読んでいるはずの本たち 2023年の読書まとめ

子が胎の中にいたころから、わたしの頭の中はカンカンに熱されていて、それは生まれてからもずっとつづいた。何かを考えようと頭の中に放り込むと、すぐにジュッと音を立てて干上がった。

それがこの春に実家の近くへと引っ越し、子が3歳を迎えるあたりで、スンとおさまった。3年半、長かった。あれは何だったのだろう。産後うつ? それとも以前やらかしたメンタルの不調が再発していたのかもしれない。

ともあれ、本が読めるようになった。ああ、それからアニメやドラマも見られるようになった。(映像を処理するのが苦手なので本よりアニメやドラマ、映画の方がハードルが高い)

本が読めるようになった喜び、それから県境に住んでいて、複数の図書館が使えてしまうこと、アニメやドラマにはまって気になる分野が広がったこと、自分の時間が持てるようになったこと、パッと思いつくだけでもこれだけの様々な要因が重なって、手当たり次第に本を読んだ。

……そう、読んだ、はずなのだが、読書メーターを確認すると、そうでもない。思い出そうとしても思い出せない。から、まあ、それは読んでないに等しいのだろう。

 

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読書メーターって前は月間・年間まとめしてくれてなかったっけ?)



はっきりと覚えているのを数冊。

・また二次創作やりたくなってきたので下記2冊。主に商業BLがジェンダーをどのように描いてきたかの流れがわかる。二次創作するときって好きなものを書くものだから手癖で書いてしまいがちで、自分の好きは何なのか、どういう枠組みで解釈しているのか考えるきっかけになって良かった。

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・引っ越しの度にその土地について調べてはきた。地元(の近く)に戻ってきて、「あの辺は治安が~」っていうけど、それってどういうことだったんだろう、とか、基地が近くにあって飛行機の音がするのがあたりまえだと思っていたけどほかの土地だとそんなことなかったな、とか気になることがたくさんでてきた。このあたりもっといろいろ読んだ気がするんだけどなあ。

 

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・公園に行く途中で子が寝てしまうことがよくあって、起きるまでのちょっとした時間が、図書館で雑誌を1冊読むのにちょうどよかったので、文芸誌をよく読んだ。

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この号に載っていた九段理江さんの「Planet Her あるいは最古のフィメールラッパー」が本当に良くて、『Schoolgirl』『しをかくうま』も次々に読んだ。言葉が、ある関係において意味をなくして、そこからまた再生することが書かれていて、気持ちがいい。再生するまでの切実さが言葉をそれでも重ねていくことであらわれていくのは他にないような気がする。

 

2023年はこんな感じ。こんな具合で昔から乱読してきたので、何かを体系立てて学ぶことが苦手だ。いい加減落ち着いて本を読みたい。

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(4)

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(4)

2019年11月24日発行

 

8  産声


女になるまえにもっていたはじまりのことばが古くなっていく。胎をふくらせうまれた空洞におそれが反響する。もう、ひらいているか?  せんせいの指示どおり産声がおとずれるのをまっていて。

 

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9  あらし

 

十一月の旗がゆれ
みえかくれする薔薇の花弁に

熊蜂がうずくまっている
習性にふるえる羽の音をきき
まだ  うまれていない  こども
こどもたち  が
すすりなく


おまえ  は
うまれていない  ものたち  は
そこのまっすぐな産道に
おまえたち  ひっかかっているのね
この先は国道0号線
豪速で行きかうならい
銀の陽射しにすなあらしがまきおこる


おまえたち  の
言葉を憶えるまえの
えいえんのくちびるに
夕暮れる
ムースの色の変わり目を
掬って食べさせてあげたい
繭の糸の凝る点
木々が色濃くなりかかる
交差点で接触する
急ブレーキ


わたしたち は
あなた と あなた は ひとりで
ひしゃげた車のバンパーを割りひらき
わたし の 見ている前で
ふくらむ子宮をつぶし

ぞぞりぞぞり ぞぞりぞぞり
夏を掻きだしている
わたし の
告げるハツハナの
裾を捲り上げる
わたしたち
ここには あらし しかなかった

 

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個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(3)

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(3)

2019年11月24日発行

 

