日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)1

 

天正17年11月24日、秀吉はついに北条氏直へ最後通牒を発した。しかも当人のみならず諸大名へも「北条左京大夫とのへ」との充所と朱印を捺した正本を送りつけている。原則として古文書は受け取った者の家に残されるものであるが、正本が各大名家に残されるというのはきわめて珍しい。また天正5年に正三位権大納言となるも同13年に勅勘を蒙り、京都を去って堺に逼塞していた山科言継の日記「言継日記」12月16日条にも「殿下(秀吉)より北条に対して条々仰せのわけ、かくのごとし、去る月廿四日なりと云〻」と伝聞の形で全文が書き写されている。3週間後であるが、長文にもかかわらず本文はもちろん様式まで正確に書き写されていて、写もしくは原本を見て書き写したことは間違いない。かなり広範囲に出回っており、偶然流出したのではなく、秀吉が意図的に広めたとみるべきだろう。つまり、これは北条氏直への最後通牒であると同時に自らを「公儀」と位置づける政治的な檄文でもある。

 

全文は五ヶ条からなる、かなりの長文であるため分割することにした。今回はこれまで入れてきた「(闕字)」の注釈を入れず、原文通り一字分空白のママとした。

 

 

     条〻

 

一、北条*1事、近年蔑 公儀*2不能上洛、殊於関東任雅意*3狼藉条不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿*4依為縁者種〻懇望候間、以条数*5被仰出候へハ、御請申付被成御赦免、則美濃守*6罷上御礼申上候事、

 

一、先年家康被相定条数*7、家康表裏之様申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付之間、家〻郎従*8差越候へと被仰出候処ニ、江雪*9差上畢、家康北条国切*10之約諾*11儀如何と御尋候処、其意趣者甲斐・信濃之中城〻ハ家康手柄*12次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国ハ則家康被申付候、上野沼田*13儀者北条不及自力*14、却家康相違之様二申成、寄事於左右*15、北条出仕迷惑*16之旨申上候歟と被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中二在之城をハ真田可相拘之由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地*17者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条可出仕との一札出候者、則被差遣御上使*18、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下*19候事、

(次回へ続く)

(四、2768号)
 

(書き下し文)

 

     条〻

 

一、北条のこと、近年公儀を蔑み上洛あたわず、ことに関東において雅意に任せ狼藉の条是非におよばず、しかるあいだ去年御誅罰を加らるべきところに、駿河大納言家康卿縁者たるにより種〻懇望し候あいだ、条数をもって仰せ出だされそうらえば、御請申し付けてご赦免なされ、すなわち美濃守罷り上り御礼申し上げ候こと、

 

一、先年家康相定めらるる条数、家康表裏のように申し上げ候あいだ、美濃守ご対面なさるる上は、境目などの儀聞し召し届けられ、ありように仰せ付けらるるべきのあいだ、家〻郎従差し越しそうらえと仰せ出され候ところに、江雪差し上げおわんぬ、家康と北条国切の約諾の儀いかがとお尋ね候ところ、その意趣は甲斐・信濃のうちの城〻は家康手柄次第に申し付けらるべく、上野のうちは北条申し付けらるべきの由相定め、甲信両国はすなわち家康申し付けられ候、上野沼田の儀は北条自力に及ばず、かえって家康相違のように申しなし、事を左右に寄せ、北条出仕迷惑の旨申し上げ候かと思し食され、その儀においては沼田下さるべく候、さりながら上野のうち、真田持ち来たり候知行三分二沼田城に相付け、北条に下さるべく候、三分一は真田に仰せ付けられ候条、そのうちにこれある城をば真田相拘うべきの由仰せ定められ、右の北条に下され候三分二の替地は、家康より真田に相渡すべき旨お究めなされ、北条出仕すべしとの一札出だしそうらえば、すなわちご上使を差し遣され、沼田相渡さるべしと仰せ出され、江雪返り下られ候こと、

 

(大意)

 

一、北条は、最近公儀を軽んじて上洛せず、特に関東においては恣意的に支配しており無秩序の状態であること夥しい。したがって昨年処罰しようと考えていたが、徳川家康卿の縁者ということでいろいろ願い出たので、条書を下して下知したところ、家康が請け負うことでお許しになったので、すみやかに北条氏規が上洛して御礼申し上げたこと。

 

一、先年家康が定めた条書について、家康が表裏者のようにそなたは申しており、氏規と対面される以上、国郡境目などの件をお聞き届けになり、あるがままにするよう命じるべきなので、家中の家臣などを差し向けるように仰せられたが、重臣の板部岡江雪を派遣してきた。江雪に家康と北条との国境設定合意の進捗状況はどのようになっているのかと尋ねたところ、江雪が言うには甲斐・信濃の各城は家康が攻め取り次第のものとし、上野は北条の支配下とすべきと定め、すなわち甲信両国は家康の支配下とされていますと回答した。上野沼田城については北条の独力では維持できず、かえって家康が虚偽の申し出をしているように申し、あれこれと理由を付けて、北条が上洛できないと申すのかと殿下がお思いになり、沼田城については北条に下さるように、上野のうち、真田がこれまで知行してきた三分の二の領地も沼田城に附属させて、北条に与える。三分の一は真田の知行とするので、真田の知行となる領地内にある城は真田が支配すべきと定め、今申した北条に与える三分の二の替地は、家康から真田に渡すように決め、その上で北条が必ず上洛すると書面で申し出れば、すぐさまこちらから使者を派遣し、沼田城を与える旨仰せられ、無事江雪も関東へ帰国できただろうこと。

 

 

冗長で重複した部分もあり、意味を正確に取りにくい部分も多いがおおむね以上のような趣旨であろう。

 

