川上さんのノスタルジーについてから妖怪ウォッチが終わってしまったのは…と思うこと。

ジブリのノスタルジーの源泉はなにか:かわんごのブロマガ - ブロマガ
結論として、つまりジブリアニメが生み出すノスタルジーの源泉は子供から見た世界の見え方の再現を作品がおこなっているというのがぼくがたどり着いた答えになる。

川上量生さんのノスタルジーについて。
とても納得。

川上さんはコンテンツの秘密という著書でコンテンツが表す情報量ということについても語っていて、ジブリでいえばノスタルジーを感じる情報が作品にたくさん含まれているのもとても納得できる。

以前、何かで宮崎駿さんが崖のうえのポニョでコウスケがバケツに水を入れるシーンをスタッフに描かせるのだけど、今の子たちはちゃんと知らないから描けない。と言うようなことを言ってた。

そのときは読んだ言葉そのまま、今時の子はバケツに水を入れて遊ぶ体験が少ないのかぁ。などと思っていたが、その私の解釈は違うということが川上さんのブログでわかった。

きっと、こうすけが水をバケツに入れた世界は誰もが知っている世界なのだ。

その経験を子ども目線、現実のリアルな表現ではなく、子どもが感じている世界の目線で表現する。その目線が足りないということを宮崎駿さんは言っていたんだな、と。

リアルな水しぶきを描くだけではダメだと。

こんなふうにジブリの作品には子どもの世界の目線の表現がメインのシーンだけではなく、バケツに水を入れるというささやかなシーンにまでおよぶ。

その、常に、常に、の子どもの目を通した世界としての情報が多い画の連続がつながって、創り手が過ごした日本という地域限定ではなく、子ども時代を過ごした世界の大人たちにノスタルジーが届く。
 小さい頃を思い出して欲しい。まわりにうつるすべてのものはキラキラと輝いていて、すてきな秘密を隠しているように見えた。世界は美しかった。
 これからなにが起こるのか、きっと素敵な未来に違いない。自分はきっと愛されていて、まわりのひとたちは怖いときもあるけれど、みんないいひとだった。
 ぼくらにとって世界はもっと優しかった。

うんうん。

特別な経験ではない。

子どもとして息を吸って存在していたことを脳に届くように表現することでノスタルジーが呼び起こされる。

それで以前、妖怪ウォッチの映画は子どもをなめていると感想としてツイートしたことを思い出した。

適齢の息子がいて、親子で妖怪ウォッチにはまっていたのだけど、私ははまりきれなかった。

その理由も川上さんのノスタルジーについて見解でわかった気がする。

妖怪ウォッチは今と昔を行き来する内容のゲームなのだが、古典妖怪に紐づけた昔の時代を設定することでプレイヤーがノスタルジーも感じることを狙っていたと思う。

だけどレベルファイブが意図したと思うゲーム内容の設定からノスタルジーを感じることはなかった。


昔のお婆ちゃんちの縁側。

田んぼの畦道。

昭和のごちゃごちゃとした街並み。


ゲームをしていて、いわゆるノスタルジーの定番のような設定からノスタルジーを感じなかった。

それよりも、


自転車で走り回ること。

木や草むらにいる虫とり。

奥深く進んでいく山道。


昔という時代に限定されない、現代でもできる行為にノスタルジーを感じた。

これは単なる昔の風景よりも、子どもの頃に遊んだ行為を時代の設定に限らずプレイヤーが動かせることで、脳に響く情報量が少し多くなっているから感じると説明できるのではないだろうか。

レベルファイブはラッキーだったんじゃないかな。ノスタルジーを表現する意図はヒットしても、それは意図した設定からではなく、はからずも別の設定から感じてもらえたことのラッキーがヒットへ繋がっていったんじゃないかと。

もちろん、レベルファイブは斬新に感じさせたクロスメディア戦略がヒットのメイン要素で、ノスタルジーを感じさせることがヒットのメイン要因ではないだろうと思う。

でも、そういう狙った1つの設定の表現の根本がずれていて、そのずれが田舎の縁側や田んぼの畦道というノスタルジーについての浅い考えであり、そこを代表するなにかがブーム終息に繋がっていったんじゃないだろうか。


妖怪ウォッチが一時期のヒットで終わってしまったのはどうでもいい。

ただここまで考えたくなるのは、レベルファイブの人が「妖怪ウォッチはドラえもんを目指す」と言っていたからだ。


現代のドラえもんを目指してキャラクターを生み出し、ヒットに繋がった。

だけどそこで私がノスタルジーに繋げて妖怪ウォッチが終わってしまったと思うのは、レベルファイブはどこかで子どもをなめていたか、びびっていたのではないかと。

映画 妖怪ウォッチ誕生の秘密のストーリーはゲームをしていれば秘密はもう知っていて、その子達が映画を観たところで秘密も何もないというストーリーであったけど、ドラえもんを目指すなら、その秘密も何もないストーリーでももっと踏み込んだ表現で映画にできたはず。


