・レジュメというより抜き書き。終章。
Siljander, Pauli., Kivelä, Ari., Sutinen, Ari. (Eds.) 2012. Theories of Bildung and Growth: Connections and Controversies Between Continental Educational Thinking and American Pragmatism, Rotterdam, Sense Publishers.
Chapter19, Kivelä, Siljander & Suitinen, 'Between Bidung and Growth-Connections and Controversies'.
19. 「BildungとGrowthの間:連関と論争」
・本書で提示された研究成果によって、ドイツのBildungと北アメリカのGrowthの伝統との間に影響関係があることは理解されたが、それでは、両伝統間の差異ないし類似性は、各伝統内での差異ないし類似性よりも重要性をもつものなのだろうか?(303)
・Bildungの理論的伝統については、古典的な思想家におけるBildung概念は極めて多様であり、画一的な概念の理解を提示することは難しい。そして、プラグマティズムの古典的思想家についても同様のことがいえる。だから、二つの伝統を明確に区別し、切り離して理解する理由もない。
・大陸の哲学的教育論議では、Bildungと教育(Erziehung)とを区別する傾向がある。カント的な意味においては、Bildungは、人間が人間になることであり、外的な被決定性、そして未成年性を克服することであった。Bildungは、理性を公的に使用できるようになるための要件であり、またそれは個人と社会の発展のための欠かせない要件でもある。
・プラグマティズムと進歩主義運動においても、「自己活動」、「自己陶冶」、「自己発展」、「可塑性」等の語が用いられ、同様の思想が追及された。ごく一般的な次元においては、二つの伝統の間に原理的な差異は見いだされない。
・「仮にBildungが自己がその成長の諸条件、諸状況に関して徐々に自覚的になってゆく事故形成の過程として理解されるならば、そしてその自覚が、自然的・文化的環境の双方を含む世界との相互作用を要求するものであるならば、デューイ、そして他のプラグマティズムの思想家らもBildung志向の思想家として解釈することができるだろう」(304)
・同様に逆のことも言える。人間のgrowthが、自発的かつ活動的な行為者であるところの個人が、自己活動を通して環境を形成し、かつ環境から影響を受けながら自己を決定してゆく過程として理解されるならば、Bildungの古典的な思想家らをgrowth志向の思想家としてみなすことができるだろう。
・だが、さらに問われるべき問いは、「上記の一般的諸原理とカテゴリーはいかにして教育学的なカテゴリーとして理解されるのか?」である。すなわち、「自己決定」、「自己活動」、「理性」、「自由」といったBildungないしgrowthの諸原理、諸カテゴリー、そしてカント的な意味での「人間存在が人間になること」という定義は、いかなる意味で意図的な働きかけとしての教育と関係するのだろうか?
・たとえば厳格な自然主義的な立場にたてば、成長のプロセスは自然によって規定されていることになり、そこでは教育は不要になる。
・古典的なBildungの思想家は、この問題について一定の答えを用意している。すなわち、人間(person)は自然の産物ではなく、growthないしBildungの過程もまた自然によって管理されるわけではない。カントもまた、「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」とした。
・「自立、自己活動、理性、そして自由といったことは、自然的な発達の性向ではない。しかし、その実現が要求する潜在能力は意識的な努力を人間に要求する。この理由から、教育は近代のBildung論の伝統において決定的に中心的な役割と目標を与えられているのである」(305-306)
・大陸哲学の中心的な課題は、感性と知性とを分離することにあった。しかしながら、自然(感性)と理性(知性)とは対立するものではない。Bildungは、漸進的に人間になることを意味するが、それは人間が自然から解放されることを意味しない。
・「大陸における教育的思考の歴史において、上記のような観点はおそらく最初にルソーによって記述された。ドイツの啓蒙主義はその観点を受け継ぎ、発展させた。」(…)
