< 京都冷泉家から藤原定家の古今和歌集注釈書「顕注密勘」自筆本が見つかったそうです >
「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」っていうんだそうで、これまでに見つかっていた写本は国の重要文化財。
そういう注釈書の原本ですから、こりゃ国宝級でしょねえ、ってことみたいです。
しかしまあ、国宝クラスの書籍がしまい込まれている冷泉家の蔵ってどんなんでしょうね。
代々の貴族家系と比べるものでもないんですが、貴重本じゃなくってね、かなり前に出版された当たり前の本を探すのさえ難しい世の中になってきておりますです。
21世紀に入ってから町の本屋さん、古本屋さんって、ホントに少なくなって来ているように感じます。
みなさんの最寄りの駅前商店街の本屋さんって、元気にやってますか?
ここ数十年にもなりますか、初めて降りる駅で、駅前の通りに昔ながらの個人でやっている本屋さんを見つけると、必ず覗いてみるようになりました。
好きなんですね、紙の本の個人店。
自分の部屋の中には積読山脈が高々とそびえているので、なるべく新しい本は買わないようにしているんですが、本屋さんがあると入ってしまいます。
財布のひもを固く締めるように意識しながらも、主に眺めるのは文庫本の棚。
個人経営の本屋さんには、その本屋さんの主人がこだわっている本を並べている棚があったりして、そういうスペースを見つけると、結構時間をかけて見入っちゃったりします。
縦長の狭いスペースに、出版社を選ばず、著者の国を選ばず、ジャンルにも出版年代にもこだわらない感じの文庫本が、2冊、3冊ずつ並んでいるですね。
で、ん? って思って買ってしまったのが、河出文庫の「伊勢物語 川上弘美訳」
251ページ。2023年10月20日、初版発行。880円。
比較的最近の一冊。
なして今どき伊勢物語を? しかも川上弘美が訳?
疑問だらけ。興味津々です。
手に取ってページを繰ってみますと、
※ ※ ※ ※
一段
男がいた。
元服したばかりの男だった。
※ ※ ※ ※
あ、こりゃ、買いですね。ってことで買って来たです。
なにかがキラリとやってきたですねえ。
伊勢物語は前に読んだことがあるような気がします。
気がするっていうのは、読んだとしてもかなり前、っていう記憶です。
昔、男ありけり。で始まる、平安時代初期に成立したんであろう歌物語ですよね。
もしかすると、高校の古典で読んだのだったかも。
オトナになってからでも普通の本はずっと読んできていますけれど、こういう、なんと言いますか、教科書に載るような作品は避けてきている感じもありますんで、伊勢物語の内容は有名な和歌がいくつか耳に残っている程度で、知っている、とは言えないですねえ。
せいぜいが、落語「千早振る」のネタ元として「ちはやぶる 神代も聞きかず竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌が百人一首に選ばれたのは、この伊勢物語に歌われていたからだってことぐらい。
川上弘美訳。
読みやすかったです。すらっと読み終わりました。
で、今さらながらに伊勢物語についてちょろっと調べてみました。
全部で125段あるんですが、伊勢物語の作者は誰なのか。
主人公とされている在原業平(825~880)こそが作者だろうっていうのが主流になっている分析みたいですが、業平が書いたとしても125段全部じゃなくって、コアになる数十段ぐらいで、他は業平を知る誰か、それも数人の作者が、時間的にも長くかかって伊勢物語に追加していって現在に遺っている125段を完成させたものだろうっていうのが、今のところ主流の「だろう」らしいです。
そもそもなんでタイトルが「伊勢」なのか。そこも解明はされていないんだそうですね。
「昔、男ありけり」で始まるんで「むかしおとこ」って言えば在原業平、あるいは伊勢物語そのものを「むかしおとこ」って言ったりするみたいです。
でも伊勢物語の全段が「むかしおとこ」ってわけでもないんです。
今回の川上弘美訳の伊勢物語によれば、「男がいた」で始まらない段もけっこうありました。
16段:紀有常は、三代の帝に仕え、はぶりもよかった。
18段、28段、36段、62段、63段、65段、108段、119段:女がいた。
21段、22段、115段:男と女がいた。
23段:地方ぐらしの官吏たちのこどもがいた。
38段:紀有常を、男は訪ねた。
39段:西院の帝(淳和天皇)には、むすめがあり、皇女崇子といった。
41段:あねいもうとがいた。
76段:二条の后が、まだ東宮の御息所とよばれていた頃のことである。
