資本主義社会の崩壊と音楽ビジネス(3)

 柄にもなくこんなテーマで数日考えたりしてみたので、自分でも混乱してしまい、そのあげく「資本主義社会が崩壊する。」→「資本主義に乗っかってきた音楽ビジネスはどうなっちゃうんだろう?」→「オレ自身のことを考えてみるとまさに典型的な資本主義的音楽愛好者だ。」→「ってことは、音楽ビジネスも崩壊して、オレも無用な存在になるんじゃないか。」みたいな単純な結論に陥りそうになった。

 しかし、たまたま阿久悠氏について書いたものを読みながらいろいろ思い出していくうちにつくづく思ったのは、「やっぱ、面白かったよなあ。資本主義的音楽は。」ということだ。その代表がまさに歌謡曲だったわけだが。

 ただ、過去の図式がもう今は当てはまらないのもよくわかる。だけど、仮に世の中の経済が終わりなく下降線をたどっていくにしろ、資本主義社会がなんとか維持される限り、エンタテインメントによる何らかの「夢」は生み出されていかなければならないだろう。資本主義音楽(文化)を堪能した僕のような世代は、そのいいところと反省点を検証しながら、今の世の中をしっかり見据えて、単なるノスタルジーじゃない「リプレイ」を作っていくのが、当面の仕事だ。
 資本主義的音楽を堪能しすぎた僕は、自分の嗜好にこだわりすぎて世の中をしっかりみていなかったのが、反省点だ。

 阿久悠氏は作詞家の仕事に乗り出そうとするときに「作詞憲法十五条」というのを作ったらしい。
美空ひばりによって完成された流行歌の本道と違う道はないだろうか」とか
「そろそろ都市型の生活の中での、人間関係に目を向けてもいいのではないか」とか興味深いものが多い。

 時代に正対していると、その時代特有のものが何であるのか、見えるのではないか、とも語り、続いて最後に「歌は時代とのキャッチボール。時代の中の隠れた飢餓に命中することが、ヒットではなかろうか」。時代とのキャッチボールが今も成立するかどうかわからないし、「饑餓」という言葉も今のご時世変にリアルな響きを感じてしまうが、時代をまっすぐ見据えて真剣に戦考え抜くことは大事なのだろう。



 

資本主義社会の崩壊と音楽ビジネス(2)

 性懲りもなく昨日の続きを、、。

「ポピュラー音楽の世紀」(中村とうよう著。岩村新書)という本を最近読み直した。
 これは20世紀を「ポピュラー音楽の時代」と定義して、主要な国(音楽史的に)で起こった音楽の動きをまとめた読み物だ。クラシックなどは絵画などと同じく、純粋芸術で個人の才能によるもの。民謡、民族音楽は一般の人たちが日々の暮らしの中で生み出したもの。そして、ポピュラー音楽はその両方の要素を持っている。個人の才能で生み出されるが、同時に大衆の聴きたい音楽を大衆に変わって作り出されるものでなければならない、と冒頭に明確に提示している。


 ともすると「売れ線」か「(売れ線じゃない)アーティスティック」という分類がされてしまうものだが、肝心なのは「本当に大衆が聴きたい音楽なのか?」ということで、これは今後、音楽業界がよりシビアに、でも先行きが読めない時代になる今、見直すべき原則だろう。


 他に読んでいくなかで、心に引っかかってきたのは「歌も音楽も本来は芸能だった」という部分だ。もともと、音楽はショウやエンタテインメントの一部として大衆に広まっていたものだったのが、音楽の商品化(レコードなど)が進んでゆく中で「音楽」だけ切り離されて広まっていった、という事実。著者は、そうであっても「演劇性」を歌にどれだけ内在化されるかが、聴き手の心に伝える重要な点ではないかと考察し「芸能の根っこを完全に断ち切ってしまった純粋な”音楽”などというのは、大衆の心には届かないのではないだろうか。」と言い切っている。


 また、レコードビジネスとまったく合致した形で推移してきたアメリカの音楽のほうが、世界のなかでは異例なのだ、という視点も僕には印象強かった。他の国では、大衆の中から生まれた音楽の流れが音楽ビジネスの中で生きているが、アメリカの場合は”資本の論理が貫徹されたレコードビジネス”の「企業担当者のアイディアだけで捻りだされる」「なんの根っこもない音楽」だと。よって、当たれば大きいけど、はずれた数ははかりしれない。それは大衆の声が反映されてないからだ、ということなのだろう。


