人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり

慶應卒、山陰在住、一人暮らしニートの戯れ言

地方と都市部の分断もそうだけど、日本の社会は「世代」で大きく分断している気がする

先日、筆者は山陰を離れて東京で新たな生活を始めた。

幸いネッ友リア友問わず遊びのお誘いをたくさん頂いており、求職活動の準備と合わせて年明けまでの予定が全て埋まるくらい忙しい師走を送っている。ありがたい限りだ。

 

で、今日の話題は、「ジェネレーションギャップ」の話。

 

この間ゲー垢のTwitterのフォロワーの都立高校生が、学校で東京オリンピックの都市ボランティア募集のプリントを配られて、先生に「名前を書いて出してねー」と言われた、というツイートをしてて、案の定一瞬でバズってクソリプをたくさん頂いていた。

筆者は彼女がどのような状況でプリントをもらったのかが分からない(強制的なニュアンスがあったのか否か)し、プリントで募集されていたのは「都市ボランティア」であって、待遇面などで多くの批判を集めていた「大会ボランティア」とは別物なので、ボランティアの強制があったみたいな批判は避ける。

が、この案件でゲーム界隈のフォロワーとのやり取りをしていて確信したことがあったので、今日はこれをシェアして寝ることにする。

 

まず印象的だったのは、「ボランティアの募集などを取り仕切っている偉い人の世代が、そもそもボランティア活動が身近で親和性が高い」という意見。

私の周囲でドラマのエキストラや災害ボランティアなど、手弁当で自分の報酬のない社会貢献活動積極的に参加している知人は、ちょうど60-65歳で仕事を引退したくらいの世代が男女とも多い印象を受ける。

また、今の40代くらいの部長課長クラスの働き盛り世代が大学生の頃は、阪神淡路大震災が起きてボランティア元年と言われた時期なので、おそらくボランティア活動にはそれなりにポジティブな印象を持っているはずだ。

そんなんで、上の世代にはボランティアに参加するということにあまり抵抗がないんだと思う。事実、先日、ラグビーワールドカップのボランティアの面接に行くと、若者3割主婦5割老人2割、みたいな印象だった。

 

一方で、それを言っていたゲ垢のフォロワーは、若い人は「自分に利益がないことには積極的になれない」からこそ、こういう時消極的なんじゃないかという指摘をしていた。

事実、別の知り合いは常々「お金の発生しない仕事に責任は伴わない」という持論を展開しているし、筆者も「今の若い世代はやることに明確な対価(ほとんどの場合金銭的な)を求める傾向がある」と考えている。

残業やブラック企業、働き方にシビアなのはこの辺りから来てるだろうという想像は容易いし、

このような考え方の若者が(少なくともネット上では)多数派である限り、ボランティアでわずかな報酬でやりがいだけでいろいろやってくださいというのは相容れないのだろう。

 

他にも、若者の価値観が一回り二回り上の世代と相容れないことで隔絶が見られることはいくつか思い付く。

例えば、仕事に関する考え方とか。終身雇用が当たり前の上の世代と、スキルを身に付けつつ、行き詰まりを感じたら転職を繰り返す事を厭わない今の若い世代の価値観の違いは本当に大きいと思う、それに適応できないと企業は経営できないと思うし、

恋愛や結婚の価値観が変わっているというのは統計的な調査結果が出ている。全体的に日本の経済がじり貧になっていて結婚して家庭を持つことが比較的難しくなっていることを差し引いても、「恋愛はコスパ悪い」というパワーワードに代表されるような、ゲームやスポーツ観戦などと同列に「恋愛」を「娯楽」として捉え、「費用対効果が悪い」という理屈で恋愛離れやセックス離れが進んでいる現実は上の世代からしたら考えづらいことだろう。

 

ジェネレーションギャップって言葉で片付けるとそれは便利すぎるのだけれども、

上の世代の考え方が理解できない、だからこそ生き方が行き詰まる、ということは多いのではないだろうか、と筆者はとても思う。

没個性の日常がこの国を支配するとしたら

私事ながら、筆者は近々山陰を離れることになった。

持病の治療や求職活動をするのに、知り合いがいなくて職も少ないこの環境はあまりにも不利だと考えたからだ。

 

