こいつで、今夜もイート・イット アル・ヤンコビック物語


とっても面白かった。この映画自体が伝記映画のパロディ、映画の形をとった妄想、ということは壮大な『パロディ放送局 UHF』(1989)だと言ってもいいのでは。一番の根にあるのがお馴染み父親との確執で、自身と同じ工場労働者になるよう命じられ替え歌を禁じられ「クローゼット」の中のあれを壊されながら、息子はスターになっても父の承認を求め続ける。笑えるよう派手に描かれている暴力を息子もふるう(物にあたる)のは父親を見てきたからか。ちなみに終盤の和解のくだりからAmish Paradiseが自身のルーツを歌った曲ということになっている(実際はアルの父はユーゴスラビアアメリカ人)。

「親に禁じられてて出来なかったことは?」からの親友三人組のあり方、気がよく「役に立ち」献身的で裏切らない、というのも『パロディ放送局 UHF』に通じるところがある。ベタに言えば友情…超豪華な面々が数分ずつ登場し医者からバーの客、当時の有名人までを演じているということ、それから分かりやすさ…有名人達のあまりの「記号」ぶりに、アルが最も表れていると言えるかもしれない。

「かなりの迷走を重ねたよ」とのナレーション(ディードリック・ベーダー…これは「パロディ」という意味でZAZによるフランク・ドレビンのそれを思い出させる、こちらは主演本人の声だけども)通り映画は多くのジャンルを横断するが、音楽映画としてのきらめきは間違いなくある。スコッティ兄弟(トニー・スコッティを演じるのはアル・ヤンコビック)の「同じ金額で元の曲が買えるのに誰が替え歌を聞きたがる?」には逆説的にアルに才能と先見の明があったことが込められているし、何よりデビュー曲が生まれる瞬間や作中初めてのステージのわくわく感は手堅い。

人間の境界


ベラルーシに到着したトルコ航空機内で「ようこそ」と配られる一輪のバラ。オープニングのみ緑に映されていた森を難民達がゆくうち、モノクロの映像に色がつくんじゃないかと何となく思うが、そのうち色がないことに慣れ、もう色なんてつかないと思う。ベラルーシが「人間兵器」としてわざと通した国境を越え、EUだ!ヨーロッパに着いたぞ!と喜んでいたのが、ポーランドにおいて難民達はユリア(マヤ・オスタシェフスカ)いわくの「EUは一体何をしているのか」どころじゃない扱いを受ける。エピローグの「ベラルーシ側でもその優しさがあればね」とは、した方は相手の顔を覚えておらずともされたほうはいつまでも覚えているというやつだ。

シリア人一家のまだ幼い兄と妹は始めのうちは預かった物を失くしたり言い合いをしたり、それが子どもというものだと思うが、そのうちおとなしくなってしまう。粗相に始めは優しく対応していた母親が過酷な日々を経て怒鳴り散らすようになる。一家は祖父以外英語が話せず、支援活動家との道中の休憩のひととき、翻訳アプリのちょっとした間違いに笑いが起きることもある。逆にそれ以外の状況では内容をできる限り正確に伝える必要が常にある、それはとても大変なことだ。ちなみにこの映画は「家族」「国境警備隊」「支援活動家」の章に分かれているが(次第にそれらが交じり合うが)、辛辣なコメディに出来るとしたら政権の下で制服に象徴される力をふるう警備隊のパートだけだろう。

「私は市民プラットフォームに投票してるしデモにも参加する、だけど家族がいる、あなたのように一人じゃない」と難民支援への協力を拒まれたユリアは「私にも死んだ夫がいる、母も犬もいる」と返す。妊娠中の妻と暮らすヤネク(トマシュ・ヴウォソク)が国境警備隊の仕事を多大なストレスにさらされながら何とかこなしている(ベラルーシ側に死体を放り投げたりする)のを見ながら、独り者(に見える存在)を国が恐れ警戒する理由はそういうことかと一瞬思うが、入念な調査を経て制作されたというこの映画は決してそうじゃないと言っている。精神科医であるユリアの患者も、車の修理屋も、家族と話し合った上で一家で難民を支援する。患者の妻のちょっとした「気づかなさ」や活動家に協力するカップルのベッドでのいちゃつきなんてのもいい。そして、それらのどの家でもカーテンが昼夜開け放しなのは、文化なのかもしれないけれど、私には、家と社会が繋がっていることのしるし、アピールに思われた。

