弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

17回目の引越し

いろんなこと忘れて生きてる、と思う。つい最近引越しをして、積み上げられた段ボールを見ていたら、ものすごい既視感に襲われた。はていったいこれまで何度引っ越しをしたんだろうと指折り数えたら17回。一人暮らししてる間に実家が移動した数を加えたら20回くらい? なんでか3年くらいたつと、ひとところにいること自体が落ち着かなくなる。一方で、体は急激な環境の変化を嫌って重たくなる。

 

自分の座標をずらしたくなってくる感覚は、季節の移り変わりにも似ている。といっても、今回の引越しは単に部屋が手狭になってきたことが主な理由だったくらいで、他になんの不満もなかった。

 

ただ、より広い部屋への憧れはあった。京都へ引っ越してきて以来、自分がより好きな環境がどんなものか、何度も足を運んだカフェの立地や旅先で予約しがちな旅館のたたずまい、そういった好みを羅列していくことで、「つまりはこういう場所に住みたいのだ。そしてこういうことがしたいのだ」と言葉に置き換える作業がちょうど一周したころだった。

 

ある日の朝方、夫との散歩中に「そう、つまりはこのマンションのあの階のあの部屋がいいの」と指差したその部屋には、ピンク色のカーテンがなびいてた。あまり立地を描写すると住所の特定が簡単な場所なので控えるとして、とにかくわたしの好みも希望もすべてが揃った物件だった。とにかく好立地。いまの家も好立地だがさらにさらに好立地(わたし的に)。

 

「でもあの部屋には人が住んでるね」

 

そういう夫に「空いたら住んでみたい?」と聞くと、「そりゃあの部屋なら最高だよ」という。家賃は今より上がるし、移動にはそれなりのリスクもあるけど、それ以上に素敵な未来が待っていると思った。

 

よし、話は決まりだ。わたしはさっそく、いつもの神社へ行った。そして宣言した。

 

わたしはあの部屋に住んで、こういうことをして、こうなります。

 

と。お願いではない。宣言である。なんでかこのとき、「たぶんわたしがこうすると決めたら、あの部屋は空くだろう」というポジティブというよりはほとんどチンピラみたいな思考が働いていた。でもそれくらい自然にみえてたのである。あの部屋であんなことやこんなことをしている自分の姿が。あとは決めるだけでいいのだ。腹を。

 

翌日、いつものように夫と散歩しながら、「なんか空いてる気がする」「まさかあ」と話しながらそのマンションへ歩いて行った。昨日の今日である。さすがのわたしも「いきなり空いてたらすごいな」くらいは思ってた。そしたら案の定、その部屋は空いてたのだ。昨日きたときは確かにピンクのカーテンがかかってた。でも今はカーテンそのものがかかっていない。念のためあらゆる角度から確認したが、明らかにもぬけのからである。

 

さっそく不動産に連絡すると、びっくりされた。

 

「えっと。。。昨夜空いたばかりの部屋で、まだ中も掃除されてませんし、家賃も決まってないんですが。。。というか、どこで空いたこと知ったんですか?」

 

早速内見させてもらうと、想像通りの部屋だった。日当たりよし、眺めよし、静かで、広い。上京以来、もっとも広い部屋だ。夫も満足。

 

「いやあ、ウン10年この仕事してますけど、この立地のなかでこの眺めの部屋があいたのって初めてですよ。。。」と、ふくよかな笑顔でぴっかり笑う不動産やさん。

 

家賃はちょい強気に交渉して、あっさり契約はすんだ。

 

今その部屋でこれを書いている。引越してそろそろ一週間。まだ慣れない。わたしはすっかり忘れていた。昔からそうなのだが、わたしは引っ越すとしばらく“引越し酔い”になる。体が環境に慣れずにびっくりして、目がまわったみたいになる。でも同時に、経験ですぐ慣れることも知ってる。つまり、あらゆることを忘れて生きている自分の心と体をよく知ってる。

 

いつもの神社には、改めての挨拶にお酒とおまんじゅうをお供えした。そういえば、京都で初めて住んだ家も、この神社で「わたし、この辺の子になります!」宣言した直後に見つけたのだった。ここの神さんとはよく話をする。こないだは初めて喧嘩もした。つまりわたしはここの神さんが好きなのだ。無性に。なぜだかよくわからない。

 

というか、その理由を忘れて生きてるから、いまここにいるという気がするのだ。

 

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「アーヤってまめさんですよね?」

✳︎スタジオジブリ新作「アーヤと魔女」が今夜19時半〜放送

 

 

 

「あ、世の中にはこんな面白い人がいるんだ」

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たぶん私の人生で、最も衝撃だったのが、「まめさん」との出会いだと思う。

「まめさん」とは、鈴木家の長女。「耳を澄ませば」のカントリーロードの歌詞を書いた人(当時中学生!)でもある。

まめさんは、何事にも非常〜に具体的な人だ。

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例えば私が以前、「なんか昔から、目上の人に強く当たられがちで悩んでる」といったとき、彼女はすっぱりと

「そりゃ弥恵ちゃんは生意気顔だからねー!私もそうだからさ。自分から繊細アピールしといたほうが楽だよ」

と一言。まさか顔に原因があると思わなかったから、これには目からうろこだった。

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まめさんが小学生のころ、鈴木家は引越しを検討したことがあった。友人の面倒見がとてもいいまめさんは、

「たくさんの友達の集合場所を担っていた我が家が、引っ越すなんて!」と大反対。なんと、

家の電話をぶっこわしたという。(結果、引越しは中止)

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ちなみに私がまめさんを大好きになったエピソードをもうひとつ。

鈴木家に出入りしはじめたとき、お土産に「ぬれ煎餅」を持っていったことがあった。

しょっちゅうごちそうになっていたわりに、当時あまりお金を持っていなくて、苦し紛れに買っていったものだった。

まめさんはそれを見て一言「私これ嫌い、いらないよ」。

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お土産に「嫌い」とはっきり言える人をはじめてみた。この人はなんて率直な人なんだ!!

誰でもお土産には気を使う、特にもらうほうは。私なら、例えば嫌いなメロンを頂いても笑顔で頂いてしまう。

その瞬間、「あ。いらないものはいらないって言って良いんだ」と学んだのだった。

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まめさんエピソードは書いたらきりがない。息子さんが小学生に上がったばかりのころは

「わたし人見知りだからさー、保護者がたむろしてる廊下でずっとスマホ見てる!」なんて言ってたのに、

いまでは息子さんのお友達やそのご家族をおうちに呼んで楽しそうに遊んでいる。

FBにはいつも楽しそうな写真が上がっていて、テーブルにはまめさんが料理教室で学んだ料理が並んでいる。

苦手な「ママ友付き合い」を、自分なりに得意な分野で楽しんでいくのがまめさんだ。

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まめさんはとにかく何事も前向きに、かつ自分の創意工夫を凝らして

自分のフィールドに持ち込んで楽しんでいく人なのだ。

そのうえで、できないことはしないしやらない人だ。とてもはっきりしてる。

なんというか、戦時下でもしぶとく、かつ聡明に生き抜くような人。

自分の頭でしっかり考えて実践する人だ。

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まめさんはいつも人の相談を受けている。私もどれだけの相談をしてきたかわからない。

これだけ具体的ではっきりした人なのに、人の痛みにとても敏感で優しい人なのだ。

誰にも打ち明けられなかった悩みに、一緒に涙してくれたこともある。

どんな悩みも「まめさんになら」と思って話せてしまうのは、

まめさんが人をジャッジメントしない人だからだと思う。鈴木家親子はそういうところが似てる。

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前置きが長くなってしまった。そんなまめさんに、あるとき

「見て欲しい作品がある、まだ制作段階なんだけど、私とスタッフで声を当てるから、感想をほしい」と呼ばれて

見た作品が「アーヤと魔女」だった。

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私の感想はふたつで、

「いままでジブリにいなかったヒロイン、かつ新しい時代の主人公ですね!!!」

そして

「・・・アーヤってまめさんですよね?笑」

だった。笑

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そして私は、アーヤの制作にまめさんが関わっている理由を一瞬で理解したのである。

バチェロレッテがとっても面白かったので

バチェロレッテを観た。や、バチェラーシリーズは全部見てたんだけど、や、どれも楽しかったんですけども。も〜萌子さん見てて楽しくて、久々リアリティーショーにハマりました。笑 

 

以下、7話までのネタバレなのでご注意。

そして見ていて感じたことをつらつら書いて整理してみる。

 

※あくまで私が、ご本人たちに思いを「投影して」書いたものです。私は、作品などをみて感じる「感想」とは、作品に触れることによって引出される「自分」を語っている、と解釈しているので、あくまで私を語る文章と思って読んでいただけるとありがたいです。

 

 

 

 

 

 

まず黄皓さん、声が好き。そして、見ていてほんのり切なくなる。これまで、いろんな偏見と戦ってこられて、それらに打ち勝つために底知れぬ努力をされたんだろうな。鍛え上げられた身体や、スマートな会話やマナーは、彼自身の努力の賜物であり、身を守るために身につけた鎧でもあるように見えた。私はこのところ、仕事で直接人前に出る機会が減ったので、マナーにあまり自信がなく(笑)この方の身の整え方はとても勉強になる。(割り込むときにグラスでかちん、はよかったなー)

 

一方で、努力をする人が、例えば「努力でどうにかなるものをどうにもせず、現状維持、または愚痴ばかり」みたいな他人の態度を前にしたら、ひどく怠惰に見えるだろうし、許せない思いも生まれるものなんじゃないかとも思った。

 

だから、「なぜ努力しないの?」「最前を尽くそうとしないの?」という問いを、常にご自身に投げかけ、同時に周囲にも投げかけてるんじゃないか。男性陣のみの会話のなかで見られるツンケンした態度は、彼自身が内外に向けている真摯な問いかけでもあるんだろうな、と勝手に解釈して見てた。

 

そこへいくと、萌子さんは黄皓さんに、自分の経てきたプロセスを見ているだろうなと思った。ただ、萌子さんはそこから一歩踏み出しているようにも見受ける。偏見と闘い、争いながらも、あくまで向き合う相手は自分自身、というとんでもなく研ぎ澄まされた(それはもう禅のような)スピリットを感じる。

 

まあ、画面には対男性しか出てこないわけで、同性同士で争うシチュエーションを見てないからわからないんだけど、少なくとも萌子さんは、スポーツに対して「コンプレックスの克服」というベクトルがないか、もしくはある地点で溶けていって、純粋に楽しみたい、この楽しさをシェアしたい、という思いが溢れているように感じる。

 

