自分の不調を認められないときほど自分の気持ちが暴走していった気がする

※生理の話があります。苦手な人は回避してください

自分のイライラの原因が自分の内側(生理)にあることに気付かずに外側に原因を探してたときは創作物や文章とかの文字にイライラしてた気がする
別の理由のときもあるけど、生理でイライラしてたことに自分で気付かなくて「他にイライラの原因がある」と思い込んでたときはそこまで感情移入してたわけでもなかったはずの創作物や何らかの文章とか文字の方に原因があると思って外側に原因を求めて見つからないというのを繰り返してたような気がする。
自分も気を付けなくてはいけないけど、お気持ちが暴走して砲撃みたいになる現象は「自分の気持ちは自分自身の方に原因がある」という発想がなくなって「相手の言動が自分の気持ちをコントロールしてるという錯覚にハマってる」状態なんじゃないかと私は勝手に思ってる(文字のやり取りだけで相手の気持ちを揺さぶることは本来は対面での会話以上に難しいことのはずだから)

鉄血のオルフェンズ20話のオルガについて思ったこと

鉄血のオルフェンズのネタバレあります

鉄華団の仲間を安全な世界に連れて行きたいと「上がりはデカい方がいい」が矛盾してることをオルガ本人が自覚してないからビスケットとの喧嘩がねじれてると思う
公式のチャンネルで20話を見て自分が思ったことだけど、オルガは「上がりはデカい方がいい」と「どの方法を選んでもリスクは同じと決めつけてる」の2つの価値観がビスケットの価値観と対立してて、「どの方法を選んでもリスクはある(意訳)」というオルガのセリフは「やり方次第では見返りも減るけどリスクも減らせる方法がある(意訳)」とビスケットに指摘されてもオルガがピンと来てない感あることが私は気になって(ビスケットとの話の後に「俺は焦ってるのか」というセリフはあるけど)、オルガは切った張ったしなくて済む世界に鉄華団の仲間を連れ出したいという発想があるのにハイリスクハイリターンになる方法以外を選ぼうとしないことがビスケット視点では不思議だったんだろうなと20話までの時点(作品は完結してるし20話の後も話が続くけど)でも私は感じたと思う。

追記 ビスケットの言う「仲間のことを考えろ」について
ビスケットがオルガに言った「仲間のことを考えろ」は「三日月以外の鉄華団の仲間のことを考えろ」という意味だと私は思ってて(セリフでは三日月への言及は一切ないけど)、ビスケットはオルガがリスクのある方の選択肢を敢えて選ぼうとしてる理由が「三日月がオルガのために命を懸けてることに応えるためにオルガはリスクのある方の選択肢を選んでることをオルガ本人が自覚してない」ことをわかってるから、物語の事情もあって三日月に言及せず若干言葉足らずな言い方でオルガに反論する形になってるんだと私は勝手に思ってる(メタ的にはオルガが三日月の期待に応えるためにリスクの高い選択をしてることに言及するキャラがいると物語が破綻するのではないかと思う)

ロマサガ3のエレンは「孤立しない仕組みが世界にあるキャラ」ではないかと思う

ロマサガ3のネタバレあります

エレンは主人公のときと仲間のとき両方でサラと喧嘩したり・ユリアンの告白を断って「相手を受容しない」行動を取っても特に孤立しないのが面白いと思った
エレンがというよりサラとユリアンがエレンのパーティーに入る選択肢を持ってるキャラだからというのが大きいけど、エレンは妹のサラが自立の話をしたとき喧嘩したり・ユリアンの告白を断って「相手を受容しない」行動を取っててもその後にサラとユリアンがパーティーに入る選択肢があって「相手を受容しなかったとしてもその後はずっと孤立するというわけでもない」というのが極端じゃなくて面白いと私は思ってる。
OPイベント後にハリードに「(シノンの)みんなはやることあるけどお前だけすることないのか」と言われてエレンが言い返してたけど「シノン以外のキャラも仲間になるからシノンのみんながいなくなっても孤立するわけでもない」という仲間キャラが多いことで「一人を強調される割に孤立しない仕組み」がエレンに有利に働いてると私は勝手に思ってる。
エレンは主人公のときと仲間キャラで加入するときで印象がほとんど同じでどの主人公でも仲間にできる理由はエレンが「絶対に孤立しないという根拠のある自信を持ってるから」ではないかと私は勝手に思ってる。

試験や試合のように「そのルールの枠組みで得点する方法(正解)が決まってる」こと以外の事例でそのやり方では解決しない可能性が高いことで「ギリギリまで粘る」のはむしろ悪だと思うことについて