『邦訳日葡辞書』は「公私」を「主君と私」の意味とする。これは「公」は「私」の上意にある者を意味していたからである。本来「私的な」関係である主従関係を日本語では「公私」と表現するのは、「おほやけ」がもともと「大宅」(おおやけ=大きな宅)を意味していたことと無縁ではない。「大宅」の対義語は「小宅」(こやけ)である。「公儀」という言葉もそうした歴史的事情を抜きにして語ることは出来ない。ちなみに信長は自身を「天下」と位置づけ、将軍足利義昭を「公儀」とし、「天下」を「公儀」の上位に位置づけた。

 

下線部①の、小田原北条氏が「公儀を蔑ろにし」ているというのは秀吉に臣従しないことであって、すなわち「私的な」主従関係に入るか否かを問題にしているのである。北条氏側が特段「公的に」問題を起こしているわけではない。中世末期の戦国大名等はそれぞれを「公儀」とか「国家」などと自称し始める。これは「外交権」が「日本国王」であった室町将軍家から大内氏や大友氏、島津氏などの各大名へ分割委譲され始めたことと軌を一にしている。中世末期が日本史上もっとも分権的な社会だったといわれる所以であるが、信長や秀吉はそうした諸権力を集権的に再編成する「天下統一」事業に乗り出した。今日の日本社会の単一的で中央集権的な構造の起点をこの時期に求めることも可能である。ただし、秀吉は「日本」の領域の「東端」*20を「津軽・合浦・外ヶ浜」であると何度も繰り返している。だからこそ奥羽地方を制圧したあとの関心が大陸へ向かったわけである。また琉球王国も幕末期まで「外国」と認識されていた。こうした当時の「領域的認識」も押さえておきたい。

 

Fig.1 中世日本の領域感覚

                                                                                                     Google Mapより作成

 

下線部②は北条氏の使者である板部岡江雪とのやりとりである。「家康と北条の国切の約諾」が如何なる状況下を尋ね、裁定者である秀吉自身がその可否を判断するわけである。ここに秀吉が「公儀」を自称する根拠がある。

Fig.2 上野国沼田城周辺図

                                                                                   Google Mapより作成

 

*1:氏直

*2:豊臣政権のこと。「公儀」の一般的な意味は『邦訳日葡辞書』に「宮廷、または宮廷における礼法上の事柄や用務」とある。『日本国語大辞典』は「日葡辞書」のこの項を引用して「礼法上の」を「政治的な」とするが、前訳書は原文の「politicos」は「道」などと同様の「policia」(儀礼)に関することだろうとしている。後述

*3:我意とも。「雅意に任せる」で「自分の考えや意思のままに行動する、処理する」の意。現在各地に「がいに」=「大変に、強い、素晴らしい、手荒な」という言い方が残っているが、当時は「がいな者」を「主君や父母に礼儀正しくない、自分勝手な者」の意味だった

*4:徳川家康。摂政、関白、大臣を「公」、大中納言、参議、または三位以上の貴族を「卿」といい、あわせて「公卿」と呼んだ。水戸光圀は中納言なので「水戸光圀公」と呼ぶのは誤り

*5:同日付徳川家康宛朱印状。天正17年11月24日徳川家康宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

*6:北条氏規。相模国三崎城城主、伊豆国韮山城城将、上野国館林城城将

*7:未詳、徳川林制史研究所編『徳川家康文書総目録』では見つけられなかった

*8:北条氏の家臣の各家々の家臣。要するに軽輩

*9:板部岡江雪斎/嗣成。北条氏の評定衆・右筆を務め、北条氏滅亡後は秀吉の御伽衆となり名字を岡野に改め、秀吉死後の上杉景勝攻めでは家康に属した

*10:国分、つまり国々を分割し区分すること。国境相論の裁定結果

*11:豊臣惣無事論を提唱した藤木久志氏はこの「国切の約諾」を大名間の領土協定として重要視している

*12:武功、軍功

*13:利根郡沼田城

*14:「自力救済」の「自力」は法に則った手続きや公権力によらず自らが実力行使に及ぶ行為を指す学術概念だが、ここでは単に「独力で」の意。秀吉の「惣無事」とは自力救済原理の否定であるだけに蛇足ながら注意を喚起した

*15:「左右」は「そう」と読み、「あれこれ」の意。「事を左右に寄せ」で「あれやこれや文句を言って」

*16:「迷惑」は今日的には相手に対して「迷惑をかける」意味で使われることが多いが、当時は自分たちが「困惑する」、「どうしてよいか途方に暮れる」といった意味で使われることが多いので注意を要する

*17:「替地」は秀吉が武士の在地性を否定し、「鉢植え」化を計るこれまた重要な政策基調である

*18:くどいくらいの敬意表現を用いているので秀吉から派遣された使者

*19:「返り下る/帰り下る」で都から地方へ帰国するの意

*20:「北端」は当時佐渡島とされていた

「市場で取り引きされる1人あたりの単価と取引総量の積」は人々の生活水準のメルクマールたり得るか調べてみた

かなり挑発的なタイトルになってしまったが、このところ流行の数量経済史に覚える違和感の一端をド素人ながら考えてみた。

 

主食など生活必需品の需要曲線は価格弾力性が低く、傾きが急な右下がりの曲線となる。なぜなら人間は価格が下がるまで霞を食べながら「私待つわ、いつまでも待つわ」などとあみんのような悠長なことを言ってはいられないからだ。一方で価格の下落を待てる一般商品の需要曲線の傾きはゆるやかである。他方の供給量は1年ごとに作況が決まるので定数となり垂直な直線で表される。これを図示すると図1、2のようになる。

 

Fig.1 主食など生活必需品の需給均衡点(1石あたりの米の価格を例にした場合)

 

 

人口は一定とする。なぜなら飢餓で人口が減り始めるのは凶作時に価格と供給量が均衡したあとに始まるからである。

 

