Siljander, Kivelä, Sutinen(Eds.) Theories of Bildung and Growth, 19章

・レジュメというより抜き書き。終章。

Siljander, Pauli., Kivelä, Ari., Sutinen, Ari. (Eds.) 2012. Theories of Bildung and Growth: Connections and Controversies Between Continental Educational Thinking and American Pragmatism, Rotterdam, Sense Publishers.

Chapter19, Kivelä, Siljander & Suitinen, 'Between Bidung and Growth-Connections and Controversies'.

 

19. 「BildungとGrowthの間:連関と論争」
・本書で提示された研究成果によって、ドイツのBildungと北アメリカのGrowthの伝統との間に影響関係があることは理解されたが、それでは、両伝統間の差異ないし類似性は、各伝統内での差異ないし類似性よりも重要性をもつものなのだろうか?(303)
・Bildungの理論的伝統については、古典的な思想家におけるBildung概念は極めて多様であり、画一的な概念の理解を提示することは難しい。そして、プラグマティズムの古典的思想家についても同様のことがいえる。だから、二つの伝統を明確に区別し、切り離して理解する理由もない。

・大陸の哲学的教育論議では、Bildungと教育(Erziehung)とを区別する傾向がある。カント的な意味においては、Bildungは、人間が人間になることであり、外的な被決定性、そして未成年性を克服することであった。Bildungは、理性を公的に使用できるようになるための要件であり、またそれは個人と社会の発展のための欠かせない要件でもある。
プラグマティズム進歩主義運動においても、「自己活動」、「自己陶冶」、「自己発展」、「可塑性」等の語が用いられ、同様の思想が追及された。ごく一般的な次元においては、二つの伝統の間に原理的な差異は見いだされない。

・「仮にBildungが自己がその成長の諸条件、諸状況に関して徐々に自覚的になってゆく事故形成の過程として理解されるならば、そしてその自覚が、自然的・文化的環境の双方を含む世界との相互作用を要求するものであるならば、デューイ、そして他のプラグマティズムの思想家らもBildung志向の思想家として解釈することができるだろう」(304)

・同様に逆のことも言える。人間のgrowthが、自発的かつ活動的な行為者であるところの個人が、自己活動を通して環境を形成し、かつ環境から影響を受けながら自己を決定してゆく過程として理解されるならば、Bildungの古典的な思想家らをgrowth志向の思想家としてみなすことができるだろう。

・だが、さらに問われるべき問いは、「上記の一般的諸原理とカテゴリーはいかにして教育学的なカテゴリーとして理解されるのか?」である。すなわち、「自己決定」、「自己活動」、「理性」、「自由」といったBildungないしgrowthの諸原理、諸カテゴリー、そしてカント的な意味での「人間存在が人間になること」という定義は、いかなる意味で意図的な働きかけとしての教育と関係するのだろうか?

・たとえば厳格な自然主義的な立場にたてば、成長のプロセスは自然によって規定されていることになり、そこでは教育は不要になる。
・古典的なBildungの思想家は、この問題について一定の答えを用意している。すなわち、人間(person)は自然の産物ではなく、growthないしBildungの過程もまた自然によって管理されるわけではない。カントもまた、「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」とした。
・「自立、自己活動、理性、そして自由といったことは、自然的な発達の性向ではない。しかし、その実現が要求する潜在能力は意識的な努力を人間に要求する。この理由から、教育は近代のBildung論の伝統において決定的に中心的な役割と目標を与えられているのである」(305-306)