連休の記録

以前はまめに書いていた休日の記録をたまには。

ガーナチョコレートが韓国のロッテとコラボレーションしたGhana CHOCOLATE HOUSEにて、薬菓が土台のガーナチーズケーキと薬菓を飾ったガーナソフトの「夏」(いちご・ミルク)。どちらも美味しく表参道の欅も見えて気持ちよかった。

「北欧の神秘 ノルウェースウェーデンフィンランドの絵画」展と、「感覚する構造 法隆寺から宇宙まで」展。右の写真は後者の宇宙空間パートの平行カメラ体験で外を見る自分の目の中の反射が面白かったので撮ろうとするも上手くいかない私を外から同居人が撮っていたもの。

大好きなマーサー ビスの新業態マーサーベイクショップで購入したカップシフォンケーキと季節のおすすめのクランブルケーキ、本日のおすすめのミートパイ。「あいぱく」で食べたニューヨーク堂の長崎カステラ生ソフト コーヒー。

同居人が「これまでで一番きれいに巻けた」と言っていたキンパ(いつもきれいなのに。それにしても断面の写真を撮るべきだった)と、休日最後にリクエストして作ってもらった蕎麦のペペロンチーノ、鰹のたたきのせ。かき分けて蕎麦が見えるように撮った。

あなたのために生まれてきた


イタリア映画祭にて観賞、2023年ファビオ・モッロ監督作品。

冒頭呼び出されて裁判所に向かう自転車でふと片手を離してみる、ルカ(ピエルルイージ・ジガンテ)にとって子を持ち家族になることは自由になることと同等なのだと分かる。以降何度にも分けて挿入される回想シーンで、同性愛者の彼にとって手を離し空を飛ぶこと…「火星へ行くこと」にどんな意味があるかが分かるが、終盤そのニュースに嗚咽する姿に、判事が思い返す講義の「法は大衆ではなく個人のために」から借りて言うなら、大衆として扱われて不満のない者は「火星へ行くだなんて昔は誰も思わなかった、人は進化する」なんて希望を抱かず済んでいるのだとつくづく思わされた(その逆が、『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』で全ての権力を握っている教皇ピウス6世が言う「私は不変で、世界の方が進歩によって破滅する」だろう)。

何番目かの妻の妊娠がパーティで盛大に祝われている(イタリア映画でベビーシャワーを見たのは初めてかも)、いわばマジョリティの特権を享受しまくっているルカの兄が、里親制度の特例で一か月暮らせることになったアルバと共に別荘にひっこんだ弟の元に一番にやってくる、いや続く皆がアルバを愛し世話してくれる。自分で自分を抱きしめながら目覚めるルカも一人ではなかったと分かる。その後には急ぎの用で訪れた弁護士のテレサ(テレーザ・サポナンジェロ)に「(アルバのために)泊まってくれ」なんて言えるようになる。しかし翌朝には世論を動かそうとする彼女と「アルバを旗印にしたくない」と反対するルカ、支援者と当事者の間のちょっとした分断が描かれ、一人は一人に違いないということも示される。それはルカと恋人のやりとり、関係にも表れている。

