認知の欠陥とステレオタイプ脅威

私のADHDの症状は、インプット、つまり情報の取得から解釈を一定のクオリティで行うことができないというものである。主治医は、私が渡したレジュメを見て、「情報を取り入れるのが苦手、情報が頭の中に混在している状態なのではないか」と言った。

  

「それはつまり認知機能に問題があるということなのでは」「自分の解釈を信じてはいけないなら、何を信じればいいのか」という出口のない問いに直面することになる。実際問題、自分の判断を信じられないなら、何を信じればいいだろうか。主治医の発言に対する解釈においても、正しくとらえられているという保証などどこにもない。

 

私は認知機能が欠けているという理由で、基本的人権と自らの意思をないがしろにされることを常に恐れているのだと自覚した。自らの希望を示せば、「ADHDだから、できるはずがない」「ADHDだから、不適格だ」と言われるのではないかと。そして、実際、「私には認知機能が欠けている」という事実と自覚自体が私の意思を阻害しようとする。ADHDであるという自覚があるが故に、ADHDの特性をあしざまに言われてもそれを否定することができないのだ。自分の特性を理解できていないが故に、ADHDステレオタイプをそのまま受け取るしかない。私は、自分のADHD特性をいまだに擁護することができない。自分の能力を信じることができない。

 

認知機能に欠陥がある認知症患者や精神病患者は、身体拘束や自由の制限を受けている。人手不足の医療介護の現場がほとんどであり、それはやむを得ないとする医療介護関係者はたくさんいる。高嶋ちさこのダウン症の妹は、高嶋ちさこの機嫌を損ね、家の外に締め出された。世間(主に介護職関係者、ダウン症患者家族)はそれを「言いつけを聞かないダウン症患者にふさわしい対応」であるとしている。私の亡くなった祖父は、認知症になってから、自宅を離れ介護施設に移ることに納得できず、両親と対立した。その結果、両親との電話や手紙での意思疎通の機会を強制的に奪われた。これは仕方ないことなのだろうか。本来なら、無条件に自由を制限するのではなく、双方歩み寄って、言葉を重ね説明をし続けるべきなのではないかと思う。だが、そうはならなかった。認知機能が欠けているというのは、他者の説明を求める権利を奪うことを正当化しうるのだろう。そして、ADHDもいずれ、その意思を無視され、説明なしに権利を奪われてしまうのではないかという恐れを抱いている。だから、ADHDを隠して、社会に適応しなければならない。

 

認知機能の欠けた人間への権利侵害はすぐそこにある。そして、私は、それを恐れている。