オリジナルな狂気(ケーキ)を焼く 〜映画『アダムズ・アップル』が特別な理由〜


《 調理にあたって、下ごしらえ 》

 

 

かつてブッダが到達した悟りの境地とはどのようなものであったか。それは例えばひとつを入れたらすべてが出てくる関数が通常の脳の働きに取って代わった状態だと言えよう。われわれは世界の諸相をまずイメージとして捉え、言葉によって具体化した上で論理に従って並べ替える。それらのパズルのピースが互いにくっついたり離れたりしながら形作られた連関の総体がおのおのの思考のベースになっていることは言うまでもない。例えば、リンゴという言葉を聞けば、赤い、丸い、おいしい、果物、青森、農家などの言葉が思い浮かぶだろう。もちろんこれらの語句には無限のバリエーションが考えられようが、いずれにせよ各人の頭の中でリンゴと結びついた“既に論理化が完了したイメージ”の範囲を超え出ることはない。というのは、本来あいまいで無関係なイメージが関わりを持つためには、必ずなんらかの論理性が必要になるからだ。さきほどの例に沿って言えば、リンゴであるから~色は赤い、形は丸い、味はおいしい、種類は果物、産地は青森、生産者は農家、といった具合に。つまり、aに対する応答は通常かならずaに近接するイメージの集合体=Aの中から出てくる。これをa’とした場合、aなる入力に対してはa’、bに対してはb’、cに対してはc’がきまって出力される・・・このような関数こそ、われわれが意識と呼ぶシステムを動かしている仕組みなのである。

 

 

ところが、われわれの経験には、aという言葉を聞いて、なぜかBに関わるイメージやCに属する言葉が連想されるケースが容易に含まれる。リンゴという言葉を聞いて、赤い、丸い、の代わりに、泥棒、映画館などの一見無関係な言葉が想起される場合がそれだ。このような経験の多くにおいて、当事者は自身の反応を説明することができない。つまり、なぜ赤いではなく泥棒が、丸いではなく映画館が浮かんできてしまうのか、それらのイメージが自己の内部においてどのようにリンゴと結びついているのか、論理性を明らかにすることができないのだ。こうしたイメージの混在は特に珍しいものではないが、生活の全般に及び始めると狂気に近づく。狂気とは、意識の関数にならって言えば、aの入力に対してa’以外にもb'やc'が出力されるという通常のエラーを逸脱するエラー、いつも必ずb'やc'が出力されてしまうという重大なシステムエラーを指す。つまり、赤い、丸い、とともに泥棒、映画館が連想される状態は正常だが、泥棒、映画館だけが連想される状態は狂気だというわけだ。「昨日リンゴ食べたらさー」という切り出しに「ああ、あの映画館ね」とか「この泥棒!」などと返す人物の姿を想像してみるといい。近代的な医療理念が浸透する以前、同性愛は精神疾患の一種と考えられていたが、これは、男性に対して女性、女性に対して男性が出力される恋愛関数が正常とされた時代における”誤った関数”であったためだろう。狂気が指し示す内容は歴史によって様々に移り変わるが、それをシステム化したエラー/出力のねじれた関数として扱う大枠には変化がない。

 

 

だがそもそも、些細であれ重大であれ、システムエラー/出力のねじれはなぜ発生するのだろう。a→a'式の関数が正常に機能するのは、関連するイメージが言葉の袋で仕分けされ論理のひもで結び合わされているからだ。とすれば、a→b’のようなねじれが生じてしまうのは、言葉と論理のいずれかもしくは両方に問題が起きているからではないだろうか。袋が破れていたり、ひもが切れていたり。19世紀末にフロイトによって創始された精神分析学は、こうした裂傷の要因を無意識の働きのなかに探り、言葉と論理を通じて形成される個人の物語=ストーリーに着目するに至った。われわれが普段認識している意識は、実は意識全体のわずかな陸地面に過ぎず、その周囲には不気味な無意識の大海が広がっている。前者の意識から言葉を取り出すことができるのは、それが“既に物語化が完了したイメージ”によって構成されているためだ。一方、なんらかの抵抗にあったせいで物語化を完了できなかったイメージは無意識の底へ沈んでいき、言葉にならぬ声を発し始める。この声を無視し続けていると、最悪の場合、訴えは心身の不調となって現れ出る。したがって、精神分析における治療とは、患者自身から発されている無言の叫びに言葉と論理を与える手助けをすることにほかならない。こうした名づけ直しの過程において、物語化を阻んでいた抵抗の内実が徐々に明らかとなり、裂傷が修復され、頓挫したストーリーが完成した瞬間、症状は自然と治癒する。治る、というより、症状がみずから去るわけだ。

 

 

これは、一見すると「迷子のb'が本来の家であるBのなかに吸収されていきa→b’のねじれが見事解消された」という事態を指すように思える。だが、より正確には、このような物語を意識内部に作り出す試みこそが精神分析なのだ。なぜなら、嘘であろうと本当であろうと、物語が完成しさえすれば症状は回復するのであって、そもそも当の本人が忘却している事柄の真偽を判定することなど不可能だからだ。では、自身優秀なドクターである物語化を邪魔する抵抗はどこから来るのだろう。それは、意識関数の範囲内で処理しきれない理不尽な経験から生まれる。「廊下を走り回っていたら怒られた」「ある人の悪口を言いふらしていたら殴られた」できれば避けたいような出来事だが、これらの経験は言葉と論理を使って一応ストーリー化できるため、無意識の出る幕ではない。ところが、あまりにも理不尽な出来事「見知らぬ人にナイフで刺された」「突然の事故で最愛の息子を失った」などの悲惨な経験においては、意味や論理を見出すことが困難であり、むしろそれを言葉にしようとすると傷を負う公算が高いため、無意識があえてストーリーを未了のままに留めているわけだ。一方、破片としての物語をより大きな物語のピースにはめ込むことで完了を代替する方法も存在する。「刺されたのは罪が浄化されるためだった」「息子を失ったのは神の試練だった」・・・おわかりだろう、宗教だ。精神分析を個人の物語の再インストールだとすれば、宗教はより大きな物語=世界観のインストールである。したがって、信仰者に神の不在を説いても意味がない。彼は神がいる世界ではなく、神がいる世界の物語を生きているのだから。いずれにせよ物語化は、世の中はそもそも理不尽なものだというナマの現実から身を守るための武器なのである。

 

 

程度の差こそあれ、 人はみななにかしらの物語を生きている。そもそも自分というストーリーが未了のままなら、今ここにいるわたしを過去に遡って語り起こせないとしたら、その人物は始終不安に苛まれるだろう。自分を物語化する経験を通してはじめて、われわれは自分であるかもしれないものや自分ではないものと親しむことができるようになるのだ。この通り、フィクションは可能性としての世界の物語化だから、宗教や精神分析と相性がいい。物語を生み出す宗教が創作における霊感を刺激し、物語を語りなおす(注釈をつける)精神分析がしばしば批評の具として用いられるのはそのためである。現実もフィクションも、物語化の手続きなしに読み解くことはできない。逆に言えば、ストーリーとして読み解く限りにおいて、同じ臨床上の知恵を使えるというわけだ。しかし、実のところ、あらゆる種類のどんな物語も生きていない人間も存在する。物語る機能が完全に壊れてしまった、エラーもシステムもすべてが区別なく一緒になってしまった、そんな人間の姿をぜひ想像してみてほしい。

 

手がかりに、ここまでの流れを関数化して整理してみよう。あくまでシステムの比喩として・・・

意識(現に把握されている意識)・・・a→a'、b→b’(※これはもちろんc→c'~z→z’を含み持つが、以下省略する)

無意識(の作用による一般的なねじれ)・・・a⇢b’

よって、いわゆる正常な意識は上記二つを統合した形態だと言える・・・a→a' or b'

狂気(ねじれの固定化・エラーのシステム化)・・・a→b'

無意識の訴えが症状として現れ出た状態(ねじれの常態化・エラーの頻繁化)・・・症状の程度や種類に従い、a⇢b’からa→b’まで矢印が濃淡を描く

 

 

精神分析の功績は、無意識の概念によって出力のねじれを構造化し、隠された内面のドラマを観察できるようにしたことだ。ねじれはただでたらめにねじれているわけではない。あるひとつのねじれa→b'が、現れるたびごとにa→c'、a→d’・・・とランダムに変化していく、などということはあり得ない。そこには必ずなんらかの法則、無意識による操作が存在する。こうした発見により、もし仮に狂気の正体がシステム化したエラーだったとしても、そのエラーはけっして修復不可能なものではないことが示されたわけだ。ただし、これはあくまで精神分析が用いるメスと縫合糸=言葉と論理が及ぶ範囲の事象に限られる。逆に言えば、あらゆる法則性を欠いたランダムな出力や自在にねじれる矢印の存在が確認された場合、精神分析ではたちうちできない。概念上、これこそが完全な狂気であろう。一行目を思い出してほしい。

かつてブッダが到達した悟りの境地とはどのようなものであったか。それは例えばひとつを入れたらすべてが出てくる関数が通常の脳の働きに取って代わった状態だと言えよう。

そう、完全な狂気とはおそらく、悟りに近いものである。ひとつのaを入力すれば、A~Zのすべてに関わるイメージがランダムに、時には複数出力される関数。ブッダ=お釈迦様が万物に慈愛をもって接することができるのは当然だろう。彼にとっては、人も虫も花も蛇もみな等しく価値がある=ないのだから。今この瞬間、目に映るなにもかもが同じものであるとともに違うものでもある。これは、単に平等と呼ぶにはなまやさしい、渾沌に満ちた恐ろしい世界であろう。言葉はイメージを区別するために、論理は区別されたイメージを繋ぐためにあるから、あらかじめいっさいの区別が失われた世界の暴力性の前にあっては無力だ。同様の理由で、精神分析も敗れ去る。人間を救済する理論としての精神分析が宗教に及ばないのはまさにこの点だ。宗教の強みは、言葉の限界を沈黙の言葉=信仰によって、論理の行き詰まりを保証された論理=教義によって乗り越えるところにある。

 

従って、完全な狂気の関数はこうなる。

完全な狂気(≒悟りの境地)・・・a→a'~z’

 

 

ところが、ここである戦慄すべき問いが浮上してくる。完全な狂気が、いかなる種類の物語にも頼ることなく直接に世界を経験する場合にのみ感得されるものなら、われわれが普段なにげなく口にする「ありのままの現実」とは、まさにこうした狂気の世界を指し示すのではないだろうか?なぜなら、ありのままの現実、人間の手が加えられていない自然の事象は、言葉の袋で仕分けされたり論理のひもで結び合わされたりしていないはずだからだ。それらはすべて、なんらかの物語をつたって認識可能な“現実”まで上昇してくるに過ぎない。裏を返せば、物語化できない理不尽な出来事の集積=ありのままの現実こそ、完全な狂気の正体なのだ。外側を覆う物語が剥がれ、露出した現実が狂気へと逆戻りする未来を回避すべく、人間は言葉と論理を使ってさまざまに文明を築き上げてきた。無意識による症状形成は、こうした人類規模における防衛の、個人的なレベルでの現れにほかならない。このように考えてみた場合、われわれは永久に現実に触れることができない、という結論が出てくる。それが可能なのは悟りを開いた聖人か狂気に蝕まれた者だけだろう。いやむしろ、こう言った方が正確か。それぞれの物語を介して現実を遠ざける努力を通じてのみ、われわれはようやく“現実”を生きることが可能になるのだ、と。

 

 

さあ、いよいよ下ごしらえも大詰めだ。後の分析に役立てる目的から、改めて全体を整理すると・・・

意識(ねじれなし)・・・a→a'

無意識(ねじれ)・・・a⇢b’

症状(ねじれの発生)・・・a⇢b’~a→b’

狂気(ねじれの固定化)・・・a→b'

完全な狂気(ねじれのランダム化)・・・a→a'~z’ = ありのままの危険な現実

 

となる。

 

 

 

《 調理 》

⚠︎調理に先立つ注意⚠︎

以下、映画『アダムズ・アップル』の具体的な内容に踏みこみます。まだ見ぬケーキの味をそこないたくない、という方はご注意を!