だから、自分に「努力しよう」という問いかけがそれほど強くないし、同時に周囲にも向けていない。もしくは、過去そうだったけど今は緩まってきてらっしゃるのか、わからないけれど。

 

ちょっと話が逸れるんだけど、萌子さんのスポーツマンシップ(?)が愛に溢れているのは、彼女がトライアスロンやランを通して、対話している相手が自然だからだろうなあと感じる。

 

(インスタのストーリーで、大雨の屋久島にて、豆腐岩をランしている姿を拝見したんですが、空身のトレランとはいえあんなに笑顔で走れる体力と精神力に惚れました。。。時期的にヒルやばかったのでは。。。私はヒルに食われたまま一心に歩き続ける謎の精神力は持ってるんだけど、他者へ向ける笑顔はなかったな〜萌子さんの内外にエネルギーが放出してるバランス、すごく好きだ)

 

台北で男性陣をランニングに誘ったとき、「朝日が見えるこの時間が最高に好き!」とはねる萌子さんを見てたら、強烈に共感するものが自分のなかに湧いたわけです。

 

旅先で、朝日を見ながら体を動かすって、最高にスペシャルで気持ちのいい時間だと思う。私は京都に引っ越してから、登山の頻度がかなり減ったのだけど、20代、旅先で登り続けた山の、あの朝日をあびて変化していく山や森のなかをわけいり、群青から桃色に、やがて黄金に染まりゆく世界を見渡すと、途方もうないほどに命が肯定されるんだよね。

 

わかるよー萌子さん、と思った。萌子さんはきっと、世界中を旅してあらゆる景色や仲間に、スポーツを通してダイブしながら、あらゆるものといかにつながるかを模索して、ご自身の内側にある痛みも惑いも溶かしてきたんじゃないかなあ。まあ、自分がそうだったからこれは投影でしかないのだけどね。

 

ただ、萌子さんが、どんな展開がきてもローズセレモニーでは完璧にメンタルを整えて相手と向き合おうとするあたり、あの溢れる自信と肯定感が、周りを打ち消すことなく暖かく包めるのは、一種のアニミズムの感性を全身を通して体感してこられた方の態度だなあと、惚れ惚れしながら見ちゃうわけです。「私もこんなふうになりたいなあ」と胸をときめかせながら。

 

だから、杉ちゃんははじめっからアニミズムだなと思う。過去、好きな人にプレゼントをしたら「ブランドものがいい」と振られた過去を「それもあるんだね」と肯定する感じから察するに、縄文ぽいなと思った。争わない、みんなでお祭りしよう、それぞれの表現を肯定しながら持ち寄ろう、だって草花はそのように生きてるもの、っていう、物事に正否を持たない感覚。

 

多彩な土器を作ってこられたDNAをお持ちというか。(余談だけど、私の三重の友人知人にも、ああいう朗らかさ持った人がとても多い)(あとまあここでいう縄文=あくまでユートピア的に理想した縄文て意味です。実は縄文時代が戦争しまくりの歴史的事実がでてきたらごめん笑)

 

翻って黄皓さんからは、ストイックにジムで自分を鍛える、時には鏡にうつった誰かと自分を比較しながら・・・という、懸命さ、同時に少しの切なさを、垣間見てしまう。でもこれは、多くの人が共感する感情なんだよね。他人との比較のなかから逸脱したい、でもその一歩がわからない、だから必死で努力する。

 

本当は、たぶん出演者のなかでも誰より、視聴者からの共感を得る感情や感覚をお持ちなんだと思うけど、それを曝け出す、という感覚は持ってない気がする(良くも悪くも、残っていく出演者には“曝け出した方がいい”って感覚があるんだよね)。つまり自分を表現したいんじゃない、あくまで勝負しにきている、というストレートな意気込みを感じて好きです。

 

それ以前に、自分がその場にいる、存在していることをしっかり一歩一歩踏み締めていくことを、とても大事なステップと捉えてらっしゃるんだろうな。と思う。だから本当に僭越ながら、心で小さくエールを送りたくなるよね、黄皓さん。というか、私のなかの黄皓さんなんだけど、もはや笑

 

自分が本来持っている形に磨きをかけて、理想に近づけたい黄皓さん。方や、本来持っている形がなんなのか、ひたすら磨きながらそれ自体を探りたい杉ちゃん。

 

で、この2つの問いが、収録時点での萌子さんの、ご自身への問いかけなのかもしれないなと感じる。つまり萌子さんのなかにこうこうさんと杉ちゃんの二人がいる。例えば少女漫画が必ず三角関係の展開を迎えるのって、あれは主人公の成長ステップのなかで、分離した二人の自分と相対しながら、どちらも肯定して受け入れていくために必要なプロセスだからそうなるんだと思ってるんだけど、萌子さんは根底に成長したい!っていう気持ちを強くお持ちだからか、自分のなかに二人いる自分のどちらかを選んで、成長のプロセスを消化させる形に、展開が進んでいったなあなんて思うわけです。

 

そして視聴者としては、さらにこの三人のいずれも自分のなかにいるなあと思いながら、楽しんで見ているわけです。だからなんか、ほんと見ていて愛おしい。いやあ、久しぶりにリアリティショーを楽しく見てます。どちらが選ばれても、泣いちゃうなあ。そして序盤から杉ちゃんばかり応援してたので杉ちゃんのことばっか書くかと思ったら違う方に筆が走ったな。。笑

 

そして私、萌子さん好きだなー。萌子さん見てると、本当にスポーツしたくなるんだよね。久々に夫婦で登山計画立てたよ。

 

さらに余談だけど、7話のラストで萌子さんが杉ちゃん抱きしめたのは、(編集で演出されたような)他意はないと思うんだよなー。というわけで、とっても身勝手に書いてみました。しかし、映画や小説、漫画などと違って、リアリティーショーの感想を書くのは、非常に大変な作業だと思いました。

 

作品は生身の人間の生き様を、あくまで作品を通して触れるわけだから、作者に対してではなくあくまで作品に対しての感想をもてる。でもリアリティーショーはその1枚ガラスがないので、下手すると一人の人格を直接触りかねないとも思いました。だからこそ、1枚の愛情ガラスを持ち寄って感想を言いたい、そういう作品ですね、リアリティーショーって、と思います。

 

 

お月さまとぽこちゃん

窓の外にみかん色の満月が、東山の向こうから登ってくるのが見えた。「いま琵琶湖あたり、きれいだろうねえ」なんていいながら、夫と夜の散歩に出た。オンラインで一通り仕事を終えたばかりの夫は、しゃべるのも早いし歩くのも早い。

 

私は先日、散歩中に土手でジャンプして捻挫したばかりで、歩くのに時間がかかる。わざわざいわんでも、夫はハタと我にかえって、ゆっくり歩いていくる私を待つ。少しじれったそうに。早く歩きたいからじゃない。話したいことが口から溢れそうだから、私の耳や胸で受け止めてほしいのだ。

 

このところ夫はすこぶる生き生きしている。ただでさえ大きな瞳が、月明かりできらきら輝いてる。新しい仕事のこと、人形劇のこと、次に覚えたいレシピのこと、あれこれ話してくれる。話しながら、火照った頭を整理している。私は相槌をうちながら、夫の二の腕を揉むけど、それでもおしゃべりが止まらない。痩せたなあ。いいことなんだが、腕の肉が物足りない。

 

もうずいぶん暖かくなって、夫はパリで買った古着のデニムシャツの袖をまくっている。私は袖をまくった腕が好きなのか、まくられた袖が好きなのかふと考える。好きな気持ちには対象があるはずなのに、いまだに私は腕が好きなのか袖が好きなのかよくわからない。つまり対象そのものが境界でできているからかもしれない。エッジともいう。であれば、私が好きなのは、腕と袖の境界そのものなんだろう。

 

川辺まできて、お月さんを仰ぎちょっと休憩。夜は散歩人口が少ない。時折ジョギングしている人がいたり、夜の闇の気楽さか、家族づれで散歩している人たちもいたり。川の水が縁からおちて、水面に叩きつける音が耳にこもる。夫はたったまま喋り続ける。影のシルエット。やっぱり痩せたな。すっきりした。男らしくなったなあ。思ったことをそのまま口にする。「ごきげんだね」「おうよ」「今日はいちだんと元気だね」「うん。あ、でもあれかな。ぽこちゃんがなんともなかったから、余計ごきげんなのかもしれん。今日ほんと緊張した」そういって胸をなでおろしている。

 

二日前のことだった。うさぎのぽこを撫でていたら、目の中に白い点が見えた。どうも目やにじゃないと気づいて、とたんに背筋が凍りついた。すぐにネットで調べると、初期の白内障の症状そのものだった。近くの動物病院に電話をすると、高齢うさぎでは珍しくないという。電話をきって、私も夫も食欲をえらく失い、しばらくは仕事に没頭したあと、だんだん何も手につかなくなって、力なく二人で抱き合った。

 

最初に泣いたのは私のほう。ぽこちゃんが病気になるなんて。ついに恐怖に追いつかれたと思った。うさぎの平均寿命は犬やねこより短いとされている。ぽこは6歳で高齢うさぎになる。ぽこが家のなかをかけまわって、一緒に遊んで、撫でて、たくさん歌を歌う。ぽこはかわいいから、愛おしいから、毎日新しい歌が生まれる。ぽこは私の体に歌を宿す。私はそれを生む。しあわせのうた。でもそのしあわせの境界に、ぽことの別れがある。いつかはくる別れ。振り切っても振り切っても背中に張り付いている、いつかのぽこの死。ああ毎日、振り切って振りきっていたつもりなのに、こんなに簡単に追いつかれるなんて。

 

白内障だったとしても、すぐに死ぬわけじゃない。付き合っていくだけで、死に至る病ではない。それでも老いていくぽこが病気にかかることは、十分に死を連想させた。背中がいたい。痛みが首うしろにせり上がる。私が泣いていると、夫も静かに泣いている。泣いたらすっきりして、翌朝、散歩ついでに、神社でぽこの健康祈願のためのお参りをした。

 

今朝、夫はぽこを連れて病院へ行った。結果、角膜が少し傷ついているだけで、白内障ではなく、健康診断も概ね心配なしだった。目薬で経過を見ることになった。

 

幸い病気ではなかったとわかって、私も夫も、なんだか身体中の力が抜けてしまった。そこに芯から力がわいてきたのだ、と夫はいう。夫は私より感情表現が控えめなほうだけど、それでも落ち込んでいたのはむしろ彼のほうだったのかもしれない。思わず背中を撫でる。

 

幸せってなんだろう。ぽこと出会えたこと、ぽこがいること。そのエッジは、ぽこの死、別れが隣り合わせだ。ああ、だから、この幸せは、共にあれること、いつか別れることの境界そのものなんだろう。

