無題

気が滅入り、上がる事を諦めた瞬間、堕ちることに屈するわけだが幸い私は堕ちると、衝動性が失せる「堕ち」もある。

 

ツイッターでたびたび話題になる、フェミ。

端的にいうと私は父親のような「男」がめちゃくちゃ嫌いでそれ以外の男はそんなに嫌いではない。

 

父親は世間的にはとても普通でとても良いのだと思う。

 

ただ母親とのやりとりに疑問に感じていた。

自分の母はめちゃくちゃ美人で、めちゃくちゃ愛想がいい。

 

そんな女性(母親)に媚び、主義主張をしない、全ての意見に賛同する。

 

ここまでは良いだろうが自分より弱い立場の人間には強くなる。

私である。

姉(私)・弟いる。

弟は成長してゆき、やはり母に似て顔も端麗のままで、部長や生徒会などになんとなくやれるような器用さで、成績もそこそこに上位で、とりあえず少ないけれども女の子はいつも周りにいる、そのような事は容易に読み取れた。

 

また、自分の意見を相手に伝えて、かつ、交渉することや相談することができる、ほんとうに大人に近しい人間に育っていった。

 

父は、そんな弟には怒らなくなった。

しかしながら家庭内で唯一、立場の弱い人間、わたしだけには叱ることができた。

 

母は私からするとまるで風俗嬢のようで、父はそれを目の前にした一方的な好意のみで、行間が読めない配慮のない「男」。

 

弟の前では、優秀な同性を目の前にして小さくなった「男」。

 

私の前では、見下す姿勢がめだつ「男」。

 

上記のような優秀な同性に嫉妬し、可愛いを追いかけ回し、自分より弱いものを見下すことを容易にできる男がめちゃくちゃ嫌いである。

 

優秀はたいてい、めちゃくちゃ努力しているか、めちゃくちゃ思慮深いか、めちゃくちゃ孤独と向き合っているのでそれに軽率に嫉妬する精神も嫌いだ。

 

よくモラハラというものがあるけれどあれは、本当にあるとおもう。

わたしはそれを軽率に受けやすい。

優秀でなければない男ほど、そういう風にするように思う。

 

優秀な人は、他人の痛みをよく理解しているので傷つけたとしても、そのあと、きちんと責任や落とし前をつける。

 

ハイスペ=モラハラ理論

があるが、私からしたらそれは可愛い。

ほんもののモラハラは水面下に潜む。強く賢くスマートな男性に憧れてるが努力が努力の範疇で収まる環境下にいるしかなかった、そんな少しわがままな坊ちゃん気質の日本人男性がほんものだと思う。

 

私が、フェミだとかモラハラだとか性被害がどうだとか、そのようなことを主張出来るのは、上記の水面化のものらを浄化してからでないと無理そうだ。

 

来世に期待する。

 

 

ここに、こう、つらつらと書き綴るのは久々だなと思う。昼寝から覚めた(といっても18:30という中途半端な眠り時間。)という事で寒い。加えて昼寝の副作用、自律神経の乱れもついてきたようだ。呼吸が浅い。筋肉が緊張している。前と比べて文章が書けなくなったなと何となく思う。前はもっと流暢に、時間を忘れて書いていたけれど、最近はあまりそのような文字たちの連なりが訪れて来ない。ぬるいさみしさの正体を解くことに従事すれば、大体は解けてしまうのかしらと解答らしきものを、ハッキリとした枠で縁取られたものらで目に、耳にして感じることが増えたからなのかしら。大人になるということがどういうことか、まだ説明するには青すぎるのだろうけれど、まだ青く、まだ甘くない果物の新鮮さは清々しくて好きなので、こういうことを書くのは許してほしい。どうでもいいけど、かぼちゃのクリームシチューが食べたい。寒くなってきました。でも恋人の家は階が高いからか寒いどころか、蒸し暑い。なので私のこの寒くノスタルジックな感傷は、環境要因だと言えてしまう。蒸し暑い部屋ではノスタルジックな感傷に浸れず、ただあっけらかんとしているか、感情が手に取るように分かるか、だ。恋人と書くのは恥ずかしい。私は恋愛処女なので、この単語を文に入れ込むにはまだ早いらしいことに今気が付いた。好きな人とかに書き換えたほうが安心するのかしら。自分にそういう、皆と同じ経験(恋愛)が訪れるとあまり思っていなかったことに加え、半端諦めていたので私は今現在、お恥ずかしい、だいぶ手こずってるように思う。どうでもいいけど、皆、この道を通ってきてるのかと思うと、どう考えても私が生きてきた所は浮世離れした、あの世らしきもの程に現実感の無い感覚世界だったような気がする。だった、と書いたけれど、たまにフッと顔を出すのだからdid とhave doneの中間くらいかもしれない。良し悪しを決めるのは、感覚的な私自身を否定するように思われるので、あまりしたくないが、ま、ほんのすこし罪の香りが漂っていることを、感覚的な私の嗅覚を用いて感じる。これなら感覚的な私のwin-win。お腹すいた。それを超えて胃が痛い。

 

 

 

 

私は統合失調症と診断されたわけだが統合失調症の症状にあまり当てはまらない気がしている。

統合失調症の患者は疲れやすく動けないというが私は動ける。同時に退院した患者は疲れて日常を送るので精一杯というが私は退院直後でバイトが出来ている。

 

誇大妄想といって自分は優秀だと思い込んでいるのを症状と言われた。しかし私は教授から優秀と言われ大学外でお茶を飲む仲の教授が2人いる。院で期待されていた。周りにいるのは院卒の社会人エリートばかりだ。哲学や芸術の話をして誰1人として名前を出せない人間に病気という枠組みで感性をも殺されるのか?ふざけるな。