 そこで、僕は自分自身のことを考える。僕が意識的に音楽を聴き始めたのが、1970年代中頃〜後半。日本ではニューミュージックというジャンルがクローズアップされていったころだ。歌謡曲でもフォークでもなく、洋楽の影響をサウンド的に大きく取り入れた「都会的なポップス」だ。僕も当然、”こっちがかっこいい”と思って夢中になった。アメリカではディスコやAORといった「都会的な」ジャンルが現れ、60年代や70年代前半にハードなものやアーシーなものをやっていたロック・アーティストもどんどん聴きやすく「都会化」した作品を生んでいった頃だ。
ストーンズロッド・スチュワートがディスコっぽいリズムを取り入れたり、ドゥービー・ブラザーズAOR色を強めた作品を作った。ちなみに僕はどれも好きだけど。)

 しかも、この「都会」はリアルなものではなく、きらびやかなロマンティックなイメージを換気させる、空想の「都会」だ。今考えれば、資本主義社会が一般人に提示した、甘い夢の世界だったのかもしれない。

 そんな音楽を入り口にした僕は、”なんの根っこもない音楽”を愛好し続け、川で言うなら濁った底流には目を向けず音楽の「上澄み」のようなものをひたすら追い求めていたのかもしれない。ジャンルは問わずロマンティックで洗練されたものを。根源的なパワーより、センスやムードのようなものを。

 ただ、ディスコやAORなどは今の時点では十分「ダサイ」ものになってしまった。かえって僕よりもう少し下の世代、「ネオアコ」「クラブ・ミュージック」「渋谷系」などを経由した世代は業界にも多いし、音楽的な”センス”は全世代を通じもっともすぐれているだろう。今の30代だ。(厳密に言えば30代中頃から40才ちょっとくらいがコアなところか)
センスの良さと人間的なアグレッシヴさというのはどうしても相反してしまい、業界内でのパワグルな団塊〜ちょっと下世代にパワーゲーム(?)に負けておさえこまれがちなのが問題だが、、。

 僕のちょっと上から30代くらいまでの人たちはいわば「センス」至上主義の世代だろう。ただ、僕も含め、そういう嗜好を維持できたのも、経済的にも精神的にもそういう余裕があったからだというのは否めない。僕は自分を資本主義社会にささえられた、典型的な資本主義的な音楽愛好家だったのだとあらためて思い知る。

 昨日書いたように、資本主義社会が崩壊し「地獄の門が開いている」のなら、音楽業界で働く僕の世代から30代の人たちは今後どういうスタンスをとっていくべきなのだろうか。「センス」の良さを、どういうふうに作品に反映させていくのだろうか。

資本主義社会の崩壊と音楽ビジネス

 そういうタイトルをつけたくなっただけで、そんなたいした内容じゃないけど、、。

 リーマン・ブラザーズの経営破綻が大々的に報じられていた頃、スティグリッツという著名な経済学者がこれは市場主義社会にとって「ベルリンの壁崩壊」に匹敵するような象徴的な出来事で資本主義社会の崩壊を示している、というようなことをテレビで語っていて、何か茫漠とした不安感を、でもまだどこか他人事のような感覚で聞いていた。じゃあ、資本主義社会の拡大に乗っかって繁栄してきた音楽ビジネスはどうなっていくんだろう、とも思った。
 
 そう考えると、ほぼ時を同じくして報じられた小室哲哉氏の事件も、単に一人の大ヒットプロデューサーの栄光と失墜とかいったことではなく、ここ何十年もの間繁栄してきた音楽ビジネスのシステムそのものが崩壊しているのだという、大きなサインとして受け止めるのが正しいのかもしれない。

 ただ、資本主義、市場主義社会の崩壊、と言われても、それに取って代わる革新的なシステムはないわけだから、例えるなら、相当年季の入ったあちこちガタがきている車に乗りながら、安全運転に気をつけるような賢明なやり方を探っていくしか、今のところはないのだろう。
 音楽ビジネスも市場規模の大幅な縮小はもはや避けられない(ミリオン、ダブルミリオンとかが連発された時代の方が、本来の音楽の市場規模からしたら過剰に膨らみすぎたわけで、その規模を維持しようとしてきた、さまざまな「無理」がここへきて、リバウンドを生む結果となったのだろう。)わけで、そうなっても、もしくはそれに変わる何らかの「価値観」は生み出していかないと、これからはしんどいんじゃないかなあと思う。
 業界の外から見たら、なんらかの「魅力」を放ち続けている産業であってほしいし、従事する者にとってはやり甲斐のある仕事であってほしい。なんかきっと「お金」以外の価値観もとても大事になっていくような気がする。それとも、こんな考えは奇麗ごとに過ぎないのだろうか。


