23歳新妻OLのぼそぼそ独り言。

23歳、新妻。男と女のあれこれ、女としてのあれこれ。

感動するだけで終わるべきではない、一つの動画。

https://www.facebook.com/925075447565232/videos/947868668619243/

サンタクロースはそもそも、「会って話したこともない」子供たちにプレゼントを配るもの。
そして、大体の人間に愛される存在だ。

この動画のタイトルは、「やらない善よりやる偽善」。

私は、この動画にとても悩まされた。

帰る家があり、当たり前に夜は電気が付けられて、小腹が空いたらいつでも冷蔵庫を漁ることのできる人間は、

自分がホームレスになる過程

を想像したことがあるだろうか。

勤め先の専務の横領が元で、瞬く間に倒産。当然退職金など貰えなかった。

元々冷え切った関係だった妻と子は、離婚届と結婚指輪をテーブルに置き、家の中のものを殆どさらえて、実家に帰っていった。

何度も何度も電話やメールをする。娘の子供用携帯にも。
何回やっても繋がらず、メールはエラーで返信される。

貯金は殆どが妻名義の口座にあり、通帳も印鑑も見当たらなかった。普段から家庭の大蔵省は妻だった。

女は強かな生き物だ…。

年齢と体力の衰えだけは日々加速し、再就職先もなかなか見つからない。

そうこうしているうちに、失業保険で足りない分は僅かしかない自分名義の口座の貯金を崩さねばならなくなる。

簡単に底をつく、雀の涙にも劣る額だ。

高利のサラ金すら無職では審査に通らず、会社員時代に作ったクレジットカードは満額で、返済は滞り、督促状が山のように積もる。

ついに失業保険すら受けられなくなり、ある日ハローワークから絶望的な気持ちで帰宅した。
水を飲もうと、コップを蛇口の下に持っていくが、捻れども捻れども水は出ない。

まさか、とは思ったが、やはりトイレを流すこともできない。風呂も同じ。水道が止まったのだ。

生活保護は、窓口でのらりくらりとかわされ、申請すらさせて貰えなかった。

兄弟は別に家庭を持ち、迷惑は掛けられない。仕方なく公園の水道で水を汲んでくる。

風呂は少ない小銭で数日置きに銭湯で済ませる。

頭が痒い。髪の毛の光り方が、明らかに脂のそれになる。

食費を減らさねばと思う。

食うに困ったことがないもので、無銭飲食をする勇気などなく、コンビニでもガム一つ万引きできない。

肉が食べたい。魚が食べたい。

毎日豆腐ともやしと水で空腹を癒すが、ついに身体が悲鳴を上げ、起き上がることも辛い。

毎回近くの公衆トイレに行く気力すら失せ、ペットボトルやビニール袋に排泄をするようになる。

外出そのものが辛くなり、2日に一度、人目を盗んで排泄物を道端に捨て、公園で水を汲む。

就職活動すらできない。

それでも増え続ける督促状に怯え、なんとか自分を奮い立たせてハローワークに向かう。

しかしまともに飲み食いしていないことが祟って帰宅途中に倒れ、救急車で運ばれる。

だがそもそも保険料滞納で、保険のきかない医療費を払える目処など到底つかず、逃げるようにして帰宅する。

間も無く、ローンの滞納が限界を超え、家も追い出されてしまった。

糖尿か、鬱か、耳鳴りが酷い。

僅かな手持ちで生まれて初めてネットカフェに入ってみるが、仕組みが分からず、しばらくは戸惑う。

インターネットで職を探せるかと思ったが、給料日までの電車賃すら捻出できない上、住所不定になった今、雇ってくれる会社などない。

日雇い、履歴書不要と書いてあるものを見るが、殆どが体力仕事。

昔は浅黒く逞しかった腕が、剥いた牛蒡のように青白く細くなった今、務まる自信もなければ、もはやそれでもとりあえず応募する、という気力も微塵もわかない。

半ばやけくそになって、残った全財産数千円の半分以上をスロット台に注ぎ込んだ。

しかしギャンブルに縁のない生活だったので、当たる台当たらない台の目星もつけられない。

もう、終わりだ…。
死ぬことはこの数ヶ月今まで何回も考えたが、喉元や腹に包丁の切っ先を当てても、電気のコードで首を締めても、恐怖が勝ってしまう。

死ぬことすらできないのだ、自分は。

最後に仕事をしたのは、一体いつだったか。
今日は一体、何曜日だろう…。




とまあ、こういう想像をしたことがあるだろうか。私は23歳の女で、まだまだ「女は結婚に逃げられる」と言われる世の中なので、何からも逃げられない中年男性と仮定してみた。

新参ブログの上に非常に長くなったので、ここまで読んでいる人がいるのかどうかすらわからないが、それはいい。

自分がこういう境遇になるのを想像するのは、少しの恐怖と、あり得ないという正体不明の自信がない交ぜになった複雑な気持ちになる。

ホームレスは自分に関係ないものと思えるのは、酒浸りでも、ギャンブル漬けでもなく、多少のローンはあったとしても、今はニートであむたとしても、
「働ける自分」「頼れる家族」の両方またはどちらかがあるからだと思う。

赤の他人が社会的にハンデを抱える人間に手を差し伸べることを「偽善」と呼ぶ人が減らないのは、何故だろうか。

1人では生きられない世の中なのに、1人ぼっちの人を見返りなく助けることは、小規模であればあるほど偽善者と呼ばれる。

ヘルパーや介護士がその範疇にないのは、給料という見返りがあるからだろう。

「何かをしてあげたら、その分何かを返して欲しい」と思う心を、見返りを求めない善意を「偽物の善意」と断定的に呼ぶことで安心させたいのではないだろうか。

もし、これが5歳の男の子がお小遣いを貯めてやったことだったとしたら、日本中で美談として扱われ、タイトルもまったく違ったはずだ。

大人だからこそ「やらない善よりやる偽善」という、悲しいタイトルになったのだろう。

自分と同じ大人であれば、自分と同じ「見返りを求める心」がある筈なのに、まるでそんな気はないと振る舞う人間がどこかむず痒いのだ。

だから、この善意は偽物だと叫ぶ。偽物の善意だから自分はやらないのだ、考えがあってわざとやらないのだ、と。

偽善を減らすには、偽善と取られる行為を止めるのではなく、自分の汚い心を認めたくないがために偽物呼ばわりして安心する、という習性の改善にあるだろう。