気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺、東西坊地の争い。

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回は日道と日郷の間に起こった大石寺坊地の所有権問題について、誰でもわかるようにわかりやすく書いて紹介してみたいと思います。
 
多くの人がご存知のように、大石寺の坊地は東坊と西坊に分かれています。日興と日目の死はともに正慶2年(1333年)ですが、これをきっかけとして日仙と日代の間で方便品読不読の問答が起こります。問題はこれに止まらず、大石寺の東西の坊地をめぐり、所有権争いが起こったのです。
 
この遠因がどこにあるかというと、大石寺の寄進者でもある南条家の相続上の問題から、大石寺の東西坊地を東西に分割し、それぞれを別々に寄進させてしまったことにあるのです。
千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)』(千葉県、平成13年)には保田妙本寺文書として、日郷の後継である日賢筆による『大石寺東坊地相続図』が収められています(同367ページ)が、ここに明確に東坊地と西坊地とが別々に南条家から寄進され、東坊地が日郷に寄進されたことが記録されています。

画像を見ればおわかりかと思いますが、明確に「以大石寺東坊敷地頭南条四郎左衛門尉時綱(日賢亡父)建武五年五月五日寄進于日郷」「寄進日郷也」「西坊敷者南条三郎左衛門跡日行相続地」と記録されています。

ここからわかるように、大石寺の東西の坊地が分割して寄進された時、西坊地を相続したのは大石寺4世日行でした。そして東坊地を相続したのは日郷だったのです。ところが、日郷は活動の中心を既に房州に移動していました。
やがて日郷が亡くなり、南条家が上野郷を退出すると、西坊地側の日行によって実質的に東坊地は占拠され、日郷の後継者である日賢との間に坊地争いが起こることになります。
 
貞治4年(1365年)に日行は地頭に「西坊地も東坊地もともに本主寄進の土地だ」と偽り、「去渡状」を出させることに成功します。この時の状は堀日亨編『富士宗学要集』第9巻に収録されています(同38〜39ページ)。

画像を見てお分かりのように「本主寄進の如く御堂並に西東坊中共に卿阿闍梨日行に去り渡す所なり」と書かれています。
妙本寺側の日賢はこれに対して南条時綱の『寄進状』等を示してこれが不当であることを訴えます。この時の『南条時綱寄進状』は同じく『富士宗学要集』9巻に収められています(同37ページ)。

 
この『寄進状』には南条四郎時綱の判が記され、明確に次のように書かれています。
 
「おほ(大)いし(石)でら(寺)のひがし(東)かた(方)は、一ゑん(円)にさい(宰)しやう(相)のあ(阿)じゃ(闍)り(梨)の御ぼう(房)の御はからひ(謀)として、まつたく(全)とき(時)つな(綱)がし(子)そん(孫)さまたげ(妨)申べからず、もしこの(此)いましめ(誡)をそむ(背)かんし(子)そん(孫)は、ふ(不)けう(孝)のじん(仁)たるべく候、のち(後)のために、じやう(状)くだん(件)のごとし(如)。
りや(暦)をう(応)二ねん(年)二月十五日   時綱あり判」
(『南条時綱寄進状』『富士宗学要集』9-37ページ)
 
ここからもわかるように、大石寺の東方は明確に「宰相阿闍梨」(日郷)に寄進されています。
この働きかけにより、翌年に東坊地は日賢に一端は返還されます。しかし日行の死後にこの係争は大石寺6世日時に引き継がれ、応永12年(1405年)に東坊地は最終的に大石寺側に引き渡されてしまいます。
日時の代になり、妙本寺側にいた日賢等の東坊地の所有権を主張するものは大石寺からの退出を余儀なくされ、その活動の多くは房州になっていました。その結果として大石寺西坊地側の不当な東坊地の横領行為が成功したことになります。
 
 
参考文献
千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)』千葉県、2001年
日亨編『富士宗学要集』第9巻、史料類聚[2]、聖教新聞社、1978年
金原明彦『日蓮と本尊伝承』水声社、2007年
 
