相対的シャフ

もう振られた話はするつもりないよ。確か前回結論出たし。しばらく一人遊び&人生充実させるので。また感情で遊びたくなったらやるかも。メンタルボコボコにして遊ぶんや。

 

 今日の本題。会社。飲み会。コミュ障。

 コミュ障って今ではもう聞かないワードだよね。「障害」がかなり重く受け止められるようになったからかな。実際、俺は病院で診断が降りる程度のコミュニケーション障害を持つほどではない。

 しかし、障害というのは相対的なものである。もしも周りが高度な会話をしていたら?言葉の裏の意味を読み合うようなものだったら? 俺は障碍者だ。コミュニティにいる限り障碍者だ。

 

 何が起きたかはもう想像ついていると思うけど、新人歓迎会の幹事任されたのよ。そして「いい挨拶」ができなかった。言葉に詰まって、空気に許されず…。

 

「新人さん達、意気込みありがとうございました!それでは今の意気込みを受けて課長の方からひとこt・・・」

 

シーン・・・

 

課長「…」

 

 (え、その、課長、出番なんですけど、いつものアレなんですけど…)

 

「…それではFBいただければ、」

 

 ここで上司にさえぎられて終わり。

 その後に上司から「お前もっと頑張れよ」とのこと。

 

 …俺みたいな言語野が弱い人間がどうしてアドリブで言えると思ったのだろうか。どうして周りは協力してくれなかったのだろうか。どうして課長は俺の頼みを聞いてくれなかったのだろうか。 

 なにはともあれ、二十代後半の人間がセリフ一つ言えなかったのだ。周りにそんな人はもちろんいない。クソな気分。一次会でもちろん帰った。

 

 まあ、儀式で間違えたのは正味初心者狩りに遭ったとしておこう。ただ、もう一つ苦しかったのは、会社の飲み会というものでとにかく気を使って精神を消耗したことだ。やはり俺は演技が苦手でありスタミナがなくてストレスが溜まる。人から言わせてみれば、わがままなだけなのだろう。役割を演じるのが当たり前なのだから飲み会の数時間くらい役になり切れ。 世の人はよくもこう演技をすることや嘘を吐くことにストレスを感じないものだ。 俺という人間が自分のアイデンティティに囚われている子供だからなのかもしれない。

 

 

 飲み会でうまく話せなかったことが本質ではない。自分が演技を嫌がっていることに気付いてしまったのが本質だ。

 彼女の前で都合の良い優しい男を演じきれなかったこと、演じようとしなかったことが思い起こされる。嘘が苦手なことカッコイイと思ってるの? うまく口が回らないときに自責してしまう。 

 

 

 嘘を吐けない。自分の考え方に嘘を吐けない。ストレスが溜まる。だからこうしてクソみたいなブログを書き続けてる。社会という舞台でダンスを上手に踊れない人間がいる。舞台脇は汚くて貧しくて狭い。それでも舞台よりかは広く感じられる。対してどんどん舞台は狭くなる。自我が大きくなるから狭く感じてるだけ。自我がなければもっと役になりきって嘘を吐くことに抵抗もなくなるんだろうね。

 

 俺からしたら狭い舞台で演技している人達が変に見えるが、彼らからしたらステージから降ろされた俺が社不に見えてしょうがないのだろう。 高度に作られた社会はこうも多様性を嫌う。 

 

 

ロールプレイングゲーム

 先日に引き続き、振られた関係の話を一つ書こうと思って。やっぱいい経験だったな。こうも学習できたから。

 

 前回は結構自分が悪くて~って見方に偏ってた気がするから、今回は割と自分を擁護するような内容になるんじゃないかな。

 

 

