雑記:

 

今日の研修で、アウトプットしない情報はないものと同じと言われたので、とりあえず最近感じていることをざっと書き出して、頭の中をスッキリしたい

ダンブルドアがやっていた白いもやもやを頭のなかからズッと出すのみたいなのやりたい)

 

・就職してくからの地方出身者の心の距離

  ・大阪出身者は大阪出身者で固まる、自分も大阪出身なのに

  ・新卒入社の地方出身者は、コミュ力の差が見られる、為末大的な、本質的にコミュニケーションはどうでもいいと思っている人は少ない

  ・仲のいい人でかたまる、付き合いをなんとも思っていない、付き合いは大事、それは損得の問題

  ・のりがいいと思わせながら、付き合いであることをちらっと見せてくる人は本質的にどこか弱さをも見せているのでは??

  ・東京に対する地方からの差分を感じて警戒しながら、どこかで本質的な理解や友達を求めているのでは??

  ・積極的に行くべきではない一方、仲良くしておくべきである

 

 

・マウンティングしか取れない人

  ・サービス精神が足りない?

  ・その割にはよく見ている

  ・空気を読みつつ周りを巻き込んで自分のコントロール下に入れることが重要である

  ・それがSEに求められる資質である

 

 

・サービス精神が重要である

  ・いい人を振る舞う人ほど、最後には得するものであると思う

  ・あと本質的な指摘ができる人ほど

 

代謝回転の仏教性

代謝回転の必要性 - waterun’s diary

でも書いたことだが、人間の生活を含めたあらゆる森羅万象は流転するものであり、ゆえにヒトの生活も代謝回転する必要があると書いた。

代謝回転とは、あるものを取り入れ、あるものを捨て、常に固定せず動き続ける、変わり続けることである 

 

これはどうやら仏教的な考え方で、不変のものはなく、万物は流転する、いわゆる色即是空のような考え方らしい

 

では仏教的にはこのように万物は流転するという考え方が、当時は殆ど無かったと思われる化学的な知見を当てにせずに、どのようなプロセスを得て思いつかれたのかが非常に気になる

思考力 ≠ 正解発見

思考力がどのように鍛えられ、深められるかの答えはある程度出た。

 

しかし、思考力をいくら鍛えたところで、目の前の問題について、MECE的に思考の方向をさらうのではなく、正解の方向がすぐにわかるわけではない

 

思考力をいくら鍛えたところで、正しい思考の方向性がわかるわけではない

 

思考の道筋は幾方向にもあって、各々のそれらを深める力は身についてきたと思うが、その方向性があっているかがわからない。

 

的確に、クリティカルに考える方向性がわかる、これはもはやただ考えるだけでは足りないのではないか?

 

ここで重要になるのは客観視なのでは??

 

一方的なアウトプットは主観的に陥りやすい

 

アウトプットすることで客観視できる、と過去に書いたしそう思うが、それは逆にアウトプットされたものだけをみることでその考えの方向性に流されてしまって、視野が狭くなっているのでは??

 

しかしアウトプットは重要である

 

アウトプットを兼ねながら、自分の思考の方向性を客観視するためにはどのようにすればよいのだろうか?

 

代謝回転の必要性

人間は常に代謝回転しなければならない。

 

体内の生物的エネルギー

思考

思想

生活

モノ

 

あらゆるものは大量の、速い代謝回転によるインプット、アウトプットをとおしてのみ健康に保たれ、また成長する。

 

安住、固定を考えてはいけない。

 

例えば、家。

家事をためてはいけない。頻繁にモノを断舎離する。頻繁に掃除する。頻繁に模様替えする。

刷新を繰り返すことで、家も健康に保たれる。

 

例えば、研究。

データを寝かせてはいけない。常にアウトプットを目指して書き続ける。実験をためらってはいけない。常に実験をして結果を出し続ける。

 

例えば、生活。

テレビをダラダラ受動的に見てはいけない。情報は積極的な姿勢でPCや新聞などで得る。だらけることは、あらゆる代謝を遅くする。常に動き続ける。

 

例えば、体。

動き続けるために、多くのエネルギーを得て、多くの毒素を排出する。代謝を上げるためにトレーニングもする。ATPを得るためになんでもたくさん食べる。代謝循環の媒体となる水を摂取する。

 

個人の話だけではない。

会社も社会も団体も生態系も環境も、あらゆる生物的なものは代謝回転することでその均衡を保ち、刷新を繰り返すことで成長される。

固定された概念、モノ、非流動的な集合体は生物体として死ぬ。

 

人間の思考は川の流れのよう

人間の思考は川の流れのようであるので、

 

その時感じたこと、考えたこと、なんとなく思ったことをすぐに忘れていってしまう

 

またそのように考えたこと、感じたことを思い出すのに時間がかかってしまう

 

人間の思考が深化するための最初の第一歩は、その川の流れをつかむことである

 

そのためには、ふと思ったこと、考えたこと、感じたことをメモすることが重要である

 

あるいはもっと範囲を広げて、書く、話すでもいい

 