77段:田村の帝(文徳天皇)の女御、多賀幾子という方が亡くなった時のことである。
78段:多賀幾子という女御が亡くなった。
79段:在原家に、親王がうまれた。
80段:家運のおとろえた家があった。
86段:年若い男がいた。
88段:もう若くはない友たちが、あのひと、このひとと、集まった。
89段:身分ある男がいた。
97段:堀川の大臣(藤原基経)が、はや四十歳になっての宴を、九条の邸で催した。
98段:太政大臣(藤原良房をさすとみられる)に仕えている男がいた。
99段:右近衛府の馬場で、騎射がおこなわれた。
101段:左兵衛府の長官である在原行平の邸には、いい酒があるという噂をきき、ひとびとが集まるのだった。
104段:尼になった女がいた。
107段:高貴な男がいた。
117段:帝が、住吉に行幸した。
主人公が在原業平であることは間違いないとしても、単純な一代記ってものじゃなくって、平安初期の風俗がけっこう複雑な事情を隠しながら入っている感じですね。
伊勢物語、全125段の内「男がいた」じゃない段が3割強の35段。
「男がいた」で始まる段にしたって、その男は明らかに業平じゃないよね、っていうのもありますから、実際の作者が業平自身だとしても、最初に出来上がった時、何段あった歌物語だったんでしょう。
そんなに多くなかったように思えます。
1段の、「男がいた。元服したばかりの男だった」
っていうのにしたって、男の領地だっていう奈良の春日の里で、見かけた姉妹に、
「春日野の 若紫のすり衣 しのぶの乱れ かぎり知られず」
っていう歌を送って、
「男のおこないの、なんとおもむきあることか」
「打てばひびくような、激しくもまた雅やかな男のおこない、こんなことが、むかしはあったのだ」
っていうことなんですけど、これなんかも業平が作者だとして、自分で自分のことをこんなふうに表現して懐かしんだりしますかね?
最終の125段では、病を得た男は死ぬ覚悟をします。
「つひにゆく 道とはかねて聞きしかど きのうきょうとは 思はざりしを」
ってことで終わっている伊勢物語。
ああ、自分もホントに死んじゃうんだなあっていう気持ち。正直なヤツです、在原業平。
自分で言っているとすればですね。
伊勢物語って読まれている歌の良さっていうのもあるんでしょうけれど、なんでこんなに人気があって、21世紀になっても出版され続けているのか。
答えの1つは単純で、在原業平がイイ男だったからあ~、なんでありますね。
日本の歴史上、別格なポジションを占めている美男子。
写真は勿論、肖像画とかもない在原業平なのに、イイ男、決定なんであります。
893年から901年にかけて編纂された歴史書「日本三大実録」に在原業平についての評価が載っているんですね。
この「日本三大実録」っていう書物は、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代、858年~887年の歴史について書かれた全50巻。
在原業平が33歳の時から亡くなる880年をカバーしていることになります。
受験勉強なんかにはあんまり出て来ない歴史書かもしれませんが、編纂の中心人物は勉学の神さま、菅原道真(845~903)だってされています。
同じく編纂を命じられていた藤原時平(871~909)の讒言によって、「日本三大実録」編纂の途中、901年に右大臣の位にありながら大宰府へ左遷されてしまうんですよね。
恨みを残して亡くなった菅原道真。
藤原時平、39歳の若すぎる死は菅原道真の怨霊によってもたらされた、っていう話は有名ですね。
そんな「日本三大実録」の中で在原業平はこう記されています。
「業平 体貌閑麗 放縦不拘 略無才学 善作倭歌」
業平は、見た目が雅やかで華やかな男で、気さくな性格で細かいことにとらわれない。学問がないんだよねえ、でも和歌(倭歌)を作るのはお上手。ってな感じになると思います。
いかにグッドルッキングだったとしても、漢学の素養がないっていわれるレベルの平安男子を、天皇が編纂させた歴史書である「日本三大実録」がわざわざとりあげているのは、なんででしょ。
在原業平の父親は、阿保親王(あぼしんのう)(792~842)っていう人。
親王!? 思いっきり皇室関係です。
母親は、伊都内親王(いとないしんのう)(801~861)っていうことで、在原業平の両親は親王と内親王なんでしたあ。
でも業平は在原っていう姓を名乗っているわけで、なにか、日本三大実録に取り上げられるにも特別な理由がありそうですね。
日本三大実録での菅原道真の左遷があったように、平安時代の初期って、上流貴族階級、なんかいろいろあったんでしょうねえ。