 
 
 

 

創価女子短期大学の2026年度以降の学生募集停止について。

 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価女子短期大学の2026年以降の学生募集を停止することが決定しました。
以下のメールが卒業生(短大白鳥会)に配信されたとのことで、全文を紹介します。正式には2024年5月1日付で創価女子短期大学ホームページにて発表がなされるとのことです。なお学長名はそのままで、短大白鳥会委員長の本名はアルファベットで一部略字に直しました。
 
 
 
「2024年4月27日
卒業生の皆様
創価女子短期大学
学長 水元
 
創価女子短期大学の学生募集停止(2026 年度以降)と今後の対応について
 
卒業生の皆様には、日頃より創価女子短期大学に多大なるご支援、ご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
皆様の献身的なご支援により、本年40期生を迎え、卒業生も1万 2千人を超える陣容にまでなりました。それぞれの使命の道で活躍する様子を伺うたびに、学長として大変嬉しく思っております。
突然の報告となりますが、このたび学校法人として短大の2026年度以降の学生募集を停止することを決定いたしました。皆様にはこれまでの真心からの応援にも関わらず、このような報告に至ったことに、大変申し訳なく思っております。
正式には5月1日に対外的に本学ホームページにて発表いたしますが、前もってその全文をお伝えしますので、趣旨をご理解いただければ幸いです。学生の皆さんには、昨日夕刻、全学集会を開催し、私からお伝えしました。
41期生となる2025年度生が卒業するまでのこれからの約3年間を、短大教育の総仕上げとして、学生一人ひとりを全力で励まし、建学の指針に適う、社会に有為な人材を送り出してまいります。
これからもさらなるご支援を、何卒よろしくお願い申し上げます。
 
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
 
短大白鳥会の皆様
短大白鳥会
委員長 O沢E子
この度の決定に皆様も大変驚かれていることと思います。
創立者池田先生が創立してくださった「女性教育の城」創価女子短期大学に集い、青春二歳を「父娘(ふし)の絆は 永遠(とわ)ならむ」との深き慈愛のもと学ばせていただいたことに、今改めて、感謝の思いで一杯です。
これよりは、短大白鳥会の麗しい絆で、創価三代の夢である創価教育発展のため、ますます尽力して参りたいと思います。
そして、創立者の「この姉妹の心の連帯が、やがて壮大な平和の大地になっていくことを私は晴れやかに確信する」とのご期待を胸に、短大白鳥会一人一人が新しい誓いを立て、出発して参りましょう!
 
