気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

元広宣部や非活・未活・退会信者の読者とともに。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
こんなブログを書いていまして、私が小難しい教学の記事を書くことも多く、「気楽非活さんは教学の知識がある」と言われることもあるのですが、本人は全然そんなことを思っていません。
というのも、私は単なる広宣部上がりの元活動家というだけ。しかも研究者のような方から見れば日蓮真蹟の翻刻もできませんし、そもそも各寺所蔵の真蹟等を実地調査した訳でもありません。鎌倉時代の文献が読める訳でもありませんし、僧籍にあるのでもありません。サンスクリット語も読めませんし、漢訳教典や大蔵経等を網羅して読んだ訳でもありません。
こんなブログを書くにあたり、各記事に参考文献で挙げている研究者たちの論文を読むこともありますが、優れた人たちの研究を読むにつけ、自身の研鑽の不足、また能力の無さを実感します。
私がこのブログで書いていることは、私がそれらの研究等を読み、文献を一つ一つ可能な範囲で収集し、理解できる範囲で日蓮遺文や経典類を読み、わかったことを少しずつまとめてきたものなのです。
 
その原点はどこにあるのかと言われれば、元活動家、元広宣部だったことがやはり大きいのでしょう。
社会人になって数年目、ちょうど創価学会の男子部メンバーの活動家として動き出した矢先ののことですが、広宣部に誘われました。
「広宣部」とは創価学会男子部の人材グループである「創価班」(創価学会の会館駐車場の警備や整理役員、会場内警備を担当する男子部グループ)の中の一組織という位置付けで、本来は顕正会対策の一環として一部組織に行われていたものが全国展開していくことになります。私が入ったのはそんな時期と重なり、また創価班だけでなく「牙城会」(会館警備、電話対応、施錠等を担当する男子部グループ)でも同様に「言論企画部」(方面や地域によっては「言論企画局」とも言いました)も立ち上げられた時期でもありました。
 
そんな広宣部・言論企画部でまず学習したのは顕正会対策です。当時の(1990〜2000年代だったように記憶しますが)創価学会組織では顕正会の活動家による活発な家庭訪問が頻発し、その対応に追われていたのです。
顕正会の次は妙観講対策でした。彼らがどんな教義を信じているのか、創価学会とどこが違うのか、彼らが元々言っていたことは何なのか、史料等から明確にし、相手を回答不能に追い込むことこそ広宣部の主たる任務でした。
 
もちろんそれ以外にも日蓮正宗寺院の張り込み、本山への隠れ登山、末寺への潜入と末寺住職の御講発言の隠し録音、末寺の御講に来る日蓮正宗信徒の人数の把握と隠しビデオ撮影、信者の車のナンバーの記録……今では語るのも憚られるようなストーカー行為に近いことが普通に行われていました。
 
一時期、広宣部メンバーを増やしていた時期もありましたが、それらは御書や文献を丹念に読む「対論グループ」とは別にストーカーまがいに近いことを行う「実働隊グループ」になることが多かったように思います。実際、御書を使った対論はディベートの技術も必要で、苦手意識を持つメンバーも少なくありませんでした。
そういう対論が苦手な実働隊メンバーたちは、いざ対論になると「囲み折伏」のように多勢で相手を囲んで追い込むタイプが散見されました。次第に何年か経つうちに、私のように対論だけで他者と一対一の議論をする広宣部メンバーは少数派になります。やがて広宣部はほとんどの地方組織で廃止されることになります。
 
ところで、私のような「対論グループ」に近い元広宣部メンバーたちには、活動が沙汰止みになっても文献や史料の収集や読解を怠らず行っていた人たちがいました。私も区圏や県組織に独自資料を作って提供していたこともあり、しばらくは個人の研鑽を続けていたのです。
 