7 「産む」を作品にするとき

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 伊吹島の出部屋から考えること

 

1
   瀬戸内国際芸術祭の秋会期初日、フェリーを降りて伊吹島の港に立つ。観音寺の港では小雨が降っていたが、島では晴れている。思えばせとうちの島にいくたびにそうだった。

   秋会期から瀬戸内国際芸術祭の会場となる伊吹島は、芸術祭に参加する12の島の中でも最も西に位置している。真浦港に着くと島の内外の人びとが芸術祭のボランティアで旗をふって歓迎してくれる。にぎわっている印象を受けるが、この島もまた人口は減少している。

   伊吹島は周囲5.4Km、面積1.05平方キロメートルの小さな島だ。かつては鰯漁に従事する人が多く、いまも良質なイリコの生産が盛んで「イリコの島」として知られている。この日も港で歓迎してくれた人たちから、イリコのパックをお土産にいただいた。人口は2019年10月現在で477人となっているが、民俗資料館の掲示によると7~80年前には4000人以上いたこともあるようだ。
   伊吹島は坂が多く、また坂の上に行けばいくほど空き家が目立った。柱だけがのこり見通しのよくなった家の中はかえってそこにあった生活を感じさせる。

 

2
   狭く急な坂を上ったり下りたりをくりかえすとやがて1970年まで使われたという産屋、出部屋(デービヤ)の跡地にたどり着く。伊吹町自治会と伊吹島を愛する会によって立てられた説明書によると「お産を家の納戸で終えた女性たちが一ヶ月間、新生児と別火の生活をしていた共同産室があった所」とある。この坂道をお産の後の身体をひきずってやってきたのだろうか。一九八三年に県道工事のため解体され、礎石と門柱だけが残っているその跡地もまた、わたしにかつてそこにあった生活を思いおこさせる。
   さて、その出部屋跡地であるが、瀬戸内国際芸術祭の秋会期初日であるわたしの訪れたときには、アート作品がそびえ立っていた。「伊吹の樹」というタイトルのその作品は自然を強く意識するような荒々しい造形で、ひのきの板が高さ4.5メートル、全長7メートルにわたって組み上げられている。内側には全面に鏡が張られ島の空を映し出している。
   瀬戸内国際芸術祭の公式ホームページ、および公式ガイドブックの作品紹介にはこうある。
   

伊吹島には出産前後を女性だけで集団生活し、家事から解放され養生する風習があり、その場所を出部屋(でべや)と呼んでいた。生命の誕生の場である出部屋の跡地に、作家は生命の樹を植える。横たわった大きな生命の樹は子宮を表し、地面と樹との空間をすり抜けることは母体からこの世界に出ることを意味する。

 

    作品の受け手、見るものがその作品を通して生まれ変わることをイメージしている、つまり「生命の誕生」とその神聖さを強くうち出して いるようだ。      産むことの生の側面に焦点をあてたそのアートはわたしに違和感と、疎外感をもたらすものであった。

 

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3
   「産む性」から逃れたくて、十年以上わたしは必ず毎日一錠の薬を飲んでいた。ホルモンを調整するのは身体を制したようで心地よかった。ところが環境の変化で身体のバランスを壊し、また加齢によっても、あんなに逃れたかった「産む性」が脅かされたとき、途端にそれが惜しくなった。

