元センセー 日記

元都内公立小学校教師、現在は色んな考えや世界に触れて変わっていく自分とその周囲を観察するのが楽しい.

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インドビザ申請でトラブって 続編

前回インドビザ申請時にトラブルが起き、購入済チケットも、住民票の海外移住届等の手続きもすべてキャンセルした。

 

あれから1週間。

 

今日はインド大使館に行ってみた。*アポなし

 

◆提出要請書類持参

前回記事の最後に唐突に要請された書類の「FCRA」というのを少し調べてみた。

インド国内にあるNGOなどの団体が、海外通貨を受け取る際に必要になる口座のようなものらしい。

これは最初から1000万ルピーなど金額が決まっていて、そこから使う(外貨を受け取る)ごとに減っていくというものらしい。

まあ、よくわからない。

 

調べたい人はこちら

FCRA

 

とにかくそれを当方団体から受け取りFAX送付した。

 

因みにインド大使館のFAX等情報は以下のようになっている。

Welcome to Embassy of India, Tokyo (Japan)

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+81~~は日本の国番号だけど、海外からかける人のためなのかな。

でも日本語だから日本人のためのはず。海外にいる日本人が駐日インド大使館にでんわかけるのかな。元英語の記事を和訳しただけかも。

 

とにかく、ここに記載のあるFAX番号に送ったけど届いていなかった。

 

その後口頭で教えてもらった番号「03-3239-2449」に再送付。

 

FAXが届いているか心配だったので、(1回目は届いていなかった)翌日電話してみた。

「Sorry we dont get that kind of letter」

またまた届いていないようだった。

 

どうなっているのか?

 

ということで直接アタック。

 

◆困ってそうな日本人であふれてる大使館

 

直接またまた九段下の大使館に行ってみた。

 

書類を渡すときについでに面接尋問され得ないので、

いろいろ調べて

「これはいったらあかん。」

「こういった方が無難か。」

とあれこれ考えている間に順番が来て、

書類を渡そうとすると

「もう届いてますのでこれは結構です。」

と。

「あれ、あ?はあい。」

届いていたらしい。

 

 

「上司に、本人が直接来ていること伝えますのでしばらくお待ちください。」

とやはり面接になりそうでビクつく。

 

 

10分経っても呼ばれない。

 

その間に何人かの日本人がビザ申請手続きを目の前で行っていたが

初めての人か、そうでなくても皆、日本の役所対応とのあまりの違いにいろいろと苦労している様子だった。

 

「え?この書類じゃダメなんですか?」

「ぴったりはお金ないです。」

「返送用封筒はこれ使えないの?」

「受け取りは1時間だけなの?」

 

などなど。

 

最後の男性は何度も大使館を往復させられたようで

「不親切すぎる!」

といかっていた。

 

確かに、インドビザ申請には手こずる。

理由は

・大使館サイトで日本語の明確な情報がない。

・情報が頻繁に大幅に変わる。

・その場での対応範囲が狭い。(以前のVISA代行業者の時は高額だったが、書類不備があった際にやりなおすパソコンや印刷機、照明写真機が設置されていた。)

 

前も言ったけどここからインドの旅が始まっているといつも思わされる。

でも、日本のサービス対応は逆に良すぎるかな。

 

◆結末は。。。?

30分ほど経って呼ばれた。

「やはり今回はジャーナリストVISAでしか行けません。」

そっちかい。

NGOの方を聞かれて違法性をついてくるのかと勘ぐっていたから拍子抜けした。

 

「はい。いいですよ。もちろん。すみませんお手数おかけして。」

今度はゴマをすってしたてに出るのを忘れない。大切な教訓だ。

 

「それと」

「はい」

NGOとかはあんまり言わない方がいいです。」

「はい。」

「面倒になるので」

 

 

 

 

結果、3ヶ月間だけだけどビザは取得できそうだ。

 

 

◆おわりに

海外にいく際は、しっかりと外交門である大使館情報を確認すること、そしてそれに関連する民衆のブログなどの口コミも参考にしていくことが大切だと思った。

NGOいうたらあかんよ、みなさん。

 

 

 

つづくかも。

 

 

 

 

 

しあわせの地ラダックで感じた母の叫び

あなたの知らないところにいろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえのないように
あなたの知らない人生もまたかけがえがない
人を愛するということは知らない人生を知るということだ

  

灰谷健次郎「ひとりぼっちの動物園」

 

 

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年下の面倒を見るのは年上の当然の行い。全寮寄宿舎でよく見られる風景だ。(2015年5月)

 

知らない人の人生を想う

 

というのが「優しさ」

だと教えてくれたのは著名な児童文学作家の「灰谷健次郎」さん。

 

◆ラダック農村で感じること

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大畑が一面に広がるカルギル区の仏教村ワカ村。(2015年6月)

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洞窟の中で見つけたのは自然葬が主流のラダックで唯一の弔いの証でもある「ツァツァ」を見つけた。スキュルブーチャン村。(2015年9月) 

 

話が変わるが。

 

 ラダック(インド北部)、特に奥地のマネー経済の影響が少なく自給率の高い村、つまり「美しい村」といわれているところにホームステイしているといつも感じることがある。

 

 

それは「自責の念」。

 

主に観光客が訪れる夏季は現地ラダックでは農繁期

1年分の食料を約4か月間で作り保管貯蓄する最高に多忙な4か月なのだ。

 

そんな中、自分が金を払っているからとぬくぬくと散歩をしたり空を眺めたりして過ごし、3食用意してもらうのは本当に忍びない。

まったくバカンス気分にはなれない。

 

現地の人々といくら親しくなったとしても彼らとの生活観、経済観、世界観には温度差を感じざるを得ない。当たり前なのだが。

旅人というのはいつもこういった部外者感、疎外感というのも旅の福と同時に背負うものなのだろうか。私は旅人になり切れない旅人憧憬人なのだが。

 