・大陸哲学の中心的な課題は、感性と知性とを分離することにあった。しかしながら、自然(感性)と理性(知性)とは対立するものではない。Bildungは、漸進的に人間になることを意味するが、それは人間が自然から解放されることを意味しない。
・「大陸における教育的思考の歴史において、上記のような観点はおそらく最初にルソーによって記述された。ドイツの啓蒙主義はその観点を受け継ぎ、発展させた。」(…)
「18-19世紀に誕生した近代教育思想は、人間性、すなわち人間の条件を、自然的あるいは超自然的なものに起源をもつものではなく、単に人間性の所産、あるいは人間の理性それ自体だとみなした。」(…)この意味において、教育は人間を「知的」存在として形成するために中心的な役割を与えられた。しかし、その人間像は規範的なものであり、事実に即したものではなかった。
「教育的行為とともに始まるはずものであるBildungの過程は、われわれの事実的な存在における人間性の像を実現する企てとしてみなされる。Bildungは、人間としてのわれわれは「自己を構成、変容させる存在」であるという近代的な思想に基づいている。Bildungの過程においては、本質的な人間性がわれわれの存在様式において発揮される実践的な能力のうちにその表現をみる。」
「上記のようなBildungの理論に含まれる暗黙の問いは、プラグマティズムの教育理論は自然主義的であるべきかどうか、そしていかなる意味で自然主義的であるのか、という問いである。」(307)
(…)
一般的に、デューイを含む自然主義的な思想としてのgrowthは、家庭や学校における教育をも含む環境からの影響を自然的なgrowthを阻害するものとしてみなす。
「この緊張関係――ない的な発展と外的な影響の対立――は、伝統的な教育理論的言説においては、二つの根本的な態度の対立、すなわち「放任」と「指導」の対立としてみなされてきた(リット)」。進歩主義教育学の代表者の議論も原理的には「放任」よりのものである。
・他方、自然主義的なものであるはずのデューイの教育思想にも、上記の二つの立場の和解を試みるような記述がある。すなわち、「growthの過程は、教育者がその枠組みの中で外的環境を体系的に定義するところの、外的なものと内的なものとの弁証法的対立を含む。この観点からすると、「自然」はgrowthの過程を決定する要素として解釈されるべきではない。
「結論としては、自然主義的なプラグマティズムは、個人の発展を曖昧なところのない生物学的成熟ないしはある種の自然的な発展によって全て説明できるとする還元主義的な立場ではない。むしろ、人間のgrowthの過程は個人的なものであり、そして最終的には予測不可能な出来事であるという認識を含む。」(308)

進歩主義教育学、プラグマティズムにおける教育の目的は、被教育者の活動を言語的な活動に変容させることを通じてgrowthの過程に働きかけることだとされる。そこには、人間における「可塑性」の想定がある。これはBildung論における「形成可能性」概念とほとんど同義である。この点において、Bildungの理論家と古典的プラグマティズムの代表者らの見解が重なる。双方の見解において、教育者は人間のBildungないし「自然的発達」の目標を知っている必要はない。教育者がそれを知っていたとすれば、それは単なる「教化」となってしまうし、先行世代が後続世代の人間本性に関わる部分をあらかじめ決定してしまうことになるからである。これでは、前近代的な世界への回帰となってしまう。
・他方、だからといって教育者は単に自然的発達の障害物を除去するのみにとどまるべきというわけではない。むしろ、教育者は常に、被教育者のgrowthの過程を促進するような経験を与えるためには、被教育者に与えられている環境がどのような仕方で変化されるべきかを常に思案していなければならない。そうしたはたらきかけは、被教育者自身による問題の解決を促すために、あえて障壁や問題を課すこともある。

・プラグマティストらの教育観によれば、教育の中心的な課題は、どのような仕方でどの程度、教育者が学習者のgrowthないしは学習の過程を組織ないし決定することができるのか、というものになる。これに応じて、近代の学習理論的なアプローチは、その焦点を「教授」や「教育」という発想を避け、教師の意図的な教授活動よりも学習者の学習過程についての自己規制へと移行させた。

「われわれは直接的に教育することはしない。そうではなく、環境という手段を介して間接的に教育するのである。… 一方では、純粋に外的な方向づけを行うことは不可能である。環境にできることは、せいぜい反応を呼び起こす刺激を与えることくらいである。それらの反応が個人に前もって帰属している諸性向を促進する… 厳格な意味においては、被教育者に何かを強制したり、注入したりすることはできない。この事実を見過ごすことは、人間本性を歪め、堕落させることである」(デューイ『民主主義と教育』)。(309)

・あくまでも、外的環境からの影響を通じた学習者の経験が重要なのである。したがって、教育者の課題は、成長しつつある人間の反応を解釈し、それに応じてgrowthの状況を組織し直すことである。そのため、教育の課題は、特定の文化的な内容生徒から教師へ、あるいは世代から世代へと転移させることではない。