とにかくアウトプットが重要である

 

そこに体裁は必要ではないと思う

 

しかし唯一注意しなければならないのは、言葉遣いである

 

思考は言葉という媒介によって深まっていくものゆえ、言葉遣いを誤るときちんと思考が深まっていかない

考える力、考えて答えを見つける力を鍛えるためには

考えて答えを見つける力を鍛えるためにすることは2つある。

 
1点目は考える内容を深めること、2点目は考える機会を増やすこと、と大雑把にまとめられるが、この2つは不可分である。
 
1点目、考える内容を深める、つまり考えを深めて考えるためには、考えたことのアウトプット、言語化が重要である。
頭の中で考えがモヤモヤとした抽象的な状態では考えは進まない。
話す、書くのアウトプットの作業の中で考えを言語化することで、具体化し、構造的にまとめようとするし、その内容を客観的に見つめることでさらなる疑問などが湧き、考えを深めていくことができる。自分の疑問を表現することでさらにそこに疑問が湧く。
話すにしても書くにしても、何かしらの言語化、アウトプットの作業をとらなければ人間は考えを深められない。
人間の思考は言語によって決定されているからだ。
小学校の作文などの作業はこのアウトプットのいい機会なのだが、問題なのはその方向性に正解をもたせようとする教育にある。
  
一点、アウトプットする上で重要なのは、どんな考えでもアウトプットすることである。
考えを取捨選択している時点で構造化、客観視の意味を成さなくなる。
頭に浮かんだ全ての考えを出し切ること、具体化することがはじめの一歩である。
例えば普段の会話でもその内容にかかわらず何でも話そうとすることもひとつのアウトプットの練習として重要だ。
おそらくあらゆる科学や哲学、文学、芸術の生まれる発端となるのは、心のなかにふと生まれた些細な疑問や感情、違和感、つまり心のゆらぎみたいなものなのだろう。
それらをわざわざアウトプットしてみることで、それがただの感情やもやもやにとどまらせず、きちんと論理的に検証していく機会を得る。
あらゆる事象の違いやそれが起こりうる疑問は人がみんな感じていることなのであろうが、それらを頭のなかで終わらせたままにすることで、せっかくの心のゆらぎが消えて静かになってしますのだ。そのゆらぎを逃さないためにもどのような内容であってもアウトプットしてみることが重要である。そこから論理の発展、考える練習が始まるのだ。
こころのゆらぎ、ふと湧いた存在しているかいないかのような疑問をすべてアウトプットし論理的に思考を深める練習を積み重ねていけば、極めればニュートンのように万物の事象ですら疑えるような視点を持ちうることができるのかもしれない。
 
ここから少し話がそれる。
あらゆる心のゆらぎをアウトプットすることが重要だと書いたが、それは自分の感情に関しても同じことで、とりわけ、どんなに嫌なことや向き合いたくない問題であっても表に出すことが重要である。
どんなに嫌なことや嫌な問題があったとしても、むしろそういうことがあった時こそ紙に書くなり人に話すなりしてアウトプットすることが重要である。
そのような感情を詳細に表に出すことで、ループに陥っていた思考も冷静に見ることができるし、なにより自分と向き合うことができる。これはアドラー心理学にも関連しているかもしれない。
芸人の鳥山みゆきは嫌なことがあった時は紙に書くと落ち着くと言っているし、本来日記というのはこのような作用のためにあるのかもしれない。
またアウトプットすることでより自分の感情が明確になって具体的にわかるようになる。
しかし日本人は昔から和を以て貴しとなすぶんかである。なぜこのような文化が生まれたのかは具体的に知らないが、推測するに、日本は中国という大国が控えている大陸がつねに海の向こう側にあって、そのような大国の存在の前に少数では立ち向かえなかったから団結する必要があり、団結のために和が必要だったのかもしれない。
とにもかくにも日本人は和、協調性を大事にする文化が有り、そこに反論できる余地はないのだ。わかりにくいが、和を崩さないために仲間内での反論は許されないのだ。
これによって日本人は自分の考えや感情をアウトプットしなくなり、それはつまり心のゆらぎも無視し、また自分の感情にも向き合わない事にもなるのだ。
アウトプットせずに自分の感情と向き合わない日本人はいよいよ嫌な感情やそれを引き起こす嫌な問題から目を背けようとする。
少子高齢化、経済不調、借金、自殺率、日本の抱える問題は山積みのはずだが、それらは考えると嫌な気持ちになる問題であって、日本人はこれに向きあおうとすることが(上述の理由から)とても苦手なのだ。そのような訓練をしてこなかったからだ。
このように、嫌な気持ちになる問題を考えないようになると、常にその問題は心の片隅に残り続けることになるわけだから、どんなに楽しいことでも心から楽しめなくなる。みんなその問題が自分の横にあるのを知っているのに、考えると嫌な気持ちになるからあえて考えないようにして、またそれを一時的にでも忘れさせてくれるような日本賛美であったりしょうもないバラエティを欲するようになるのだ。
ゆえに日本には息の詰まるような閉塞感がある。
 
