10-28 25430
176 査会の項目には、白痴 低能 児の保護、不良少年の 平塚・山川・山田三女史に答う  {著者}与謝野 晶子 著者 「太陽」1918(大正7)年11月 NDC 914 新字新仮名 003324 000885 1878-12-07 1942-05-29 12327
177 適するように、わざと 低能 扱いの教育を施してい 文化学院の設立について  {著者}与謝野 晶子 著者 「太陽」1921(大正10)年1月 NDC 914 新字新仮名 003645 000885 1878-12-07 1942-05-29 4730
178 女という意味である。 低能 な女という意味である 私の貞操観  {著者}与謝野 晶子 著者 「女子文壇」1911(明治44)年10月~11月 NDC 914 新字新仮名 003319 000885 1878-12-07 1942-05-29 10977
179 するとさも働きのない 低能 者であるかのように軽 二葉亭追録  {著者}内田 魯庵 著者 「女性」1925(大正14)年1月号 NDC 910 新字新仮名 049574 000165 1868-04-27 1929-06-29 8620
180 ぽだ。御坊ちやんだ。 低能 だ。阿呆だ。しかし、 大阪の宿  {著者}水上 滝太郎 著者 「女性」大阪プラトン社、1925(大正14)年10月~1926(大正15)年6月 NDC 913 旧字旧仮名 051211 000800 1887-12-06 1940-03-23 122956
181 人ですよ。」  少し 低能 の癖に體ばかり年に似 大阪の宿  {著者}水上 滝太郎 著者 「女性」大阪プラトン社、1925(大正14)年10月~1926(大正15)年6月 NDC 913 旧字旧仮名 051211 000800 1887-12-06 1940-03-23 122956
182 事あらへんぞ。」 「 低能 ツ。」 「阿呆。」  大阪の宿  {著者}水上 滝太郎 著者 「女性」大阪プラトン社、1925(大正14)年10月~1926(大正15)年6月 NDC 913 旧字旧仮名 051211 000800 1887-12-06 1940-03-23 122956
183 人を非国民扱いにし、 低能 扱いにするものだと思 婦人も参政権を要求す  {著者}与謝野 晶子 著者 「婦人公論」1919(大正8)年3月 NDC 914 新字新仮名 003638 000885 1878-12-07 1942-05-29 5697
184 首をひねっているの。 低能 児じゃないって云った 文放古  {著者}芥川 竜之介 著者 「婦人公論」1924(大正13)年5月 NDC 913 新字新仮名 000051 000879 1892-03-01 1927-07-24 4107
185 ども、芸術的にはまあ 低能 児だわね。 「そう云 文放古  {著者}芥川 竜之介 著者 「婦人公論」1924(大正13)年5月 NDC 913 新字新仮名 000051 000879 1892-03-01 1927-07-24 4107
186 も候補者は一人残らず 低能 児ばかりって訣でもな 文放古  {著者}芥川 竜之介 著者 「婦人公論」1924(大正13)年5月 NDC 913 新字新仮名 000051 000879 1892-03-01 1927-07-24 4107
187 のだ。  その男少し 低能 のようで、「水車、水 一九二七年春より  {著者}宮本 百合子 著者 「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社、1981(昭和56)年5月30日 NDC 916 新字新仮名 004206 000311 1899-02-13 1951-01-21 9843
188 、そのもやを、竹内は 低能 児と云う。  お澄、 一九二七年春より  {著者}宮本 百合子 著者 「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社、1981(昭和56)年5月30日 NDC 916 新字新仮名 004206 000311 1899-02-13 1951-01-21 9843
189 た利巧者、二人の仲に 低能 が生れる筈はないから 明治開化 安吾捕物 08 その七 石の下 {著者}坂口 安吾 著者 「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 043210 001095 1906-10-20 1955-02-17 32242
190 千代は思った。東太の 低能 の悲しさに盲いて、千 明治開化 安吾捕物 08 その七 石の下 {著者}坂口 安吾 著者 「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 043210 001095 1906-10-20 1955-02-17 32242
191 婚しても同じことだ。 低能 の東太に当主の実力は 明治開化 安吾捕物 08 その七 石の下 {著者}坂口 安吾 著者 「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 043210 001095 1906-10-20 1955-02-17 32242
192 向にクッタクがない。 低能 の東太のお守り役には 明治開化 安吾捕物 08 その七 石の下 {著者}坂口 安吾 著者 「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 043210 001095 1906-10-20 1955-02-17 32242
193 。東太が生れもつかぬ 低能 児と分っては、亡夫が 明治開化 安吾捕物 08 その七 石の下 {著者}坂口 安吾 著者 「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 043210 001095 1906-10-20 1955-02-17 32242
194 ムダな話。東太という 低能 児と自分の娘を結婚さ 明治開化 安吾捕物 08 その七 石の下 {著者}坂口 安吾 著者 「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 043210 001095 1906-10-20 1955-02-17 32242
195 あ、やっぱりこいつは 低能 だな。  小文治はそ 神州天馬侠  {著者}吉川 英治 著者 「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号 NDC K913 新字新仮名 056145 001562 1892-08-11 1962-09-07 511774