なお、登場人物のセリフを表すかぎかっこのうち、『』内は正確なセリフの引用、「」内は大意を意味します。

 

 

さて、意識を巡る関数モデルが出揃ったところで、ようやくアダムズ・アップルだ。あらすじを紹介しよう。

仮釈放中の囚人を更生させるプログラムの一環として、ある教会にネオナチギャングのアダムが送り込まれてくる。教会では、牧師のイヴァンとともに、中東系移民で強盗のカリドとアル中の肥満男グナー、二人の前科者が生活している。熱心な信仰者であるイヴァンは、都合の悪い出来事もすべて『悪魔が我々を試してる』試練として受け入れる極端なポジティブシンキングの持ち主だ。イヴァンに目標を立てるよう言われたアダムは庭に植えられた林檎の木から『デカいアップルケーキを焼く』と答え、教会での暮らしをスタートさせる。だが、どこかおかしい。立派に更生したはずのカリドは今でもガソリンスタンドを襲って金品を強奪しているようであり、グナーはいくら注意しても財布や携帯を盗むことをやめない。アダムはこうした現実をイヴァンに訴えるが、強引な解釈によって退けられてしまう。『根っからの悪党』を自称し、神の代わりにヒットラーという正義を信じるアダムは、イヴァンのこうした欺瞞をあらゆる手段を使って暴き立てようとする。ここに、問題を抱える妊婦サラ、教会と隣接する病院の医師コルベアが加わることにより、イヴァンのポジティブさの裏にある恐るべき秘密が明らかになっていく。一方、まるでケーキ作りを妨害するかのように、林檎の木はたびたびカラスや害虫による襲撃を受け、数々の啓示的な出来事がアダムのもとを訪れる。これにより、彼の信じる現実もまた変容せざるを得ない。かくして物語は、信仰と正義、妄想と現実、狂気と正常の境をダイナミックに往還しながら、予期せぬ笑いと暴力を伴って教会世界を支える核=イヴァンという症状に向かって開かれていく。果たしてアダムは無事にアップルケーキを焼くことができるのか?

 

 

魔法に満ちた特別な作品だ。この特別さの要因はおそらく、映画が物語化の機能を巡るドラマとして優れていると同時に、ありふれたヒューマンストーリーの枠を暴力的に逸脱していく点にある。実際、アダムズアップルはキリスト教の信仰を巡る卓越したドラマである。物語の鍵を握るイヴァンは『神はわたしの味方だ』と断言して憚らない聖職者だし、アダムの部屋に置かれた聖書は幾度もヨブ記のページを示して落下する。そもそも、原初の人類たるアダムがカラスや害虫に代表される暴力から知恵の実=林檎を守り、その成果をケーキとして焼く。という物語の大枠を暗示するタイトルからしてなにをかいわんや。しかし、ある意味でこうしたわかりやすい宗教的隠喩はブラフなのである。

 

 

それは、観客にとってだけでなく、アダムにとってもブラフとして働く。なぜなら、映画はアダムが教会に到着するところから始まるのであり、その場において無知である点で、アダムはわれわれとまったく同じ条件だからだ。従って、アダムがイヴァンに連れられて教会にやってきたように、われわれはここから、アダムに手を引かれつつ、おっかなびっくりイヴァンという謎に満ちた境界(教会)の内部にわけ入っていくことになる。物語が進行するにつれ、とっつきづらく暴力的なアダムが親しく思え、反対に、外面上紳士的にふるまうイヴァンの不可解さが際立って感じられてくるのはそのためだ。アダムズアップルの基底を成すのは、イヴァンという複雑な症状を巡る観察のドラマである。われわれはアダムとともに、教会に関わる人々の協力をあおぎつつ分析医としてこの現場に立ち合うだろう。

 

 

さっそく診察を開始しよう。

ほとんどの病気がそうであるように、ささいな違和感の積み重ねが症状を疑うきっかけとなる。違和感とは即ちねじれ(a→b')であり、曲がったことが大嫌いなリアリストアダムはねじれの存在を許容できない。あらゆる矢印をまっすぐにし、ただちに自分の信じる現実(a→a')の中に組みこまなければ安心できないのだ。彼にとってのねじれは、現実をありのままに見ようとしない宗教とそれを覆い隠す偽善を指すから、イヴァンについてこれらを暴こうとすればするほど、無意識において挫折した物語を肩代わりしてしまう。ねじれを正そうとするあまり、うっかり精神分析医の役割を演じてしまうわけだ。イヴァンの症状が複雑であること、アダムが分析医として未熟であること(そのため、言葉と論理の不足を暴力で補わざるを得ない)の双方が相まり、この治療においては意識関数のすべてのモデルが疑われることになるだろう。順に見て行こう。

 

 

・ねじれの発見(a→a' ⇒ a⇢b')

最初に、アダムがイヴァンのねじれを察知していく過程が描かれる。両者の相違は、この段階ではまだ偽善 vs 正義という表面的なレベルに留まっており、深層の物語は問題にならない。

ねじれ1、犯罪者更生の目的からして不真面目な『アップルケーキを焼く』目標を、イヴァンは喜んで受け入れる。アダムはとまどうが、前科者に寛大な態度を装う偽善と受け取る。

ねじれ2、説教中トイレに立った老人を執拗に責め立てるイヴァン。紳士的な態度の裏側にある傲慢を見て取り、偽善の疑いを強めるアダム。

ねじれ3、グナーに財布とケータイを盗まれカリドの上着に金を発見したアダムは、二人がちっとも更生していない現実を訴えるが、イヴァンは「自分の部屋と間違えたんだろう」「彼の貯金だろう」と強引に否定する。自らの指導不備を認めようとしない態度に苛立ちつつ、その強引さに少しずつ違和感を覚えはじめるアダム。ひょっとするとこのねじれは意図的に装われたもの=偽善ではなく、自然と浮かび上がってきたものなのではないだろうか·····かくして症状が出現する。

 

 

・ねじれから症状へ(a⤑b' ⇒ a⇢b'〜a→b')

望まぬ妊娠をした女性サラが教会を訪ねる。「脳性麻痺の子供が生まれてしまうかもしれない。生むべきか、生まざるべきか」サラの告白にアダムは真摯に耳を傾けるが、イヴァンはちぐはぐな受け答えを繰り返し、挙句クッキーを持ってくるようアダムに言いつける。涙ながらに窮状を訴えるサラの面前で、表情ひとつ変えずクッキーの数について“議論”するイヴァン。その後、取って付けたかのように「統計的に見て脳性麻痺の子供が生まれる確率は高くない。自分の息子も似た状況だったが、今では元気に成長している。安心して生みなさい」とアドバイスし、サラは一応安堵する。牧師としてあまりにも異様なこうした対応を目の当たりにしたアダムは、偽善の裏にある秘密の解明に乗り出す。

 

 

・診察の手引き(病院という外部)

アダム(とわれわれ)におけるイヴァン像の変容を助ける存在がコルベアである。教会と隣接する病院に勤務する医師である彼は、こころの医者である分析医に対置されるからだの医者であり、科学的合理性を信じて疑わぬ人物として描かれる。そのため、言葉と論理による分析が行き詰まり、暴力が生じたタイミングにきまって登場するのだ。教会は暴力の痕跡たるケガを通じて病院という外部に結ばれる。幾度も病院を訪れコルベアと会話を重ねるアダムと引き換えに、イヴァンがコルベアとほとんど身のある会話を交わさないことは象徴的だ。アダムに殴られたイヴァンが『病院に行ってくる』と言って外出するが、実際には行っていない事実が後に判明する。結論を先取りすれば、このくだりは、ケガを通じてさえ教会が病院に接続されない=自らの内部(妄想)を外部(現実)と繋ぎたくない、というイヴァンの無意識における抵抗を表している。理不尽な現実にさらされた宿主が傷つく危険性を察知した無意識が、物語を未了のままにとどめようとしているわけだ。ことあるごとに“議論”をふっかけるイヴァンの姿勢は、実は健全な議論をあらかじめ封殺する逆説から選択されたものなのだ。

 

 

・症状から狂気へ(a⤑b'〜a→b' ⇒ a→b')

オーブンでヤケドを負ったアダムは初めてコルベアの世話になる。「あいつは頭がおかしい」と毒づくアダムに、『確かに変わり者だが根は優しい男なんだ』とコルベアは言い、イヴァンの不幸な過去を明らかにする。彼によれば、イヴァンの息子は脳性麻痺で動けず、それを苦にした妻は自ら命を絶ったのだという。車中、アダムはこの“事実”をイヴァンに突き付けるが、「とんでもない話だ。息子は庭を走り回っているし、妻が死んだのは自殺ではなく不慮の事故だ」とまたしても否定される。しかし、後日連れてこられた息子は車椅子に乗っており、動くことはおろか話すことすらままならない様子。アダムがそれを指摘すると、イヴァンは「今日はインフルエンザで調子が悪い」とむちゃくちゃな言い訳をし、カリドとグナーは言葉を濁らせる。二人が既にイヴァンの症状を知っていたことがわかる。たまたまこの場面に出くわしたサラに「よくもあんな嘘がつけたわね!」となじられ、右耳から出血するイヴァン。ここにおいて暴力が初めての高まりを見せ、コルベアが現れる。アダムは彼から、イヴァンが脳に巨大な腫瘍を抱えていること、過去の不幸を受け入れられず自らに都合のいい妄想の世界を生きており、それを否定する出来事に会うと腫瘍が破裂して出血することを聞かされる。症状はついに狂気へと姿を変え、映画は隠された深層の領域に踏みこんでいく。

 

 

・診察の迷い(狂気か、本物の善か)

