仏教界を騒然とさせたと聞いたので読んでみました。
仏教大から出てきた新進気鋭の仏教学者。
清水先生は上座部仏教の研究で論文を書いてきましたが、一般書は初めて。
とても読みやすい本に仕上がっています。
中村元の原始仏教論で育った身とすると、これは新鮮。
そして業界にケンカを売ってますね。
いいぞ、やれやれ。
ブッダ像を固めてはいけない。
まあ従来は「不殺生を説くブッダは戦争反対論者だ」とか「平等主義のブッダは身分差別や性差別と戦ってきた」という論調があり、それが極端でした。
戦後日本の民主主義を古代インドに投影して仏典を読んでいる。
「いま」の理想をお釈迦さまにおっ被せていたわけです。
でもそれは変でしょう、と。
2500年後の状況を、それも極東の僻地である日本の都合なんてお釈迦さまでもご存知ありません。
ただでさえ「千里眼が使えた」とか「額からビームを出した」とか神話化されやすいブッダなので「その神話を剥ぎ取って、原寸大のブッダを描き出そう」という時代になっても、もし「民主主義を先取りしていた」と描写するなら、それもまた「神話化」なわけです。
神話化
気持ちはわかりますけどね。
仏典が「生きる指針」になってほしい。
研究しても、もし現代に活かせない理論であるなら、その研究自体が虚しくなります。
研究者のサガでしょうか。
事実と願望との混同が生じてしまう。
それが今までの「仏教学」でした。
清水先生の論は「そこをクールに割り切ってしまおう」です。
もともと武士階級の生まれであるブッダにとって戦争は日常茶飯事。
戦いの中で殺し殺されることになんの疑問も感じていません。
転生するだけのこと。
それにカースト制の厳しい古代インドでは、身分社会の存在は常識の範囲内です。
それを壊して無にしようとまでは思っていない。
ブッタはブッタで「その時代」のベストを尽くしたし、中村元は中村元で「その時代」のベストを模索した。
でもそれは神話化のバリエーションであり学術研究ではない。
神話化を許すと、ブッダは時の為政者の「都合のいい男」になってしまいます。
実際、第二次大戦中に仏教界は戦争に賛成しました。
祖国のために死ぬことを美徳と讃えた。
こうした政治的利用に対し、再発を防ぐ手立てを打っておかねばなりません。
六師外道
さて、本論と関係なく興味を持ったのが「六師外道」です。
お釈迦さんは当時の「バラモン教」に「否」を突きつけたわけですが、すでに「沙門宗教」が興っていたわけです。
バラモン教は「寄付すると来世は天国に生まれ変わる」という司祭階級に都合のいい宗教なので、武士階級の勢力が増すに伴い「自分たちのための宗教を」という運動が活発になってきます。
それが沙門宗教。
日本の鎌倉時代に似てますね。
カースト制度からの自由は、こうした沙門宗教にとっては当たり前でした。
お釈迦さんは新規参入なわけで、他の沙門宗教との差別化も図らないといけなかった。
その点を考慮しないと「仏教の独自性」は理解できません。
- カッサパ派:何が善で何が悪かは地域によって異なる。
- ケーサカンバラ派:誰もが物質の集まりで、物質が離散すれば無になる。
- カッチャーヤナ派:物質と精神は別モノで、影響し合うことはない。
- ゴーサラ派:人生が苦か楽かは生まれつき決まっている。
- ジャイナ教:苦行を積めば悪いカルマは消えていく。
- ベーラッティプッタ派:死後の世界なんて知りようがない。
これが面白かった。
この6つの立場は今でも通用します。
というか「現代的」な考察ばかり。
相対主義、唯物論、心身二元論、親ガチャ、体育会系、不可知論。
街頭でインタビューすれば、その答えはこの6つに分類できそう。
これも「現在を過去に投影」なのかなあ。
あるいは、人間が生来持つ「カテゴリー」なのだろうか。
ということで、お釈迦さんはこれらと違うことを言わないといけなくなる。
それで出してくるのが「魂はないけど輪廻はある」という立場です。
これはどう考えても筋が通らない。
「魂がないなら、どう輪廻転生するんだ?」という疑問が出てきます。
しかもどんな理屈をつけても説得力がない。
新規参入は難しい。
お釈迦さんの基本思想は「五蘊皆空」です。
般若心経もそんなことを書いてますが、あれはそのあと十二支縁起や四諦論を否定して「無所得」とか言い出すので、ジャイナ教とのチャンポンかもしれません。
仏教も時代に合わせて変化していくもので、仕方ないことです。