196 十五、六。  すこし 低能 な顔だちだが、目だけ 神州天馬侠  {著者}吉川 英治 著者 「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号 NDC K913 新字新仮名 056145 001562 1892-08-11 1962-09-07 511774
197 てや、おまえのような 低能 児がしたしめば、もう 神州天馬侠  {著者}吉川 英治 著者 「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号 NDC K913 新字新仮名 056145 001562 1892-08-11 1962-09-07 511774
198 やはやあきれかえった 低能 児だ。汝のようなうす 神州天馬侠  {著者}吉川 英治 著者 「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号 NDC K913 新字新仮名 056145 001562 1892-08-11 1962-09-07 511774
199  怖ろしい怖ろしい、 低能 児でも復讐心はあるも 神州天馬侠  {著者}吉川 英治 著者 「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号 NDC K913 新字新仮名 056145 001562 1892-08-11 1962-09-07 511774
200 いいかけて、さすがの 低能 児も、気がついたらし 神州天馬侠  {著者}吉川 英治 著者 「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号 NDC K913 新字新仮名 056145 001562 1892-08-11 1962-09-07 511774
201 口がなんだ? あんな 低能 が」 「覚えていろ! 苦心の学友  {著者}佐々木 邦 著者 「少年倶楽部」1927(昭和2)年10月号~1929(昭和4)年12月号 NDC K913 新字新仮名 055858 001750 1883-05-04 1964-09-22 162735
202 きさまはおれのことを 低能 といったな」  と今 苦心の学友  {著者}佐々木 邦 著者 「少年倶楽部」1927(昭和2)年10月号~1929(昭和4)年12月号 NDC K913 新字新仮名 055858 001750 1883-05-04 1964-09-22 162735
203 とになっている。 「 低能 よ、きさまは。それが 苦心の学友  {著者}佐々木 邦 著者 「少年倶楽部」1927(昭和2)年10月号~1929(昭和4)年12月号 NDC K913 新字新仮名 055858 001750 1883-05-04 1964-09-22 162735
204 て、もう一人が、 「 低能 児」となおした。正三 苦心の学友  {著者}佐々木 邦 著者 「少年倶楽部」1927(昭和2)年10月号~1929(昭和4)年12月号 NDC K913 新字新仮名 055858 001750 1883-05-04 1964-09-22 162735
205 も、まことに原始的で 低能 なテーマで、電気のつ 人間失格  {著者}太宰 治 著者 「展望」筑摩書房、1948(昭和23)年6~8月号 NDC 913 新字新仮名 000301 000035 1909-06-19 1948-06-13 73014
206 頭をつかふのは元來が 低能 者のすることと、きめ 浪  {著者}石川 三四郎 著者 「平民新聞 第73号~第102号」1948(昭和23)年5月24日~12月27日 NDC 121 289 旧字旧仮名 046172 001170 1876-05-23 1956-11-28 61932
207  あの少年は、少しく 低能 でそして浪費癖があっ ものの影  {著者}豊島 与志雄 著者 「心」1952(昭和27)年1月 NDC 913 新字新仮名 042671 000906 1890-11-27 1955-06-18 8756
208 うものがはなはだしく 低能 な幼稚なものとして取 比較言語学における統計的研究法の可能性について  {著者}寺田 寅彦 著者 「思想」1928(昭和3)年3月 NDC 801 新字新仮名 002345 000042 1878-11-28 1935-12-31 15442
209 とは雲泥の相違のある 低能 率の農業に、人口の半 調査機関  {著者}中井 正一 著者 「思想」1952(昭和27)年4月 NDC 307 新字新仮名 043711 001166 1900-02-14 1952-05-18 9548
210 知能は全般から云って 低能 化し、非本能化・非技 技術の哲学  {著者}戸坂 潤 著者 「技術の哲学」時潮社、1933(昭和8)年12月13日 NDC 401 新字新仮名 003591 000281 1900-09-27 1945-08-09 84287
211 が或る限度に至るまで 低能 化すということも亦、 技術の哲学  {著者}戸坂 潤 著者 「技術の哲学」時潮社、1933(昭和8)年12月13日 NDC 401 新字新仮名 003591 000281 1900-09-27 1945-08-09 84287
212 表者——の知能技術の 低能 化に照応する一現象に 技術の哲学  {著者}戸坂 潤 著者 「技術の哲学」時潮社、1933(昭和8)年12月13日 NDC 401 新字新仮名 003591 000281 1900-09-27 1945-08-09 84287
213 術の第三期・衰亡期・ 低能 期であるが、その時か 技術の哲学  {著者}戸坂 潤 著者 「技術の哲学」時潮社、1933(昭和8)年12月13日 NDC 401 新字新仮名 003591 000281 1900-09-27 1945-08-09 84287
214 です。二人とも揃って 低能 らしいので、誰も相手 いなか、の、じけん  {著者}夢野 久作 著者 「探偵趣味」「猟奇」1927(昭和2)年7月~1930(昭和5)年1月 NDC 913 新字新仮名 000919 000096 1889-01-04 1936-03-11 39536
215 価値の全然ないような 低能 な著者の、全然無価値 学位について  {著者}寺田 寅彦 著者 「改造 第十六巻第五号」1934(昭和9)年4月1日 NDC 377 新字新仮名 042696 000042 1878-11-28 1935-12-31 8656
216 なりが、過去に属する 低能 者なら、労働者の生活 宣言一つ  {著者}有島 武郎 著者 「改造」1922(大正11)年1月 NDC 914 新字新仮名 000217 000025 1878-03-04 1923-06-09 4815
