世代間によるコミュニケーションの差異
を強く感じている。
「善意をもっての行動なのだから、相手は嫌がるはずがない」
とでも思っているんだろうか。
関係もない人にいきなり話しかけられるってのは相当気持ち悪いと思うのだけれど。
そして大抵の場合、返答を欲しているわけでもない自己満コミュニケーションなんだ。
エスペラント界には若者が非常に少ない。
そのために若者の獲得をしなければならない、あるいは若者には僕らが手助けしなければならないと非若者の方々は思っているのかもしれないが、若者の僕らとしては是非とも放っておいて欲しい。
というか日本のエスペラント運動をここまで「少子高齢化」させたのは、あなたがたが若いときになにも対策をとってこなかったからではないのか。ここまで来たら非若者の方々が何をやっても逆効果だからもういっそ僕らにまかせてください。
絶望から始めるエスペラント
僕がエスペラントに出会ったのは2013年の夏。
Twitterで知り合った友だちを訪ねに札幌に1週間ほど遊びに行った際、その友だちの勧めで、あるアヤシイおっちゃんの家に泊まったときのことだ。
「タダで泊めてあげるから毎日一緒にエスペラントを勉強しよう。」
当時、エスペラントの「エ」の字も知らなかった僕は、なんのことやらわからないまま、1週間毎日エスペラントを勉強させられた。
させられたといっても、やってみたら存外楽しく、その勉強時間が楽しみなくらいだった。
そしてその後もゆるゆるエスペラントを勉強し続けて、現在に至る。
エスペラントがなんなのかとか、文法がどうかとかはググればいくらでも出てくるので、省略して、その名称を軽く説明すると、
(ひとつよくまとまっていてオススメの教材を挙げておきますか。
こちらの世界語速習から。)
「エスペラント」は"Esperanto"と書き、分解すれば"Esper-ant-o"。
"esper"は、"esperi"「希望する」という動詞の語幹。
"-ant-"は現在分詞化語尾。
"-o"は名詞化語尾。(たとえば"espero"で「希望」という名詞になる)
従って、"Esperanto"は「希望しているもの」とか「希望する人」を意味する。
もともとはエスペラントの創始者ザメンホフのペンネームが、その「希望するもの」"Esperanto"で、「エスペラント語」は"La Lingvo Internacia"(国際語)と呼ばれていたんだけど、最終的にザメンホフのペンネームがその「国際語」の名称に採用された。
で、エスペラントの特徴のひとつに、単語に接頭辞"mal-"をつけることでその単語の真逆の意味の単語を作れるというものがある。
"esperi"を、"malesperi"とすれば「絶望する」を意味するというように。
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日本エスペラント協会や、その他の団体で、僕がよく目にするエスペラントの宣伝は、「中立性がある」「日本人でも簡単に覚えられる」「世界中の人たちと仲良くなれる」とか、ことごとく"espero"にあふれている。もちろん広報活動としては正しいのだろう。
ただ、エスペラントを勉強していく内に、「結局、ヨーロッパ中心主義の範疇じゃないか」とか「最初の文法は簡単だけど、それ以上は結構難しくない?」とか「使い道やっぱりなくない?」とか思ってしまうわけです。
もちろんこういうことを思うのが僕だけであろうはずもなく、いろんな疑問がもたげてきてエスペラントから離れてしまったという人は沢山いるだろう。
僕もこれらの疑問に対し、明確な反論を持ち合わせているわけでもない。
ただ、こう言いたい。
「エスペラントに希望持ちすぎでしょ!」あるいは「初学者に希望抱かせすぎでしょ!」
と。
今日日、みんなで一緒に「世界共通語エスペラント」を盲信できるわけもない。
どうせ期待を裏切られるのなら、絶望を出発点にしませんか。
そうすれば、「英語よりは中立的かもしれない...」なんてふうに小さな希望を楽しめるかもしれない。
そしてなにより、絶望からこそ建設的な視点は生まれるんじゃないか、なんて思うわけです。
書きたいことは山積みですが今日はここまで。
さあ、絶望から始めよう。
Ne esperu al Esperanto! Ni komencu de malespero!