それをさらっとギャグと少しの勇気だけで終わらせるような作り方は子どもをなめているか、踏み込むことにびびったとしか思えなかった。


一緒に観た息子は楽しんでいたよ。

でも楽しんで観ていた息子に、それを越えるなにかを見せてあげることは可能だったはずだと思う。それを見せれなかったのを代表するのが、ゲーム内で単純な昔の風景を見せるだけ。という設定につながって残念な気持ちになったところが無意識に終息へつながった要因にあるのではないかと思った。


レベルファイブを批判しているのではなくて、ドラえもんを目指すと言った言葉が忘れられなくて、あともう一息だったのにな。と思う気持ちと、まだまだドラえもんを目指して敗者復活をどこかで期待する気持ちをこめて。



サイコパスは未来でもないと思った

神戸児童連続殺傷事件の犯人が遺族に断りもなく本を出版した。

内容は自己満足なもので読むに耐えないようだ。
まさに厨二病と評しているブログがあった。

この犯人はとても恵まれた時代と場所にいる。

時も違えば、場所も違えば、間違いなく命はないであろう。

サイコパスという漫画があって、漫画の世界では人々は常にどこにいてもモニターされていて、負の感情を持つと途端に逮捕されるか殺されててしまう。

未来なような設定だと思って読んでいたが、今回の犯人が本を出したことを考えていたら、漫画サイコパスは未来の設定ではないなぁとふと思った。

昔、16歳のカルテという映画を観た。

精神病棟に入院させられた少女達の話なのだが、親に性的虐待をされて最後に首をつってしまう女の子以外は多感な思春期の女の子そのもので、思春期の感覚が大きく残っていた当時の私はちょっと前のアメリカに産まれていたら、アンジーやウィナノ・ライダーのように当たり前のように精神病棟に入院させられていたんだ…と思ったことがある。

また時代が違えば魔女として処刑されていたかもしれない。

また場所が違えば今の時代であっても、今回の犯人はリンチされたりして死んでいるだろう。

これは誇張でもなく歴史の事実。

サイコパスは未来の話なんかじゃない。
予備軍として殺されることが今までもあったんだよね。

サイコパスのシステムは基準がぶれることなく数字としてきっちりと決められているのが未来的なだけで。

そう思うと今回の犯人がいる今の場はとても大人で未来的だ。

何が彼を生かしているのか。

全部を知ることはできないけれど、彼を生かしているものはとても未来的だ。
それが良いシステムか悪いシステムかはわからない。

ただ基本的な直感的な感情だけで生かせているのではないのだろうとは思う。
閉じ込めた方が、殺した方が社会的に楽だもん。

遺族たちは犯人が死んでも死ななくても、気持ちが満たされることはないと思う。

また、死刑制度があってもこういう犯罪は抑止力にはならない。

彼は自分が生かされていることの意味に気付く日はくるのだろうか。




愛と自己認証欲求とすごい人とコンテンツ


川上量生さんという面白くて凄い人を知った。

最初に知ったのはcakesの「川上量生の胸のうち」というコンテンツだったと思う。考えることがとてもとても面白く毎回連載を楽しみにしていた。(最近また連載が始まって嬉しい)

最高に面白かったのが
「ぼくがジブリで考えたコンテンツの秘密」

この本で一番印象に残ったのは、
ピクサーを見学したときに宮崎駿さんの息子の吾郎さんがつぶやいた言葉「この方法だと天才がいらない」

川上量生さんは最後に天才の定義をこうしている。

「天才とは自分のヴィジョンを表現してコンテンツをつくるときに、どんなものが実際にできるのかをシミュレーションする能力を持っている人である」

ピクサーのシステムに沿って言えば、川上量生さんがひどいな(笑)といいつつ使った「天才って安いシュミレーター」ということ。

この安いシュミレーターというひどい?言葉(笑)の意味は先の川上さんの天才の定義とこの本を読めばわかるけれど、そのあとに読んだ「ピクサー流創造するちから」を読むともっとわかる。

私は映画が大好きだが、ピクサーがすごい作品を次々に出せるのが何でか小さくもやっとしていた。

ピクサーには私のような一般市民にまで伝わってくるメインの監督、プロデューサーがいない。
例えばスピルバーグとかコーエン兄弟とかルーカスとか宮崎駿とか。ディズニーの遺産も使ってない。(この時点ではピクサーはディズニーから枝分かれした集団だと思っていた)アニメーションだからメインで人を惹き付ける俳優も使ってない。

物語が良くたって、俳優が良くたって、監督が良くたって、プロデュースが良くたって、つまらない作品に仕上がることはある。でも、そのどれも個々のすごい人、天才の名が一般人には届かずにいつもピクサーという集団から「コンスタントに」面白い作品が生まれている。なんでだろう。

その解がこの本でわかったのだ。

そのピクサーの創造する力のすごさの解は本を読んでもらえればわかるとして、
本題の愛と自己認証欲求とすごい人とコンテンツについて。

ピクサーは小さい頃からディズニーに憧れたエド•キャットムルが大学でCGを学び、運と優れた思考と正しい気持ちでピクさーという会社を作り、映画製作にまで発展させた会社なのだけど、その過程でスティーブ•ジョブズが大きく関わっている。と、いうか実質彼の会社と言うのかな?

