今週のお題 「私がブログを始めた理由」です!

 彼女の頬をつたう涙は、いつだったか僕の胸の中でひっそりと流した涙とは全く別のものであるように見えた。冷たい空気に触れてもなおその温かさを残したまま、しかしあの日よりもずっと強い意思を心に秘めているといった風な目で、彼女は僕を見つめていた。

 僕は沈黙に耐えきれず、何か言わなければ思ったが、心に浮かんでくるどんな言葉も、今の彼女が存在している空間とは違った虚空の中にふっと消えてしまいそうで怖かった。

 涙で濡れた目の奥に秘められた冷たい砂漠 - 女は誰だって、自分だけの世界を持っている。他人が覗き見ることのできない地上の王国。彼女が何を思っているかが理解できないことよりも、僕にはそれが歯がゆかった。

 ふと、彼女が呟いた。

「あなたにも、いつかわかってもらえると思うの。こうしたほうが良かったんだって。」

「うん。」

 僕は振り絞るように声を出した。

 落ち着きはらった声で、彼女は続けた。「私のためだけじゃなくて、これはあなたのためでもあるのよ。」

「僕は・・・でも、やっぱり・・・」

「最近、夢を見るの。世界が今よりもずっと少ない色で出来ている夢。私たちは、そこで手を取り合って笑ってる。他愛のない話を何時間もして、同じような事ばっかり言って。」

 彼女の眼は、僕の方を向いてはいるが、今ではどこかもっと遠くの方を見つめているようだった。

「やっぱりこの関係にも、然るべき形式が必要だったんだと思う。私達、それと気付かない間に多くの余分なものを詰め込み過ぎたんじゃないかしら。」

「そうかもしれない。君の言うことは、いつだって正しい。」

 そう、彼女は、いつも正しかった。それでも、”正しさ”というものには強さと弱さの別があることを、僕は知っていた。その事が僕の唯一の拠り所であり、彼女が入り込めない僕だけの”世界”だった。そして僕は、自分自身の世界が今まさにポロポロと崩れ落ちてゆくのを心の中で感じながらも、こうして何も言えずにいるのだ。

「それじゃあ。」

 僕の返事も聞かずに去ってゆく彼女の背中を見つめながら、僕は冷たい夜の砂漠のことを考えた。色の少ない砂漠のことを。

 その日僕は、ブログを始めた。


今週のお題

”効率性”再考 - 日常的な意思決定に際して

 生活の様々な局面でこれまで直感(に近い判断)で決めてきた行動規範や仕組みが積み上がっているが、最近、これら1つ1つを十分に見直す必要があることに気付いてきた。自分の行動パターンに対してそれぞれの仕組みが最適化されていないのだ。
 これらについて始めから1つずつ熟考していれば良かったんだけど、どう考えてもそんなしっかりしたこと出来る気がしない。

 よくよく考えてみると、そういうことがしっかりとできる人は、元々そういう”資質”を持っている人じゃないかと思う。ここでいう「元々」というのは、先天的なものに限らず後天的に獲得した形質をも含む。

 ほんの些細なこと、例えば「どんな形状のポストイットを使うか」レベルにしても、自分の行動特性に対して最適化されているかどうかで、それ以降にポストイットを使用するすべての場面で生産性が結構違ってくるんだけど、人生で最初のポストイットを買う時にそんなことは誰も考えていない。それができる人は、元々何に対しても解像度が高い性格の人。

 実はこれは我々人間にとって結構大きな問題で、重要度が高い項目であるにもかかわらず、緊急度が低く主題化されにくいものは問題視されず、長らく放っておかれる傾向にある。その最たるものは「健康」だったりするんだが、病気になって初めて、もはや当人が手放してしまった「健康」が主題化され、それに対しては事後的な処置しか選択肢が残っていないこととなる。”ばあちゃんなんかが「体にだけは気をつけてね」って言うのを華麗に聞き流す若者”という構図は珍しくもなんともないものだが、この「体にだけは気をつけて」というアドバイスは効率性の観点からも真理だったりする。しかし悲しいかな、我々はそれには当分気がつかない。