「18-19世紀に誕生した近代教育思想は、人間性、すなわち人間の条件を、自然的あるいは超自然的なものに起源をもつものではなく、単に人間性の所産、あるいは人間の理性それ自体だとみなした。」(…)この意味において、教育は人間を「知的」存在として形成するために中心的な役割を与えられた。しかし、その人間像は規範的なものであり、事実に即したものではなかった。
「教育的行為とともに始まるはずものであるBildungの過程は、われわれの事実的な存在における人間性の像を実現する企てとしてみなされる。Bildungは、人間としてのわれわれは「自己を構成、変容させる存在」であるという近代的な思想に基づいている。Bildungの過程においては、本質的な人間性がわれわれの存在様式において発揮される実践的な能力のうちにその表現をみる。」
「上記のようなBildungの理論に含まれる暗黙の問いは、プラグマティズムの教育理論は自然主義的であるべきかどうか、そしていかなる意味で自然主義的であるのか、という問いである。」(307)
(…)
一般的に、デューイを含む自然主義的な思想としてのgrowthは、家庭や学校における教育をも含む環境からの影響を自然的なgrowthを阻害するものとしてみなす。
「この緊張関係――ない的な発展と外的な影響の対立――は、伝統的な教育理論的言説においては、二つの根本的な態度の対立、すなわち「放任」と「指導」の対立としてみなされてきた(リット)」。進歩主義教育学の代表者の議論も原理的には「放任」よりのものである。
・他方、自然主義的なものであるはずのデューイの教育思想にも、上記の二つの立場の和解を試みるような記述がある。すなわち、「growthの過程は、教育者がその枠組みの中で外的環境を体系的に定義するところの、外的なものと内的なものとの弁証法的対立を含む。この観点からすると、「自然」はgrowthの過程を決定する要素として解釈されるべきではない。
「結論としては、自然主義的なプラグマティズムは、個人の発展を曖昧なところのない生物学的成熟ないしはある種の自然的な発展によって全て説明できるとする還元主義的な立場ではない。むしろ、人間のgrowthの過程は個人的なものであり、そして最終的には予測不可能な出来事であるという認識を含む。」(308)
・進歩主義教育学、プラグマティズムにおける教育の目的は、被教育者の活動を言語的な活動に変容させることを通じてgrowthの過程に働きかけることだとされる。そこには、人間における「可塑性」の想定がある。これはBildung論における「形成可能性」概念とほとんど同義である。この点において、Bildungの理論家と古典的プラグマティズムの代表者らの見解が重なる。双方の見解において、教育者は人間のBildungないし「自然的発達」の目標を知っている必要はない。教育者がそれを知っていたとすれば、それは単なる「教化」となってしまうし、先行世代が後続世代の人間本性に関わる部分をあらかじめ決定してしまうことになるからである。これでは、前近代的な世界への回帰となってしまう。
・他方、だからといって教育者は単に自然的発達の障害物を除去するのみにとどまるべきというわけではない。むしろ、教育者は常に、被教育者のgrowthの過程を促進するような経験を与えるためには、被教育者に与えられている環境がどのような仕方で変化されるべきかを常に思案していなければならない。そうしたはたらきかけは、被教育者自身による問題の解決を促すために、あえて障壁や問題を課すこともある。
・プラグマティストらの教育観によれば、教育の中心的な課題は、どのような仕方でどの程度、教育者が学習者のgrowthないしは学習の過程を組織ないし決定することができるのか、というものになる。これに応じて、近代の学習理論的なアプローチは、その焦点を「教授」や「教育」という発想を避け、教師の意図的な教授活動よりも学習者の学習過程についての自己規制へと移行させた。
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「われわれは直接的に教育することはしない。そうではなく、環境という手段を介して間接的に教育するのである。… 一方では、純粋に外的な方向づけを行うことは不可能である。環境にできることは、せいぜい反応を呼び起こす刺激を与えることくらいである。それらの反応が個人に前もって帰属している諸性向を促進する… 厳格な意味においては、被教育者に何かを強制したり、注入したりすることはできない。この事実を見過ごすことは、人間本性を歪め、堕落させることである」(デューイ『民主主義と教育』)。(309)