やり残したことはないか、と思い、一通り周辺の観光もして満足したのが10月の終わり。

11月は持病もあって午前中は寝て過ごし、夕方からのアルバイトをこなすみたいな日々が続いた。

 

そんな今日、名物の蕎麦を食べてブラブラ自転車を漕いでいて、自分に物凄く悲しくなった出来事があった。

観光名所のお堀の遊覧船や、お城の公園の紅葉は全く視界に入ってこないのに、

全国チェーンの飲食店やリサイクルショップ、コンビニ、ショッピングモールのような、没個性的なお店ばかりに引き寄せれる自分がいた。

 

思えば、2年弱の山陰生活の中で、自分が所謂「観光名所」だったり「地元の名店」であったりする場所に惹き付けられる時間よりも、

全国チェーンやロードサイドに奪われる時間の方が長かった。

お城の何倍もイオンにいた。

蕎麦の何倍もマックでご飯を食べた。

前に何回か書いているけど、筆者はそのような没個性をかつては否定する側の人間だったからこそ、

自分の変貌に本当に驚いている。

 

そして、地方に住んでいる人間は、だんだんとそういう価値観になっていくこと、侵食されていくこと。それは「意思を持った」移住者ではない、「仕事を求めて」地方に移住した若者であったり、都会から地方に戻ってきた若者からは、本当に感じられることだ。

 

県外の観光名所よりイオンなのだ。

地元の珈琲の名店よりもコメダなのだ。

名産の蕎麦よりも二郎系ラーメンなのだ。

 

そして、かつての日本人が営んだ生活の跡、脱け殻の感傷的な様子に、「エモい」という便利な言葉をつけた。

筆者はエモいって言葉を使うこと自体に否定的ではないが、

かつての日本人だったら何ともなく見過ごしていた共有の感覚が、今の若者は遠巻きに他人事として眺めながら、非日常のひとつとしてそれを言語化するしか術がなくなっているのだ。

筆者にとっては、県外で観光名所を見たり、お城の公園で花見をしたり、蕎麦を食べたり、有名な純喫茶に行くことは「非日常」の「エモい」ことだ。日常とは切り離されている。

 

地方に住んでて感じるようになったこの「没個性の日常」が、少なくとも自分を取り巻いている。そうだとしたら、

観光地に住んでも、非日常は非日常のまま、「エモさ」として残っていくのだろう。

 

だとしたら、地元のお店に目もくれず、チェーン店に固執する姿も、そうなのかな、ということだ。

米津玄師とかいう、「ネットインキャ」の寵児

※本投稿には米津玄師さんへの攻撃的な言葉を使った批評が含まれます。予めご承知の上お読み進めください。

 

最近ネットを見ていて「米津玄師」の名前を見ない日がない。

もともとボーカロイドの有名P「ハチ」として活動していた男性アーティストで、

特にインターネットに触れる機会の多い若者に熱狂的な支持を集める一方、

マスメディアへの露出が極端に少なく(CMソングにはなったりしてるけど)、音楽番組なんかにも全然出てこないので一般の認知度は今一つ、という、

いかにも今時のアーティストだ。

 

筆者はわりと米津玄師の曲は嫌いではない。リズムや旋律がいい意味でボカロっぽい(激しい上下動とビートが特徴)上、それを歌い上げる天才的な歌唱力を持ち、

歌詞もこう、今時の若い人の心を突き刺す鋭さがある(これこそ彼の最大の欠点であるが)。

 

だが、正直彼は所詮「Twitter民」(あえてネット民と書かない)による過大評価アーティストだよな、とすごく思う。

理由は明快、彼から滲み出る「根暗インキャ」感だ。

 

彼は、もともとネットが主戦場のアーティスト。公の場にあまり姿を表さない根っからのメディア嫌いだ。先だって紅白歌合戦への不出場が決まったが、ネットでの注目度が本物なら若者の率が取れる米津にオファーがないはずがないわけで、おそらく出演を断ったのではと筆者は踏んでいる。