・「この点において明らかに、プラグマティズム の教育思想はBildung理論の伝統の中心的な思想と袂を分つことになる。同時に、常に文化的内容の選択、すなわち社会のなかで普及した形態の何が重要で、先行世代が次世代に伝えたいことは何か、ということをもまた教育の問題となる。言い換えれば、単にgrowthの環境の組織のみが問題なのではなくて、方向づけ、要求、助言、禁止、秩序づけといったことも含むgrowthの過程への「直接的な」体系的な働きかけもまた重要なのである。(…)社会の刷新と連続性の観点からすれば、先行世代の生の形式が後続世代に継承されることは機能的に欠かすことのできないことである。近代社会においては、その「継承されるなにごとか」は、教育的組織の目的として、具体的には学校の目的のなかで決定されてきた。学校は、小さな社会であるのではない。そうではなくむしろ、先行世代が後続世代に対して将来を生きるためのガイドラインを、既存の生の様式にならって与える、教育的な再生産のための場所である」。

・教育と文化は多様な仕方で相互に結びついている。教育を文化へのイニシエーションの過程とみなすこともできる。Growthの観点から重要なのは、個人が共通の公的な社会生活ないしその遺産に参加することができるようになることである。その意味では、教育は個人を社会化し、文化を存続させ、社会を再生産させる過程にすぎない。しかしながら、Bildungと文化との関係はそれほど単純ではない。教育は、あらゆる世代が公的生活の領域に導かれなければならないという意味において、常にイニシエーションとかかわる。そのような導きは、後続世代が、文化的なものを伴う知識の内容や社会的な実践を通じてそれらを自身で発見あるいは獲得することを通じて可能になる。イニシエーションが全ての教育課程において重要なのは、文化・社会的的実践が、公的世界へのイニシエーションを通じて学習される「第二の自然」としてみなされなければならないからである。人間存在の第二の自然として、文化は生物学的なものでも進化によって獲得されたものでもなく、自然的発展とは独立した、言語、自由、歴史といったものの所産である。第二の自然は、イニシエーションを通じて、理性の領域において獲得される。

・全ての個人は、固有の生涯をもち、固有の観点を世界につけくわえる。これは、人間の自発性と活動する能力が、すなわちあらゆる精神と世界とが潜在的には新たな可能性に開かれていることを意味する。この「開かれ」は、味気のない自然主義や、単純化された観念論では説明することのできない、精神と世界との間の人間の関係の本質に根付いている。

・Bildung概念は、この精神と世界との間の関係性の開かれとダイナミズムを説明するのに有用である。

・「Bildungをめぐる議論は、プラグマティズムの伝統から生じたgrowthの思想とは相入れないテーマを含んでいる。それでも、ドイツ観念論、とりわけカント以降の哲学からの影響のなかで、個人的そして社会的な次元におけるBildungの過程が、もっぱら解釈に開かれば、定義され得ないものとしてあったわけではないことには留意すべきである。むしろ、Bildungは理想への終わりなき接近の思想として特徴付けることができる」(311)

・Bildungの過程の目的は、個人が未だなり得ていない、かつなることが可能なものの実現にある。なぜなら、われわれの存在は、われわれが今ここにあるわれわれ以上のものになることができるということを前提とする次元ないし要素を含むからである。したがって、Bildungの過程は単に無作為的な過程であるのではなく、それはわれわれが経験する「事実的なものと反事実的なもの」との間の緊張関係によって特徴付けられる。
「そのような過程は、直感的に開かれたもの、そして日々の経験によって必ずしも決定づけられていないものとして現れる。なぜなら、われわれの人間性について知識は限られているからであり、われわれは、それまでに自身がBildungの過程のなかで実現することができた人間性のみを知り得ているからである。」

・Bildung概念に内在している調和ないし和解という観念は、人間性の理念への終わりなき働きかけを意味している。(311)

 

