渋谷ハロウィン 2023

渋谷ハロウィン2023

渋谷はハロウィンイベントの会場ではありません

という、低俗な看板やのぼりを至る所に配置している。

ハチ公前には巨大看板
道玄坂にはのぼり
に、同じことが書かれている。

人の動きを規制したいらしいわけだが、それを本気でやるならば、都市封鎖という究極的な方法しかない、と、私は考える。

仮装したい気持ち、日常性から距離を置いて、非日常を楽しみたいという大衆の中に渦巻いているものを、こんな看板で、突破できるわけがないことくらい、この提案をしたであろう渋谷区役所のものもわかっている。
 ハロウィンとは何か、
 イベントとは何か、について、なんら書き込まれていないぼんやりとした表現で、規制できるはずなどない。
 逆にこのような表現で、渋谷に集まらなくなったならば、
 ◉ハロウィンの力の低下
 ◉社会の抑圧機構の変化
 が、次の問題として浮上することは間違いがない。

 仮装する自由はすべての人にある。
 それを制限することは、原理的に不可能だろう。


 2023.10.27


1028.土曜 12.15

ハチ公周辺はすでに封鎖されている。
 警察車両はすでに、3台配置。
 スクランブル交差点は今のところは、通常の動き。
 安全対策用として、見慣れないものが、配置され始めている。

21.30.
ハチ公周辺が、警察の権力的な管理で、逆に荒れている模様。
 ハチ公前から宮益坂に向かう四車線を、土曜日の段階で封鎖。かまぼこ車両を10台あまり配置。今後更なる封鎖を行う構え。
 センター街の自由歩行を規制。
 入り口は、左右に分かれ、壁を作っている。
 その先は、警察による人間の壁。

 人は多数出ている。

 ハチ公口のJR改札は封鎖されている?のか、ハチ公側の人口密度が異常に高い。ブロッカーによって、スペースが半分くらいになっているため、ますます危ない。

 警察とボランティア?のような人が、立ち止まるな、と延々言い続けている。うるさい、と時折言いながらしか歩けない状態。

 本日は、封鎖の様子を確認して、退却する。


 この土日が、本番、的な扱いのようだが、31日ではないのか?という疑問が湧き出す。

◉10.29.日曜日 16時
 宮益坂からハチ公側に交通規制はない。
 昨夜の規制がありえないほど強烈だった、ということ。
 
 仮装隊は極めて今のところ少数。

 ハチ公は二重に封鎖されている。ハチ公の姿は完全に見えない。ハチ公をまず封鎖し、その周辺も封鎖。よって通路が極めて狭い。東急電鉄に向かうエスカレーター封鎖。

 警察車両は今の所3台。ポリスによる規制はない。

 モアイ像は、本来の状態を維持している。

 立ち止まるな、という圧倒的な行動規制がないだけで、随分と自由に観察できることがわかかる。何が昨日あれだけ、警察を駆り立てたのか?

 路上ハロウィンを、規制する、という発想らしい。路上は、あらゆる大衆の共有スペースだと私は思って生きてきたが、そこにあるはずのスペースが無きものとされ、狭いところに追いやられる。それが使用者ではなく、管理者?然としたものによって、強制的に、強権的に、暴力的に、

渋谷はハロウィンイベントの会場ではありません

という表象で規制される。

no event for halloween on shibuya streets

なるほど、この論理で街を管理し、人を制御しようとしているのか、と感じる。
国家、行政の側の発想が如実に出ている。


ハロウィン自体を規制することは、原理的に不可能だ。人の行動、ファッションを取り締まる法律はない。路上の管理権があると、国家サイドが考えて、そこを取り締まることで、ハロウィンの勢いを削ぎ落とす、という手法だ。

16.40.
警察車両が増えてくる。
動き出すポリス。

17.00 が一つの起点か?離脱。

◉10.30.月曜日
 昨日夜の報道では、日曜日の警察対応は、ほぼ土曜日と同じだったように見える。完全に警察権力の管理下で、自由を圧倒的に制限された ハロウィンという祭のぶざまな姿が、そこに出現した、ということになる。
 仮装する自由は制限できないが、仮装したものを自由に鑑賞し合うという自由は、ひとの流れを徹底的に制御する中では、可能となる、ということが、ひしひしと理解された。
 それを乗り越えるために、大衆側からどのような行動が飛び出すのか?