「どんな母親?」「産んで捨てていった」「病院じゃなく道に捨てる親だっている、宗教上の理由で中絶を選べない人だって」「少なくとも勇敢だったってことね」。例えば序盤のこんなやりとりにこの映画の繊細さが表れている。生まれた子にアルバと名付けた看護師の彼女やテレサ、「時間の無駄だった、次からは普通の家族を呼ぶ」「法を作ることじゃなく守らせることが私の仕事」と言う判事(これには『コール・ジェーン』の主人公ジョイの弁護士の夫が法を守る善人ながら妻のことを全く救えなかったのを思い出した)など女達は皆アルバに家族ができることを願っているが、仕事の範疇というものがあるため事が運ばない。ルカとアルバは最初の例になることができたが、映画の終わりの「本当の」アルバの世界一ってくらいの笑顔に、私達が私達の法を変えていくことが一番大事なんだというメッセージを受け取った。

青春18×2 君へと続く道


主人公ジミー(シュー・グァンハン)の高校時代の若さ溢れるねぼすけぶりを活かすためなのか朝9時からの映画デートってありなのかと思うが(台湾では、あるいは普通によくあることなのかな?行き先はアン・リーも通ったという全美戯院)、それから夜まで何をしていたのか、もう一つのホームのようなアルバイト先のカラオケ屋の店先で、アミ(清原果耶)の心痛を察した彼は大丈夫?とそっと手を重ねる。デート前に調べるも失敗に終わった「手を握るには」なんてのはすっかり消え失せて。ああして人は大人になるのかなと思う。

「旅の途中で会う人達はぼくに影響を与えてくれる、ぼくは旅人だった彼女に影響を与えられたろうか」とのモノローグから、現在日本のパートはジミーの旅の、18年前の台湾パートはアミの旅の物語なのだと分かる。しかし旅人か旅人を迎える側かなんて関係あるだろうか?予想の通りジミーはアミに影響を与えたどころじゃないと分かる。これは旅人であってもそうじゃなくても、出会いとは影響を与え合うことだという話である。彼は「夢を叶えたら会おう」と約束したからこそ夢を見つける。18歳のコウジ(道枝駿佑)が生まれるずっと前の映画『Love Letter』を見てみると言うのだってそうだ。

天燈上げのポスターを見たアミの「いつか『連れて行って』」とは、それがジミーの正確な記憶なら、死を覚悟の上で旅しているとはいえ、いやその割には随分男に頼るじゃないかと思っていたら、原作となったエッセイの通りなのか女の側の心情を随分しんみり感傷的に描いてみせる。実はあの時…の繰り返しもくどく終盤は少々飽きてしまった。かつて電話ですげなくされた(と受け取った)ジミーのよるべなかった背中が、アミの心を知った最後には大きく見える。その「結果」だけでいいじゃないかと思ってしまった。

美しい夏


イタリア映画祭にて観賞、2023年ジネヴラ・エルカン監督作品。

映画は主人公ジーニア(イーレ・ヤラ・ヴィアネッロ)がすてきなブラウスとスカートを脱いでお針子の制服に着替える朝に始まる。映画の終わりには、この制服が、終盤ある大人の女性が口にするように「女性には知性が必要」だが「若者は過ちをおかす」ものだからと女の世界で女が女を守るための備えに思われた。
慣れた様子で服を脱ぎ水に飛び込み岸まで泳いでくるアメリア(デヴァ・カッセル)は一見ジーニアと真逆の存在であり、実際彼女を知る男は、女でさえも、「世界が違う」と言うが、二人が通じ合っていることは、「笑顔と引き換えに奢る」との店員を拒否したジーニアのお代をアメリアが払うところに表れている(ここで後者の方が随分背が高いと分かり、後のある場面では階段によって二人が並ぶのが面白い)。そうでなくても見ている私が、どちらにも自分が居ると感じる。