 

でもその境界は、なんとも淡い光で満ちて溶けているように感じた。それは満月が溶かす夜の闇の縁そのもののように思えた。死んでくちても続く魂は、あの満月みたいなものなんだろう。出会いと別れの境界を溶かすもの。溶かして、境界である“幸せ”をふくらませるもの。

 

ああ、そっか、だってぽこちゃんはあのお月さんからやってきたんだもんね。

 

 

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ひょこ

 

 

差別の気持ちは誰もが持っている

現代を生きていて、

差別に加担せず生きている人なんていないと思う。
どんなに素敵な友人や尊敬する人を思い浮かべても、

やっぱり一人も見当たらない。

 


私自身が、そうであるように。

 

 

例えば普段から愛に満ちた人が、
SNSのタイムラインに「差別をやめようよ!」と標榜した次の投稿で、
帰国したウイルス感染者に対しての怒りを向けている。

 

大変な矛盾ですが、本人はそれに気づいていない。

 

こういう矛盾が簡単に起きてしまうのは、
差別的感情は、生理的嫌悪感から生まれやすいからだと思います。
自分が生存していく安全を奪うものは、強烈な嫌悪を感じさせます。
それは本能であり、当然のことです。

 

ただ、嫌悪感を感じている自分のことを自覚できていないと
無自覚な差別的表現を示し、相手を傷つけてしまいます。
普段は「差別なんていけない!」と頭で考えているのに
自分の命や安全な生活が脅かされるとなると
相手を敵とみなし、遠ざけようと必死になる。

 

繰り返しますが、自分の命を守る、という本能において
これらは当たり前のことです。

 

だけど、それを無自覚に表現することは、私は当たり前とは思わない。
感じることと、表現することの間にはガラス一枚の壁があると思う。

 

だからこそ、まず嫌悪感を感じてしまう自分を認め、自覚しよう。
その上で、差別したいと感じている欲求を、認める。
自分の命を守りたい気持ちを、認める。

 

認めないことには、自分の行動を客観視したり、

自覚したりすることができません。


「あんなひどい差別に自分は加担しない! 自分は善良である!」という理想が
本当は差別に加担している等身大の自分を、なかったことにしてしまう。

 

差別したい自分を認められたら、
それを表現するまでの間にガラス一枚の壁が生まれます。
その壁を超えるまでの間に、たくさんの思考が生まれます。

 

そこから、相手への思いやりや、相手の立ち場を想像すること、自分はどうかと振り返る時間が生まれ、日頃の行動をきちんとしていれば、命の安全がすぐに脅かされるわけではないことに思い至る。やがて人は冷静さを取り戻します。

 

このガラス一枚の壁こそ、私は教養だと思っています。

あらゆる勉強も学びも、この教養のために働くものだと思います。

 

私は身の危険を感じたら、
差別したい気持ちを生む人間です。自分の命を守るために。
でも誰かを傷つけたいとは思っていません。誰かの心を守るために。
だからどちらも認めます。

 


なぜなら、現代を生きていて、

差別に加担していない人間などいないと
私は考えているからです。

 


そのうえで、どうしたら自分は

自分の内側にあるたくさんの差別を溶かしていけるのか
日々考えています。

 

そのために、私はまず、自分の痛みを見つめるようにしています。

喜びも痛みも差別せず、感じて受け入れる。

すると外の世界に対する差別が溶けていく。

まだまだ道半ばですが、だからこそ面白い。

すべては自分から。

 

私には、そのための人生です。

 

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写真は伊勢の倭姫宮にて🐰

世界のすべてが見えるまで

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たんぽぽ、よもぎ、しゃく、なずな、どくだみ。

 

早朝の誰もいない神社でお参りして、帰り道に何かしらつんで帰る。今朝はしゃくを味噌汁にいれて、もう半分をどっさりうさぎのぽこちゃんにあげた。二人と一匹、同じ朝ごはんをいただく。

 

窓から入る光が白い。風がつめたい。うぐいすがじれったく鳴いてる。今日こそプランターに種まきしようか。風がつめたい。何かを思い出せというように。なんだっけ。そうだ、夢でみたものを思い出せと、身体が訴えてるんだ。ぼんやりする。味噌がそろそろ切れるから、また買いに行かないと。

 

片付けをしながら、ラジオをつける。テレビはしばらく最低限にしてる。ニュースはNHKのAMでやってる情報番組がちょうどいい。必要な情報だけくれる。必要な情報ってそんなに多くない。うぐいすがキッチンのすぐそばで鳴いて、ぽこちゃんがびっくりする。かと思えばまたあくびをしてる。その様子を夫と二人で見て、顔を見合わせて笑う。

 

ああ、思い出した。夢のなかでまた沖縄にいってた。最近しょっちゅう沖縄にいる夢を見る。「ピラミッドみたいな山があって、その下にお墓とか家みたいなのがあって、その周りでみんながお祭りしてる夢を見た」って沖縄の友達に連絡したら、写真を数枚送ってくれた。「ちょうど清明の日にお祭りがあったから参加してきたんだ」写真を見てああっと声をあげる。そうそう、夢で見たの、こんなかんじ。

 

母からLINE。元気そう。ちょうど昨日、母と長いやりとりをした。最近、誰かが自分の痛みと向き合う瞬間にそっと立ち会ったり、手伝う機会が増えてきてる。

 

昨晩やりとりしていたとき、母は元気そうだった。なのに、なぜか幼い頃の母が泣いている声が、LINEの画面越しにでも伝わってきた。お母さん、ちいさいころのお母さんが泣いてる。その子のこと、迎えに行ってあげて。お母さんにしか、その子を抱きしめてあげられないんだよ。

 

そう伝えたあと、母はひと晩中、小さい頃の自分と対話していたらしい。たくさん泣いて、たくさん話して、おかげでものすごくすっきりしたと、お礼のメッセージがきていた。「よかったね、その作業、慣れると結構楽しいから。死ぬまで続くから、またその子の声を聞いてあげてね」と私。「そんな続くの?」と母。「私はもうかれこれ。。。5年?いや8年?ずっとやってるよ。いまはもう小さい弥恵ちゃんじゃなくて、生まれる前のころの自分がどんどんでてくる」これは私。

 

母だけじゃない。私は、目の前にいる人が例えどんな顔をしていても、その人のなかにいる”小さなその人”の声が聴こえる。いつもじゃないけど、聴こえることがたびたびある。聴こえるようになったのは、自分のなかにいる小さな弥恵ちゃんの声を、ある程度聞き取れるようになってからだ。ほとんどの人は泣いてる。てか、泣いてる人ばかり。小さなその子が泣き止むには、大きな本人が一緒に泣いてあげるしかない。でもほとんどの人は、泣いてる小さな自分の声すら聞こえてない。

 

ちゃんと一緒に泣いた母を、いっぱい褒めてあげたいと思った。

 

亡くなった父は、もっと下手だ。魂になって、いまもときどき話しかけてくる。自分と向き合うのが、ちょっとむずかしいみたいだ。だから一度は、小さなお父さんの声を代弁して、お父さんとつなげて、一緒に泣いたりもした。どうやら男の人のほうがずっと難解らしいことがわかる。男の人のほうが、心の痛みに弱いように感じる。そのぶん強くなろうともがいているようにかんじる。なぜだろう?

 

わからないけど、男の人はいつだって、お母さんとつながりたいんだ、そう感じる。お母さんとつながることが、自分の命が認められることだと、感じているんじゃないかな。それは理屈を超えて。わかるような気もする。

 

私が最初に泣いたときは、どんなだったかな。この世の終わりくらい怖かったような気がする。はじめてのセックスやはじめての登頂の気分をもう思い出せないように、それははるか遠くの記憶になってしまったけど、真っ暗な部屋で、毛布を噛んでたんだっけな、けものみたいに。涙をながすのが、これまでの人生に白旗をあげるような気がして怖くて、やっと泣き出したときは、まるで二日酔いで吐くのがいやでこらえたあと、やっと戻せたときみたいな、とっても生理的な快感があったのを覚えてる。20代の前半のころのこと。

 

自分の痛みと向き合い続けてきた時間なら、わりと歴史が長いかもしれない。それはかさぶたをいじるのでもなく、感情に溺れる怠惰でもなく、痛みを愛しているわけでもなく、ただひたすら、からまった糸をほどいていく作業。痛みを感じているときにまぶたの裏にうかぶ情景を、冷静に、でも寄り添って見つめていく作業。ニュートラルにストイックに。別にこだわってるわけでもないのだけど、私にとっては痛みは喜びと同じくらいに、人が学んでいく機会を与えてくれる感情だと思ってる。

 

そうこうしていくうちに、つい最近34歳になって、まあまあいい年のとり方をしているように思えた。夫が誕生日プレゼントにくれた手紙のなかに、こんな言葉があった

 

 

ーーーーーーある時期は、弥恵ちゃんは自分の感情に嘘をつかない人だと思っていましたー中略ーでもこの言葉だけでは、弥恵ちゃんを言い表すには足りないなと思っていました。

 

どんな力が、弥恵ちゃんの太いエネルギーとなって、様々なことから逃げずに乗り越える原動力となっているのだろう?