MVでもダンスが上手かったり菅田将暉やらなんやらとコラボしてたりするけど、ほとんど自分の顔が前面に出てくることはない。どっちかというと中二病サブカル感の強い出で立ちや演出で出てくる(もちろん米津ファンは彼のそういうところに惹かれるんだろうが)。

先ほど触れた歌詞が若者の心をくすぐるというのも、どちらかというと「学生時代は教室の隅っこにいて、青春が全くなかったわけではないけど、全体的には冴えなかった思い出がある」みたいなタイプにピンポイントで受けるような、そんな曲が多い。

 

そんな彼のスタイルが、「マスコミを信じない」「見た目にも自分の生活にもそこまで自信がない」「インターネットが身近な」今時の若い世代、特にTwitterにいるような層(Instagramでも2ちゃんねるでもなく、Twitterにいる「ネットインキャ」)の共感を呼ぶのだろう。

 

米津玄師に共感を覚える層は少なくないし、現に筆者も曲をよくリピートしている(Lemon・ピースサイン・春雷辺りがすき)身だが、その層は社会では人口は多くてもカーストでは上に立てない身分。学校ではKポップやWANIWAを聞いている人の方が華やかで偉いわけで、オタクは所詮彼らには勝てないってのは米津玄師を過信してるオタクに言いたい一言だ。

一生保守的な生き方をするなら、田舎に生まれるのもアドバンテージなのかもしれないけど

先日、島根の知人と話し込む機会があり、「東京に帰る実家があるのが妬ましい。羨ましい、じゃない。妬ましい」という言葉を頂戴した。

実際に地方に住んでみて、あるいは東京のでかい大学で地方出身勢の話を聞いてみて、それはすごくそうだと感じる。

首都圏、ことさら東京に生まれた、ということは「生まれ持った才能の一つだよ」と彼は言うが、実際にその通りだと思う。

その理由について今さら触れる必要はないだろう。これまでこのブログで書いてきたこと、全てが当てはまる。

 

一方で、、地方民が都会で育つ運命に恵まれず、地方で生まれ育つことのメリットって果たしてあるんか、と考えたときに、

決して何一つない、ということはないと思う。

 

例えば、、、

大学進学が経済的にも可能な中流家庭に育った場合、

地方だと競争が激しくないので、高校受験も上位3分の1に入れていればトップ校に入れるし、

トップ校でも上位4割以内にいれば地元の大学には入ることは難しくないだろう(県外の旧帝大に入るなら別だが)

基本的に田舎だと地元の「駅弁大学」(不快に思われたら申し訳ないが)でもトップエリートな訳で、公務員なんかになっちゃえば安泰だし、

うまく地元の経済界のドロドロした世界にゴマすって取り入れば、地方政治の舞台に立つことだってできるだろう。

 

極端な話、公立中学で300人中100番目くらいのほどほどな成績でも、

地元で一生を過ごすなら、田舎ではトップレベルに安定した地位を保てるのだ。

 

都会じゃそうはいかない。

エリートの中高一貫校出身者が東大や早慶、医学部の過半数を占め、

残りのわずかな一角に中堅どころの一貫校、公立上がりでもトップ層1割に入るかどうかのエリートでパイを争っている。

東京生まれの人間が人生のゴールを「大企業や中央省庁の出世争い」というトップクラスに設定してしまうと、その中では激しい競争に巻き込まれてしまう。

島根では鼻高々な人生を送れるような実力でも、東京だったらMARCHくらいに入れたら御の字、それも厳しいだろう。

 

東京の競争に巻き込まれず、まったり暮らしたい保守的な生き方をするなら、田舎だったら楽だな、という結論にはなるのだが、

前述の彼はそれでは満たされず、東京に出たいと繰り返している。

気持ちはわかる、東京はすごいところだ、応援したい

大阪住み独身呑兵衛男子「まだ東京で疲弊してるの?」

先日、高卒2年目で全国転勤のある仕事をしてる首都圏出身のネッ友が「東京で暮らすのは疲れる、けどど田舎は娯楽がなくて死んじゃう、転職したら大阪で仕事探したい」と言っていた。