とても不思議なことは、2016年以降、私がこのブログを書くようになって数年後くらいに、各方面に点在する元広宣部の「対論派」の人たちから多く情報提供を頂くようになったことです。対論を重視する中心的なメンバーには波田地克利氏の流れをくむ「自活グループ」に近い人たちもいたのですが、それとは別に完全に創価学会教義から離れて研鑽を続ける一部の広宣部メンバーも存在していたことになります。
彼らの情報提供から書いたブログ記事は一つや二つではありません。また情報提供者も一人や二人ではありません。全国に散らばっている元広宣部たちの一部の既に組織活動から離れている人たちが私のブログを読んでくださり、教団や池田大作氏、また広宣部の活動や自活グループらの偽善に気づき、私に連絡を下さるようになったのです。私はてっきり一人で孤立する存在かと思っていたものが、自身が独りではないことを再確認するようになります。
 
私は2016年からこのブログを書いていますが、正直こんなに長く続くとは思ってはいませんでした。私はほとんど孤立状態で話せる仲間も家族も失われていました。ところが、全国に散らばる退会者や非活・未活メンバー、大石寺の棄教・離檀者たちが私のブログを読んで、反応を寄せるようになったのです。その中には何人かの元広宣部メンバーもいました。
彼らは多くがさまざまな史料を所蔵しており、また現在もなお史料収集や関係者への取材を続けている方もいまして、私にさまざまな形で情報提供をしてくださるようになりました。ブログ記事にはそのことを注記で書いている記事もありますし、また当事者の都合で詳しく情報提供者のことを書けない記事も存在します。しかしながら私はそれらの退会者や元広宣部メンバーたちから執筆の協力を受けることができるようになりました。
 
彼らの史料提供は教団内部事情の暴露から、教学的な史料の提供まで幅広くメール等で送付して頂いています。当事者の方の解釈をやや客観的に書くきらいも私のブログにはありますが(それがこのブログの特徴でもあるのですが)、概ね私の執筆を好意的に受け取ってくださっています。改めて感謝申し上げます。
 
みなさまに支えられて今日もブログを続けていけることに本当に感謝しています。どこまで続けられるのかわかりませんが、みなさまの力を得ながら自分らしく「気楽に」書いていこうと思います。いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 

 

宝塔について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は法華経の宝塔についてです。
創価学会日蓮正宗顕正会のような大石寺系教団は法華経見宝塔品の「宝塔」を「生命の尊厳」「人間の五体の比喩」「法華経の行者それ自体が宝塔」と解釈することが多いかと思います。
法華経見宝塔品にはそんなことは書かれていません。単に巨大な宝塔が出現して多宝如来法華経の正統性について証明をするために宝塔が出現したと言うだけなのです。つまりそれ自体を「生命の尊厳の比喩」とすること自体が拡大解釈に他なりません。
 
ところで、法華経の宝塔を「生命の尊厳」とし、それを裏付けるような日蓮遺文とされるものは創価学会系教団によるならほぼ『阿仏坊御書』『日女御前御返事』『御義口伝』の三つほどに限られてしまいます。
 
『阿仏坊御書』では「阿仏坊さながら宝塔」と呼び、法華経の行者を宝塔とします。
『日女御前御返事』で「宝塔」は「日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」と書かれます。
『御義口伝』で「宝塔」は「一心の明鏡」とされています。
ところが、この『阿仏坊御書』『日女御前御返事』『御義口伝』のどれも日蓮真蹟不存、同時代の古写本も不存であり、偽書の疑いの強いものです。つまり日蓮真蹟からは「宝塔が生命」と言う解釈を見出すことができないのです。
 
では日蓮真蹟で「宝塔」に日蓮自身が言及した箇所は存在しないのでしょうか。
実は多岐に渡って「宝塔」の用例は存在します。ところが、日蓮真蹟における「宝塔」は、冒頭でも述べたように、単に法華経の正統性や正しさの証明として述べられているだけなのです。
 
具体的に示してみましょう。
例えば『開目抄』(真蹟身延曽存)で「宝塔」は明確に「天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く」(創価学会旧版御書全集194ページ)と述べられており、諸仏が広長舌を出して法華経の正しさを証明したことしか書かれていません。

 
観心本尊抄』(真蹟中山現存)でも宝塔品に言及されますが、ここでは「宝塔」中の妙法蓮華経とその諸尊等が「本尊の為体(ていたらく)」(同247ページ)とされているだけで、それが法華経の行者の五体だとか心だとか、そんなことは全く書かれてはいないのです。