217 ん。なんにも書けない 低能 の文学少女、炬燵には 千代女  {著者}太宰 治 著者 「改造」1941(昭和16)年6月 NDC 913 新字新仮名 000248 000035 1909-06-19 1948-06-13 11997
218 である。共に酔って、 低能 の学生たちを殴打した 東京八景 (苦難の或人に贈る) {著者}太宰 治 著者 「文学界」1941(昭和16)年1月号 NDC 913 新字新仮名 001569 000035 1909-06-19 1948-06-13 20659
219 た。実に、破廉恥な、 低能 の時期であった。学校 東京八景 (苦難の或人に贈る) {著者}太宰 治 著者 「文学界」1941(昭和16)年1月号 NDC 913 新字新仮名 001569 000035 1909-06-19 1948-06-13 20659
220 かに言い渡した。 「 低能 だ。」 「なんだって 花火  {著者}太宰 治 著者 「文芸」1942(昭和17)年10月 NDC 913 新字新仮名 000264 000035 1909-06-19 1948-06-13 14233
221 く大胆者は、多分少し 低能 な不良少年で、ラッパ 焔の中に歌う  {著者}野村 胡堂 著者 「文芸倶楽部」1928(昭和3)年10月 NDC 913 新字新仮名 056718 001670 1882-10-15 1963-04-14 13476
222 お人好しで、愚圖で、 低能 な彼は、もともとだら 一兵卒と銃  {著者}南部 修太郎 著者 「文藝倶樂部」1919(大正8)年12月号 NDC 913 旧字旧仮名 042216 000048 1892-10-12 1936-06-22 6087
223 のだから、その内には 低能 で始末の悪いのもいる 社会時評  {著者}戸坂 潤 著者 「文藝春秋」1933(昭和8年)年6月~1937(昭和12)年5月 NDC 304 新字新仮名 003603 000281 1900-09-27 1945-08-09 194752
224 り、フィリッピン人の 低能 留学生をさえチヤホヤ 社会時評  {著者}戸坂 潤 著者 「文藝春秋」1933(昭和8年)年6月~1937(昭和12)年5月 NDC 304 新字新仮名 003603 000281 1900-09-27 1945-08-09 194752
225 。私は虫よりもバカの 低能 でございます。  先 一つの愛情  {著者}豊島 与志雄 著者 「新小説」1949(昭和24)年4月 NDC 913 新字新仮名 042650 000906 1890-11-27 1955-06-18 10635
226 もかげでは彼のことを 低能 と呼ぶようになって了 恨なき殺人  {著者}宮島 資夫 著者 「新日本」1917(大正6)年9月号 NDC 913 新字新仮名 047001 000929 1886-08-01 1951-02-19 27611
227 た。然しそれよりも、 低能 と罵っている人間に反 恨なき殺人  {著者}宮島 資夫 著者 「新日本」1917(大正6)年9月号 NDC 913 新字新仮名 047001 000929 1886-08-01 1951-02-19 27611
228 は義理の弟に使われる 低能 児として、誰でもかげ 恨なき殺人  {著者}宮島 資夫 著者 「新日本」1917(大正6)年9月号 NDC 913 新字新仮名 047001 000929 1886-08-01 1951-02-19 27611
229 にもかからないという 低能 に限って、これと同じ 我が人生観 06 (六)日大ギャング {著者}坂口 安吾 著者 「新潮 第四七巻第一一号」1950(昭和25)年11月1日 NDC 914 新字新仮名 043200 001095 1906-10-20 1955-02-17 8737
230 、こう思っているのは 低能 に限らない。ただ利巧 我が人生観 06 (六)日大ギャング {著者}坂口 安吾 著者 「新潮 第四七巻第一一号」1950(昭和25)年11月1日 NDC 914 新字新仮名 043200 001095 1906-10-20 1955-02-17 8737
231 もできないほど、無学 低能 、官能主義のデカダン 我が人生観 03 (三)私の役割 {著者}坂口 安吾 著者 「新潮 第四七巻第八号」1950(昭和25)年8月1日 NDC 914 新字新仮名 043197 001095 1906-10-20 1955-02-17 7108
232 原壮助先生があんまり 低能 な批評を下しているか フシギな女  {著者}坂口 安吾 著者 「新潮 第四八巻第五号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045915 001095 1906-10-20 1955-02-17 17406
233 。  お三代はひどく 低能 だった。その代りひど 黒点 ——或る青年の「回想記」の一節—— {著者}豊島 与志雄 著者 「新潮」1926(大正15)年3月 NDC 913 新字新仮名 042444 000906 1890-11-27 1955-06-18 30572
234 只今のような包帯組、 低能 組、変人組、尻拭組と 諜報中継局  {著者}海野 十三 著者 「新青年」1944(昭和19)年12月 NDC 913 新字新仮名 056914 000160 1897-12-26 1949-05-17 19537
235 したとすれば、余程の 低能 児に違いありません。 心理試験  {著者}江戸川 乱歩 著者 「新青年」博文館、1925(大正14)年2月 NDC 913 新字新仮名 056646 001779 1894-10-21 1965-07-28 22719
236 た。大男の紫繻子は、 低能 の一寸法師に馬鹿にさ 踊る一寸法師  {著者}江戸川 乱歩 著者 「新青年」博文館、1926(大正15)年1月 NDC 913 新字新仮名 057505 001779 1894-10-21 1965-07-28 7734
237 ……それにしても俺の 低能 にも呆れる。どうして 魔都  {著者}久生 十蘭 著者 「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月 NDC 913 新字新仮名 046076 001224 1902-04-06 1957-10-06 293537
238 誠に無意味な、見物を 低能 者扱ひにした、古風と 国文学の発生(第二稿)  {著者}折口 信夫 著者 「日光 第一巻第三、五、七号」1924(大正13)年6、8、10月 NDC 910 新字旧仮名 047022 000933 1887-02-11 1953-09-03 28306
