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kazu1000のブログ / 社寺仏閣巡り 社寺仏閣巡りが好きです。特に神社が好きで関西を中心に廻っています。Instagram:https://www.instagram.com/kazuyoshi1000

【宇賀大善神社】(うがだいぜんじんじゃ) 大阪府茨木市

【宇賀大善神】(うがだいぜんじんじゃ) 大阪府茨木市

 

隠れキリシタンの里「千提寺」の道路沿いにある小さな祠です。「千提寺」の集落の人たちはキリスト教の信者になり1600年から1919年まで隠れキリシタンだった一族です。この神社の祭神は「宇賀大善神」。詳しい由緒等は不明です。

 

 

場所:大阪府茨木市千提寺の府道沿い

 

 

 


【天満宮】(てんまんぐう)大阪府茨木市

隠れキリシタンの里で有名な大阪府茨木市千提寺にある神社です。【天満宮】(てんまんぐう)なので祭神は菅原道真です。本殿は改装中でした。鳥居の奥にあるのは秋田大明神。由緒等は不明です。

 

(撮影:2018年8月29日)

 

 

住所:大阪府茨木市大字千提寺334

 

アクセス:JR茨木市駅より阪急バス千提寺口下車東200m

 

 

 

 

 


【キリシタン遺物史料館】大阪府茨木市 Ibaraki Municipal Christian Relics Depository

キリシタン遺物史料館】大阪府茨木市 Ibaraki Municipal Christian Relics Depository

 

キリシタン遺物史料館は、大阪府茨木市の市街地から離れた北部の山間地千提寺地区にあり、風にそよぐ青葉や野鳥の声などに囲まれた自然の中に建っています。近くにはキリシタン自然歩道のハイキングコースや忍頂寺スポーツ公園、宿泊施設がある竜王山荘などがあります。
 館内には、元信者の家から発見された「あけずの櫃(ひつ)」に入れられた木製キリスト磔刑像や象牙彫マリア像、ほかには絵画、銅版画、メダル、書物などが展示されています。また、館内のビデオで、キリシタン遺物が発見されたいきさつや遺物の種類などを知ることができます。キリシタン墓碑が千提寺の山林で初めて研究家によって確認された再現映像や存命の人たちのアベマリアのオラショ(祈祷文)の話などがドキュメント風に収録されています。
 元信者の子孫の方で、館内の案内をされている東さんから直接、話を聞くことができました。遺物のことは家の跡取りのみに伝えられ、ほかの家族には知らされなかったということです。踏み絵については、「もったいないから、よう踏まず、手前でこけたがかんにんしてくれた」などという話も伝え聞いているとのことでした。 

 

キリスト教は、茨木地域を含む三島地方と深い関係を持っています。それは、高山右近天正元年(1573年)から同13年(1585年)までの12 年間、高槻城主としてこの地にいたためです。右近は、キリスト教の熱烈な信者だと伝えられている大名です。右近が在城の間は、この地は日本でのキリスト教の中心地の一つでした。三島地方には、ほかにもキリシタン大名がいました。安威城主で、天正13年(1585年)に茨木城主になった安威了左(あいのりすけ)で、キリスト教信者になった経緯などは不明です。また、その前の茨木城主中川清秀とその子秀政・秀成も洗礼を受けたと伝えられています。
 キリスト教は秀吉の時代になって禁止されます。その教義が当時の封建思想と相容れないことなどが理由でした。高山右近は領土を取り上げられ、加賀の前田家に預けられました。江戸時代に入ってもキリスト教に対する弾圧は続き、右近は遠いマニラの地に信徒たちと共に追放されました。
 徳川幕府は徹底的にキリスト教を弾圧する政策をとる一方、日本人が国外へ出ることと、外国人が日本へ入国することを厳禁するに至りました。
 信者たちは、その縁者も含めて、死罪、流罪などの厳罰に処せられ、さらにキリスト教に関係のある物品などをすべて取り上げられました。この禁教政策によって、高槻や三島地方の信者たちも隠れて信仰をしなければならなくなったのです。

 

〒568-0098 茨木市大字千提寺262
TEL 649-3443
開館  9:30 ~17:00
    (月曜日は9:30 ~12:00)
休館  毎週火曜日・国民の祝日・年末・年始
入館料 無料

 

 

 

 

 

 

 

[ Ibaraki Municipal Christian Relics Depository ]

 

Early Christians in Mushima District

 