で、五蘊。
人間は5つの要素で構成されている。
肉体・感覚・思考・意志・認識。
これらは相互に影響し合っていて、単体では存在しない。
そりゃあそうで、感覚無しに思考をすることは無理だし、思考せずに何かを意志するのも不可能です。
これらの相互作用を仮に「私」と呼んでいる。
なので「私」とは実体のある存在ではない。
「そうは言っても先生、先生も自分のことを『私』と言ってるじゃないですか」と質問され「これは言葉がそうなってるから、そう使っているだけのことです」とブッダが答えているのが斬新だなあ。
流石としか言えません。
言葉を使いながら、その言葉を客観視している。
これ、明らかに「言語ゲーム」を理解してるってことですよね。
この観点は他の沙門宗教にはありませんでした。
他は「有るか無いか」の二択に囚われていた。
このメタ言語性がお釈迦さんの見つけた「悟り」なのでしょう。
言葉を使いながら言葉に騙されない。
メタの立場で言語と付き合っていく生き方。
縁起ループ
言葉に騙されてしまうことが「無明」です。
「言葉に閉じ込められてしまい、目がくらまされた状態」。
そう理解すると十二支縁起ももっともな構造をしています。
十二の要素が連鎖することで「生老病死の苦しみ」を生み出している。
この十二要素には五蘊が隠れています。
五蘊は「色・受・想・行・識」ですが、十二支縁起では「無明」のあとに「行」が来ます。
「言語への無自覚」によって「意志」が生じる。
「行」のあとに「識」、「識」のあとに「色」。
これで五蘊のうちの3つが揃います。
五蘊を時間に沿って論理的に展開している。
そのあと「六入→触」。
「六入」は「眼耳鼻舌身意」なので「色(肉体)」を感覚器に分節化したもの。
それが「接触」によって「受(感覚)」を生む。
色声香味触法。
これで五蘊の4つめが揃いました。
五蘊の「想」は出てこないんですよね。
代わりに「愛→取→有」が並ぶ。
これらは「渇望→執着→存在」という意味で、たぶん「貪り・瞋り・無いものを有ると誤解すること」の三毒を示していると思う。
ここが「煩悩」だと思うので、清水先生の「無明=煩悩」という説にはちょっと同意できない。
伝統的に三毒の「癡 moha」は「無明 Avidya」と同一視されてきたけど、元の単語は違います。
あるいは「無明」も「三毒」も「想(思考)」の領域で、言葉に囚われて思考を紡ぐと、それが意志に影響し、その意志が認識を偏らせてしまう。
認識が偏ると、それに合わせた身体動作が常態化し、それが感覚を規定してしまう。
自分に都合の悪いものは見ることも聞くこともできなくなる。
その感覚が再び思考に影響することで「三毒」という煩悩が完成する。
欠乏感に駆り立てられ、他者から奪おうとしたり、あるいは他者に騙されるんじゃないかと疑念を抱く。
この「煩悩」から次の「意志」が生まれ「認識」が生まれ、2周目に入る。
3周4周と回を重ね、煩悩が強化される。
この反復で生老病死を「苦しみ」と受け取ってしまう。
そんなループを考えたらいいのかな。
まとめ
「だから輪廻転生する」と言われても、このロジックがわからんなあ。
危惧するポイントはわかります。
もし輪廻がないと、真面目に生きても報われないことになる。
「じゃあ、生きてる間は裏金作って、自分の好き勝手やればいい」と開き直られると、この世が立ち行かなくなります。
だから、悪いことをすれば悪い目に会う。
そう信じたい。
でもお釈迦さんはそんな輪廻の話はしてないですね。
それに「悪い目に会えばいい」と願うのは、ちょっと心が狭いです。
ブッダは「良いことすると、それだけで気持ちいいなあ」以上のことは言ってない。
生老病死が「苦しみ」ではなくなる。
ただ、時おり「この間の前世でこんなことがあって」と言い出すのがインド的日常会話。
追記
そうそう、前にウィトゲンシュタインのことを書いたときにも思ったけど、もし彼らが現代に生まれ「ソフトウェア」という概念を知っていたら、もう少し違う表現を取ったんじゃないかと思う。
昔は、使えるメタファーが「ゲーム」や「音楽」しかなかった。
他の人たちは「自己」をハードウェアだと思っていて、それを「魂」とか「人間の本質」とか議論しているところに、お釈迦さんもウィトゲンシュタインも「自己はソフトウェアかも」と考えたのだと思う。
それまでと違う土俵を出しちゃったので、どうも周りと話がかみ合わない。
歯がゆく思ってそうなんだよね。