0000:02 境界領域

会社をやめて、ほぼ2ヶ月。

その間にひとつ歳をとって、41歳になった。

かねてから行きたかった日本の国境沿いの島に来た。

といっても2週間ばかり、小さな本をつくるための滞在だ。



地震が起きる少し前、東京を離れて島で暮らすようになったAさんと、

東京でしか出版社ができないというのじゃつまらないねという話をしていて、

「じゃあ日本の国境沿いの島で出版社をつくっちゃったらおもしろいかもよ?」という

冗談から駒が出て、実行力のあるAさんは、あれよあれよと準備を重ね、

2012年の3月、本当に1冊の本をだすことになった。小さな馬の本。

私は友人のデザイナーと一緒に手伝った。

その本は、ビギナーズラックもあるのかな、たくさんの方の応援をいただいて

風に乗る馬のように、楽しそうに、全国を駆けて行った。



本の打ち合わせはほぼSkypeだった。

そんなことは、多分Aさんと初めて会った7年程前にはまだ思いつきもしなかった。

というか、彼女とこんなことをしているなんて、まったくちっとも想像していなかった。

Aさんとは、先ごろ辞めた会社に入社して間もなくおめにかかったのだが、

「何かを意図的によくしようとすることは、もう限界にきているのではないでしょうか」

そんな話を一番さいしょに伺った気がする。

出版社に入ったものの、一昔前にオルタナティブと思えた潮流を再び繰り返す気持ちにはなれず、

かといって、新しい流れを表す形をみつけられず、さっそく煮詰まっていた。

むろん、それなりにがんばって、これからにもつづく新しい回路に触れることもあったけれど、

その感覚から決定的にはぬけだせないまま、けっきょく会社をやめることになった。



今は、2冊目の本を彼女の暮らす島でつくっている。

この島は、いつも風が吹いていて、人為と自然の境界が曖昧に思える。

潮を含んだ強い風がまいにち打ちつけ、コンクリートも鉄もプラスチックも
錆や腐食がはやそうだ。

人為の限界を伝えているような気もする。

島の淵までゆくと名付けることを無力に思う広大な風景が広がっている。



先のブログで、東京で住んでいた町を離れることになるかもしれないと書いたけれども、

その判断は思い切ってやめて、もう少し留まることに決めた。

留まりながら、部屋に折り重なった過去の資料や本を、

ひとつひとつ触りながら捨てていく時間をもつことにした。

あいた空間に未来が遊びに来たら、お茶でも出したいな。



この半年、本当にいろんなことがあった。自分が意図して起こしたことなど、

ほんのすこしだった。




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0000:01 わからないにもどる

40歳で会社を辞めた。けっこうな大冒険だと思う。



いつも、「わからない未来のほうへ」すすんでいて、
自分は、いまの出版社というところで、ずっと働いていることにはならないんだろう
ということだけは確かだと思いながら
それでは自分はどんなところでどんなふうに未来に働いているのか、さっぱりわからないし、
そんなことってあるのかな、とちょっとそらおそろしい気持ちもあった。



その気持ちは、いざ、そうなってみても、実際あまり変わらない。



でも、ずっと、そこにいることは、まずない、っていうことだけは、はっきりしていた。
そして会社というところで、本をつくることがずっと、自分の仕事になるとも思えなかった。



それで、だから、まず、自分の言葉で未来への飛び石をつくっていくしかない。
だから、それを実際にできるかどうかはまだまだわからないけれど、
指針にはなるだろうな、ということを、手作りで、ちょっとずつでもメモにしていこうと思う。