Hida-no-kami Takayama who was the father of Ukon Takayama ( a well-known Christian Load) was the load od Sawa Castle in The Province of Yamato (present-day Nara  Prefecture). 
In 1563 Christ's teaching impressed Hida-no-kami Takayama, and Villa baptized him Christanity. In 1564, Ukon Takayama was baptized and named the "Justo"by Irmao Lourenco, who was invited to Sawa Castle by Hida-no-kami Takayama.Then,Ukon was 12 years old.
In 1573,Justo Takayama became lord of Takatsuki,making the Mishima district, which embraces present-day Ibaraki City and neighboring Takatsuki City, one of the major centers of teh Christian faith in Japan.
In 1587, Hideyoshi Tyotomi prohibited missionary work, and ordered missionaries the deportion from Japan within 20 days.
In 1612 Ieyasu Tokugawa, who succeeded Toyotomi, issued an even more severe edict banning Christianity. The following year Takayama was banished to Manila with Christanians, while many local Christanians and their relatives were put to death or sent into exile.
The policy of ruthless persucution forced many local Christanians to abandan their faith, at least on the surface, and pose as Buddhists.Not a few of them remained hidden in remote areas where they could live in relative safety. In Feburary 1919 Mr.Daich Fujinami, a noted researcher in the history of Christianity in Japan, came across a Christian tombstone on what is locally known as Mt.Terayama in Sendaiji in the north of Ibaraki. 
Subsequent discoveries of many Christian relics in Sendaiji and nearby Shimo Otowa provided evidence that the mountain hamlets had been retreats for early Christains who kept their faith alive.

 

 

 

【伊弉諾神社】(いざなぎじんじゃ)奈良県生駒市

伊弉諾神社】(いざなぎじんじゃ)は奈良県生駒市にある神社。長弓寺の鎮守で、その境内に鎮座する。延喜式神名帳添下郡の伊射奈岐神社に比定されるが、同郡の登弥神社とする説もある。天平18年(746年)の長弓寺創建にあたり、鎮守として牛頭天王を大宮、八王子を若宮に祀ったという。貞観元年(859年)に従五位下から従五位上に昇叙したことが記述されている。牛頭天王社とも称し、江戸時代まで寺僧の第一臈が神職を務めた。 また、文明6年(1474年)の火災の記録がある[3]。寺の総門前の大鳥居が境内を総括し、境内には桃山時代の石灯籠がある。

 

 

所在地: 奈良県生駒市上町4447
アクセス:近鉄奈良線富雄駅より奈良交通バス(高山方面行き)「生駒上町」下車、徒歩10分

 

 

【長弓寺】(ちょうきゅうじ)奈良県生駒市(3/3)

【長弓寺】(ちょうきゅうじ)は奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院。山号は真弓山、本尊は十一面観音、開基(創立者)は行基と伝える。国宝の本堂は鎌倉時代密教仏堂の代表作として知られる。長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。『長弓寺縁起』によると奈良時代に息子の流れ矢に当たって死んだ豪族・真弓長弓(まゆみたけゆみ)を悼み聖武天皇が僧・行基に開かせたと伝わり、後に藤原良継が堂塔を整えたとされる。盛時には塔頭が20院あったとされるが、現在は4坊が残るのみである。
伝承によれば神亀5年(728年)、鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)という人物が聖武天皇随行して狩りに出た。同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ矢は誤って長弓に当たり、彼は死んでしまった。不運な長弓父子を哀れんだ聖武は僧・行基に命じて一寺を建立させた。行基は十一面観音像を安置してこれを本尊とした。十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武の弓を刻んだものだという。なお「鳥見(登美)」は長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。現在の奈良市西部から生駒市にあたる。

 

その後、桓武天皇(737年 - 806年)の時代に藤原良継(716年 - 777年)が再興したというが桓武の即位は良継没後の781年であるので時代的に合わない。別の伝承では平安時代初期に藤原緒継(774年 - 843年)によって創建されたともいう。

 

以後、中世までの沿革はあまりはっきりしていないが現在の本堂は棟木銘から弘安2年(1279年)の建立であることが明らかで真言律宗の祖・叡尊(1201年 - 1290年)によって再興されたものである。

 

長弓寺の境内東側にある伊弉諾(いざなぎ)神社は明治の神仏分離以前は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守として建てさせたものという。長弓寺の参道入口に鳥居が立つことからもうかがえるように、近世以前は神仏混交の信仰が行われていた。
境内奥に国宝の本堂が建ち右側(東)には伊弉諾神社、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、宝光院がある。長弓寺本寺には住職がなく、4つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。