 
『報恩抄』(真蹟身延曽存、池上他に散在)でも「宝塔」は単に「一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(同328ページ)とされるだけで、殊更に宝塔を何か別のものに比喩として言い換えることを日蓮はしていないのです。

その他、日蓮真蹟中の「宝塔」の用例は、『法華取要抄』『本尊問答抄』『顕仏未来記』『新尼御前御返事』『種種御振舞御書』『寺泊御書』『曾谷入道殿許御書』『兵衛志殿御返事』(建治元年11月)『瑞相御書』『千日尼御前御返事』『千日尼御返事』『祈祷抄』『薬王品得意抄』に存在しますが、上記の16編の真蹟遺文全てを見ても「宝塔」を「法華経の行者の五体」「一心の明鏡」「生命の尊厳の比喩」とするような用例を見出すことはできません。
 
従いまして、創価学会大石寺系教団が述べる「宝塔は生命の尊厳の比喩」のような教義は、そもそも日蓮真蹟に用例のない教義であって、日蓮とは関係のない独自教義である可能性が高いことになります。
 
 
追記
真蹟不存ですが、日蓮の開宗以前の習作とされる『戒体即身成仏義』には「されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり」(昭和新修15〜16ページ)と書かれています。同抄は真言、また中古天台の密教の影響の残る著作であり、録内の同抄を真蹟と判断するなら、「宝塔を一身の当体の比喩」とする思想は密教の思想になるかと考えられます。事実『阿仏坊御書』で「五体」を「地水火風空」の五大に配する思想は、覚鑁の『五輪九字妙秘密義釈』の密教思想です。なお『戒体即身成仏義』は創価学会版御書全集には収録されていません。

 
 

 

大石寺旧信徒たちの「十二日講」の実態。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は日蓮正宗の旧信徒、伝統講の方々の信仰形式についてです。
日蓮正宗大石寺の信徒組織の全体は本来「法華講連合会」と呼ばれます。これは「講」と呼ばれる複数の信徒組織の緩やかな連合体のようなものです。いわゆる「法華講」とされるものも所属する寺院によって異なる特徴があります。また「妙観講」等、独自の名所を持つ組織もあります。かつては創価学会顕正会(旧妙信講)もこの大石寺の講組織の一つだったのです。
 
ところで、これら多くの講組織と別に法華講には「伝統講」「旧信徒」と呼ばれる人たちが存在します。多くの講組織は昭和期の創価学会からの教義の侵食を受けましたが、このブログでも何度か取り上げていますように旧信徒たちは本来の日蓮正宗の教義を保っている人たちです。彼らは神社にも参拝しますし、曼荼羅本尊の奉安様式も現在の多くの法華講信徒と異なり、一体一仏式で祀ります。そしてなぜか法華講連合会の役員人事等ではこれら「旧信徒」たちが優遇される傾向さえあります。つまり日蓮正宗徒組織の内部では創価学会出現以前と以後とで教義のダブルスタンダードが起こっているのです。
 
「昭和期の創価学会の影響下の大石寺
 
「神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義」
 
大石寺伝統講・旧信徒さんについて」
 
「本尊の奉安様式」
 
「「棟札本尊」について」
 
「登山会のこと」
 
「南無天照八幡等諸仏」
 
さて今回はブログ読者からの史料提供によるもので、大石寺伝統講・旧信徒たちの曼荼羅本尊信仰の実態について少し書いてみたいと思います。史料提供、大変にありがとうございます。
 
実は旧信徒たちの中には曼荼羅本尊を複数体、人によっては数十体以上もの曼荼羅本尊を家庭に保管していることがあります。これは創価学会や現在の多くの新参法華講の信徒家庭ではあり得ないことです。このことは多く指摘されていまして、松岡幹夫氏の実態調査によれば複数体の曼荼羅が巻かれて保存されていたり、何体もの曼荼羅を虫干しの日にまとめて広げたりする旧信徒の実態が明らかにされています。以下の画像は松岡幹夫『日蓮正宗の神話』(論創社、2006年)からの転載です(332〜333ページ)。

