Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

Scrapboxの新機能infoboxを使ってみた

AIでテーブル型データベースを作る。

infobox

あれ?どこで見かけたんだろう? infoboxについてScrapbox自身の説明ページが見当たりません。 ユーザが実験してるページはヒットするんだけど。

イメージとすると、すでにあるページを生成AIで要約します。 Notionを意識しているのかな。 表形式で表示する。 絞り込みもできるしソートもできるデータベースです。

使い方

キーワード・ページを作ります。 たとえば「Textwell」というタイトルのページを作り、下記のスクリプトを書きます。

table:infobox

テーブル記法なのでテーブルができるのですが、そのセルに「要約」とか「鍵概念」とか書いていきます。 すると下方に、それに合わせた表が作成されます。

対象となるのは、この「Textwell」へのリンクがあるページです。 内部リンクでもいいし、タグでもいい。 関連付けられていれば、データベースの対象となります。

使用例

こんな感じに下の方に表が出てきます。

サッカーの試合結果をまとめるのに使っている人がいて、たしかにそうした用途に最適です。 データを1枚ずつ書いておき、全体を一覧する。 わざわざ元のページを開く必要がありません。 dataviewの進化版のイメージかな。

「箱」の欲動

パソコン通信の頃はどこも掲示板で、スレッドにコメントを重ねる形式を採用していました。 BBSですね。 ツリー状に議論が展開する。 この形式をエディタにするとアウトライナーになります。 どんどん話を深めていく。 枝分かれして全体像の厚みが増していく。

それに対しSNSはタイムライン形式です。 時間とともに話が流れていきます。 展開ではなく「流れ」でできている。 ブラウズできる範囲が狭いので、反応がリアクションに留まる。 ツリー状に展開しにくいきらいがあります。

もちろん、BBSも書き込み時はタイムラインであり、たまたまスレッド化するツールがあったのでツリーも把握しやすかった。 それはツールの問題なのですが、ツリーとして見ないユーザが増えれば、ツリー化するツールも廃れていきます。 リアクションのツール、承認欲求を生み出す装置。 ツールがユーザを作り、ユーザがツールを育てる。

Scrapboxは実のところ「ツリー化するツール」です。 ベタでテキストを書くエディタではなく、インデントで箇条書きし、その箇条書きをスレッドのように扱う。 そうしたページの書き方を要請している。 Markdownを採用しないのも、これがテキストを書くものではなく、アウトライナーに近い思考の進め方を想定しているからです。

するとinfoboxは何なのでしょうね? データベースなのは確かなのですが。 ツリーやタイムラインとは異なるもの。 Notionあたりが拾い集めようとしているアフォーダンス。 離散しているものを箱に並べたい。 貝殻を並べたり、古いコインを並べたり。

「箱」の持つ欲動。 これはなんなのだろう?

まとめ

infoboxはなぜ「box」なのか。

「ブッダという男」を言語ゲームとして読む

仏教界を騒然とさせたと聞いたので読んでみました。

ブッダという男

仏教大から出てきた新進気鋭の仏教学者。 清水先生は上座部仏教の研究で論文を書いてきましたが、一般書は初めて。 とても読みやすい本に仕上がっています。

中村元原始仏教論で育った身とすると、これは新鮮。 そして業界にケンカを売ってますね。 いいぞ、やれやれ。 ブッダ像を固めてはいけない。

まあ従来は「不殺生を説くブッダは戦争反対論者だ」とか「平等主義のブッダは身分差別や性差別と戦ってきた」という論調があり、それが極端でした。 戦後日本の民主主義を古代インドに投影して仏典を読んでいる。 「いま」の理想をお釈迦さまにおっ被せていたわけです。

でもそれは変でしょう、と。 2500年後の状況を、それも極東の僻地である日本の都合なんてお釈迦さまでもご存知ありません。 ただでさえ「千里眼が使えた」とか「額からビームを出した」とか神話化されやすいブッダなので「その神話を剥ぎ取って、原寸大のブッダを描き出そう」という時代になっても、もし「民主主義を先取りしていた」と描写するなら、それもまた「神話化」なわけです。

神話化

気持ちはわかりますけどね。 仏典が「生きる指針」になってほしい。 研究しても、もし現代に活かせない理論であるなら、その研究自体が虚しくなります。 研究者のサガでしょうか。 事実と願望との混同が生じてしまう。 それが今までの「仏教学」でした。