 

 

所在地: 奈良県生駒市上町4443

 

 

 

【長弓寺】(ちょうきゅうじ)奈良県生駒市 (2/3)

【長弓寺】(ちょうきゅうじ)は奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院。山号は真弓山、本尊は十一面観音、開基(創立者)は行基と伝える。国宝の本堂は鎌倉時代密教仏堂の代表作として知られる。長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。『長弓寺縁起』によると奈良時代に息子の流れ矢に当たって死んだ豪族・真弓長弓(まゆみたけゆみ)を悼み聖武天皇が僧・行基に開かせたと伝わり、後に藤原良継が堂塔を整えたとされる。盛時には塔頭が20院あったとされるが、現在は4坊が残るのみである。

 

 

 

伝承によれば神亀5年(728年)、鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)という人物が聖武天皇随行して狩りに出た。同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ矢は誤って長弓に当たり、彼は死んでしまった。不運な長弓父子を哀れんだ聖武は僧・行基に命じて一寺を建立させた。行基は十一面観音像を安置してこれを本尊とした。十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武の弓を刻んだものだという。なお「鳥見(登美)」は長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。現在の奈良市西部から生駒市にあたる。

 

 

 

その後、桓武天皇(737年 - 806年)の時代に藤原良継(716年 - 777年)が再興したというが桓武の即位は良継没後の781年であるので時代的に合わない。別の伝承では平安時代初期に藤原緒継(774年 - 843年)によって創建されたともいう。

 

 

 

以後、中世までの沿革はあまりはっきりしていないが現在の本堂は棟木銘から弘安2年(1279年)の建立であることが明らかで真言律宗の祖・叡尊(1201年 - 1290年)によって再興されたものである。

 

 

 

長弓寺の境内東側にある伊弉諾(いざなぎ)神社は明治の神仏分離以前は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守として建てさせたものという。長弓寺の参道入口に鳥居が立つことからもうかがえるように、近世以前は神仏混交の信仰が行われていた。
境内奥に国宝の本堂が建ち右側(東)には伊弉諾神社、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、宝光院がある。長弓寺本寺には住職がなく、4つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。

 

 

 

所在地: 奈良県生駒市上町4443

 

 

【長弓寺】(ちょうきゅうじ)奈良県生駒市 (1/3)

【長弓寺】(ちょうきゅうじ)は奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院。山号は真弓山、本尊は十一面観音、開基(創立者)は行基と伝える。国宝の本堂は鎌倉時代密教仏堂の代表作として知られる。長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。『長弓寺縁起』によると奈良時代に息子の流れ矢に当たって死んだ豪族・真弓長弓(まゆみたけゆみ)を悼み聖武天皇が僧・行基に開かせたと伝わり、後に藤原良継が堂塔を整えたとされる。盛時には塔頭が20院あったとされるが、現在は4坊が残るのみである。

 

伝承によれば神亀5年(728年)、鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)という人物が聖武天皇随行して狩りに出た。同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ矢は誤って長弓に当たり、彼は死んでしまった。不運な長弓父子を哀れんだ聖武は僧・行基に命じて一寺を建立させた。行基は十一面観音像を安置してこれを本尊とした。十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武の弓を刻んだものだという。なお「鳥見(登美)」は長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。現在の奈良市西部から生駒市にあたる。

 

その後、桓武天皇(737年 - 806年)の時代に藤原良継(716年 - 777年)が再興したというが桓武の即位は良継没後の781年であるので時代的に合わない。別の伝承では平安時代初期に藤原緒継(774年 - 843年)によって創建されたともいう。

 

以後、中世までの沿革はあまりはっきりしていないが現在の本堂は棟木銘から弘安2年(1279年)の建立であることが明らかで真言律宗の祖・叡尊(1201年 - 1290年)によって再興されたものである。

 

長弓寺の境内東側にある伊弉諾(いざなぎ)神社は明治の神仏分離以前は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守として建てさせたものという。長弓寺の参道入口に鳥居が立つことからもうかがえるように、近世以前は神仏混交の信仰が行われていた。
境内奥に国宝の本堂が建ち右側(東)には伊弉諾神社、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、宝光院がある。長弓寺本寺には住職がなく、4つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。

 

所在地: 奈良県生駒市上町4443