とはいえ、即断するにはまだ早い。診察には慎重な姿勢が求められる。ブッダの例からもわかる通り、純粋な狂気は極端な平等主義と見分けがつかない。イヴァンを支えるものが狂気だとしても、いや、そうであればあるほど、彼の偽善は本物の善だと言えるかもしれないのだ。こうした疑いにより、アダムの心は揺れ動く。議論の高まりからアダムに殴られてさえ、イヴァンは少しの怒りも見せず『病院に行ってくる』と平然と出て行く。ところが、瀕死の老人を見舞うシーンでコルベアがイヴァンの傷をからかうことから、彼がその傷を処置していない=本当は病院に行っていない(自分で手当てした?)事実が明らかになる。この不可解な行動の理由をどのように考えるべきか。暴力をふるったアダムをかばうための優しさと捉えることも、この時点では充分可能だろう。また、アダムが崇拝するヒットラーをイヴァンは『わたしは誰も否定しない』と受け入れ、今際の際にある老人に対しても優しい言葉をかける。その言動は相変わらずどこかピント外れだが、純粋な思いやりから発したものとも解釈できる。狂気か、完全な善か。イヴァンの姿をじっと見つめ、その都度考えこむ風のアダム。われわれにとっても見極めが難しいポイントだ。結局、コルベアから情報を得たアダムは、一連の不可解な言動を、他者への思いやりにではなく、自らの妄想を維持するご都合主義に由来するものと結論づける。だが、一瞬とはいえ固く閉ざされた彼のこころにためらいが生じたことはおそらく間違いない。であればこそアダムは、わずかでも情に傾きかけた自己を否定し去るため、躍起になってイヴァンの妄想を暴き立てるはめになるのだ。両者の正面対決は、いよいよ避けられないものとなる。

 

 

・荒療治(狂気の物語 vs 理不尽な現実)

イヴァンの信仰を正当化する根拠が妄想に過ぎないことを確信したアダムは、最終対決に挑む。この対決は、今や信仰vs正義という表層を脱し、イヴァンの妄想を担保する宗教とその物語を破壊する理不尽な現実との容赦なき衝突と化す。礼拝堂にかかった祭壇画の前で、イヴァンの罪を告発するアダム。「おまえの息子は脳性麻痺で動けないし、妻はそのショックで自殺した!おまえはヨブ記を読んでもいなければ、キリスト教の敬虔な信者でもない。都合の悪い現実から目をそらすために宗教を利用しているだけだ!こんな試練を与えたのは誰だ?悪魔ではなく神ではないのか?おまえの愛する神こそが、おまえをこんなひどい目にあわせたのだ!」ついに妄想の逃げ場を失ったイヴァンは、耳から血を流し倒れる。同時に、物語化としての宗教は過酷な現実の前に敗れ去り、狂気は正常に復調する·····かに思える。

 

 

・狂気と正常の交代劇(a→a'とa→b'の融和)

通常ならここでハッピーエンドだろう。だが、狂気から正常への回帰に終始する凡百のドラマと異なり、アダムズ・アップルが本領を発揮するのはここからなのだ。

時を同じくして、まるでアダムの目標を妨害するかのように、林檎の木はカラスや害虫による襲撃を受ける。やがて教会に雷(神鳴り)が落ち、言葉と論理を超えた奇跡が生じるに至って、アダムに一種の啓示がもたらされる。荒療治を経て、コルベアからイヴァンの余命がいくばくもないと聞かされた彼は、ついにアップルケーキを焼くことを決意する。一方、病院から帰ったイヴァンは、妄想を脱する代わりにいっさいの信仰を失ってしまう。ここは両者の立場が入れ替わる重大な転換点だ。イヴァンは妄想から現実へ、アダムは現実から妄想へ、いわばそれぞれが同時に世界観の移行を経験するわけだ。病院から教会へ戻る車中、それまではイヴァンが座っていた運転席にアダムが座り、イヴァンがかけるたびアダムがストップしていた信仰心溢れるナンバー(ビージーズのヒット曲「愛はきらめきの中に」のテイク・ザットによるカバー)を、他ならぬアダムがかけるに及ぶ。二人の立場が入れ替わったことを象徴する美しいシーンだ。けっして交わらなかったはずのa→a'とa→b'が少しずつ互いの境界を溶かしあいながら·····

 

 

・狂気から完全な狂気へ(a→b' ⇒ a→a'〜z')

ところが事態は美しいままでは終わらない。狂気の物語を失った世界に猛威を振るうのは、剥き出しになった危険な現実なのだ。

イヴァン不在の教会では異様な状況が出来している。グナーはますます酒に溺れ、かつてテニス選手であった栄光の過去にすがるかのように昔のユニフォームを引っ張り出す。カリドはまったく平静を失い、どこからか大量の銃火器をかき集めてきて落ち着きなくそれをぶっぱなす。一体どうしたというのだろう。妄想を克服したイヴァンがめでたく現実に復帰したというのに、これではまるで世界のタガが外れてしまったかのようではないか!ここで明らかになるのは、教会の秩序を支えていたのはイヴァンではなく、なによりもイヴァンの狂気であったという真実だ。なぜなら、そこに暮らす二人を繋ぎ止めていたものは牧師たるイヴァンへの忠誠心などではなく、ある重大な秘密=イヴァンの症状を共有しているという意識であったはずだからだ。そして、妄想と知りつつそれを暴き立てない挙動を通じて、いつのまにかグナーとカリドもこの症状に参加し、症状の一部となっていたのだ。現実への回帰という一見肯定的な出来事が場に混乱をもたらすのは、イヴァンの症状が皆の症状をつなぎ止める物語の核になっていたからにほかならない。このような症状の核、無理に解きほぐそうとするとすべてのひもがスルリとほどけてしまう無意識の結び目を、フロイト派の精神分析学者ラカンは症候(サントーム)と名づけた。症候が失われた世界に現出するのは、あの恐るべき渾沌、いっさいの秩序が失われた完全な狂気a→a'〜z'である。だからこそ、イヴァンの物語が失われつつあることを察知したグナーとカリドは、即席の症状を形成することでただちにこの穴を塞がねばならない。二人の奇行が、テニス選手時代のユニフォーム、強盗時に使用していた銃火器、という無意識においてそれぞれにもっとも愛着した形象を伴って現われるのはそのためである。

 

 

・完全な狂気から奇跡の現出へ(境界の消失)

したがって、イヴァンが復帰しても事態はまるで好転しない。彼の存在はその症候の不在を強調するばかりだからだ。かくしてあやういバランスで保たれていた世界は崩れ去り、ますますの混乱と暴力が高まっていく。その暴力が頂点に達した瞬間、事件は起こる。

アダムが所属していたネオナチグループが教会を襲撃し、もみあいになった末にイヴァンが銃で撃たれてしまうのだ(これは、アダムが未了のまま追い出した過去=無意識による報復とも取れる)。至近距離から銃弾を打ちこまれ、脳天をふっ飛ばされたのだから助かるわけがない。「現代の医療技術では、彼の命は救えない。医者であるこのわたしが保証する」とコルベア。ところがなんと、イヴァンは奇跡的な生還を遂げるのである!おまけに、弾がうまい具合に腫瘍を吹っ飛ばしてくれたおかげで、都合よく余命宣告までが取り消されるに至る。科学的にありえない事態に直面したコルベアは「こんな非科学的な場所にはいられない!」とばかり病院を去る。彼の退場は、からだの医学に基づく診断が役目を終えたこと、病院という外部が消失し(したがって教会という内部も消失し)、閉ざされた世界が大きく開かれた事実をわれわれに伝える。一方、さまざまな困難を乗り越え見事アップルケーキを焼き上げたアダムは、病院の中庭にイヴァンを見舞う。カラスや害虫に蝕まれ、もはや使用が絶望的かに思われた林檎の実は、グナーの盗み癖によって奇跡的な一個が確保されていたのだ。くつろいだ様子で、ともにケーキを食べるアダムとイヴァン。こうして二人の患者と分析医は、手を繋いで新たなa→a'のなかに帰還するのだ。

 

 

・診察の終わり(a→a'〜z' ⇒ 一周回って、新しいa→a')

ここに至って、映画は唐突に穏やかなムードに包まれる。カリドは決意して故郷へ帰っていき、かねてから惹かれあっていたグナーとサラと関係を深め、互いにこころの安定を得る。ラストは、数年後、すっかり髪が伸び、どうやら教会に住み着いたらしいアダムが、イヴァンとともに新たな囚人を迎えに行く爽やかなシーンで終わる。冒頭のくだりが映像的に反復されるわけだが、a→a'以外のさまざまな世界をアダムが経験し、それを受け入れた今、このシーンが以前とはまるで異なったニュアンスを持つことは明らかだろう。

 

 

ハッピーエンド。

治療困難に思われた複雑なイヴァンの症状は、ようやくここに完治した。アダムとわれわれが手探りで試みた精神分析は、どうやら成功に終わったらしい。全体の流れをストーリー化してみよう。
日常のささいな違和感が積み重なることによって、無意識において挫折した物語による訴え=症状としてのイヴァンが立ち上がる。症状はやがてシステムをのっとり狂気に至るが、それを駆動する妄想と正常な物語化を阻む理不尽な現実とは、対決の痛みを通じて徐々に融和していく。一方、イヴァンの症状はその境界(教会)内に暮らすグナーとカリドを繋ぐ無意識の絆=症候ともなっているため、ほつれた結び目から物語化不能の危険な現実=完全な狂気が姿を現す。言葉と論理が追い出され、恐るべき混乱と暴力に支配されていく教会。しかし、その暴力が頂点に達した瞬間、ある奇跡が起きる。これにより、世界は狂気に呑みこまれる寸前で踏み止まり、多様なストーリーを許容する豊かな現実のなかに帰還する。
精神分析における治療は、時に一方通行ではありえない。症状に関わるすべての人間によって、とりわけ患者と分析医の意図せぬ共謀によって、いかようにも推移していくのだ。そのため、イヴァンが現実へ回帰する物語はアダムの現実が変容していく物語でもある。a→a' ⇒ a⤑b' ⇒ a⤑b'〜a→b' ⇒ a→b' ⇒ a→a'〜z' と、すべての意識関数を順に経巡り、大きく回り道する経験を経て、ようやく二人はa→a'の世界にたどり着いたわけだ。

 

 

劇中の宗教的暗示がある意味で治療を阻む障害であったことは明らかだろう。キリスト教の信仰、ヨブ記に描かれる過酷な試練、林檎の木が象徴する原罪といったモチーフは、物語の進行を助け、その枠組みを補強する魅力的な道具立てではあっても、けっして本質を成すものではない。なぜなら、物語の構造は、なによりも精神分析的なドラマの力学としてわれわれの前に提示されたのだから。

 


しかし、映画が終わってもなお、観客のこころにはすがすがしさとともに一種のしこりのようなものが残るに違いない。果たしてこれでいいのだろうか、と。なるほど美しい幕切れには違いないが、なんだかうまくだまされたような気もする·····

こうした引っかかりはおそらく、イヴァンが撃たれた瞬間たちまち平和が訪れる唐突な展開と無縁ではないだろう。事実、イヴァンの生還という奇跡は、暴力の極限的な高まりによって導かれている。あの爽快なハッピーエンドは、アダムの正義、イヴァンの宗教、コルベアの科学、すべての物語化が圧倒的な狂気に敗れ去った時点にもたらされたものなのだ。つまり、ある意味でアダムズ・アップルは、人間存在による不断の努力が根源的な狂気の前に屈服する事態を承認している=狂気の存在を無自覚に肯定しているように読めてしまうのだ。このことをどう解釈すべきだろう?