 本題。優しさとは。これはちょくちょく話に挙がっていた。

「優しい人がいい」「優しくして」「君全然優しくないよね」「優しくする価値感じてないんでしょ」と、何かとよく言われていた。

 じゃあ優しさって何なんだよ、と言うと「思いやり」と言い換え。相手の気持ちになったつもりで、言って欲しいことやってほしいことしましょう、だそうだ。

 ”普通に”やればできることじゃね? ここを見てる幸せな人達はそう思うかもしれないが、俺には結構高いハードルが複数あった。ということで、言い訳じみた話を書いていく。

 

 

 まずは、相手の気持ちがわからないこと。とはいえ、目の前の相手が本当にロボトミー患者のように見えるわけではない。喜怒哀楽を”表面的に”感じ取ることができる程度なのだ。口角が上がっていれば喜んでいる、眉間に皺が寄っていて声が低かったり大きかったりすると怒っている。読み取れるのはそれくらい。

 そう、読めない。オーバーに言いすぎでしょ、と思うかもしれないが悲しみなんて本当にわからない。アニメくらいあからさまに描写されていればわかるくらい。心情弱視。アスペって思ったより読めねえのな。

 心情がわからないから、大まかな正解行動言動がわからない。

 喜怒哀楽という上流ですら満足に読み取れないのだから、下流の心情を読むこともできない。どんな気持ちか。何に対して不安を感じているか、とか。話の経緯である程度推測できるものもあるが、正確に読み取るのは難しい。

 そして、最終的には心情に基づいて、相手が求めている言動行動をせよという課題。これについては別問題もあるから一旦略。

 

 

 問題②心理システムが異なる。よく言われるやつかな。男女で脳の構造が異なる~ってやつ。男の方が問題解決思考、女の方は共感思考。んで、男でアスペの俺は極端な問題解決思考。自分ルールをゴリ押しする呪いまでついている。というか、今まで1人で生き抜いてきたんだから他人に合わせるように脳ができてないのも納得なんだよな。集団生活を長くしていたから、多少は合わせることもできるけど、基本は自己責任自己完結の世界。スーパードライ

 心理が違うと、アプローチも違う。だから相手が求めている行動を自分の脳で考えると間違える。恐ろしいくらい。相手の脳を自分の脳内でエミュレートする必要があるのだが、気持ち読むのもできねえアスペにそんな高度なことできるか?仮にやってみたとしたら、きっと相手のことを軽く見過ぎてしまうだろう。その方が世間で言われる「思いやり」とやらを実行できるから。至れり尽くせりしとけばいいんでしょって感じに。

 

 

 

 ここで、実際に出題された課題がこちら。

 首元のしこり(小)を指さす。

「ここにしこりがある」

Q.どうする?

 …

「気になるなら病院行ってみてもらうといいと思う」

 これが俺の答え。

 

A.「大丈夫?痛くない?」

 だそうだ。こう言って欲しいんだと。

 

 なんというか、共感してもらうことに快感を覚えるんだろうな。

 俺にとっては茶番すぎて外国語の挨拶のようにしか聞こえなかった。

 なんというか、こういった情緒的アプローチってもっと小さい子供とか精神の弱った人に対してカウンセリング的に行うものなんじゃなかったっけ。いわばもうお客さん対応というわけ。大の大人として対等に接しているとは到底思えない。ここで第三の問題発生。

 

 

 カウンセリング対応をすることに対するストレスだ。悶々とした感情をぶつけてもらって、真正面から返すことはできるし好きだ。けれど、自分の考えや心情とは異なることを言わされるのは嫌いだ。嘘を吐くことや関係に高低差が生じることに対して極度に潔癖になっているのだろう。本音をぶつけ合うことが最大の礼儀とも思っているまである。だから、あからさまな演技に嫌悪感を覚える。

 ただ、友達付き合いで常に尖ったナイフを振り回すほどでもない。全く思ってないことは言えないが、少しでも思っていれば言えるからだろう。…つまり俺が思っていることは彼女の期待とは大外れだった、つまり脳内が全くのアンマッチだったんだろうな。

 

 