さて図1では平年の作柄において「単価と取引総量の積」(「総生産」と仮に呼ぶ)は80,000両となる。一方で凶作時は156,000両となり、「総生産」は凶作時に1.95倍に跳ね上がる。もちろん1人あたりの「総生産」も同様である。しかし供給量=生産量は減少しているため人口 N > 0 で供給量=生産量を割ると

 

    4,000石 / N > 3,000石 / N 

 

となり「1人あたりの生産量」は3 / 4に減少しており、個々人が摂取量を変えないとすれば1 / 4は飢餓に苦しむか、全員が摂取量を3 / 4に減らして我慢するかの間をさまようことになるだろう。いずれにしても1人あたりの「総生産」が増加しても、個々人の生活はむしろ貧困に陥る場合があるということである。主食などの必需品は価格ではなくむしろ供給量=生産量に依存する。

 

ついでこれを一般的に検討してみる。

 

Fig.2 主食など生活必需品の需給均衡点

 

 

 

(Proof)

 

平年時の価格と供給量をP1とQ1,凶作時をP2、Q2と、

「単価と取引総量の積」を平年ではS1、凶作時はS2とすれば、それぞれ

   S1 = P1 * Q1                                                 ・・・①

           S2 = Q2 * Q2                                                   ・・・②

となる。また需要曲線は独立変数を供給量Qとし、従属変数の価格をPと措けば

   P = αQ + β ( α < 0 ,  β > 0)                               

で表せる*1

 

二つの均衡点は需要曲線P上の点なので

  E1 = ( Q1 , P1 ) = ( Q1,  αQ1 + β )

       E2 = ( Q2 , P2 ) = ( Q2,  αQ2 + β )

となる。

さて

 S1 = P1 * Q1 = ( αQ1 + β ) * Q1 =  α * Q1^2 + β * Q1 

 S2 = P2 * Q2 = ( αQ2 + β ) * Q2 = α * Q2^2 + β * Q2

ところで

 S2 - S1 = α * Q2^2 + β * Q2 - (α * Q1^2 + β * Q1 )

              = α * ( Q2^2 -  Q1^2  ) +  β * ( Q2 -Q1 )

              = α * ( Q2 -  Q1 )( Q2 + Q1 ) +  β * ( Q2 -Q1 )

              =  ( Q2 -  Q1 ) * {  α * ( Q1 + Q2 )  +  β }     ・・・③ 

        ③ 式において

       Q2 - Q1  < 0   ・・・④

       ところで

     α * ( Q2 + Q1 )  +  β は需給量が( Q1 + Q2 )の時の価格P( Q1+Q2 )であるから非負であり*2

     α * ( Q2 + Q1 )  +  β ≧ 0   (等号はタダで放出する場合にのみ成り立つ)   ・・・⑤

 

よって④と⑤より

      ( Q2 -  Q1 ) * {  α * ( Q2 + Q1 )  +  β } ≦ 0

           ∴  S1 - S2  ≦ 0   S1 ≦ S2

これも1人あたりで表せば 

                S1 / N ≦ S2 / N  ( N > 0 )

となり凶作時の方が「1人あたりの単価と取引総量の積」が増加することが明らかとなった。それは「国民1人あたりの経済取引の総量」は個々一人ひとりの「なんらかの生活水準を示すメルクマール」たり得ないことをも意味する

 

無論「1人あたりの経済取引総量」の増減にかかわらず、個々人一人ひとりの「生活水準」は様々であって実態的な「何か」を示すメルクマールとはならず、単なる1指標に過ぎない

 

国勢調査の用紙にはたとえば定住せずに生活する人々は「〇月〇日24時の居処をもって住所とすること」などといった注意点が詳細に書かれている。統計調査に馴染まない人々がいることを政府も知っているのだ。 

  

「経済を回せ」というのは財やサービスの単価と取引総量の積で表される数値を維持させよという意味であって、社会を維持したり、人命を守れと主張しているわけではない。「T4(テーフィア)作戦」を彷彿とさせる「強制的な安楽死」政策を唱える者も現れた。今回のパンデミックはその点を一層顕在化させた。

 

こうした1人あたりの国民総生産(GNP)や国内総生産(GDP)の上昇の恩恵を受けるのはせいぜいヤッピーくらいで、市井の者には無縁である。1980年代末ごろから、いわゆるトレンディードラマなるものが流行した。主人公は都会の一等地にあり、駅から歩いて数分の、しゃれたインテリアに囲まれた3LDKくらいの贅沢なマンションに住んでいる。家賃はおそらく給与の数倍から十数倍にはなるだろう。実家から毎月百万円単位の仕送りがなければ実現できないなど、非現実的な演出がそこかしこに見られた。所詮はブラウン管の中のフィクションだったはずで、当時のティーンエージャーもそこは弁えていたことを覚えている。しかしその後なぜか「史実」となってしまった。

 

以上恨み節も込めて演繹的に証明してみた。素人が初歩的な知識をもとに考えたので間違いも多いはずである。その点はご批判を仰ぎたい。

 

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人々が「一様な生活水準にある」というのはイデオロギッシュな幻想である。「格差」ではなく、身分階級階層など社会科学は様々な分析概念を生み出してきたが、それらは質的な差異を指標にしているのであり、「格差」という用語はすべてを量的で一様な問題に還元してしまう危険性がある。それとは対照的に階級や身分は生産手段の所有/無所有や人格的支配隷属関係を含む概念であり、階層は債務関係の起点となる。そうした社会構造を無視した量的差異のみに注目することは問題の所在を曖昧にするだけである。

 

たとえば1980年代後半のように羽振りのいい*3時期があったからといって、全国津々浦々の人々がそういった生活をしていたわけではない。歴史は人間の数だけあるのであって、統計数値にそうした実態は現れてこない。「ひとりの死は悲劇だが、百万人の死は統計上の数値でしかない」という格言は「一人ひとりにはそれぞれ歴史があるが、統計数値になると人々の顔や歴史は見えてこない」という意味だとブログ主は解釈している。「神は細部に宿る」という言葉を今一度噛み締めたい。