もうひとつ、話がそれる。
村上龍の『希望の国エクソダス』に記載してることだったが、現代においてアウトプットできない理由は、情報化社会であることにあるのかもしれない。
情報化社会においては情報こそが全てであって、情報を得ようとしない、情報を知らないことはもはや罪のレベルである。
流行は常に負っていなければならず、ニュースは毎日チェックしておかなければならない。
そのような過剰な情報のインプットの波を受けて、アウトプットすることなどできないのかもしれない。
多量な情報の波によって生まれた心のゆらぎを、ひとつずつ表に出してアウトプットすることができない、追いつかない、きりがないのかもしれない。
( 情報量の少なかった昔の人は心のゆらぎは比較的少なく、それ故それらをアウトプットする暇や機会がたくさんあったから、文学作品などにおいては感情が豊かに表現されているのかもしれない。)
 
話を戻す。
さらにアウトプットの習慣のメリットは、アウトプットに慣れていくことで、反射神経が良くなるということにある。
この場合の反射神経とは、誰かの何かの意見に対してすばやく自分の考えをまとめ、発言する能力である。
他社の意見に対して自分の考えを素早くまとめ具体的に構造的に話す能力は、あらゆる場面で必要である。
特に「具体的に」というのはアウトプットの練習を積んでいないと難しい。
なぜなら人の普段の会話は、常にぼんやりとした抽象的な言葉遣いに流れがちだからだ。
女性が何かのモノを見てすぐに「カワイイ」と言うのはこの典型だ。
何がどういう点でかわいいのかを具体的に説明することで会話は深まる。
 
 
もうひとつの考える機会を増やすことは、つまり考える練習をたくさんするということ、常に考え続けることを意味する。
なぜこの考える練習をたくさんしなければならないかということ、考える練習をすることで脳のニューロンが発達し、より早く結論に達しやすくなるからである。
理研の研究によると、答えが見つかるまで時間のかかるアマチュア棋士と即座に道筋のわかるプロ棋士の脳において、プロ棋士では脳の一部でニューロンがアマチュア棋士よりも発達しているそうである。
具体的には、同じ局面を考えるにあたり、アマチュア棋士は一つ一つの差し筋を考えていって、何回目かでようやく最適解がわかるのだが、プロ棋士はその最適解を一瞬でわかる。
両者の脳の違いを視覚的に見てみると、アマチュア棋士にはなかった脳の一部のニューロンの発達がプロ棋士には観察されたらしい。
ではこの両者の脳の構造の違いがどのようにして生まれたかというと、ずばり経験の違いであろう。
プロ棋士は何十年間も毎日数時間将棋と向き合い将棋を考えている。経験の量がはんぱじゃないのだ。
つまり、人間の脳は経験によってその構造を変えることができ、それによって最適化にたどり着く速さが早くなるのだ。
1点目でも言及したが、反射神経が身につく。
(例えば会話の中で、クリティカルな、あるいは面白い回答、返事はぱっと思いつくが、返答に時間がかかって直ぐに返事ができないようなときは、考えたところであまり良い返事はできないのは、この仕組があるからだ。)
やはり、脳は使えば使うほど賢くなるのである。
 
では脳を鍛えるための考える機会をどのように増やすか。
これはすでに1点目の内容で語っている。心のゆらぎに向き合う、頭のなかに生じた些細が疑問をすくい取り、アウトプットすることである。
ひたすら自分の心の中に湧いた疑問をすくい取り、紙に書くなどアウトプットして具体化、構造化、客観視して疑問の連鎖を深めていくことをひたすら繰り返すことが、考える機会になるのである。
 
タイトルの考える力、考えて答えを見つける力とは、あらゆる心のゆらぎ、疑問、感情を話すなり書くなりしてアウトプットし、それを具体化、構造化、客観視しながらさらに浮かんだ疑問をアウトプットして深めていくことである。
そしてその作業をひたすら行うことである。
 

選挙と閉塞感

少子高齢化社会において、現在の選挙制度で数で勝る高齢者層に政治が傾くのは必然的であって、高齢者は自己を守るために、高齢者を守ってくれる政治を支持する。

その負い目を負うのは若者であって、数の力で高齢者に劣り自分たちの意見が反映されなくなっている現状の元、いよいよ政治に期待ができなくなって選挙以外のデモなどの手段に走る。

数の差があるのは明らかに不公平である。

将来的な日本を形成するのは既得権益の保持しか考えていない高齢者ではなく若年層であるのに、その若年層の意見が現在の選挙システムでは反映されない。

明らかに日本の政治が老いて死にゆくのは誰の目から見ても明らかである。

そのためには若年層の意見が反映されやすい選挙システムにならなくてはならない。

例えば、各世代ごとの採票率を同数にする。

具体的には、各世代からの選挙票をランダムに一定数ずつ選択し、それらで選挙を行う。

このようにすれば世代間毎の数の不公平はなくなり、公平に選挙結果が反映される。