   いま、わたしにとって「産む」は決して自然ではない。出部屋にたたずむアートに感じた違和感はそんなわたしの「産む」観とのズレとも言えるだろう。だが、それだけだろうか。
   伊吹島の出部屋は、出産のけがれを忌み、家族と火をわけて生活するとされる産屋のなかでも最も遅くまで使用されていたひとつとして知られている。瀬川清子『女の民俗誌 そのけがれと神秘』によると、「不浄の婦人は網や漁具いっさいに触れてはならない、船に乗ってはならないという禁忌は、ところを記す必要もないほど全国的な禁忌」、「海辺の住民、つまり海に働く漁業者は、出産・月事のけがれを特におそれるといわれる」などと漁村のけがれ観は特に強かったとされる。そうしたけがれ観の強い漁村ではおそくまで産屋の生活が残っていたそうだ。
   しかし、今回の瀬戸内国際芸術祭の公式の作品説明や作者の説明、また雑誌や新聞等の記事にもけがれとの関連で出部屋を紹介したものはなかった。
   また、ほんとうに出部屋は「生命の誕生の場」だったのだろうか。伏見裕子『近代日本における出産と産屋 香川県伊吹島の出部屋の存続と閉鎖』では、明治から大正にかけてはどの時点で出部屋に入ったか確証が得られない状況だが、昭和戦前期については、そこでお産をするわけではなかったとの記録が多数残されているという。一九五六年に分娩室および診察室が設置されるまで、長らく出産場所として考えられてはいなかったのがわかる。
   ほかにも近年、出部屋をどのように紹介しているか調べると、経験豊かな女性に教えを請い子育ての不安を解消していたといったような当時の出部屋の機能を限定して、現代の日本に足りないものを求めるような動きが多くみられる。出部屋を地域おこしやアート作品の中心に据えたときに、けがれに関することをなかったようにしてしまうこと、また美化することが起きてしまうのはなぜだろうか。


4

   わたしがわたしの身体のなかにある「産む」に戻ってきたとき、わたしの詩にもまた「産む」があらわれた。それとどう付きあっていくか 考えているなかで、また海をわたった。伊吹島は、わたしのいま住んでいる福山から春先まで住んでいた高松への、旅の途中で立ち寄った 島だった。出部屋跡地で、わたしの外側にそびえ立つ「産む」に向きあったことで、対象化できたように思う。
   かつて、産むことのまわりにあったであろうけがれや、祈りをなかったことにすることなく、しかし確実にわたしのものとして書くことは可能だろうか。わたしは、「産み」を神秘的なものにも不浄にもしたくない。自然的なものとして崇拝するのを、また、恐れるのをやめたい。本誌の最後に置いた「あらし」はそうやって抗いながら書いた詩である。おまえたちのものでもなく、わたしたちのものでもない、わたしのものとしてきりわけていく。「産む」をあらわす。
   むしろそこにあったのはただ空っぽの産道なのではないか。空っぽの気を満たすための場とした場合において詩はありうるのではないだろうか。

 


参考資料

 

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(2)

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(2)

2019年11月24日発行

 

 

 

4  やはらかに


やわらかになる身体が
死に逆らい浮かんで
いる船が磔になり
ドクターの治療
を受けている
スピーカー
揺らいで

輝く星

のま

たき
スピカ
を尻尾の
先に飾って
ゆらゆら歩く
首輪無しドッグ
のイメージが毒の
ようにまわりやがて
身体がやわらかになる

 

5  ゆびわが7つ


私たちはみんなで
かわるがわるに
彼女の新鮮な
てのひらを
食べたの
胎の中に
小さな
コンロ
宿して
これ
から
ひと
りの

へ 、

 

6  魚島


中耳腔にひろがる海は
渡らなかったせとうちの海が
流れ込んだものだ
山陽新幹線も届かぬ道行きを
棘のある鯛が白く光らせる


そこに、渦、タイムラインを、逆巻き、鉄仙ひらき、ひらき、いくつも、逆巻き、鉄仙、ひらき、ひらく、花弁の、戦き、そこに、喇叭が
ある、喇叭、震わす、そこ、いっせいに、咳


乳房をはしる葉脈に聴診器をあて
流れる雌性ホルモンエストラジオールが

おれの幻肢の性器を縮こめる
音を聴く


ここに、咲く、絡まる、根、ほぐす、肉体たがやす、ならす、葵の、木漏れ日、ここに、轍、ならし、ならす、発酵すすむ、ふるい、鐘の音、たいらに、たいらに、ここ、自転車の籠、ひびわれる卵、平に


茅渟のお面が歪み
這いつくばって橋をわたる
絶え間なくくりかえす潮汐
知らない魚の島が生まれようとしている


見ろ、鍬で耕し、たがやし、耕す、蒸れて、湿った肢体、見ろ、抜き差し、ぬきさしする、たがやし、先端、見たか、蜂、溢れだし、やはらかな、青いひかり、見ろ、漏出した、菌の傘、えいめい、走る、神経揺らし、見ろよ、
ぼう、
ぼう、
ばっ、 垂れる、