 
さて今回の読者からの史料提供は静岡県の県史民俗調査報告書によるものです。これによりますと、静岡県沼津市井出地区に伝わる「お題目の民間信仰」という記述があり、大石寺信徒と身延山信徒が座敷に講中のそれぞれの宗派の曼荼羅を掲げて題目を唱える「十二日講」という風習が現代まで続いていたことがわかっています。
この史料の中で、日蓮正宗の蓮興寺檀家には曼荼羅本尊を30体以上所有している人がいることも記述されています。

そして「お題目の民間信仰」は大石寺身延山の信徒が「宗派に関係なく」「十二日講」で曼荼羅本尊を掲げてともに題目を唱えて、終了後に皆でお茶等を楽しむことが行われていたことが報告されています。

このように日蓮正宗の旧信徒・伝統講の家庭は、現在の法華講創価学会のように一体一幅のみの曼荼羅を奉る本尊奉安様式はとってはいなかったのです。また現在の創価学会法華講信徒は各家庭に一体のみの曼荼羅本尊を提げる形式をとりますが、旧信徒はそんなことをせず、複数体の曼荼羅本尊を巻いて保管・所有し、身延山と合同の「十二日講」にも一緒に参加して身延山信徒と題目も唱えていたと言うことになります。
 
 
参考文献
松岡幹夫『日蓮正宗の神話』論創社、2006年
静岡県教育委員会・文化課県史編纂室編『静岡県史民俗調査報告書第十六集 井出の民俗 -沼津市-』静岡県発行、1992年
 
 
 
 
 

 

一闡提について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は「一闡提」(いっせんだい)という言葉についてです。
この「一闡提」という語は『大般涅槃経』に出てくる語で、主に日蓮正宗創価学会系の信者たちの間では「正法を信じず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生」くらいの意味で用いられています。大石寺系信者たちの間では「自分たちの教えを信じない人間」を指す蔑称のように使われることも少なくありません。
 
日蓮はこの「一闡提」の語を普通に使います。主に『立正安国論』『守護国家論』『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』『下山御消息』等の重要な遺文でも多用されていますから、正しく「一闡提」は日蓮が使っていた言葉と言えるでしょう。
 
ところでこの「一闡提」という語、奇妙なことですが、『法華経』には全く出てこない言葉なのです。具体的には『大乗涅槃経』『楞伽経』『宝性論』で説かれ、成立の遅い時期の大乗仏典にしか現れない語なのです。
 
事実、創価大学・国際仏教学高等研究所の辛嶋静志氏の論文(「一闡提(icchantika)は誰か」『創価大学・国際仏教学高等研究所・年報』第5号所収、2002年)でも、本来の原語の"icchantika"が「比較的成立の遅い如来蔵大乗仏典とMahāvyutpattiにしか現れない」とされています。

日蓮は『立正安国論』で「一闡提」の語を説明するのにやはり『大乗涅槃経』を引用しています。以下の画像は創価学会旧版御書全集の27ページからのものですが、やはり日蓮は「即ち涅槃経に云く」として「一闡提」を説明しているのです。

 
しかしながらこれらはあくまで日蓮が天台の五時八教判から『大乗涅槃経』を単純に「法華涅槃時」と盲信しているだけのことです。既に広く知られる通り、『法華経』の成立と『大乗涅槃経』の成立は全く別のことであり、両者を結び付ける文献学的な根拠は何一つありません。しかも「一闡提」の語は『法華経』中に存在しません。
 
もしも大石寺系信者たちが宗祖の日蓮を批判的に継承し得るとするなら、日蓮の五時八教判への過信について、日蓮その人を批判した上で『法華経』に基づかない「一闡提」の語を何の検討もせずに正しい教義であるかのように用いて他者への蔑称として使うことを見直すべきかと私などは思います。
 
 
 
 
 

 

文上と文底。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私はこんなブログを書いているためか、あちこちから批判されることもしばしばです。もちろん生産的な批判や、私の間違い等を正してくださる賢明な読者もおりまして、そのようなご意見やご批判はありがたく思っています。
ただ問題なのは、日蓮正宗創価学会顕正会のようないわゆる大石寺系信者からの意味のわからない批判なのです。
 
