w-inds.を一生推し続ける
つい先々月、小学生の頃の夢を叶えてきた。
w-inds.のライブに行ったのは今回が初めてだ。
今までだって行こうと思えばいつだって行けたはずなんだけれど、もう「ファン」を離れてから随分経っていたし、9月7日なら休みが取れそうだなって思いながら、なんてことはない、気まぐれでチケット購入のボタンを押したのだった。
彼らとの出会いは小学6年生の時だったと記憶している。その頃の私はまだ地元の田舎に暮らしていて、当時モーニング娘。とか浜崎あゆみとかポルノグラフィティとかEvery Little Thingとかそういうものが音楽番組を席巻していた。
私は、隣のマンションに住む友達の影響で「学校へ行こう!」を観はじめ、あとは「Mステ」と「歌のトップテン」を毎週家族と一緒に観ていた。時々小遣いでなんとなく気になったCDを買うことはあったけれど、それだけだった。
そんな小学6年のある日、2ndシングル「Feel The Fate」にであった。
Feel The Fate(MUSIC VIDEO Full ver.) / w-inds.
私にとってまさに「運命」とも言うべき歌で、一瞬にして慶太の歌声の虜になってしまった。
女の子と間違うようなハイトーンボイスに、決して女の子では出せない芯のある歌声。
勝気な瞳と 時々掠れる変声期中の声はどこか色っぽくもあり、「特別」だと思った。
最初のうちはアーティスト名もわからず、歌のトップテンで流れるサビを忘れないようにずっと口ずさんでいたほどだった。
try your emotion(MUSIC VIDEO Full ver.) / w-inds.
それからはCDや雑誌を小遣いの限り買い漁る日々を過ごした。(ジュノンボーイとか毎月のように買ってたな・・・。)お金なんてないからファンクラブには入れないし、両親には東京にライブに行きたいなんて言えるような雰囲気ではなかった。
その分、擦り切れるほど観た番組の録画や雑誌にお金と気持ちをつぎ込んでいた。
「~PRIME OF LIFE~」あたりまでをピークに、だんだん気持ちが下がってゆき「ハナムケ」のCD購入を最後に「ファン」からは離れて行った。
(とは言えしばらくはツタヤにアルバムを借りに行ったりしていたのだが。)
きっと彼らの音楽の方向性がだんだん変わって行ってしまったこともあるし(それがいいとか悪いとかではなく)、私は私で高校生になり、色々としんどい時期に突入していて、小・中学生の時の自分とは同じではなくなってしまったこともあったと思う。
Another Days(MUSIC VIDEO Full ver.) / w-inds.
(話逸れるけど、当時はAnotherDaysの頃の慶太の見た目や髪型が最高に好きだった。銀髪かっこよかったなあ・・・。)
彼らの初期楽曲の魅力を語るのに、やはり葉山拓亮の存在は避けて通れないだろう。
歌詞の良さ、曲の良さはすでに言い尽くされているが、それに加えて「今・ココ」の彼らの一瞬を捉え「再現性のない」楽曲をw-inds.に、そして私たちに提供してくれていたように思う。
慶太の変声期中のあの一瞬の声色、高音が出にくくなっているのを無理に出そうとするヒリヒリした音、反抗期や負けん気が混じった生意気な瞳、10代のトゲトゲした色気があった「今・ココ」でこそ成立し得た曲であったと思う。
Paradox(MUSIC VIDEO Full ver.) / w-inds.