 

特にラダック女性の働きぶりは尋常でない。

休む間もない。

汗水たらして老体に鞭打っての肉体労働の日々が100日以上続く。

 

 

しあわせの地と言われるラダックだが、昨年のラダックではあまり「幸せ」感を感じられなかった。

 

冬の農閑期はまた違う印象なのか。

 

 

◆不安や疑問

 

 

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セシューと言われる仏教儀式の後、大麦で作られた模型?を自然にまき終わったばかりのボッドカルブ村のアマレ。(2015年8月)

 

彼らの尊い気高い志。

尊厳と理想の社会。

 

卑しい人間になってはいけない。

落ちぶれてはいけない。

 

 

私はラダックにいていつも

「自分は怠け者だ」と自分を咎める。

 

「何かしなければ」

「役に立たなきゃ」

という焦りがあった。

 

 

ラダックの人々みんなが愛おしい。

澄んだ熱い眼。

人に優しく自分に厳しい民族。

それを必死で守ろうとしているようにも見える

 

彼らは昔からこうだったんだろうか。

何の狭間にいるんだろう。

 

 

もっと、ゆったりとした

時間の流れだったんじゃないか。

 

もみくちゃになって働き過ぎなければいけないように仕向けられたのか。

 

◆僻村リンシェッド村でのアマレ(お母さん)の叫び

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日向で乾燥豆のごみ取りをするアマレ。マンギュー村。(2015年11月)

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農閑期の冬は糸紬や織物をして過ごすのがラダックアマレの生活スタイルらしい。(2015年11月)

 

ラダック最奥村の一つ、リンシェッド村はザンスカールに行く途中にある村で、この村まで続く道路は現時点(2016年9月)で無い。

外部物資などが届きにくいが、伝統生活が主都近郊より保持されやすい美しい村でもある。

 

そんなリンシェッド村を2016年9月訪れた際、彼らの持続可能な生活スタイルに出会い感銘を受けた。

そして同時に悲しい思いをした。

 

 

ホームステイした家にはロバや羊ヤギ、牛、ヤクなどの動物がいた。

大きな大麦の畑がいくつもあった。

秋にも手製の温室ハウスで野菜が採れた。

薪や動物の糞を燃料に火を起こし、

一から料理を作ってくれた。

ほぼ自給自足の生活だ。

 

今の若者が憧れる田舎ライフそのものがそこにあった。

オーガニックライフというのか。

 

家のアマレ(お母さん)は歳が50過ぎくらいだが、強い日光と乾燥のせいか、老婆のように深く長い皺が刻み込まれていたが、アマレはいつも顔を皺くちゃにしてニコニコ笑い、おいしいバター茶を勧めてくれる根っからの明るさを持っているような魅力的なアマレだった。

 

ただ、アマレはいつも「肩が痛い痛い」と言ってて、よく自分で自分の腕を擦っていた。

 

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リンシェッド村に行く途中にあるラ(峠)でなびく祈祷旗タルチョ。(2016年9月)

 

そんなある日、私が昼ご飯を作ってアマレと二人で食べている時の事。

 

私は「子どもは何人いるんですか?」、「みんななにしてるの?どこにいるの?」と尋ねアマレと話しをしていた。

 

朝6時から畑に出っぱなしで12時に家に戻り、お茶をのんで一息ついたアマレが突然、涙を流して私に話し始めた。

 

「子供は9人いる。みんな大きくなった。でも、みんなレー(主都)や他の地域に行ってしまって、今家には誰もいない。夫と自分だけ。でも畑もたくさんあるし、動物もいる。だから(尼さんになった)娘が今畑の収穫の手伝いしてくれているけど、もしいなかったら、仕事が多すぎて私は死んでるだろう。」

あまりの予期せぬ答えに私は動揺してしまった。

 

 

 

しばし、沈黙が続いた。

 

 

2,3分経って、

「アマレはどうすれば幸せになれるの?」

と聞いた。

 

アマレはおもむろに口を開くと

「子供たちにはなるべくいい教育を受けてもらって、いい仕事を取ってもらって、お金をたくさん稼いでほしい。そうすれば少しは生活が楽になるだろうから。道路も通ってくれれば他の村に行くのが楽になる。」

 

 

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手が届きそうなほどに空が濃く近いリンシェド村。(2016年9月)

 

お金が自分の生活を助けてくれるんだ。

便利な機械や製品が欲しいんだ。

彼らはまさに発展を望んでいるんだ。

 

 

ラダックの良さは何なんだろうか。

 

人々が先祖代々から受け継いだのは伝統や持続可能な生活ではなくて

単に大きな畑と世話のかかる動物達だけだと思っているとしたら。

 

この生活が単調で過酷な毎日の繰り返しだけなのだと思っているとしたら。

 

ラダックを桃源郷と呼ぶのはいつも外部の人間だ。

 

 

アマレと話した後、私が出来る事などこれっぽちも見つからなくて

「申し訳ないけど、どうしたらいいのか分からない」

と途方に暮れるだけだった。

 

翌日アバレ(お父さん)と羊の放牧に山にピクニックにいくつもりだったが、大した役にも立たなかっただろうがアマレの手伝いをし、少しだけ肩のマッサージをしてあげた。

 

これも、自分のやりきれなさのへの懺悔だろうけど。

 

◆お金は苦しみを減らしてくれる?