ガート・ビースタ『教えることの再発見』2章「教えることを学習から自由にする」レジュメ

・「教授/教えることと、学習/学ことの関係についてどのように理解したらよいのかという問い」(35)
・この問いへの取り組みは、教育実践上重要なだけではなく、教師の応答責任に関する理解を得られるという点において政治的理由においても重要なもの。

教えることと学習の結びつき
・教えること(Teaching)と学習(Learning)を現状よりも切り離して考えるべきである。これらを一体のものとみなす考え方では、生徒の達成に対する責任はすべて教師におしつけられ、生徒は教師による介入の客体とみなされ、責任をもった考え行為する主体とはみなされない。(37)

・出来事上でのレベルではなく、概念上のレベルで考えると、「教える」という概念は必ずしも学習を引き起こすものではないことが理解することもできる。教えることの意図が学習にないとすれば、それは「生徒化」にあるといえる(フェンスターマッハー)。

・この生徒化と学習の区別によって、教師が意図して引き起こすべき事柄を正確に語ることができ、また教育関係における責任のあり様について明確に識別することが可能になる。教師は、達成動詞の意味での学習、すなわち学習者の内容の習得の成否には責任がなく、課題動詞の意味での学習、すなわち「生徒化」に必要なスキルに関する指導が不十分であった場合には責任があることになる。(41-42)

 

学習の問題―教育の「学習化」
・学習の観点から、教育のかなりの部分について語ろうとする近年の動向があり、それをここでは「学習化」とよぶ。たとえば、生徒は「学習者」、教師は「学習のファシリテーター」などとよばれる。

・「学習の言語の問題は、その言語が内容や目的に関して「限定しない」か、あるいは「無内容」なプロセスしか示さない点にある」(44)。学習の言語の普及によって、とりわけ教育の言語が注意する必要があるその内容、目的、関係性に関する問いが問われなくなることが危惧される。

・とりわけ目的の問いは重要である。教育は、資格化、社会化、主体化の三つの領域との関係において機能している。であれば、教師や教育の設計者は、この三つの領域それぞれに対して応答責任をもつ。(44-45)これらの領域は切り離せない。

・要するに、目的に関する問いを明確に示すことができないために、学習の言語は教育の言語として不十分である。(46)

 

学習者であること―政治学アイデンティティ
・本節では、学習者であるとはどのようなことなのか、学習者として存在するとはどのようなことなのか、といった学習者の存在にかかわる問いを論じる。

・学習が、生物学的な意味で自然で必然的なものだという考えが、学習をある特定の政治的アジェンダのために利用されることに通じている。そうした議論では、個人の「学習する自由」や民主主義のための学習という理解については顧られておらず、政治的諸問題が学習に関する問題に安易に転化させられている。個人が学習をとおしてそのような問題の解決に取り組むよう仕向けられる。

・しかし、(個人)に学習を要求することが正当化されない場合や、学習すべきことが見当たらない場合もある。それゆえに上記のような状況は問題である。
・「学習者」の一般的なアイデンティティ、すなわり学習者として存在するとはどのような意味なのか、という別の問題がある。

・学習に関する現代の考え方には、学習を了解の行為、意味形成の行為、「外部の」世界についての知識や理解を得る行為として捉える強い傾向がある。そこでは、世界は私が理解しようとするものとして現れる。(48)

・そのような学習は、自身を世界の中に置き、世界と関係づけることを強調するものである。そのような理解が、自身と世界との関係の唯一の理解の仕方であるのならば、私たちの実存可能性は著しく限定されてしまう。なぜなら、そのような理解は自己を中心に据え、世界を自己のための対象としてしまうからである。学習がよいことだとか、学習者の既存のアイデンティティが唯一のものであるとかの理解は問題である。
(以下略)

 

コメント
・ビースタが教育の機能としてあげている資格化、社会化、主体化について、ビースタは主体化の機能を重視しているが(45)、私には主体化は教育の機能には含まれないように思えるので、論旨にも賛同しづらい。たとえば、「概念を取り込むように求められることで、学生に異なる実存可能性が開かれ、初期の様態の理解とは異なる世界の中に、世界とともにある仕方が開かれる、ということにある」(60)とある。が、異なる実存可能性に開かれること自体がなぜ望ましいのか不明。