例えばParadoxなんかが代表的だけど、w-inds.の楽曲は爽やかでノれるだけのアイドル曲ではなく、思春期独特の悩みや暗さみたいなものがそこかしこに散りばめられている。
当時購入したCDは今でも手元にあるし、折に触れて聴いては勇気をもらっている。最近Apple Musicで全曲配信されるようになってからは改めていろんな曲を聴くようにもなった。それでも彼らの初期の楽曲は私にとって特別であり続けている。
そんな訳で、私にとってw-inds.のライブに参戦するということはある種、一つ小学生の時の夢を叶えてあげることであり、また、そもそも東京に憧れをもち今暮らしているのは、ブラウン管越しの彼らの存在に近づきたかったからであり、その意味では自分の人生の伏線を回収するような意味合いもあった。
ライブの感想はここでは詳しくは書くまい。
ただ「try your emotion」や「Long Road」を彼らと一緒に唄いながら、今まで彼らのデビューしてから17年と私の生きてきた17年が、線と線が交わり溶け合っていくような不思議な感覚に陥った。当時の声とは多少違っていても間違いなく彼らの声だった。
ちょっと長めの丁寧なMCも、彼らの仲の良さも、色んな時期を乗り越えてきた安定感を感じるものだった。
17年前に活動していたアーティストも、今同じように活動を続けている人たちばかりではないだろう(彼らの先輩であるDA PUMPが今年注目されているけど、ISSA以外メンバーが変わってしまったのだと知った時は驚いた。)
だからこそ、彼らがずっと活動し続けてくれていた嬉しさ、そしてまた「出逢えた」感動を私はずっとずっと忘れまい。
w-inds.を私は一生推し続ける。
「少女革命ウテナ」に何度でも救われる
10年ぶりくらいに全部観て感動して勢いで書く。
今後もきっと観るだろうし、カラオケで歌うだろうし、救われるのだろう。
「少女革命ウテナ」について語る前に、まずは「お姫様」と「王子様」のジェンダーの話からしたいと思う。
お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門 (ちくま新書)
- 作者: 若桑みどり
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2003/06/01
- メディア: 新書
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この新書における主張は、おおまかに下記のようなことである。
シンデレラや白雪姫に代表される「お姫様」像は、その美しさと従順さで「王子様」に見初められ、結婚することを「至上かつ唯一の幸せ」とするものである。幼い頃からそのような物語を見聞きし憧れて育つ女性たちは、知らず知らずのうちに「美しく従順でいれば王子様が自分を救ってくれる」という価値観に染まっていくようになる。
逆に自分の力で困難を打破したり、自分なりの幸せを探し・掴むこと、例えば男性以上に学力が高かったり、仕事の能力が高いと「女性らしくない」と言われてしまうのだ。なぜなら「美しく従順で言うことを聞く」方が男性にとって都合が良いからである。
しかし、現代は男女平等参画社会である。勿論、深く根付いた家父長制の価値観を変えることは男女ともに簡単ではない。だが男性にとっても「男らしさ」に縛られない世の中はそこまで悪いものでもないだろう。女性は「お姫様」に縛られず自由な生き方を模索していくべきである。
(この新書が出版されたのは2003年なので、改めて読むと結構アラも見えるのだが、初歩の初歩としては掴みやすいと思う。)
「少女革命ウテナ」では、姫宮アンシーがある種典型的な「お姫様」像を演じている。
自分で王子様を選ぶ訳ではなく、その時々の決闘の勝利者と自動的にエンゲージし「薔薇の花嫁」となる。決闘の勝利者はアンシーの「王子様」として振る舞える権利を得るのである。西園寺とエンゲージしていた際に、暴力を振るわれても黙っているように、基本的に受け身で従順であり、男性にとっては都合の良い「お姫様」である。
そしてアンシーがいつも薔薇に水をやっている温室は鳥かごの形をしており、文字どおり「籠の中の鳥」であることを示唆している。
「王子様になりたい」と憧れる天上ウテナはひょんな事からこの決闘システムに巻き込まれる。天上ウテナはアンシーとは対照的で、男子よりも運動神経が良く、スカートは履かず、自ら戦い、それでいて「僕は女の子だ」と言える強さを持っている。「強い自分であること」と「女の子であること」を自分の中で両立できているのだ。