 

以上の話は市場で取り引きされる生活必需品に限っており、自家栽培などで収穫されるものは含まない。市場は「参入するのも退出するのも自由な」場であり、「気に入らなければ出ていけばいい」のである。退出した者のことなど去る者日々に疎しで、野垂れ死にしようが一向に構わない。実際、餓死者の遺体で川が堰き止められ、洪水が起きたという事例すらある。また市場に参入するためには資格がある。それは財産を持っていることである。

 

*1:価格を独立変数、需給量を従属変数とする経済学からは非常識の誹りを免れないあろうが、「総生産」は価格と需給曲線の囲む図形の面積で表されるからここでは問題ない

*2:「 α * ( Q2 + Q1 )  +  β < 0」とは金を提供してまで物を受け取らせる行為を意味し、売買でなく「贈与」になってしまう

*3:「バブリー」という表現は「羽振りがいい」が訛った言葉なのではないかとひそかに思っている。「バブル」は日本語で「泡沫」という意味で決してポジティブな意味ではないからだ

天正17年11月24日徳川家康宛豊臣秀吉朱印状写

 

態差遣使者候、北条*1儀、可致出仕由御請申、沼田城*2請取之、一札之面*3氏直をハ不相立、信州真田*4持内なくるミの城*5乗捕之由、津田隼人正*6・冨田左近*7かたへ自其方之書状ニ相見候、然者北条表裏者之儀候間、来春早〻出馬、成敗之儀可申付候、早四国・中国・西国、其外国〻へ陣触申付候、其表境目之儀、又ハ人数可出之行等儀、可令談合候条、二三日之逗留ニ、馬十騎計にて急〻可被越候、彼表裏者之為使、石巻下野*8と哉らん罷上候、出抜候て、なくるミの城を取候間、為使石巻成敗雖申付候、命を助被為返候、然者右関東御使者津田隼人・冨田左近申上候ニ付、一札之上にても見計候て、沼田城可相渡由、被仰付被遣候処、城請取候刻、彼北条之表裏者二万計差越、沼田近所ニ陣取候由候、彼人数頭を見候て、隼人・左近かたより、其様躰御注進申上、其上たる*9へき儀候処、一往*10不及言上、沼田城相渡罷帰候事、如何思召候処、剰なくるミの城取候上ハ、最前両人不相届仕立*11候、然間彼石巻ニ差添被遣候両人事、三枚橋*12堺目城ニ来春被出御馬候迄、番勢*13可被申付候、被出御馬上にて御成敗歟、可為御赦免歟否之儀可被仰出候、堺目城ニ被置候共、謀叛可仕ものニあらす候間、不可有其機遣*14、次北条かたへ如此以一書被仰遣候間、其方へも写ニハ其墨付*15可有進上*16候、以其上石巻・玉龍*17両人事、被返遣候歟、可有御成敗歟、可被仰出候、若返事無之ニ付てハ、堺目ニはた物*18ニ可被掛候、又妙音院*19事、仮言*20を申廻、不相届所行今般被聞召候、曲事共候*21、於様子者浅野弾正少弼*22かたゟ可申候、猶新庄駿河守*23相含候也、謹言

 

   十一月廿四日*24

 

     駿河大納言とのへ*25

 

  猶以越後宰相*26も四五日中ニ上洛之由候、幸候間、関東へ行之儀、可令直談条、 

  早〻上洛待入候、雖不及申候、駿甲信堺目*27等、慥之留守居被申付可然候也*28

 

(四、2764号)

 

(書き下し文)

 

わざと使者を差し遣わし候、北条儀、出仕致すべき由御請け申し、沼田城これを請け取り、一札の面をば相立てず、信州真田持つうち名胡桃の城乗捕るの由、津田隼人正・冨田左近方ヘ其方よりの書状に相見え候、しからば北条表裏者の儀に候あいだ、来春早〻出馬し、成敗の儀申し付くべく候、はや四国・中国・西国、そのほかの国〻へ陣触申し付け候、その境目の儀、または人数出すべきのてだてなどの儀、談合せしむべく候条、二三日の逗留に、馬十騎ばかりにて急〻越さるべく候、彼の表裏者の使いとして石巻下野とやらん罷り上り候、出し抜き候て、名胡桃の城を取り候あいだ、使として石巻成敗申し付け候といえども、命を助け返させられ候、しからば右関東御使者津田隼人・冨田左近申し上げ候につき、一札の上にても見計らい候て、沼田城相渡すべき由、仰せ付けられ遣され候ところ、城請け取り候きざみ、彼の北条の表裏者二万ばかり差し越し、沼田近所に陣取り候由に候、彼の人数頭を見候て、隼人・左近方より、その様躰御注進申し上げ、その上好意的に扱ってやっているのにもかかわらず、一往言上に及ばず、沼田城相渡し罷り帰り候こと、如何思し召し候ところ、あまつさえ名胡桃の城取り候上は、最前両人相届かざる仕立に候、しかるあいだ彼の石巻に差し添え遣わされ候両人のこと、三枚橋堺目城に来春御馬を出でさせられ候まで、番勢申し付けらるべく候、御馬出でさせらる上にて御成敗か、御赦免たるべきか否かの儀仰せ出ださるべく候、堺目城に置かれ候とも、謀叛仕るべき者にあらず候あいだ、その機遣あるべからず候、次に北条方へかくのごとく一書をもって仰せ遣わされ候あいだ、その方へも写にはその墨付進上あるべく候、その上をもって石巻・玉龍両人のこと、返し遣わされ候か、御成敗あるべきか、仰せ出ださるべく候、もし返事これなくについては、堺目に機物に掛けらるべく候、また妙音院のこと、仮言を申し廻らし、相届ざる所行今般聞し召され候、曲事ともに候、様子においては浅野弾正少弼方より申すべく候、なお新庄駿河守相含め候なり、謹言