 つまり、普通の人は、色々と問題が出てきたり不便に感じたりするようになって初めてそれについて考える。自分自身が問題意識とともに改めてその対象を主題化するまでは、非効率的な選択を支持し続けている。この問題を避けるのが難しい理由は、その傾向が”性格”に近いからであると思う。特定の対象に関するハウツーが功を奏する割りに、一般性の高い効率性向上の方法論は実効性に乏しい。それは、事物の主題化の仕方自体が個々人の”資質”に深く関わっているため。この、「一般的な効率性の高さ」を改善するためには、そういう一般性の高いハウツーは意味が無い。

 「解像度を上げ」ながら「常に効率性を意識する」ことは口では簡単に言えるけど、たぶん実際にやろうとしても困難を極めるだろう。だから、我々一般人が取るべき方法は実は1つしかなくて、それは「日常的な判断のレベルを上げる」事。つまり、脊髄反射的な意思決定で判断を誤る確率を下げること。そちらの方(瞬間的な意思決定の精度向上)が、一定のレベルまでは訓練が報われる度合いが大きい。経験を積めば積むほど直感が鋭くなり、初期仮説の精度が高まってくる、とかいう戦コンっぽい話とは、ここら辺で繋がってくる。

 だから、自分を変えようといくら意気込んでもそんなに意味はなく、それよりも思考の精度を上げることがより効率的で生産的な生き方に繋がる、ということだ。なんにつけても。

「ネットの作法」を学ぶ -NHKさかなクン問題に関する覚書

インターネットの進歩が声なき一般市民に大きな力を与えた。

WEB2.0と呼ばれるようになって久しいインターネット世界の特徴は、しばしばこう論じられる。

一昔前までは自らの意思を世の中に向けて発信する術を持たなかった弱い個人が、様々なソーシャルプラットフォームを活用して情報を発信していく。”その他大勢”というラベルを付けられ、ただただ埋没していた多くの個性に様々な形で光が当てられるようになったことは、確かに恩恵と言って然るべきだろう。

Twitterの登場によってこのような傾向は強まりを見せ、急激なスピードで流れる情報のうねりの中で実に多様な言葉が飛び交っている。

先日、Twitter上でNHKの公式PRアカウントがさかなクンが登場する当局の番組に関して呟いたTweetと、それに対する視聴者の反応が話題になった。

http://www.yukawanet.com/archives/3150197.html

要約すると、NHKのアカウントが「さかなクン」に対して「さん」など敬称を付けずに呼び捨てで呟いた事に対して複数のTwitterユーザーから批判を受け、謝罪に至ったという事件だ。

別にそこまで騒ぎ立てる事でもないし、クンの後にさんをつけるのは違和感がある。個人的にはそう思うのだが、これについて色々と議論が巻き起こったようだ。


本当に敬称が必要だったかどうかは置いといて、この場面を見ていて少々考えた事がある。これは、インターネット社会で情報を発信していく”旧世界の強者”が抱える課題を克明に描き出した、ある意味で象徴的な事件なんじゃないか、と。


Twwiterなんかを見ていても、これまでは情報を発信するだけだった側がユーザー側に回り、強者と弱者の間の距離はこれまでにないくらい近づいた事を実感する。企業の公式アカウントや有名な経営者に対して罵詈雑言を浴びせる個人は別に珍しくないし、彼らと一般市民のケンカも今では普通の光景になった。

これまで得る事のなかった手痛いフィードバックに急に対応しなければならなくなった彼らは、インターネット世界の「現場」に関する何の経験値もリテラシーも持たない。2chほどではないが、Twitter上でもちょっとしたつぶやきに対して脊髄反射的につっかかってくる輩は少なくない。このようにほぼリアルタイムでなされるやりとりの中で、適切なふるまいをする事がいかに困難かは、実際に痛い目を見ながら学んでいくしかない。


今回のNHKの対応は間違ったものだと思う。謝罪する必要は全くなく、なぜ敬称を略したのか、その裏にあったはずの考察を淡々と述べる事で自体を鎮静化する事が可能だったはずだ。しかし、上で述べたとおり、なんの作法も知らない彼らに正解を求める事は酷である。NHKの中の人は、物凄いスピードで広がっていく思わぬクレームの嵐に萎縮してしまったのだろう。即座に謝罪する事ぐらいしか思いつかなくてもしょうがない。コミュニケーションのスピードが速い事も、この問題を一層深刻にしている。