 

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レーから15㎞と都心近郊の村シェーでホームステイした家は

お金がそれなりに入ってくる仕組みを持っている家庭だった。

 

確かに、ここのアマレも働き者だが、村のアマレに比べて格段に仕事量が少なかった。

 

朝ごはんをまでは、掃き掃除、乳しぼり、牛を牧草地に連れていく、皿洗いなど忙しいが、男達がご飯を食べて、外に仕事に行くと、居間で暫し寝っ転がってTVなど見ていたりする。

日中は隣のおばちゃんが家に来てバター茶など啜りながらおしゃべりしている。

 

 

人の幸せを他人が決めることは出来ない。

 

でも、苦しみに共感することがせめて許されるのなら、ラダック奥地の高自給率の美しい村に住む、優しくて気高い人々の、めったに表に現れないだろうという密かな「心の叫び」みたいなもんに寄り添いたいと思った。

 

この叫び自体が私の勘違いかもしれない。

深く考えすぎているのかも。

 

 

でも、あの深い皺で顔をくちゃくちゃにして笑う顔のお母さんが

弱音を吐きうつむいた時感じた自分のやりきれなさは決して忘れられない。

 

 

どうにか楽をさせてあげたい。

苦しみを少しでも減らしてやりたいのだが、仕事量を減らせばいだけなのだろうか。

それだけでは済まないような、わざわざ苦しい状況に追いやられたような。

 

 

その時やっぱり

「お金があれば・・・。」

という思いがよぎる。

 

お金とは何なんだろうか。

 

 

 

そしてやはり何が言いたいかわからない。

読んでくれた方ごめんなさい、ありがとう。

つづく。

 

インドで見つけた「つながり」② ~リトル・チベット「ラダック」にて~

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ラダック主都レーのナムギャルツェモゴンパ。真っ青な空とむき出しの岩肌という単純色に5色の祈祷旗タルチョが平和への祈りをのせてたなびく。(2014年8月)

 

 

次にラダックで見つけた「つながり」について。

前編はコチラ↓

インドで見つけた「つながり」① ~有機農園ナブダーニャにて~ - 元センセー 日記

 

 

◆自然、土と共に生きる

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村の羊ヤギを連れ高台にある草原地帯に放牧に出かける村人。リンシェッド村。(2016年9月)

 

ラダックで見つけた「つながり」。

 

まずはナブダーニャスタッフと同様に、「人間は自然の一部」そして「土と共に生きる」というラダックの人々の意識。

 

 

ラダックの人々は標高4000㍍近い高地で生活している。

また、ラダックの夏は4ヶ月間と短く、極端に乾燥した気候により栽培できる作物も時期も極限まで限られ、しかも1年の3分の2は氷点下20度の長く厳しい冬。

 

 

このような非常に厳しい環境の中で、なぜラダックの人々はあのようにまぶしい笑顔を見せることができるのか。

 

なぜ彼らはただでさえ足りない食料を、私たち客人におしげも無く分け与えてくれるのか?

 

 

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風を呼ぶといわれる口笛を吹きながら、風の力で豆と殻を分別する仕事。穏やかな時間が流れる。リンシェッド村。(2016年9月)

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圧巻の大自然を前にしたからこそ、彼らは自分の今に集中し生きていくことが出来るのではないか。リンシェッド村。(2016年9月)

 

 

それはおそらく、

彼らの「自然の恩恵の上で生きられている」という自負

それから、人間の死というものさえも自然の営みの一つとして捉え、

「変わりゆくものに捉われる執着心」を捨てることを日々実践しているからなのではないかと思う。

 

彼らは土から離れない。

徹底的に土と共に生きる。

 

私たちは土がなくなったら、酸素を供給してくれる植物がなくなったら、1日も生きられない。

 

お金は食えない。

私たちを本当に生かしてくれるのはこの大地。

 

そういう当たり前の生物の普遍性というのは本来忘れるはずがないのに、

なぜ私たちはここまで生き物をコンクリート固めにしてしまったんだろうか。

 

 

効率性を優先する直線ばかりの世界に生きるうちに、経済至上主義という流行り病にかかってしまったんではないだろうか。

 

 

◆人間たらしめるのは人と人とのつながり

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生まれた瞬間から子どもは、5歳のお兄さん、両親、家族、隣人、祖父母、誰からも無条件で世話され歓迎され、愛され、たくさんのスキンシップをとって育っていく。リクツェ村。(2016年6月)

 

もうひとつのラダックの「つながり」は、

人々の「人と人とのつながりの中で生きられている」という意識。

 

ラダックでは人々は助けられ、助けるという互助関係が生活面・精神面において当然のごとく成立している。

 人とのつながりをここまで密に、気持ち良く感じられる場所は世界中で他に無いのではと個人的に思っている。

 

ラダックという過酷な環境下では、家族で、親類で、地域で協力しなければ越冬できなかったからなのか。

 

仏教の利他的精神がそうさせるのだろうか。

 

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 チョッメと呼ばれるロウソクの炎は闇を明るくする光、つまり仏教的には「悟り」を意味している。へミス寺。(2016年8月)

 

彼らは助けられることで相手に「感謝」し、「安心」し、逆に相手を助けることで自分も「貢献」できていると実感する。

 

「感謝」「安心」「貢献」。

これらのうち1つでもあれば人は自殺できない。

うつ病にもならないはず。

 

 

◆まとめ:つながりのカギ

f:id:watashino-pc:20170529145710j:plain木材を抱え右手にマニ車、左手にタンガ(数珠)を持ち、読経しながら歩を進める老僧。平和の実践者とはこうも揺るぎないものかと畏敬の念を感じずにはいられなかった。(2016年8月)

 

つながりを理解するうえで忘れてはならないカギは

前述の「感謝・安心・貢献」、

これらは全て自発的、主体的な感情なのだということ。

 

これを感じるか否かは私たち次第。

 

いくら親友が毎日電話をくれても

家族が温かい笑顔で帰省を喜んでくれても

自分自身が感謝しなければ「つながり」は感じられない。

 

いくら医療保険をかけても

健康食を食べても

病気の恐怖に駆られ続けてしまうのは

自分の心が安心出来るだけの度量を持っていないから。

 