 

   十一月廿四日

 

     駿河大納言とのへ

 

 なおもって越後宰相も四五日中に上洛の由に候、幸いに候あいだ、関東へてだての

 儀、直談せしむべき条、早〻上洛待ち入り候、申すに及ばず候といえども、駿甲信

 堺目など、慥かの留守居申し付けられしかるべく候なり、

 

(大意)

 

使者を派遣して申し渡す。北条が上洛して臣従すると確約し、沼田城をも請け取ったが、書面の趣旨をも守らず、信州の真田昌幸の支配下にある名胡桃城を乗っ取ったとのこと。そなたから津田隼人正・冨田左近に出した書状によって知った。北条は表裏者であるから、年明け早々に出馬し、成敗すると命じることとする。すでに四国・中国・西国、そのほかの諸国へ陣触を発したところである*29。信濃と上野の国境にあるいは軍勢を出すなどの軍事行動に出るべきか否か、よくよく相談するようにした。2~3日の逗留に、馬10騎ほどで急ぎ現地へ向かうようにしなさい。あの表裏者の使者として石巻下野とかいう輩が上洛してきた。何か出し抜くつもりで、名胡桃城を奪ったのであるから、使者である石巻を成敗すべきではあるが、特別に助命し関東へ帰したところである。したがって当方からの「関東御使者」*30である津田隼人・冨田左近が申してきたので、書面の上ででも見繕って、沼田城を北条方へ渡すべきであると秀吉様が仰せになり御使者まで派遣された。しかし城を請け取るさいに、あの北条の表裏者は二万ばかりの軍勢を差し向け、沼田の近辺に陣取ったという。連中の頭数を見て、隼人・左近からその様子が報告され、その上「北条のためにしてやった」ことであるのに、一度も報告せず沼田城を渡し帰国してしまったとのこと。どうしてそんなことになるのかと思い巡らしていたところ、さらに名胡桃城を奪われた。その件がまっさきに両人の耳に入らなかった結果となってしまった。したがってあの石巻とかいう輩に付き添って派遣された両人には、三枚橋の堺目の城に来春秀吉様が出馬されるまで、守備兵として番を命じることとする。御出馬したさいに成敗すべきか、赦免すべきか否かの判断に迫られるであろう。彼ら両名は堺目の城に配置されたとしても、裏切るつもりではないだろうから、北条方に寝返るという気遣いは無用だろう。次に北条方へもこのような書面をもって命じられたのであるから、そなたへも写に花押を添えて送り届けよう。その上で石巻・玉龍両人を帰国させるか、あるいは成敗すべきか、ご判断が下されるであろう。もし北条から返事がなければ、不始末の責めを負い、駿河・相模の国境に両名を磔にするだろう。また一白が虚言を流布し、実に不届きな所業を行っていると耳にしているが、曲事同然のことである。実際の様子によっては浅野長吉から処罰を命ずるであろう。なお詳しくは新庄直頼に申し含めているので口頭で述べるであろう。謹しんで申し上げる。

 


   十一月廿四日

 


     駿河大納言とのへ

 


なお上杉景勝も4~5日中に上洛するとのこと。絶好の機会なので関東への軍事行 動の件について直に話し合えるので上洛が実に待ち遠しい。言うまでもないが、駿河・甲斐・信濃の堺目などには信頼できる家臣を留守居に命ずるのがよいだろう。

 

 

 

 

きわめて広大な地域に言及しているのでなかなか土地勘が掴みにくいところもあるが、下図を参照していただこう。

 

Fig. 関東甲信越地方

 

                         GoogleMapより作成

なお「勢力圏」は大まかなものである。現代においてすら「境界線」を意識して生活することは稀であって、一色に塗りつぶすことは現実的に不可能であり、またそうすることで不可視化される問題も多いはずである。それは2020年代のわれわれも痛感するところであろう。まして前近代は精密な地図や地球儀、航空・衛星写真は存在せず、それによって得られた、学校で教わった知識は歴史学に持ち込めない。天動説だろうが地動説だろうが日常生活に支障を来すことはない。事実天動説のもとでも航海技術は発展したのだから。

 

われわれ人間が把握できる空間など「点」かせいぜい「線」でしかない。秀吉もせいぜい重要な拠点をいくつか押さえれば「国郡堺目」という「破線」くらいにはなるだろうし、それで十分だったと考えていたのだろう*31。もっとも「ビッグブラザー」のような権力者にはつねに「面」もしくは「3次元」、さらには時系列を含めて「4次元」で把握したがるだろう。立場により空間認識に差異が生じるのは普遍的なことだと考えるべきである。

 

閑話休題、本文書に戻ろう。

 

書止文言に「謹言」とあるが朱印状では珍しい。敬称の「とのへ」は他の大名と同じ扱いであるが、この「謹言」という文言には豊臣政権における家康の占める特有の位置が示されていると見ることもできよう。「墨付」を「進上」するというのもおかしな表現である。

 

また文末下線部に、堺目の城に配置された者が寝返ると心配する必要はないとわざわざ述べているのが注目される。境目の者が立場をコロコロ変えることが珍しくなかったことを示す文言である。「境界人」(マージナルパーソン)という歴史学用語があるが、中近世移行期には別の意味で「境界人」がキーパーソンになっていたようだ。

 

小田原北条氏は秀吉に「表裏者」(ヒョウリモノ=態度をコロコロ変える信用ならない奴)と呼ばれているが、何が彼らをそうさせているのだろう。それは信長の頃に始まったようだ。

 