批判をした面々は、普段からNHKを好意的に思っていなかった人達かも知れない。そういった小さな声、ごくごく少数の外れ値でも、ダイレクトに届いてしまうのがネットの怖さである。どんな音でも拾ってしまう拡声器のようなものだ。どんなにひどいバイアスがかかっていても、それらは情報発信者の目の前に等しく現れるだろう。


旧時代の強者も、ソーシャルプラットフォームの中では単なる1ユーザーに過ぎない。彼らはこれからも痛い目を見るだろうが、それでもその中で「インターネットの作法」を学ばなければならない。彼らは、リアルで繰り広げられる熾烈な争いに生き残るためにWEBに活路を見出そうとした。しかし、ネットはネットで全く異質の厳しい生存環境に晒される事になるのだ。


彼らがネット上でも存在感を発揮し始めるのは、まだまだ先になりそうだ。

我々が我々である理由 -サイズの生物学が見据える地平

サイエンス系では言わずと知れた名著「ゾウの時間 ネズミの時間 -サイズの生物学」を読んだ。

多種多様な生物たちが何故今のような大きさと構造を持つに至ったかを、大胆な仮説と数々の実験結果を交えて説明している。

「だから彼らはそのような大きさになったのである」

著者である本川達雄氏によって繰り返し述べられるこういう記述を見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。

人智を超えたなにか大きな存在が、我々人間を含むあらゆる動植物を生物学的必然性に基づいて導いていっているかのような錯覚。進化という大きなうねりの中で、気の遠くなるほど長い年月をかけて変容し続ける生物のデザイン、そしてその適応過程は、なにか神秘性を帯びたものがある。

短い一生を生きるしかない我々人間は、その壮大さにただただ目を見張る事しかできない。



このように、マクロの生態学や生物系統樹によらず、生物の物理的デザインに注目した生物学が我々に与えてくれる啓示とは何だろう。

本書において、著者はこう言っている。

ゾウの時間 ネズミの時間」あとがき

サイズを考えるということは、ヒトというものを相対化して眺める効果がある。私たちの常識の多くは、ヒトという動物のサイズがたまたまこんなサイズだったから、そうなっているのである。その常識をなんにでもあてはめて解釈してきたのが、今までの科学であり哲学であった。哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、物理や化学は人間の目を通しての自然の解釈なのだから、人間を相対化する事はできない。生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。

そう、これは非常に重要な視点である。
人工知能の研究者達が誰よりも人間の思考プロセスを知っているように、自己自身を相対化できて初めて、ヒトは自己の深さを知るのである。


本書のこの箇所を読んでいて、あの「生物と無生物のあいだ」の中で著者である福岡氏が発した非常に印象的な問いを思い出した。

”我々人間は、何故今のような大きさでなければならなかったのか。”

彼が生命とは何かについて考え続けて達したこの問いに出会った時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。

分子生物学的な観点から、分子の揺らぎとヒトのサイズの必然性を結びつけた彼の論は、確かに本川氏の論旨とは切り口が異なる。しかし、彼ら2人が到達したこの問いは、我々が我々であることの「理由」に挑戦する非常に哲学的な問いである。


常識の壁にぶつかり、それを壊すことは難しい。我々人間は、自らの脳の中に絶対者の視点を持ち得ない。だからこそ、我々の常識の外側に広がる広大な思考空間は有意味であるし、生物学が人間を徹底的に相対化しようする学問であることの価値は大きい。