 

 

だが、実を言えば、人間を救済する理論としての精神分析学が回帰してくるのは、まさにこうした局限、あらゆる物語化(宗教さえも!)がご破算になった地点においてなのだ。

言葉と論理によって無意識をストーリー化していく試みにおいて、いかなる物語にも組みこみ得ない大いなる裂傷の存在が明らかになる。つまりこれこそが症候(サントーム)であるわけだが、ラカンによれば、精神分析治療が目指す最終的なゴールとは、その傷から生じた穴に無理やり言葉と論理を当てはめることではない。反対に、その穴が空っぽであること、もともと空っぽであったことをありのままに受け入れることなのだ。一見脈絡なく思える展開、イヴァンの腫瘍がふっ飛ばされた途端に平和が訪れる唐突さは、実は症候のメカニズムと関連している。映画後半、アダムがコルベアの助力を得てイヴァンの症状を解明する過程において、症候(サントーム)は、こころの医学によってもからだの医学によっても除去し得ない不気味な脳の腫瘍となって立ちはだかる。これは、強引に物語化しようとすれば命に関わりかねない、無意識の危険な断片を表す。自らの危険性を知るがゆえに、このパズルのピースはあえてバラバラのままでいる道を選択したわけだ。ところが、アダムとイヴァンの直接対決によって、症候が属するバラバラなピースの世界=完全な狂気の世界は、無意識のほつれ目を通って徐々に“現実”の内部へと流れこみ始める。かくして暴力と混乱が漏れ出すわけだが、しかしこの危険な流入は、その最後に一発の銃弾を“現実”のなかに招き入れることによって、イヴァンの脳内から見事症候を弾き出すに至るのだ。したがって、あの事件はイヴァンという症候の“喪失”を意味するわけではない。そうではなく、症候は“空っぽ”になることで生き延びたのである。なぜなら、腫瘍を吹っ飛ばされた脳の部分は空白になるが、それでいてその空白はそこにあったなにかを主張し続けるのだから。つまり、症候は失われたのではなく、狂気を受け入れた結果、空白の形で再獲得されたわけだ。このように考えてみてはじめて、例の不可解な奇跡の所以が理解できるだろう。狂気に対する理性の敗北を描くかに思われたあの奇跡は、空っぽになった症候がもはや急迫の危険性を失った=イヴァンの狂気が“現実”のなかに正しく位置づけされた、という栄光を表すものだったのだ。混迷した展開の最後にハッピーエンドが招き入れられるのはそういうわけである。そして、イヴァンのように、治療不可能な狂気をオリジナルな個性として受け入れる姿勢こそ、ラカンの言う「症候とつきあい、ともに生きていく」ということなのだ。アダムズ・アップルが特別な理由は、精神分析治療において最も重要でありながら取り扱い困難な、症候のこうした段階を臆せず描いたところにあると言えるだろう。

 

 

人間は、正常を突っ切り現実に触れる性急さによって生の豊かさを享受するわけではない。反対に、少しずつ自らを狂気へ開いていく賭けによって、己の人生をよりよいものとすることができるのだ。

ありのままの現実を求めて手を伸ばす直接性は、裸のまま狂気に向かい合う危険性をも意味する。したがって、面倒でも、われわれはルートを再考し、多様な物語に思い馳せながら、じっくりと現実の周囲を散歩してみなければならない。そんな遠回りの果てに焼き上げられた、例のアップルケーキがなにを意味するかはもはや明らかだろう。アダムが作り出したケーキとは、イヴァンの、そしてかつて彼の教会(境界)に暮らしたすべての人々のよりどころとなる、オリジナルな狂気だったのだ。林檎の実の最後の一個、ケーキ作りに使用された奇跡的なその一個が、盗み癖というグナー固有の症状によってもたらされた事実を思い出そう。それは、この世界を覆う根源的な狂気=理不尽な現実をめぐる滑稽な道のりにおいて獲得されたものであるからこそ、新たな生活を導く輝かしい指針となるのだ。あのケーキの味と匂いを想像する時、われわれもまた、それぞれの狂気に向かって開かれている。

 

 

 

 

 

《 調理を終えて 》

 

 

下ごしらえ・調理に当たって、直接的な引用や参照を行った箇所はないが、以下の著作から少なからぬヒントを得た。感謝の意を表したい。

 

フロイト精神分析学入門』(懸田克躬訳)、中公文庫、1973年

ジャック・ラカンテレヴィジオン』(藤田博史、片山文保訳)、講談社学術文庫、2016年

・ポール=ロラン・アスン『ラカン』(西尾彰泰訳)、文庫クセジュ、2013年

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳)、河出文庫、2015年

鈴木晶『世界一わかりやすいフロイト教授の精神分析の本』、三笠書房、2002年

斎藤環『生き延びるためのラカン』、ちくま文庫、2012年

宮台真司『〈世界〉はそもそもデタラメである』、2008年

・アダムズ・アップルLLP制作・編集『アダムズ・アップル公式パンフレット』、2019年

 

また、苫米地英人大先生のYoutube上での発言が霊感源となった旨も合わせて記しておく(爆)

なお、記述に伴う事実誤認等の責任はすべて脱輪に期せられる。よろしくご教示頂きたい。

最後にスペシャルサンクスを、調理中ヘッドホンから幾度となく再生されたmassive attackの名曲「safe from harm」の歌詞の精神分析的な誤読を通じ、母へと捧げる。

“You can free the world, you can free my mind(=mama), just as long as my baby safe from harm tonight”

 

 

 

2020/01/25  調理責任者:脱輪

 

 

天使化する世界に取り残されて ~僕とアーバンギャルド~

今さらアーバンギャルドについて語ることなどあろうか。
語ることがたしかにあった世界をうっかり乗り過ごしてしまった今の僕に。だれもがかつてのアーバンギャルドとの出会い、その爆発の長い余波について語っているようにしか見えない。そうすることで初恋の甘さをせいぜい引き延ばそうとしているようにしか。
氷が溶け、いつか苦くなるアイスコーヒーはmixiに浮かぶ。僕は大学一年生で、オーフレンド(すれ違うなり、おう、と声をかけ、軽口を飛ばし合う大学生活における最も一般的な友)から強引な勧誘を受けた不気味への反抗として、毎日欠かさず日記をつけることにした。
当時、mixiは熱病であった。それは不安定な釣果に過大な危険を要求される出会い系から幾星霜、史上初めてカジュアルにドレスアップされた釣り堀の出現だったのだ。他にヤることもない大学生、野生の釣り人は連日その話ばかりしていた。
そんな話はしたくない。したくないのに、いてしまって、癪なので、堀のなかに生垣を作ろう。防衛のための言葉、攻撃としての日記だった。やり出すと凝り出す。生まれ持っての悪癖で(もちろん言葉はウィルスだ。このことは松永天馬の作詞法を理解する肝となろう)さまざまなスタイルを試みるうち、マイミクは増え、微音なファンが発生するに至った。(その結果僕の身に残ったのは女性嫌悪というささやかな宝石)
初期のmixiには足跡というシステムがあった。ちょっくら覗くだけで、泥ペタリ、その足跡を辿れば訪問者のページへひとっ飛び。松永天馬、だったか、アーバンギャルド・松永天馬だったか、ともかく珍妙なミクシイネームの足跡がついた日は覚えている。即座に泥ハネっ返し、かのページを訪れた興奮。おそらくはボーカリスト交替を受け『セーラー服を脱がないで』のPVが公開された頃であったように思う。そのPV(いったいいつからMVと呼びならわすようになったのだろう?プロモーション・ヴィデオをミュージック・ヴィデオと言い換える欺瞞、時遷に沿った変質は、プロパガンダ・ヴィデオなるアイロニーがもはや成立しない、という一事をもってしても悲しいまでに批評的である)を見て、ハマった。ズッポリ、まっさかさまに、僕はアーバンギャルドに堕ちたのだった。
『セーラー服を脱がないで』のPVを見た。繰り返し見た。風呂場で歌った。関西初上陸のライブに行った。どきどきしながら開場を待っていると、あ、すいませんと言いながらスーツ姿のきのこが出てきて入口のポールをどかした。客は10人ほど。ほとんどが身内と見受けられるなか、ライブは圧倒的で、天馬さんの目は人殺しの目だった。後にも先にもあれほどの恐怖を感じたことはない。物販で『修正主義者』のCDを買うとFREEと書かれたブロマイドがあり、何枚でもいいですよーときのこが言うので全部つかみ取る。家に着いて、見返すと、アーバンギャルド・物販と書かれたプラカードまで入っていた。甘美な窃盗。
『少女は二度死ぬ』は、通販で買ったのだったか、不思議になつかしい筆跡が住所をなぞっていた。全曲聴き、mixi日記に全曲レヴューを書いた。拙い文章だったがメンバーが褒めてくれ、特に天馬さんは「われわれがもらった評のなかで一番いいもの」とまで言ってくれた。これをきっかけに始まった交流とも呼べぬ接触について少々。
『少女は二度死ぬ』全国発売を受けアンダーグラウンドな某雑誌への寄稿を依頼され、書いた。もちろん当時はただの大学生、今はかろうじてただの人。見返りにパスをもらい、何度かライブに行った。二人並んで対バンを見る光栄にも浴したが、どの演者に接してもぴくりとも動かずくすりとも笑わぬ目が忘れられない。普段は屈託なく穏やかな印象だったが、やはりこちらの、人殺しの目で世界を観察する天馬さんこそ真実だろうと今でも思っている。今度ツイッターで対談するので司会を、と言われ、丁々発止のやり取りに翻弄されつつ任務に務めた。夏の暑い盛りであったか、僕は姉の家で留守番をしていて、熱が38度あった。死ぬかと思った。ベランダで姉が内緒で飼っていたうさぎが死んだ。対談の数時間前、ふらふらしながらペットの葬儀屋を呼ぶ。このたびは、ご愁傷様です。うさぎのフンみたいなほくろを鼻にくっつけた男は、しきりに汗をぬぐいながら、では、と言ってぽきりと足を折り、いましがたショートケーキが入っていたような箱に死体を入れた。