 やさしさに対する認識。相手を大事にするために対等な関係を意識していたが、もう少しへりくだってもいいのかもしれない。相手を軽く見るようでどうも俺は好きになれないけど、世間はそれをやさしさというらしい。人間ではなく役割を求められている。少しくらいは役割、やってもいいよ。ただ、思っていないことはなるべく言わないようにする。これだけはさせてほしいかな。

 

 

即落ち2コマ

 1か月ぶりくらいかな?GW満喫して、んで今。モチベが上がったので筆を進めます。

 

 本題。

 別れました。2か月。研修としては長かったけど、業務としては短かったね。

 さて、今回の人間関係研修で得られたことをつづっていく。

 

 まず、人間関係はすり合わせであるということ。同じ人間がいないということは、距離を縮める度に摩擦が生じる。そして、少なくとも片方はすり減らさなければいけない。

 つまり、相手に合わせることのできない人間は距離を縮めたときに酷い摩擦を起こししまう。それが俺だ。

 相手の会話に合わせる、すなわち気持ちを読んで相手が喜ぶ正解の選択肢を選ぶ。すり合わせの最頻項目。これができなかった男がいるんですよ。やっちまったなあ。

 気持ちを読むリスニング、正解を書くライティング、読み上げるスピーキング。3つ合わせて100点なら、自分は10点10点10点の3割。読み書きの不自由はただのアスペの呪いなのだが、特に致命的だったのが自分の気持ちを曲げて正解を読み上げること。些細な事であればいいのだが、真面目に話そうとするとついつい配慮一切なしの自分の考えが出てしまう。快感を求めているのか、嘘を吐くストレスを避けているのか。両方。

 スコアに恵まれない人間は参考書を読むなり場数をこなすなり痛覚を焼失するなどして伸ばすしかない。それができない人間は、深い人付き合いという外世界で成功することは難しい。

 

 

 

 次は、人間関係は信用と期待によって成立しているということ。

 職場の人間は共通目標である仕事の達成に向かう、と信用する。仕事をクリアできる能力を期待する。

 友達は裏切らないことを信用する。面白さや楽しさなどの要素を少なくとも1つは期待する。

 家族は殺さないことを信用する。共同生活を支え合うことを期待する。

 恋人は…互いに好きであると信用する。献身を期待する。いや、この項については微妙な感触。恋愛博士なら正解知ってんじゃね。

 

 この場合、俺は信用すら裏切っていたということになる。

 まず、俺は相手のことを条件で選んでいた。感情ではなく。ドライ。だから気持ちが付いてこないし、仮についてくるとしたら相手に重くのしかかる期待ありきだろう。そして期待もしていなかった。しいて言えば殺人などの裏切りをしないことくらい。

 相手は俺を好きである信用もかけていたし、相手好みの対応を俺がすることに期待していた。契約成立。見かけ上は。

 ただ、簡単に契約できたつもりが、俺にとってはかなりキツイ期待がのしかかっていた。

 ペットあるいは飼い主になること。要は相手を甘えさえること。それをこちらが望むこと。そう、最初の項で書いた「相手に合わせる」は今回の場合、相手の気持ちを立てるアクションをしなければならないということ。

 これをストレスなく淡々とできる人間はどれほどいるのだろう。俺はそう疑問に思うくらいに参っていた。時にペットに、時に飼い主に、対等な関係とは程遠く感じる。

 

 なんてカッコつけて言ったものの、実態は俺が気持ち合わせた言葉言わなくて正論ばっかり言いまくって愛想付かされただけね。これが真実。

 

「人の気持ちもっと考えてよ!いろいろ知ってるのになんでできないの!」

 

 こんなセリフを昔読んだラブコメの主人公がヒロインから言われていた。彼は当時17歳。俺は26歳。10個上の俺はまだこの階段を上れていない。上ろうともしていなかった。

 

 