比較
 shibuya pride
shibuya hallween
 ハロウィーンを渋谷の誇りに

2019に掲げられた看板から

 渋谷の誇りから、渋谷には来ないでください
という強烈な逆ベクトルな押さえ込みは、何に起因しているのか。

 09.30.朝のハチ公前
 警備員によるブロック管理。みえなくなったハチ公を、隠し続ける役割か?
 警察車両は2台、永久配置。意味なく止めるのは、駐車違反ではないか?という疑念が湧く。


◉19.00
昨日と同じ対応。
 宮益側封鎖。宮益側からは、地下通路を使わないとハチ公側に行けない。

 ハチ公側への流入を阻止線を張って通さない、というスタイル。ひとの動きを寸断する、という作戦らしい。
 センター街内まで、ポリスが随所に配置。右側通行の徹底を叫ぶが、全くその必要はない。
 仮装隊は少なく、祭りとしては、盛り上がりに欠くこと、限りなし。

 渋谷の地盤沈下間違いなしだろう。

◉20.30.
センター街を仕切っていたポリスが消えていた。
 スクランブルを仕切っていたポリスも引いた。スクランブル交差点が一定の機能を回復した。

 祭りをつぷしにきたポリスを追い出したような感じ。警察が消えたら、くだらないボランティアどもの、右側通行をお願いします、という発言に迫力はない。
 仮装隊率が上がった。

 とはいえ、ガラガラ。潰された祭りを次にどう再編するか。
 もうひとが戻ってこないならば、警察を完全導入した渋谷区長が、その責任を取れ!

 少しばかり、仮装隊が集まり、停留が起き始めている。この陣形を守り、ポリスを追い出す力を民衆がどのようにして、勝ち取るか。


 警察は無駄な金を警備にかけるな🎵と言って通っていく女子学生?あり。


Twitterに投稿
警察が渋谷から撤収開始

かまぼこ 撤収

スクランブル交差点は、スクランブルに。

ハロウィンを
街に取り戻せ^_^

渋谷は、ハロウィンの街。
警察の仕切る街ではない。

ハロウィンイベントの会場ではない、と

依然言い放つ 渋谷区職員?非常勤?

仮装隊が立ち止まることを
禁止できる条例が出せるのか?

行動の自由は、保障されている。

@@@
何かが起きる、と思えたハロウィンは、終わった。その解放性と無秩序さが、興味深いと思って観察を続けてきた。大衆による大衆のための開放性に惹かれたからだ。

いまこの情況に、私ひとりで介入することは、できないが、またふたたび面白い事態がくることを願ってやまない。

◉10.31. 16.15
 ハチ公⇔宮益坂 16時に車道閉鎖した模様。
 今日も同じ対応をポリスバトル模様。

 16.50.
当日感あり。昨日よりも多い?
 パフォーマンスをしようとするものがいる。
 それを支える聴衆、観衆がいれば、成り立つ。
 昨日のようには、ならないことを願いたい。

 

Twitter17.08
渋谷ハロウィン

そこ邪魔なんで、移動しろといいはじめた。

それは違うだろうと、噛みついた。

そこにただいるだけの存在を邪魔だと言い放つ。

セキュリティ
の制服をきて

邪魔だ邪魔だと言い放つ。

渋谷にいるものが、邪魔だと?

人権侵害も甚だしい。

立ち止まらないようにしてください。

それ以上は、言えないはず。

噛み付いたが、まだ言ってくるので、

次の行動が必要です。


どう考えても過剰。

そして、人権侵害。

いったい人をなんだと思っているのか。

@@@@

渋谷駅前で、どうするべきかわからないひとがいた。

その人に向かって、
そこ邪魔なんで、移動してください

と言い放つ
セキュリティとかいた制服を着た男性がいた。

2023 10.31.17.00

邪魔だ、邪魔だとその後も言い続けていたので、ひとのことを邪魔だというな‼️と抗議した。

それでもまだ邪魔だというので、

再度抗議した。

それで、今、これを書いている。

人権侵害の場が居た堪れず、書き込みました。

@@@@

渋谷区は、いったいどうしてしまったのか?

一瞬立ち止まっただけのものを、邪魔だと言い、移動させるような職員を位置する。
足が悪かったり、道がわからなかったりするものの側に立った誘導ではない。

上から目線で、お願いという名の強制移動をさせる。邪魔だ邪魔だと。
いったいあなた方は、何者なのか?

