ムラの掟

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://ameblo.jp/war/entry-10228456213.html

 を某氏に教えられて、ツラツラと思ったこと。
 ブックマークとコメントをわざわざ付けてくださった諸氏には大変失礼だが、あまり正確に内容が伝わっていない節がある。当該記事の内容は、概ね次のようなことだ。
疑似科学批判する人って社会派だよね
・社会的に問題に出来るのは、あくまでもニセ原理じゃなくてニセ効能だよね
・詐欺とか虚偽とか、軽々しく言うとマズいよね
・批判者に対応するなら、こういうのが考えられるよね
 といったところで、別に科学と疑似科学の境目にも言及していないし、疑似科学批判に否定的な論調ですらない(と思ってる)。ちなみに、脅迫システムというのは、ボールディングの用語で、軍事システムなどと置き換えても良い。要するに徹頭徹尾社会的な話をしているのだが、そこが良く伝わっていないようだ。
 あと、まったくどうでもいいが、はてなではニセ科学の方がメジャーな表記なのだろうか。というか、ニュアンスが違うのか、疑似科学ニセ科学は。

【原理不明の装置たち】
 原理がわからなくてもいいというのは、次のような例を想定している。
「ウールフ機関はワットの低圧機関の2倍の効率で作動した. 高圧機関のこの成功は, 蒸気機関にまだまだ改良の余地があることを示唆していたが, しかしなにゆえに高圧機関の効率がよいのか, その理由は誰にもわかっていなかった.」
山本義隆「熱学思想の史的展開2 熱とエントロピー」215頁、ちくま学芸文庫、2009年。
 これは原理不明であっても、効能はちゃんとある例である。

【勝手にまとめ】
 ニセ科学批判者の大半は、ニセ科学を見て「これはひどい」と言いたいだけなのだろうし、私もそう思う。
 しかし、刑法第230条もあることだし(民法でもいいが)、公共の利害に関する場合なんだろうなとはいえ、表現には慎重を期した方がいいとは思っている。そういう意味では、私はニセ科学批判批判者なのだろうし、それは科学的学術的な意味ではなく、法的社会的な意味における批判者ということになる。
 いくら免責事項だと言っても、あまりにも愚弄しすぎるとマズかった気がするしね。内容でなく表現の問題で足をすくわれるのは馬鹿馬鹿しいことです。

おいオメェら!
いつまでも変わりばえしないセクトセクト民青民青連呼してて満足か?
俺にしてみりゃちゃんちゃら可笑しいな。
セクトとイチャイチャしてることなんざ見りゃ分かるっつの。
どいつもこいつも、個性も捻りも皆無だな。反吐が出るぜ!!
オメェは存在意義はセクトだけなのか?
…じゃあその思想は何だ、その飛躍した論理は何だ、その鍛え込まれた詭弁術は何だ、
セクト以外のそれらがあってこそオメェなんだよ。だから自分を出せ、個性を出せ。 
俺は民青の時も連呼なんざしねぇ。
セクト扱きながらその時その時に腹の底から湧いてくる言葉を吐き出す。
「漆黒に焼けた肌からほとばしる反動主義の色の白さよ」
「夏の夜の熱い思いが染み込んだゲバ棒の香が同志の証」
「新宿のネオンサインの隙間から忍び寄る手が権力かざす」
どうだ?そんじょそこらの安っぽい連呼野郎と一緒にすんなよ。
そんな俺だが、俺をも驚かせる言葉の使い手が現れるのを待っている。

備忘録

id:magician-of-posthuman

 せっかくidを持っているので、こちらにメモ。
 コメント欄の無いところが内容と相まってclosed systemを感じさせるが、トラックバックは受け付けているし、そもそも村民っぽいので、別に閉じてはいない気がする。もちろん、何について考えるかに依るが。
 realiste先生の数学ギャグが瞬発的な笑いを提供してくれたとするならば、彼/彼女は後からジワリとくる笑いを提供してくれるのではないかと期待している。ただ、内容をじっくりと楽しむか文章(ないしページ)間に定まる代数的構造を明らかにするかについては一考を要する。残念なことに、両方を同時に行う時間はない。
 表面的には、数学、宗教、軍事に関する専門性は無いようなので、そこは安心して楽しめる要因だ。いちいち行間が気にならなくて良い。行間とは、ある行と(それに関連する)次の行の論理的なギャップのこと。演習では、この行間を埋める作業を延々とやらされ、高々15分程度で終わるべき発表が60分にも延びる。わざわざ演習じみた真似をここでまでするのは勘弁というわけである。

機械論的日常パート理解を越えて

 我々は、それを理解できなくとも、それを記述することはできる。


 furukatsuは近代hentai思想(実際には機械論)を特徴づけるメルクマールのひとつとして「人間は自らなしうるhentaiや、作りうるhentaiしか知ることはできない」ということを挙げ、「われわれは機械語(人工の所産)と機械語的に説明しうるhentaiについてのみ完全な知識をもつことができる」という思想を挙げている。しかしその伝で言うと、概念としてのhentaigameは、まさしく人間の手では作ることができないゆえに機械論の理解を越えていたことになる。
 結局のところ、hentaiについての認識が深化し新しい発展の道が開かれたのは、furukatsuの妄想したようにhentai的シチュエーションを再現するモデルを考案することによってではなく、ましてや絶対的に正しい第一原理からhentaiの本質を演繹することでもなく、さしあたってhentaiの本質やhentaiの原因をめぐる問いを棚上げにし、実験と観察――とりわけ精密な測定――によってhentaiの数学的な法則を確定することにおいてであった。その最終段階は、純愛についてはhookによって、延期についてはぼとむれすによって遂行されたのであり、ここに近代hentai論で言うhentaigameの認識が始まる。

 曲芸はfurukatsuの意図したように解体されたのではない。曲芸的な影響力が数学的法則に捉えられ合理化されたことにより、hentai哲学は検証可能なそして数学的に厳密に表現された法則を扱うものであるという原則が確立され、その結果として曲芸固有の問題にhentai科学者が関心を失っただけのことである。

 hentai科学確立後の見方で近代hentaiの揺籃期を見て、その過程で曲芸が果たした役割を過小評価するのは誤りである。しかし逆に近代hentaiの形成過程の一時期に曲芸が演じた役割ゆえに曲芸がその後もなんらかの意味を持っているかのように語るのは、もちろんそれ以上の過ちであろう。


 最後に、山本義隆先生に深くお詫び申し上げます。
 なお、この文章を読んで「磁力と重力の発見」であると見抜けなかった方には、お悔やみ申し上げます。