 まとめ。人間関係は距離を取るか相手に合わせるか。人間関係を持つときは相手からの期待を確認して、可能な量を互いに把握すること。

 以上。1万円(アプリ課金分)と3か月をかけた勉強会だった。

 しばらくは恋人を作らないで生きてみようと思う。幸せな家庭を持つだけなら、婚活フェイズで頑張ればいいし。恋愛遊びはいいかな。こうして俺はまた不幸になって時間に恵まれて経験値も積めたので、小説を書けるということだ。3か月ぽっちの経験で恋愛パートが薄っぺらくならないか不安ではあるが。

 

 

 

母親って確かこんな感じだったな

 進捗があったので更新。

 前々回くらいから書いていた、女性(マチアプ知り合い地元帰りたい人)と付き合い始めた。2週間くらい。多分他所のカップルが2週間ですることをしているという段階だと思う。

 んで、これにて幸せになってこのブログ終わりか、と思ったがまだそうでもないらしい。今立ち向かっている壁と立ち向かっている俺について書いていく。

 

 

 まず、付き合い始めてからぶつかった壁。目的がないということ。確かに俺は好きな要素を持った相手を選んで付きあうことを交渉したが、その後に何をしたいのかを考えていなかった。

 とにかく一緒にいたいと感じることはない。一緒にいて何かをしたいというモチベーションもない。強いて言えば、相手は強いタイプの人間で、俺はそういうところに憧れた。自分が努力するにあたって、そばにストイックな人がいれば心強いのではないかと。つまり、背中を預けられるような関係。よく時代劇とかで敵に囲まれる中2人背中合わせで刀を構えるシーンあるでしょ。あれしたい。

 ってな感じで俺は強い姿を求めていた。だけれども、相手は俺に対して寂しがって構ってほしくて、という態度。普段強く生きてるからこそそういった欲求をぶつけたいのだろう。

 対して俺はそういう甲斐性のようなものを供給できるポテンシャルがあるとは言い切れない上に、べたべたしたメッセージのやり取りも苦手だ。

 

 まずはそういう需要供給のちぐはぐがあった。

 

 次に、寂しさの違い。思っていたよりも相手は会いたがるしLINEもしたがる。何の用事がなくてもメッセージを送りたがる。寂しいという感情らしいが、それってもしかして人間なら誰でもいいんじゃ…と思うことがある。俺自身も結構寂しがる方だと思っていたが、世の中上には上がいるものだ。そして、人の寂しさに付き合うのは難しい。

 昔、好きなエロゲでこういう文があった。

「同じ寂しさを持つ人が仲良くなれる」

 寂しすぎる人と全く寂しくない人が一緒にいたら、きっとうまくいかないだろう。寂しい人は満たされないし寂しくない人はしつこく感じる。元々の寂しさが近い人同士がすり合わせしてやっとそこらへんは何とかなるのかもしれない。

 

 

 つまり、需要供給がちぐはぐなのと寂しさが釣り合わないことが問題点。俺もある程度すり合わせる必要がありそうだ。

  

 俺は生まれて初めて、程度は小さいかもしれないが異性に承認、要求されている。今までこの感覚を渇望していた。しかし、いざ求められてみると、あれだな。感覚は「たまに連絡くれる母親」に近いな。湿度を持った空気感。承認も被要求も根拠がないから本当に空気みたいな感覚。

 

 言いたい事は他にもあるけど、時間なのでいったんここで。

 それにしても、ラインちくちく返してると集中できねえ。何も。

パンチドランカー

 前回の記事、少し雑だったかもね。手っ取り早く承認される能力がなくて、それでも承認されたい人間が面白さに縋るってこと。承認欲求モンスターというかアイデンティティモンスターなんだよな俺って。自分が特別だとか生きてきた証を遺したいとかナチュラルに考えちゃってる。周りの同級生たちはとっくに人生を自動化させているというのに。…こんな言い方をしているあたり、とことん俺は周りの人間を見下していると思う。

 