逆に、こんな無力な自分でも何かしらの形で「貢献」しているんだと実感できれば、それだけで途端に世界と「つながれる」んだと思う。

 

大切なことはベクトルの向きを「周囲→自分」から「自分→周囲」に変えることなんだと思う。

 

 

 

では、ナブダーニャを創ったヴァンダナ・シヴァさんの言葉をご紹介して終わりたい。

 

We are part of web of life ~私たちは命の織物の一部~

 

私たちが健康が同課は織物が健康かどうかにかかっている。自分の健康も幸せも他社に依存している

 

【予告篇】ヴァンダナ・シヴァの いのちの種を抱きしめて - YouTubeより

 

 

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 早朝のサスポール村。(2016年6月)

 

 

インドで見つけた「つながり」は2月11日で小石川見樹院で開催されたイベントでのトークを参考に書きました。関連団体をご紹介しておきますのでよろしければ覗いてみてください。

主催:NPO法人「たねと食とひと」Tanet(たねっと)

共催:NPO法人「ジュレー・ラダック」NPO法人ジュレー・ラダック

会場:「見樹院」 東京・小石川・見樹院

 

 

自由への旅はつづく

人生初 死にかけた@蛭ヶ岳 後編

前編はコチラ

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佐藤さんが撮影してくれた残り0.4kmの標識。この時かなり追い込まれた状況であったはず。(2017年4月)

 

今までずっとパラパラ降っていた雪は、いつからか風に混じって真横から小吹雪のようになっていた。

 

私たちは体温と気力を確実に奪われていた。

 
辺りはゴーォーという大自然の悲鳴に似た声を荒げて私たちを恐怖させた。 
朝からずっと雲の間に顔を隠し、夕焼けで初めてその存在を気づかせた太陽はすっかり地球の向こう側沈み込んでしまっていた。 
 


◆まさか「遭難」?

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入山口に向かうバスの乗客は私達の4人以外誰もいなかった。裾野の町も雪がわずかに降っていた。(2017年4月)
 
私たち五人のパーティのうち、二人ヘッドランプがつかなかった。
一人は電池が切れ、もう一人は(ラダック人のSkarmaさんなのだが)持って来ていなかった。
私は幸運にも前日職場の上司に借りたヘッドランプおかげで手元の周囲1mほどが照らされていた。 
 
それにしてもこんな最悪に近い状況を誰が想像していただろうか。 
 

本当に遭難?! 
低体温症。矛盾脱衣。*矛盾脱衣といえば映画「八甲田山」の衝撃的な映像が思い浮かぶ。知らない人はこれ見てみて。blog.livedoor.jpこわ。
 
今考えてもこの時かなり精神的に追い込まれていた。
 
ベテラン二人が仮に僅かでもこの状況を想定していたのなら、なぜ言ってくれなかったのか。
もう少しなにかしらの判断を早めにしていれば、
もっと危機感を醸成してくれていたら、、、、
こんなことにならなかったのに。。
 
 
しばし、自分の身の上の災難を受け入れられず、心中周囲を責め立てた。
自分たちの状況がどんどん悪くなり雪山遭難のプロセスが手に取るように分かった。
 
①油断におる準備予備知識不足
②他人任せのスケジュール管理
③想定外の急な天候の変化
④山路を失う
⑤チーム内分裂し統率を失う
⑥体力の低下
⑦体温低下
。。。。。。。。。。
 
こんな時になぜだかふと
「やはり学習というのは机上の知識でなく、実感を伴った実践の中からでしか人間は体得できない」と私は確信した。
(この悟りがのちにどういう影響を与えるのか私には未だ分からないが)
 
残り100mだ。
あとすこしだ。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
 
そして遂に最悪のことが起きる。

◆残り0.1kmの限界

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2日目の帰路で撮影したものだが、前日通った時と景色は一変していた。(2017年4月)
 
先頭でラッセル(雪道を作る大変な役割)を1キロ前地点から続けていた宮田さん、そして勇気のダイブを見せてくれたちあきさんが歩を止め何やら二人でその場に佇んでいる。
 
どうしたのだろうか。
 
「どうしたんですか?!」
「ごめん、もう体力限界」
え?
 
そんなことある?
 
いやいや。
 
あと少しなのに。
 
「お願いします宮田さん頑張って」
今は宮田さんだけが頼りなのに。
 
「いや、、、。。」
宮田さんが足下を指差す。
見ると、宮田さんが今まで装着していたスノーシューズが外れている。
 
板と靴の間に入り込んだ雪が固まって氷になり靴から外れてしまったそうだ。
しかも、それをつけ直すのには素手になる必要があるのだが、既に手袋が凍って手を出せないし、中の手自体も寒さで感覚がないそうだ。
 
スノーシューズは幅が広い板のような装備で、これを靴につけると雪床との接地面積が広くなるので、さほど沈まずに前に進める。
 
ただしその後に歩く人が普通の靴であると思い切り沈んでしまい、かなり困難な進行しなるのだが、それでも、ずっと宮田さんが道を作って来たことで、困難はあったものの道を失わずにここまでこられていた。
 
しかし、、
 
宮田さんの体力的ものだけでなく、物理的にも限界がきていたようだった。
 
「ここにかまくら作って助けを待とうか」
宮田さんが提案する。
 
そんな。
 
こわいよ。
 
そもそもこの寒さに耐えられるのか?
 