【5月1日ホームページ掲載文】
 
日頃より創価大学創価女子短期大学にご支援、ご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
学校法人創価大学は、2024 年3月28日に開催した理事会におきまして、創価女子短期大学の2026年度以降の学生募集を停止することを決定いたしました。
創価女子短期大学は、1985 年4月、建学の指針に「知性と福徳ゆたかな女性」「自己の信条をもち人間共和をめざす女性」「社会性と国際性に富む女性」を掲げ、開学以来、約40年にわたり、教育事業を展開してまいりました。
この間、幾度となく創立者池田大作先生に御来校いただき、特別講義「学問と人生と幸福を語る―青春の努力こそ宝!」をはじめ、学生に直接ご講演されるなど、数多くの歴史を築いてくださいました。また、資格取得の総合的な支援システムや、海外研修プログラム等による実践的な英語教育、就職支援を中心としたきめ細かなキャリア支援、ICTを活用したアクティブラーニングの取り組みが、先進的な教育活動として文部科学省の支援事業に採択されるなど特色ある短大教育を行ってまいりました。
こうした教育環境で学生は成長し、資格試験の検定協会からの受賞や世界大会での入賞、東京都の「都民による事業提案制度」の選定、学外のビジネスコンテストでの数々の表彰や日本一に3回輝くなど多くの教育成果をあげてまいりました。2024 年3月現在で卒業生は 12,454人となり、国内外の企業や地域をはじめとした社会の様々な分野で活躍しています。
しかしながら、18歳人口の減少や共学・四年制大学志向が強まるなど、近年の社会状況の変化による影響は大きく、短期大学の学生募集は厳しい状況となっています。創価女子短期大学では、教育の充実や募集活動の努力を重ねてまいりましたが、近年は入学定員の未充足が続いており、同様に将来的にも厳しい状況が見込まれます。
この状況を踏まえ、学校法人創価大学として、社会の多様な教育ニーズに対応するべく今後の方向性について検討を重ねた結果、創価大学で2026年度を目指して開設準備を進めている「経済経営学部 ビジネス学科」(仮称:設置構想中)において、創価女子短期大学国際ビジネス学科の教育理念やその学びを引き継ぎ、より幅広く専門的に学べるようにいたします。なかでも、創価女子短期大学が培ってきた女性教育や資格取得支援、語学教育プログラム等の特色については、創価大学の教育プログラムや研究所、各センターなどで受け継ぎ、創価大学全体として創価女子短期大学の建学の指針の継承を図ってまいります。
創価女子短期大学の学生募集については、2025 年度募集(本年度実施の2025年4月入学生対象の入学試験)が最後となります。2025 年度入学生を含むすべての在学生に対しては、卒業に至るまで現在の教育環境を継続し、学生生活や進路・就職の支援等についても、これまで同様に万全を尽くしてまいります。また、卒業後の証明書発行等の手続きについても創価大学で対応いたします。卒業生の親睦や交流については、短大白鳥会(同窓会組織)を中心に継続し、充実に努めてまいります。
卒業生、在学生、ご父母および保証人、創価女子短期大学の教育にご理解を示してくださっていた高等学校、そして支えてくださった地域の方々等、これまで創価女子短期大学の教育・研究にご理解を賜りました皆様方に深く御礼申し上げます。創立者創価女子短期大学の女性教育を通じて構想された女性リーダー育成の伝統は、創価大学において着実に継承してまいります。2030 年の創価教育100周年への学校法人創価大学の新たな一歩としてご理解を賜り、変わらぬご支援をよろしくお願い申し上げます。
 
>リンク:2026年4月を目指して「経済経営学部 ビジネス学科(仮称)」の設置を構想中
(5月1日公開)
 
2024 年5月1日
学校法人創価大学
理事長 田代 康則
創価女子短期大学
学 長 水元
〇お問い合わせ先
創価女子短期大学事務室
(以下略)」
 
 
どうでしょうか。ご覧のように2025年度の学生募集は行いますが、2026年度より創価女子短期大学は学生募集を停止することとなります。その後は創価大学で現在構想中の経済経営学部ビジネス学科(仮称)に組み込んでいくそうです。従いまして、1985年に始まった創価女子短期大学の歴史は、2025年度入学の41期生をもって終了することになります。
 
 
追記
情報提供を下さった方には感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 
 
 

 

イスラエル寄りの姿勢を堅持する創価学会と池田大作。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回はイスラエルパレスチナ問題における、イスラエル寄りに感じられる創価学会池田大作氏の思想性についてです。
 
イスラエル建国、ユダヤ人の問題は確かにどちらが正義、どちらが悪と容易に決めつけられる問題ではありませんが、池田大作氏はパレスチナの不遇を訴えることより、イスラエル側に立った発言を繰り返すことが多いのです。
事実として池田大作氏がパレスチナ国家承認について言及したことは一度もありません(少なくとも私はスピーチ等で聞いたことも読んだこともありません)。パレスチナに言及されているのは池田大作とマジッド・テヘラニアン(戸田記念国際平和研究所元所長)との対談集『21世紀への選択』(潮出版社、2000年)くらいですが、ここで語られていることも単なる「たがいに協力しあう姿勢」や「平和的に共存してきた歴史の教訓」「平和的な共存」等の月並みな発言に終始し、パレスチナ国家承認やパレスチナ独立宣言の積極的な評価等、パレスチナ国家独立に関する具体的な提言は全くなされていません。そもそも池田大作氏はパレスチナ関連の要人等に会見や対談等をした事実が皆無なのです。
 