◉23.00
ハチ公前から、左右の交通整理が、広がっている。奥のマクドナルドの手前くらいまで、広がっている。
 仮装隊は、昨日とは異なり、相当数な頻度で登場。楽しく場が広がるならば、なんの問題もない。それを阻止しようとするものをただただ撃つだけ。

 昨日とは違って、
 危ない雰囲気は、奥の方には存在していた。何かが起きるかもしれないその瞬間、の可能性。秩序とその決壊のその瞬間。

 ポリスの警備が強かろうが、集まってくる大衆が存在していることに、少しばかりの安堵を覚えた。


 ◉警備隊の笛の音が、うるさい。
 一定のdB以上の不快音と感じる。ここを起点に論じ上げることもできるか?

 2023.ハロウィンを離脱するにあたって。
 
 得たいのしれない重警備【かつての日教組教研集会か?と思われるような】の中で、祭りはつぶされたのか?と昨日までは思っていた。
 が、本日、23時に渋谷に戻ってきて、何かホッとした。町で騒げる環境は、まだ残されていた、と感じることができたのは、私が生きていく上である種の希望をもたらした。
 権力が少し体重をかけてきたら、それに靡いてしまうような存在しか、渋谷には、今いないのか?と、総括しかかっていた自分がいた。
 そんなはずはない。必ずやどこかの場所で、それぞれの主体を持って、なんらかのアクションが起きるだろうと、少しばかり信じることができた。
 

渋谷区長 長谷部健様

 2023.10.31.渋谷ハチ公前広場で、
 セキュリティーの黒い制服を着た職員から、
【邪魔だから移動してください】と言われたものです。
 私たち渋谷駅利用者に向かって、【邪魔だ】とこの職員は一方的に決めつけ、そのことに抗議すると、さらに【邪魔だ、邪魔だ】とこの職員は拡声器を使って何度となく、がなり立てていました。
 人間のことを邪魔もの扱いするな!
 邪魔な人間などいない!
 と抗議の声をあげましたが、一切聞き入れることなく、実際上、無意味に市民を移動させるばかりでした。

 これが渋谷区の考え方であるとするならば、【渋谷駅を使うものは、邪魔だから1分たりとも立ち止まるな!】とあらゆる場所に誰が見てもわかるように、書き込みをしていただきたい。こんな駅を私は2度と使いはしないし、数十年利用してきた渋谷から私は退場します。
 
 そんなつもりはなかった、とするならば、区長自らが、謝罪していただきたい。【その場にいたものを邪魔ものとしたことは、間違いだったと、きちんと謝罪声明を出していただきたい】

 宮下公園を潰した際も、全く同じ構造でした。公園利用者のことなど何も考えずに、一方的に利用者を渋谷区として邪魔者だ、として追い出しました。私はその現場をたまたま目にしました。

 今度は、私が邪魔者扱いなわけですか?いったい誰に、渋谷を利用して欲しいと考えておられるのか、この機会にその考えをお知らせいただきたい。


2023.10.31. 名も無き渋谷利用者

 

 

 

スカートの拡張

「男性」が即座に装着できるスカートとは?

 


 それはどのような概念によって可能か?

 そして、何が今問題か?

 


 性の多様化が叫ばれて、制服という概念においても、制服のジェンダーレス化がほどこされようとしている。先進的な一部の学校は、ジェンダーレス化を導入した。現実的には、女性のパンツスタイルの導入が見られることが圧倒的な大半であろうと考えられている。男性のスカートスタイルを3年間実行に移すには、それなりの壁があると考えられる。制度的に保障した、に過ぎないという側面が今のところ強い。

 この壁を突破するために必要なことは何か?

 


 1、主体の側の問題

 2、制服自体のジェンダーレス化の問題

 3、客体の側の問題

 4、その他

といった形で、議論を進めていきたい、と考える。

 

 

 

 


1、「男性」がズボンスタイルに問題を感じるのは、どのような時なのか?例えば、夏の暑いとき、長ズボンは、暑い。本来ならば、短パンにしたいところだろう。そこを埋めるために、スカートスタイルの導入を図るのはどうか?夏服のスカート化戦略。冬服において、問題を感じている男性とはどのような存在なのだろうか?