239 うでなければ、馬鹿か 低能 かとでも思っているよ 日本その日その日 03 日本その日その日 {翻訳者}石川 欣一::{著者}エドワード・シルヴェスター モース 翻訳者::著者 「日本その日/\(上)」科学知識普及会、1929(昭和4)年11月3日 / 「日本その日/\(下)」科学知識普及会、1929(昭和4)年11月3日 NDC 291 新字新仮名 055990 001380::001764 1895-03-17::1838-06-18 1959-08-04::1925-12-20 479773
240 對方面ヨリ表現シタル 低能 哲學ナリ。日本ハ斯ル 日本改造法案大綱  {著者}北 一輝 著者 「日本改造法案大綱」1923(大正12)年5月9日 NDC 311 旧字旧仮名 052931 000089 1883-04-03 1937-08-19 44581
241 ル建國ニモ非ズ又斯ル 低能 哲學ニ支配サレタル時 日本改造法案大綱  {著者}北 一輝 著者 「日本改造法案大綱」1923(大正12)年5月9日 NDC 311 旧字旧仮名 052931 000089 1883-04-03 1937-08-19 44581
242 政治ノ自由ナリト云フ 低能 者ノ昏迷ナリ。國民平 日本改造法案大綱  {著者}北 一輝 著者 「日本改造法案大綱」1923(大正12)年5月9日 NDC 311 旧字旧仮名 052931 000089 1883-04-03 1937-08-19 44581
243 けれないという自分の 低能 も度し難いものだが、 子をつれて  {著者}葛西 善蔵 著者 「早稲田文学」1918(大正7)年3月 NDC 913 新字新仮名 047059 000984 1887-01-16 1928-07-23 16970
244 なっちゃいない大きな 低能 児ね。それだけのもの 女の決闘  {著者}太宰 治 著者 「月刊文章」1940(昭和15)年1~6月 NDC 913 新字新仮名 000304 000035 1909-06-19 1948-06-13 37662
245 って、あたかも一個の 低能 児であるかのごとき心 門  {著者}夏目 漱石 著者 「朝日新聞」1910(明治43)年3月1日~6月12日 NDC 913 新字新仮名 000785 000148 1867-02-09 1916-12-09 139794
246 岡村君の数学に対する 低能 の程度はその時分から 金色の死  {著者}谷崎 潤一郎 著者 「東京朝日新聞」1914(大正3)年12月 NDC 913 新字新仮名 057442 001383 1886-07-24 1965-07-30 22788
247 ものは、多くは白痴か 低能 児だが、あいつに限っ 一寸法師  {著者}江戸川 乱歩 著者 「東京朝日新聞朝日新聞社、1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月20日 / 「大阪朝日新聞朝日新聞社、1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月21日 NDC 913 新字新仮名 058053 001779 1894-10-21 1965-07-28 96475
248 が、あいつに限って、 低能 児どころか、実に恐し 一寸法師  {著者}江戸川 乱歩 著者 「東京朝日新聞朝日新聞社、1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月20日 / 「大阪朝日新聞朝日新聞社、1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月21日 NDC 913 新字新仮名 058053 001779 1894-10-21 1965-07-28 96475
249 であるが爲に、多數の 低能 な國學者には、其のき 日本上古の状態  {著者}内藤 湖南 著者 「歴史と地理」1919(大正8)年2月 NDC 210 旧字旧仮名 002941 000284 1866-08-26 1934-06-26 6019
250 にマイナスになった。 低能 なんじゃないかしらと パンドラの匣  {著者}太宰 治 著者 「河北新報河北新報社、1945(昭和20)年10月22日~1946(昭和21)年1月7日 NDC 913 新字新仮名 001566 000035 1909-06-19 1948-06-13 84720
251 。わが国の狂言には、 低能 とも思はれる大名が屡 演劇と政治  {著者}岸田 国士 著者 「演劇論 第四巻 演劇と文化」河出書房、1942(昭和17)年11月20日 NDC 770 新字旧仮名 044696 001154 1890-11-02 1954-03-05 17301
252 。 ○H、ばか。D、 低能 。ゴルフのカップは、 古典風  {著者}太宰 治 著者 「知性」1940(昭和15)年6月 NDC 913 新字新仮名 000286 000035 1909-06-19 1948-06-13 10400
253 化全般に於ける科学的 低能 性を、是正する方針を 現代科学教育論  {著者}戸坂 潤 著者 「科学ペン」1937(昭和12)年4月号 NDC 407 新字新仮名 042188 000281 1900-09-27 1945-08-09 9100
254 数学にかけてはまるで 低能 で、学校生活中に襲わ アインシュタインの教育観  {著者}寺田 寅彦 著者 「科学知識」1921(大正10)年7月 NDC 289 新字新仮名 043075 000042 1878-11-28 1935-12-31 8839
255 。このいわゆる数学的 低能 者についてアインシュ アインシュタインの教育観  {著者}寺田 寅彦 著者 「科学知識」1921(大正10)年7月 NDC 289 新字新仮名 043075 000042 1878-11-28 1935-12-31 8839
256 けのことだ。いくらか 低能 だとの噂だが、私には 聖女人像  {著者}豊島 与志雄 著者 「群像」1947(昭和22)年11月 NDC 913 新字新仮名 042739 000906 1890-11-27 1955-06-18 13526
257 っきから僕を無学だの 低能 だのと称しているが、 乞食学生  {著者}太宰 治 著者 「若草」1940(昭和15)年7~12月 NDC 913 新字新仮名 000285 000035 1909-06-19 1948-06-13 33683
258 だ。事実、無学であり 低能 ではあるが、けれども 乞食学生  {著者}太宰 治 著者 「若草」1940(昭和15)年7~12月 NDC 913 新字新仮名 000285 000035 1909-06-19 1948-06-13 33683