 

・ビースタは教育哲学者だが、学習を論じている研究者に対する批判的な言及などがほとんどないので、アカデミックな論文として読みにくい印象がある。というのは、現代の学習を論じている研究者は、学習に関するビースタの主張の結論自体にはおおよそ賛同できるように思えたからで、たとえば社会的・政治的な問題の解決が個人的な学習に委ねられているのが問題だという認識はしごく当たり前だろうし、そこからビースタが持ち出してくる議論は、「教えることの再発見」などと言わなくてもおおよそ「学習の言語」を修正すれば解決するのではないかと思った。おそらく後章でもうすこし述べられていると思う。

William A. Galston (2007) ‘Virtue’

ゼミで切ったレジュメ。Blackwell companion政治哲学の54章ギャルストンの「徳」。

 

William A. Galston (2007) ‘Virtue’

A COMPANION TO CONTEMPORARY POLITICAL PHILOSOPHY, Ch. 54, pp.842 -851.

 

・徳への関心の再興

・近年、徳(Virtue)への関心が学問的のみならず実践的諸領域においても高まっている。アンスコムの「近代道徳哲学」(1958)を皮切りに、多くの哲学者が義務論と帰結主義の二つの理論に依拠して展開されてきた道徳的探究に不満を表明してきた。すなわち、それらの道徳哲学における標準的なアプローチは、道徳的な行為のみに焦点を当て、その行為の担い手(agents)に対してはほとんど注意を払うことなく、また道徳的経験の捉え難い側面を無視しがちであったとされる。

 

・ポーコックに触発され、歴史家は「市民的共和主義」の伝統を古典古代の伝統との関連において再構成してきた。この伝統においては、徳は公共善への忠誠によって導かれる自己統治の活動として理解される。

 

政治学の枠内では、リベラルデモクラシーの擁護者は、有徳な市民への依存を前提としている。リベラリズムの批判者は、そうしたリベラリズムの十分に成熟した成人を行為者のモデルとして想定している点を批判した。

 

・徳への関心は、統一された学問的潮流を構成しているわけではない。政治学者・政治理論家が徳に強い関心を寄せているのは、道徳哲学における徳倫理学の再興とは異なる理由からである。しかしながら、歴史的にみても、徳倫理学が今後「徳政治学」に哲学的基礎を与えるだろうと予測するのは困難なことではない。もちろん、政治理論内部での発展は独自のものとして評価しなければならないが。

 

・徳倫理学とは何か

・近代の道徳理論の多くの問いはこのような形式をとる。すなわち、「(この状況において)私はなにをするべきか?」そして「私がするべきであることについて私は(一般的に)どのように考えるべきか?」という問いである。しかしながら、徳理論はこうした問いではなく、「私はどう生きるべきか?」「私はどのような人格であるべきか?」と問う。ただ、このことは正しい行為が善い性格のみによって定義されるものであることを必ずしも意味しない。

 

・徳倫理学者は、そうなるべきだとされる人格、よしとされる生き方を、徳のボキャブラリーを用いて定義する。ある特定の状況下においてその種の行為をなすことが要請されるような永続的な人格の傾向性として定義される。

・ロザリンド・ハーストハウスによれば、有徳な人は、単に善意をもつだけではなく、徳に関する自身の理解をそれに対応する行為に変換することができる。このことは、有徳な人は、特定の状況の下で求められる行為が何かを理解し、その理解をそれと対応する行為へと変換することのできる認知的能力が必要であることを示唆している。

 

・多くの徳理論家は、有徳にふるまうためには、認知的能力のみではなく、想像的・情動的な能力も要請されると考えている。多くの状況において、自身を他者の位置におかれることを想像することなしに、また、自身の行為の他者にもたらす帰結について配慮すること(caring)なしに最善の行動を決定することは難しい。想像と配慮は、共感的な同一化の能力の基礎であり、それを欠いては、どれだけ善意をもっていてもそれが実践的な行為においてうまくいくことはない。

 

・徳を正当化する

・徳はむろん抽象的な概念であり、徳倫理学は徳に関する特定の構想の提示、正当化に挑んでいる。

 