姫宮アンシーが典型的な「受け身なお姫様」だとすれば、ウテナは現代における「理想的な女性」だと言えるだろう。このままウテナがアンシーの「心優しき王子様」として幸せに暮らしました・・・となるかと思いきや、物語はそう簡単には進まない。
ウテナは自ら「王子様になりたい」と願うと同時に、幼い頃自分を救ってくれた「本当の王子様」に恋愛感情を抱いているという矛盾を抱えている。王子様とお姫様は二人で一つのペアの概念であるから、王子様だけでもお姫様だけでも成立し得ない。つまり、アンシーの前では「王子様」で居られるウテナも、「自分の王子様」の前では守られる「お姫様」になりたいという願望を持っているのである(アニメの冒頭に繰り返し出てくる回想シーンで幼いウテナはお姫様の格好をしている。)
この自己矛盾が最大の弱点となり、物語においてウテナは二度敗北する。一度目は桐生冬芽、二度目は鳳暁生である。冬芽は後に本当の王子様でないことがわかった為、自分を取り戻し勝利するが、暁生は夢見ていた本当の王子様であったため、従順に体を許し、心を許し、ついには薔薇の花嫁になってしまう。
それでもなんとか最後まで王子様になろうとあがくウテナであったが、結局お姫様としての自分を投げ打っても鳳暁生には勝てず(アンシーに裏切られ)、王子様としてアンシーを救い出すこともできず終わってしまう。
しかし、最終回を観ればアンシーはウテナに救われたことは自明であろう。決してこのアニメはバッドエンドなどではない。「王子様として」救うことはできなかったが「友達として」アンシーを救ったのである。
そして「友情」こそが、少女革命ウテナというアニメの「お姫様とジェンダー」問題に対する回答なのである。王子様・お姫様無き世界で人は、一方的に守ったり守られる関係ではなく、対等な友情関係が結ばれるという強いメッセージである。
蛇足になるが、例えウテナが暁生を打ち倒し王子様になったとしてもアンシーにとっては仕える「王子様」が変わるだけの話であっただろう。それなりに良い王子様になったかもしれないが「美しく従順で言うことを聞くお姫様」というアンシーのスタンスは変わらなかったに違いない。
「今度は私が行くから。どこにいても必ず見つけるから。待っててね、ウテナ」と 暁生(王子様)の支配する学園から踏み出す姿こそ「革命」なのである。
おわり。
米津玄師の「百鬼夜行」を考える
最近米津玄師しか聴いてないので今日は「百鬼夜行」でいこうと思う。
昔の米津玄師はなんだか棘があって、それがまた今とは違う良さがあるね。この曲は 我らは現代の妖怪だ! という歌詞の通り「現代の人間を妖怪に例えた歌」だ。とっても皮肉っぽくてそんでもって下ネタのオンパレードである。順番に見て行こう。
ちゃんちゃらおかしな出で立ちで また酒呑み呷れど日は暮れず
つまらん顔して街を行く ほら あれこれ言うては酔い散らす
いや どだいもどだいに面倒で おかしな飲ん兵衛だ
オンボロ錦の更紗模様 その洒落たお顔には金魚の絵
腰やら股やら働かせ またお手軽欲望貪れば
今どこへも聞こえる声出した 「私さみしいの」
ここでの共通点は、二人とも理性を失い欲望のままに生きている状態であることだ。飲ん兵衛は昼間っから飲んでだらしなくクダを巻いている様子がわかるし、女もお手軽に男を誘ってその場限りの情事にさみしさを紛らわせている。
呼ばれて飛び出てこの世に参上 皆様よろしくどうぞ
楽しくなったり悲しくなったり 忙しのない日ばかりだ
帳を上げろや昼行灯ほら ここらでおひとつどうだ
我らは現代の妖怪だ!
「呼ばれて飛び出て」はハクション大魔王のイメージだろうか。この世に生を受けたことを皮肉たっぷりに歌い上げる。また「楽しくなったり悲しくなったり 忙しのない日ばかりだ」というのは人生そのものだ。
要は「望んでもないのにこの世に生まれ落ち、感情や欲望に振り回されている人生だ」ということなんだろう。そしてつづく「帳を上げろや昼行灯」はダブルミーニングになっている。
まず、帳とは「覆い隠すもの、垂れ布」という意味がある。そんで昼行灯とは「ぼんやりしてる人、役に立たない人」の意味だ。「ちょっとぼーっとしてないでその帳をとっぱらっちゃって!」といった感じだろうか。もう一つは「夜の帳が下りる」の反対語としての「帳を上げろ」である。夜の反対は・・・というわけで「昼」行灯。言葉遊びが楽しいね。