 
 
もうだめなのか。。。?しばし、私たちは沈黙した。
 
 
 

◆神の啓示たる電波

 
「電話して助け呼べないですか?」
「その方がいいね」
 
「誰か電話つながらないですか?」
こんな山奥で駄目元だが聞いてみた。
 
みんな凍った手先をこすりながら手袋から手を出し、おもむろに携帯をチェックする。
 
「だめ」
「電波ない」
「こっちもだめ」
「携帯がみつからない。。」
 
四人ともだめだった。
私は最も山で繋がりにくいSoftbankだ。
一応携帯をひらいてみた。
 
すると、メールが届いていた。母からだ。

「山登りどうだった?🤗無事着いた?」
 
なんと奇跡的に電波が入っていたのだ。
 
私はとっさに
「うん!元気だよ。全然平気。」
と送ろうとして  いやいや、今はそれどころじゃなくて助けを呼ぶのが先だ!
と我に帰った。
 
「電波あるあるよおお!!」
「119番?どこに電話したらいいですか?」
「あと少しだから、山小屋に電話しよう」
「番号は?」
「わからない。。」
 
「たしか、地図に書いてある。」
佐藤さんが持ってきたどでかい地図の下に手書きで書いてあったのだ。
「電話番号は090ー………。」
発信
 
たのむ
 
プルルルル
 
プルルルル

たのむ  (オンマニパメフム)
 
 
 
「はい蛭ヶ岳山荘です!」
でた!!
 
「今日予約していた佐藤です!あと100メートルのところなんですが遭難しました!
助けてください!道がわからないんです!ライトか何かでてらしてください!お願いします!五人います!!」
咄嗟に出た言葉は驚くほど冷静だった。
 
「わかりました!今行きます!」
助かった。助かったのか?わからない。
とにかく、私たちに光は見えたような気がする。
 

◆命の恩人おっちゃんの声

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先頭を最後尾にいたウルトラランナー佐藤さんに交代し、私たちはとにかく再び動き出した。
 
動き出さざるを得なかった。
実はそこに3分止まっていただけで、私とSkarmaさん以外の三人はガタガタ震え出して低体温症の手前のような 状況に陥っていた。
 
後でわかったのだが、私とSkarmaさんは割とポッチャリ。
あとの三人。
特に佐藤さんに至っては骨と速筋と皮だけのような体型なのだからきっと、かまくらを作っていたなら佐藤さんが一番最初に凍っただろうし、私とSkarmaさんだけ生き残ったかもしれないね。など、皮下脂肪の大切さをしみじみ感じた。

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現代社会では嫌悪される皮下脂肪は実はサバイブの中では重要なライフジャケットなのだ。(2017年4月)
 
 
とにかくそういうわけで私たちは立ち止まることができなかった。
 
歩を進める佐藤さんはスノーシューズが無い。
 
ズズズズ。
 
途端に雪の底なし沼に吸い込まれる。
今度は胸の下まで一気に沈む。
まだ油断してはいけなかった。
 
まだ、助かっていないのだった。
たとえ、山小屋のおじさんが方向を示してくれたとしても私たちはたどりつけるのだろうか。
 
電話をしてから10分くらいたった。
 
まだ、助けはこない。
ライトも見えない。
 
私はとっさに上着に付けていたインドで買ったコンパスと温度計付きの笛を、ここぞとばかりに思い切りふいた。
 
ピーーーーーーーーーーーィ。
 
ピーーーーーーーーーーーイ。
 
「ォォィ!!」!?
 
ピーーーーーーーーーーー!
 
 
ピーーーーーーーーーーー!
 
「おおおおい!」
どこからか力強いオッチャンの声がする!
 
「あっちだ!」
宮田さんがライトを見つけた。
 
「五人とも大丈夫かああ!?」
オッチャンが遠くでまずは怪我人病人の有無を問う。
 
「だいじょうぶでーす!」
宮田さん(以後スノーシュー:SS)が答えたが、あまりにも呑気な感じに聞こえたのは、自分が相当焦っていたからか。
 
この声で私たちは蘇生した。
SSが再び先頭を行った。
 
昼飯もロクに食わず、歩きっぱなしの私たちの体力はかなり限界地点であった。
しかし「底力」というのか「火事場の馬鹿力」というのか、全員息を吹き返した。
 
私もゾンビのように雪の上を這いずり回って、途中でスノーシューズがとれたSSを
「先行くよ!!」
と追い越し、オッチャンの声のする方向にもがいた。
 
頭の中ではなぜか呪文のように「断末魔の叫び」「断末魔の叫び」「断末魔。。。」と唱えていた。
 
「どこおおですか!?」
「こっちだ頑張れ!」
「ごめんなさい!」
「ご苦労さん!大丈夫!頑張れ」
オッチャンの声は天の声のようだった。
 
みんな最後の力を振り絞った後に出た絞りかすを更に絞って「生」へと進んだ。
 
おっちゃんの姿が見えた。
鈴をならしている。
ライトは電池が切れてしまったそうだ。
今日はOFFライト祭りか。
 
 
 
そして、遂に遂に、、
 
小屋にたどり着いた。
 
全員無事だった。
 
小屋の時計は19:30をまわっていた。
朝8時から歩き始め、実に11時間以上の超難関雪山訓練になってしまった。
 
人の息を、光を、火をこんなに愛おしく感じたことはなかった。
 
そして、日頃「生きる意味がわからない」などと生への虚無感を持っていた私が、いざとなった時にここまで「生に執着」した自分自身に驚いた。
 
私は全身で生きたかったのだった。
死にたくなかった再び生死を自分に問い直す時が来たのだと思った。
 

 

◆小屋到着

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遭難後小屋に到着直後。生還した安堵か、喜びか混じった表情(2017年4月)

 

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こちらも。到着直後。しかし、前者と雰囲気が違うのはなぜか。(2017年4月)
 

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命の恩人オッチャンこと、東條さん。(2017年4月)
 
 
命の恩人の山小屋のオッチャンは、小屋に入った私たちにまるで自分の家族のように顔をくちゃくちゃにして笑って
「よかった、よかった、、本当によかった」
と言って喜んでくれた。
 
泣きそうだった。
 
いや、むしろなぜなけなかった。
なけよ。わたし。
 
私はみんなを全力でハグした。
(かった。実際は恥ずかしくてできなかった。)
 
