満洲日記

今年88歳になる従姉妹の満洲で生まれ引き揚げて来るまでの記録です。

ブログを書き終えて

2年前に博多に行って従姉妹にインタビューしたのをボイスレコーダーに入れ

その年の11月にブログを立ち上げました。

初めは主人公hiroが生まれて満洲から

引き揚げてくるまでを書くつもりでしたが歴史的背景を調べながら書いていると色々な事に出会って周辺記事も書く様になりました。

以前から会うたびにロシア兵との

生活の様子を面白可笑しく話してくれていましたが本人も私も歴史敵背景はあまりわかっていませんでした。

調べていくうちに同じ年に満洲で生まれた小澤征爾や映画の山田洋次監督

hiroの父の同僚であった梅宮次郎の記事を書くことになりあたかもその時代に生きて見ているような錯覚を覚えました。

またhiroの姉や母がもう一度生き返ったようで短い生涯だったhiroの姉にも会えた気がしました。

今年7月に89歳の誕生日を迎えるhiroは

色々な困難はありますが毎日祈りの中で

明るく元気に暮らしています。

またペーパーバックに出来る時代になって紙の本でhiroに読んでもらえる事は思ってもいないプレゼントでした。

このブログをKindleにするにあたって

沢山の人との奇跡的出会いがありました。

お世話になりました。

感謝の思いで一杯です。

日本へ帰って

2週間かけて船は佐世保に着いた。

その後佐賀の親類の家に暫くお世話になった。

祖父が大分の中津で疎開していたので

家族で引越し中津で開業することになる。

祖父はもう大学を退官してお寺にお世話になって娘家族が帰って来るのを心待ちにしていた。

食料難だったので近所に畑を借り

野菜を作るのが日課だった。

ある日孫の男の子を連れて行き

「坊 何か好きな事あるか?

仕事意外に好きな事を見つけておきなさい」と言う。きっと仕事一筋で妻に先立たれ寂しい思いをしていたに違いない。

病理で研究に使うピンセットで

等間隔にきちんと種子を植えていたようだ。

満洲では戦争は無く最後まで食べ物に

困った事はなかった。

多くの日本人は終戦後乗船するまでに

様々な危険と飢餓を体験していた事を

思えば奇跡のようだ。

終戦後日本に帰って食べ物には困った。

身体の弱かった姉は日本に帰って来たもののずっと寝たきりだった。

以前も書いたがやっと手に入れたミルクを姉に急須で運ぶのがhiroの仕事だった。お腹を空かせた少女は少し頂いて

姉の所に届くまでには少なくなっていた。今でもその事は後悔している。

間も無く姉は短い生涯を閉じる事になる。

青酸カリ

引き揚げる家族には青酸カリが渡された。

もし乗船するまでに迷惑を掛ける様な幼子がいたら使う事になる。

hiroはずっと幼い妹をおんぶして下ろした記憶がないと言う。

4歳の妹はいつも泣いていたが

無事両親と1歳4歳10歳13歳17歳の5人は薬を使う事なく乗船できた。

その時hiro10歳

船の中には敵はいないので安心だった。

引き揚げの時弱った母と幼子に

残された子供が泣く泣く青酸カリを飲ませた話や集団自決のために使われた話は

沢山聞く。

乗船できて日本に帰れることは喜びもひとしおだった。

トイレ

揺れる船で看板まで行って用を足すのは

子供にとって恐ろしい事だった

そこでこんな事の為にと母は

砂糖壺を持って来ていた。

そこで用を足す事ができて

どんなに安心したかわからない。

女性ならではの機転がいざと言う時役に立つ。

乗船

いよいよ日本へ帰る船に乗り込む。

水は貴重で食事は海水で炊いたお粥みたいな物だった。

近くにいた男の子がピーナツを固めた飴の板を乗る前に買って食べているのを

羨ましそうに見ていたらhiroのお母さんに「ジロジロみるものではありません!」と叱られた。

 

弱い者から死んでゆく

汽笛が「ボー!」と鳴ると遺体が

看板から下ろされた。

葫蘆島へ向かう

いよいよ葫蘆島から出る船に乗るため

の準備がが始まった。

着物は欲しい方にあげた。

卵を沢山茹でて知り合いに持ってもらったが最後は別れ別れになって

hiroの家族の口には入らなかった。

入院患者を連れて行くので

幸い屋根のある貨車に乗り込む事ができた。

姉は長年肺を患っていて水筒一つしか

肩にかける事ができなかった。

他の人達は持てるだけの荷物を持って

出発した。

帰る時期や船によっても違うようだが

ここでは持てる限りの荷物と現金

1000円は許されていた。

 

ソ連兵がいなくなった後

hiroの家族の事を書いていくうちに

同時代に引き揚げてきた方々の苦労を知って周辺記事が多くなってしまった。

再びhiroの帰国へ向かって書いていこう。

一緒に三ヶ月程暮らしたソ連兵がいなくなって学校もなくなり

先生の家に行って勉強していた

が食べ物には不自由していなかった。