では「帳に覆い隠されているものをとっぱらった」ら、何が出てくるのだろうか。そう、「妖怪」なのである。人間の皮を被っているけど、中身はみんな妖怪だ!!というわけだ。
頓珍漢なことばかり まだ信じている
狸の背中に火を灯せば ほう
あんあん ぱっぱらぱの行進 やってやれほら
バケツ叩いては声上げろや ほう
明るい夜の到来だ ようそろ
曲のタイトルにもなっている百鬼夜行してる部分。「ぱっぱらぱの行進」て中々ディスった言い方だな。
ここで妖怪たちが信じている「頓珍漢なこと」とはなんだろうか。「自分たちが(理性を持った清く正しい)人間だということ」である。そして狸や狐は日本の昔話で他のもの(主に人)に化けることができるとされた動物である。その背中に火を灯せば(水被せば)・・・・「化けの皮が剥がれる=妖怪の姿が現れる」と言うわけで、さっきの「帳を上げろ」と同じことを指しているわけだ。
「ようそろ」は航海用語で船を直進させるときの掛け声らしい。百鬼夜行が行進していく様を指していると同時に、色々皮肉りつつもそれこそ人間の姿ださあいこうという肯定でもあるだろう。
みなみな欲望詰め込んだ そのペラペラ少女とニヤケ猿
お願い全てを投げ付けて また 一人で快楽部屋の隅
ほら 頭と目ばっか肥えて行き 青白い顔
雨降る夜には傘になり その体で誰かと雨宿り
お歌を歌えば人を騙し また誰彼構わず慰める
ほら盲信者増やして傘下に置いて 孤独で遊説を
基本的に2番は1番の歌詞に応える歌詞であえる。ペラペラ少女=二次元の女の子であろう。ここで描かれているのも基本的に1番と同じ「孤独を性欲で慰めている人間のすがた」である。
さらに1番では「オンボロ錦の更紗模様」といった着物姿を連想させる表現に対し「ペラペラ少女とニヤケ猿」といったパソコンや携帯の画面を思わせる表現が取られており、「過去」と「現在」といった時間の対比も感じられる。
生まれて初めてこの世に登場 続きは表でどうぞ
嬉しくなったり怒り狂ったり 忙しのない日ばかりだ
その手を下ろせや用心棒 ほら ここらでおひとつどうだ
我らは現代の妖怪だ!
「嬉しくなったり怒り狂ったり」は、1番と合わせて喜怒哀楽である。
では「その手を下ろせや用心棒」はなんだろうか。用心棒とは、何かを守っている番人のことである。その用心棒に手を下ろせ、と言っているわけなのでここでは「妖怪の本性を隠して守っていないで見せろ」の意であろう。
どんでんひっくり返し行こうや スチャラカほいさ
狐の頭に水被せば ほう
あんあん ぱっぱらぱの行進 やってやれほら
薬缶鳴らしては声合わせや ほう
明るい夜の到来だ ようそろ
1番ではバケツ、2番では薬缶。チンドン屋のようなイメージだろうかね。
こんな具合になったのは誰のお陰だろうか
こんな具合になったのは ああいまさらどうでも ええわ
これは下ネタ••••「具合がいい」って言うよね。
どうでもええわ、ってナチュラルに関西弁?徳島弁?が出てていいね。
そして最後のサビ。この歌の種明かしというか一番言いたい部分。
ちゃんちゃらおかしな世の中だ
その平和と愛とをうたえども
心にあるのはそれではない
また僕らにそれほど自由はない
ほら得意の炎で焼いてくれ
あなたの言う愛で
ここの「うたう」は「謳う」である。多くの人々が褒めたたえる、ある事を盛んに言いたてるの意味だ。平和や愛を盛んに言いたてて褒めそやすけれど、心にあるのはそれ(平和や愛)ではない。じゃあなんだ?そう「孤独」や「性欲」なのだ、というのがこの曲の結論だ。
人間・平和・愛
↕︎
妖怪・孤独・性欲
簡単に書くとこういう図式になる。
確かにここまで書かれてきた表現は、キラキラした平和や愛などではない。そして平和や愛だけを考えて行きていけるほど人間は強くないし自由ではない。
孤独や不安に苛まれたり、喜怒哀楽に振り回されたり、性欲も自分の欲望を一方的に詰め込んでしまうような自分勝手で不自由な生き物だ。
あなたの言う純粋な「愛の炎」とやらで、俺の言うことを焼いてみろよ(論破してみろよ)という挑戦的な最後でこの曲は終わる。
鬱屈とした内容だが、小気味いい。また時々はこう言う曲をかいてほしいよね。
おわる。
「それでも夜は明ける」とカフカ「変身」
アカデミー作品賞も頷けた。