 
そしてオッチャンはおもむろに
「じゃあまず小屋使用ルールDVD見てね。」
と言って冷え切った大きな部屋の真ん中で3分ほどのDVDを直前まで遭難していた私たちに見せた。
 
私たちは九死に一生を経て、
そして今、
震えながら、
鼻を垂らしながら、
夏山の青々とした写真と共に流れるオッチャンのナレーション入り小屋のオリエンンテーションDVDを眺めていた。
 
みんな疲労困憊で呆然としていたので、
いろいろツッコミどころ満載のこの状況をただ受け入れるしかなかったようだ。
 
私たちはみんな多分同じ気持ちだった。
ほとんど喋ってなかったけど、同じ試練を経験した私たちはいつの間にか以心伝心してた。
 
 

◆最後に

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あの時の電話。(2017年4月)
 
これが、私が人生初死にかけた経験。
こんなこと、2度と起こらないだろうし、そうであることを願う。
 
しかし、同時に大きな自信や確信を得た、かけがえのない経験であった。
 
そして、最も印象的であったのは、あの奇跡の電波。
 
あの時以外、前にも後にも電波が舞い降りたことは一切なかった。
 
あの一瞬だけ、電波をつかんだ。

いや、目に見えぬ何かが私たちに「まだ死ぬな」と手を差し伸べたんだ。
大いなる力には時として流されるべきなのだ。
 
 
私はこれを「18:37の奇跡 神の見えざる手」と適当に名付けた。
 
 
 
人生の冒険は
つづく

人生初 死にかけた @蛭ヶ岳 前編

 

2017年度始まりの週末はラダックのゆるいメンツで丹沢の蛭ヶ岳などなど登山に行った。

 

1月のラダック新年会ロサールで久々に顔合わせしたメンバーで

「どっか山行きたいねー。」

という一言から始まり3ヶ月温めていた計画だ。

 

◆4月1日土 8:00丹沢山入山

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バス車中の様子 山に向かう車中で手回し発電機のテストをする。ちゃんと点灯する。しかし蓄電出来ないので常に回していないといけないのが傷だ。

 

 

私も含め山初級が三人に二人のベテランというパーティ。

 

不安はあったけど、上級者もいるし準備しっかりして割と楽しみにしてた。

 

 

土曜朝8時前から青根の林道から登山開始。

 

姫次という中間地点を通り1673メートルの頂上までは、昼休憩含めて6〜7時間ののんびり(らしい?登ったことないからわからない)プラン。

 

スタートから粉雪が穏やかにパラパラ。

 

綺麗だなぁ、こなゆきぃー♪

 

なんて歌って中間地点の姫次までは、もちろん寒さはあったけど割とエンジョイ。

 

◆中間麓 姫次からの単独グループ登山

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姫次での昼休憩は寒さのため止まっていることが出来ず10分足らずで出発する。

 

 

 

前には1組だけ登山者がいて、その人のつくるラッセルという道を私たちが続くようなかんじだった。

 

姫次から頂上の蛭ヶ岳山荘までは3.2㎞。

 

歩くのをやめると寒いので昼も軽食程度でまずは小屋に着くのを最優先にし、早々に出発。

 

ちなみにこのあたりからは、誰も人がいなくて、ラッセル、つまり道を自分で作りながら進むことになった。

 

先頭はウルトラランナー丹沢経験20回以上の佐藤良一さん。

 

次が経験ゼロ、手回し発電機持参のわたくし望月。

 

三番目がヒマラヤ出身強靭的な体力だが、すでに膝が痛い痛いと嘆いているSkarmaさん。

 

次がチベット民族大好きで中国語ぺらぺら黄色い声援のちあきさん。

 

そして、最後尾は、山小屋で働いている全信頼と背負う宮田さん。

 

この時既に13時頃。

 

雪はやまず、腿の付け根辺りまでズボ、ズボ沈む。

 

先頭の佐藤さんも大変だ。

 

そして、疲れたのかみんな口数が減る。

 

それでも、いつかは山小屋つくし、まだ危機感はなかった。

 

そうやって歩を進めて2時間くらい。

 

突如、先頭の佐藤さんが立ち止まる。

 

「印が見つからない」

 

え!?

 

その一瞬で私の脳裏によぎったのは

まさか、

 

「遭難」?!

 

 

◆印を見失う

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印のスズランテープは飛ばされたのか、見失ったのか。

 

 

そこから、数分間、道なのか、道じゃないのか定かでない雪道を歩き、不安で胸がはちきれそうだった。

 

「折り返して戻ることはできますか?」

「今からじゃ無理」

 

「方向わかりますか?」

「うん。こっち。」

 

今考えるとあの数分間が何時間にも感じられた。

 

 

 

「あれじゃない?」

その時、視力6くらあるであろうSkarmaさんが10メートルほど先の印を発見。

 

さすが。

 

胸をなでおろした。

 

粉雪はいつの間にか横風邪が吹いて小吹雪のようになっていた。

 

でも、道は見つけて安堵し命は心配無いと思った。

 

ちあきさんにも

「今だから言えるけど、さっきは死ぬかと思ったよぉ。」

と二人で顔を合わせた。

 

それから、看板が見えた。

 

残り1キロ。

 

時間はおそらく当初到着予定の16:30頃だった。

 

右手にオレンジ色の太陽の光が今日初めて見えた。

 

きれいだね。

 

とつかの間心から感じた。

 

これは太陽が沈む夕焼けだった。

これから闇が来るんだ。

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太陽の美しくも悲しい今日最後の光を私たちに浴びさせた。

 

◆余裕が消え背水の心地

 

手足は動き続けてるのに先から感覚がなくなるような寒さだった。

 

雪は降り続ける。

 

残り0.7キロの看板。

 

100メートルがなんでこんなにながいんだ、、、。

 

8時間くらいずっとランニングシューズでラッセルしていた佐藤さんだが、雪をかき分けてもかき分けても腰の高さから一気に腰までズボッと沈む雪の壁に、ラッセル交代。

 

唯一スノーシューズ装着の宮田さんが先頭をいく。

 

私はその後に続こうとしたのだが、ズボっと沈むので全く前に進めない。

 

やばい!むり!いけないよ!