 

最近、ぼくは弥恵ちゃんは自分の魂を認められる人なんだと思っています。「感情に嘘をつけない」のは、いまこの瞬間の話で、「魂を認める」のは、今だけではなく、この時代の人生でも、前世でも来世でも、はたまた人間ではないときも、いろんな時空での話です。さまざまな時空にいる自分の魂を認められる、それってなんて重層的で、大変そうである一方で、きっと、素晴らしいことだろうと隣にいて、感じます。

 

ぼくは他人ごとではなく、ぼくも自分の魂を認めていきたいと思っています。弥恵ちゃんから力をもらっていますー以下略

 

自分の魂を認める。いい言葉だなと思った。夫の言葉はいつもあったかい。あったかくて、安心して、泣けてくるくらい。

 

34歳。自分のなかにあるすべての感情を、差別しなくなってきた。だから、自分の外にあるあらゆる感情も、あまり差別しなくなれてきた。なれてきたかな?たぶん。まあ、以前よりは、きっと。

 

少なくとも、自分の内側の感情を差別しなくなることで、例えば魂になったお父さんの感情を、幅広く受け取れるようになったのは確か。そりゃそうだよね。受信機である自分が感情をより分けてしまっていたら、送信してくる相手の感情も、きっと半分くらいしか受け取れない。自分の見たくない気持ちを見れなかったら、お父さんの気持ちをすべてみることはできない。

 

見たくなかったお父さんを見るためには、見たくなかった私を見つめるのが先だった。

 

世界と身体はそういうふうにできてる。私が、私のすべてを認められるようになったとき、きっと世界のすべてが見える。いまよりもっと、くっきりと。私はそれが見たい。その景色をあますところなくすべて。だからまず、私は私を見る。ごまかさずに、どこまでも、私の果てから、世界の入り口が見えるまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだのかみさま

毎日スケッチやクロッキーをするようになったら、

2ヶ月で少しは描きやすくなってきた。

一度書いた小説のあのシーンやあのシーンを絵で描けるように、

もっともっとイメージを形にできるようになりたい。

 

散歩が楽しい。

何を描こうか、眺める世界のなかで、

このところ春が溢れている。

 

 

子どもの頃、夢中で絵を描いていた毎日のときめきが蘇ってくる。

山のなか、画板と画用紙。絵の具やえんぴつはない。

土や草木を擦り付け色をとる。

今思えば父が私に施してくれた教育

(のつもりもなく、それはただ父がしたいことに、

私や妹が付き合ってたようなもの)

の素晴らしさを知る。

絵を描くのをやめたのはいつだったか。

初恋をした小4あたりだった気がする。

 

4歳のころ、「画家になりたい」と言ったら

母に「貧乏になるからやめとけ」とマジレスされて、

ひどく泣いた記憶がある。

あの思い出が気づけばおもしになっていて、

「絵では食えない」とひたすら思い込んできた。

それはいつしか

「やりたいことでは食えない」という呪いにかわった。

 

でも呪い以前に、まあ現実的に、

やりたいこと「ライフワーク」で食うなら、

まずやれることで食う「ライスワーク」の地盤を

しっかり固めておいたほうがいいだろう、

ということを就活前くらいに考えていた記憶がある。

会社員づとめは続かない、

やりたいことしか続かない自分なりの生存戦略だった。

 

あのとき母が私に「絵では食えない」と言ったのも、

当時離婚を考えていた母にとって、

どうやって2人娘を育てるかを考えるだけで必死だった立場を考えれば、

無責任に「いいね」なんて言えない気持ちもわかる。

 

わかるが、私はあのとき毎日母に絵を褒められていたから、

「将来なにになりたい?」と聞いてきた母に

「画家になりたい」と答えることは、

私だけでなく、

母をも喜ばせる言葉になると思っていた。

 

絵を描きたくなったのは、

パリにいったときにゴッホの絵を見たのがきっかけだった。

涙が止まらなかった。

私がやりたいのは文章を書くことだけじゃないのかもしれない。

文章で10年以上食べてきた。

ただ書くだけじゃない。

ライターの仕事は幅が広い。

下調べをして、企画を立て、

取材して起こして執筆して確認して、

ときには写真もとるしラフも書く。

事務作業も多い。一歩間違えると、

どっちがライターで編集者だかわからなくなる。

垣根を間違えないのも、この仕事のきもなのかもしれない。

 

はじめての小説を書き終えて、読み返すと、

勢いで書いた部分は言葉にまとまらずに、

ところどころ走り書きの挿絵をしてあった。

文章だけで伝えるのは難しいな、と実感した。

でも絵なんてもう何年も描いてない。

 

フランス旅から帰って帰省したとき、

うちは父も母も妹も全員熱烈なゴッホファンだったことがわかった。

お土産の絵葉書を母は喜んだ。

ふと、居間から、寝室に飾ってある絵に目が止まった。

4歳の子供が絵の具で描いた山中湖と富士山。

私が描いた絵が、金縁の額に飾られている。

 

ボストンに滞在している間、何度も美術館に通った。

帰り道、ふと夫が私を画材屋へ連れて行ってくれた。

そこで画用紙と鉛筆を買って、翌日はまた美術館へ行った。

アメリカでもフランスでも、

美術館では学生たちが巨匠たちの絵画を模写している。

その列に加わって無心でクロッキーをしていたら、

後ろからのぞきこんできたおじさんに褒められた。

 

4歳の私が飛び上がった。

 

私は、眼の前の、素敵なものの輪郭をなぞるのが好きだ。

それが誰かに伝わると、愛し合えたと思う。

素敵なものに溢れたこの世界を、ともに愛し合えたと思える。

 

できるなら一度描いた物語を、絵で形にしてみたいと思った。

もう食うので精一杯だった20代の自分じゃない。

あのころは「やりたいこと」で食べるなんて考えたこともなかった。

でもなるべく「やりたいこと」に近くて「やれること」を仕事にしたほうが

ライスワークとして手堅いのはわかっていたし

なんなら社会を知るきっぷくらいのつもりでライターになった。

 

10年もすぎると、一応手に職といえるくらいにはなる。

 

母があのとき言い放った「絵では食えない」の言葉に、

私は2つの意味で勝った。

まず私は、絵以外のことで食えるようになった。

食えなくなる不安さえなくなれば、

絵を描くことはどこまでも自由だ。

 

何より、好きなことをして生きるのに

不安がなくなるところまで

連れてきてくれたのは、ライターの仕事だった。

 

2018年に尾原さんの著書

モチベーション革命」(幻冬舎)のライティングをやらせてもらった。

いわゆる働き方改革系の本で、

同年のamazonダウンロードランキングで1位になった。

変化と不安の時代で、いかにやりがいを叶え、AIに負けずに食うか? 

気づけば、私はあの本の模範的な読者になった気がする

(だから文章ってやっぱり、それがインタビューであっても、

書く本人の人生を変えてしまう魔力がある)。

 

 

世の中の変化と不安はとまらない。

でも、いまのところ特に不安はない。

どんな時代がきても、夫と協力しあっていかようにも食っていくだろう。

これまで、私も夫もたびたび働き方を変えてきた。

住処も暮らしも付き合いも、必要を感じたら潔く変えてきた。

だって、いまは甘い夢から覚める時代だから。

自分たちらしく生きるために、捨てたものの多さは計り知れない。

なにが自分たちらしくといったら、

“自然の摂理にならうこと”かもしれない。

 

オリンピックが開催されないかもしれない。

でも“おもてなし”で世間が沸き立つあのころ、

私と夫は「じゃあ2020年までには東京を出るしかないなあ」と話し合ってた。

身の回りで、オリンピック開催を喜んでたのは代理店の友達くらい。

「東北の復興だってこれからなのになにいってんだろね。

まるで延命のための注射みたい」って感じで萎えてた。

だから正直、私はテレビでオリンピック関連のことやってるたびに

「今の東京でオリンピックなんて不自然だよ。

どうせなくなるよ」なんて言ってた。

だからなんにも驚かない。

ああ自然の摂理だよね。

 

冬の次に、夏はこないし。

雪解けの下から生えるのは、

バラじゃなくてふきのとう。

 

私が絵を描くことに火がつくころ、

夫は人形劇に目覚めた。

私も夫も、子どものころにときめいた光に再び触れた。

そこまでにかかった時間は、まず食うための時間。

生きるための時間。手段を整える時間。

これからは、

やりたいこととやるべきことを融合していく時間。

 

確固たる生き方が整うと、なんの不安もない。

日々は相変わらず愛おしい。

自然の摂理は身体のなかにある。

身体のなかから生まれる音を聴きながら生きていると、

やがて身体の外に広がり、外の世界が共鳴し始める。

これが逆だとしんどい。

外の世界に自分が共鳴していくと、

不安が逆流入してくる。

 

 

いつだって世界はからだの内側から。

 

からだのなかには、だからかみさまがいる。

 

 

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京都どこもすいてるので、ここぞとばかりに寺巡りしてる🐰

 

やえちゃんのこときらいやってん

幼稚園のころ、クラスにちょっと派手で気の強い女子がいて、私はその子に嫌われてた。というか、引っ越しで園を去ることをみんなに知らせた数日後に突然呼び出されて

 

「うちやえちゃんのこと嫌っててん。ほんまごめんな」

 

って謝られて、その時私ははじめて「嫌われてたんだ??」って気づいたのだった。

 

その後、小・中・高・大と、この手の出来事がよく起こるのだった。中高大では、クラスで気の強いリーダーっぽい男の子から(同じクラスのときもあったし他クラスのときもあった)、「なんかやえって気に入らねえ」的な態度をとられ、さすがに思春期にもなると「嫌われてんなあ??」とこっちも気づく。

 

相手も、目立って嫌がらせとかしてこなくて、ただもうひたすら態度に出してくる。例えば聞こえる声で文句言ってきたりとか、私がその場にいると避けて入ってこないとか。お互いの周りにいる共通の友人らは私とも相手とも仲がいいので、あくまでサシでなんだけど、周りも微妙な気まずさがあったろうなと思う。

 

私はというと、別に相手のことが嫌いじゃないので(嫌われてるからには別に好きでもないんだけど)、どう反応していいのかわからない。だから気まずいなあと想いながら、微妙に避けたり、避けなかったりを繰り返してた。おまけに嫌われる理由がよくわからないのだ。なにか気に触ることをして、謝ればすむのなら話は早いんだけど、どうも本人すら「なんでこんなむかつくんだろう??」と自覚もないままに、私のことが嫌い、みたいなところがあった。

 

ただ「なんで私はこの手の人に嫌われんのかな〜」と、さすがに堪えるものはあった。他の女子には普通なのに、私のことは無視したり。傷つくというより、「なんで?」って感じだった。でも「なんで?」って聞くほどの勇気はなかった。「なんでかなあ?」とくよくよするくらいの時間は、もっと他の、恋とか恋とかそっちに気をとられてたから、だんだん「なんか凹むけど。。。まあいいや」になっていってたんだと思う。

 

で、なぜかある日突然、「嫌っててごめん」と謝られるのがお決まりのパターンなのだった。一番よく覚えてるのは、年賀状で長文で謝られたときだった。クラスでとても目立つ男の子で、彼も私もだいたい同じメンバーでつるんでて、1年くらいずっと気まずかった。だから、年賀状がきたとき、やっと気が楽になった。

 

そしておとなになったいま振り返ると、しんどいのは相手だったんだろうなあと思う。誰かのことを嫌うって、恋愛と同じくらいのエネルギーを相手に使うから。そんでもって「嫌い」って感情は、たいていは本人が最も見たくない感情の裏返しだから。見たくもない感情を、やたらに起こしやがるのが私だったんだろうな。

 

ただ面白いのは、それを謝ってくる律儀さだよね。本人的には、わけもわからず嫌ってしまう罪悪感から逃れたくて謝ってくれるんだと思うんだけど、こっちの本音としては「嫌いだったとか知らせなくていいんだけど」って気分がある。笑 もっというと、「嫌いな相手に、ストレス与えといてなに甘えてんの?」なんだよな。嫌いなら、その本分をまっとうせい、そして湧き上がる罪悪感をまっとうせい、ちゃんと自分ひとりで、と思うんだよ。