・第一のアプローチは、共通感覚(common-sense)による戦略とよばれる:おおよそすべての社会で称揚される人格の傾向性を観察することによって徳を学習しようとするアプローチである。このアプローチでは、徳の正当化の基準は、社会が諸徳を称揚するに至った歴史的な過程に求められる。

 

・第二のアプローチは、人間の徳を人間存在よりも高次の存在を経由して理解する。だが、異なる哲学的・宗教的伝統のもとで、各々の神の理解に基づいて、徳性が異なるものとして理解されてしまう困難がある。

 

アンスコムの論文以降、ユダヤ教キリスト教は「道徳的規則の構想(?)」(law conception of ethics)をもっているため、徳倫理学の再興の潮流のもとでは、そうした道徳的伝統は脇に置いておくべきだとされている。ただし、たとえばキリスト教の内部にいても、あらゆる行為が神を通じて直接的に規定されるわけではなく、多くのキリスト教徒にとって、徳性の高い他人の振る舞いの模倣を通じて道徳的な卓越性に至ることはよしとされるため、一概に否定する必要があるわけでもない。

 

・第三のアプローチは、プラトンアリストテレスがそうしたように、徳に関する説明を人間の卓越性に関する説明に委ねる、あるいは人間の卓越性を哲学的心理学(?)において基礎付けようとする。アリストテレスは、以下のように論じる。人間社会においては、異なる個人が多様な役割=「機能」(function)を演じる。それらの個々の「機能」は、十分に果たされることもあれば不十分にとどまることもある。たとえば大工であれば、われわれはその大工が特定の専門的技能、そして特定の性格の傾向性を有しているかどうかをもって善い大工か悪い大工かを判別できる。

 

・そして、アリストテレスは続けて以下のように問う:大工が、それと対応した卓越性をもつはっきりした「機能」をもっているのに対して、人間存在自体にはそれと対応するような卓越性はないのだろうか?もしそれがあるのならば、それはまさに人間のみにあるものでなければならず、それはすなわち、理論的・実践的推論を行う能力であり、理性の運動によって導かれる諸活動である。

 

・この議論は、新鮮味のない理性主義に尽きるものではない。われわれの感情や情動の働きに関しても、その内で決定的に人間的である要素は、それらの理性との相互作用である。たとえば、勇敢な人間というのは、恐れをまったく持たないよう想定されているわけではない。むしろ、勇敢な人間も状況に応じて、推論が許す限りで恐れを感じることができる。あまりにも恐れを感じなさすぎるのは、過剰に恐れを感じるのと同様誤っているのである。これをアリストテレスは一種の狂気だとしている。このような説明は、哲学的にはそれほど強力なものではないかもしれないが、それでも、道徳哲学者の間では依然として記述的にも分析的にも一定の影響力をもっている。

 

倫理学から政治学へ:徳を促進する

アリストテレスは、徳は生得的なものではなく、訓練と教育を通じて促進されなければならないとした。これは現在でもある程度共通理解を得ている見解である。

 

アリストテレスは、徳の促進は国家の責任であり、公法(public law)を通じて市民を有徳にするよう働きかけるべきだとした。道徳教育は、重要ではあるが、既に善い習慣が存在していなければなりたたず、それは十分に練られた律法の枠組みの中でのみ可能である。また、家族をはじめとする他の影響によっても若者の道徳性は規定されるが、それらは根本的な困難を抱えている。

 

アリストテレスの徳の政治学の提案は、多くの批判にさらされてきた。第一に、アリストテレスは公法を過大評価し、他の社会制度を過小評価している。また、教育が私的領域にもっぱら委ねられていた古代とは異なり、現代の政治共同体においては、認知的能力の育成だけでなく、社会化を促進することをも公教育の義務とみなされている。さらに、経済活動、家族と政治組織の中間に位置する連合、宗教的実践、そして政治活動自体といったことへの従事(involvement)は、アリストテレスが信じていた以上に性格の形成に関して有用なものである。

 