 
またパレスチナ独立宣言の起草者であるマフムード・ダルウィーシュは世界的な詩人の一人です。ダルウィーシュはアジア・アフリカ作家協会による世界的文学賞である「ロータス賞」の第1回の受賞者です(1969年)。
ところが、世界詩歌協会から「世界桂冠詩人」の称号を与えられた筈の池田大作氏なのに、彼はマフムード・ダルウィーシュの感動的な詩に対してスピーチ等で言及したことは一度もありません。
政治的な情勢下でパレスチナに対する評価が困難であるなら、詩人という立場から文学的にダルウィーシュを評価したり、スピーチ等で積極的に紹介したりして、互いの立場をそれぞれに評価するような姿勢が見られれば良いのですが、少なくとも池田大作氏にそのような相互理解を推進するような姿勢が見受けられないのです。
 
桂冠詩人のこと」
 
そして池田大作氏は1996年6月4日、ユダヤの人権団体である「サイモン・ウィーゼンタール・センター」で記念講演を行っています。
サイモン・ウィーゼンタール・センターと言えば、ユダヤ人のホロコーストの記録保存や反ユダヤ主義の監視を行う、世界的な影響力を持つ非政府組織です。
また同センターの副所長であるエイブラハム・クーパーは2023年7月5日、創価大学にて「ホロコーストからの教訓」をテーマに講演を行っています。

Wikipediaで見る限り、クーパー氏はパレスチナの主張する領有権(国連安保理決議242に基づく国境線)それ自体を「反ユダヤ主義」と主張しています。また彼は1967年以前の国境線を「我々にとってアウシュヴィッツの記憶のようなものを作っている」とまで主張しているのです(2020年2月11日)。
 
M・テヘラニアン氏との対談で「平和的な共存」を述べる池田大作氏の思想から見て、このクーパー氏の「パレスチナ国境線を反ユダヤ主義」とする考えは果たして「平和的な両国家の共存」に寄与する発言と評価できるでしょうか。さまざまな意見があるとは思いますが、私は違うと思いますし、もっと別の言い方ができる筈だとも考えます。
 
創価学会本体は確かに2023年10月26日、「悪化する中東情勢」に関して声明を発表し「パレスチナガザ地区の一般市民への保護」「緊急援助を届けるための人道的停戦の支持」「国際社会が連帯して戦闘行為の停止と緊張緩和に向けた努力を傾けること」等を呼びかけました。しかしながら、創価学会本体はパレスチナ国家承認や独立について言及したことが今まで全くないのです。少なくとも私は見たことがありません。
もしも創価学会本体が、パレスチナイスラエルの「平和的な共存」を今現在も理想としているのならば、イスラエル寄りに取られかねない現在の在り方を見直し、パレスチナ国家承認やイスラエル独立宣言に対する評価、またイスラエルだけでなくパレスチナに対する公平な評価、両国的な外交的な交流等を積極的に発信すべきではないかと私個人は考えます。
 
 
 
 
参考文献
蔦木栄一「創立者・池田SGI会長のユダヤ観」『東洋哲学研究所紀要』34号所収、2024年
 
 
 
 
 

 

「正直捨方便」は鳩摩羅什による改竄である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は法華経方便品における「正直捨方便」の一節についてです。
結論から申し上げますと、実はこの「正直捨方便」という言葉はサンスクリット原典に対応する言葉が存在せず、鳩摩羅什による加筆・改竄の可能性が高いと私は考えています。
 
まず法華経方便品で、鳩摩羅什漢訳版の当該部分と、サンスクリット原典の当該部分を対照してみましょう。以下の画像は坂本幸男・岩本裕訳『法華経(上)』(岩波文庫、1962年)の128ページ(鳩摩羅什漢訳)と129ページ(サンスクリット原典訳)になります。

