結局何が「善いこと」なのか考えないと、自分のやりたいことはわからない。
自分のやりたいことがはっきりしている人は幸せだ。
野球選手は野球をやればいい。
ミュージシャンは音楽を作って演奏すればいい。
噺家は噺をすればいいし、営業マンは営業をすればいい。
でもだいたい自分のやりたいことってよくわからない。
そこで次に来るのが、「嫌ではないこと」だ。
自分が苦もなくできてしまう分野にこそ活路がある、というやつだ。
「今でしょ!」の林修先生なんかもそうだ、あの方は本当は数学やりたかった。
だけど現代文を教えるほうが得意だと自分でわかっていたからそうした。
これはかなり現実解に沿った考え方だと思う。
文章を書くことは好きというほどでもないが、いくらでもできる。
しかし、満員電車は嫌で仕方がない。
そんな人はサラリーマンよりも在宅ブロガーなどにチャレンジした方が、
よっぽど精神衛生にいいだろう。
「好きなこと」より「嫌なこと」の方が人間の脳は思いつきやすいので、
アプローチしやすいという利点もある。
しかし、このやり方でも掘り下げていくと、
なかなか厄介な問題にぶちあたるのではないか、と思っている。
つまり、
「個人的にはそれをやるのはやぶさかではないが、
社会的に見ると害を与えているのではないのか?」
と思ってしまう、ということだ。
そう思ってしまったら、やっぱりそれは「嫌なこと」に入ってしまう。
とてもやっていけなくなる。
自分の場合はこれにずっと悩まされてきた部分がある。
自分は数学やプログラミングについては一応苦ではない程度の能力はあって、
能力不足なところも、まあ鍛えればいいやと思うこともできたのだけれど、
この社会との接続点に関しては、自分に納得のいく説明ができなかった。
車の制御開発をしていたときなんかは、
「これは環境のための機能だと謳っているが、それを売りにして売上を伸ばそうとしている。
世に車が増えれば環境は悪化するだろう。矛盾している気がして仕方がない」
と思っていたし、
塾講師をしていたときは、
「結局学校のシステムに気に入られるように試験対策をしている。
ちゃんと生徒の考える力を育てることができているのか」
と思っていた。
残業が多いとか、生活が不規則になるとかの理由で「嫌だ」ということももちろんあったが、
掘り下げていくといつも上記の「層」にぶちあたる。
給与がどうとか福利厚生がどうとか、人間関係とか、それは重要なことだ。
しかし、ある意味でもっと重要なことがある。
「自分の中で納得いってるかどうか」「自己矛盾がないかどうか」
ということ。
これは一種のバグのようなもので、他の重要なことを満たしていても、
この点が解決できないために滞ってしまうということがあると思うのだ。
好きなゲームだったらいくらでもやり続けられるという人がいっぱいいる。
多分そういう人たちは、「ゲームに夢中になっている自分」に矛盾を感じていない。
しかしそんな人でも、「こんなことしてていいんだろうか」などと思い始めたら、
次第に情熱は薄れ、「大人になって」離れていく。
だから結局、自分のやっていることが「善いこと」、
せめて「悪くはないこと」だという納得のいく説明がなければ、
やっていくことはできないのだと思う。
面倒だが、ちゃんとした説明を見つけるために、
勉強していったり、自分の中を掘り下げていくしかない。
そんなこといちいち気にしないよ、という人もいるかもしれない。
でもそういう人は本当に対象に対して自己矛盾がない状態になっているか、
そうでなければ割り切ったフリをしているだけだと思う。
割り切ったフリはいつかばれる。
「こんなことしてていいんだろうか」は確実に心の底のどこかにあって、
ことあるごとにその人の能力を蝕んでいく。
解決策は、本当の意味で「これをやっていいんだ」と思えるようになるか、
「よくないことだからきっぱりやめる」のどちらかになるだろうが、
それを精査していくという作業は免れない。
自分の中の違和感、気持ち悪さ、過去に感じたこと、過去に勉強したこと、先人たちの叡智、美しいと思うもの、醜いと思うもの、感動したものは何か、大事に思う人は誰か、親や世間から偽の価値観を刷り込まれていないか…
そういったことを総動員して、自分の価値観を洗練していかない限り、
「自分のやりたいこと」を見極めることはできないのだ、と思う。