・第二に、アリストテレスの批判者の一部は、徳の促進が統治組織の正当な権限の及ぶ範囲を超えていると指摘した。古代ギリシアの思想家はこの問題への回答を試みてはいないが、自由主義の伝統においてこれは長く中心的な問題としてみなされている。このようにして、道徳教育の適切な位置づけの問題も、より広い意味での政治理論の問いとなる。

 

・最後に、アリストテレスが徳に与えた説明よりもより多元的な説明を与えることは可能である。「多元主義」は「何でもいい」を意味しない。多元主義者は、善人と悪人の区別を行うし、徳における卓越性と平凡さとの間のギャップをも認める。にもかかわらず、多元主義者は徳が人間の発展の唯一つの理想に到達することを否定する。合理的で偉大な将軍、創造的な芸術家、宗教的な人物らは、哲学者が備えているような合理的・思慮的な徳はもっていないかもしれないが、かといって、アリストテレスが人間の美徳の頂点とみなした哲学者よりも劣るわけではない。

 

・内在的徳と道具的徳

・徳が、一般的な人間の善性あるいは卓越性としてみなされるならば、それは他の何物のためでもなく、それ自体が内在的に善であるところの人間の目的とされる。これは仮説的なものというよりも定言的な言明である。しかしながら、アリストテレスの議論が示しているように、ある特定の徳が内在的に善であるよりも道具的であり、定言的であるというよりも仮説的であるときがある。

 

・この意味で、市民的徳(civic virtue)は特に複雑な問題を提起する。いっぽうで、人間が社会的・政治的存在であるならば、他者と共に生きるために必要な徳は万人が身につける必要のあるものである。近代社会に生きるわれわれは、法や慣習によって職業(=生き方?)を規定されることはないが、市民であることは避けられない。市民的卓越性/徳のようなものがもしあるとすれば、それを獲得することはわれわれがどこで何をして生きようとも欠かせないものである。

 

・他方で、たとえわれわれが善、卓越性、あるいは有徳な人間存在に関する一元論を支持するとしても、われわれはそれを「善い市民」一般のためにそうすることはできない。市民性(citizenship)は、必ず政体によって規定されるからである。そして、あらゆる政体において善い人間存在と、善い市民は必ずしも同一ではない。20世紀の全体主義の台頭までに書かれた書物は、共産主義ファシストの体制の下で、友愛、家族の親密な関係、誠実さといった徳目を犠牲とすることを要求したことを明らかにしている。市民性の実践は、人間の魂を発展させるのみではなく、損ないもするのである。

 

・逆のこともまた同様に問題を孕んでいる。ソクラテスがそうであったように、善い人間存在として要求されるべき仕方で振る舞おうとする個人の決定が、既存の政治的秩序との間に深刻な齟齬をきたすこともありうる。

 

・市民的徳と人間的徳との間の衝突の可能性を顧慮することによって、一部の思想家はしばしばコスモポリタニズムの立場をとった。仮に自信を「世界市民」としてみなせば、同胞への忠誠心の特殊性と同胞である人間存在一般への配慮の普遍性との間の齟齬は消滅する。しかし、この立場もまた問題を孕んでいる。すなわち、個別的な忠誠が道徳的な正当性を欠いている、ないしは普遍的な義務が常に個別的な忠誠に勝る、ということは全く自明ではない。さらには、具体的な人間存在は必ず、有機的に機能する世界国家ではなく、分断された政治的共同体に帰属するため、特定の市民性の要求に取り組まざるを得ない。その内では、理想化されたコスモポリタン的な未来のビジョンは捨て去られることになる。

 

・リベラルデモクラシーにおける市民的徳

・近年、市民的徳に関する議論は、近代のリベラルデモクラシーに関する理論的そして実践的コンテクストの中でなされている。議論の軸の一つは、リベラルデモクラシーは有徳な市民を前提として要求はしないが、それは人々同士の利害や感情を芸術的に均衡なものにしている制度によって維持されているという命題である。ジェームス・マディソンが『フェデラリスト』に投稿した有名な論文では、この立場を打ち出している。イマヌエル・カントもまた『永遠平和のために』において同様の見解を表明している。

 