前年の天正16年6月10日、氏邦が発したと思われる秩父孫二郎・同心衆宛朱印状に次のような文言が見える。

 

 

一、先年*32織田信長へ御使い遣わすべき候時分、惣国*33へ分銭*34懸かり候、我〻手前へも黄金三枚あたり候、すなわち家中へ申し付くべくそうらえども、手前への失墜をもって、大途*35へ納め候、諸人の手前もちろん知行役に懸け候こと、

 

  (中略)

 

一、このたび京都御一所*36になり、家康御取り持ちをもって美濃守*37上洛候、その分銭二万貫入る由に候、この方手前へも定めて三百貫も、四百貫も懸けるべく候、如何とも致すべきようこれなく候あいだ…

 

  (以下略)

 

(『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3下)』1160頁、9367号文書)
 
 

 

氏邦は信長時代に「分銭」の負担を強いられた過去を「失墜」であるとし、今また秀吉にいくら吹っ掛けられるかわからないと不満と不安の交錯した気持ちを秩父の国衆に吐露している。「分銭」を課する行為は北条氏領国の独立性を奪うことであり、容認できるものではなかったはずだ。一方の信長は「天下人」を自認しているから、諸国に役銭を賦課するのは当然であると認識していただろう。北条側は信長とは水平的な「同盟関係」を結んでいたと、また信長は北条氏が織田氏に臣従した垂直的な関係に入ったものと考えていたのではないだろうか。そうした異なる認識のもとでは、北条側にとって織豊政権による「天下統一」など京都中心史観にまみれた単なる侵略行為でしかない。「小田原征伐」などという一方的な呼称を軽々しく使うべきではない所以である。

 

 

*1:氏政

*2:上野国利根郡、下図参照。北条氏家臣猪俣邦憲が城代を務めていた

*3:天正17年6月5日妙音院・一鴎軒宛北条氏直書状。12月には上洛できるとの内容。氏政は隠居の身であった

*4:昌幸

*5:上野国利根郡名胡桃城

*6:信勝。富田一白とともに家康や関東方面の交渉役を務めた

*7:一白。津田隼人正参照。天正18年には上山城・近江・美濃において20,165石となり、以後も加増を重ね、伊勢安濃津城主となる

*8:康敬。北条氏直の御馬廻衆の一人で評定衆。秀吉との交渉役を務めた。いつまでたっても結論の出ない会議を「小田原評定」と呼ぶが、小田原北条氏が政令を議するため小田原に設けた評定所を指す事例も「北条五代記」に見えるので、本来はそういった小田原北条氏の制度とみるべきだろう

*9:「~してやる」の意

*10:一度

*11:一部始終、結果

*12:駿河国駿東郡三枚橋城

*13:守備の軍勢

*14:気遣い

*15:武家様の下達文書。権威のある者から保証を得ることを「お墨付き」というのはこのため。また同様に「折紙付き」も文書の様式に「折紙」があるためである。いかに文書が重要視されていたかがわかるエピソードである

*16:目上の人に奉る。「墨付」という尊大な表現を使う一方、「差し上げる」意味の「進上」を用いるなど敬意表現に乱れがみられる。書止文言の「謹言」にもそれはあらわれている

*17:玉龍坊、相模国修験道=山伏の先達

*18:磔刑に処するときの台木

*19:富田一白

*20:カリゴト、嘘を言うこと

*21:曲事同然である

*22:長吉

*23:直頼、摂津国山崎城主からのちに近江大津城主

*24:天正17年。グレゴリオ暦1589年12月31日、ユリウス暦同年同月21日

*25:徳川家康

*26:上杉景勝

*27:駿河国甲斐国信濃国三ヶ国の境界

*28:通常、現在の追伸にあたる追而書や尚々書は文頭に書くことが作法とされている。しかし、本文書は写であるため、後世の人間が古い文章に通ぜず、頭から読むものと誤解せぬように親切心から文末に書いたのであろう。昨今の世相を見通した慧眼というべきか、少々馬鹿にされたというべきか複雑な気持ちである

*29:これは事実ではなく、秀吉の得意とするプロパガンダである

*30:北条氏の使者である石巻を「~とかいう使い」といいながら、こちらの使者には「御使者」としているところに北条氏への軽侮の念がうかがえる

*31:ベルリンの壁やアメリカとメキシコとの国境の壁、そしてイスラエルとパレスチナの隔離壁を見てしまうと難しいかもしれないが

*32:天正8年のこと

*33:信長と交渉を持つ国々全体に

*34:土地などに課す貢租

*35:北条氏直

*36:秀吉と家康の和議のこと

*37:氏規、伊豆国韮山城主

秀吉は本当に人身売買を禁じようとしたか

 

こういった記事をしばしば見る。

toyokeizai.net

 

たしかに秀吉は何度か人身売買を禁じる法令を発しているが、一方で唐入においては次のような指示を出してもいる。

 

 

態と申し入れ候、朝鮮人取り置かれ候うちに、縫官・手のきゝ候女、細工仕る者、進上あるべき旨御朱印なされ候、御家中をも御改め候てこれあらば、早〻御進上もっともに候、恐惶謹言、

                   長束大蔵大輔

   十一月廿九日*1              正家(花押)

    羽柴薩摩侍従殿*2

         人〻御中

 

(島津家文書、1763号)
 
 

 

この年は唐入が行われた前年の天正20年=文禄元年の翌年である。開戦1年後には捕虜のうち何かしら熟練した技を持つ者を秀吉に献上せよというのである。奴隷の原初形態とも言うべき戦争捕虜である。これはキリスト教世界の「正戦」において捕虜となった者は「正当な」奴隷であるとする認識に似ている。

 

次に「九州御動座記」の問題の箇所を見てみよう。

 

 

日本仁を数百男女によらず、黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすぐれ

 

 