本川氏は、本書のあとがきにおいてこうも言う。

「都会人のやっていることは、はたしてヒト本来のサイズに見合ったものだろうか。」

ヒトのデザインがその生物学的必然性に強く呼応しているとしたら、我々は現在の過度に肥大した生き方そのものを、今一度見直す必要があるかもしれない。

Amazonリンク+参考記事:
ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

書評:生物と無生物の間

人工知能の限界

知識の相対化と、知への再帰性

10年後の自分へ向けたメッセージ

今週のお題

ちょっと前のエントリで既にそれに近い事書いちゃったけど・・

10年となるとまたちょっと違うかな。30代は、さすがに「大人」になる事が求められる気がするし、人間関係にも気を配らなければいけないんじゃないかな。

科学の変遷と、その表れ

トマス・クーン「科学革命の構造」を読んだ。
1962年に著されてから現代に至るまで大きな反響を呼び、科学哲学の発展に大きく寄与した、世紀の古典である。


科学の進歩とは、我々人間の叡智が自然の「真理」に累積的に近づいていく過程である。
近代の科学の発展により主流となった、科学主義と呼ばれるこの考え方を、クーンは痛烈に批判した。


科学は真理へと近づいていく活動ではなく、新たな「パラダイム」への転換を繰り返しながら非連続的に変化していく過程である。そうクーンは言う。
科学活動の大部分を占める「通常科学」の枠組みではやがて解けない問題が多数見つかるようになり、意見を異にする学説が多数出現し、既存のパラダイムに「危機」が訪れる。そして闘いに勝利した学説を基に新たなパラダイムへの移行が徐々に行われる。

彼がそれまでの科学哲学に突きつけたのは、科学は絶対ではありえず、科学者コミュニティ内の間主観的な判断の蓄積が科学の進路を決定してるという、「客観的で絶対的な科学」を信じて疑わなかったあらゆる人々にとって衝撃的な事実だった。


さて、本書を読む以前に関連書籍を何冊も読んでいた事もあって、彼の主張の大体の所は把握していたつもりだったのだが、やはり本書を丁寧に読み解く事で多くの新鮮な発見があった。

印象に残った点を挙げていけばキリがないんだけど、一つだけ書いておくと、それは科学史の表れ方についての部分。

科学者は、既存のパラダイム(理論の集合、研究の方法など)に則って自らの研究を進めていく(通常科学)。そのパラダイムに属する科学者1人1人は、若いころからこのパラダイムに沿った教育を受け、その考え方や研究方法に順応していく事で、一人前の科学者として自らの研究を効率的に進める。
ここで、教育を受ける若い研究者にとっては、自分の研究分野に激しい議論の末のパラダイム・シフトが起こった事は気付きにくく、教えられる理論集合などを当然のこととして受け止める。

それは、科学の分野における教育が他の分野と異なり、教科書に占める割合が大きいからである、とクーンは言っている。

科学の教科書の中では、一般的にその分野の過去の業績は触れられはするものの、その記述は限界まで簡略化され、その発展の歴史が一直線に流れるように進んできたという印象を与えてしまう。このような教科書を用いて学んだ若い研究者が既存のパラダイムを永久不変なもののように錯覚するのは、仕方のない事である。そして、教科書の記述がそのように簡潔なものとなるのも、紙面の制約などからこれまた当然の成り行きである。

よって、既存のパラダイムにどっぷりと浸った研究者が大量に生まれ、通常科学における「パズル解き」に邁進するのである。

クーンはこれに対して批判的なわけではない。通常科学は必要なものであり、このような錯覚は構造的に生まれざるを得ないものであると言っている。


本書の中でクーンが例示した幾つかのパラダイム移行の際の議論は、どれも生々しく激しいものであった。歴史を紐解くまでもなく、このような論争は今現在も世界中あちこちで行われている。そして、過ぎ去った過去の議論の”熱量”を後になって我々が知る手段は非常に限られている。

メディアでも書物でも、未来に伝ええない質の情報は存在するし、我々の対象についての理解を単線的で尖りのないものにする可能性を大いに孕んでいると言える。我々が持つ宿命、それは、自らが意識しないまま特定のイデオロギーに拘泥される事に甘んじるしかないという事実であり、少なくとも世界を変えるためにはそれらは不利に働くという事実である。

一次情報を取る事の重要性や現場感覚を持つ必要性が言われる事は多いが、その意味が本書を読んで初めて腑に落ちた気がする。


*ちなみに、中山茂訳の本書(みすず書房, 1971/01)では、原著出版7年後のクーンによる、40pにわたる補章が付せられており、その間に起こった議論や主な批判について、クーン本人が丁寧に答えている。誤解される事が絶えないクーンだが、この補章を読めば、彼の言わんとしている所がより明確に分かるのではないか。