 

 ちょっと本題に入りかけたかな。

 ずっと前から意識していたことがある。自分のスタイルについて。

 端的に言えば、俺は負けたがっている。

 負けたい、辛い思いをしたい、挫折したい、弱者でありたい、その姿を美しいと思っている。きっとそんなところだ。

 なんというか、もっと器用に生きる方法を俺は知っている気がする。というか、俺自身は最低限の幸福を得られるように器用に生きちゃっている。

 それなりの大学に進学して、学部学科研究室も厳しすぎず就職先の良いところにして、会社でも最低限マトモに働いて、それなりの生活を確保しちゃっている。

 その上で冒険だか挑戦だか馬鹿な事だかして、不幸なふるまいをしている。

 本当に無鉄砲で不器用な人間ならもっと滅茶苦茶な経歴だったり行く先々で本当に苦労しているはず。俺はちゃっかり器用に生きてしまっているのだ。それなのに不器用に生きようとしている。

 

 なぜこのような人生を送っているのだろうか俺は。

 多分、勝ちたくないから。今まで自分を負かしてきた存在になりたくないから。勝てば反骨は終わる。のっぺらとした幸せな日々が続いてつまらない人間になっていく。そんな人間をたくさん見てきた。勝って満たされてモラトリアムの旅が終わることも、目の前の小さな幸せに妥協してしまうのも許せない、そんな強欲な人間が俺だ。

 

 負ける痛みには慣れていた。そして、今までの環境は常に自分を虐げる存在にあふれていた。暴力に耐えて努力して成長する、そんなスタイルに慣れてしまっていたから、今でも自然と痛みを求めてしまうのかもしれない。これが今回のサブタイトルの由来。

 

 作家は不幸でなくてはならない。誰が言い出したかもわからないそんな言葉にまだ俺は縛られている。

 

 青い鳥がいればいいんだけど。というか、結局どうなりてえんだよこの人生。痛くて気持ちのいい人生を送りたいだけなのか、ルサンチマン燃やす思想を完成させたいのか、それを認められたいのか、ただ悩みたいだけなのか。このままじゃただ手頃な痛みを無理やり探して終わりだぜ。

 

 とりあえず具体的な方向性を一つ示しておこう。、、、今書いている作品を完成させる。書いていく中で思想が開けてくるかもしれないしね。

祝福としてのギャグセンス

 サブタイトルは以前間違えてつけたもの。

 今回は本当に書きたかったことを。

 

 人に面白いと思わせる能力、ギャグセンスと俺は呼んでいる。そんな能力の話。

 

 どうすれば面白く感じるか、それは既知と未知の混合だと思う。なんでってのは置いておきたい。面白いと思ったギャグを分解するとどっちも入ってるんじゃないかな。

 

 んで、既知と未知の段差を作るには相手との段差ができていないといけない。もっと言うと、局所的にでも相手の知らない範囲をカバーするなり意識の外側を引っ張って来る必要がある。

 その源泉は経験。知識的な経験もそうだが、心理的な経験。なぜなら面白さが相手に伝わる直前には必ず共感させる行程が挟まれるから。相手の心理・気持ちに合わせた情緒的アプローチをすることで面白さが伝わる。

 いや、理屈だけで情緒絡ませずに笑わせられることもあるだろ!って突っ込まれそうだが、まあまあまあ。

 

 心理的な経験が面白さの源泉となる。だから色んな経験をしてる人は面白くなるリソースがある。

 

 経験のある人間ってのはそれなりにいる。というか、極論みんな同じ時間過ごしてるんだから取捨選択の違いでしかない。綺麗事を話せば経験は人それぞれなのに、どうしてギャグセンスに差が出るのか。

 

 

 答え。そもそもギャグセンスを欲しないと強化されないから。人間は気持ちよくなるために社会に居場所を探す。承認されに行く。仙人みたいに人と関わらず食べ物あればいいって人もいるんだろうけど、大体はそこまで強くないからね。何かしらで自分を納得させる。