 スカートスタイルが、ブームとして、生じた場合には、大きな変化が起きるものと考えられる。そのブームをいかに起こすかは、先進的な主体を如何に形成するか、という問題として、展開すべきだろう。

 


2、スカートスタイルか、ズボンスタイルか?という2分した発想で制服を考えている点に大きな問題がある。その境界領域をもっと検討して、ジェンダーレス化を図る必要があると、強く感じる。

 スカートのようなズボン、ズボンのようなスカート、を模索することは、もっとあってよいと考える。

 下着の概念を変え、下着ではなく、見せることを前提としたものと考えた時、もっと自由度が増すと考えられる。つまり、スカートや、ズボンは、補助的なもので、体温維持のための道具として、指向性を発揮させればよいのだ。

 と考えると、スカートを選ぶか、ズボンを選ぶかは、性とは無関係なものとして情況化できる。

 下着という概念の解体をもたらせばよいのだ。下着に変わるものを身につけて、それを補強する、補助するものとして、スカートやズボンを装着すればよい。

 


3、スカートスタイルの男性をみる視線の問題。視線の先の対象のジェンダー規範が、シスではないだろうという先入観に基づく情況が、はっきりとある。その中では、容易には、選択できない行動規範となる。何で、スカートスタイル?と、常に疑問の目に晒されながら、スカートを選択できる情況下には、現状ないように、私には見える。客観情勢を整えるために、さらなる行動は明らかに必要だ。

 


4、とある有名人、たとえばジャニーズ系などが、カッコよい雰囲気で、スカートスタイルを実践し始めたら、情況は一気に変わる、のではないか?

 今、そこに、大きな実践課題があるのではないか?とみえる。

 


2022.12.7.

SJ

 


追加

 バスタオルを腰に巻いた状態。 

 これが一つの原型になる、と思う。

 このスタイルに不自然さは、ない。

 この経験値を広げて、その先にどのような世界が広がるのか?ジェンダー規範を乗り越えるなにごとか、に達するために、何が必要か?

 


 シャワーから出た後、多くの人は、濡れた水をタオルに含ませて、体温の喪失を防ぐまたは、性器を隠す、保護するために、バスタオルを使用する。その際、腰にタオルを巻く。

 これがスカートをはくことの起点となる。

 小学生の水着の着替えに用いられているバスタオルは、すでに、スカート状に丸く縫われて、ゴム製で落下しないようになっている。つまり、男性も、スカートはすでに履いていた、ということになる。このことに自覚的な主体は、どれほど育っているのだろうか?

 

 体温保持の観点からは、

  ズボン >   スカートだが、

 逆に、体温放出の観点からは、

  ズボン <   スカート

 という効果になる。

 

 夏はスカート、冬はズボンというのが、ジェンダーに関わりなく使用されてよいファッションコードであろうと、機能的な側面からは、考えられる。そこに突き進まない理由は何か?と思考を進めることに、価値はあるだろう。

 ファッションは、機能だけで動くものではない。その当たり前のことを確認した上で、しかしなお、機能性に沿って、よりフィットした方向に中心軸が移動していくと考える筋はあってよい。

 と考えるならば、スカートでは寒い冬に、ズボンスタイルの女性が増え、スカートに分厚いストッキングを履く行動は、わかりやすい、と言える。

 


 スカートスタイルの肝

 下着を見せないように動く。下着は見せないもの、という価値軸が依然として作用している。そこから意識を改革することは、下着メーカーの戦略に対抗することを意味する。上着下着、という概念ではなく、内着、中着、外着と言った形で、概念を解体すべきだろう。

 下着としてのシャツを見せないものとする価値観から、T shirtとして、見せてよいものに変えてきた歴史を思い出せばよい。

 これの下半身版を起こすことが、今問われていることになる。

 価値軸の変更は、一定の闘争を伴う。

 

ハロウィン 第二日

2022.渋谷ハロウィン第二日

 


2022.10.31.

 12.00

    地元の商店街を練り歩く、幼稚園児の姿を見る。商店主が対応している様子は、牧歌的。

 クリスマスではみられない風景。街との関係性はつかない。それほどにキリスト教の色がついている。

 


 韓国にて死者が相当数、出たことを知る。圧死。一箇所にすさまじい数の人が詰めかけた。心臓マッサージを受けている者の映像もみた。

 

 祭に熱狂する、ということは、祭の元々の性質であり、それこそが祭なのだ、と認識している。数年前から渋谷ハロウィンを路上観察しているのも、このことと関わっている。

 今、若年層民衆のエネルギーはどこに向かっているのか、どこに行きつこうとしているのか。その様子を少しでもつかみたくて、路上を観察している。

 車両をひっくり返す力は、この祭にはある。

 


 12.30.

