『保育園落ちた』と『日本死ね』の違和感
保育園が足りないらしい。
都会では、保育園が不足していて子供達を預けて仕事にいく事が困難だという記事が世間を賑わせた。
そこから派生して、保育園が増やせない様々な弊害についてのニュースが目につくようになった。
そのような個人的な不満の矛先を日本の福祉全体に向ける事に、私は違和感を感じる。
SNSや情報発信の自由化が進むにつれて、企業に対して消費者が強く意見を発信する機会が増えた。
個人が福祉や市の公共サービスに対して意見を発信する機会も増えているのは事実だ。
しかし、保育園の抽選自体には何ら問題は見当たらない。
その地域の入園希望者の数が、受け入れ可能な人数よりも多ければ、当然抽選にあぶれてしまう人もいるだろう。
騒音や保育士の労働環境など、最もらしい理由を並べて福祉サービスに満足を得られない理由を並べた所で、何の意味があるのだろうか。
人はそれぞれ異なる生活環境の中で、不平や不満と向き合いながら生きている。
駅から遠いからといって、近くまで線路を引く訳にはいかない。
過疎化が進み近くの学校が廃校になった為に隣りの学区まで通わなければならない子供もいる。
個人の声が大きくなる事で、世論が政治を動かす事が美談のように言われるが、実際には、ただのクレーマーに他ならない。
シムシティという街作りシュミレーションゲームをやっていると市民からゴミ処理所を造れだの、発電所を造れだの際限なく要求が突きつけられる。
市民の為と思って、全ての要求に応えようとすると採算がとれず結局、市政は崩壊し目の前にディストピアが誕生する。
多数派の声であれ、声の大きな少数派の声であれ世の中の原理原則を無視して道理を通すと無理が生じる。
日が当たらないからといって隣のビルに悪態をついているようでは、何一つ変わらないのではないだろうか。