天馬さんとの交流はこれきり終わる。それから後、僕はアーバンギャルドの商品を買うことをやめ、発売のたび友達に貸してもらう程度のファンになりゆるやかに流れを追った。その流れも、今ではほとんど途絶したと言っていい。一度は書き落としたが、僕はアーバンギャルドの音楽のファンであるよりむしろ松永天馬の言葉のファンであったかもしれない。ある時期までの“松永天馬の記憶の記録”は、からしの効いた広報ではなくテキストブログの幽霊だった。初めて目にした記事は、山内志朗の『天使の記号学』を紹介する内容で、これはのちに大切な本になった。エヴァンゲリオンに代表されるネオプラトニズム的な潮流に抗い現代における身体のリアリティを探る福音の書。松永天馬の言葉から見過ごされているものは、もしかしたら天使的な直観であるかもしれない。サブカル(身の毛もよだつほどむなしい言葉だ)めいた参照は子ども部屋における記憶の宝探しに過ぎない。探しているはずの子どもは、両性具有の、それだから無性の天使。いったい、松永天馬という人ほど哲学から縁遠い芸術家もいないだろう。必要ない、とも、見放されている、とも言える。天使的な言葉は(さまざまな引用の衣を脱ぎ着しようと)骨の非力と美しさである。哲学や思想の肉付けに憧れながら、どうあってもそぐわないからだがひとり立っている。その孤独に惹かれるのだ。
松永天馬の作詞法がだれに似ているかというと、秋元康。なにも秋元康を天使的だなどと言うつもりはないが不承不承言わねばならない。問題を差し戻すようで恐縮だが、アイドルという未明の身体器官について僕は言おうとしている。男が女目線で書いた言葉を女が歌う、ということはよくよく考えるに、いったいどういうことなのだろう?その歌を歌っているのはだれか?その歌が歌われるとき拍動する発声器官は、疑いようもなく天使的なのではないだろうか?


この原稿の依頼を受ける数ヶ月前、『天使の記号学』が文庫化された事実は天啓のように感じられる。
僕がアーバンギャルドにハマり、徐々に興味を失っていく過程においてなにが起こったか。
それは世界の天使的な均一化である。音楽産業において特徴的なのは、なによりもロックが死んだことだろう。試みに昨年のビルボード年間ヒットチャートトップ100の“MV”を見てみるといい。だあれも楽器持ってない。片手に酒、またはリーン(USで流行中のジュースに溶かしたドラッグ)、ひたすらに踊り狂っている。いわゆるバンドの形式は2割にも満たない。ヒップホップである。ここ10年でヒップホップはチャートからロックを押しのけ、またたく間に覇権を握ってしまった。中学時分からヒップホップを愛聴する身としても、まさかこれほどメインストリームの音楽に押し上がろうとは予想すらしていなかった。メインになったのはオシャレになったからであり、広い意味でのファッションに関わる。ブサイクでイカつくてこわい、という従来のラッパーイメージとは真逆に、昨今の若手ラッパーはイケメンで細身でかわいらしい。そしてどこか中性的である。この中性的の一点、天使的な領域に向かってあらゆる識別されたゾーンがずるずるべったり雪崩起こして混ざり合っているというのが僕の認識だ。
徴兵制度が現存する国のサイボーグ・メソッドによって性差を超えた美を体現する韓流アイドル、そのメイクと美容法を真似#metoo!の叫びの重たさ(昨今のフェミニズムの高まりは無性になりたいという真の欲望を隠蔽するように思える)を脱し軽やかな天使になろうとする若者たち、スポーツとストリートががっちり手を組み女子は口紅真っ赤FILAかChampionのパーカー、男子は短髪ノーワックス、ユニクロ無印ZARAのシンプルな黒ずくめでキメた見本市は、昨今のSupremeとNorth Faceの急激なブランド価値上昇と呼び合う。ネット出身ラッパーやゲーム実況の男の子たちもこのように装われたナチュラルな出で立ちで、多くが一重か奥二重、獣じみた男性性を感じさせぬふるまいにかわいいかわいいと女子から投げ銭もらう始末。その一方では、議論すべき問題はいつの間にか/既に議論し尽くしたという身振りを伴う強迫的な個体差の容認があり、LGBTの問題(やるなら徹底的にやらねばならないし深入りしたくないのだが、これだけは言っておこう。同性の友達から愛を告白されたらどうする?と、自分がその時どうするかは別として全体の権利は保証されるべき、という二つながらの視点を同じ領域で捉える必要があるのに、そうした観点がすっ飛ばされているように感じる)だの大森靖子やミスiDやCHAIの多様なかわいさの押し付け(おぞましい!なぜなら、多様なかわいさはただひとつの天使的な美に関わる特性を残酷にも容認してしまうからだ。つまり、かわいければなんでもあり、だから、かわいくなければなんでもなし。天使的でないジェンダー観、個性とやらにかかずりあう主体そのものがキモチワルイのだと)が浮上する。
ことほどさように、現在の日本を取り巻く文化状況は、天使的な領域の大渦に多様な文化圏が一緒くたになって引きずり込まれ、本来対決によって得られるべき傷と勲章をノンジェンダーニヒリズム(ノット、ジェンダーレス)によって留保したまま、だれもがあいまいな融和の快楽に浸っているように思える。その融和とは、あらゆる対立のなしくずしの混濁だ。ヒップホップがロックの王権を打倒した後に招いたのは、言語の同化形式であるラップとオートチューンの異化作用があらゆるジャンルを消化・平均化する事態であり、はっきり言ってみんな上手いけどみんな一緒、でこれが昨今の若手ロックバンド(といってもその実態はAORとソフトファンクと渋谷系の混成でちっともロックではない)にもピタリ当てはまり、男は前髪垂らして幼児性を強調しながら甲高い声で歌い、女はかつて男にのみ許された領域にかわいいの領土を広げ(といった次第で斬新、型破り、掟破りなアイドルたちのメディア出演と相成るわけだが、この掟破り自体が常套の掟と化しつつある)、ユニセックスの衣料がストリートからも高級デパートからも同様に提唱され、かつて個性を競った愛すべき勘違いファッションはほとんど街から姿を消し、無地を基調とする洗練された装いに身を包んだカップルたちが溢れかえる。
だから、繰り返すが、ここで起こっている事態はフェミニストが言い立てる女性の地位向上でもなく、おっさんが嘆き悲しむ男性性の価値暴落でもなく(いずれもある程度はその通りなのだが)、両性の、あるいはかつて盛んに叫ばれた個性の季節の廃絶、得るべき代償を同化の快楽に溶かしこみながら進行する、世界の無性化・天使化なのである。


例えば僕が感じている違和感はこんなふうだ。
自分らしく、が真に歓迎されるなら、男は男らしく、女は女らしく、という生き方も容認されてしかるべきではないだろうか?そのように“旧弊な”価値観すら、“新しい”自己像のヴァリエーションのひとつとして迎え入れられるべきではないか?
なにもそうした生き方こそが正しいなどと言いたいわけではない。だが、新しい時代の平等が、あり得べきすべてのヴァリエーションを抱き込めないというなら、その平等は真っ赤なニセモノだろう。それは建設の仮面をかぶった破壊、新天地に移住するためなら腐敗した大地を洪水で押し流すことすら辞さない、論理の暴力性である。
現在蔓延しつつある無性化の兆候を僕が天使化と呼ぶのは、こうした神話的な性格にも関わる。だれの目にも愛らしくかわいらしい存在である天使は、子供をいけにえに差し出すようアブラハムに要求する天使でもあるのだ。神の意志を伝達するメッセンジャーとしての天使は、透明で無責任な世界の残酷さそのものではないだろうか?
自分らしく、という大目標を万人が等しく達成できる世界が、絶えざる闘争の果てに少しずつではあるが着実に実現されようとしているーーこのような一見希望に満ちた歴史認識が無自覚に圧殺してしまうものは、個性を確立できない無個性な生、平凡な自分を生きていく自由である。このまま行けば、こうした生き方は、自己実現から逃げている、勇敢な選択を放棄する姿勢と見なされるようになるだろう。いわばその者の現在は、大いなる流れのなかで中座した過程として理解されてしまうわけだ。
しかしこれだけは言っておきたい。個人の現在はどこまで行っても現在であり、ありもしないストーリーの途中経過と断じる権利はだれにもない。
単純な話、男らしく生きるのがその人らしいならそれでいいはずなのだが、ジェンダーが文化的に捏造されたものであることを理由に(しかし、文化的に作られたものでない文化的な生き方などあり得るだろうか?)、それを許さぬ圧力がさまざま働いているように感じられる。圧力、と言うといかにも被害妄想じみて聞こえるかもしれないが、それは大抵「そんなネガティブにならずにさ、もう少し一緒に考えようよっ☆」的応援に装われているのだ。覚えない?
勝手に絶望する権利も、勝手に自殺する権利も、わたしにはある。
ひとまずはそのように断言できる自由こそが保証されるべき最低限の自由であり、これを容認しない国家も、フレーフレーで押しとどめようとする風潮も等しく危険である。なぜならここには、個人の心身の健康を管理調整することによって、集団を良きものにするという全体主義の思想が潜んでいるからだ。


例えば、煙草。僕は分煙にはおおいに賛成だが、いったいいつからその方針が完全禁煙=喫煙者廃絶の大目標にすり替わってしまったのだろう?
立場を明確にしておくなら、僕は喫煙者だ。だからもちろん、まいったな〜、こまるよな〜という気持ちもある。だがなにより恐ろしいのは、議論がすり替えられる手際の鮮やかさ、いや、むしろ鮮やかでないことを隠そうとすらしない奇妙に確信犯的な態度だ。誤解してはならない。われわれが目にしているものは、引田天功のイリュージョンでも、一流詐欺師の手練手管でもないのだ。あえて戯画化するなら、それは後ろ手にナイフを隠したシロートのマジックショーである。今のアタリでしたよね?ね?とナイフをチラつかせながらハズレのカードを指差されるうち、観客は先んじてアタリを叫ぶようになってしまう。
分煙やたばこ税増税電子タバコ導入の是非を巡る議論は、ほんの少し前まではたしかに“今のこと”としてあったはずだ。ところが完全禁煙というジョーカーの発動により、これら議論は最初からその大目標に至るまでの途中経過であったかのような外観に塗り替えられてしまう。大企業によるユニークな禁煙“応援”キャンペーン、有名大学の喫煙者排除の人事策、今年4月の改正健康増進法の施行。かくしてだれもが率先して記憶喪失となり、やがてはあったはずのすべてが本当に忘れ去られてしまうのだ。
あれ?なんか変じゃない?でもでも、最初からそうだっけ?う〜んそっか、記憶違いか、そっかそっかそうだったな……
自分らしさも、完全禁煙も、貫く背骨は同じである。それは個人の所有にかかる今を、集団が設定したゴールに至るまでの途上と断じ、ガンバローネ!のかけ声とともにより良き全体に回収してしまおうとするグロテスクな世話焼き根性である。