 それにしてもアメリカの音楽不況は日本にかなり先行して深刻なものらしく、LAから帰ってきた知人が有名な大型CDショップが次々と閉店していて、電気量販店のしかも奥で(店頭のメインはゲーム)ひっそりと売られていると言ってたし、ネットニュースでマンハッタンのヴァージンメガストアが来春閉店し大型CDショップが完全に消えると報道していた。エンタテインメントビジネスの中心地、マンハッタンとハリウッドから大型CDショップが消えていくというのは、象徴的なことだ。アメリカは日本より音楽配信が定着しているからぜーんぜん問題ない、ということではないだはずだ。


 とにかく、未だかつて経験したことのない世界にいま向かっている訳で、(五木寛之氏は近著「人間の覚悟」で第一章の冒頭でいきなり、いまの世の中について「地獄の門がいま開く」と書き出していて、「そ、そんな、、」とビビったけど)確実な対処法などないし、処方箋のようなものは人によってきっと異なるだろう。やれることは、ひとりひとり一生懸命考えつつ、しかも周りの信頼できる人たちと話し合いながら、こっちだ思う方向に向かっていくことなのだろう。

ari「アカシア」

vozrecords2008-12-10

 ボズレコード第1号アーティストのariさん。現在はレーベルを離れて活動をしているが、新しいアルバムを作ったとのことでさっそく聴かせてもらった。
 今回はどこのレーベルにも所属せず、完全に「自前で」アルバムを完成させた、ということにまず驚かされた。しかも、ホームレコーディングではなく、きちんと外のスタジオを使い、タイトル曲「アカシア」では生の弦まで入れている。
 ここ数年自分のスタイルを模索しながら、自力でがんばっている様子が伺えたのだが、その結実が今回のアルバムなのだろう。本人は限られた時間の中で慌ててやった部分もあると言っていたが、いやいや丁寧にこだわって作られていて、いい意味でアーティストの手作りの感触というか「熱」が伝わってきた。
自主制作っていうのは本来こういうもののはずだったんだよなあ、と教えてもらった気がする。今後、アーティストを目指す人にとって、完全に自前で一枚作品を作ることはとても大切になると僕は思う。自分のやりたい世界を完全に自分の責任でやってみる。そこから学べることは少なくないと思う。

 曲として個人的には「Quiet Afternoon」という曲が70年代スタンダードポップス的な優しい情緒感があって良かった。彼女の曲の歌詞を多く手がけている山里ありささんの歌詞も何気ない言葉遣いなんだけど相変わらず素晴らしい。あと、彼女のレパートリーの中でも屈指の名曲「マリー」のライヴ・ヴァージョンも入っている。本当に誰かカヴァーしないかなあ。

 この「アカシア」は彼女のライヴ会場、そしてこの作品をレコーディングしたスタジオレダ(ボズレコードの矢舟テツロー、川合辰弥もここで録音している)のHPの通販ページで購入できるとのこと。

馬飼野康二

 最近の日本のヒット曲で「おおっ」と思ったタイトルは「真夜中のシャドーボーイ」(Hey!Say!JUMP)だ。80年代によくあった洋楽の日本語タイトルを思い出させる。なんだか意味がよくわかんなくても気にならない、そんな「ノリ勝負」な語感に久々にぐっときた。タイトルだけじゃなくて、実に曲もよく出来ている。これぞジャニーズ歌謡という見本のようなメロディーだ。
 作曲は馬飼野康二さん。ネットで調べると今年で60歳らしい。すごい。この曲の次にオリコン一位になった関ジャニの「無責任ヒーロー」もこの人が書いている。まさにノリに乗っている。

 この10年くらいで筒美京平氏はすっかり「神格化」された感じがあって、最近の中川翔子の「奇麗ア・ラ・モード」(さすがに素晴らしいメロディーだ)のように意識的な「筒美京平」ワールドを求められているのに対して、今も現役の若手作家と競い合って勝利している感じの馬飼野氏の才能もまた驚異的なもので、もっときちんと評価されるべきだろう。

 僕もけっこう筒美京平作品は聴き直していたのだが、馬飼野作品は正直ちょっと軽くみていた。彼のヒット曲が明るく軽快すぎるものが多いこともあるかもしれない。でも僕が小学生のときにシングル盤を買った「愛のメモリー」(松崎しげる)や「傷だらけのローラ」(西城秀樹)などはかなり「濃ーい」曲だし、実は相当懐の深い作家なのだ。(そうじゃなかったら30年以上ヒットを出し続けるなんて無理だろうけど)