彼の住んでるのは青森県の人口7万くらいの小都市で、買い物に行ったちゲーセンに行ったりという彼の欲求を満たすのに、時間・経済的コストがかかる上にそういった施設が少ないという、「田舎で満たされない」悩みを抱えていた。

他方、彼は東京での生活に多少の息苦しさを感じていて、だからこそそれなりに質のいい生活ができる大阪に活路を求めたいようだ。

 

先日三重に用事があったわたしは、帰りに大阪に立ち寄って大阪在住の先輩にこの話をすると、先輩は膝を打っていた。

曰く、「大阪という町は、田舎暮らしをするより娯楽やものが揃い、かつ東京で暮らすよりのびのびと経済的に暮らせる、魅力的な街」なんだそうだ。

 

まず、大阪の魅力その一は、それなりの規模の街ながら、東京のような息苦しさがないこと。

人生のフェーズに「成長」や「競争」を意識する人が集まってくる東京は、優秀な人と交流できる機会は多いけれど、弱肉強食でストレスもかかるところだ。

それを求めず、まったり隠居しながら過ごすには適しているだろう。

 

その上で、大阪は地方都市なれど全国二番目の大都市、大きな経済圏を持つジモティー・外国人を含めた観光客・買い物や進学などで訪れる地方民・単身赴任や出張で来るビジネスマンなどで賑やかな街だ。

娯楽や日々の生活に何を求めるかにもよるが、東京で暮らすことよりさほど生活の質を落とさずに済むだろう。何より地方民からしたら天国に思える。

 

そして、何よりも「独身男性にとって」大阪は楽園みたいなところである。安酒とつまみで1500円くらいでべろべろになれるかと思えば、満足度の高い高級焼肉を一人3000円で食べれたりする。先輩曰く「大阪は治外法権がある」ので生肉刺しが平気でおいてあったりする(「治外法権」なのでタバコのマナーとか最悪だけど)。かの有名な飛田新地や、料亭街の北新地など、高級なナイトライフも充実している。また、自炊生活をするのにも東京より物価はずっと安く、商店街の八百屋だと地方都市より安価に手に入るものも多い。居心地がよすぎて駄目になりそうな街なのだ。

 

ということで、その先輩のお気に入りの単語は、「地方創生イキリオタク」ことイケダハヤト先生の「まだ東京で疲弊してるの?」である。イケダ先生のように高知の山奥に住むのは魅力的に映らんでも、独身貴族が大阪に住んでダメ人間になるのはありなんじゃないかな、と思うな。

数年前までスルガ銀行は銀行界の優等生って風潮あったよな

久々に書く記事は時事ネタから。

 

昨日クローズアップ現代で、巷で話題のスルガ銀行の不正融資問題が取り上げられていた。

正直このニュースを見るのはわりとうんざりなのである。理由はいくつかあるんだけど。

 

まず一つは単純に感情論。筆者の親の実家はスルガ銀行が拠点を構える静岡県沼津市。東京からさほど離れておらず、最近はアニメ「ラブライブサンシャイン」の聖地にもなっていて、漁業やそれを生かした観光も盛んな地方都市であり、少なくとも年に数回観光気分で帰省する分には居心地のいい町だ。そんな沼津を代表する企業であると同時に、引責辞任した前の経営者が慶應OBでSFCの創設や発展に大きく貢献してくれた方という事で、これは贔屓せざるを得ない。後述するように先進的なサービスもユーザーではないが魅力的に映ったし。そんな、「企業イメージがよかった」会社がこの体たらくときてるもんで、悲しい気分になる。

 

