旅行記1 湖の怪

旅先の土地には大きな湖があり、ボートが一艘浮かんでいた。一人の男がいて、いかにも土地の者らしい身なりをしていたので、僕は彼に、どうしてこんなに人けがないのか、と尋ねたところ、男は意味がわからないという顔をして、このあたりが人でにぎわうなんてことなんてないんだよ、と言った。
ボートを貸してもらえないかと頼むと、男は好きにしろと言った。好きなだけ乗っててかまわない、代金もいらない、乗り終えたら、もとどおりここにつないでおくように、と男は言い残し、どこかへ去って行った。

ボートに乗って少し漕ぐと、湖面にもやが立ちこめはじめた。なぜか不安になり、引き返そうかと思ったが、すでに方向感覚を見失っていた。漕げば漕ぐほど、もやは深まっていった。陸地も空も、水さえも見えない。あたりには何の音もなかった。僕は仕方なくボートを停泊させ、静けさの中にじっと身を置いていた。
いきなりボートが揺れて、あたりを見渡すと、すぐそばの水の上に何かが浮かんでいるのが見えた。水の中に何か巨大な物が沈んでいるらしく、その一部が水面に露出していたのだ。表面はピンク色で、滑らかで柔らかそうだった。どことなくゴムボールを思わせたが、そうだとしたら大きすぎる。
オールでちょっとつついてみたが、びくともしない。かなりの力を込めて押してみても、まったく動かなかった。想像を超えて途方もなく巨大な物体であると推測された。叩いてみるとぺちんという柔らかい音がした。
そうするうちに突然、水の中のその謎の物体が、まるで上から巨大な手で引っ張られたみたいに、水面から大きく盛り上がった。そのため波が生じ、ボートは大きく傾いて、中に水が流れ込んできた。僕は水に投げ出されないよう、ボートのへりにしっかりとしがみついていなくてはならなかった。
巨大なゴムボール風の物体は、今やその大部分をあらわにしていた。僕はそれを眼前にはっきりと目にしたのだが、それでもなお、それが何であるのか、見当もつかない。それは山のように湖から盛り上がっていたが、なだらかな山のように隆起を描くその部分は、やはり巨大なゴムボールの一部にしか見えない。そしてその大部分はまだ水の中にあるのだ。まさか生き物ではあるまい。こんな巨大な生物がいるはずはない。
そのうちに隆起した部分は少しずつ沈んでゆき、やがて水の中に完全に隠れてしまった。

いつのまにかもやは晴れていて、僕は再びボートを漕ぎはじめた。乗り場に戻るまでにも何度か、ボートは大きく、不自然に揺れた。

屋根裏の黒い悪魔

屋根裏部屋に入ると、頭に角を生やした、赤ん坊みたいな形の黒い悪魔がいて、細長いパイプのようなものを口にくわえながら、段ボールの上で足を組んで座っていた。僕は幻覚だと思い、いったんドアを閉じて部屋の外に出て、数分ほど目を閉じてじっとして待ったあと、また屋根裏に戻ったのだが、悪魔はまだ同じ場所にいた。
仕方がない、こういうこともある。僕はお構いなしに部屋に入り、用事を済ませようとした。そのとき僕は屋根裏に、ミシンを探しに来たのだ。それは家中探し回ったのにどこにもなかったので、あるとしたらこの屋根裏部屋以外考えられない。
僕は室内を探し回った。物をどかせたり、いろんなケースや箱を開けて中を調べたりした。
悪魔はまるで面白い余興でも見るように、いかにも子馬鹿にした目つきで、その様子を眺めていた。ひっきりなしにパイプをふかしていて、その煙が屋根裏部屋に充ちて、まるで霧の中にいるようで、そのために探し物は無駄に難航していた。僕は何度もこれみよがしに咳をしたのだが、悪魔はもちろん意に介さない。そしてミシンはどこにもなかった。あと調べていない場所といえばあの段ボールだけだった。悪魔が腰かけている例の段ボールである。
僕は悪魔に歩み寄り、失礼、と声をかけた。そこをどいてもらえるだろうか。………探し物をしているので

僕が探しものをしていることは、誰でも見ればわかるはずで、ちょっと気の利いた人なら何も言わずともそこをどいてくれるだろうが、悪魔はさっきから全然動こうとしないので、仕方なく僕は声をかけないわけにはいかなかった。ひどく不本意ではあったが。
そんなに礼儀正しく申し出たのに、そいつはやはりそこをどこうとしない。依然としてにやにや笑いを浮かべながら、無言で僕を見上げていた。尖ったギザギザの歯の隙間から、ひっきりなしに白い煙を吐き出し続け、僕の顔や体に吹きかけるようにした。
大体いつからこいつはここにいたのだろう。この屋根裏に最後に足を踏み入れたのはいつだったか、思い出せない。知らない間にこんなのが住み着くようになっていたのだ。考えてみれば恐ろしいことだ。
追い出さなければならない。いや、いっそ殺してしまおう。探し物の最中に、僕は役に立ちそうなものをたくさん見つけていた。すなわちナイフやアイス・ピックや古いクリスタルの灰皿といった、凶器になりうるものである。手始めに僕はナイフで悪魔の肩のあたりを軽く切りつけてみた。刃はひどく錆びていたから、切れ味は相当鈍そうだったが、それでもナイフの刃先が悪魔の黒い皮膚をかすめると、すぐにそこに傷口が線となって浮かび上がった。悪魔は切られた部分を片手で押さえながら、段ボールから転げ落ち、床に膝をついてうずくまった。僕はその後頭部を、今度はずっしりとしたクリスタル製の灰皿で、思い切り殴り付けた。悪魔は鳥みたいな悲鳴をあげて、床の上にのびてしまった。