JASRACのページに彼のインタビューが載っていて読んでみると、キャリアの初期の頃に映画音楽をBGM用にアレンジする仕事を相当やっていたようだし、その後筒美作品をはじめさまざまなヒット曲のアレンジを手がけていて、その圧倒的な仕事量と、そしてそれをきちんと自分に吸収していったことが、彼のキャパシティーを広げていったことは想像できる。

 僕はけっこう長く作家の作品提供の仲介みたいなことをやっているが、今は職業作家にはあまり恵まれた状況ではないなあ、と思うことが多い。メジャーレーベルの知り合いに聞いても、音楽学校の方の話でも、最近はシンガーソングライター希望が多いらしい。困難な時代になればなるほど、そんな中での自分の気持ちを全開にしてリアルに言葉にしていこうとする人が増えるのが自然だと思うし(ガス抜きにもなるし、、)、それを自分と同じ気持ちだ!などと共感する人も多いだろう。だけど、そういうものばかりになると、いっそう息苦しくならないのかな?とも思う。
 逆に、よくできたフィクション、現実を忘れさせてくれるような絵空事が気持ちをぐっと明るくしてくれることもあるはずだ。(そういう意味でアイドルというのは大事な存在意義があって、軽視してはいけないだろう。)そして、そういう大衆の気持ちを解放してくれるものを作れるのはほんとの「プロフェッショナル」じゃなければ無理だろう。

 この10年くらい、みんな「自分」にこだわりすぎていて、音楽の世界もそんな作品が増えていっているように思う。
 どんどん暗くなっていきそうな世の中だから、かえってよく出来た絵空事が、しかもアイドルじゃないジャンルでも作られてほしいなと思うし、そんな意識を持った作家を探していきたいなあ、と思う。

ペットサウンズ・レコード

 昨日は武蔵小山ペットサウンズ・レコードに初めて行った。
僕は、昔からビーチボーイズや古いアメリカのポップスも好んで良く聴いていて、そういった専門誌にもよく目を通していたのでお店の存在も店長の森さんの名前もずいぶん前から知っていたのだが、武蔵小山という土地になじみがないせいか、今まで行かずじまいだった。

 先入観から、洋楽マニアが通いつめるようなかなり個性的なセレクトをしたお店だろうと勝手に思っていたのだが、行ってみて驚いたのは、今はほとんど見かけることの少なくなった「町のレコード屋さん」といった風情にみちたお店で、かえってそこにすごく感激してしまった。
 通りに面したウィンドウには今一番の売れ筋のポルノグラフィティのベストの宣伝ポップがどーんと飾られているが、同時に店内にはビーチボーイズのデニス・ウィルソンのサイン入りLP(「パシフィック・オーシャン・ブルー」。僕の凄く好きなアルバムだ。)が何気なく飾ってある。
 当然、センスある古い洋楽のセレクションやちょっとマニアックな新譜もありながら、売れ筋の新譜もきちんと扱い、かつて大ヒットした歌謡曲やニューミュージックのカタログもある。音楽マニアでもない商店街のひとたちにも老若男女問わず対応しているのだろう、ということがはっきりわかる品揃えだ。

 今から20年以上も前、僕がレコード会社の営業マンとして、各地のレコードショップを回っていた頃、まだ、こういった個人のお店にも活力があって、店員さんとお客さんが親密に話をしている光景をよく見かけた。このお客さんはきっとこの曲、このアーティストを気に入るだろう、という目配りをきめ細かくやっていたお店も多かった。

 ネットの時代になって、アーティストが自身のサイトでお客さんとダイレクトに作品を送ることができるようになって、僕のような「仲介者」はいずれ用がなくなってしまうだろう、などと自虐的になることもある。だが、そこには抵抗感もあって、やっぱりアーティストと聴き手の間にいて「何らかの思いをこめたコミュニケーション」で繋ぐ役割は大事だし、そういった役割にいた無数の人たちが見えない力になってこの業界をささえてきたことはまぎれもない事実だ。
 ビジネス全般で、マスメディアに対する不信感、それによる口コミの効果の重視ということはずっと話題になっているが、不況が押し寄せてきている今、コミュニケーションを重視した販売のあり方を音楽業界も再考するべきじゃないかとも思う。ライヴ会場とか、音楽に関わる場所で、お客さんたちが昔より「交流」を求めてきているムードも最近特に感じる。
 もちろん単純に、「昔の町のレコード屋さんの復権」という風にはならないとは思う。
でも、「音楽のパッケージを売る」という形がなくならないための大きなヒントはそこにあるし、音楽業界がこれ以上味気なくなくならないための、そして携わる人たちのモチベーションを維持させるためのヒントもまたあるように思う。