 
ご覧になられてわかるように「正直捨方便」にあたる言葉はサンスクリット原典の法華経には存在していません。あるのは「仏の息子たちの真中で教えを説き、かれらに「さとり」を勧めたのであった」と言う文章で、どこにも「正直に方便を捨て」とは書かれていません。「ためらう心をすべて捨てて」とあるのは、その前の節で「今我喜無畏」に対応した部分です。当然ですが「ためらう心」は「方便」の訳語にはあたりません。
 
この点に関して苅谷定彦氏の「羅什訳『妙法蓮華経』の問題点(3)」(『印度学仏教学研究』34巻2号所収、1986年)には次のように書かれています(763〜764ページ)。

「現行梵本によれば「我今喜無畏 於諸菩薩中 正直捨方便 但説無上道」に対応するところは「その時、私は無畏にして、歓喜し、躊躇の念を全く捨てて、善逝の子(菩薩)たちの真中で語る。そして彼らを覚りに向けて教化するのだ」とある。即ち、ここで菩薩に対して説かれたものは彼らをして正覚を得せしめる教説であり、即ち衆生の成仏を明かした大乗の教説であり、しかもそれは、すでに過去世に諸仏のもとで説法を聞いてきたものにのみ説かれたものであって、決して一切の衆生に説かれたものではない。」(同763ページ)
 
「このような『妙法華』をもって、『所依梵本』の等質等量の訳とすることができるであろうか。それよりは、羅什の二乗方便説という法華経観にもとづく意図的改竄の結果と見る方がより妥当ではないだろうか。」(同764ページ)
 
読者のみなさんはどう感じられるでしょうか。私は全く刈谷定彦氏の言われる通りで、鳩摩羅什の信仰観の考え方により、方便品で「正直捨方便」と意図的に加筆・改竄されたと考えます。
 
 
 
 

 

元広宣部や非活・未活・退会信者の読者とともに。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
こんなブログを書いていまして、私が小難しい教学の記事を書くことも多く、「気楽非活さんは教学の知識がある」と言われることもあるのですが、本人は全然そんなことを思っていません。
というのも、私は単なる広宣部上がりの元活動家というだけ。しかも研究者のような方から見れば日蓮真蹟の翻刻もできませんし、そもそも各寺所蔵の真蹟等を実地調査した訳でもありません。鎌倉時代の文献が読める訳でもありませんし、僧籍にあるのでもありません。サンスクリット語も読めませんし、漢訳教典や大蔵経等を網羅して読んだ訳でもありません。
こんなブログを書くにあたり、各記事に参考文献で挙げている研究者たちの論文を読むこともありますが、優れた人たちの研究を読むにつけ、自身の研鑽の不足、また能力の無さを実感します。
私がこのブログで書いていることは、私がそれらの研究等を読み、文献を一つ一つ可能な範囲で収集し、理解できる範囲で日蓮遺文や経典類を読み、わかったことを少しずつまとめてきたものなのです。
 
その原点はどこにあるのかと言われれば、元活動家、元広宣部だったことがやはり大きいのでしょう。
社会人になって数年目、ちょうど創価学会の男子部メンバーの活動家として動き出した矢先ののことですが、広宣部に誘われました。
「広宣部」とは創価学会男子部の人材グループである「創価班」(創価学会の会館駐車場の警備や整理役員、会場内警備を担当する男子部グループ)の中の一組織という位置付けで、本来は顕正会対策の一環として一部組織に行われていたものが全国展開していくことになります。私が入ったのはそんな時期と重なり、また創価班だけでなく「牙城会」(会館警備、電話対応、施錠等を担当する男子部グループ)でも同様に「言論企画部」(方面や地域によっては「言論企画局」とも言いました)も立ち上げられた時期でもありました。
 