清水先生の論は「そこをクールに割り切ってしまおう」です。 もともと武士階級の生まれであるブッダにとって戦争は日常茶飯事。 戦いの中で殺し殺されることになんの疑問も感じていません。 転生するだけのこと。 それにカースト制の厳しい古代インドでは、身分社会の存在は常識の範囲内です。 それを壊して無にしようとまでは思っていない。

ブッタはブッタで「その時代」のベストを尽くしたし、中村元中村元で「その時代」のベストを模索した。 でもそれは神話化のバリエーションであり学術研究ではない。

神話化を許すと、ブッダは時の為政者の「都合のいい男」になってしまいます。 実際、第二次大戦中に仏教界は戦争に賛成しました。 祖国のために死ぬことを美徳と讃えた。 こうした政治的利用に対し、再発を防ぐ手立てを打っておかねばなりません。

六師外道

さて、本論と関係なく興味を持ったのが「六師外道」です。

お釈迦さんは当時の「バラモン教」に「否」を突きつけたわけですが、すでに「沙門宗教」が興っていたわけです。 バラモン教は「寄付すると来世は天国に生まれ変わる」という司祭階級に都合のいい宗教なので、武士階級の勢力が増すに伴い「自分たちのための宗教を」という運動が活発になってきます。 それが沙門宗教。 日本の鎌倉時代に似てますね。 カースト制度からの自由は、こうした沙門宗教にとっては当たり前でした。

お釈迦さんは新規参入なわけで、他の沙門宗教との差別化も図らないといけなかった。 その点を考慮しないと「仏教の独自性」は理解できません。

  • カッサパ派:何が善で何が悪かは地域によって異なる。
  • ケーサカンバラ派:誰もが物質の集まりで、物質が離散すれば無になる。
  • カッチャーヤナ派:物質と精神は別モノで、影響し合うことはない。
  • ゴーサラ派:人生が苦か楽かは生まれつき決まっている。
  • ジャイナ教:苦行を積めば悪いカルマは消えていく。
  • ベーラッティプッタ派:死後の世界なんて知りようがない。

これが面白かった。 この6つの立場は今でも通用します。 というか「現代的」な考察ばかり。 相対主義唯物論心身二元論、親ガチャ、体育会系、不可知論。 街頭でインタビューすれば、その答えはこの6つに分類できそう。 これも「現在を過去に投影」なのかなあ。 あるいは、人間が生来持つ「カテゴリー」なのだろうか。

ということで、お釈迦さんはこれらと違うことを言わないといけなくなる。 それで出してくるのが「魂はないけど輪廻はある」という立場です。 これはどう考えても筋が通らない。 「魂がないなら、どう輪廻転生するんだ?」という疑問が出てきます。 しかもどんな理屈をつけても説得力がない。 新規参入は難しい。

メタ言語

お釈迦さんの基本思想は「五蘊皆空」です。

般若心経もそんなことを書いてますが、あれはそのあと十二支縁起や四諦論を否定して「無所得」とか言い出すので、ジャイナ教とのチャンポンかもしれません。 仏教も時代に合わせて変化していくもので、仕方ないことです。

で、五蘊。 人間は5つの要素で構成されている。 肉体・感覚・思考・意志・認識。 これらは相互に影響し合っていて、単体では存在しない。 そりゃあそうで、感覚無しに思考をすることは無理だし、思考せずに何かを意志するのも不可能です。 これらの相互作用を仮に「私」と呼んでいる。 なので「私」とは実体のある存在ではない。

「そうは言っても先生、先生も自分のことを『私』と言ってるじゃないですか」と質問され「これは言葉がそうなってるから、そう使っているだけのことです」とブッダが答えているのが斬新だなあ。 流石としか言えません。 言葉を使いながら、その言葉を客観視している。 これ、明らかに「言語ゲーム」を理解してるってことですよね。 この観点は他の沙門宗教にはありませんでした。 他は「有るか無いか」の二択に囚われていた。

このメタ言語性がお釈迦さんの見つけた「悟り」なのでしょう。 言葉を使いながら言葉に騙されない。 メタの立場で言語と付き合っていく生き方。

縁起ループ

言葉に騙されてしまうことが「無明」です。 「言葉に閉じ込められてしまい、目がくらまされた状態」。 そう理解すると十二支縁起ももっともな構造をしています。 十二の要素が連鎖することで「生老病死の苦しみ」を生み出している。