259 、けれども、根からの 低能 でも無かった筈である 乞食学生  {著者}太宰 治 著者 「若草」1940(昭和15)年7~12月 NDC 913 新字新仮名 000285 000035 1909-06-19 1948-06-13 33683
260 庭教師だったんだぜ。 低能 のひとり娘に代数を教 乞食学生  {著者}太宰 治 著者 「若草」1940(昭和15)年7~12月 NDC 913 新字新仮名 000285 000035 1909-06-19 1948-06-13 33683
261 執るならば、諸君は、 低能 のマダムと三時間話し 乞食学生  {著者}太宰 治 著者 「若草」1940(昭和15)年7~12月 NDC 913 新字新仮名 000285 000035 1909-06-19 1948-06-13 33683
262 咄サ。こんな処はマア 低能 だネ。」  沼南の清 三十年前の島田沼南  {著者}内田 魯庵 著者 「読売新聞」1923(大正12)年11月30日~12月6日号 NDC 910 新字新仮名 049570 000165 1868-04-27 1929-06-29 12958
263 息子なんですが、少し 低能 で二十いくつかで四年 支倉事件  {著者}甲賀 三郎 著者 「読売新聞」1927(昭和2)年1月15日~6月26日 NDC 913 新字新仮名 001430 000260 1893-10-05 1945-02-14 204284
264 聟という人は、すこし 低能 な生まれつきであるこ 海ぼたる  {著者}小川 未明 著者 「赤い鳥」1923(大正12)年8月 NDC K913 新字新仮名 051097 001475 1882-04-07 1961-05-11 3403
265 私の事は懶け者だの、 低能 だの、と顔を見る度に 鉄の処女  {著者}大倉 燁子 著者 「踊る影絵」柳香書院、1935(昭和10)年2月 NDC 913 新字新仮名 054466 001669 1886-04-12 1960-07-18 20706
266 る。そのありさまは、 低能 な作者がいかに努力し 我らの哲学  {著者}丘 浅次郎 著者 「進化と人生」東京開成館、1921(大正10)年9月25日増補4版 NDC 401 新字新仮名 057885 001474 1868-12-31 1944-05-02 25489
267 者がいかに努力しても 低能 な小説より書けぬのに 我らの哲学  {著者}丘 浅次郎 著者 「進化と人生」東京開成館、1921(大正10)年9月25日増補4版 NDC 401 新字新仮名 057885 001474 1868-12-31 1944-05-02 25489
268 、顔の上半分に遊惰と 低能 との趣きがあり、下半 微笑  {著者}豊島 与志雄 著者 「雄弁」1919(大正8)年2月 NDC 913 新字新仮名 042401 000906 1890-11-27 1955-06-18 20976
269 を帯びた眼には何処か 低能 らしい趣きがあったが 微笑  {著者}豊島 与志雄 著者 「雄弁」1919(大正8)年2月 NDC 913 新字新仮名 042401 000906 1890-11-27 1955-06-18 20976
270 國持大名などは、その 低能 臭い血統の保持のため 銭形平次捕物控 194 小便組貞女 {著者}野村 胡堂 著者 「面白倶樂部」1948(昭和23)年11月号 NDC 913 旧字旧仮名 055688 001670 1882-10-15 1963-04-14 12362
271 疎く金銭の事には殆ど 低能 児だとまで見られてい 子規居士と余  {著者}高浜 虚子 著者 一~四「ホトトギス」1911(明治44)年12月号~1912(明治45)年3月号 / 五~六「ホトトギス」1912(大正元)年5月号~6月号 / 七「ホトトギス」1912(大正元)年8月号 / 八「ホトトギス」1912(大正元)年10月号 / 九「ホトトギス」1913(大正2)年1月号 / 十~十一「ホトトギス」1914(大正3)年12月号 / 十二~十四「ホトトギス」1915(大正4)年1月号~3月号 NDC 911 新字新仮名 047740 001310 1874-02-22 1959-04-08 48872
272 能自身の著しい低下、 低能 化を招いたという事実 日本イデオロギー論 ——現代日本に於ける日本主義・ファシズム自由主義・思想の批判 {著者}戸坂 潤 著者 二 「文献学」的哲学の批判「唯物論研究 第二九号」1935(昭和10)年3月 / 三 「常識」の分析「唯物論研究 第二八号」1935(昭和10)年2月 / 六 ニッポン・イデオロギー「歴史科学 三巻七号」1934(昭和9)年4月 / 七 日本倫理学人間学「歴史科学 四巻一号」1934(昭和9)年12月 / 八 復古現象の分析「改造 五月号」1935(昭和10)年4月 / 九 文化統制の本質「行動 五月号」1935(昭和10)年5月 / 一〇 日本主義の帰趨「経済往来 五月号」1935(昭和10)年4月 / 一一 偽装した近代的観念論「唯物論研究 第二四号」1934(昭和9)年10月 / 一二 「無の論理」は論理であるか「唯物論研究 第六号」1933(昭和8)年4月 / 一三 「全体」の魔術「唯物論研究 第一八号」1934(昭和9)年4月 / 一四 反動期に於ける文学と哲学「文芸」1934(昭和9)年 / 一九 自由主義哲学と唯物論唯物論研究 第三三号」1935(昭和10)年7月 / 補足一 現下に於ける進歩と反動との意義「改造 三月号」1936(昭和11)年2月 / 補足三 自由主義ファシズム社会主義「日本評論 三月号」1936(昭和11)年3月 NDC 121 新字新仮名 003596 000281 1900-09-27 1945-08-09 263050
273 ですね。今になって、 低能 とは、あなたは、兄さ ジロリの女  {著者}坂口 安吾 著者 前半「文藝春秋 第二六巻第四号」1948(昭和23)年4月1日、後半「別冊文藝春秋 第六輯」1948(昭和23)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 042827 001095 1906-10-20 1955-02-17 51597
274 ウンザリして、完璧な 低能 なのね、とからかうと ジロリの女  {著者}坂口 安吾 著者 前半「文藝春秋 第二六巻第四号」1948(昭和23)年4月1日、後半「別冊文藝春秋 第六輯」1948(昭和23)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 042827 001095 1906-10-20 1955-02-17 51597