そんな広宣部・言論企画部でまず学習したのは顕正会対策です。当時の(1990〜2000年代だったように記憶しますが)創価学会組織では顕正会の活動家による活発な家庭訪問が頻発し、その対応に追われていたのです。
顕正会の次は妙観講対策でした。彼らがどんな教義を信じているのか、創価学会とどこが違うのか、彼らが元々言っていたことは何なのか、史料等から明確にし、相手を回答不能に追い込むことこそ広宣部の主たる任務でした。
 
もちろんそれ以外にも日蓮正宗寺院の張り込み、本山への隠れ登山、末寺への潜入と末寺住職の御講発言の隠し録音、末寺の御講に来る日蓮正宗信徒の人数の把握と隠しビデオ撮影、信者の車のナンバーの記録……今では語るのも憚られるようなストーカー行為に近いことが普通に行われていました。
 
一時期、広宣部メンバーを増やしていた時期もありましたが、それらは御書や文献を丹念に読む「対論グループ」とは別にストーカーまがいに近いことを行う「実働隊グループ」になることが多かったように思います。実際、御書を使った対論はディベートの技術も必要で、苦手意識を持つメンバーも少なくありませんでした。
そういう対論が苦手な実働隊メンバーたちは、いざ対論になると「囲み折伏」のように多勢で相手を囲んで追い込むタイプが散見されました。次第に何年か経つうちに、私のように対論だけで他者と一対一の議論をする広宣部メンバーは少数派になります。やがて広宣部はほとんどの地方組織で廃止されることになります。
 
ところで、私のような「対論グループ」に近い元広宣部メンバーたちには、活動が沙汰止みになっても文献や史料の収集や読解を怠らず行っていた人たちがいました。私も区圏や県組織に独自資料を作って提供していたこともあり、しばらくは個人の研鑽を続けていたのです。
 
とても不思議なことは、2016年以降、私がこのブログを書くようになって数年後くらいに、各方面に点在する元広宣部の「対論派」の人たちから多く情報提供を頂くようになったことです。対論を重視する中心的なメンバーには波田地克利氏の流れをくむ「自活グループ」に近い人たちもいたのですが、それとは別に完全に創価学会教義から離れて研鑽を続ける一部の広宣部メンバーも存在していたことになります。
彼らの情報提供から書いたブログ記事は一つや二つではありません。また情報提供者も一人や二人ではありません。全国に散らばっている元広宣部たちの一部の既に組織活動から離れている人たちが私のブログを読んでくださり、教団や池田大作氏、また広宣部の活動や自活グループらの偽善に気づき、私に連絡を下さるようになったのです。私はてっきり一人で孤立する存在かと思っていたものが、自身が独りではないことを再確認するようになります。
 
私は2016年からこのブログを書いていますが、正直こんなに長く続くとは思ってはいませんでした。私はほとんど孤立状態で話せる仲間も家族も失われていました。ところが、全国に散らばる退会者や非活・未活メンバー、大石寺の棄教・離檀者たちが私のブログを読んで、反応を寄せるようになったのです。その中には何人かの元広宣部メンバーもいました。
彼らは多くがさまざまな史料を所蔵しており、また現在もなお史料収集や関係者への取材を続けている方もいまして、私にさまざまな形で情報提供をしてくださるようになりました。ブログ記事にはそのことを注記で書いている記事もありますし、また当事者の都合で詳しく情報提供者のことを書けない記事も存在します。しかしながら私はそれらの退会者や元広宣部メンバーたちから執筆の協力を受けることができるようになりました。
 
彼らの史料提供は教団内部事情の暴露から、教学的な史料の提供まで幅広くメール等で送付して頂いています。当事者の方の解釈をやや客観的に書くきらいも私のブログにはありますが(それがこのブログの特徴でもあるのですが)、概ね私の執筆を好意的に受け取ってくださっています。改めて感謝申し上げます。
 
みなさまに支えられて今日までブログを続けていけることに本当に感謝しています。どこまで続けられるのかわかりませんが、みなさまの力を得ながら自分らしく「気楽に」書いていこうと思います。いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 