この十二要素には五蘊が隠れています。 五蘊は「色・受・想・行・識」ですが、十二支縁起では「無明」のあとに「行」が来ます。 「言語への無自覚」によって「意志」が生じる。 「行」のあとに「識」、「識」のあとに「色」。 これで五蘊のうちの3つが揃います。 五蘊を時間に沿って論理的に展開している。

そのあと「六入→触」。 「六入」は「眼耳鼻舌身意」なので「色(肉体)」を感覚器に分節化したもの。 それが「接触」によって「受(感覚)」を生む。 色声香味触法。 これで五蘊の4つめが揃いました。

五蘊の「想」は出てこないんですよね。 代わりに「愛→取→有」が並ぶ。 これらは「渇望→執着→存在」という意味で、たぶん「貪り・瞋り・無いものを有ると誤解すること」の三毒を示していると思う。 ここが「煩悩」だと思うので、清水先生の「無明=煩悩」という説にはちょっと同意できない。 伝統的に三毒の「癡 moha」は「無明 Avidya」と同一視されてきたけど、元の単語は違います。

あるいは「無明」も「三毒」も「想(思考)」の領域で、言葉に囚われて思考を紡ぐと、それが意志に影響し、その意志が認識を偏らせてしまう。 認識が偏ると、それに合わせた身体動作が常態化し、それが感覚を規定してしまう。 自分に都合の悪いものは見ることも聞くこともできなくなる。

その感覚が再び思考に影響することで「三毒」という煩悩が完成する。 欠乏感に駆り立てられ、他者から奪おうとしたり、あるいは他者に騙されるんじゃないかと疑念を抱く。 この「煩悩」から次の「意志」が生まれ「認識」が生まれ、2周目に入る。 3周4周と回を重ね、煩悩が強化される。 この反復で生老病死を「苦しみ」と受け取ってしまう。

そんなループを考えたらいいのかな。

まとめ

「だから輪廻転生する」と言われても、このロジックがわからんなあ。 危惧するポイントはわかります。 もし輪廻がないと、真面目に生きても報われないことになる。 「じゃあ、生きてる間は裏金作って、自分の好き勝手やればいい」と開き直られると、この世が立ち行かなくなります。 だから、悪いことをすれば悪い目に会う。 そう信じたい。

でもお釈迦さんはそんな輪廻の話はしてないですね。 それに「悪い目に会えばいい」と願うのは、ちょっと心が狭いです。 ブッダは「良いことすると、それだけで気持ちいいなあ」以上のことは言ってない。 生老病死が「苦しみ」ではなくなる。 ただ、時おり「この間の前世でこんなことがあって」と言い出すのがインド的日常会話。

追記

そうそう、前にウィトゲンシュタインのことを書いたときにも思ったけど、もし彼らが現代に生まれ「ソフトウェア」という概念を知っていたら、もう少し違う表現を取ったんじゃないかと思う。 昔は、使えるメタファーが「ゲーム」や「音楽」しかなかった。

他の人たちは「自己」をハードウェアだと思っていて、それを「魂」とか「人間の本質」とか議論しているところに、お釈迦さんもウィトゲンシュタインも「自己はソフトウェアかも」と考えたのだと思う。 それまでと違う土俵を出しちゃったので、どうも周りと話がかみ合わない。 歯がゆく思ってそうなんだよね。

Obsidian Thino をカスタマイズするCSS

Memosの頃よりフォントが大きくなってる?

Thino

MemosがバージョンアップしてThinoになりました。

で、ですね、フォントが大きい。 どうも通常の編集画面と同じフォントサイズが適用されています。 書き込む方も、表示する方も。 でも、ちょっとメモをする用途なので、コンパクトに引き締まった感じになってほしいです。

ということでカスタムcssを作ります。

Thino.css

CSS Editorで下記スクリプトを書き込んでください。

.memo-editor-wrapper .cm-contentContainer {
  font-size: 18px !important;
}

.memo-editor-wrapper .btns-container .action-btn {
  background: mediumaquamarine !important;
}

.memo-content-text p {
  font-size: 15px !important;  
}

memo-editor-wrapperが投稿欄で、btns-containerは投稿ボタンです。 memo-content-textが一覧表示。

使用例

ボックスの余白が目立ってしまうかなあ。 どこで調節するんだろ?