――――小さな 羽音。

 

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個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(1)

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(1)

2019年11月24日発行

 

 

1 まえがき

 ひとりで潜って地下鉄を泳いでいた。京都市営地下鉄はまっすぐで、陸にあがると轟音が空気を押し出す。いつしかわたしの左耳から中低音が奪われた。

 せとうちの海は閉鎖的な海だという。外海と海水が入れかわるのに1~2年かかる。1~2年かけてわたしはせとうちの海をいったりきたりする。

 小さなフェリーにじぶんの領域をみつけ海の上で日付をまたいでねむるうちに音が戻ってきた。あたらしい音はあたらしい色彩もつれてきた。


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わたしは閉鎖的な海。
 わたしの海に浮かぶ島。
  詩はわたしの海にかかる橋。

2 鍵がかかる――

 

 

鍵がかかる 誰かが家――わたしの家だったこともある家に住んでいる

 

 

3 うみにつづく街


さっきまで ふれていた
わたしの さんびゃくねんの街
川のそこに這いつくばって
蛙のように うんだので
とてもさかえているでしょう
みなもから
しらしらと
街の亡霊はながれて
薔薇のかじつを 胎にむすんだ


街はねむり
夜凪の

ためいきのなかで
ふねをまつ
発掘された
たましいのかたちを
ひきあげるあみを 縒りあわせて


ふみならされ かたくなっていく
わたしの 土地のちぶさ
いま ふねが
かすかにふるえ
港をたつ
成熟した いっせんねんに
うみの かおりが みちている

近況、思い出す。

菊池依々子 きくちいいこ on Twitter: "すっかり呆けてしまったという祖母がしかしわたしへの電話では確りとした口調で、あなたはいまもりだから、もりだから、と頻りに言う。子守の守なのだろうが聞き慣れない言葉なので森を連想してしまう。わたしはいま森だから、森なのだから。ただ森であるだけでいいのだから。"

 

おばあちゃんはいつもひいおばあちゃんとわたしを取りあって、たとえば、わたしがおばあちゃんにもらったものはひいおばあちゃんに取りあげられ、ひいおばあちゃんがくれたものはおばあちゃんに取りあげられられた。

 

わたしにはもう会えないおねえちゃんがいる。従兄弟は突然いなくなり、おばあちゃんの家には鍵がかかっていてはいれない。

 

おばあちゃんは結婚してとおくへ行くわたしに、ごめんなさいねごめんなさいね、と書かれた手紙をくれた。

 

おばあちゃんの家には知らない鍵がかかっている。

 

おばあちゃん、から電話がある。従兄弟に電話のつかいかたを聞いたのだという。

 

あなたはいまもりだから――。

 

 

 

1年、あれから1年が経ち、わたしはもりをつとめ、檸檬の木のあるおばあちゃんの森には鍵がかかったままで、昏い。万年筆のインクが渇いてしまったね。

 

耕せばまたインクの道は通るのだろうか。わたしは守。会えない人に会いたい。

 

 

 

 

2年前に創刊した個人詩誌をこれまで手にしていただき、また宣伝にご協力いただきありがとうございました。現在もり――子守りが忙しく次号の制作が滞っておりますが、これを機に創刊号から少しずつ公開していってみようかと思います。

『詩と思想』にて個人詩誌『ひやそのほかの』を紹介いただきました

3月1日発行の『詩と思想』2020年3月号詩誌評欄にて個人詩誌『ひやそのほかの』を紹介いただきました。

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今号から白島 真さんがご担当となったそうですが、その際に送られてきた詩誌は100冊以上であったといいます。昔から続く詩誌も多くある中で、このような個人詩誌にまで目を通し紹介していただきありがたい限りです。

その中で特に触れてくださったエッセイ「「産む」を作品にするとき」は「産む」をテーマにしたアート作品に触れ、考えたことなどを書いております。

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わたしの詩の中では身体性や場所などがテーマとしてあらわれてきがちなのですが、そのとき身体性や「産む」ことを神聖なものと、あるいは「穢れ」とみなしてしまってはいないか。それは、作品をつくる態度として正しいのかとあらためて立ちどまってみた文章です。

 
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夏前に2号も発行できればいいな……
よろしくお願いします!