 

つまり、人を嫌うことを、せいせいどうどう楽しめよ、と言いたかったんだよな、あのころの私は。嫌うってことは、罪悪感とか見たくもない自分とか、攻撃したいとかそのリスクとか、いろんな重たい感情のフルーツポンチなわけじゃん。そのポンチを全部おいしく平らげろよ、と思うの。それを食べたくて仕方ないのは、自分自身なんだからと思うのよね。

 

それを、「人を嫌うのはいけないことだ」みたいな、社会性のなかで培われた”こうあるべき自分ルール”みたいなのに縛られてしんどくなって、「人を嫌う自分から降りる」みたいなこと、ましてや嫌ってた相手の懐を借りて、するんじゃないよって、思うのよね。

 

わけのわからない感情を、もっと自分で見ろよ、と、思ったりもするわけなのだ。

 

だからもう、私に向かってくるいらいらを、自分の感情として認めることもせず、雑に懐を借りにくる相手には、一定の距離を置くんだよね。ある程度繰り返してきたから、もう起きることって見当がついてるし、そういうやつが私は嫌いだから。

 

だからあのとき、多分私は、

 

「私のこと嫌いだったんだ。でもそうやって謝ってくるあなたのこと、私はいま嫌いになったよ」

 

って、ほんとは言いたかったんだよな。って、あのころのもやもやを整理できるようになったいま思う。頭でどんなに「この子にとってもきっと」なんて母性っぽく想像できたって、私はいわれもないストレスにさらされるのはまっぴらごめんだったんだ。

 

人を嫌うなら、嫌いで仕方がない気持ちを抱えてる自分から逃げないこと、ってのが最低限の流儀だよね。

 

追記:この記事のつづきをyoutubeでおしゃべりしてます(地味にようつべでびゅーや!)

 

「痛みは時間軸を超える、の巻」 https://youtu.be/eYEt0lb69tc

 

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写真は、アイスランド😍もう一度行きたい場所なんばーわん!

 

 

 

 

 

 

 

 

父の死と再生と

父が亡くなったとの知らせを突然受けてから、怒濤の日々が過ぎていった。今日でやっと10日目になる。長い。すでに1ヶ月が経ったような気がしてびっくりする。

 

この間、私は父と、自分自身と、ひたすら向き合い続けていた。まず悲しみや別離の痛みと向き合い、泣きわめき、暴れた。溢れる感情という感情を身体が表現し、押し出すのを懸命にやった。

 

しかし生死とは、もともと感情論とは別のところにある。つまり、私が悲しむこととは全く別次元にある、一つの区切り。肉体を失うという区切り。”肉体を失う”という言葉の通り、父の魂そのものが消滅することはない。だから、父の肉体が果てても、私が、人生の課題として”父と向き合うこと”そのものは終わっていないのだ。

 

そして父の魂は、私が問えば通夜でも葬式でも応えた。はじめは感傷的な気持ちであれこれ問いかけ、繋がれることにも喜んだが、悲しい感情が押し流されていくうちに、”死”というイベントで美化してはいけない父のある側面が見えてきた。3日経つころには怒りが溢れた。肉体があるうちに、向き合いきれなかったこと。それは、父の弱さだった。

 

ここでわざわざ父の弱さを書き連ねるつもりはない。第一、父の弱さは私の弱さでもある。生前のうちに、父と向き合うだけの強さが私にはなかった。私はそれを認めた。一方で魂になった父は、もはや隠し事ができない。弱さをさらけだすことにためらい続ける父に対し、私もまた、親子であった自分たちを超えなければ、つまり娘としての父への期待を捨てなければ、いま父と向き合いきれないことに気づいた。

 

だから親子を超えて、人と人として向き合った。7歳のころに父と別れ、あれから幾度となく交流を重ねたけれど、私は向き合いきれていない。それはあなたも同じだろう。私はもう逃げない。あなたも逃げないで。素直に、素直に話そう。そんなやりとりをするうちに、相手を受け入れるキャパシティが、父よりも私のほうが大きいことにふと気づいた。

 

私は父の弱さに触れた。生前、父が心を痛めた風景が、ありありと目の前に広がった。その痛みから決死の思いで逃げた父の、繊細な心を覆っていた皮を、私は剥ぎ取る。

 

肉体を超え、魂と魂そのもので対話するとき、私は、父よりも広かった。そして私は、親子というものの真理に触れた気がした。ある魂と魂が親子として生まれてくる場合、親よりも子のほうが、魂としてのキャパシティは広いものなのではないか。

 

なぜなら、子は子として生まれてくる以上、親を認めることがひとつの課題だと思うからだ。さらに広い視点で考えるなら、時代をより良く更新していくためには、あとから生まれてくる子の魂のほうが、先に生まれた親の魂よりも成熟している必要があるのではないか。そんな全体観に、肩がふと触れた一瞬があった。

 

魂と魂で対話するうちに、父とのあらゆる因縁もまた視えてくる。私と父は、いまが最初の出会いではないこと。かつての私と父、あのときの、あのときの、あのときも、私と彼は出会っている。

 

魂同士で対話しているときは、一切の人間らしい感情が湧いてこなくなる。心はとても充実していて、穏やかで、朝焼けに染まる凪いだ北の海のようだ。一点の曇りもなく、大きな鏡のような水面が、ただ天と地の間にあるものを静かに映し、奏でていく。私と彼は、やけに白く光る砂浜で、言葉もなく、ただ音と音、風と風だけを送りあい、交流をする。

 

そんな時間を経て、また人としての自分に立ち還ると、ふいに悲しみが溢れたりする。人間として、肉体に余る記憶を痛み、喪失を悲しみとして表現する自分をやりすごし、やりきる。しかし心の奥底では、「彼を喪失したわけではない」ことをわかっている。

 

だから、泣いている自分というのを、妙に静かに眺めている自分がいつも背中にいるのだ。我ながら多重人格化したような面白さを覚えて夫に聞くと、夫はただ「恐ろしく自分を客観視できてるから、安心してみてられる」と穏やかに笑う。

 

ただ、そんな分裂した自分を繰り返すのはひどく疲れる。ある地点まで彼と向き合いきり、ひとまず私の心が落ち着いてくると、とたんにどっと疲れが溢れた。友人から、まるでアラートが鳴るように「ほんまに休んで!身体!」と叱咤され、それもそうだと思ってひたすら眠った。

 

もともと用事で東京にいた夫は、再び東京へ戻った。一人になるのは怖かったけど、一人になって余計に休まる時間というのもあった。はじめはひどい耳鳴りと不眠、胃腸の不調、まあ俗にいって自律神経を失調していたので、食事を抑え、テレビもPCもつけずに、数日寝たおした。ひどい疲れのなかで、身体が更新されていくときの、細胞がぷつぷつと弾ける音を聞いた。

 

ほとんど冬眠と食事制限で過ごすうち、3日で不眠が治った。散歩に出る余裕がでてきて、運動してみるとめまいも起きなくなった。ただ胃腸はまだ疲れていたので、麦はもとより、米もとらずに豆腐やかぼちゃ、煮込んだ野菜スープを作ってさらに休めた。どうも感情が浮き沈みすると胃腸にくる。だからなるべく誰とも話さないようにした。何も読まないし見ない。感情を動かさない。

 

そんな静かな日々を過ごすさなかにも、彼との対話はあったし、ふいに悲しみがあふれることもあったが、分裂していた2人の自分(ちゃんと数えると3人くらい)が、やがてひとつにまとまっていく感覚があった。

 

お父さん大好き。悲しい。ひどい。愛してる。溢れる感情の重みを吐き出す自分の身体と、父の弱さをただ認め、受け入れる自分、それを正そうとする自分、正していくうちに、自らを正している自分。魂としていまも生きる彼を、魂として感じている私。感情の重みを超えたところで、私は座して精査している。やはり死は、感情論だけでは捉えられないものだということを静かに悟っている。

 

父の子に生まれたことへの感謝と痛み、父の生きざまへの称賛と批判、喜びと悲しみ。ひとつひとつを紐解いて手のひらにのせ、見つめた。やがて身体のなかを駆け巡るすべての矛盾を超えてひとつにまとまったとき、手のひらに柔らかな風が生まれた。

 

悟っている、なんて書いてちょっと自分でも笑った。誰やねん。まあそんなこんなで日常はもとに戻りつつある。仕事も再開した。彼との対話はまだ続くだろう。母との向き合いにだってずいぶん時間を費やした。

 

でもそのたび、私も母も成長した。私は身体で識ったのだ。本当の癒やしとは、痛みと向き合い、痛みを感じ尽くし、表現することにあると。つまり”表現すること”において、喜びも悲しみも、本質は同じだということ。身体は痛みとして悲しみをより分けようとするけれど、魂そのものは喜びも悲しみも、なんら差別せず、ひとつの力を発露させているだけだ、ということ。それは、またたく星の光のようなものだということ。星がまたたくのと同じ、命の運動だということ。

 

私がこの身体で自分を癒やし続けるには、彼の魂が対話相手として必要だ。それはまた、彼の魂にも光をさすだろう。なぜなら魂というのは個別に存在しながらも、根底ではひとつのまとまりであるからだ。だから、自分と向き合い、自分を癒やすことは、全員を癒やすことにつながる。

 

父の死に触れて、思いがけず私なりの全体観が更新された。

心は凪いでいる。

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オリンピックの年までに東京を出ると決めていたこと

上京する直前、受験生だった私は中越地震で被災した。3度の直下型地震。たまたまお風呂に入っていたので、慌ててタオルで身体をふいて、なぜか英単語帳と化粧ポーチを持って外へ出た。2度めの大揺れがきて、アパートがプリンみたいにぐにゃぐにゃにしなった。鉄筋コンクリートの建物が、まるで軟体動物のように揺れた。

 

母は職場、妹は下校中の電車のなかに閉じ込められていたことがあとでわかった。私はそのとき一人で、揺れがおさまったあと、あわてて家のなかに駆け込み、ガス栓を締め、財布を持ってスーパーへ走った。すでに大勢のひとが押しかけていた。レジのそばで、近くの旅館のスタッフが電池を買い占めようとして住人たちと揉めていた。私はパンと水を抱えてレジに並び、コンビニに走って、電池を探した。単3を一つだけ買って家に帰った。

 

街中の明かりが消えて、満月が大きかった。あのとき見た月だけが今も強烈に記憶にこびりついてる。あらゆる明かりから、物音から、暮らしの気配から切り離された月は、美しかった。(学校が再開したあと、何人もの友人がやはり「あの日の月」の印象をそれぞれに持っていた。多くの子たちは「怖かった」「うすきみわるかった」と言っていて、私はきまりが悪くてきれいだと思ったとはいわなかった)