 運動神経、容姿、頭脳、仕事、友人、家庭…何かしらで自分の居場所を見つける。一番じゃなくたっていい。周りに承認されて自分が満足すればいい。

 そういった能力のない人が縋るのが面白さだと俺は思ってる。何も持たない人間が縋るアイデンティティ。その段階までろ過される人間は少ない。そしてろ過されてからも「別に承認されなくてもいいや」って思える心の強い人もいるから尚更ギャグセンス専業は少ない。

 や、そんなことないよ。面白くなりたい人たくさんいるって!って思うかもしれないけど、マジでそんな人少ないよ。自分を面白いって思ってる人は多いけど。

 

 次に大事な要因として、ギャグセンスの成長は感受性に左右されること。心理的な経験は、自分の気持ちが動かないと発生しない。だから、メンタルが馬鹿みたいに太いと何も効かないメンタル塗り壁になってしまう。感動しないと感動させられない。痛みは身を持って知るように、共感させるには自分も気持ちを知らなければならない。

 

 以上を踏まえるとメンタルが弱くて他に取り柄のない人間はある程度素質があることになりそう。

 

 もう流れ読めてるだろうけど、俺がその、メンタルが弱くて何も取り柄のない人間ってこと。そして普段から挑戦して負けてを繰り返して心理経験を積んでたりしてる。本当は勝ちでも詰めるんだけど純粋に能力不足で勝てない。そして、タチの悪いことに負けることで得られる経験の方が価値があるだなんて思っている。

 

 負け続ける体力と能力があって、メンタルの弱い自分はギャグセンスに祝福されていると言っていいだろう。

 や、ホントは容姿端麗運動神経抜群で楽に生きていけた方がいいんだけどね。

自分の信じるギャグセンス

間違えて前回の記事に今回のサブタイトルをつけてしまった、、、。前回はノロケ回でしたね。でも安心してください。童貞です。そこは変わらないです。付き合ってもないです。交際関係進捗報告以上。

 

今は出張先。朝から夕方まで現場仕事だし夜はスマホ見て寝るだけなので、筆を進めてみようかと。

 

 本題。

 実は新しいXのアカウントをネタ用兼創作用に作ったんすよ。でも周りの人のツイートを見てると疲れちゃってきて。

 多分、ギャグセンスの異なるたくさんの人の話を聞いてて疲れたんだと思う。自分の感覚と会う人ってのは青い鳥のようなものだし。

 世の中語りたがりおじさん

 自虐風含め自慢全般

 頭のいい人たちの会話

 冷笑

 身内ノリ

 …こういうのも見ているうちにまぶたが重くなってくるぜ。

 

 逆に、俺のギャグセンスの源泉であるルサンチマンとそれを燃料にして努力する反骨、現象を簡単なロジックに落とし込む等のテク、そういったものも他者からは痛くて受けを狙っていて見てられないものなのかもしれない。

 ギャグセンスに絶対的な王はいない。測れない。だから競争は必要ない。でもきっと自分の信じる方向性を信じて磨き続けないとな。もっと広くするか深くするか。その過程で、自分が何を思っているかた相手が何を思っているか(感じるか)をシンプルに把握できたらね。

 とりあえず、俺は他人のツイートをたくさん見ているうちに「自分の考えを固めなければ」と思ったので、こうして記事を書くことにした。

 インプットも、もっと体系的に学んだ方がいいと思う。相手の思想・相手が何を考えているかは1人の相手と話し続けなければ見えてこない気がするので。少なくとも1つのコンテンツを全うする必要性をxから感じ取った。

 おわり。

 

 

 

 にしても、「自分がおもしろい・賢いことを言っている」と思っている人たちが集まって好き放題言ったらなんとも言えない雰囲気になるんだね。もっと広く受けるテクと深く伝える方法を身に付けないとな。