275 、 「ですから、僕は 低能 なんですというのに。 ジロリの女  {著者}坂口 安吾 著者 前半「文藝春秋 第二六巻第四号」1948(昭和23)年4月1日、後半「別冊文藝春秋 第六輯」1948(昭和23)年4月1日 NDC 913 新字新仮名 042827 001095 1906-10-20 1955-02-17 51597
276 だけ自然の結果として 低能 化して来た今日、丁度 イデオロギー概論  {著者}戸坂 潤 著者 第四章 文化社会学の批判「文化社会学同文館、1932(昭和7)年4月5日 / 第五章 知識社会学の批判「思想 第101~103号」1930(昭和5)年7月28日 NDC 121 新字新仮名 003595 000281 1900-09-27 1945-08-09 160590
277 インテリゲンツ喪失・ 低能 化・自己喪失と一つで イデオロギー概論  {著者}戸坂 潤 著者 第四章 文化社会学の批判「文化社会学同文館、1932(昭和7)年4月5日 / 第五章 知識社会学の批判「思想 第101~103号」1930(昭和5)年7月28日 NDC 121 新字新仮名 003595 000281 1900-09-27 1945-08-09 160590
278 つてゐる状態、これを 低能 あるいは悪魔といふ。 お伽草紙  {著者}太宰 治 著者 筑摩書房刊、1945(昭和20)年10月 NDC 913 新字旧仮名 000307 000035 1909-06-19 1948-06-13 71137
279 のになつてしまつた。 低能 かい。それぢやあ仕様 お伽草紙  {著者}太宰 治 著者 筑摩書房刊、1945(昭和20)年10月 NDC 913 新字旧仮名 000307 000035 1909-06-19 1948-06-13 71137
280 を平気で行つてゐる。 低能 でなければ悪魔である お伽草紙  {著者}太宰 治 著者 筑摩書房刊、1945(昭和20)年10月 NDC 913 新字旧仮名 000307 000035 1909-06-19 1948-06-13 71137
281 魔といふものは元来、 低能 なのかも知れない。小 お伽草紙  {著者}太宰 治 著者 筑摩書房刊、1945(昭和20)年10月 NDC 913 新字旧仮名 000307 000035 1909-06-19 1948-06-13 71137
282 る。お爺さんも、この 低能 の踊りには呆れた。ひ お伽草紙  {著者}太宰 治 著者 筑摩書房刊、1945(昭和20)年10月 NDC 913 新字旧仮名 000307 000035 1909-06-19 1948-06-13 71137
283 作、唐変木、兵六玉、 低能 ……)  あらゆる言 花と龍  {著者}火野 葦平 著者 花と龍「読売新聞」読売新聞社、1952(昭和27)年6月20日~1953(昭和28)年5月11日 / あとがき「花と龍(下巻)」新潮社、1953(昭和28)年7月31日 / 解説「火野葦平選集 第五巻」東京創元社、1958(昭和33)年 NDC 913 新字新仮名 056224 001488 1907-01-25 1960-01-24 410134
284 せず、したがってやや 低能 なるも、人間に棲み、 十二支考 07 猴に関する伝説 {著者}南方 熊楠 著者 (一)概言1「太陽 二六ノ一」博文館、1920(大正9)年1月 / (一)概言2「太陽 二六ノ二」博文館、1920(大正9)年2月 / (二)性質「太陽 二六ノ五」博文館、1920(大正9)年5月 / (三)民俗1「太陽 二六ノ一三」博文館、1920(大正9)年11月 / (三)民俗2「太陽 二六ノ一四」博文館、1920(大正9)年12月 NDC 388 新字新仮名 002539 000093 1867-05-18 1941-12-29 68045

 

no 前文脈 キー 後文脈 作品名 副題 著者 役割 初出 分類番号 文字遣い種別 作品ID 人物ID 生年月日 没年月日 文字数
1 あまりおとなしいので 低脳 かと思つたら、鼠を捕 行乞記 01 (一) {著者}種田 山頭火 著者  NDC 915 新字旧仮名 044913 000146 1882-12-03 1940-10-11 78054
2 へばりついてゐる奴も 低脳 だ。インテリ性の魚は 釣れない時 君は何を考へるか {著者}佐藤 惣之助 著者  NDC 787 新字旧仮名 046569 000577 1890-12-03 1942-05-15 2511
3 た、囚徒などの、やや 低脳 なのに、そう言うのが 海に生くる人々  {著者}葉山 嘉樹 著者  NDC 913 新字新仮名 000863 000031 1894-03-12 1945-10-18 161289
4 憤るべきはこの軍人の 低脳 ぶりだ。残虐なのは戦 咢堂小論  {著者}坂口 安吾 著者  NDC 914 新字新仮名 056811 001095 1906-10-20 1955-02-17 6973
5 なかったという軍部の 低脳 ぶりは国民を驚倒せし 咢堂小論  {著者}坂口 安吾 著者  NDC 914 新字新仮名 056811 001095 1906-10-20 1955-02-17 6973
6 李彩は笑ふなり古蝶  低脳 児らしい円右の頭つき 大正東京錦絵  {著者}正岡 容 著者  NDC 911 914 新字旧仮名 047598 001313 1904-12-20 1958-12-07 28505
7 りの下界のモロモロの 低脳 どもを冷やかに見下し 淪落の青春  {著者}坂口 安吾 著者 「ろまねすく 第一巻第一号」ろまねすく社、1948(昭和23)年1月1日 NDC 913 新字新仮名 042812 001095 1906-10-20 1955-02-17 17691
8 ないのであろう。   低脳 だから人を刺したが、 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
9 はしていないようだ。 低脳 ではあるが、ヨコシマ 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
10 知らずに模倣するほど 低脳 なのかも知れない。  安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
11 ウスッペラで、これも 低脳 な娘にはちがいない。 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
12 了するとは恐れ入った 低脳 の両親である。相当の 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
13 伝いをしていた両親の 低脳 ぶりの方が、バカバカ 安吾人生案内 01 その一 〔判官巷を往く〕 {著者}坂口 安吾 著者 「オール読物 第六巻第四号」1951(昭和26)年4月1日 NDC 914 新字新仮名 045916 001095 1906-10-20 1955-02-17 17119