 

ほんとにダメだ!

 

すると、後ろにいたちあきさんが

私が行くよ!っと、

雪にダイブ!

 

ほふく前進しながらスノーシューズの後の沈むズボズボ道を作ってくれた。

 

底力を見た。

 

勇気をもらった。

 

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みんな唸りながらもがいてももがいてもなかなか進まない雪沼をそれでも行かないわけにはいかない、という気概だけで進んでいた。

 

残り400メートルだよ!

 

宮田さんが言った。

 

でも、まだ、そんなにあるのか、、、。

 

あたりはすっかり暗くなった。

 

おもむろに

頭にヘッドランプをつける。

 

ああ、とうとう、こうなってしまった。。

 

もう、目の前しか見えない。

 

前が見えない。

 

寒い。

 

怖い。

 

死ぬかも。

 

死にたく無い。

 

会社の人の助言が頭をよぎる。

 

「山をなめちゃいかんよ」

 

「雪降るよ。山嫌いになるよ」

 

「大好きなインドいけなくなるよ!」

 

 

 

 

本日4月1日、神奈川県相模原市の丹沢で20代から50代までの五人の男女が蛭ヶ岳で遭難しました。4月の丹沢では観測史上初の大雪を記録。いずれも、仕事をしていたりしてなかったり日本人じゃなかったり接点が、見当たりませんが唯一共通点はラダックに親交がある、、、、、、、。

 

なんてニュースがずっと頭を流れていた。

 

私の背中のラジオからは18:00の時報が聞こえた。

 

後編へつづく

 

 

 

インドで見つけた「つながり」① ~有機農園ナブダーニャにて~ 

突然ですが、皆さんはどんな時に人との「つながり」を感じますか?

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友人とコーヒー片手に積もる話をした時?

誕生日に世界中の友人からFacebookメッセージをもらった時?

長年連絡が絶えた友人から電話があった時?

それとも、逆に、お金を払った時に「つながり」を感じることができるか?

 

 

◆孤独感にさいなまれていた私とインドの出会い

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なぜこんな話をするか。

実は(別に実はでもないですが)以前の私は「つながり」というものを心から実感したことがあまりなかった。

 

皆さんも経験はないだろうか。

 

何人かの友人と楽しく笑いあっている。

でもふと我に返ったその時、強い孤独を感じる。

家族や恋人など非常に近い関係の人と一緒にいるときでさえもそういう虚しさを感じることがたびたびあった。

 

なぜか。

その時の私は全くわからなかった。

 

 

そんなうつうつとした生活をしていた私だったが、2014年に転機が訪れる。

玄奘三蔵が仏典を求め天竺と称し目指した「インド」。

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 デリーにあるレッドフォート(2015年撮影)

 

偶然インドに足を踏み入れた私はそこで非常に大きなインスピレーションを得ることになる。

 

生まれてはじめて(といってもたかだか30年に満たないが)「これが本当

のつながりじゃないか?」と思えるコトを見つけたように感じた。

 

 

ナブダーニャ農園で見つけた「つながり」

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ナブダーニャの図書館の壁絵「our land our seed我が土地、我が種」の文字。(2016年5月)

 

インド北部ウッタラ・カント州の都市デラドゥーンの郊外に、マンゴー園に囲まれた大きな有機農園がひっそりと身を構えている。

そこがナブダーニャ農園。ナブダーニャというのは9つの種という意味。

 

ナブダーニャでは緑の革命以後にインドで起きた農業問題(一時的な豊作後の不作、殺虫剤などの化学薬品大量投入による健康被害、農民大量自殺などなど)に取り組み、外国の多国籍大企業相手に真っ向から「NO」を突き付けている非常に先駆的で力強い国際的にも著名な団体だ。

 

ナブダーニャ農園の代表であるヴァンダナ・シヴァ氏は多数の著書もあり、かつインド国内だけでなく海外でも多くの講演を行う活動家で、そのパワフルな言論が印象的な方だ。

 

そのため、私の農園のイメージは完全に

「ヴァンダナさん!」

彼女の始めた主活動である

「シードバンク(種子銀行)」

の二つに終焉していた。

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数千以上もの種子を保管するシードバンクは農園の端で見つけることができる。シードバンクは上からぶら下がっている種の右側の部屋。(2016年5月)

 

初めて農園に訪れた際は、

「なぜ種子の保存だけにこんな大きな農園を作る必要があるのか?」

と、少なくとも1㌶はある大規模で広大な農園の意味を解することが出来なかった。

 

むしろシードバンクは農園のすみっこにぽつんとこじんまりとたたずんでいてそれはそれは拍子抜けしたのを覚えている。

 ◆大きな農園の意味

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黄色いハムシのような方が腕に。

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農耕期。2頭の雄牛を使って伝統的な農耕方法を行っている。(2016年5月)

 

 

しかし、農園で過ごしていく中でその理由が徐々に分かり始めた。

 

農園では「健全な種子を採取・保存する」為に、「健全な作物を栽培する」ということに非常に気を遣っていた。

さらによく見ると「健全な作物を作る」為に、「健全な土・堆肥作り」にも非常に気を遣ってた。

実際彼らは7種類以上堆肥作り方(もちろんケミカルフリー)の実験や土の専門家による研究も行っていた。

 

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風にあてて余計なもみ殻やごみを吹き飛ばし種の選別(そうじ)をする作業。(2016年6月)