裸のアメリアの絵を見るジーニアは画家の男達を挟んで彼女と相対している。彼女は鏡や浴槽で自身の体を確認するが、アメリアに直接それを投げ出すことには思い至らない。男の存在なしに女の体は発現できない、女と女が直接繋がることはできないと思い込まされているようだ。
男を利用して遊ぶアメリアにジーニアが戸惑う場面は最近では『七月と安生』(2016)とリメイク作『ソウルメイト』(2023)も思い出すが、実際昔も今も女は男がいなければ生きていけないシステムの中に生かされている。モデルの他にそうそう稼げる仕事もなかろうし、どうせ搾取されるなら金銭という形で代償を払ってもらおうと考える者もいるだろうし(昔の私のこと)、文化と出会わせてくれる真夜中のピクニックだって男がいなければできないだろう(それに対するのが最初と最後の兄や仲間との川遊びである)。

ジーニアの男との初めてのセックスがかなりの時間をかけて描写される。彼女が相手を求めることはなく、やがて世界から音が消え、事後には描きかけの絵に戻る男のこちらで彼女はベッドに一人、壁の虫にふと共感でもしたのか手を伸ばす(のが、映画の終わりには空をとびゆく鳥達を見る)。
このことが密室で、しかし女なら誰もが…少なくとも多くが…知っているやり方で行われるのと対照的に、ジーニアとアメリアが互いを求め合うダンスは男に鞄を持たせて衆人の中でなされる。1938年のその後は分からないとはいえ、あるいはそうだからなのか、映画がタイトル『La bella estate(美しい夏)』に、すなわち幸せの中に終わるのも含め、男性の同性愛者ではなくレズビアンの物語であることをかなり意識した作品に思われた。原作であるチェーザレパヴェーゼの小説はどういうものなんだろう。

そう言ったでしょ


イタリア映画祭にて観賞、2023年ジネヴラ・エルカン監督作品。

吐瀉のしみ、脇の汗、鳥につけられた傷、女達は体のいわば異常を取り繕って「普通」のふりをする。普通でなければいけないいわれはないがそのせいで苦しいから。異常気象で灼熱のローマのクリスマス、エアコンは壊れ電気も不足し、窓を閉め切った室内で何台もの扇風機が回っている様は物事を幾らかき回したところで堂々巡りであることの表れだ。やがて彼女達は戸外へ出て行く。

(以下「ネタバレ」しています)

「あなたは夫に全てを捧げた、私は皆を愛した、でも今はどちらもひとりぼっち」とのセリフでプーパ(ヴァレリア・ゴリノ)とジアーナ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)の存在と関係が説明されるが、「あなたの旦那はクズだった、あなたに値しない」と言われても、もうお互いしかおらず歳いって走ることもできず前になり後になりよたよた帰るしかなくても、二人に未来があるわけではない。彼女らの結末に私には釈然としないものがあったけれど、上映後のQ&Aで監督は、通訳の方によれば(「ジアーナは殺すべきか」ではなく)「プーパは死ぬべきか」という言い方をし、作中最も自身の生き方に確信を持っていた彼女が殉教者になったのだと説明していた。倒れた姿は確かにそうだった。

この映画は、例えば「元ポルノスター」のプーパが「皆に愛を与えた」と言うのが本当に「皆」で男に限らないというような自由さを備えてはいるが、この社会においてどういう姿勢を取れば強く何かを訴えられるかということは考慮されていない。だからどことも知れない「湖」を目指す者もいればそうでない者もいるというだけの結末も、真摯といえば真摯だが曖昧だ。

面白かったのは遺灰映画としての一面。遺灰の出てくる映画といえば、男が死んだ女のそれを携えもっと尽くしてやるべきだったと旅をするのが大方だが(相手が生きてる時にがんばれよとしか思えない/昨年違う趣向のものを見たけども)、ここでは母親の遺灰を手にした兄妹は当人の希望の場所へ行くもそれを持ち帰る。兄(ダニー・ヒューストン)は母に虐待を受けており、妹(グレタ・スカッキ)は「母親に愛されたくて」それを笑った、兄いわく「(虐待に)加担した」、そんなやつの痕跡は、エンディングにも流れるラ・バンバにのってトイレに流してしまえばいいのだ。あのダンスシーンにはぐっときた。