音楽は聞きに行くモノ

音楽配信がCDのパッケージを物理的に買う時代が終わりつつあり、代わりに何曲かのダンロードで好みのミュージシャンを見つけるとライブに出かけるというのが主流になりつつある。
少なとも私の周りはそんな人が多い。
かつてレコードを買って音楽を聞くという習慣をもっていた世代の多くはある種のミュージシャンに其の後の人生を変えられた経験があるかもしれない。一人のミュージシャン情報を知ることだけでも苦労があったから、好きという感情のボリュームがいやがおうでも大きくなる。こだわりの音楽趣味は人間関係にさえ影響与えて、同好の友はそれは親友で、同志だった。
彼らは幸せな世代だったと思う。
比較的簡単にライブ演奏にアクセスできるCDで育った世代にとって音楽は名刺の様ものであったり、カタログであったりして、音としての音楽が人生に与える影響の占める割合は少ない。
何が違ってきたのか。
音楽を取り巻く感情、共感の共有化が音楽を聞く大きな意味で、今という時間を同じ感情で共有できることで孤独から自由でいられる。
かつて川の流れの様に上から下へ流れていた音楽は、今は都市の運河の様に東西南北に整備された航路を行き来して、インフラの様にあってありまえで、もう誰かの特別のモノではない。
よくレコード世代が若い世代に音楽の歴史を知らないと言うのを聞くたび、誰が水道の配管の歴史をそんなに知りたがるか、反撥したくなる。
継ぎ足され伸びた配管の中を音楽は、流れる水に配管の新しい古いはどんな意味があるのか。
レコードからCDの切り替えの時代に思春期をおくったので古い世代の言いたいことも少しはわかるつもりなので音楽史重視の彼らに敬意はらって、音楽のタイトルは発表の年次を一緒に覚える様にしてはいる。
でも古い音楽が有るのが当たりの今ではさほど重要でもなくて、見なくてもいいデータタグのひとつで、プロデュースが誰だとか、サポートミュージシャンが誰だとかはライブコンサートのあとに知りたくなるかもしれない情報でしかない。
考えるてみると、いろいろ聞いている割に音楽に関してはさほどオタクじゃないのを白状することになったけれど、音を楽しんでいればいいんじないかとそれが一番の音楽ファンという、ことで許して頂きたい。お気に入りのバンドのコンサートチケットをゲットした今日。

雨は降る場所と降る時を知っている

雨は降るときを知り
太陽は照るときを知り
季節はその場所を知って

果てしなく
巡り
繰り返す

なんの不思議もなけれど。




一 薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花咲ク。 ナニゴトノ不思議ナケレド。北原白秋

はてな

本音をあかしてもだいじょうぶなんだろうか

ことばを空に向かって捨てないと苦しくて仕方がない

閉ざされていてもだめ

開かれていてもだめ

軽く開いている天井ってない?

ここがそうならここにいる

しばらくは。