    ハチ公前。ハロウィン?なのかというくらい、その色がない。が、夜に備えてなのか、ハチ公前広場の一画が鉄柵で立ち入り禁止にされている。滞留するのを防ぎたいのだろうが、韓国の映像を見た後では、鉄柵は危険だろうと考える。

 3年前?のように、109前の路上を解放するべく促す人々が出て来るかどうか。あるいは、ホコ天状態化?にできるのかどうか。

 


15.30

   ハチ公前。右翼が一人演説。

 ハロウィン隊が、登場し始めている。ざっと30人くらい?バラバラと。鉄柵が依然として設置されている。鉄柵がらみで、騒動があるか?

 

 23.00.

ハチ公前。ハロウィン本番。

昨日とは違う空気感。コスプレ隊の数が違う。帰路につくものもいるが、これからが本番なのか?

 ある種の指揮系統が作用すれば、ストリートは、解放できる。その意味は問わないとするならば。

 スクランブルに車が5台停止し、車を乗り捨てたら、交通は麻痺し、スクランブルを解放するよりなくなるだろう。

 午後一につくられていたハチ公横の鉄柵は解除されていた。警察権力による陣地採りだったのか?

 バイクの周遊隊が目につく。

 109前が、解放されることは、なかった?ように見える。

 警察による制御力の前で、祭りとしての機能は、部分的にしか機能していない。民衆の側からの決定的なものはなにもなく、なんらの仕掛けもない、ように見える。

 


 ストリートを奪還する、そんな動きは残念ながら、どこにもない。

 


 交通規制をかけるなんて、この時間簡単なこと。ストリートを奪還して、大騒ぎする、そんな経験値はあって良いだろう、と、私は思う。

 酒を禁じ、爆音を禁じ、ただ仮装するだけに堕ちている。解放のための祭、ではなく、自由の抑圧条件下の祭に落ちた。

 


 渋谷ハロウィンには、なにかある、と思わせる何か、を次にどう創れるか。そこが文化運動としては、問われているのだと、認識する。

 

 宗教勢力一部ハロウィンに潜り込んでいたのが見えた。ハロウィンは悪だ。が、神を信じれば、天国に行ける、などと主張している。

 もっと多様な潮流が集合、集結する中で、また新しい価値が生み出せる可能性は、あるのではないか?

 


 24.00.離脱。

 


@@@

    1日目との比較では、2日目は、本番なんだと感じた。しかし、規制が強く、表現は弱い。

 立ち止まるな、といううるさいほどの警察の介入。民衆の自由度が極限的に小さくなっている。

 ハチ公前スクランブル交差点を、完全解放すれば良くないか?と素朴に思う。

 なぜ民衆のパワーを発現させない?のか?

渋谷ハロウィン 2022

渋谷ハロウィン観察2022

 


 10.30.15.30

    ハチ公前。ハロウィン隊は、小さな部隊。ところどころに散見されるに過ぎない。

 消費税5%にというプラカードを持つ初老の存在あり。

 


 10.30.18.30.

   ハチ公前。DJポリスが登場しているが、規制は弱い。スクランブルはスクランブル交差点として機能している。ハロウィン隊はそれなりに多数いる。が、危ない雰囲気はない。

 

 10.30. 22.00

    ハチ公前から、スクランブルを規制。真ん中で滞留しないように、紐を出して、規制。

 DJポリスは二箇所に設置されている。ハチ公前とその対角線。

 ハチ公前での待ち合わせを止めるような発言がポリスからでる。

 ダンスミュージックを爆音で流す車がしばしば通過。

   23.00

   規制緩和。規制の紐がなくなる。

 人通りが減る。

 大音量で車内から爆音。スクランブルを解放しようという発想。30秒程度、ストリートにダンスが起きる。確かに、ストリートが一瞬解放される。大音量な車は何台かいる。

 歩行時に車をスクランブルの真ん中に配置しようという工作をしているようだ。

 日常に納得がいかない若年層は多数いると思われる。変身願望。   23.30.離脱

 

 

 

 観察初日。明日が本番?

 盛り上がりには、欠ける感じ。コロナ規制はかなり解除されてきているが、若年層のパワーが落ちてきているのか?