 

10月の末だった。学校に再び行けても、線路が脱線しているので電車が通らず、ひどいときは高校まで片道4,5時間もかけてバスで通うはめになった。真面目に勉強していた同級生たちの多くが浪人の道を選んだ。

 

余震は続いた。当時の部屋は5階建ての2階だったので、「崩れたら死ぬな」と思いながら天井を見ていたのを覚えてる。だから上京するとき、私はアパートを選ぶ基準の第一に”建物の耐震性”と、”2階建て以上のアパートにはなるべく住まないこと”、”地区の地盤の硬さ”を挙げた。

 

以来、どこに引っ越してもなるべくこの条件を貫き通してきた。だから夫が日テレに転職したとき、部署がビルの30階よりも上で、東京湾が近い汐留だと知ったときは即転職を勧めた。しかし夫は「ここで学べることを学んでから転職する」と言ったので、せめて災害時に自力で家に帰ってこられるよう道を覚えようと、何度も二人で汐留から恵比寿まで徒歩で歩いたりした。

 

中越地震を経験した多くの知り合いは、口々に言った。「もしここが東京なら、私たちは助かっていたのかな」と。実際、私が上京してからの4年間、首都直下型地震が起きる可能性は70%だと言われていた。だから東京に住んでからもずっと、東京を出ることを考え続けていた。私にとって東京とは、災害リスクがあまりにも高い場所であり、だからこそ”ここでしかできないこと、学べないことを学ぶ場所”であり、終わったら即撤収する場所、という認識が、18歳のころからずっとあったのだ。

 

さらに、大学に進学していざ就活、というタイミングでリーマン・ショックが起きた。真面目に就活してた子たちは次々内定ぎりをくらっていた。その姿は、震災時の受験生だった友人たちと重なった。(私は進学も就職も不真面目にやっていたので、かえってどちらの影響も受けなかった)

 

そして、フリーランスになった26歳の時点で、いざ東京を出ようとした矢先に夫と出会い、27歳で結婚した。やがて夫が日テレに転職したとき、私はひとつ条件をあげた。

 

2020年の東京オリンピックがはじまる前までに、東京を出る。あなたがもし出られなかったら、私は一人でもここを出ていく、と。

 

結果として、2018年の時点で私たちは京都へ移住した。住む場所を探して、雇用を整えて(5年かかった)、東京にいる大好きな人たちと、身がちぎれる思いで離れてまで、それでも移住した(鈴木家の人たちに告げた晩、家に帰った私と夫は抱き合って声を上げて泣いた)。移住って、やってみるとわかるけど命がけ。ただ人生スキルは超あがる。

 

そしてこの年あたりから災害が一気に増え、京都も揺れたし、大型の台風もきた。私たちはただ粛々と備え、粛々とやりすごし、また日常へ戻るを繰り返した。

 

もちろん、日本のどこにいたってリスクはある。海外に住んでいたって、もはや地球上のどこもかしこも異常気象だ。東京を出たからって安全ってわけじゃない。だけど、いよいよ東日本大震災がきたとき、私は「もっと大きな変化はこれからくる」という強烈な危機感を感じた。どこよりも、それは東京で感じていた。

 

だから20代なかばから後半はずっと、どこで、いかにして生きるかをひたすら考えていた。私は中越地震で、真面目に勉強してたはずの子たちほど、時代に裏切られるのを見た。リーマンショックで、真面目に就活してた子たちほど、憂き目に合うのを見た。

 

でももっと本音を言えば、”このまま東京にいれば仕事には困らない”とか、”いい大学にはいって良い企業につけば安泰”みたいな発想で人生を考えたことが、私は一度もなかった。そんなの、地震ひとつで、経済のひずみひとつで消え去ることをとっくに知っていた。

 

それよりも、例え荒野を生きる時代がきたとて、誰に嘲笑されたとて、自分が心からやりたいことをやる人生を、いかに社会とバランスさせて生きるかを考えてきたし、工夫してきたし、いまもし続けている。現状、好きな仕事をして働き、旅をして、夫と人間パワーを高めあいサバイバルしている人生に概ね満足している。そして災害と付き合い、向き合う心とからだ、生活を試行錯誤しながら作り続けている。この生き方が、私はとっても楽しい!

 

 

2020年を迎えた。ただ粛々と、やりたいことをやる毎日が、今年も続いていく。私は別に東京そのものには恨みはない。そこで暮らすことをやめたけれど、暮らす人に意見はない。だって、どこで暮らしたって、それはその人の選択だし。実際、このあいだ宮崎駿さんの東日本大震災後のインタビューを読み返していたら”東京はいずれ大きな災害に遭うだろうが、ここまできたら自分は逃げない。目撃者になる覚悟だ”という趣旨のことを書いていて、なんて自覚と覚悟だ!と僭越ながら感心してしまったし、そういう人が私の友達にもいる。それに東京に住んでいなくても、災害に対するそれくらいの自覚はいる、と思ってる。

 

だから私は、いざ2020年までに都内を出る、と宣言していたその年を迎えてみて、今自分がどこにいても、せめて自覚はしようよね、お互い、とこれを読んでくれている人にだけでも言いたかった。いまどこにいても、”自分は選んでここにいる”という自覚をしようよね、と。そしてお互い、備えようよね、混沌の時代を自覚しようよねと。オリンピックもいいけど、そうじゃなくてさ、って。じゃないと、いざというときに”こんなはずじゃなかった”ってなっちゃうから。

 

ところで年末年始の一週間を、我が家は熊野のキャンプ場で過ごしていたんだけど、ネットもテレビも見ない分、野生の勘が冴えるのを感じていて。だから1日でも、ネットもテレビもつけない日を過ごしてみてほしい。今の時代の空気は、文字や映像じゃない、肌で感じられるものからのほうが、正確に受け取れることが多いから。

 

人によっては新年から重い!と思うかもしれないんだけど、そもそも私は災害にまつわる話を”重たい”なんて思っていなくて。日常の延長にあるものだと思ってるから、抵抗はないんだよねえ。

 

そんなわけで、わりと地道に、冷静に迎えた2020年です。 笑

 

 

 

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写真はNY

 

 

2019年総括ベイビー

年末年始にかけて一週間ほど、熊野にてキャンプ中。1月にも熊野でテント張って、5月は丸一ヶ月キャンプしてた。なんたって温泉がいい。どこもかしこも源泉かけ流し。冬は川を掘り起こした無料の巨大野天風呂まである。本州最南端だけあって冬でも温かい。那智、速玉、本宮に玉置と、熊野三山がおはすダイナミックな神社が勢揃いで、気持ちのよい初詣ができる。熊野は、とりわけ年越しにとっておきのスポットなのだ。

 

今日は本宮をお参りして湯の峰の温泉に浸かった。夕方からテントで鍋を食べて、今はラムチャイを淹れ、ぼうっとしている。キャンプ場は盛況で、ついさっき、甲高い小さな男の声でパプリカが聴こえてきた。ワンセグで紅白でも見てるのかしらん。

 

さて、2019年を総括しようと思う。なんといっても旅の年だった。”暮らすように国内外を旅したい”という20代の目標が叶った年でもあった(スペシャルサンクス夫&友人たち)。なので2019年の総括は、=旅の総括、ということになる。

 

まず年始は熊野ではじまり、1月末に淡路~徳島、2月はデンマークへ行き、半月かけてアイスランドを一周し、3月は沖縄諸島4月は台北5月は熊野でキャンプ。

 

6月は一ヶ月をフランス(パリ~南フランス)で過ごし、7月と8月は新潟と東京を往来、9月は金沢、香川、10月は一ヶ月強をアメリカ(ボストン~メイン州NY)、11月は新潟、12月の今はまた熊野にいる。そして2ヶ月おきに伊勢にいて、あとは京都で生活をしていた。

 

昨夜も、夫と新宮市内にある海鮮居酒屋「まえ田」にて、新鮮なブリをつまみながら「どの土地が最も印象に残ったか?」という話になった。そりゃどこも楽しかったけれど、真っ先に浮かんだのはアイスランドで見たオーロラだった。久しく酔った頭に浮かんでくるのは、ミントブルーの氷河、煮えたぎったマグマ、果てしなく黄金に輝く朝の雪原、吹き上げる間欠泉

 

気がつきゃちょっと涙さえ浮かんで(私は平時より涙腺崩壊気味)、極北の、最果ての景色に浸っていた。途方もなく懐かしい景色。身体が溶けて、過去も今も未来さえ一瞬で一枚岩に圧縮してしまう、わたしの原風景。まるで地球ができた瞬間の、生命の衝撃と歓喜が、細胞の奥深くでDNAの記憶として掘り起こされ、発露したのだった。

 

思い返せば、特にこの1年で私の身体はひどく変化した。脱皮を繰り返し、換骨奪胎した1年でもあった。その度に、どんどん勘が冴えていった。目には見えないものを鮮やかに感じられるようになり、以前にもまして、ものごとを感じる深度と範囲が拡張されていった。冴え冴えとした感度で触れる山や川、空、海、そして数々の芸術の素晴らしさときたら! (例えるなら、空海和尚の身体とか気分をサックリ理解できちゃうような!!。。。?)

 

しかし脱皮するときは、どうしたって痛みを伴う。身体の内側が、ひび割れるように痛むのだ。それは、”途方もない懐かしさ”を感じるたびに起こった。まるで細胞の隙間からマグマが溢れ出すような、赤い痛みを繰り返した。

 

ただ、コレを理解して整えてくれる整体の先生に出会えたり、相談しあえる各地の友人にも多く出会えた。あと本当に温泉に助けられたと思う。新潟と熊野に滞在した時間が長いのは、つまり温泉を身体が求めていたってことでもある。

 

海山川に助けられるのはいつものこととして、今年は芸術に助けられることも多かった。「海の幽霊」と「パプリカ」はしばし心の支えだったし、ゴッホの絵によって、素直さを曲げずにこれた。たぶんわたしは、これらの歌や絵が内包している”次元”を受けることで、自分の”次元”を肯定しようとしたんだと思う。

 

(※わかりやすい例えだと、うっかりUFOに遭遇したとして(笑)、UFOというものがこの世に存在することを知った自分てのは、これまで生きてきた次元より幅広い次元に存在することになる。この瞬間に自分を肯定しきれないと、”一般とされている次元”と”拡張された次元”の間で自我が消えそうになるんだけど、米津氏の歌とかゴッホの絵とか、健全な原風景がある芸術は、「UFOさえ存在する懐の深い次元」を持ってるので、触れるだけで自我を保てる場合があるって話。(一生懸命書いたけどわかりやすくねえ。。。!))