 

宝塔について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は法華経の宝塔についてです。
創価学会日蓮正宗顕正会のような大石寺系教団は法華経見宝塔品の「宝塔」を「生命の尊厳」「人間の五体の比喩」「法華経の行者それ自体が宝塔」と解釈することが多いかと思います。
法華経見宝塔品にはそんなことは書かれていません。単に巨大な宝塔が出現して多宝如来法華経の正統性について証明をするために宝塔が出現したと言うだけなのです。つまりそれ自体を「生命の尊厳の比喩」とすること自体が拡大解釈に他なりません。
 
ところで、法華経の宝塔を「生命の尊厳」とし、それを裏付けるような日蓮遺文とされるものは創価学会系教団によるならほぼ『阿仏坊御書』『日女御前御返事』『御義口伝』の三つほどに限られてしまいます。
 
『阿仏坊御書』では「阿仏坊さながら宝塔」と呼び、法華経の行者を宝塔とします。
『日女御前御返事』で「宝塔」は「日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」と書かれます。
『御義口伝』で「宝塔」は「一心の明鏡」とされています。
ところが、この『阿仏坊御書』『日女御前御返事』『御義口伝』のどれも日蓮真蹟不存、同時代の古写本も不存であり、偽書の疑いの強いものです。つまり日蓮真蹟からは「宝塔が生命」と言う解釈を見出すことができないのです。
 
では日蓮真蹟で「宝塔」に日蓮自身が言及した箇所は存在しないのでしょうか。
実は多岐に渡って「宝塔」の用例は存在します。ところが、日蓮真蹟における「宝塔」は、冒頭でも述べたように、単に法華経の正統性や正しさの証明として述べられているだけなのです。
 
具体的に示してみましょう。
例えば『開目抄』(真蹟身延曽存)で「宝塔」は明確に「天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く」(創価学会旧版御書全集194ページ)と述べられており、諸仏が広長舌を出して法華経の正しさを証明したことしか書かれていません。

 
観心本尊抄』(真蹟中山現存)でも宝塔品に言及されますが、ここでは「宝塔」中の妙法蓮華経とその諸尊等が「本尊の為体(ていたらく)」(同247ページ)とされているだけで、それが法華経の行者の五体だとか心だとか、そんなことは全く書かれてはいないのです。

 
『報恩抄』(真蹟身延曽存、池上他に散在)でも「宝塔」は単に「一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(同328ページ)とされるだけで、殊更に宝塔を何か別のものに比喩として言い換えることを日蓮はしていないのです。

その他、日蓮真蹟中の「宝塔」の用例は、『法華取要抄』『本尊問答抄』『顕仏未来記』『新尼御前御返事』『種種御振舞御書』『寺泊御書』『曾谷入道殿許御書』『兵衛志殿御返事』(建治元年11月)『瑞相御書』『千日尼御前御返事』『千日尼御返事』『祈祷抄』『薬王品得意抄』に存在しますが、上記の16編の真蹟遺文全てを見ても「宝塔」を「法華経の行者の五体」「一心の明鏡」「生命の尊厳の比喩」とするような用例を見出すことはできません。
 
従いまして、創価学会大石寺系教団が述べる「宝塔は生命の尊厳の比喩」のような教義は、そもそも日蓮真蹟に用例のない教義であって、日蓮とは関係のない独自教義である可能性が高いことになります。
 
 
追記
真蹟不存ですが、日蓮の開宗以前の習作とされる『戒体即身成仏義』には「されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり」(昭和新修15〜16ページ)と書かれています。同抄は真言、また中古天台の密教の影響の残る著作であり、録内の同抄を真蹟と判断するなら、「宝塔を一身の当体の比喩」とする思想は密教の思想になるかと考えられます。事実『阿仏坊御書』で「五体」を「地水火風空」の五大に配する思想は、覚鑁の『五輪九字妙秘密義釈』の密教思想です。なお『戒体即身成仏義』は創価学会版御書全集には収録されていません。