話は変わるが「赤い靴履いてた女の子」で知られる野口雨情にこういう作品もあったことをご存じだろうか。

 

www.youtube.com

 

 

人買船に買はれて行つた

貧乏な村の山ほととぎす

日和は続け港は凪ぎろ

皆さんさよなと泣き泣き言ふた

 

 

貧乏ゆえに娘を売らなければならなかった悲しみが伝わってくるこの歌を、実際に歌っていた子どもらは何を思っただろうか。

 

また「閑吟集」には

 

 

人買ひ舟は沖を漕(こ)ぐとても売らるる身をただ静かに漕げよ船頭殿

 

 

とあり、「安寿と厨子王」などの作品にも「人商人」や「人勾引(かどい)」といった人身売買が採り上げられている。これらのことから人身売買が日常的に行われていたことがわかる。

 

ポルトガルのナウ船の定員は400~450名で「九州御動座記」のように数百人を乗せることが可能であったろうし、大西洋奴隷貿易同様に「効率的」に奴隷を運ぶため鎖につないだのも事実であろう。それに対して人買船の規模はそれほどでもなかったことが問題とされたのではないだろうか。日本人の中には「奴隷」と称して黒船に乗り込む者もいたという。海外に活路を見いだした者もいたので、「日本人の奴隷化」を食い止めたと言い切ることは出来ないであろう。

 

日本であらゆる方法での人身売買を禁じたのは1955年10月7日最高裁第二小法廷の判例である。

 

最後に1949年から1951年の人身売買被害者の就業先を掲げておく。もちろんこれらはわかっているだけで、実際にはもっと多いはずである。

労働省婦人少年局『年少者の特殊雇用慣行 : いわゆる人身売買の実態』1953年

 

2024年3月31日追記

 

3年間で人身売買被害者の男女合計は2480名、女性のみだと1972名である。このうち「接客業」と称する業務に従事させられたのは女性のみであり実質的な比率である女性のみでは41パーセントに上る(男女合計では33パーセント)。また紡績業には女性の39パーセントが従事させられており、「接客業」と紡績業で女性全体の80パーセントを超える。紡績業は「女工の仕事」という認識は戦後にも残っていたことがうかがえる。

 

また農業従事者も男女で21パーセントを占めていて見逃せない。これは農地解放以前の隷属的な「下人」、「名子」、「被官百姓」などが地主手作地に労役を務めていた者の代替労働力と考えられる。

 

以上の追記は統計数値からの推測に過ぎず、個別事例や実態は異なる可能性がある。しかしおおよその傾向をそこに読み取ることは許されるだろう。

 

なにより現在の中学高校生*3にあたる18歳未満が全体の24パーセントを占めているのに驚きを禁じ得ないが、「資本としての耐用年数」が長いという「効率性」、「生産性」といった「合理的」な判断から需要が高かったものと思われる。

 

*1:文禄2年。グレゴリオ暦1594年1月20日、ユリウス暦同年同月10日

*2:島津義弘

*3:当時の学制では中学校(もちろん旧制高校も)に進学できるのは男子のみで、女子は女学校に進んだ。いずれも数パーセントに過ぎず選良である

天正17年11月21日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状

小西行長や加藤清正に肥後天草の武装蜂起に対して指示を出した同日、東国の真田氏にも国境相論に関する文書を発している。秀吉による「天下統一」事業がそれほど簡単に進まなかったことを示していて興味深い。そのこと自体中世的秩序がいかに在地に深く根ざしていたかを物語っている。

 

 

 

其方相抱*1なくるみの城*2へ、今度北条*3境目者共令手遣*4、物主*5討果、彼用害*6北条方*7之旨候、此比*8氏政*9可致出仕由、最前依御請*10申、縦雖有表裏*11、其段不被相構先被差越御上使*12、沼田城*13被渡遣、其外知行方以下被相究候処、右動*14無是非次第候、此上北条於出仕申、彼なくるミへ取懸討果候者共、於不令成敗者、北条赦免之儀不可在之候、得其意、堺目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然*15其面人数入候者、小笠原*16・河中島*17江茂申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候城、対天下*18抜公事*19表裏仕、重〻不相届動於在之者、何之所成共、堺目者共一騎懸ニ被仰付、自身被出御馬、悪逆人等可被為刎首儀、案之中被思召候間、心易可存知候、右之堺目又ハ家中者共ニ此書中相見、可成*20競候、北条一札之旨於相違者、其方儀本知事不及申、新知等可被仰付候、委曲浅野弾正少弼*21・石田治部少輔*22可申候也、

 

   十一月廿一日*23 (朱印)

 

      真田安房守とのへ*24

(四、2758号)
 
 
(書き下し文)
 
その方相抱ゆる名胡桃の城へ、このたび北条境目者共手遣いせしめ、物主討ち果し、彼の用害北条方のるの旨に候、このころ氏政出仕致すべき由、最前御請申すにより、たとい表裏あるといえども、その段相構まわれず先差し越さるる御上使、沼田城渡し遣わされ、そのほか知行方以下相究わめられ候ところ、右はたらき是非なき次第に候、このうえ北条出仕申すにおいても、彼名胡桃へ取り懸かかり討ち果たし候者ども、成敗せしめざるにおいては、北条赦免の儀これあるべからず候、その意を得、堺目諸城とも、来春まで人数入れ置き、堅固に申し付くべく候、自然そのおもて人数入りそうらわば、小笠原・河中島へも申し遣わし候、注進候て召し寄せ彼の徒党など、懸け留め置くべく候城、天下に対し抜公事・表裏仕り、重々相届かざるはたらきこれあるにおいては、いずれの所なるとも、堺目の者ども一騎懸りに仰せ付けられ、自身御馬出され、悪逆人など首を刎ねさせらるるべき儀、案のうちに思し召され候あいだ、心易く存知べく候、右の堺目または家中の者どもにこの書中を相見せ、なるべく競わせ候、北条一札の旨相違においては、その方儀本知のことは申すに及ばず、新知など仰せ付けらるべく候、委曲浅野弾正少弼・石田治部少輔申すべく候なり、
 