ピクサー流創造するちから」ではピクサーがどのように作られてどのような試行錯誤で進歩してきたのか作品への製作スタンスが書かれているが、ジョブズの関わりも大きかったため「あのスティーブ・ジョブズだから」という理由でではなく、関わった人間として普通に登場している。

ピクサーと20年もの付き合いがあったジョブズが亡くなってしまったことで最後にジョブズについてのページがある。

以下長いけど引用。

ーーーーー
全体像をつかむのは本当に難しい。私はスティーブと四半世紀以上(ほかの誰よりも長いと思う)一緒に仕事をし、雑誌や新聞に見る「容赦ない完璧主義者」という描写や、彼自身が認めた評伝とさえ一致しない彼の人生の軌跡を見た。容赦のないスティーブ─ ─ 無作法で才能あふれるが感情面に鈍い男という最初の印象─ ─
 は、その人生の最後の二〇年間で別人に生まれ変わった。スティーブをよく知る我々は皆、その変化に気づいた。彼は他人の感情だけでなく、創造的なプロセスにおける価値に対しても敏感になった。この変化の一因は、ピクサーでの経験にある。実用的で、かつ喜びをもたらすものを創ることがスティーブの夢だった。それが世の中をよくする彼なりのやり方だった。それは、彼がピクサーを誇りに思っていた一つの理由でもあった。ピクサー映画のおかげで実際に世の中がよくなっていると感じていたからだ。彼はよく言っていた。アップルの製品はどんなにすばらしくとも、最後は埋立地にいく運命だが、ピクサーの映画は永遠に生き続ける。彼は私と同じように、ピクサーの映画が真実を深く掘り下げている
がゆえに廃れることはないと信じ、そこに魅力を感じていた。ジョンは、「人を喜ばせることの崇高さ」についてよく話すが、スティーブは、とくに晩年においてこの使命を心から理解し、エンタテインメントが自分の最も得意とする分野ではないことを自覚したうえで、関わることができて幸運だと言っていた。
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あの激しさを失うことはけっしてなかったが、聞く力をどんどん身につけていった。ますます共感や思いやりや忍耐強さを見せるようになっていった。そして本物の賢者になった。

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以上、引用おわり。

そして本物の賢者になった!
すごい。感動した。

それでね、思ったんです。
やっぱり世の中の心に響くすごい人には愛が欠かせないと。

ジョブズが賢者になったから凄いのではなくて、きっともともと愛は持っていたんだよね。賢者になるまで自覚も表現もできなかっただけで。

すごい人は愛を持ちビジネスに対して自己認証欲求がない。そしてビジネスに対して自己認証欲求がないからこそ、素晴らしいコンテンツや商品が生まれる。自己認証欲求がないということは作品に純粋なエネルギーを費やせる。

自分のためにではなく、何かのために。誰かのために。

これが、すごい人の基本。

これだけでは当然ビジネスはうまくいかないから、愛があるだけではビジネスは成功しないけど、やっぱ一般人にまで届くビジネス、コンテンツを造るには愛が欠かせない。

そしてさ、すごい人は自分の持っている愛に気付かないの。

誉められて嬉しい。それは当然あるだろうけど、そういうことではない。
愛がないから、愛を注ぐ対象がないから普通の人はマウンティングのパワーゲームでビジネスを動かす。パワーゲームが必要ないとは言わないけど、そのビジネスはどんなに大きくても、そこまででおわり。

すごい人には愛がある。

と言うことを、川上量生さんからも感じ取ったわけです。ピクサーからな説明になってしまったので意味不明になってしまったけど。

でもさ、ピクサーですらああやって何度も何度もてこ入れして作品への愛をスタッフが萎縮しないようにするんだから、人間ってめんどくさいよね。

だから技術だけでなく、そういう意味でも天才ってコストパフォーマンス良いよな。でもだからって天才本人が楽してるってことではない。

川上量生さんの定義、

「天才とは自分のヴィジョンを表現してコンテンツをつくるときに、どんなものが実際にできるのかをシミュレーションする能力を持っている人である」

とともに、

人間のめんどくささを知りながら愛を持って何かに集中できる能力がある人である。

と、私は思う。