まとめ

クラス名を見るとmemoとthinoが混在してる。 今後thinoに統一されそう。

Obsidian Zoomをテキストのどこからでも起動

または、ツールバーにアイコンをつける方法。

Zoom

ObsidianはZoomを活用してなんぼ。 テキストを見出し区切りのブロックとして扱える。 「アウトライン」との相性も良くて「書き方そのもの」を変えてしまいます。

あまりに軽快なのでTextwellにも似たアクションを作ったほどです。

問題点

ところがTexwellの方が使いやすい。 本家を超えてしまった。

「なぜだろう?」と考えてみると、Obsidianでズームするには一度カーソルを見出し行に載せないといけない。 文中ではズームが効きません。 ここが面倒。

ズームアウトはカーソルがどこにあってもいいのに、ズームインは見出し行に限定されてしまう。 この不均衡が違和感を生み出すみたいです。

マクロ化

それで「カーソルがどこにあっても、そのブロックをズームしてしまう方法」を考えてみました。 Commanderプラグインにある「Macros」を使います。

「Macros」で「Add Macro」をタップ。 マクロ名を「Zooming」とし「+ ADD COMMAND」で下記の順にコマンドを並べます。

  • すべての見出しとリストをフォールド
  • 左に移動
  • Zoom: Zoom in
  • すべての見出しとリストのフォールドを解除

「Save」でマクロを確定します。

これでモバイルツールバーの「グローバルコマンドを追加」のところで「Commander: Zooming」を追加できます。 ツールバー上のアイコンは「?」になりますがCommanderの「Mobile Toolbar」でアイコン設定できます。

使い方

さらにモバイルクイックアクションに「Minimal Theme Settings: Toggl focus mode」を設定するとこの通り。 画面がシンプルになる。

キーボードが「一般防御魔法」であること以外に気が散る要素がない。 これがズームの利点ですね。 認知リソースをテキストに全振りする。 いやあ、書きやすいです。

アイコン問題

Templaterのアイコン問題も同じ方法で回避できます。

つまり、Templaterアクションを作ったら Hotkeys に登録し、それをCommanderの「Macros」に書き込みます。 マクロ経由だとツールバーのアイコンを後から設定できる。 これでいくら並べても区別がつくようになります。

まとめ

Commanderマクロを使えば手軽に「魔法」が生み出せる。

TextwellにGyazoの画像を埋め込む

「ブラウザのバージョンが古い」と言われたので。

Gyazo

ブログにスクリーンショットを埋め込むに使っているのがGyazo。 ネット上に画像をアップロードするサービスです。

このごろTextwellの内蔵ブラウザでアクセスすると「古いブラウザでアクセスしないでよね」ってメッセージが出るようになったので、User Agent をiOS17用にしました。

iPadのままiPhoneのフリをするのでちょっと画像が選びやすい。

Import Textwell ActionGyazo

使い方

空行で起動するとGyazoを開きます。 この画面に写真をドロップするとアップロードになります。 対象となる画像を開いて内蔵ブラウザを閉じればimgタグで貼り付け。

カーソル行がGyazoのアドレスであれば、直接それをimgタグ付きに変換します。 Gyazo以外でも拡張子がjpgやpngであればimgタグになります。

カーソル行がYouTubeアドレスの場合は動画プレーヤーでの埋め込みになります。 Twitterやx.comの場合はツイートの埋め込みになります。

それら以外は、はてなブログカードに変換して埋め込みます。

Unsplash

カーソル行がURLアドレスでなければ、画像サービスのunsplash.comで検索します。

前までは計算機能にしていたのですが、あまり使う機会がなく、画像繋がりでアイキャッチ作成に転身するのが良いかなと思いました。

画像を選択してから内蔵ブラウザを閉じてください。

User Agent

ブラウザのバージョンをWebに提示するユーザーエイジェント。 iOS17だと下記のようになっています。

Mozilla/5.0 (iPhone; CPU iPhone OS 17_0 like Mac OS X) AppleWebKit/605.1.15 (KHTML, like Gecko) Version/17.0 Mobile/15E148 Safari/604.1

これって手短にできないのかな。 まず記憶できません。 嫌がらせでしょうか。

まとめ

User Agent、他のアクションもバージョンアップしないと。

今日から使える「言語ゲーム」

黒と灰色の石のスタックの写真 – Unsplashの無料ボカラトン写真

まだわからないけど、わかった範囲でまとめておこう。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインの作った「言語ゲーム」という考え方。