もうひとつ。スルガ銀行はこの問題の発覚前は先進的なサービスや融資で「地方銀行の優等生」と言われてた記憶がある。それこそ、日経ビジネスだか東洋経済だかに、大々的に特集が組まれてたはず。コンビニでの手数料負担やらネットバンキングやらの実用的なところから、確か宝くじのチケットがついた定期預金みたいなサービスもあった気がした。それが今回明らかになった不正の問題と、営業マンへの恫喝の数々。そしてそれに対するマスコミのえげつなさ。普段あんまりマスコミ批判しない筆者だが、今回の手のひらの返し方にはうんざりだ。こうなったら世論が許さないだろう。

 

でもさ、思うんだけどさ、いろんなところで地方銀行の経営が厳しくなってるなかで、こんなこと氷山の一角だと思うのは筆者だけなんだろうか。「優等生」だったはずのスルガ銀行でこれなら、この先同じような事例絶対出てくると思うんだよなぁ。いや金融業界詳しくないけどさ。

 

「SFC生はレールから外れてる」は、半分ほんとで半分嘘

先日、TwitterSFC出身の学生が「レールから外れた」人生についていろいろと議論していた。

そもそも「レールに敷かれた人生」って何か、という定義から始まりそうな話だが、

結論から言うと「確かにエリートの本流のコースからは外れてるかもしれないけど、十分道からは外れてないんじゃないかな」とは思うのだ。

 

まず、議論の論点からおさらいすると、

先日、SFC在学中の幼稚舎上がりの大学生が大麻かなんかで捕まったところから議論が始まった気がする。

で、どっかで、卒業後フリーランスという名のニートしてる人(違うかもしれない)の発言かなんかが発端で、「SFCはレールに敷かれていない人が多い」って話になり、

それとは別に、スクールカーストの上位だった奴が大手企業から独立したことを表明するツイートをしたのも油を注いだ。

 

ここから導き出したぼくの仮説は、

今のSFC生は、「大手企業なり、イケイケのベンチャーなりか知らんけど、そこで守ってくれる存在を捨てて自分で食べていくしかない状況に追い込まれる」ことを「レールから外れる」と定義する

ということなんじゃないかなって思った。

もっと雑な言い方をすると、「転職したり独立したりしたら、それはアウトローだ」と宣言してるみたいなもんだ。

 

こんな風潮があるのは、とても幻滅することだと思う。

 

真逆のベクトルから、なぜこれがショッキングかということを述べていく。

 

まず、SFC生スピリッツ、みたいな意識高い話をすると、

正直、SFC生と言えば起業家精神、みたいな風潮は以前からあったことだと思うが、

今ある環境を捨てて独立することを「道を外す」みたいな卑屈な言い方をする

これは昔のOBが見たらすごく残念だと思う。

何より、それは「道を外した」ことじゃない、苦学生で在学中に闇金に手を出して裏社会に入った、みたいな人たちに大変失礼である。

 

一方で、「そんなアウトローさ」にある種の中二病で希少価値を見出だそうとカッコつけてる奴らにも寒気がする。

SFCに来る奴らは、エリートの本流の家庭に生まれた人も多いと思うので、

基本的に道筋に従って変なことをしなければ成功は約束されているだろう。

にも関わらず、あいつらは「カッコつけたい」がために、「転職する自分」「起業する自分」を演出する。

 

ぼくはゲームのアカウントで他大だったり高卒の人と接点あるけど、

今どき、ホワイトカラーの四大卒の学生で転職を経験しない奴らなんてほとんどいないだろうし、

おそらく慶應生が最も見下すであろう、地方の頭の悪い土木のDQNだって、自分の事務所を持ってたら立派な経営者だし、

そもそも「転職経験」って全然珍しくないから売りにならないと思うんだよね。起業経験はまだしも。

 

だから、あの議論を見ていて、彼らは何に価値を見出だしたいのかさっぱりわからなかった。

 

 

ただ、、ぼくがこれはあるな、って思ったのは、

転職だったり退職休職って「自分で自分の人生を変える大きな決断をする」ことじゃない。

それができるというのは、自分にとっては大きな価値のあることだな、ってのは思った。

ただ、それはあくまで「自分の財産」にはなるけど、「他人に自慢する」ことではないのかな、という。

そこを履き違えた議論はしたくないよね、って、思うね。