「重要なのは、国家のよい組織を作り出すことだけであるが(これはもちろん人間にできることである)、これは利己的な傾向の力が相互に拮抗して、一方の力が他方の力の破壊作用を抑制したり、あるいはそれを取り除いたりすることによって可能であって、そこでこの結果は理性にとって、あたかも双方の力がまったく存在しなかったのと同じことになり、こうして人間は、道徳的によい人間になるように強制されているわけではないが、よい市民になるようには強制されているのである。国家を樹立するという問題は、きわめて困難なように思われるが、悪魔の民族にとってすら(悪魔が悟性をもちさえすれば)解決が可能であ」る。(邦訳岩波文庫:69)

 

・マディソンは、ここまで極端な立場はとらず、徳が不足しているならば、それは無視してよいことではないとする。また、近年には、政治学者はリベラルデモクラシーの文化的前提要件、そして効果的な公共政策と個々の市民の性格の結びつきについて探究を進めてきた。「公共心、自制心、そして知性を欠いた市民は、効果的な自己統治の要求と齟齬をきたすだろう」(Spragen)。

 

・市民的徳の概念についてのこの分岐は、・市民的徳の概念についてのこの見解の一致は、現代の理論化が特定の構想について合意に至っていることを意味しない。「リベラルデモクラシー」は、二つの相反する思想の融合の程をなしている:

→名詞の部分は政治的権力の実際の分配と運動を示し、形容詞の部分は政治的権力の及ぶ範囲の限界を意味している。リベラルデモクラシーの擁護者は、この二つの間のバランスをどうとるかについて合意を得ていない。

 

・市民的徳を道具的に理解することにも、別の分析上の困難が伴う。もし道具性を経験的な仮説として扱うならば、社会科学的探究の実施に内在する困難にさらされることになるのである。すなわち、すべての市民が政体の存続の観点からみて有徳であると想定するのは妥当ではなく、それは程度の問題である。推測はもっともらしいものではあるけれども、「市民としての忠誠心が失われれば、リベラルデモクラシーは国防上必要であるところの軍隊を立ち上げるのが困難になる」という形式の仮説を検証するのは簡単なことではない。

(…)

・いずれにせよ、現在、学者によってなされる最善のことは、十分に構成された思考実験によって利用可能な経験的発見を補足することである。

 

・これらの成果からは、リベラルデモクラシーの存続のために要求される徳と、「健康」、「活力」、「繁栄」といったことの実現のために要求される徳と区別する必要があるということがわかる。これによって不確定な部分を縮減できる。そして、市民的徳の中核的部分は以下のように定義できるだろう。

 

・第一に、リベラルで民主的な市民は、まったく寛容な、多様な生き方を認められなければならない。第二に、市民は法の支配を尊重しなければならない。第三に、市民は、それなしでは自由と機会を享受することができないような制度・組織に対して一定の貢献をするように配置されてよい。第四に、市民は、同胞市民との間に少なくとも最低限の帰属意識をもつべきである。最後に、市民は自身の帰属する政治的共同体に対して忠実であるべきである。

 

・この欠かすことのできない徳の中核部のほかに、より広範な数多くのリベラルな市民性の理想が共存している。それらの諸理想間の議論によってリベラルデモクラシーが健全に保たれていると考えることもできる。社会統合の徳と反権威主義個人主義の徳は不可分のものである。リベラルデモクラシーは、道徳的分業を容認する。たとえば、あらゆる市民が兵士のように勇敢である必要はない。民主主義が個人から部分的な叡智をあつめ、集合的な判断を形成するのと同様、徳に関しても部分的な徳を集めて集合的な徳を形成すればよいとされる。

 

・リベラルデモクラシーにおいて、総計で、市民が政治体制を長期間維持させることができるような市民的徳をもつようになる可能性を高めるような意図的な政策はありうるだろうか?多くの回答が指摘できるが、少なくとも政治参加に関しては、多くの市民的共和主義者が望んでいたほど市民的徳に関して肯定的な帰結をもたらしてはこなかったようである。われわれは、異なる家族形態や子育ての方略、また多様な信仰上の共同体などが市民の形成において果たす効果について検証を行うべきであろう。市民的徳についての学習は、政治理論と経験的な政治研究との間の持続的な共同―近年においてはまれな―を必要とする。