人付き合い観念

 

 

私の人付き合い観念は割と平凡だと思う。

ただ一つ、他者肯定感だけは大切にしている。

人を評価してあーだこーだと言うことが苦手。

その人が「その人である」ことに価値を置き、どんな人でも「尊敬」することを忘れない。

とまあ口ではこう言っても100%そう思えているかと言えばそうでもない。

やはり人付き合いの中で「合わないな」と思うこともあれば、単純にその人の行動が理解できずイラつくこともある。

悟りを開かない限り他者を100%肯定し受け入れるなんてこと出来ないんじゃないか、とも思う。

だがしかし、私は出来るだけ他者を肯定することを概念とし、日々を過ごしている。

そうしだしてからは、人付き合いにイラつくことが少なくなった。

しかし、人付き合いに疲れることが多くなった。

気を遣ったりしている訳ではないのだが、他者を肯定するのには少なからず気力を使う。

たまにその疲れがドッと襲ってくるのである。

 

 

ここまで綴ると私が人間嫌いなやつのようだが、実際はそうではない。

私は人が好きである。他人が好きである。

誰にだって良いところがある。誰にだって悪いところもある。

長所と短所なんて見る人によって違うし、捉え方だって千差万別なのだ。

基本的に私は人の長所しか見ない。

短所なんて触れなくても付き合っていけるからだ。

逆を言うと、短所を見なくても付き合っていけるような浅い付き合いが多いのである。

典型的な広く浅くタイプなのだ。

もちろん腹割って話せる友人も数名いる。それだけで充分。

 

 

私の日常での人付き合いの場は大きく分けて「職場」と「学校」の2つである。

職場も学校も年代性別はバラバラ。いろんな人がいる。

どちらかと言うと私はどこへ行っても上手くやっていくタイプだと思う。(勘違いかもしれないけれどw)

 先輩からは可愛がられ、後輩からは慕われる。

もちろん100人いて100人から好かれるなんてことは無いし、期待もしていない。しかし、その100人を好きになることは出来るのである。

相手に対する気持ちは必ず相手にも伝わると思っている。

私から相手を肯定し尊敬した上で接すればだいたいの人が、私のことも認めてくれるのである。

人というものは不思議なものであり、相手の好意に気付くと自分も相手に好意を抱きやすくなる。

この習性を利用している訳ではないが、私は積極的に自分から相手を肯定し認めることに「人付き合い観念」を置いている。

 

 

ただこれも、気分での変動が大きくあるのが問題である。

 

 

 

私の趣味

 

趣味といえば何がでてきますか?

私の周りには意外にも無趣味で困っているという人がいる。

逆に無趣味ってどうなんよ、って突っ込みたくもなるけど、

それはそれでその人のことだから一旦置いておく。

 

私の趣味といえば、スポーツ、読書、ドライブ、音楽鑑賞、アニメ鑑賞、、とまあ、大きく分けてこんなものである。

 

スポーツにおいては、専門的にやってきたものでバレーボールがある。

これは社会人になった今でも週1で行っている。

(バレーボールのことは後々綴ろうと思う)

それから早朝ランニング。今ぐらいの季節になると早朝は空気がひんやりしていて清々しい気分になる。子供が寝ている間に走るので貴重な1人の時間である。

その他、時間さえ確保出来ればジムに行ってトレーニングしたり、ひたすら泳いだり。

体を動かすことは昔から好きだった。

今でもスポーツのない人生なんて考えられないぐらいである。

 

読書においては、ゆっくり1人の時間を確保出来た時や、合間時間などにちょくちょく読むのが好きである。

といっても小説には興味が無く、読む本はたいてい啓発本である。心理学や脳科学にも興味がある為、そういう本を読み独学するのも好き。

本を読む習慣があって本当に良かったと思うことも多い。

 

ドライブは運転専門である。助手席には乗り慣れていない。

運転が得意な為、誰とどこに行くにも基本的には運転する側である。(恋人ととなると助手席だが、何をしていいのか分からなくなる 笑)

住んでいる所がど田舎の為か自然をこよなく愛している。

山か海かと聞かれれば俄然山派である。

行き詰まった時やモヤモヤば晴れない時は、よくその辺の山までドライブに行ったものだ。

 

音楽鑑賞やアニメ鑑賞についてはそのままの意味で、音楽を聴くのが好きでカラオケも大好物である。

だがしかし、今時の歌は分からない。

80年代から00年代、いわゆる懐メロというものが好みである。

アニメは自分が興味を持ったものはとことん繰り返して見る習性がある。

 

 