14 ります。それは生来の 低脳 者で、七歳になる時に 足跡  {著者}石川 啄木 著者 「スバル 第二号」1909(明治42)年2月1日 NDC 913 新字旧仮名 045460 000153 1886-02-20 1912-04-13 17090
15 くつて、ぼんやりで、 低脳 よ。 卯一郎  どれ 医術の進歩  {著者}岸田 国士 著者 「中央公論 第四十八年第一号」1933(昭和8)年1月1日 NDC 912 新字旧仮名 046864 001154 1890-11-02 1954-03-05 18825
16 紳士、淑女などが一番 低脳 の部類に属し、単純な 荒天吉日  {著者}岸田 国士 著者 「中部日本新聞」1944(昭和19)年3月18日~28日、30日、31日、4月1日~26日、28日、29日、5月1日~7月18日、7月20日~8月31日 NDC 913 新字旧仮名 044090 001154 1890-11-02 1954-03-05 172747
17 るなぞとは許しがたい 低脳 、厚顔無恥、ケダモノ お奈良さま  {著者}坂口 安吾 著者 「別冊小説新潮 第八巻第一〇号」1954(昭和29)年7月15日 NDC 913 新字新仮名 042974 001095 1906-10-20 1955-02-17 10159
18 シギですよ。どこまで 低脳 だか、分りゃしない。 水鳥亭  {著者}坂口 安吾 著者 「別冊文藝春秋 第一五号」1950(昭和25)年3月5日 NDC 913 新字新仮名 043187 001095 1906-10-20 1955-02-17 30705
19 一冊ごとに、あなたが 低脳 だという刻印が捺して 水鳥亭  {著者}坂口 安吾 著者 「別冊文藝春秋 第一五号」1950(昭和25)年3月5日 NDC 913 新字新仮名 043187 001095 1906-10-20 1955-02-17 30705
20 捺してあるのですよ。 低脳 の証拠を毎日眺めて平 水鳥亭  {著者}坂口 安吾 著者 「別冊文藝春秋 第一五号」1950(昭和25)年3月5日 NDC 913 新字新仮名 043187 001095 1906-10-20 1955-02-17 30705
21 ください」 「そして 低脳 ぶりを発揮しろとおっ 什器破壊業事件  {著者}海野 十三 著者 「大洋」1939(昭和14)年9月号 NDC 913 新字新仮名 003235 000160 1897-12-26 1949-05-17 15352
22 じゃない。どうしても 低脳 という感じであった。 遺恨  {著者}坂口 安吾 著者 「娯楽世界 第二巻第五号」銀五書房、1948(昭和23)年5月1日 NDC 913 新字新仮名 042833 001095 1906-10-20 1955-02-17 10706
23 その中に一人が、 「 低脳 児」と書いた。 「違 苦心の学友  {著者}佐々木 邦 著者 「少年倶楽部」1927(昭和2)年10月号~1929(昭和4)年12月号 NDC K913 新字新仮名 055858 001750 1883-05-04 1964-09-22 162735
24 りなんですよ。先生に 低脳 ぶりを笑われるのは覚 復員殺人事件  {著者}坂口 安吾 著者 「座談 第三巻第六号~第七号、第四巻第一号~第三号」1949(昭和24)年8月1日~9月1日、1950(昭和25)年1月1日~3月1日(未完) NDC 913 新字新仮名 043163 001095 1906-10-20 1955-02-17 96612
25 いをしていた。少しく 低脳 、そして浪費癖があっ ものの影  {著者}豊島 与志雄 著者 「心」1952(昭和27)年1月 NDC 913 新字新仮名 042671 000906 1890-11-27 1955-06-18 8756
26 たという。だいたい、 低脳 な者は大食いだし、随 ものの影  {著者}豊島 与志雄 著者 「心」1952(昭和27)年1月 NDC 913 新字新仮名 042671 000906 1890-11-27 1955-06-18 8756
27 いよ。ギャングだの、 低脳 記者だの、ろくなもの 火の鳥  {著者}太宰 治 著者 「愛と美について」竹村書房、1939(昭和14)年5月20日 NDC 913 新字新仮名 000268 000035 1909-06-19 1948-06-13 37740
28 鷲がその威風に似ず、 低脳 らしい金属性の声をた 或る日の動物園  {著者}岸田 国士 著者 「手帖 第一巻第二号」1927(昭和2)年4月1日 NDC 917 新字旧仮名 044401 001154 1890-11-02 1954-03-05 232
29 を具へ、中には、一見 低脳 児と見える某子爵の三 ママ先生とその夫  {著者}岸田 国士 著者 「改造 第十二巻第十号」1930(昭和5)年10月1日 NDC 912 新字旧仮名 051836 001154 1890-11-02 1954-03-05 21921
30 ものはない。あんまり 低脳 な馬鹿に見えて同性の 青春論  {著者}坂口 安吾 著者 「文学界 第九巻第十一号、第十二号」1942(昭和17)年11月1日、12月1日発行 NDC 914 新字新仮名 042624 001095 1906-10-20 1955-02-17 34657
31 レビューの舞台で柔弱 低脳 の男を見せつけられて 青春論  {著者}坂口 安吾 著者 「文学界 第九巻第十一号、第十二号」1942(昭和17)年11月1日、12月1日発行 NDC 914 新字新仮名 042624 001095 1906-10-20 1955-02-17 34657
32 めた。 「やい、この 低脳 の風来坊! 手前えは 心象風景  {著者}牧野 信一 著者 「文科」春陽堂、1931(昭和6)年10月~1932(昭和7)年3月 NDC 913 新字旧仮名 045320 000183 1896-11-12 1936-03-24 14618
33 佳し。爾来ニキビ面の 低脳 児、袖をまくりて天下 一言二言三言  {著者}岸田 国士 著者 「文芸時代 第二巻第三号」1925(大正14)年3月1日 NDC 914 新字旧仮名 044340 001154 1890-11-02 1954-03-05 1470
34 というのは、見物人が 低脳 でないことを示してい 安吾巷談 08 ストリップ罵倒 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第一〇号」1950(昭和25)年8月1日 NDC 914 新字新仮名 043179 001095 1906-10-20 1955-02-17 9074