そもそも、人身への被害を理由になにかを禁ずるというなら、煙草より先に自動車を撲滅しろと僕は言いたい。
仮に煙草が緩慢な死を招くとしても、交通事故が毎日直接の死を大量にバラ巻いていることは明らかではないか?どれだけ事故が起きようと、どれだけ無残に人が死に続けようと、もはや後戻りできぬ利便性のメリットからこれを擁護するというなら、優先されているのはヒューマニズムではなくカーマニズムである。あんな鋼鉄の塊が走り回ってりゃそら人も死ぬわ!健康より命の方がまずは大事じゃないかしらん?と素朴に思うものだがどんなものだろう。
勝手に死ぬ権利は保証されてしかるべきだが、勝手に殺す権利はもちろん容認されてはならない。僕がこう言うのは、殺されることは死ぬ自由を奪われることだからだ。(ひねくれてるう)


さて。以上すべては、僕の独断と偏見、純度100パー生搾りの妄想に過ぎないのだろうか?
まさにそのとおりであってそのつもりで書いているからそのように読んでもらってかまわない。とはいえ、時として狂気の中にもひとかけらの真実が宿るはずだから、予想される誤解ぐらいは解いておこう。
僕は大森靖子やミスiD周辺が嫌いじゃないしなによりZOCの愛染カレンちゃんにガチ恋真っ最中だし若手邦ロックバンドは可能な限りすべてチェックした上でみんな素晴らしいと思ってるしCHAIは日本のトムトムクラブと称賛してはばからない。普段はデザイナーズのお洋服を着ることが多いがZARAのメンズはかっこよくて好きだし男らしく女らしくといった旧弊な価値観にこだわってLGBTの権利や女性の権利を否定しつつなんの役にもたたない益体もない男性性の顕揚を心密かに企んでいるわけでもない。ついでに言えば、右翼と左翼は平等に意見を見つつ平等に嫌いである。
だから、一見政治的に見えるかもしれない記述は、単に僕という人間の高度な複雑性と類いまれなる粗雑ぶりを表しているに過ぎない。なにせ脱輪は、生まれたその瞬間から誤解を受け続け(出生時の体重は新生児の平均体重の20分の1しかなく、母親は医師から「お子さんの命はもって2、3日でしょう」と告げられた。つまり、生死の判定すら誤認された)、ありとあらゆる現場になじめずなじめたかなーと感じるや反発して後戻りするように進んでいくぜんまい仕掛けの英雄なのである。
僕の生活がつまらないのは、世界が天使化しているせいではなく、単に僕自身がつまらないからだ。もしこの発言がネガティブに聞こえてしまうとすれば、残念ながら、そんなあなたと世界は激しく間違っている。


やっちまった。韜晦は分析の敵なのに。どうしよう。素知らぬ顔して続けるからもう少しガンバローネ
そう。僕を取り巻く状況はすっかり変わってしまって、僕が好きだったアーバンギャルドを取り巻く状況もすっかり変わってしまった。いちいち注釈を付けるのも面倒だが一度だけ仁義を切っておこう。
「あなたを取り巻く状況とあなたが好きなアーバンギャルドを取り巻く状況がどうなっているかは全然知らないし聞かせてほしい(この文集に寄せられる作品たちは脳内で数百の罪を重ねる脱輪を完膚なきまでに清々しく打破するものであってほしい。えらそーに死ね!)」
ツイッターにこんなことを書いた。「アーバンギャルドが時代の空気とリンクしていた蜜月はたしかにあった。そしていつしか、時代と寝る役割を終えたのだ。もちろん彼らがダメになったということではない。時代の寝室をそっと抜け出してからが本当の勝負なのだ」
わかったようなことを。だいたいが◯◯は終わった式の発言をする輩はてめえの脳の足りなさを誇示しているに過ぎない。が、今でも枠組みは変わっていない。
当時天馬さんも言及していた小悪魔agehaの病み特集“病んだって、いいじゃん!”は、エポックな出来事だったように思う。この前後が病、少女、サブカルの三色弁当としてのアーバンギャルドが時代と完璧に共振していた蜜月だった。なんとなればこの頃、オタクはオーバーグラウンド化しつつあったものの、病みはまだまだ文化の周縁に留まっていたからだ。周縁にある、ということは中心が抵抗している、ということで、このような状況において抵抗を表現に変えていく試みこそ「時代と寝る」蛮勇だろう。“病的にポップ、痛いほどガーリー”というスローガンを掲げたアーバンギャルドは、見事この挑戦に打ち勝ったと言える。
しかし、どんな前衛もかならず本隊に追いつかれる道行き。ゴダール鈴木清順の大胆な撮影法が現在では当たり前になったように。初演では悲鳴と怒号飛び交ったストラヴィンスキーの『春の祭典』がクラシックの古典になったように。シュルレアリスムが本来の理念を抜き取られた上でシュールと日常使いされるように。病、少女、サブカルはここ10年のうちにすっかり一般的な表現の具になってしまった。消費され、拡散し、あいまいな全体のなかに溶け込んでしまった。かつて周縁だったものが中心に取り込まれた形、とはいえ、必ずしも認められたわけではない。天使はキタナイの自由と矜恃をキレイキレイ洗い流してハグする。いちおうは友好的なハグをまさか拒否するわけにもいかず、うっかり抱き込まれるオチ。
当初、病的な領域がポップに受け入れられる理念を標榜していたアーバンギャルドだが、実はこのような身振りは世界からの抵抗がある限りにおいて可能なのだ。中心が倒れぬからこその周縁であり、確固たるメインがあってこその“サブ”カルチャーなのである。積年の願望が不意に成就してしまったら。全力で押しこんでいた壁から、不意に抵抗が去った瞬間。勢いあまってこける。ずっこける。
いわく承認はバナナの皮である。果たして、現在のような受け入れ態勢をアーバンギャルドは予想し得たであろうか?予想し得たはずがない。予想してなお、戸惑ったに違いない。前衛は恐るべき速さで呑み込まれる。永遠に前衛のままでいられるのは、皮肉にも、絶えず蠕動する大衆という消化器官のみなのである。そして今では、ひとつのトレンドを新たなトレンドが塗り替える新陳代謝すら機能しなくなっている。時代のモードなどというものは存在しない。各自がバラバラに好きなものを享受し、同世代でさえアプリゲーム以外に共通の話題がないように思える。天使化は平等の多様化ではなく、多様の平等化、クリーンな砂漠なのだから、マーク・フィッシャー言う通り「ここから先は、なにもない」(としか思えない……)


時代に追いつかれたアーバンギャルドがその後追い抜かれ砂漠に置き去りにされたひとつの要因は、ファッションにあったと思う。一般的なイメージとは裏腹に、アーバンギャルドはオシャレバンドである。発足時から衣装や美術などのビジュアルイメージに凝る、良くも悪くもコンセプト狂いな性質からしてファッショナブルだったし、そんなバンドは他に見当たらなかった。
が、当初こそ新鮮に映った80年代の拡大再生産、自覚的なイメージの装いは、装わない装いを装う(無地Tシャツの流行を想起せよ!)天使化の波に特異性を奪い去られてしまった。ちゃんと言うとこれは、アーバンギャルドじゃなく大衆の方がオシャレじゃなくなった、オシャレのモード自体が転覆してしまった、さらにちゃんと言うと、ボードレール以来エフェメラの快楽を奪い合う戦争であったモードのコードから若者が脱却し(金も欲もないから、別にイイっすわ、兵役を忌避し)はじめたのである……
危機を感じた。正直焦った。アーバンギャルドの問題は僕の問題だったのだ。だから、きのこヘアーにサングラス、黒スーツに黒ネクタイという松永天馬のファッションが『都会のアリス』で激変した時には快哉を叫んだものだ。鮮やかに染め上げられた金髪、時計じかけのオレンジ風のサスペンダールックに、タイトルのアリスにちなんだトランプ柄の全身タイツ。新鮮だった。さらに、PV(あくまで!)に映された砂漠は、アーバンギャルドが時代に置き去られた地点から再び行軍する決意を表してもいたのだ。頼もしかった。
しかし、と今になって思う。あれでも足りなかったのだ。もぉぜんっぜん!たりてなかった!!!
僕の感触では、『都会のアリス』がリリースされて少ししたぐらいから、世界の天使化は一気に加速した。その残酷なスピードに対応するには、変化はまだまだ正気の範疇だった。ああ、天馬さんはメガネを外して美容系Youtuberになるべきだった。よこたんは金髪ボブにしてマイクロビキニを着るべきだった。バンドの名前はperfumeにするべきだった。少なくとも、アーバンギャルドというイメージのコードを完璧に破壊して作り直す必要があったのだ。
きっと、あの時点でもっともオシャレだったのは、過去を黒歴史に変えることだったろう。アーバンギャルドには黒歴史がない。どの時代も考え抜かれ、それなりに成立している。そこが問題なのだ。


今、改めて表現をやっていく上での課題はファッションだろう。それは身につける自己啓発であり、社会におけるポジショニングであり、コード化された生きやすさを選択する技術を指す。天使として身をかわすため、着る、よりむしろ脱ぐ、削ぎ落とすメソッドこそが重要視されるのだ。
天使は両性具有だという。このことは二通りに言い換えられよう。
男でも女でもない。男でも女でもある。
これまで僕は、一つ目の用法から世界について語ってきた。だれもが清潔に、無性になりたがっていると。だが実は、こうした欲望が招来する未来はSF的なユートピアではなく、とことんまでシビアな現実社会である。本来、ファッションと恋愛は互いに差異化のゲームであるため相性がよく、相乗効果によって生じた欲望を貨幣という単一価値に変換するシステムが資本主義だと言える。ところが、均一化を強いる天使社会はファッションと恋愛の遊戯性をご破算にしてしまうのだ。
極端な話、合コンに男子全員が坊主頭ユニクロの白無地Tで来ることが義務付けられたとしたら、女子側からの判断材料は、その人物にもともと備わっている性格やルックス、稼ぎや地位しかなくなるだろう。つまり、ゲームキャラのように数値化可能なステータスのみが要求されるようになるわけだ。天使化の背後には、こうした合理的な判断形成を、文化的な領域の隅々にまで行き渡らせようとする意図があるように思われる。昨今流行りのミニマリズムノマドも、同じ文脈から捉え返されるべきだろう。
コスパがいい!と叫ぶ裏で、ほんとうはみんな、疲れきっているのだ。選択肢はできるだけ減らしたい。服を選ぶのも音楽を選ぶのも恋人を選ぶのも、最小限のコストで済ませたいのだ。ところが、ファッションにはフラットな判定を妨げる力が備わっている。どんなキモヲタだって、全身ディオールオムでキメればそれなりにかっこよく見えてしまうのだから。天使化する世界にあっては、ファッションはステータスを狂わせるエラーなのである。
余談、おもしろおそろしい話。自分は30年メンズファッションを研究してきた。オシャレは完全に理論化できると信じてきた。その過程で、いわゆる女子ウケファッションとはなにかも考え続けてきた。シンプルなのがイイ、とはよく耳にする意見だ。定番アイテムは白シャツ、黒のテーラード、グレーのスラックスだろう。ある時はたと気付いた。これって学校の制服じゃん!シンプルな服装が好き、は制服みたいな格好が好き、なのだとひとまずわかった。しかしなぜそれがいいのか?やがてわたしは名状しがたき渾沌から這い寄る身の毛もよだつ結論に辿り着いた……そもそも、女子は男子にオシャレなど求めていないのではないか?シンプルがイイ、のではなく、飾り立てられるのがキラい、なだけなのではないか?生物学的に優秀なオスを見抜かなければならないメスは、美的な装飾で批評眼を曇らされたくないのだ。最短・最速で最高のオスを選び取らなければならない。オシャレを競う類のファッション、わたしが30年間追い求めてきたファッションは、むしろ女性にとって余計な技術の集大成だったのである。忌まわしい……このように人倫に悖る人智を超えた事態があってなるものか。わたしは大きく息をつき禁断の研究成果をそっと火にくべた……ある偉大なファッションライターはこのように書いていたかもしれないし書いていなかったかもしれない。