 明日も路上観察は継続する予定。

 

 


 

 

 

国葬阻止のために

安倍国葬を阻止するためのスローガン的なものの考察

 


 短いフレーズで、国葬阻止の声を届けるための知的訓練。

 


 国葬阻止

 国葬反対

 


 安倍を美化するな

 税金を国葬に使うな

 


 何故、国葬したがるのか?

 

 

 

 国葬粉砕

 国葬解体

 武道館の民衆包囲

 武道館を撃て

 


 安倍の悪行を暴き切れ

 安倍を再処刑せよ

 安倍の葬式は終わっている

 


 民の声を聴け‼️

 民衆の民衆による民衆のための葬儀を‼️

 


 半旗強制反対

 

 国葬ではなくコロナ対策に‼️

 国葬費用を弱者に回せ

 

 国葬やれば、生活困窮化

 

 

東海高校による お詫び を批判する

東海高校からのお詫び を批判する

 


@@@@

 本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。

 


 本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。

 


 ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。

 


 「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。

 


 今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。

 


@@@以上が原文と思われる。

 

 

 

 


 本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。

 


→学校として、お詫びすべき、という立場宣言と受け止めます。

 

 

 

 


 本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。

 


→勉強だけが高校生活の全てだ、と言っている高校は存在しない。その当たり前のことから始まるこの謝罪文は何?

→さまざまな自主活動とは?

→校風とは?

◉曖昧な言葉で、お茶を濁すのが、当該の高校の校風、と私には見える。

◉自主的な活動とは、文科省管轄外の全ての活動か?具体的に何を指しているのかわからない言葉の羅列。

 

 

 

 ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。

 


→学校行事中止を理由にして、逃げを打とうという姿勢がありあり。授業はやっていたのではないのか?学校は、学校行事のためにある?とでも言わんばかりの日常授業の扱いが軽いのか?日々の授業においては、何をして来たのか?

→授業において、メッセージを伝えようとして来たのか?

→学校としての謝罪なはずの文書に、教職員にとっても反省すべき点だとしている、ということは、ほかに誰が、反省すべきだと、暗に言っているのか?当該の学生に反省しろと、迫っているのか?

 

 

 

 「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。

 


→蜜をつくるな、という社会風潮を原因として、この一件を見ているならば、高校を廃止して責任を取ってほしい。蜜をつくるな、とするならば、授業を通して、密な関係性を対置すれば良いだけの話であり、密な関係性を模索して来ていたのか?そのことが問われているにもかかわらず、一切そこには踏み込もうとしない。

→孤立間に苛まれた存在を作り出した原因は、当該高校の授業実践の内容にある。まず、そのことを認めよ‼️社会風潮のせいにするな‼️その点を見ずに、いったい何を謝罪しているのか?全く視点がずれまくっている。

 


 今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。

 


→手を差し伸べていないという現実を認めたのか?まずはっきりと自分たちの至らなさを率直に認めよ。そこからしか始まらない。

 

 

 

▲こんなふざけた謝罪文ならざる謝罪文しか出せないから、今回の一件が起きたのだろうな、と私には見える。

 ゼロから組織を組み直すことが必要だと、私は感じる。あるいは、廃校にしろ的な勢いで、組み直しが必要だろう。

 

 

 

sj

 


追加

 上の文を読んだとき、気持ち悪い謝罪だ、と感じた。謝罪したくないのか、する気がないのか、何を謝罪して良いのか、わからない、といった、なんのための文書かわからない。

 


 大きな事件になり、学校名が割れ、組織防衛の為の言い訳の文か?と思った。

 


 真摯な姿勢がまったくない。

 


 原因を自分たちの教育指導には求めないという錯倒した感覚がにじみだした悪文。

 


 なぜこんな文書を、高校名を隠し、無署名で出したのか?

 

希望の教育学 3

@@5

 多文化主義とは、いろいろな文化が単に、併立していることではない。闘い取られた自由であり、それぞれの文化が相互にその存在を尊重しあって、安んじて自分自身であり続ける権利、相互に異なっていることを恐れずに自由に表明し、それでいて共に成長でき、圧倒的に優勢な一文化によって他の諸文化が禁圧されることからくる不断の緊張状態を免れていることを意味している。

 多文化主義が既に確立済みのものとして偽装されるのではなく、たえず創造の過程にあるもの現在制作中のもの、もうこれで良いという終着点の決してない探究の過程として存在するからこそ、緊張が必要となるのである。未完成であるからこそ、探究があり、葛藤が生じる。pp219-220