 と、えらそうに書いてきたが、変化の激しいこの業界の中で森さんがお店を維持してここまでやってきたのは相当大変なことだったろうなあと思う。こういうお店がまた少しずつでも増えればいいなあ。

「ヒットこそすべて〜オールアバウトミュージックビジネス」朝妻一郎

vozrecords2008-10-30

 9年ほど前、音楽出版社ソニーミュージックパブリッシング」に勤務し始めたとき、「なぜ音楽出版と呼ぶかというと、もともとこのビジネスが楽譜を印刷して売るところから来ているのだ」と説明されて、「へ〜」と思ったが、当然リアリティはなかった。僕が物心ついた頃はすでにレコードがばんばん売れていて「音楽ビジネス=レコード」みたいに刷り込まれていたのだ。レコード会社に勤めていた頃も音楽出版社はレコード会社の”サブ”的な存在だと思い込んでいた。

 バラエティブックっぽい編集になっていて読みどころの多いこの本だが、個人的には「ティン・パン・アレイの歴史」が興味深かった。「楽譜を売る」時代から今にいたるまでの流れがわかりやすく書いてあり、かつ具体的な事例を数多く入れることでリアリティもある。
 ひとつの曲がありそれを世の中に広めるという商売、ということでは今も昔も変わらない。驚いたのは、楽譜でも1800年代終わりには100万部を超えるヒットがあり、当時、すでに曲を歌ってもらうために、有力な歌手や関係者に強力なプロモーション(賄賂も含め)をし、やらせ(劇場の客席に”仕込み”の子供を入れて、歌が終わると感激したかのように立ってその曲のサビを何度も歌って、他の観客に曲のフレーズを刷り込むのだ)もどんどん行われていたということだ。
 「楽譜を売る」とは、どこか今とは違ったのどかなイメージを勝手に持っていたのだが、全然、現在ともひけをとらない熾烈なプロモーション、マーケティングが100年以上前から行われていたわけだ。
 当時、レコードはこどものおもちゃのよう存在で、一部の音楽出版社が曲の宣伝のため少し使う程度だったらしい。それがエンリコ・カルーソという歌手のレコードが爆発的に売れたことで、流れが大きく変わる。1903年のことだという。
100年以上前から、曲を売るビジネスはあり、それを広めるのに最も力があるもの(ミュージカルであり、レコードであり、ラジオ、映画、テレビ、、)が時代とともにかわり、その度に業界の流れというか、勢力図も変わっていったのだ。
 CDから配信へという流れも、この音楽ビジネスの歴史を振り返れば、いくつかの大きな変革のうちのひとつに過ぎない、ともとらえられる。ただ、僕も含めて関係者の多くがパッケージにあまりに慣れ親しみすぎて、とまどっているのだが、、。

 だが、ここに曲があって(もちろん何らかの魅力やパワーのあるもの)、それを多くの人たちに広めるためにありとあらゆる手を尽くす、という基本は変わらないはずだ。僕のような「アルバム」に慣れ親しんだ世代で、しかもレーベルをやっいる人間は、アーティストとのやりとりがどうしても、アルバムやミニアルバムを前提にした、複数単位のものになってしまう。でも、今後は「1曲単位」でやる必要もあるだろう。
 
 今後のアーティストは、これぞという「1曲」を徹底的に広めるか、逆にアーティスト自身のキャラクターや面白さを徹底的に強調していくか、どちらかに振り切らないとむずかしいのかもしれない。中間は、きっとない。(もちろん、これはちゃんと音楽でビジネスしたい場合だ。大きくは稼げなくても、自分らしいスタンスで好きなスタイルの音楽をやり続けることは、昔より可能になったし、そういう人にも個人的には頑張ってほしいと思う。)

 著者の朝妻氏は、音楽ファンとしてのモチベーションが変わることなく、音楽ビジネスの最もダイナミックで魅力的な時代を最前線で体感され大きな成果を生んだ希有な人物だ。「ヒット」の魅力にとりつかれ、そのアンテナがぶれることがなかったのだろう。強い熱意が音楽の神様に伝わった、数少ない人なのかもしれない
 今後、彼が経験したような、ダイナミズムは音楽業界にはきっと起きないだろう、と思う。でも、うらやんでもしようがない。「曲もしくはアーティストの存在が人々に広まってゆく」ことの快感や感動は今後も変わらないと信じるだけだ。