 

最大の幸運は、キテレツな私を理解してくれる夫がそばにいることだろう。ますます人生の相棒&サバイバルパートナーとして組み合う力が増した1年だった。

 

そして何より、旅はインプットだ。”途方もない懐かしさ”を全身で感じることは、記憶を掘り起こし、そこから溢れる情報を全身で再構築していく作業でもある。ただ、インプットばかりが増えていき、おまけに言語化しにくい、ひどく感覚的な情報ばかりが体内に溢れると、本当に孤独になるんだなーということも知った。

 

でも、どんどん深まる孤独の縁を必死になぞるたび、言葉が、形が溢れた。かつてないほど、自分が感じていることを誰かと分かち合いたい気持ちが溢れた。孤独の奥底まで沈んでいって、天井にむかって「誰か私をわかって!」と叫び出したい気持ちを知った。

 

何より、形にする喜びを知った。あなたに「わかるかも」って言ってもらえる未来を描きながら、言葉を紡いで絵を描いていく楽しさを知った。だから私は、この孤独をけっこう愛している。

 

2020年は、もっと形にする年にしたい。砂浜だろうがテントだろうがサイゼだろうが、どこでも文章を書いて絵を描ける身体にはなれたので(笑)、この2年撒いて水やりをしてきた種が、いよいよ花開く年にしたいな。

 

。。。まあ、どうにもブログだと奥歯にものがはさまったような書き方でごめんよ。でもこのブログだって読んでくれているあなたがいてくれるから成立してるんだよね。本当にこの1年もありがとう。あなたにとってもいい2020年になりますように。

 

来年もよろしくベイビー

 

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明るいとか暗いとかそんな単純じゃなくて

アメリカから帰国後、しばし新潟に滞在中。雪が降ってきた。紅葉がまだ終わりきらない山の上におしろいが振られて、光に照らされてとてもきれいで、毎日温泉に使って身体を癒やしながら、見惚れていた。

 

家にはネットがないので、仕事以外ではオフライン状態。小説が捗る。捗るというか、どんどん深いところへダイブしていく。そこへ雪が降って、いよいよ音さえ届かない。温泉からあがってwifiひっぱってメール確認をして、またぐぐっと潜る。

 

執筆と温泉の相性がいいのは、言葉というのは、身体から生まれてくるからなんだろう。身体から言葉を生み出す作業というのは、ちょっとした陣痛を伴うなあとよく感じる。書くと無心になるけど、書き終わるころには内側をボコボコ殴られたような独特の痛みが残る。肌は火照ってる。泣いたあとみたいな感じ。そこに温泉が深く染みて極上の癒やし。

 

仕事で文章を書いている間はあまり感じなかったけれど、物語を書くようになって、気づけば人生ごと付き合うようになって、あまり感情を差別しなくなった。大きなきっかけはゴッホだけど(さんざん書いた気もするからさておき)、まあそもそも「喜びのなかで軽やかに生きましょう!」とか「ポジティブ至上!」みたいな雰囲気押しな言葉の羅列を信用しない性格ってのもある。

 

喜びのなかで軽やかに生きている人は自分の痛みともよく向き合うようなあ、と周りを見ていても感じるし、私が知るとってもポジティブな友人は、「明るく見られるのはいいんやけど、あんまり手放しで「羨ましい」とか言われると、私に生まれ変わったらアンタ3日で死ぬで?って思うわ〜」と笑いながら言っていて、そうなんだよな、鍛え上げられたものなんだよな、と思ったりする。

 

ただ、誰がどう明るさや強さを、経験という筋肉によって支えていたとしても、なかなかその「筋肉」の部分って伝わりにくい。自分を表現しよう!と思うと、なるべくきれいなところ、きれいな言葉を選んで使うものだし、そう見せたいものだし、まあSNSってそういうもんだし、誤解の多い装置だよなーと思う。(そう考えると私はSNS、わりと相性が悪いんだよなあ、性格からしても)

 

「この人がそこに至るまでの道のり」って、おそらく生きてる時間や経験が増えるほど想像できるようになっていくもんではないかと思うんだけど、出産の痛みは同じ経験をした母親にしか本質的にはわからないように、自分が経験をしていない時間を想像するのは難解なものだと思う。だから、なんとなく誤解をしあいながら、まあ思うほど人って他人に興味がないものなので、そんなもんかなあと思いながらそれぞれに自分のことだけ考えて生きていくんだろうな、自分のフィルターを疑わずに生きていくんだよな、私だってきっと、などと思ったりする。

 

ただ、私はどうも、その誤解をしあいながらやんわり生きていく、ことが、うまいことできないんだなあと思う。なんでこうも、完璧なまでに自分のことを正確に、たしかに表現したい、それを伝えたいと思うんだろう。「あんたは完璧主義だよ。他人がどう受け取るかなんて自由だから。なのに必死になってコントロールしようとしすぎ」とたまに指摘もされる。そう言われるたび、「完璧主義に見えるんだよな、でもそうじゃない、言葉が見つからないだけ」ともやもや。「…てか、私にはそれくらいの誤差を諦められるほうがぜんぜんわかんないけど? なんでもっと言葉を尽くそうと思わない?」とさらにもやもや(笑)。

 

どうして私は、このささやかな「誤解」をうまく許して生きられないんだろう、とこのところよく考える。

 

だから仮説を立ててみた。私って、思うことが完璧に伝わり合う星から生まれたんじゃね?って(爆)。いや電波だと思って引かないで笑 自分の根本を否定しないための仮説だってば。ただ、私自身が「ものごとが完璧に伝わり合う」という経験を経てないのに、「完璧に伝わり合わないこと」にこんなにも苦しむって、おかしな話じゃないかと思うのよ。これって、かつては「完璧に伝え合うことができた」から、伝わらないことが悲しくなる、って構造なんじゃないかって思うんだよね。

 

だからって夜空の星を毎晩仰ぎながら「早く迎えに来てお星さま」ってな薄幸のお姫様気分に浸る暇もないし、なんかそれもソンだよね〜と思う。だからたぶん、私はものごとを伝えたい欲求が強いんだと思うようになった。伝わると実感できるまで諦めきれないんだと。伝わるって、どこかで強く信じてるんだと。だって私たちは、かつて伝わり合って生きていたのだから、と。

 

そして、「ここに至るまでの私の道のり」を、あなたに、ただあなたに伝えたい。あなたが遠い場所にいて、私と違う言葉を使っていたとしても、まるで一体になったみたいに、私の言葉があなたのものになるように、言葉を紡いでいたい。絵を描いていたい、写真をとりたい。伝わればいい。伝わるなら、別に表現方法にはこだわらない。ただ、いまのところこれが得意だから、選んでるだけで。なんかそんなことを考えたりして、ひたすら机に向かってる。

 

今年は本当によく旅をした。訪れた国は五カ国、国内も飛び回った。でもどこでも同じことを考えてた。書いてる物語は、旅と一緒に深まり、成長してる。溢れ出す痛みと記憶を言葉に溶かして、ただひたすらに書いてる。身体の痛みを温泉に溶かして、ああ書くって、私だけがやってる作業じゃないなとつくづく思う。私は痛みを差別しない。痛みは溶けるまで、そこにあることを肯定して生きたい。絶対にごまかさない。

 

明るいとか、暗いとか、そんな単純な言葉の世界のなかで私は生きられない。痛みさえ大切になる世界がいい。自分の内側にある痛みを外へ追いやろうとして、私たちは外の世界を傷つけてきたのかもしれないから。

 

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メイン州のOrr's Islandにて。どどんと大西洋!そして海のなかは大量のロブスターちゃんが泳いでる

 

 

 

 

「途方もない懐かしさ」の正体

いってえなあ。

 

できればもう感動したくない。感動ってしんどい。

感動すると、胸の真ん中にある真っ赤な水風船が刺激されるとバンと弾けて、中から真っ赤な液体がドロドロ出てくる。溢れた感情が肝臓を痺れさせ、消化が追いつかずに今度は肺を上がってくる。喉と首の後ろが同時に痛い。真っ赤な痛み。

 

そのあとはもう、吐くか泣くか、でなければひたすら手を足を動かして発散してしまうしかない。いってえなあ。感動は身体にくる。アウトプットが追いついてない。それでも次から次へと刺激がやってくる。鮮やかな黄色が空にいっぱい弾けるブナから、手のひらほどの落ち葉が舞い落ちる。いってえなあ。何見ててもいってえ。

 

身体にくるくらいの感動は、たいていが懐かしさからくる。郷愁よりもっと奥深くにあるこの感情に長いこと名前をつけることができなくて、赤い感情が溢れて痛いばかりだから、ずっと見合う言葉を探してた。赤い感情を連れてくるものの多くはいつも景色の中にあったけど、時々音楽とか絵画の中にもある。このブログでも度々書いてるけど、私にとってゴッホが、そのうちの一つだ。

 

私の体の中にはゴッホという部屋がある。もちろんその部屋の中にゴッホがいて、ひたすら絵を描いているわけじゃない。ある種の感動値、色でいえば血のように赤い感情が溢れてくるドアの向こうを、私はただ「ゴッホ」と名付けた。これまでで一番、彼の絵が、赤い感情を溢れさせたからだ。

 

この赤い感情はどこからくるのか、痛みを味わいながら紐解くと、川の底、暗い深淵の奥深くに、いつも何かがある。暖かい。お母さんと超えたところにあるお母さん。この気持ちを、大括りにすれば「懐かしい」だ。それも、途方もなく懐かしい。これ以上を言葉にするために、何度もゴッホの絵を見る。

 

ボストン美術館にはゴッホの絵がいくつかある。同館は一度チケットを買うと10日間も再入場ができるのだ。規模だってルーブル並みに大きいけど、なんせ人が少ない。パリではごった返す印象派だって、ボストンでは一人っきりで堪能できる。

 

私はそのうち、ゴッホがサンレミ近郊の渓谷を描いた絵に見入っていた。画家のエミール・ベルナールに送った絵で、のちにそれを見たゴーギャンが感激したことをゴッホへの手紙にしたためている。


絵はこちらが見ることによって突如として脈打ち、体温をもち、独特な風圧でこちらを圧倒する。その風の中に佇むうち、胸の真ん中からドロドロとした赤い感情が溢れて、床にポタポタと滴っていく。熱湯みたいな涙が目から滑り落ちても、全身を這う甘やかな痛みにも浸り切ることなく、さらに奥へ奥へと進む。涙が流れようが、肩が震えようが、心を凪に保って、さらに深淵へ落ちていく。

 