 
 

 

大石寺旧信徒たちの「十二日講」の実態。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は日蓮正宗の旧信徒、伝統講の方々の信仰形式についてです。
日蓮正宗大石寺の信徒組織の全体は本来「法華講連合会」と呼ばれます。これは「講」と呼ばれる複数の信徒組織の緩やかな連合体のようなものです。いわゆる「法華講」とされるものも所属する寺院によって異なる特徴があります。また「妙観講」等、独自の名称を持つ組織もあります。かつては創価学会顕正会(旧妙信講)もこの大石寺の講組織の一つだったのです。
 
ところで、これら多くの講組織と別に法華講には「伝統講」「旧信徒」と呼ばれる人たちが存在します。多くの講組織は昭和期の創価学会からの教義の侵食を受けましたが、このブログでも何度か取り上げていますように旧信徒たちは本来の日蓮正宗の教義を保っている人たちです。彼らは神社にも参拝しますし、曼荼羅本尊の奉安様式も現在の多くの法華講信徒と異なり、一体一仏式で祀ります。そしてなぜか法華講連合会の役員人事等ではこれら「旧信徒」たちが優遇される傾向さえあります。つまり日蓮正宗徒組織の内部では創価学会出現以前と以後とで教義のダブルスタンダードが起こっているのです。
 
「昭和期の創価学会の影響下の大石寺
 
「神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義」
 
大石寺伝統講・旧信徒さんについて」
 
「本尊の奉安様式」
 
「「棟札本尊」について」
 
「登山会のこと」
 
「南無天照八幡等諸仏」
 
さて今回はブログ読者からの史料提供によるもので、大石寺伝統講・旧信徒たちの曼荼羅本尊信仰の実態について少し書いてみたいと思います。史料提供、大変にありがとうございます。
 
実は旧信徒たちの中には曼荼羅本尊を複数体、人によっては数十体以上もの曼荼羅本尊を家庭に保管していることがあります。これは創価学会や現在の多くの新参法華講の信徒家庭ではあり得ないことです。このことは多く指摘されていまして、松岡幹夫氏の実態調査によれば複数体の曼荼羅が巻かれて保存されていたり、何体もの曼荼羅を虫干しの日にまとめて広げたりする旧信徒の実態が明らかにされています。以下の画像は松岡幹夫『日蓮正宗の神話』(論創社、2006年)からの転載です(332〜333ページ)。

 
さて今回の読者からの史料提供は静岡県の県史民俗調査報告書によるものです。これによりますと、静岡県沼津市井出地区に伝わる「お題目の民間信仰」という記述があり、大石寺信徒と身延山信徒が座敷に講中のそれぞれの宗派の曼荼羅を掲げて題目を唱える「十二日講」という風習が現代まで続いていたことがわかっています。
この史料の中で、日蓮正宗の蓮興寺檀家には曼荼羅本尊を30体以上所有している人がいることも記述されています。

そして「お題目の民間信仰」は大石寺身延山の信徒が「宗派に関係なく」「十二日講」で曼荼羅本尊を掲げてともに題目を唱えて、終了後に皆でお茶等を楽しむことが行われていたことが報告されています。

このように日蓮正宗の旧信徒・伝統講の家庭は、現在の法華講創価学会のように一体一幅のみの曼荼羅を奉る本尊奉安様式はとってはいなかったのです。また現在の創価学会法華講信徒は各家庭に一体のみの曼荼羅本尊を提げる形式をとりますが、旧信徒はそんなことをせず、複数体の曼荼羅本尊を巻いて保管・所有し、身延山と合同の「十二日講」にも一緒に参加して身延山信徒と題目も唱えていたと言うことになります。
 
 
参考文献
松岡幹夫『日蓮正宗の神話』論創社、2006年
静岡県教育委員会・文化課県史編纂室編『静岡県史民俗調査報告書第十六集 井出の民俗 -沼津市-』静岡県発行、1992年