泣くよウグイス平安京、ってことで、794年、平安京に遷都したのは「桓武天皇(737~806)」
この遷都をもって平安時代の始まりってされています。
桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北地方を平定した天皇ですね。
桓武天皇の第一皇子は安殿親王(あてしんのう)っていう人なんですが、この人が、なんだかラフな性格だったみたいなんですよね。
いろいろやらかしてくれている。
安殿親王の后候補の宮女になった女性は数多くいたんでしょうけれど、中に中納言藤原縄主(ふじわらただぬし)の長女がいます。
縄主の長女が宮女になりますと、その母、つまり縄主の妻女が東宮付きの女房の筆頭として、娘と一緒に宮仕えに上がります。
その妻女こそが「藤原薬子(ふじわらくすこ)(生年不詳~810)」
稀代の悪女、って言われていますけれど、実際にはどういう女性だったのか、分かりません。
魅力的な人だったことは間違いないんでしょうけれどねえ。
で、安殿親王は宮女に上がって来た薬子の長女の方じゃなくって、母親の薬子の方と「必要以上に」仲良くなっちゃったらしいんです。
何をしとんねん! ってことで、桓武天皇は、薬子を平安宮から追放して、799年に藤原縄主を春宮大夫っていう安殿親王の監視役に付けています。
806年、桓武天皇が崩御すると、安殿親王が「平城天皇(へいぜいてんのう)(774~824)」として即位します。
と、藤原縄主は大宰帥として九州に赴任させられて、薬子を尚侍(ないしのかみ)として手元に戻しますねえ。
やりたい放題です。
で、この平城天皇、病気を理由に、809年、同母弟の「嵯峨天皇(786~842)」に譲位して上皇になります。
平城天皇はわずか3年の治世だったことになるんですね。
病気ってなんだったのか、そこは伝わっていないみたいです。
嵯峨天皇は即位するにあたって、平城天皇の親王であった阿保親王と高岳親王の2人のうち、高岳親王を皇太子とします。
ここで在原業平の父親である阿保親王の名前が出てきます。
ところがこの嵯峨天皇に対する譲位に、薬子とその兄、藤原仲成が反対を表明して平城天皇の復位を図ります。
具体的には、平城上皇を巻き込んで平安京から平城京へ都を移そうとしたんですね。
810年、嵯峨天皇は挙兵しようとする上皇一味の機先を制して、薬子の官位を剥奪、藤原仲成を捕縛、坂上田村麻呂に軍隊を編成させて待ち構えます。
世に言う「薬子の乱」ですね。
利非ずを悟った平城上皇は剃髪して仏門に入り、薬子は服毒自殺、藤原仲成は射殺されます。
けっこう血生臭いんですよね。
薬子の自殺っていうのもホントに自らだったのかどうか、怪しい感じがします。
薬子の変を受けて高岳親王の皇太子は廃されて、兄の阿保親王も連座して左遷されます。
高岳親王(たかおかしんのう)(799~865?)は平城天皇の第3皇子。
阿保親王にとっては25歳年下、腹違いの弟っていうことになりますね。
皇太子を廃された高岳親王は出家して、空海の十大弟子の1人にまでなります。
修行を重ねて老年になって、入唐求法を志して朝廷に願い出るんですね。
許可されて861年に奈良を出発。
862年大宰府を出帆。
864年、長安到着。
ところが当時の唐は仏教弾圧政策をとっていて、高岳親王は満足な修行が出来ない。
ならばいっそのこと本場の天竺(インド)へ行って修行しよう。
865年、広州の港から天竺を目指して出発したっていう記録が遺っています。
で、この事実に発想を得た物語が、澁澤龍彦の「高岳親王航海記」
810年に左遷された阿保親王は、平城上皇が亡くなった824年に許されて、ようやく京都に戻ってきますが、この時から子孫は在原っていう姓を名乗ることになったんだろうと思われます。
業平は825年の生まれですしね。
歴史は勝者が作るって言いますけど、平城天皇、藤原薬子、平城京、平安京。
言い伝えられている史実をそのままには受け取れない感じがしますけれど、絶世の美男子、在原業平は平城天皇の孫なんですねえ。
106段
川上弘美さんの訳。
はるか神代の時代にも聞いたことはありません。
こんなにも龍田川のおもてが紅葉をうかべ
からくれないの色にそまるとは
「ちはやぶる 神代も聞きかず龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」
龍田川は元お相撲さんの豆腐屋さんではありませんねえ。
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