 


→それぞれの人間にはそれぞれの人間の価値がある。同化ではなく共存。こののとが、多文化主義という用語に込められている、と読める。

 


→→多文化主義を必要としているのはミクロな集団では、家族。異なる文化体系にあるものが、共同生活をする。一方が、他方を抑圧するような家父長制は、一方の文化の抑圧装置として機能してきた。夫婦別姓さえ、闘い取らねばならない価値。多文化主義への道はまだまだ続く。

 


→→→障害児を排除した学校には、多文化主義の芽をつくることからはじめる必要がある。障害児が生きていく場として、普通学級を選べなくなった。障害児の文化的基盤は、抑圧され、排除された。差別と選別の機能を学校は、しばしば果たすわけだが、多文化主義的な発想をもっともっと、導入すべきところだろう。

 男女混合名簿を作成するなど、前進している部分はある。

 


→→→→多文化主義という主張はわかるし、それが原理として成り立つべきだとも思う。例えば、LGBTQ関連の動きにおいては、大きな固まりとしての、L  G B  T Q なわけだが、現実には、無限に性的な指向性など分化しているのが当たり前だと、実は私は思っている。この区分にさえ異議を申し立てたいと思っている。塊を失えば、個々人として意識していかざるを得ない。個に分解しすぎるのは、力を削ぎ落とすことになると思うからこそ、声を落としている。

 宗教的信念 や 幼少期から培われてしまった価値軸 といったものから引き離されない限り、新しい発想は産み出せない。常識という枠に落とし込まれて仕舞えば、その枠からはみ出せない。常識を疑え、そして、新しい常識を創り出せ! 

 

 

 

 


@@@@6

 抑圧情況は、それをどんなに批判的に洞察しても、それだけではなお、被抑圧者は解放されない。もちろん、情況を暴くことは、情況を越える為の一歩ではある。人は、その認識を踏まえて、抑圧をもたらす現実的な諸条件を変革するための政治的な闘いに参加していくからだ。世界を再創造するという希望は、被抑圧者の闘いにとって、不可欠のものだ。教育は現実のヴェールをはぐ、すぐれて認識に関わる営みであるから、それだけでは世界を変えることはできない。pp40-41

 

→見方を変えれば、世界が違って見える。しかし、それだけでは、世界は変わらないという話。

 肉眼で星を見るのと望遠鏡で星を見るのでは、決定的に見える世界が違う。しかし、観察しているだけでは、その星とのリアルな関係性は何も変わらない。その星に行くならば、新しい関係性が始まる。認識の転換から行動の変容につながるべく動かすことは、もう一段レベルの異なる刺激を必要とする。 

 悪性腫瘍の存在を知ると、認識は変わる。しかし、腫瘍自体には変革はない。腫瘍を変革するには、より強い治療行為が必要だ、というのと同じレベルの話。

→→見方を変えれば世界は違って見える。そのことを通して、容易に変わることは確かにある。しかし、大きな構造は変わらない。大きな構造変革をおこして初めて、世界を再創造し得た、とするならば、認識の転換から、その認識に基づいた行動を起こしていかねばならない。

 が、それは、教育関係を超えたところの課題。その入り口までが限界値。

 当該の主体的な条件設定を、きちんとやり切る、というのが、教育関係としてできることの最大限。

→→→私自身のことを書き込んでみる。二十歳前後までは、それほどに強い社会意識もなく大学に入る。その後、親友の自殺というあまりに強すぎる契機により人生観、世界認識、存在そのものを、根底から揺さぶられ、その時までとは、世界が全く違って見えるようになる。認識を転換はしたが、現実は変わらない。

 いくつもの社会運動に関わり、現実との緊張関係を把握し、変革を目指して、生きながらえてはきた。変わったかに見える現実がないわけではない。社会革命が起きたわけではないから、少しずつしか構造の変革はなしえない。

 国会前に数万人集まっただけでは、国家権力には勝てない。もっと大衆的な地殻変動が起きるような主張とともに、新しい人間像や、新しい価値軸を打ち出していかねばならないとおもってはいる。少しでもそのためにできることがあるならば、実践していきたいと、思っている。

→→→→anarchismでも、communismでも、なんでもよい。ismの先には何もないことを知っているから、イズムにそのまま乗ることはできない。私はわたしの道を行くしかない。

 突き抜けたある種の先には、共有できる普遍的な価値の体系が存在するだろうと信じて。