35 の踊り子の情夫は最も 低脳 無能ときまっておりま 安吾巷談 08 ストリップ罵倒 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第一〇号」1950(昭和25)年8月1日 NDC 914 新字新仮名 043179 001095 1906-10-20 1955-02-17 9074
36 。三流の教祖のような 低脳 な大臣もいる。学者も 安吾巷談 12 巷談師退場 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第一六号」1950(昭和25)年12月1日 NDC 914 新字新仮名 043183 001095 1906-10-20 1955-02-17 7860
37 気でもあり、同時に、 低脳 でもあったが、ヨタ組 安吾巷談 06 東京ジャングル探検 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第七号」1950(昭和25)年6月1日 NDC 914 新字新仮名 043177 001095 1906-10-20 1955-02-17 24016
38 特権を持たせると鬼畜 低脳 となる。今日に於ては 安吾巷談 06 東京ジャングル探検 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第七号」1950(昭和25)年6月1日 NDC 914 新字新仮名 043177 001095 1906-10-20 1955-02-17 24016
39 イオイ泣き、こういう 低脳 がでゝくると、もうダ 安吾巷談 07 熱海復興 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第八号」1950(昭和25)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 043178 001095 1906-10-20 1955-02-17 18563
40 、間にH編輯長という 低脳 で神経質で被害妄想の 安吾巷談 07 熱海復興 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第八号」1950(昭和25)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 043178 001095 1906-10-20 1955-02-17 18563
41   という。こういう 低脳 のキマリ文句で右翼の 安吾巷談 07 熱海復興 {著者}坂口 安吾 著者 「文藝春秋 第二八巻第八号」1950(昭和25)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 043178 001095 1906-10-20 1955-02-17 18563
42 ると、はにかみなのか 低脳 なのか察しもつかぬの 創作生活にて  {著者}牧野 信一 著者 「新潮 第三十一巻第十一号」新潮社、1934(昭和9)年11月1日 NDC 913 新字旧仮名 045219 000183 1896-11-12 1936-03-24 12052
43 は怖ろしく達者だが稍 低脳 であるらしい高慢鼻の 円卓子での話  {著者}牧野 信一 著者 「新潮 第二十六巻第五号」新潮社、1929(昭和4)年5月1日 NDC 913 新字旧仮名 045407 000183 1896-11-12 1936-03-24 24992
44 いたが、それはまるで 低脳 か嘘つきの代表者が喋 終戦前後  {著者}織田 作之助 著者 「新生日本」1945(昭和20)年11月 NDC 914 新字新仮名 046352 000040 1913-10-26 1947-01-10 2699
45 を信ずるのは、一部の 低脳 者だけであった。政府 終戦前後  {著者}織田 作之助 著者 「新生日本」1945(昭和20)年11月 NDC 914 新字新仮名 046352 000040 1913-10-26 1947-01-10 2699
46 の山林の管理人は少し 低脳 らしいとか、だからあ パノラマ島綺譚  {著者}江戸川 乱歩 著者 「新青年」博文館、1926(大正15)年10月~1927(昭和2)年4月 NDC 913 新字新仮名 056651 001779 1894-10-21 1965-07-28 78922
47 あ、武子っていう女は 低脳 だよ」 たしかにこん 九条武子  {著者}長谷川 時雨 著者 「近代美人伝」サイレン社、1936(昭和11)年2月 NDC 281 911 新字新仮名 045980 000726 1879-10-01 1941-08-22 17284
48 迷探偵が何かにつけて 低脳 そのものゝ智者ぶりを 探偵小説を截る  {著者}坂口 安吾 著者 「黒猫 第二巻第九号」1948(昭和23)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 042842 001095 1906-10-20 1955-02-17 2819
49 明察となると、これは 低脳 と云わざるを得ない。 探偵小説を截る  {著者}坂口 安吾 著者 「黒猫 第二巻第九号」1948(昭和23)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 042842 001095 1906-10-20 1955-02-17 2819
50 占めている。  この 低脳 ぶり、無能無策の頭の 探偵小説を截る  {著者}坂口 安吾 著者 「黒猫 第二巻第九号」1948(昭和23)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 042842 001095 1906-10-20 1955-02-17 2819
51 偵が思い入れよろしく 低脳 ぶりを発揮し、一方に 探偵小説を截る  {著者}坂口 安吾 著者 「黒猫 第二巻第九号」1948(昭和23)年7月1日 NDC 914 新字新仮名 042842 001095 1906-10-20 1955-02-17 2819

 

1 なかつた。  子供は 低腦 な圭一郎に似て極端に 崖の下 {著者}嘉村 礒多 著者 NDC 913 旧字旧仮名 001336 000249 1897-12-15 1933-11-30 18084
2 もにともにかう呟く。 低腦 め!  さて、僕の小 道化の華 {著者}太宰 治 著者 「日本浪漫派 第一巻第三号」1935(昭和10)年5月号 NDC 913 旧字旧仮名 000255 000035 1909-06-19 1948-06-13 35358