科学革命の構造

記憶に残るクラシコ

伝統の一戦

この言葉には重みがある。

幾十年の歴史が積み重なり、人々の思いが交錯し、数々の栄光と挫折を通過した先にのみ、伝統は作られる。

スポーツにおける伝統の一戦は、それぞれのチームが根ざしている地域間の闘いでもある。それは文化的な文脈の上に成り立つ闘いであり、固唾をのんで見守る人々のアイデンティティを巡る闘いである。


日本であれば、野球の阪神-巨人戦が最も有名だろう。

彼らの熱狂ぶりは、周囲から見ればあまりにも理解しがたく、対象の価値と著しく乖離した何か別のものを見ているようにも思えよう。そう、彼らがその”一戦” の奥に捉えているのは、自分自身と世界との関わり方そのものであり、その熱量を客観的に捉える事は無駄な試みといえる。



スペインの首都マドリードに本拠地を置くサッカークラブチーム、レアル・マドリードリーガ・エスパニョーラ一部リーグプリメーラ・ディビシオンに所属し、リーガとUEFAチャンピオンズリーグ両方における最多優勝記録を持つクラブである。「レアル」とは王冠を意味し、そのロゴマークにも王冠が描かれている事は、世界のサッカーシーンでの彼らの王としての存在感を雄弁に物語っている。

FCバルセロナは、スペインのバルセロナに本拠を構えるクラブチームであり、リーガではレアル・マドリードに次ぐ優勝回数を誇る名門クラブである。数々のスター選手を輩出し、ヨーロッパの頂点に立つ事幾度、そのサポーターのあまりの熱狂ぶりから”クラブ以上の存在”と称される。

この2チームは、100年以上の長きに渡る対立の歴史を持ち、このクラブ同士の選手の移籍はタブーとされているほどの因縁を持つ。リーガ・エスパニョーラにおいて年に2度この両チームが激突する試合は「El Clasico」と呼ばれ、世界中で注目される頂上決戦である。

最も有名な「伝統の一戦」。


11/30(日本時間)、またこの一戦が訪れた。ここ3年間の成績では、FCバルセロナ(通称バルサ)が4連勝と大きく水をあけている。場所はバルサのホームスタジアム「カンプ・ノウ」、収容人数は10万人を誇り、このスタジアムに乗り込んでくるチームからは”魔物が棲む”と言われている。

物心ついた時からバルサを応援している自分にとっても、当然この一戦は大イベントであり、数日前から緊張と興奮が心の中で渦巻いていた。


今回も皆が寝静まった深夜にWOWOW見ながらツイッター上で大騒ぎしていたんだが、ここまで圧倒的な試合運びだったのは、最近で自分が覚えている限り他に1試合しかない。それだけ圧倒的だった。

2000 年代後半のサッカー史はまさにバルサの時代と言ってよく、世界最強クラブと呼ぶことを誰も躊躇しない。そんな中で、さらにホームの試合でもあったので期待はしていたんだけど、今シーズン新たに指揮をとっているモウリーニョ監督のもとで久しぶりに首位をひた走っていたレアルとの激突は、まったく結果の予想できない一戦であった。

そんな経緯があったからこそ、この結果は記録以上に記憶にこそ残る大勝であったし、バルサファンが歓喜する理由なのである。

終始ボールを支配し、芸術の域に達するパス回しを見せつけ、GKカシーリャスに強烈なシュートを浴びせ続けたバルサイレブンは、もはや別次元のフットボールをしていたと言っていい。

今まで数々のクラシコを見てきて、強烈に記憶に残っている試合は幾つかある。5年前にサンチャゴ・ベルナベウでレアルサポーターからスタンディング・オーべーションを受けたロナウジーニョ。ブラウン管を通してあの光景を見た感動もまた忘れられないが、今回の試合も、涙なしには見られない、一生涯忘れ得ない一戦となった。

解説として現地に赴いていた岡田監督はこう言った。「これはもう未来のサッカー。指導者として、感動というよりショックだった」

試合後、イムノが響き渡るカンプノウを見ながら、自分にとっての特別な1日がまた一つ増えたという事実を、1人噛みしめた。