あまりにあっけない勝利に、僕は拍子抜けしてしまう。悪魔というのは邪悪で狡猾な手強い存在ではないのか。何一つ抵抗せず、ほんのわずかな攻撃で簡単にやられてしまうようなものなのか。でも現実とはそんなものかもしれない。それに相手は、どうやら僕に攻撃されることをを全く予期していなかった。僕のことを舐め切って油断していた。あるいは長い居心地の良い屋根裏生活のために、勘が鈍っていたのだろうか、それとも単に、もう年老いて衰弱していたのかもしれない。そいつは見るからにやせ衰えてしなびて弱弱しかったから。
そのあとも僕は悪魔を傷めつけた。簡単には殺さず、死なない程度にいたぶってやった。爪をはがし、頭の角を折り、皮を剝ぎ、歯を一本ずつ引き抜いた。アイス・ピックで眼窩を突いた。勝手に人の家の屋根裏に住み着き、しかも探し物の邪魔をするような相手に、同情や憐れみを抱く理由はない。名前も知らない、不気味な未知の存在だったからこそ、僕は容赦なく残虐になることができたのだった。長い時間をかけて僕は無抵抗な悪魔のあらゆる部位を切り苛んだ。そうした行為は別に楽しくはなかったが、退屈でもなかった。飽きることなくいくらでも続けられそうだった。できることなら一日中続けてもよかったのだが、その日はまだ予定があった。だいいち僕がこの屋根裏に来たのはミシンを探すためなのだ。拷問に夢中になるうち、そのことをすっかり忘れていた。

悪魔は今や虫の息で床の隅に転がっている。例の段ボールを開けると、ミシンはちゃんとその中にあった。僕はそれを抱えて出口へ向かう。最後に悪魔のほうを見たとき、そいつは目を薄く開いて仰向けになり、全身から黒い血やわけのわからない液体をどくどくと垂れ流しながら、木のように動かずに横たわっていた。開いた口から、ときどき白い煙が、ふわりと吐き出される。パイプは傍らに転がり、その火はもう消えていた。あたりにはほかにも、血や肉片やいろんな断片が散らばっていた。
面倒なので後始末はほったらかして、そのまま屋根裏を出た。そしてドアに鍵をかけた。


そのあと数日間、僕は屋根裏部屋と、そこに放置してあるもののことを何度か思い出したが、いろいろと億劫で、後回しにした。そうするうちに数日が過ぎ、数週間が過ぎた。その頃にはもうどうでもよくなっていて、いくら時間があっても、屋根裏に入る気にはなれなかった。無視していれば存在しないのと同じだ、そう言い聞かせながら、生活を続けた。そうやって数年が過ぎた。今は屋根裏はまた開かずの部屋に戻っている。悪魔がどうなったのかはわからない。おそらく死んでいるはずだが、確かめたわけではない。

好きな本がなくなっていた

大好きな『シャーロック・ホームズの冒険』を読み返したくなり、本棚を探したのだが、なかった。部屋中を探してもなかった。それはずっと昔に古本屋で買って何度も繰り返して読んだ大好きな本である。だから失くすなんて考えられない。それならどこにやったのか、いろいろ考えた結果、おそらくずっと以前に、自分の意志で捨ててしまったのだ、という結論に至った。

少し前に、僕はひどい絶望的な気分に陥って、いろんなものを手当たり次第に廃棄したことがある。そのときに『シャーロック・ホームズの冒険』も捨ててしまったのだ。覚えてないけど多分そうなのだろう。そうとしか考えられない。何しろあの本は古くてボロボロだったし、僕は古いものや摩耗したものを、特に優先して捨てたかったはずだから。

本屋に行って買いなおそうかと考えたが、それでは意味がない。そういう問題ではないのだ。遠い昔、確か中学生のころに、今はもうない古本屋で買った、あのボロボロの『シャーロック・ホームズの冒険』の文庫本こそが、僕にとって大事なのだった。あれはこの世に一冊しかない書物だった。でももう失われてしまった。

今、本棚にはけっこうな数の本が収まっている。でも『シャーロック・ホームズの冒険』に比べれば、どれもどうでもいい本に思えた。いや、思えたではなくて、実際にそうなのだ。本当にどうでもいいのだ。だって一度しか読まなかったり、読んでも何の思い入れもないような、本ばかりなのだから。どうしてそんなものを大事に持っているのだろう、と思った。それで僕はごくわずかな好きな書物だけを残し、残りは全部捨てた。後悔も悲しみもなかった。なんだかすがすがしい気分ですらあった。

確かに誰かがその時間に廊下を歩いていた

以前に住んでいたアパートでは夜中によく外の廊下から足音が聞こえた。安普請だったから、夜中に物音が響くことは珍しいことではなかったのだが、その足音はどこか変だった。それはどこかへ向かおうという意思を感じさせない足音だった。誰かが、まるで靴の具合を確かめるみたいに、恐る恐る歩いている感じがする音だった。たとえば新聞配達員の足音はそんな風ではない。そして音はだんだんこちらに近づいてきて、また遠ざかってゆく。それが何度も繰り返される。まるで誰かが廊下を何度も往復しているみたいに。そしてその何者かは間違いなく、僕の部屋がある階の廊下を歩いていたはずだ。音はそれほど近くから聞こえた。音はたいてい午前3時ごろにはじまり、午前4時過ぎには消える。一日のうち、音が聞こえるのはその時間帯だけだった。
僕は当時なぜか一度も、音の正体を確かめようという気を起こさなかった。そのことが今となっては心残りなのである。