 
例えばよくある批判に「お前は文底の法門を知らない」「日蓮大聖人の法門には文底の法門があるのだ」「お前は文上読みに過ぎない」というものがあります。
 
 
批判をされた方には申し訳ないのですが、日蓮の遺文から見れば「文底」は「法華経」の文の底という意味でしか使われていません。日蓮は自分の説いた法門や御書・遺文に対して「文上」「文底」があるなどと述べたことは一度もないのです。したがって日蓮の法門に「文上」や「文底」があるとする考えは日蓮から見れば誤りなのです。
 
具体的に日蓮遺文から見てみましょう。「文の底」という表現は『開目抄』に存在します。ここには「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」創価学会旧版御書全集189ページ)と述べられています。ここでは明確に「寿量品の文の底」と書かれています。したがって「文の底」とは法華経如来寿量品の文の底なのであって、他の「文の底」など一切書かれていません。

 
ちなみに「文の底」と書かれた日蓮真蹟遺文は、この『開目抄』のこの1か所のみです。他に「文の底」と書かれた日蓮真蹟遺文は存在しません。
真蹟不存の遺文では『本因妙抄』に2カ所「文の底」という用例が存在するのみです(同871、877ページ)。しかしながらここでも「寿量品の文の底」(871ページ)と書かれておりまして「日蓮の法門に文底がある」などという意味にとることはできません。しかも同抄は本文で最澄の帰国の年代に矛盾が存在していますので、偽作されたものであることはほぼ間違いないと推察されます。
 
「『本因妙抄』本文の改竄」
 
なお日蓮遺文中に「文上」という用例は一つも存在しません。また「文の底」という表現があるだけで実際には「文底」と日蓮は用いていないのです。
これは大石寺26世堅樹院日寛の教学なのであって、日寛は『三重秘伝抄』において日蓮『開目抄』の「文の底」という表現を大石寺だけに伝わる「三重秘伝」として「権実相対」「本迹相対」「種脱相対」として展開し、その議論の中で「文上」「文底」という概念があたかも日蓮自身の概念であるかのように教義形成されただけのことなのです。
 
要約すると「文の底」は日蓮真蹟遺文では『開目抄』の1か所のみ言及され「如来寿量品の文の底に沈められた一念三千」という意味で使われており、日蓮は自身の法門に「文の底」の法門があるなどと述べたことはないということです。
そして「文上」や「文底」という表現は、日蓮が一度も使ったことがない表現であり、後世に作られた概念でしかないということになります。
 
 
 
 

 

『四菩薩造立抄』について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
ところで『四菩薩造立抄』という日蓮の遺文をみなさんはご存知でしょうか。
この御書は録外初出、日蓮真蹟も古写本も現存しません。したがって同抄の成立については疑義が持たれているようです。
この御書は弘安2年5月17日の日付があり、仮に真蹟と判断するなら佐渡以降、身延にいる頃に書かれたことになります。
 
いくつかの伝によるなら、富木常忍からの供養の品物が贈られ、その中で仏像造立について富木氏が日蓮に指導を仰いだのに対して送られた書状ということになっています。
内容は日蓮が釈迦仏像を一尊四士(釈迦像の周りに上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を立てて建立される仏像形式)を認め、今がまさにその時期であることが示されています。
 
具体的に引用してみましょう。『四菩薩造立抄』では「御状に云く本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき」(創価学会旧版御書全集987ページ)「今末法に入れば尤も仏の金言の如くんば造るべき時なれば本仏・本脇士造り奉るべき時なり」(同988ページ)と書かれています。弘安2年の述作なのに日蓮が仏像造立を認め、今がその造立の時であると日蓮が認めていることになります。

 
この御書は真蹟不存ですが、創価学会日蓮正宗等の教団もこの『四菩薩造立抄』については教団発行の御書全集に収録しており、指導でも使っております。
ところが、創価学会日蓮正宗は、この御書の「仏像造立」という点からは論点を逸らし、部分的な切り売りで、信徒に学ばせるのです。例えば日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり」(同988ページ)日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(同989ページ)などです。特に創価学会では後者を切り文で引用して「師弟不二の信心を貫く」等、同抄の論点とは逸れた、全然違う指導をします。また日蓮正宗では富木常忍さえも批判し「日蓮大聖人の深い法門をご理解できなかったのであろう」と訳のわからない論点逸らしをするのです。同抄を読めば明らかですが、日蓮自身が明確に「一尊四士」の「仏像造立」を認め、その「時」がまさに「今である」と述べているのです。