ふたつめだ。
男でも女でもある、という天使の側面。もしかしたらこちらの方が本質かもしれない。
“関係性に対する欲情”というテーマをここ数年考え続けている。その昔乃木坂46論を書いた際に浮かび上がってきたテーマなのだが、単純な話、グループアイドル花盛りのなか、なぜソロアイドルが姿を消したのか?
商業的に成功したソロアイドルは、今のところおそらく松浦亜弥が最後だろう。古ぅっ!と言われるかもしれないが、要はそれぐらい出てきてないわけで、ハロプロが総力を結集した真野恵里菜の売り出しが失敗に終わった時(現在、ええ女優さんにならはったけど)、時代の潮目が変わったことをはっきり知った。と同時に、AKBにどハマリし、その後いろいろあって大失恋した僕を絶望の淵から救い出したのは乃木坂という名の希望……
そんなん、よろし!結論から言うと、グループアイドルばかりがもてはやされるのはみんな関係性に飢えているからだ。ソロでは関係が生まれない。だからダメなのである。ドルヲタ界隈には昔からカップリング愛好とでも呼ぶべき形式があって、初期AKBならあつみな(前田敦子高橋みなみ)、SKEならじゅりれなあるいはW松井(松井珠理奈と大天使松井玲奈様(れ・ω・な))などのカップルネームが存在していた。つまり、一人と一人、ではない、二人であることの物語をこそ楽しむわけだ。グループの人数が多ければ多いほど、カップリングの組み合わせは増えていき、そのぶん様々なドラマが生まれる。グループアイドルの流行は、華やかなアイドル業の裏にある地道な努力=ストーリーが秘匿されずむしろ積極的に商品化される傾向と無縁ではあるまい。極端な話、アイドルそのものにではなく、メンバー間の絆や関係性、人と人のあいだが分泌するストーリーにこそわれわれは惹き付けられ、欲情しているのではないか?
初期乃木坂のブランディングは見事だった。圧倒的なルックスを盾に男子禁制の名門女子高、清楚なお嬢様感を全面に押し出し、男子のみならず女子にさえ「この輪の中に入りたい!」という秘めやかな願望を掻き立てたのだ。つまり乃木坂は、A×B式の従来の関係図式を拡大し、秘密の花園めいた関係性の網目(MVには百合的なイメージも大いに活用された)そのものを組織化してみせたわけだ。これが成功のひとつの要因だった。
さて、現在。隠されていた関係はどんどん露出し、われわれはますます盛んに他人の秘密でオナニーしている。
ソロYoutuberからカップル/グループYoutuber人気への以降(ソロの場合は、ソロ同士の間で必ずなんらかの関係性を仄めかしストーリーを捏造する。ある人気男女Youtuberなど、ほとんど恋愛関係の匂わせのみで100万PVを稼いでいるほどだ)、インスタでおそろコーデやデート風景を上げまくるカップルアカウント、仲の良さあるいは悪さを“ビジネス”アピールするバンドマンたち、「だれかとだれかの間」そのものの痕跡であるツイッターのリプ欄、あるいはフリースタイルダンジョンを契機としたバトルブーム。
最後のトピックだけ毛色が違うように思われるかもしれないが、売りものにされている関係が友愛か諍いかというだけで、本質は同じ。死ねだの殺すだのさっきまで罵り合っていた二人が抱き合い握手を交わすドラマは、反対にピリピリしたアイドル現場(たかみなぐあいわるいんだからふざけんじゃねえぞ〜)をさらけ出す商売とプラスマイナス重なり合う。最近でいえば、なんつってもアレ。南海キャンディーズ山ちゃんと蒼井優。グループYoutuberの動画でよく目にする「この二人の関係性ほんと好きwwww」というコメントが日本中から大々的に捧げられた好箇の例だろう。
結論。いよいよもってわれわれは関係性に萌えている。そこから手前勝手なストーリーを紡ぎ、披露したい欲求を隠せないでいる。
このことを、AとBのあいだにCなる理想人格を見出している、と解釈すると、途端にすべての物事がクリアになってくる。男でも女でも、人間でもないC。つまりそれこそが天使なのだ。ファッションの制服化、個性の価値暴落、性の均一化、ヒップホップの大流行、なしくずしの極右化。目指されているものはC、非人称の人格である(国家は非人称の人格そのものだから、お国の“ために”なんて発想が簡単に出てくる)。なぜAではいけないのか?Bではいけないのか?きもちわるいからである。男でも女でも、自分でも他人でも、人間であることがきもちわるくてしょうがないからである。
だから、Cを愛しているというのは、本当はAやBをうまく愛せないということなのだ。山ちゃんになりたいのでも、蒼井優になりたいのでもない。自分以外の他人になることなんか想像もできない。なりたいのは、あの二人の間にある空気、素敵なカップル像そのものである。そんなものの方が不思議となれる気がするのは、半分ずつ人間、天使のカラダだからだろうか?


初期アーバンギャルドのファッションは、スーツやセーラー服といった同一化のコードに則ったユニフォームだった。とはいえ、それを操る感覚は「他のバンドがやってないから」という差異化のコードに準じたものであったろう。変えるべきは、コードそのものだった。
このことは、昨年再始動したSPANK HAPPYのビジュアルイメージを見ればよくわかる。初期アーバンギャルドのひな型とも言える第二期スパンクス(実際には、天馬さんはその存在を後から知ったらしい)がセクシャルで近親相姦めいたイメージを打ち出していたのに対し、第三期スパンクスユニセックスの兄弟というイデアを体現している。初公開されたアー写は、真っ白なカッターシャツに黒縁メガネをかけた二人が見つめ合うことなく向かい合うポートレートで、男女の性差や10もの年齢差がスッキリ解消されたものだった。まさに、今!な天使イメージの完璧な具現化。おまけにこの才能豊かなバカップルは、SNS上での関係の仄めかしにも熱心なのだ。男でも女でもない、ノンジェンダーなイメージに加え、男でも女でもある関係性の欲情にさえ応えてしまっているのである。
それでいくと、後者の天使性=複数であることの遊戯を売りものにする姿勢がアーバンギャルドからほとんど欠如している点は興味深い。男女がデュエットするスタイルでありながらいっさいの仄めかしを拒否し(浜崎容子が菊地成孔のラジオに出演した回は、従ってIFの世界線を想像させる)、メンバー同士も昔から仲がいいのか悪いのか判然としない。
では、前者ならどうか。男でも女でもない軽み。これについては行儀よく失敗している。行儀よく、というわけは、この失敗が慎重に獲得されたものだからだ。実は「整った顔立ちをしている」(cv.菊地成孔。とはいえ、ファンはみんな気付いてるはず)天馬さんは中途半端なグッドルッキングを裏切るべく、“アーバンギャルド松永天馬”というキャラクターを、欲求不満の中年男、得体の知れないキチガイ、獣性としての男性性を振り回すゆるキャラ、というように設定した。反対に、女性ボーカルには、綺麗で勝ち気、凛としたイメージを立てた。だから、天馬さんの黒スーツは画一化された男性性のコードというよりむしろ、男性性そのものの誇張だった。よこたんの黒髪ぱっつんは、変化に抗う少女のイコン。かくしてジェンダーコントラストは、ステージパフォーマンスからボーカリゼーションにまで徹底され、アーバンギャルドは男と女が誇張された男と女を演じ直すことで生まれる劇的な批評性を手に入れた。そして、計画通り、ジェンダーレスな軽みを失ったのだ。
まとめ。天使化に対応するファッションコードも、エモさを生成するための関係性も、アーバンギャルドは取り逃し続けている。メンバーのインスタ使い、あのなんとも言えない不器用さの要因もこのあたりに潜んでいる気がしてならない。(かつては情報発信の場であったツイッターすら、今ではたわむれなコミュニケーションツールであるからして)


というわけで、最近じゃルールからはみ出すソロ活動の方が興味深い。
天馬さんは、じっくりじわじわコンセプトの縛めを解いていっているように思える。ラフなTシャツ姿なんかも見かけるし。だけど、もっともっと、弾けてもいいのになあ。ほんなら、『ラブハラスメント』はどやねん!あれはよかった素晴らしかった。中年男性のキモチワルサをクリティークとして自立させる困難、岡村靖幸ミラクルジャンプ』のいわばシャイで引きこもりの日常を返上したいきっとそーうさーそおーのおーの、絶妙な枯れ具合がちゅくちゅくちゅくちゅくあーのあーに継承されていてちゃんときもちよくファンクしていた。一方、よこたんの角松敏生とのコラボには意表を突かれ、思い返せばソロ1作目『FILM NOIR』は清冽であったことよ……とはいえ、ここまでの流れからして肝心なのはファッションブランド“FORGIVE ME”立ち上げの方だろう。
他業種の有名人によるブランド運営がしばしばうまくいかないのは、アイコン化とブランド化が、馴染むようでいてこすれ合うからで、アイコンを着る技法としてのファッションが有名性のアイコンに干渉するからだ。名前と実体の距離こそ心臓。ネームバリューを元手にするはずの彼らが、けっして自身をブランド名に冠さないのは、Paul Smithagnes b.やヨージヤマモトといったハイブランドの本来的な無名性とは対照的である。その意味で、「どれくらいの人がいくらまでなら払ってくれるかの実験でもある」と語る、中田敦彦手がけるブランド“幸福洗脳”は注目に値する。合わせて動向を追っていきたい。