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農園には多種多様な生き物の連鎖を垣間見る。水田に現れる虫を食べに来たアマサギ(2016年6月)

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soil labo(土壌研究室)の中にあった種々のオイル(2016年6月)

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雑草に牛糞、ジャグリー蜜、石灰などをかけて層を重ねてミルフィーユ状にしてつくる堆肥。(2016年6月)

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Earth warm(ミミズ)を利用した堆肥。(2016年6月)

 

何が言いたいかお察しの方もいるかもしれないが、

「健全な土・堆肥」の為に

「健全な牛、木々」が、

「健全な水」が、

そして「健全な自然環境」というように

 

つまり「全てつながって」いた。

 

これがインドの著名な有機農園ナブダーニャで見つけた「健全な自然どうしのつながり」だ

 

 

 

このことは誰かに教えられたのではなく自然の摂理をじっくり観察することによって自ら気付いた。

 

個人主義、競争原理が台頭し、かつノイズが強すぎる東京のような場所では決して気付けなかったことだ。

 

◆多様性の大切さ

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狭い場所であえて多種多様な植物を育てている(2016年5月)

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シードバンクに保管されている種 Variety of paddy 米種(2016年5月)

 

そして、同時に農園が「生物多様性保存農園」と謳っている通り、

健全かつ「多様なつながり」が非常に大切であった。

 

 

ところで皆さんは「なぜ多様性は大切か。」という問に答えられますか。

 

私は答えられませんでした。

中学の理科で習った生物多様性は単なる文言として暗記した程度で理解が伴っていなかったんです。

 

 

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いろんな豆が入ったサラダ。農園の食事はほとんどが農園の有機野菜で賄い自給している。(2016年5月)

 

農園でこんな話を耳にした。

 

「かつて時の首席毛沢東がスズメを指さして害鳥といい、ほとんどのスズメが駆除された。しかしそれによってスズメが捕食していた害虫が急激に増え、穀物が大きな被害を受け飢饉が起きた。」と。

 

 

生物はどんな所でつながり合っているかわからない。

むしろあらゆる所でつながり合い、そのつながりの中で生命を保っている。

 

全てのあらゆる種がパズルのピースのように補い補われながらバランスをとっていた

 

また、多様であることの重要性はあらゆる環境の変化に適応する力があるということでもある。

 

「ああ、だから人間でも寒さに強い人、暑さに強い人、感傷的な人、図太い人がいたのか。」

と気付き精神的には脆いくせにやけに身体ばっかり頑丈な自分にも

「ここに存在した理由がある」と納得し、その時は救われた気がしたのを覚えている。

 

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農園に見学に来た青年グループたち。(2016年5月)

 

たくさんいるから一つくらい欠けてもいいわけじゃなかった。

代替可能な存在ではなかったのだ、みんな、、自分も。

◆持続化可能な働き方

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大切な種の選別は一つ一つ手で行う。(2016年5月)

 

そしてもう一つの農園で見つけた「つながり」は、そのような大きな活動を担う人々の持続可能的な働き方だ。

 

この農園は世界中からボランティアが集い、大企業や政府相手に反対運動を先導しているOrganic界のリーダー的団体。

 

それはそれは厳しく真面目で規律正しい団体なのだと勝手に想像していた。

 しかし、全く違った(といったら多少語弊が出るかも)。

 

 

どんな様子かというと、、

どや顔でおやじギャグを連発するスタッフ、犬の世話ばかりしているスタッフ、よくわからないヒンドゥー神話をひたすら聞かせるスタッフ。

 

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キッチンの裏庭では男たちの憩いの場。(2016年5月)

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説明ない。(2016年5月)

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 ひたすら自分がなぜか裸で瞑想していた時にトラと遭遇したときの武勇伝を熱く語り続けたハーブガーデン担当のスタッフ(2016年6月)

 

皆あまりに個性が強かった。

いえ、つまり彼らは自然体だった。

 

そうしてそこで働いていた。

生きるように、遊ぶように、休むように働いていた

スタッフのおっさん達は皆楽しそうでよくふざけてじゃれ合っていた。

(たまに目をつぶりたくなった。)

 

日本の中年のおっさんさんがこんな風に働く姿を想像できない。

ナブダーニャは「おっさんの楽園だね。」となっちゃんとよく言っていた。

 

 

ここでは食べ物と住む所という生存基盤が保障されている。

生きる為のお金を稼ぐことに躍起になる必要がなかった。

 

◆人間としての立場をわきまえた態度

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農園にいるインドウシ。ブラーマンと呼ばれるアメリカ南部向けのウシに似ている。(2016年5月)

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いちじく。スタッフがくれた。(2016年5月)

 

でも、何よりも、彼らの態度から学んだことは

「自然の力以上のものを要求しない」ことであった。

 

 

雨が降れば仕事は休むし、暑いなら日陰でチャイを飲む。

雑草は生えるものだから気にしすぎない。

種子に本来持っている以上の過度な成長を強いることももちろんしない。

(具体的には遺伝子を組み替えたり、大量の肥料を投与したり。ヴァンダナさんはこれを「暴力」と言っていた。)

 

 

そもそも人間が自然を完全にコントロール出来るものなどと思っていないんだろう。

 

人間として立場をわきまえているからこそ、無理をしない地に足がついた持続的な働き方ができるのだろう。

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 動物飼育担当のスタッフ。夕日に照らされた彼らの姿は涙がでるほど神々しかった。(2016年5月)

 

 

彼らは牛のようにゆっくりと力強く確実に歩を進めていた。

 

その姿は頼もしく神々しくさえ感じた。

 

もしお時間あれば、ナブダーニャを訪れる前に是非読んでいただきたいおすすめ本です。

 

(次回ラダック編につづく)

これは2月に行われたイベントで話した内容を踏襲したものです。