実話が元になっているので「興味深い」という言い方はふさわしくないかもしれないが、単純な「黒人差別」ではなく本来「自由国民である黒人」が、ある日突然アメリカ北部から南部へ拉致され、奴隷にされるという「ねじれ」のある設定は中々ないのではないだろうか。
ある日突然、今までの当たり前の世界が一変する恐ろしさ。
12年という年月はあまりにも長い。
生まれながらの奴隷である他の黒人達とは違い「自由を知っている黒人」であるソロモンはどこか孤独だ。白人には物のように扱われ、黒人にも自分の身分を明かすことができない辛さ、不条理さ。
首を吊られたままなんとか足をつけて生き延びるシーンなどは長回しで、気の遠くなるような時間の一端を観ている側も感じ取ることができる。
不条理と言えば、フランツ・カフカの「変身」であろう。
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
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ある日突然醜悪な巨大な虫になって、愛する家族にすら忌み嫌われて死んでしまう。
ユダヤ人であったカフカの生い立ちが不条理文学を生んだとも言われているから、この世で人間に最も絶望を与える不条理とは「人種差別」なのかもしれない。
ソロモンは最終的に奴隷から解放され北部に帰還することができたが、他の黒人、しかも自分を多少なりとも好いてくれていた女性を残していくシーンは後味の悪さが残るものであった(しかし首を吊られた時だれも助けに来なかったのだからおあいこかもしれない。)
結局ソロモンが善人だったかというと悪人ではないだろうが、英雄などではなくただ這いずり回って生き延びたという「正しい」人間の映画であった。
最後に言うなれば、人間は誰しも不条理を抱え生きていくものだが、そんな人生の場面に直面した時、部屋に閉じこもって自らを哀れんで死んでいくのか、
這いつくばって生きようともがき苦しむのかは自分の問題だということだ。
「百円の恋」と八円の愛について
やっと観た。アマゾンプライムで。
この映画は「崖っぷち30代の青春賛歌」である。
歌もいいんだよ。クリープハイプ最高。
「私、100円の女だから」
32歳、引きこもりニートのイチコ。妹が離婚して実家に帰ってきたことをきっかけに
家を追い出されるようにして一人暮らしを始める。
100円均一のコンビニでバイトを始めるが、イチコを雇ってくれるようなコンビニだけあり、勤務先の人間もクズばかりである。それにしても、
本当になんでこんなにクズしか出てこないんだろうか
と思うほど、兎に角この映画は登場人物がクズのオンパレードである。
イチコを酔わせてホテルに連れ込むおっさん、コンビニの廃棄を狙ったあげく強盗を働くおばさん、女の家に転がり込んだせに浮気して捨てる男、上から目線で何かにつけバイトをバカにしてくる社員。。。
いっそ清々しい。
「なんでボクシングやってんだよ」
そんな中で、自分を捨てた男に代わってボクシングを始めたイチコ。
「試合の後に、肩を叩きあったり、抱き合ったりそういうのがなんかいいと思った」と答える姿が染みる。彼女は孤独だ。
次第にボクシングにのめり込んでいくイチコ。
初めての一人暮らし、仕事、彼氏との別れの中でボクシングはストレスのはけ口にもなっていた。
一度だけでいいから勝ちたかった
イチコは変わり始める。
笑顔が増えたり、体が引き締まってきたり、髪の毛を結って顔を出したり。
次第に家族やボクシングジムの中に新しい居場所ができていく。
イチコの試合前のシーンは象徴的だ。
「青木ボクシングジム」の名前を背負い、ユニフォームには実家の弁当屋「さいとう亭」の文字。働いて居た「コンビニのBGM」を流し、初恋の相手が教えてくれた「ボクシング」の試合に臨む。
彼女の全て。
32歳で、実家は弁当屋で、コンビニバイトくらいしか出来なくて、男に捨てられて、そんな自分を丸ごと受け入れて、全てを引っさげて試合に臨む姿は美しい。
しかし結果はボロ負け。
イチコの遅れながらの青春はこれで終わったのであった。
百円の恋に八円の愛ってわかってるけど
結局イチコは何者かになるわけでもなく、クビになったコンビニの代わりに
実家の弁当屋を手伝う平々凡々周回遅れの人生なのだった。
周りから見たら見向きもしないような人生かもしれないけれど、
イチコの踏み出した一歩は大きいし、人生を変えた。
でも、人生は楽しいことだけでなく、痛みも伴う。
クリープハイプの「誰かを好きなることにも消費税がかかっていて」というのは
言い得て妙だ。