いろいろ解説書を読んで「言語ゲームとはなんぞ?」と考えてきたけど、その考え方じゃあ「言語ゲーム」に行きつけないと思った。 「概念Aの本質とは何か」というタイプの「問いの立て方」が哲学に蔓延していて、それを笑い飛ばすのが「言語ゲーム」。 「〜とはなんぞ」と問うてしまうと落とし穴に落ちる。

それに、もし「言語ゲーム」の勘所がつかめたとして「わかったわかった」なら面白くない。 「わかって終わり」じゃなく、日常生活でも使いこなして、これまでとは違う体験を切り開くのじゃないと時間をかける甲斐がない。 生きることと直結したところの「言語ゲーム」を知りたい。 身につけたい。

すると「生活の中での言語ゲームとは何か」だろうなあ。 定義ではなく、どういう実践に繋がっているのか。 そこを考えてみたい。

語用論

ウィトゲンシュタインも「無」から「言語ゲーム」を思いついたのではないだろう。

ソシュール言語学を意味論や統語論、語用論に分類している。 その語用論が「どう使われているか」という観点なので、この系列に「言語ゲーム」は位置すると考えられる。

従来の哲学は「意味論」だった。 たとえば「意志とは何か」と問いを立て、その「意志」の本質を考えるのが哲学だった。 言葉より先に「意味」があるという前提で話が進む。 言葉を定義しようとすれば「何が本質であり何が偶有に過ぎないか」という論の構造になる。 その本質が「イデア」や「ウーシア」と呼ばれ、永遠不変の存在と考えられた。 あるいはカントのように「物自体が本質であり、人が捉えることができるのはその現象に過ぎない」とニヒリズムに陥ったりした。

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は、哲学を語用論として再構築しようという実験なのだと思う。 これはちょっと「言葉」について考えると納得の行くことで、子どもが言語を習得するときを見てみればわかる。 子どもは辞書的な意味を覚えたりはしない。 言葉を覚えるとは「定義」を記憶することではない。 文法を覚えてから言葉を話すのでもない。 定義やルールを教わることなく、ただ「言葉」を使うようになる。

「ネコ」は「ネコ」である。 決して「四足のネコ科哺乳類」ではない。 「ネコ」を覚える前に「ネコ科」を覚えるわけはないし、そもそも絵本に書かれた「ネコ」を見ても「ネコ」と呼ぶし、ぬいぐるみであっても「ネコ」だと認識する。 「その『ネコ』の本質は何か」と問いかけても、子どもは首を傾げるだけだろう。

語用論は pragmatics という。 ソシュールプラグマティズムから着想したのだろうか。 カントが『人間論』で pragmatisch という形容詞を使っていたので、そこまで遡れるかもしれない。 哲学から言語学に取り込まれ、その言語学から哲学に逆輸入された。 それが「言語ゲーム」の正体と思われる。

再創造

意味論と語用論の違いだとすると日常はどうなるだろうか。

もし意味論を採用すると「正解」があらかじめ存在することになる。 「学校」のような社会をイメージしてみるといい。 どの言葉にも「正しい意味」があり、人が対話するとしたら「どちらが正しいか」の力比べになるだろう。 「正論」のある世界である。 言葉は「情報を持つ者から持たない者への伝達」としてイメージされる。 互いが「自分は情報を持つ者」と自認するなら、その対話はディベートになる。

それに対し語用論は「言葉の正しい意味など知らなくても言葉は使える」の世界である。 そもそも自分がどんな定義をして言葉を使っているかさえ知らない。 そこでの対話は、その都度「言葉の意味」を作り直すプロセスである。 モデルとすれば「ディベート」ではなく「哲学対話」に近いだろう。 真偽判定が「正しいか/間違いか」ではなく「ぴったり来るか/来ないか」で行われる。

「ぴったり来るか/来ないか」は今話している文脈に「ハマるか/ハマらないか」の感覚である。 ハマれば「本当だ」とか「ほんまもんや」とかの感想が双方に生まれる。 決して「みんな違ってみんないい」の相対主義でもない。 どちらもが腑に落ちる落としどころを懸命に探す。 それが言語ゲームである。

自分を振り返っても、言葉の定義を知った上で話をすることは少ない。 「意味論的な対話」というのは不自然な状況である。 ないわけではないが、まあ、マウントを取るときですね。 「あら、知らないの?」とか言っちゃうとき。 漫才に譬えると「ツッコミ」のときが意味論的。 これはアイロニーでもあるから、思考を深めるのに必要なことでもある。 ちゃんとWikipediaで裏を取ってから考えよう、とか。