・あくまでも、外的環境からの影響を通じた学習者の経験が重要なのである。したがって、教育者の課題は、成長しつつある人間の反応を解釈し、それに応じてgrowthの状況を組織し直すことである。そのため、教育の課題は、特定の文化的な内容生徒から教師へ、あるいは世代から世代へと転移させることではない。
・「この点において明らかに、プラグマティズム の教育思想はBildung理論の伝統の中心的な思想と袂を分つことになる。同時に、常に文化的内容の選択、すなわち社会のなかで普及した形態の何が重要で、先行世代が次世代に伝えたいことは何か、ということをもまた教育の問題となる。言い換えれば、単にgrowthの環境の組織のみが問題なのではなくて、方向づけ、要求、助言、禁止、秩序づけといったことも含むgrowthの過程への「直接的な」体系的な働きかけもまた重要なのである。(…)社会の刷新と連続性の観点からすれば、先行世代の生の形式が後続世代に継承されることは機能的に欠かすことのできないことである。近代社会においては、その「継承されるなにごとか」は、教育的組織の目的として、具体的には学校の目的のなかで決定されてきた。学校は、小さな社会であるのではない。そうではなくむしろ、先行世代が後続世代に対して将来を生きるためのガイドラインを、既存の生の様式にならって与える、教育的な再生産のための場所である」。
・教育と文化は多様な仕方で相互に結びついている。教育を文化へのイニシエーションの過程とみなすこともできる。Growthの観点から重要なのは、個人が共通の公的な社会生活ないしその遺産に参加することができるようになることである。その意味では、教育は個人を社会化し、文化を存続させ、社会を再生産させる過程にすぎない。しかしながら、Bildungと文化との関係はそれほど単純ではない。教育は、あらゆる世代が公的生活の領域に導かれなければならないという意味において、常にイニシエーションとかかわる。そのような導きは、後続世代が、文化的なものを伴う知識の内容や社会的な実践を通じてそれらを自身で発見あるいは獲得することを通じて可能になる。イニシエーションが全ての教育課程において重要なのは、文化・社会的的実践が、公的世界へのイニシエーションを通じて学習される「第二の自然」としてみなされなければならないからである。人間存在の第二の自然として、文化は生物学的なものでも進化によって獲得されたものでもなく、自然的発展とは独立した、言語、自由、歴史といったものの所産である。第二の自然は、イニシエーションを通じて、理性の領域において獲得される。
・全ての個人は、固有の生涯をもち、固有の観点を世界につけくわえる。これは、人間の自発性と活動する能力が、すなわちあらゆる精神と世界とが潜在的には新たな可能性に開かれていることを意味する。この「開かれ」は、味気のない自然主義や、単純化された観念論では説明することのできない、精神と世界との間の人間の関係の本質に根付いている。
・Bildung概念は、この精神と世界との間の関係性の開かれとダイナミズムを説明するのに有用である。
・「Bildungをめぐる議論は、プラグマティズムの伝統から生じたgrowthの思想とは相入れないテーマを含んでいる。それでも、ドイツ観念論、とりわけカント以降の哲学からの影響のなかで、個人的そして社会的な次元におけるBildungの過程が、もっぱら解釈に開かれば、定義され得ないものとしてあったわけではないことには留意すべきである。むしろ、Bildungは理想への終わりなき接近の思想として特徴付けることができる」(311)
・Bildungの過程の目的は、個人が未だなり得ていない、かつなることが可能なものの実現にある。なぜなら、われわれの存在は、われわれが今ここにあるわれわれ以上のものになることができるということを前提とする次元ないし要素を含むからである。したがって、Bildungの過程は単に無作為的な過程であるのではなく、それはわれわれが経験する「事実的なものと反事実的なもの」との間の緊張関係によって特徴付けられる。
「そのような過程は、直感的に開かれたもの、そして日々の経験によって必ずしも決定づけられていないものとして現れる。なぜなら、われわれの人間性について知識は限られているからであり、われわれは、それまでに自身がBildungの過程のなかで実現することができた人間性のみを知り得ているからである。」
・Bildung概念に内在している調和ないし和解という観念は、人間性の理念への終わりなき働きかけを意味している。(311)