彼との幸せを知ることは、別れる時の辛さを知るのと同義で、
ひとつ何かができるようになることは、誰かに負けることの同義なのだ。
これから始まる毎日は映画になんかならなくても
これからイチコはどうなるのかな。
やっぱりあの男とよりを戻すんだろうかな。
これからのイチコの人生も、私の人生も映画になんかならないけど、
そうやって光と闇を抱えて生きてくんだろうな。
明日も頑張ろう。
「鳥にでもなりたい」の、あなたとあたしの世界
米津玄師の「鳥にでもなりたい」の美しさについて。
2013年の曲。アルバム曲ではないので、知らない人も多いのかもしれない。
Aメロ→Aダッシュメロ→Bメロ→サビ が2回繰り返されるシンプルな構成。
登場人物は「あたし」と「あなた」と「誰それ・誰彼」である。
あなたが愛してくれないなら あたしは生きてる意味なんてないわ
今更どこへもいけないなら きれいな鳥にでもなりたいわ
入りからなかなかヘヴィーな歌詞だ。
どうやら「あなたが愛してくれないなら自分は生きてる意味はない」とこの「あたし」は感じている。なぜなら「今更どこへもいけない」から。
事情はわからないが「今更あなたを愛する以外の人生は選べない」と主人公のあたしは考えているようだ。
ではなぜ「今更どこへもいけない」のだろうか。
歌詞はこう続く。
誰それ大げさに吐く嘘には 易々耳なんか貸さないんだから
要は、この「あたし」、他の誰のことも信じちゃいないのである。だから「あなた」に愛される道しか自分が幸福になれる道がない。
その願いが叶わないのならせめて「誰それ・誰彼」に愛される「きれいな鳥にでもなりたいわ」と嘯く。
米津玄師お得意の不協和音が「あたし」のおかしさを端的に説明している。
しかしBメロで変化が訪れる。起承転結の「転」の部分である。
だけど今日は寂しいが募る日になって 悲しいで満ちる夜になって
(略)あたしあなたこと愛してる
いろいろ言っても結局「あたし」は孤独なのである。
大前提として「あたし」は「あなた」に愛されて居ないということは明確である。満たされていたらそもそも「きれいな鳥にでもなりたいわ」なんて思わないのだから。
でも今更「誰それ・誰彼」を信じることはできない。
だからやっぱり「あたしあなたのこと愛してる!!!」に行き着いてしまうのだ。
ねえねえねえ連れてって!連れてって連れてって!
というわけで、「あなた」に全力疾走するサビ。ちょっと可愛ささえ感じてしまうのは私だけだろうか。
短い歌詞の中でサビに行き着くまでの「あたし」の思考の動きを丁寧に表現しているからこそ、このサビが活きてくるわけで、舌を巻くしかない。
そんなわけで、1番も2番も基本的には同じことしか言ってないのだが、2番の歌詞で1箇所付け加えて置くのであればこの歌詞だ。
あたしはあたしでいたいの、あたしあなたのこと愛してる
これはこの歌詞のタイトルにもなっている「鳥にでもなりたい」に対する回答である。
「あなたに愛されなかったら鳥になりたいな」と言って居たのに「鳥にはなりません!」というのが「あたし」の答えなのだ。
やはり「あなた」に愛されるしかないのである。
最後に、サビの歌詞の話。
あなたの生まれたあの街の中 あなたを育てたあの部屋の中
本来であれば「あなたの生まれたあの部屋の中」「あなたを育てたあの街の中」の方が言葉の意味としては通るはずだ。
しかし、歌詞の意味合いとしては「あなたの何もかもが知りたい」なのだから、あえて正方形の対角線を結ぶように、広がりを持たせたのだろう。
音楽は続く。
夜を越えて(『木洩れ日に泳ぐ魚』を読んで)
恩田陸の「木洩れ日に泳ぐ魚」を読んだ。
(というよりそれ以外読んだことがない)
「夜のピクニック」は高校の「歩行祭」という夜通し歩き続ける行事を通して、主人公が一つの思いを行動に移す話だが、「木洩れ日に泳ぐ魚」も、ある兄妹が一晩意見を交わして一つの結論を出す話である。
一緒に夜を明かす、ということは、確かに特別なことかもしれない。
小学校のキャンプ、中学の部活の合宿、高校の修学旅行、大学の卒業旅行。
「夜のピクニック」は二人の「始まり」の話とすれば「木漏れ日に泳ぐ魚」は二人の「終わり」の話と言えるだろう。
すでに愛情は無くなって居て、お互いを憎んで離れたくて仕方がないのに
「運命」と信じているから別れられない二人。
日の出とともに別れがやってくるけれど、大切な一晩を共有したという事実が
二人だけの秘密となり、心のどこかでお互いをつなぐ。