えーーーっと。
音楽が好きなので音楽の話をしようと思っていたのだけどもう遅い。手遅れだ。走り出す時はいつも周回遅れだ。まあ、この文章から周到に音楽が抜き取られているのは、存在論的に宿命的に天使的である音楽はかえって天使的であることがムツかしいという当たり前の逆説のためでもあるのだけど。だから音楽は神と一緒、ひとりぼっちで充足してる。足りてないのは言葉だけ。
パンと言葉が足りなくて
僕が一番最初に好きになった曲『エクリチュール アバンチュール シュール』の歌い出し。
松永天馬の言葉から見過ごされているものは、もしかしたら天使的な直観であるかもしれない、と書いた。見過ごされている理由はいろいろあるのだけど、ひとつにはたぶん、ある時期から天使が少女に受肉してしまったせいだろう。むくつけき男が書いた詩を少女が歌う、という構造からしてすべてのアイドルソングは天使的な言葉で歌われる。まさにこの特性によって、孤独な直観は集団の論理にすり替わってしまうのだ。
仮に、松永天馬の歌詞を天使的/少女的と分類してみよう。秋元康に近い、と書いたのは少女的の方で、これらは基本的にワンワード・ワンツイストの手法で書かれている。いかにも専門用語めいた思いつきのこの語を要するに、その時バズってるワードを取り上げひとひねり加えることによって思わぬ旨味を引き出すやり方のことだ。
アーバンギャルド『自撮入門』……自撮り行為を語感からジサツ=自殺と読み替え寺山修司に繋げてみせる、『前髪ぱっつんオペラ』……まっすぐ下りた少女の前髪をオペラシアターの緞帳に見立てる、AKB48ヘビーローテーション』『フライングゲット』……繰り返し曲をリピートするヘビロテ、発売前にCDをゲットするフラゲをそれぞれ恋心になぞらえる。
まあ、やすすの場合はなんでも恋愛に結びつけちゃうわけだけど(しかも選ばれるワードがジャストじゃなく、古い。これについては無自覚と見せかけテレビを介した受容速度に合わせてると思う。対して、アーバンギャルドはインターネット肌感覚にのっとり、わりとジャスト)、別にそれって職業的なアイドルソングの定番なわけで、天馬さんはある程度自覚的にアイドルソングとして歌詞を書いているはずだ。きっと、昔のアーバンギャルドが活動を続けている並行世界では『病み営業』なる曲がリリースされていることだろう……
じゃあ天使的な歌詞はどんなのかというと、言いたくない。理由のひとつには矜恃があり、ふたつにはものぐさ、みっつにはてめえで考えろがある。唯一のヒントは『エクリチュール アバンチュール シュール』を僕が天使的だと捉えていることだが、そもそも実例出して分類なり分析なりする気はさらさらなかったのだおーざっぱな視点だけ提示して、ほなさいなら!後は任せた!ってのがこの文章に課せられた使命なのに脱輪がその枠をはみ出していこうとするんだピアニストを撃て自ら殺せ。
天使的は、少女的の奔放な肉体に呑み込まれトレードマークと化していった。少女的には生理のごとく重い論理性がつきまとい、直観は経血に流されてゆく。なぜなら、アーバンギャルド世界における“少女”はとりわけ重要なメタファーであり、松永天馬のアニマを注ぎこむ透明な器、ファンとバンドの間を取り持つ関係性の肉なのだから。などと思ったことは一度もない。いいかげんうんざり。僕にはどうしても、病や少女が松永天馬という人のトラウマだとは思えないのだ。百歩譲って、アーバンギャルドのトラウマだとしても。
今こそ告白しよう。天使的な直観とは、世界の天使化と無関係であるばかりか、永久にすれ違い続ける概念なのだ。後者が溶け合う肉であるのに対し、前者は見放された骨。
「キスとテキスト 交わしても
ひとみ読まれて ひとりにされて」
集団の世界においてひとりを維持するためには、天馬さんのあの目がいる。今じゃないあの時の、人殺しのひとみが。それから、いたずらな少女に毟り取られた羽根が、あらゆるファッションから見放された言葉が、関係性の網目に捕えられない巨大な孤独が、たしかにあって。これらの可能性を掘り起こし検証することのうちに、天使化する世界に誇り高く取り残される作法が隠されている気がするのだ。
勝手に生き、好きなタイミングで死ぬ。そんな自由を抱くのは、コクトーが描いた天使でも、ラディゲが綴った天使でも、クレーとベンヤミンが想像した天使でもない。もっとも近いのは、パトリック・ボカノウスキ―のアニメーション『天使 L’ange』に登場するおっさん、泡だらけのバスタブでからだをこすり、ウヒャウヒャ笑い続ける毛むくじゃらのオヤジである。
ああ、ひとりぼっちの勇敢なお風呂で笑いたい。なめらかな肌を突き破る骨として書きたい。こっそり恐怖を泡立て続けたい。
そのために、キレイなファシズムに抗わなければならない。天使になるべく天使化を拒絶しなければならない。“男でも女でもない”も、“男でも女でもある”も、うっかり乗り過ごしてしまった二つのアーバンギャルドのあいだに、僕の夢想する天使が宙吊りにされている。それは直観としての言葉、呪文としての言葉、松永天馬のトラウマとしての言葉。あるいは単に、言葉、と言い換えてなお、明るい部屋で真っ暗な手から逃れるだろう。
だから、ゴールはない。スタートまでたどりついたらもう一度。声に出して読んでごらん。
「今さら脱輪について語ることなどあろうか」


2019#07#05#13#07#17648

 

おもしろきらない美学をどう見る? 〜『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』その他少々〜

タランティーノのダラダラハズし芸は実際のところ「それだから素晴らしい」のか「それなのに許されてる」のかどっちだろう、と考えこむ時両方だとしたり顔の映画秘宝読者の声が聞こえてくるが幻聴だ。レザボアもヘイトフル・エイトも本作も最後気持ちよく発射するために2時間ジラされるわけでよっぽどのマゾでもない限り、映画に限らずなにかのマニアはマゾ傾向の天井しらずを知らず自慢するものだが、それってどうよ!?
ごたくやかっこつけはいいから胸に手を当ててよく考えてごらん。
タランティーノってそんなにいいか?”


銃口を突きつける男たち、バカンバカン派手に撃ち合う『レザボア・ドッグス』の有名シーンは『レポ・マン』の借用だとしてもたしかにかっこいい。でもなー。そのかっこよさもみんなが言うほどかっこいいとは思えない。タランティーノの代名詞たる意味深に見せて無意味なダラダラ会話はハードボイルドやノワール小説の伝統に根差した発明と言っていいと思うし、このジャンルを知り尽くしたオタク監督ならではのパロディや盛り上がりそうな展開を常道からハズすやり口はオシャレかもしれない。総じて「おもしろきらない」状態を保つのがタランティーノの美学。これって謎かけみたいなもん、映画が「おもしろきらない」状態にコントロールされていることに気付いたマニアたちは「おもしろきらない状態をおもしろがる」態度がツウだと言い出し、タランティーノコンテンツの日本での需要の不思議は避けて通れないから言っておくと、どう考えてもタラちゃんの映画はマニア向けでめざましテレビでダンシングレオ様を見てカップルで馳せ参じるような代物じゃないのに巨匠キャラ扱いされてる謎は、インディーオタク監督なのにハリウッドで活躍できている矛盾(統合失調間違いなしのデヴィッド・リンチがハリウッドから追放されないバランスに似て)とそれなりに符号するにしろ、エンタメとしてもデートムーヴィーとしてもハナから作られちゃいないことはやはり何度でも確認しておかなければならず、観賞に際して「おもしろきらない状態をおもしろがる」精神と最後の爆発まで我慢を続けるマゾ根性が必要となるのは基礎教養、ここまでは別にいいのだが
ひょっとして、
おもしろきらないものはおもしろくないのではないか……と疑う勢力も当初からひそかに存在していたはずで、その人口が一気に拡大したのが前作『ヘイトフル・エイト』ではないだろうか。
かく言う僕も、これで目が覚めた。ゲロ吐くほどおもんない。ひたすら長尺な上になんのひねりもなく、こんだけ待たせたんだからラストにはデス・プルーフみたいな爆笑カタルシス来るんですよねーわかってますよーとヨダレ垂らしてたらスカ、最後まで大ハズレ。なんじゃこりゃ。で思った。
ひょっとして、
①おもしろきらないものはおもしろくない
②おもしろきらないものはおもしろいとは言えない
③おもしろきらないものはおもしろきらない
ひどく冷静になり三つ目。タランティーノはだから、過大評価だ。ダメとかフェイクとかじゃなく、単純に評価と実質が乖離している。


おもしろきらないように作られたものはおもしろきらない。考えてみれば当たり前のこと。タランティーノよりおもしろい映画やかっこいい映画はいくらでもある。
とはいえ……『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。
いつも通りのダラダラっぷり、妙に思わせぶりでなんか起こりそうな雰囲気を醸し出しときながらとことんハズし、いいかげん飽きたわ、大学生らしきライト層の途中退出も多く、マニアはロマン・ポランスキーが出てきた時点でハハァ、するってえと隣に乗ってるのはシャロン・テートこっからチャールズ・マンソン出てきてあの事件がクライマックスに来るわけか、さあタラちゃんは陰惨極まりないモチーフをどう料理するのかなーとジリジリしてるってのに、さんざんスカされた挙句最後は空間的にちょっとズレたIFの世界で大爆発!これはなかなか笑えたけど、やっぱなー。この一事をもってして2時間半の脱力を許すのはいくらなんでも甘やかしすぎじゃあないか。
いわゆるシャロン・テート事件を予め知っとかないとラストの襲撃が意味不明だしなによりそれが「ズラされた」展開である妙を楽しめない。上映後見渡せば、周囲はどことなくどっちらけにポカーン。だから華やかなマスコミ宣伝とB級に徹した実質のギャップだと言うんで、当然といえば当然。しかしこれ、アメリカじゃだれでも知ってる話なのかね。


おもしろくなくはないが甘やかしの過大評価で済むかといえば、今回、いいところがいっぱいあるのだ!
ひたすら強くイイやつなブラピがいい。浮き沈み激しいけどキュートで憎めないレオ様がいい。男同士の関係を描くのが上手い人だったなあ、そういや。派手さはないけど『12モンキーズ』や『ファイトクラブ』を超える過去最高のブラピ。
60sフラワームーブメントとハリウッド冬の時代を鮮やかに切り取る演出や舞台セットが素晴らしい。そう、タランティーノってどこか上品なところがあって、大げさにならない誠実な描きぶりがグー。あのチャールズ・マンソンがたった一度しか登場しないなんて!こういう品の良さが愛され続ける所以だろう。
半分もわかんないけど例によってオタクなウエスタンや過去作オマージュ全開。そもそも映画の映画なもんで、思う存分やらかしてるご様子。
あと一番重要なのは、血まみれの殺傷事件が一戸ズレただけで血まみれのまま陰惨から爆笑にすり替わるファンタスティックな歴史改変は映画メディアが持つ素晴らしき暴力性であり、逆用可能な危うさを孕んでいること。



結論。それだから/それなのにそこそこ満足!なのだが、いくらなんでも退屈は退屈だよなー、そこをごまかしちゃいけない気もしたり。
キャリア初期から「10作しか撮らない」と宣言していたタランティーノの9作目。もうこれでやめちゃおっかな、なんて嘯いてるらしいが、やはりラストは気になる。有終の美を飾ってほしいものだ。