 
教団は教団に都合の良いように遺文を解釈します。むろん教義の裁定権が教団やその教学部にあることは当然ですが、それにもかかわらず、宗祖の遺文とされるものを全く違う論点にすり替えるというのはやはり批判されて然るべきかと私は思います。
 
 

 

極楽浄土に女性はいない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
今回は「極楽浄土には女性はいない」と言う点です。
 
このブログで既に書いていることですが、法華経中に即身成仏は説かれておらず、代わりに未来世において成仏する予言や極楽浄土に往生することが説かれています。提婆達多品における龍女の成仏でさえ即身成仏ではありません。龍女は法華経で「変成男子」と言い、男性になって(サンスクリット原典では「股間に男性器が生えて」)未来において成仏する姿が神通力によって示されるのです。つまり法華経には即身成仏は説かれていないことになります。
 
法華経の成仏は未来世の予言に過ぎない」
 
法華経薬王品における臨終往生」
 
「来世における成仏の記別」
 
法華経』では極楽往生が説かれ、女性は転生しても二度と女には生まれず、男性になって極楽浄土に往生することが説かれているのです。
創価大石寺系信徒の方には信じられない方もいると思いますので、具体的に法華経から引用して見てみましょう。
 
まず『法華経』の薬王品です。薬王品には「もし女人あってこの薬王菩薩本事品を聞いてよく受持するなら、この女身を尽くして後にまた受けることはない」と書かれています。
以下の画像は『妙法蓮華経並開結』(創価学会版、2002年)の598〜599ページですが、明確に「能受持者、尽是女身、後不復受」と書かれています。つまり二度と再び女性の身として生まれてくることはないと言うことが「福徳」の一つとして法華経には説かれているのです。そして女人は男性となって初めて「安楽世界阿弥陀仏・大菩薩衆囲遶住所」に「即往」することになるのです。

 
この「能受持者、尽是女身、後不復受」という句について、『法華経』の岩波文庫版の訳者の一人である坂本幸男氏は注において「女人は多く己が身に愛着するも、今薬王菩薩の身を捨て臂を焼くを聞いて執著の心を破するが故に、死後再び女身を受けずというのである」と明確に述べています(『法華経』(下)368ページ、岩波文庫、1967年)。

 
また『法華経』観世音菩薩普門品には「西方に幸福の鉱脈である極楽世界がある」「そこには女性は生まれることはなく、性交の慣習は全くない」と書かれています。
以下、岩本裕訳『法華経』(下)(岩波文庫、1967年)267〜269ページから具体的に引用してみましょう。なおこの部分は鳩摩羅什漢訳では削除されています。
 
「あらゆる苦悩と恐怖と憂いを滅すアヴァローキテーシュヴァラ(観世音)を、わたしは礼拝する。
ローケーシュヴァラ=ラージャ(世自在王)を指導者とした僧の
ダルマーカラ(法蔵)は、世間から供養されて、幾百劫という多年のあいだ修行して、
汚れない最上の『さとり』に到達してアミターバ(阿弥陀如来となった。
アヴァローキテーシュヴァラはアミターバ仏の右側あるいは左側に立ち、
かの仏を扇ぎつつ、幻にひとしい一切の国土において、仏に香を供養した。
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)世界がある。
そこに、いま、アミターバ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。
汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に坐る。
かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、
獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
彼はまたこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。わたしはかの仏を讃歎して、
『速かに福徳を積んで汝のように最も勝れた人間(仏)となりたい』と祈念する。」
(『法華経』(下)、岩波文庫版、267〜269ページ)

 
このように『法華経』には明確に「極楽浄土に往生する」ことが説かれており、そして極楽浄土に往生する際に女性は極楽浄土に生まれることができないため、女性から男性に転生しなければならないのです。
龍女が成仏する時も龍女は「変成男子」して未来世において成仏することが予言されます。したがって『法華経』には女性は女性の身のままで「即身成仏」する原理が説かれていないのです。『法華経』に依拠するなら、女性は死後二度と再び女性として生まれず、阿弥陀仏の極楽世界に男性として転生し、往生することになるのです。