最後まで諦めない・ギリギリまで粘るが有効な可能性が高い事例はスポーツや試験のように「ルールが明確に決まってる」ことだけではないかと思う
そのルールの枠組みで正解を見つければ確実に解決すること以外の事例ではむしろギリギリまで粘らず「そのやり方では解決しないことがわかった時点で別の方法を探したり最初のやり方では解決しないことを潔く認める(最初のやり方では解決しない場合は)」ことの方がいつまでもギリギリまで粘るに固執するするよりいいんじゃないかと私は思ってる。
引き合いに出すのは不謹慎かもしれないけど、壊れてるのにそのまま使って(使わせて)事故が起きたという事例は「物は壊れてもギリギリまで使うのが当たり前(新しいものを買えば解決できると思うのは悪いことだ)」的な精神論を指示してる人間が持ってたことも原因になってるのではないかと私は思ってる(擁護ではありません)

建国から王朝時代の歴史も内戦に関係あるのではないかと思ったことについて

ルワンダ建国の時点では王はツチ族の人間で、ベルギーが植民地支配でツチ族を冷遇しフツ族が優位になって民族の立場が王朝時代と逆転したことも理由じゃないかと思う
王朝時代のツチ族フツ族の関係は主従というほど封建的な関係性ではなかったのかもしれないけど(王朝時代について検索しても民族間での支配の話が特に見つからない)、フツ族視点では建国の時代から「自分達が国家の頂点に立ちたい」という心情があって後世にもその精神が受け継がれていたとしたら、ツチ族視点での「王朝時代にツチ族から王を選出してフツ族より上の立場になったという負い目」とフツ族視点での「ツチ族より強い立場になりたいという願望」の両方が当時のルワンダの人々に作用してルワンダ内戦にまで繋がった可能性あるんじゃないかと私は思ってる(推測なので実際のところはわからないけど)
ルワンダ内戦について大統領等の当時を知る人が外側の人間には理解されないと考えてる理由は内側で生きる人の歴史を知らないとわからないからではないかと私は思う。

Shrinkの発達障害当事者の女性の話が自分にとって読みやすかった理由は「他者は自分とは違う人間」という前提が物語で徹底してたからだと思う

※Shrinkの発達障害当事者の女性のエピソードのネタバレあります

女性は他人を受容する役割という前提がないから読みやすかったのではないかと思う

Shrinkを自分は全部を読めたわけではないけど、発達障害当事者の女性のエピソードが「本人視点で困難がある話」にも関わらず一方的に断罪されたり・責められるキツさをあまり感じない理由について自分で考えてみたら「相手を無条件に受容しろ(相手は正しい)」という文脈がなくて、「当事者と当事者以外の人が一緒に社会で共存するためにはどうすればいいか」みたいな「双方に対して一方的な受容を求めない話」だったから、その話は一方的に責められるような読後感がないエピソードになったのではないかと私は思ってる。

創作で「身体について張り合う」キャラはその性別の社会規範を強いられていない状態を異性で実現してる状態ではないかと思う

※この記事は創作での性別の社会規範の描写と関連して筋肉についての言及と前に書いた内容から追記・変更あります。ゴールデンカムイ鋼の錬金術師のネタバレあります。

ゴールデンカムイの鯉登は女性の社会規範を強いられてない女性キャラのような立ち位置で男性の社会規範を部分的にやってる男性キャラだと思う
ゴールデンカムイ樺太編のスチェンカとバーニャを「筋肉を張り合ってる」としてカウントすると、鯉登は男性の社会規範に忠実なタイプではなさそうな描写だから男性キャラだけど女性の社会規範を強いられてない女性キャラの立場に近いと私は思ってる。
鶴見中尉と鯉登の関係は21巻までは鶴見ー主体 鯉登ー客体という関係だと思うけど、21巻で誘拐劇の事実に気付いてから徐々に主体ー客体だった関係性が変化して30巻で鯉登の方から当時の誘拐劇の話を鶴見中尉に言ってからは鶴見中尉と鯉登の関係は完全に主体ー主体になったと私は思う。

アームストロング姉弟は身体について漫画のお約束を制覇してると思う
ハガレンのアームストロング少佐はイシュヴァールの戦場では臆病者と評価されてて男性の社会規範に忠実なタイプじゃないから、筋肉を張り合うのは女性の社会規範を強いられなかった女性キャラ的な意味があるんじゃないかと私は思ってる。
単行本のおまけページでアームストロング姉弟の身体についてイラストで言及あるのは姉のオリヴィエが女性キャラだけど男性の社会規範を強いられなかった男性キャラの立場に近いことを示してると私は思う(ハガレンは漫画のお約束に当たる胸と筋肉の張り合いについておまけを含めたら両方相対化してる作品だと思う)