灰色と薄紫色の岸壁がうねり、紺碧色の渓流が弾む。赤と黄色と濃い緑色の草が岩から燃え上がるように伸びて、そこだけ静かな空を捉えようとする。二人の親子が、谷間を登っていく。二人の身体は岩に溶けている。この世界には振動がある。今まさに、地震が起きたような振動がくうをはっている。

 

その奥へ、奥へ、凪いだ心の重みを差し込んでいく。

 

底を流れる暖かさ。途方もない懐かしさ。その奥にあるしこりに触れた瞬間、頭の中をぱあっと白い言葉が満たした。

 

白い言葉は、とうもろこしみたいにつぶつぶしていて、それを噛み潰していくうちに、甘みが広がる。一口噛むごとに、言葉が生まれる。

 

 

懐かしさの奥に、深くて大きな私がいる。

途方も無い懐かしさの正体は、大いなる私との再会だ。

 

言葉になった途端に、我に返った。形になった途端、私は絵の世界の中から弾かれた。手の中にある言葉を何度も反芻する。大いなる私。再会。言葉は絵から取り出した瞬間に、少し褪せた。だから私が息を入れて彩る必要がある。その言葉を、そっと手帳の中にしまい込む。

 

大いなる私。再会。新たにテーマを得た。一つの山頂に来たら、次はもっと大きな頂が見える。どんなに心で深く潜っても、言葉で引き上げても、延々とその繰り返しだ。でも形にさえできれば、次はその地点から潜水を始められる。形にすることはきっと、一つの記録でしかない。

 

ボストンに来て11日目。今日までの記録をここにメモしておく。

 

絵を見ている最中に夫が撮った写真を貼る。私ってこんな顔で泣いてるのかー。絵を貼ろうか迷ったけど、やめておく。あの絵に縁がある人の出会いをここで奪ってはいけないよね。きっと。

 

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モクレン

今朝は山鳩が口笛する声で目が覚めた。一瞬、自分の体が山の中にでもあるのかと思った。台風が近づいているのか、風が湿っぽい。レースのカーテンが膨らんでしぼむ。ベランダの外いっぱいに茂る木蓮は、天に引っ張られているみたいにまっすぐ枝を伸ばしていて、肉厚な葉が空を埋めてる。黒揚羽がひらひら舞い込んで、葉と葉の間でスズメがキョロキョロしてる。

 

葉が生い茂るというだけで、こんなにもたくさんのお客がきてくれる。

 

毎年夏前になると、アパートの不動産が雇った庭師が剪定をしにくる。引っ越してきて初めての時、なにやら緑のきつい香りがすると思ってベランダに出たら、枝という枝を切り落とす庭師と目があって、思わず「なんで切るんですか」と聞いた。庭師はちょっと気まずそうにして「落葉が多くて、ご近所から苦情がきたと、不動産から連絡があって…」と言った。

 

落葉って…下はコンクリートなんだから、土にかえらなくて当たり前じゃないか。景観が悪い?ああ。こんなことになるなら、全部掃除してしまえばよかった。一応掃除も不動産の管轄らしいが、掃除されている様子はなかった。どこかから連れてこられた木が、こっちの都合で丸ハゲにされていく姿が辛い。街路樹は不自然な自然だ。だから、2年目はなるべく葉を拾った。それが功をそうしたのか知らないけど、今年は木蓮だけが剪定されずに済んだ。でもあまりにも葉の勢いがいい。来年は剪定を免れないだろう。

 

一度、長野での植林ボランティアで、間伐のために、痩せた杉の木をチェーンソーで切ったことがある。耳をつんざくような金切り声をあげて、杉はどしんと地鳴りを響かせ倒れた。森の再生のために木を切っているはずだった。木を切れば森に光が入って、植生が豊かになるのだ。

 

豊かにするために、なんで私はいま、杉を切ったんだっけ。思わず指導していたおじさんに、「あの、なんか一瞬、なんで自分が木を切ってるのかわからなくなって。これって山のためなんですよね」というと、おじさんはああ、という顔をして、「自分にも、わからないんです。時々、自分はなにをしてるんだって思います」と言った。「かつて人間が財のために無茶苦茶に植えたつけが、いろんなものを混乱させてるんですね」と。

 

知人で、植物が好きで庭師になって、剪定のたびに木の枝を切っていたら、だんだんと自分の指を切ってるような気持ちになって、とうとう庭師をやめた人がいる。その人はいま、森歩きのガイドとして全国を飛び回っている。

 

なんていうのか、私はそういう人がいるんだってだけでとても気が楽になった。「ああ、そうですよね、痛いんですよね」って言い合える人がいたってだけで、なんか大丈夫だって思えた。本当に痛かったんだよ。あの朝、切られた木蓮を見て、全身を切られたみたいに。なんとか切らないでやってくれないかなあ。葉は拾うから。切っても切っても木蓮は再生するけど、それはあんまり切ない。

 

本当は、街路樹なんてやめたらいいんだろうな。寂しいけど、もう切ない。

 

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依存するのは悪いこと?

ふと思い出して「SEX AND THE CITY」を見返していた。大学生のころ、家の中が静かなことに慣れなくて、趣味と呼べるものも見つからなくて、寂しさを埋めるためによく観てた。今思えば、生きてること自体が不安!みたいだった当時の私にとって、キャリーたちは我が家の住人みたいなものだった。

 

10年ぶりに見返すと、なぜ19、20の私がこの海外ドラマにハマったのかがよくわかった。SATCはまだリーマンショックも起きてないNYを舞台に、登場人物たちの赤裸々なガールズトークや(昨日寝た男の精子がクッソまずいの!みたいな会話を土曜朝からするのね)、見ているだけで心が踊るファッショナブルな世界観によって瞬く間に世界中を席巻したドラマなんだけど、

 

今見るとなるほど、私はそういう過激さや斬新さに惹かれたのではなくて、登場人物4人の友情物語に憧れていたんだな、というのがわかったのだった。今になって、SATCが描いていたのは、女の友情による心理的セーフティネットだったのかってことがよく見えたんだよね。彼女たちは、男に振られたり、仕事で落ち込んだときは、女友達を頼る。時には恋人のように強く支えてくれたり、母親役を演じてくれたりする。つまり都市部では機能しない血縁・地縁のネットワークの代替になるのが、「なんでもあけすけに話せる自立した4人の女友達」なんだな。

 

そもそも4人の年齢はだいたい30半ば〜40代なんだけど、都市部のキャリアウーマンがあんなに熱い友情を維持するってほとんどファンタジー。理想の結婚とか恋愛を叶える以上に、女の友情を健全な状態で維持する方が圧倒的にハードル高いから(地元なら叶うかもしれんが)。つまり「女の友情」っていう潜在的な願望を描いたからヒットしたんだなあーと、思ったりした。

 

確かに、上京したての19、20の自分にはそれがすごく刺さってた。そうだ、女友達がいれば私は死なずに生きていける!って。同時に、「4人の女友達」ってなんて合理的だろうとも思ってた。つまりは、依存度を4当分してるから、リスクが低いよねって。だから恋人がいてもいなくても、女友達は大切だった。ダメになったときのどん底を慰めてくれるのは、彼女たちしかいないんだもの。

 

で、あれから10年経った自分は結婚して、かつては女友達に求めてた心のセーフティネットは夫にすげ変わった(夫は一番の親友でもある)。ただこれは生存本能だと思うんだけど、依存先が1箇所ってのはあまりにリスクが高いと感じて、友達、仕事や趣味の人脈などなど、やんわり支えてくれる相手、いざとなってもなんとかなる依存先ってのを、偏りがないようにかなり細かく分散してきた。ただ決して数は多くない。人間関係へのキャパは狭い方だから、大事にできる範囲までの付き合いではある。

 

ついでに言うと、私は母親との折り合いがハイパー悪かったんだけど、結婚して「家族」を持ったら、自分のルーツである母と仲悪い状態がひどく効率悪いのに気づいて、それこそ5年かけて関係修復に力を注いだんだよね。まあ改善した理由はそれだけじゃなかったけど(必然な向き合いだし)、結果的に母と仲良くなって以来、自分のルーツ、心の拠り所としての心理的安全性を得られた。

 

あとは「これがあれば元気!」と思える生きがいもたくさん見つけた。小説に没頭すること、登山をすること、旅に出ること、好きな作家やアーティスト、作品などなど。で、とにかく「これがあればハッピーになれる」と思える依存先を細かく増やすことで、どれに飽きても、どれがなくなってもリスクが大きくならないように分散してきたなあと、改めて気づいたりしてた。

 

なんかねえ、ふと友達と会話してても、「依存することは悪いこと」みたいに思う人が多いなあと感じるんだよね。いや、それは生存本能だから、ちっとも悪くないじゃんと思う。てかそこ責めるのってしんどいだけじゃないのかな。ただ、そういう発想に至る人ほど、確かにちょっと依存先が偏ってるかな、とは思う。多分自分が1箇所に依存してしまっている潜在的なリスクへの恐怖が、どこかで罪悪感に繋がってるのかなって思tたりする。

 

一昨年あるビジネス書のライターをさせてもらった時に、著者から「自立とは、依存先を増やすこと」という話を聞いてすごく腑に落ちたんだよね。つまり、1箇所に依存するとリスクが高いぶん、よりしがみついてしまうんだけど、依存先が100もあれば、もうほとんど自立してるようなもの。というか、一見自立的な人ほど、膨大な数の依存先を作ってるよねって話。これはフリーランスの戦略でもあって、クライアントを複数持つことで、もし1つのプロジェクトがダメになっても4つ残ってれば食えるよね、って話でもある。

 

だから、依存すること自体に何か不安を感じたり、違和感があるなら、複数増やせばいいよねと思う。いきなり「どこにも依存しない」ってのは無理だし、そこを責めてもしょうがない。むしろストレスが増えるだけ。だからまずは気持ちのゆとりを確保する方が先。その上で、冷静に「なぜ依存しないとやっていけないのか。この不安がどこからくるのか」を見つめていけばいい。

 

本当に向き合うべきは、「依存の原因」そのものであるのには間違いないし。ただ、誰でも丸腰で問題と向き合うのは恐ろしいから、武器とかアイテム、心のセーフティネットを用意した上でやればいいんだと思う。

 

それに社会の不安もいや増している昨今なので。「これがあればごきげんちゃん♫」をたくさん増やしていくのも一つの手だよね。紙に書き出してみれば、意外とたくさんあったりするし。ごきげん保険を増やしてくのは、結構楽しい作業でもある。まずはそっちを先に増やせば、自ずと、原因と向き合う力も湧いてくるんじゃないかなあと思うなあ。

 

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最近は絵画を見るのが一番楽しい。1枚の絵の前でじーっと過ごしてると、住人になれる。写真はパリにて。美術品撮っていいっていい文化だよな