長々と私の趣味について綴ってみたが、結果的に何を言いたいのかと言うと、これだけの趣味があると時間が足りないのである。

前述のように子供の呪縛がある為、1人の時間なんてそうそうあるもんじゃない。

日常ではしたいこと(趣味)よりしなきゃいけやいこと(義務)の方が優先になり、趣味に割く時間があまりない現実である。

だがしかし、自分の趣味はこれです!と言えるものが複数あることに私は誇りをもっていることは確かである。

 

 

 

 

 

 

 

子供好き 子育て嫌い

 

私には2人の子供がいる。

今年、小学1年生と保育園年少の娘である。

女の子2人とあって、友達の子供に男の子がいると可愛くてたまらなくなる。男の子も欲しかった。無い物強請りというやつ。

 

私はその辺にいる子供が好きです。

素直に「可愛い」と思うし、無駄に絡んだりする。笑

だからなのかは謎だが、よく子供に懐かれる。

懐かれると尚更可愛くなるので可愛がる。

 

だがしかし、問題はここからである。

私は自分の子供を他人の子供ほど可愛いと思えない。

外見の問題ではないと思う。

我が子が特別ブサイクだと思うことはないし。←

もちろん我が子として大切には思っている。心の底では。

例えば、我が子と人の子供が川で溺れていたら

そりゃあ我が子を助けるであろう。

そういう親としての最低限の愛はあると思う。

 

だがしかし今まで「今すぐ逃げ出したい」衝動に

かられることは日常茶飯事。

酷い時は「産まなきゃ良かった」

「お前さえ居なければ」と思うことすらある。

子供たちは月曜から土曜までみっちり学校(学童)と保育園。

そんな中でのせっかくの日曜日。

子供たちからすればママといれる日。

なのに私は出来るだけ子供とはいたくない。

とにかく子供といることにイライラする。

触れられることすら嫌な時もある

言うこと聞かない。寝ない。すぐ泣く。

わがままばかり。すぐに癇癪をおこす。

こう綴ると子供なんだから当たり前だろ、

と叱責を受けそうだが。笑

 

さて今からは言い訳の時間。

私は早くで結婚して子供を産んだ。

周りの友達が成人して自分で稼いだお金で遊びに行ったり旅行に行ったりしているSNS投稿に嫌気がさすことも多かった。

羨ましかった。

早くで結婚して子供を産んだことに後悔は無かったが、ただただ羨ましかった。

友達と夜の飲屋街で飲み明かしたかった。

友達と旅行にも行ってみたかった。

自分が結婚して子供を産んで気付いた。

私は母親不適合者であると。

とにかく私は「自由」であることに幸せを感じるタイプなのである。

好きなことを好きな時に出来る「自由」が欲しい。

無くして気付いた「自由」であることの幸せ。

だがきっと、今、子供たちが居なくなれば「自由」を手に入れる代わりに「孤独」がやってくるんだろう。

誰かの為に頑張るということも無くなり喪失感と無気力。

分かっている。分かっているのに、目の前の子供たちに優しく接することがなかなか出来ないのである。

それは何故か。「余裕」がないからである。

子供たちと向き合う余裕が無い。

心と体力の余裕はもちろん、時間の余裕も無い。

何故「余裕」が無いのか…それは自分自身がしなきゃいけないこと、したいことが多すぎるからである。

どこかを削れと言われても、どこも削れない。

だから心も体力も時間も余裕が無くなる。

そんな悪循環をずっと続けているのである。

 

我が子を不憫に思うこともある。

もっと優しいお母さんだったら、もっと愛情深いお母さんだったら…。まあ、こんなもんは考えてもどうにもならないことなんだけど。

 

ただ一つ、不思議に思うことがある。

こんな私(母親)だが、子供たちは私を嫌いにはならないのである。

どんなに冷たく接しても、どんなに怒鳴っても、どんなに母親業をサボっても…子供たちは私のことを「母」として慕ってくれるのである。

子供なりに「これが自分の母親だから」と諦めてくれているのだろうか。

それとも、たまにある優しい私に母親の希望をかけているのだろうか。

どちらにしろ子供にとって母親は必要不可欠な存在であり、こんな母親であっても必要としてくれている。

有り難くもあり、息苦しくもなることである。

 

 

わたし

 

日頃思ったことや、その日の気持ちや感じたことを、その時の気分で書いてみようと思った。

完全なる自己満足の世界である。

読者がいてもいなくても、自分自身の為に綴っていこうと思う。

年齢や生活環境を特別紹介することはないが、ブログを綴るにつれて分かって頂けるかと思う。(知りたい人もいないだろうが)

 

とりあえず、吐き出したいことを淡々と綴る。

誰にも話せないことをここに綴る。

綴りながら自分の気持ちの整理をつける。