(大意)
 
そなたが防衛している名胡桃城へ、今回北条が境目に盤踞する国人/国衆たちが攻め寄せ、重立った者を討ち果たし、名胡桃城を北条の支配下に入れたとのこと。近日中氏政が上洛して臣下の礼をとることを承知しているので、北条の裏切り行為にも手を出さずに先日派遣した使者につつがなく沼田城を渡し、また知行配分その他を決めたことはすぐれた功績である。このうえは北条が出仕した場合、名胡桃城へ攻め寄せ、真田方の「物主」を討ち取った者たちを成敗せずに北条を赦免することはない(北条を赦免する場合は必ず彼らを処分する)。その旨を承知し、境目の諸城に兵士を入れ、堅く防衛に努めること。万一軍勢が不足するなら、小笠原貞政へ河中島まで派兵するよう伝えてある。上申し兵力を集め、北条方の一味を足止めさせておくように。「天下」に対して背信・裏切りをなす場合は、境目の者たちに派兵させ、関白自らも出馬し「悪逆人」らの首を刎ねることは当然なので、安心すること。境目の者たちや家臣にこの文書を見せ、なるべく競わせるようにしなさい。もし北条が証文に背いたさいは(戦場での働きに応じて)本領安堵はもちろん、新知行地を仰せ付けられるだろう。詳しくは浅野長吉・石田三成が申す。
 
 

 

Fig.1 上野国名胡桃城・沼田城付近関係図

                              GoogleMapより作成

 

小田原北条氏は相模国の郡を下図、下表のように再編成している。


Fig.2 北条氏による相模国郡再編成

   

Table. 北条氏による相模国郡再編成

ルイス・フロイス『日本史』によると秀吉が関白の地位に就いてから、豊臣政権と北条氏の間に戦争が起きるのではと緊張が走ったり、「雪解け」ムードになったりと「東西冷戦」状態で数年が推移した。戦国期は南蛮(東南アジア)貿易などの「外交権」も含めてきわめて地方分権的な状況にあったが、相模国内の郡再編成もその分権化=独立化のひとつの表れと見ることもできる。したがってこうしたフロイスや当時の畿内の人々にとって小田原北条氏が豊臣政権の東方に聳え立つ「超大国」のように映ったと見ることもできよう。

 

半世紀前、石母田正は戦国分国法を中世ドイツの「ラントレヒト」*25に相当するものととらえ、戦国大名権力をひとつの公権力、国家と見ることができると指摘した*26。分国法とラントレヒトがただちに結びつくのか否かはさておき、この問題はヴェストファーレン体制を超歴史的に遡及しがちな今日、あらためて考えてみるべきかもしれない。

 

石母田が指摘するように、北条氏の発給文書にはしばしば「御国法」といった文言が見られ、日本年号ではなく「丁亥」(ひのとい)のように干支で年を記している。これは漢字圏(東アジアや東南アジアなど)に共通する「国際標準」の年紀法であり、これらのことから北条氏の「脱京都化」=「公権力化」の方向性を読みとることも可能である。

 

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さて本文書では、北条氏政が秀吉に出仕すると約したにもかかわらず、名胡桃城を攻め取るという行動に出たのに対し、それに応戦することなく沼田城の受け渡しや知行配分などの「実務」に専念したことを褒め称えている(①、②)。秀吉の許可なく*27応戦することは「私戦」と認定され、「豊臣の平和」秩序=「惣無事」を乱す行為となるからだ。

 

また③、④では堪えに堪えている真田氏に、いざというときは秀吉自ら軍勢を率い、本領安堵はもちろん、新恩給与も行う旨記している。

 

ところで③では豊臣政権の正当性を強調するため「天下」という言葉を用いることで、北条氏が「私戦」を構えようとしていると「公私の対立」を演出しているが、もちろんその実態は「豊臣政権下の秩序に対し」といったところである。

 

もう一つ重要なことは「堺目の者ども」という表現である。大名権力はこうした国人/国衆を編成することで成り立っていた。

*1:『日葡辞書』によれば「城を抱ゆる」で「城を維持し防衛する」の意がある

*2:上野国利根郡名胡桃城、図1参照

*3:小田原北条氏

*4:テヅカイ、実力行使に及ぶこと

*5:部隊の長など軍事的指導者。具体的には国人/国衆と呼ばれる者を指している

*6:名胡桃城

*7:のる、北条氏方の支配下に入る

*8:コノゴロ、近日中に

*9:北条、相模国西郡小田原城主。なお北条氏による相模国郡再編成については図2、下表を参照

*10:「承知する」の敬意を込めた表現。敬意の相手は秀吉

*11:ヒョウリ、背信行為

*12:「御」とあるので秀吉が派遣した使者

*13:上野国利根郡、図1参照

*14:ハタラキ、軍功

*15:万一の場合、もしもの場合

*16:貞政。信濃国筑摩郡松本城主

*17:信濃国更級/更科郡

*18:「天下」は単に空間的領域を示すのみならず、日本国内における政権の普遍的権威を強調するために用いられる政治的な用語である

*19:ヌキクジ、密約

*20:ナルベク

*21:長吉

*22:三成

*23:天正17年。グレゴリオ暦1589年12月28日、ユリウス暦同年同月18日

*24:昌幸、信濃国小県郡上田城主

*25:Landrecht=「ラントの法」。「ラント」は各領邦国家であり、中央政権にあたるものを「ライヒ」Reichと呼ぶ

*26:石母田「解説」、『中世政治社会思想 上』岩波書店、1972年

*27:本文中に万一の際は「注進候て」とある