でもそれだけだと行き詰まります。 息も詰まる。 新しいものが生まれてこない。 「正しい」を一旦は棚上げして、二人の間で「ぴったり来るもの」を探してみる。 言葉を再創造する。 再創造は re-creation です。 もう一度その言葉が生まれる現場に立ち合う。

言葉遊び

言語ゲーム」の原語は Sprach Spiel で頭韻が揃ってるんですよね。 これ自体が言葉遊びになっている。 「言語ゲーム」も「ゲ・ゲ・」ではあるけど、わざと揃えたというより英語 language game からの直訳っぽい。

Spiel は英語の play に当たる言葉なので「スポーツをする」「役を演じる」「音楽を演奏する」といった場面を含みます。 「ブレイバーンの歌ってどんなの?」と聞かれても、定義や意味で答えることはできません。 ウィトゲンシュタインの言うとおり「歌を答えようとするなら、歌ってみるしかない」。 その感じが Spiel 。

歌を歌で答えるのは「再創造」です。 「もう一度歌う」という形でしか示せない。 言葉を考えることは、そのたびに「言葉」を創造すること。 話し合うたび「そうか、そういうこともあるのか」と発見を積み重ねる。 手段がそのまま目的であり、どこか別のところにゴールがあるのでもない。 いや「ああ、これかあ」がゴールでもあるかな。

これは「自己とは何か」でも同じだろう。 「自己」を示すには「自己として生きる」を示すこと。 これを意味論みたいに「自己の本質」という方向に進むと、出口を見失ってしまう。 「何か」が先にあって、それが「自己」と呼ばれるのだと考えると、「魂」なり「脳の構造」なりを持ち出すことになる。 それは意味論の罠だと思う。

語用論で考えればいつでも「自己」は示せる。 「ほれ、これが『私』なのです」と。 でもそれは、指示されるものが先にあるわけでもない。 活動としての存在だから。

仏教の無我論に似ているなあ。 ウパニシャッド哲学の、輪廻転生する主体としてのアートマン。 その「霊魂」みたいな存在を、仏教では否定してしまう。 薪が燃えている間そこに「火」があると見てしまうけど、「火」は活動であって、「火」という実体が存在するのではない。 「自己」もまた、そうした再創造である、と。

まとめ

言語ゲーム」はソクラテスがやってた対話ですね。 哲学は対話だったのに、だんだん「偉い人のひとりごと」になってしまった。

むしろ日常に「言語ゲーム」はある。 ただ、うっかりすると日常も意味論的な「正論でのパワーゲーム」になってしまう。 そこを避けるにはどうするか。

Paperでタイプライターモードが使える

時間制限があるけど。

Paper

Paper – Writing App 70
分類: 仕事効率化,ユーティリティ
価格: 無料 (Mihhail Lapushkin)

Obsidianのファイルをちょこちょこ修正するとき使うエディタ。 変なdataviewを書いて起動がおかしくなるとこちらで訂正する。 ローカルファイルを直接編集できる必需品。 subtextとか変遷してきましたが、今はこのPaperです。 URLスキームもpaper://

無料でも使い勝手のいいサブ・エディタですが、PRO版に「Typewriter Mode」があります。 サブスクしなくても試用できます。 数分おきにメッセージは出ますが「Ask again later」で先送りできる。 実質無料。

タイプライター

右上の歯車ボタンが設定です。 「Typewriter Mode」をオンにし、「Focus Mode」を「sentences」にします。 するとカーソル行だけ色が濃くなり画面の中央に来る。 目を上下に動かさなくていい利点があります。

サブスクを促すメッセージは、時間というより、タイプ数かもしれません。 何文字か打つと、思い出したように出てくる。 あまり煩わしくない範囲です。

アウトライン

ファイル名のところをタップすると「Outline」があることに気づきました。 見出しにジャンプする機能です。

しかも「Rearrange」で並べ替えもできる。 Obsidianだけかと思っていたら、この方法、広まっているのかもしれない。 Markdownを有効活用できます。

PDF化

さらに、Markdownに対応した印刷機能もあります。 Print。 これも何かと便利ですね。

プリンターはなくても、印刷のプレビュー画面をピンチインするとPDFが表示されます。 このPDFをいろいろ使い回すことができる。 ObsidianだけだとMarkdownのPDF化が難しいので、このPaperの機能は役立ちます。

ただイメージの表示には対応してないのでテキストだけになりますが。

まとめ

小回りが利くサブ・エディタはiOSに欠かせません。