まず、とてもまず、小さくすること。



自分が今もっている範囲に、いさぎよく、いろんなことを小さくすること。

見栄をはらず、できなくなったことを認めること。

やむをず、ということも含めて、捨てること。

そして、それでも残るものを信じること。



なんだか知らないけど、まずそれだ。



そういうわけで、私は5年くらいなかよくしてきた地域を離れるかもしれない。

町を歩けば、知っている人もちょこっといるくらいになった。

ここでもしかしたら、何かできるかな?と思うこともできた。

単純にいって、

それはさびしいことだ。

それは断念だ。

でも顔をあわすばかりが大切じゃないし、

きっぱり諦めたなら、新しいこともやってくる。

ひとりの通路を通って、いつか出会うものを信じたいなぁと思う。





いまの私は、そりゃもちろん、懐はとっても寒いし、

これからどうしていくのか、ちっともわからない。蓄えなんてちっともない。

収入を同世代の友達に伝えたら、ワープアじゃんと絶句され、その反応をみて、やっぱりそうなのか笑と思った。

本をつくって食べていくことは、とても難しくなっているのかもしれない(少なくともいまのしくみのなかでのわたしの力では)。

もちろんみんながみんな、そうではないし、いい仕事をしている人もうんとたくさんいる。

自分のいた会社にも、がんばっている人がたくさんいる。

書店にも出版社にも、いろんなところに。

ただ、私はいろんな意味で、もうそこでは働けなくなった。

こんなふうに働いているんじゃ、もうだめだな、とも思った。





それで私は、毎日毎日、自分の心をしめていた、

「次に作らなければならない本」(それは作りたい本であるはずだった)は、なくなった。

すぐ作れる本もなくなったけど、その分、おおきな空間が、こころにできた。

そりゃ経済的な困窮がやってくれば、その空間だって、いつのまにか縮こまってしまうかもしれない。

北風だって吹くだろう。




でも私は、自分でつくった、新しい空間によって、今、「感じること」ができる。

私はそのことを今、もう一度、なんとかかんとか取り戻した。

幸か不幸か、わたしにはまだ、守るべきものが少ない。

それがもし訪れたなら、そのときはその、守るものを大切にするだろう。

でも今はまだとても少ない。

手放したことで、手にいれたのは、感じること。ふれること。



そしてこういうときは、よく感じること、とにかく動いてみること、でも闇雲に動きすぎないこと。


そういうわけで私はまた、「わからないものの周辺」にいる。


こんにちは。おひさしぶりなのだ。

memo:02 いないこと

いないこと、影響を与えないこと、

小さく点のようにあること。

その人が、私の期待や、命令や、理念や、思想や、思い出や、後悔や…いろんな、なんやかんやに、

影響されず、その人のいたいように、そこにいれる。

もしそうあれたなら、本当にいいなって思う。

memo:01 ふれている

2014/05/20

茂木綾子、合気道、軸、歩く
梢、息、しずけさ、情報ではなく
置いていかれるもの、触れていないのに
ふれているもの、ふれていないもの
とめる、もどる、オフライン

ライフにちかすぎる

イメージ、想像、マッサージ
触れること(想像によって)
その痕跡 としての本
ふれること

学芸員降旗千賀子さんの仕事とか)

#

茂木綾子  travelling tree http://www.akaaka.com/publishing/books/bk-mogi-travellingtree.html

せんせいのことば


昨年から、日常のちょっとした人間関係のなかで、ちょっと苦しいことがつづいてた。

その経験から、学校や職場や家庭で、「いじめ」みたいなことにあっている人は、それに堪えて生きていて、

ほんとうに偉いというか、すごい、というか信じられないと思いましたーと、

自分の倍以上生きているある"先生"に話したら、「ああ、そうだったんですねぇ」と先生は言って、

「わかりますよ(そういうことがあったってことは)」と言ったから、

よほど私が疲弊しているようにみえるのかなぁ…と思っていたら、

「そういうことのあった人は、誰か別の人が、集団のなかで同じようにつらいめにあったときに、

『この人にならそのこと話しても大丈夫かな…』とふと話しかけてみたくなる雰囲気がうまれてくるんですよね…」とぼそっと言った。

先生の言葉は、しみこんできて、言葉って本当に、比喩じゃなく、あたたかく感じられることがあるんだなと思った。

私は相手の人を恨みたい気持ちと、恨みたくない気持ちの間で、わけがわからなくなっていたのけど、

先生の言葉は、だれへの恨みをも深くしない、"先生の言葉"だった。

水たまり


ソボはほんとうにいなくなってしまった。

彼女の存在は、まいにち跨いでわたる水たまりみたいだ。

ソボが亡くなって、じぶんはちっとも泣いてない。おかしいでしょ、と思う。

でも、そこを感じないと、私はこの先、また、何も感じない人になってしまうだろうな。

そして虚ろに、なってしまうだろうな。

いままでも、ずーっとそうだったから。

思い出すのはつらいよね。でも、思い出さないといけないな。

感じないようにすることは、息の根をとめること。心を病気にしてしまうこと。

森崎和江さんは、ある死者への悔恨を、その後の生き方のすべてにしていた。

なんどもかさぶたをはがす。

森崎さんは、喜びも悲しみも、いっぺんに同じだけ、ちゃんと、感じる人だった。

彼女の存在が、とても優しく感じられたのは、彼女がそれと同じだけ、悲しみを感じてきた人だったからなんだろう。

感じることを恐れなかった。

それを「なかったこと」にしなかった。

ハレルヤ、ハレルヤ

(あれは朝陽だったが、私に見えるのは夕陽。でもどちらもたいして変わらないことなのかもしれない。

 ごれんらく下さったかた、よんでくださっているかた、きっと見えないところで、気を使って下さった方がいたにちがいなく。

 なかなかお返事できませんが、ありがとうございます。

 振り子がすこし止まったら、またすこしずつ、ここまでのことを、言葉にしておきたいなぁと思っています。)