 

入院中に感じた入院患者独特の洒落気のなさや会話の通じなさ、言葉の色気のなさ、言葉の綾の複雑性のなさ、それらと私が一緒だと言うのか?ふざけるな。

 

白昼夢と妄想の違いはなんなのか。説明もできない精神科医に飲まされた薬で脳内をいじくり回されるのなら私は薬を飲まない。

 

私は精神科が本当に嫌いだ。君の論文は素晴らしいから学術誌に載せたいという教授の願いを蹴った発達障害のあの男の人の論文を、障害というものでくくりつけ、才能を発達障害で片付けるのか?ふざけるな。

 

天才を殺す精神科と、天才を殺す人間があまりにも強い。お前らはしらねぇだろ、天才がいかに弱くて、そして、才能がいかに壊れやすいかということを。

 

謙虚と病気を一緒にするなよ。

 

私はこれからどうすればいいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

閉鎖病棟入院

 

私は2月〜4月まで2ヶ月間、閉鎖病棟入院だった。病名は統合失調症である。

親に反抗したらそれが被害妄想だと言われ、その病名がついた。

むやみやたらに病院に行くものではない。

 

 

[入院形態]:  医療保護入院

 

精神科受診中、入院を拒絶したら、睡眠導入剤の麻酔を打たれ、気が付いたら閉鎖部屋に隔離されていた。

 

携帯はもちろん使えず、排便は監視されており、部屋に鍵はなく、簡易なベットが無機質な部屋に置かれているだけだ。

 

まるで金庫のようだ。

 

様々な患者が部屋のドアを開けてほしいと扉を強く連打する音が廊下に鳴り響く。

 

「なんで俺をここに閉じ込めておくんだ!動物と一緒じゃないか!」

 

という叫び声が耳に残る。

 

この医療保護入院というのは、自身の意思に関係なく周囲の人々(特に親)によって入院させることが可能である。

 

[精神科のおかしいところ]: 洗脳

 

劣悪な環境である閉鎖部屋から解放されると、非常に嬉しい。その嬉しさを自身のおかげではなく、病院のおかげと矛盾させて考えるのである。薬を今まで拒絶していた患者もここら辺で大体、飲むようになる。薬というのは甘い砂糖のようなもので依存性が高い。薬を多く処方されて、呂律が回っていなかったり、頭がぼーっとしてる人が多く、意思疎通ができない患者が多かった。いくら症状を落ち着かせるためとはいえ、廃人になってしまっては本末転倒ではないだろうか。

 

 

 

 

 

自分らしく生きる

 

の言葉の中身を確認しようとしてしまう人間なのか 確認しようとする人間なのか 何が正しくて 何が間違っているのか など 支離滅裂とした言語を使う人間を殴るのか それとも抱きしめるのか 気持ち悪いと思うのか 濡れた手を振っぱって引きちぎって あぁもう私には無理だ と。

 

歳を重ねるごとに正しいと思う事を信じられなくなっていく それは世界が広がるとも言われるし 同時に自分を見失うとも言われるし 他にも多々言われるのだろう 心理学から問えば それは 開かれた世界となり人間としての 学ぶ 知性 が発達していると きっとそれは正しい事なのだ しかしながら精神病理学から問えば 社会不適合になり得る可能性がある その状態は 不健康であり病的であるため 間違った事なのだ 

 

私には感性がない

 

と言った同級生ときちんとコミュニケーションが取れるので 不思議に思った ある出来事があり その子に感性は存在している と仮説を立てていたのだろうと思う そして その仮説を問うために私はその子と接しているのか疑問に思う 私は人間と接しているのか それとも被検体と接しているのか そもそもコミュニケーションを取っているのか それとも論文が書きたいのか 本屋でふと見かけた本に惹かれたのは その同級生に関連するかもしれない本であった そこには他の人も存在しているのだが。そして 論文とコミュニケーションは紙一重かもしれないという仮説を立てる

 

感じることが少なくなってきた

 

ほどにセックスが感じやすくなってきた ビールの味が美味しいと感じた 煙草の存在が頭をよくよぎった 美味しいものを食べたいと思った それはまるで 赤の他人を見ているように錯覚させるほどに 何かが素晴らしく健康だと思った 

 

健康

 

を問う程に新しい何かがふつふつと湧き出てくるので非常に面白いと思った WHOの健康の定義に沿った診断をしている 医師 又は 看護師がどれだけいるのだろうか しかし医療は命を救う高貴な分野と一般的に見て取れる反面  医療も経済効果に貢献している と思ったら楽になれた

 

貯金

 

をしたら何かが終わってしまうと思っているけれど貯金は非常に大切なのだろう 虚しい 貯金して切り崩してローンを払うのがどれだけ楽な事だろう 制限があるにも関わらず 溢れ出てくる水のように好きなだけお金を使う事が優しいことに思う 

 

子供

 

を産みベビーカーを押してくたびれた下着を纏う事に意味を見出さなくなったら終わりだと思う しかし 子供 という虚しすぎる別の人間を育てる事の苦労というものは 成長発達段階を踏んでいるのだから 教育関係者からみれば それは喜ばしいことなのだ 

 

笑ってしまうほどに虚しい どこに言ってもさほど大きな変化はなく あるのは最初だけだ。 私たちは分かり合えない そもそも分かり合う気すらない という土台があった方が丁度よく楽しかったしラクだった だけれども人間とはそれこそ不思議なもので そのような土台の上に 緻密で繊細で一体化できるような感情を求める それが得られたか 得られてないかは分からないが 私は今ふと思う その土台がしっかりとしていた 特に好きでもなく嫌いでもなかった ただ一人の人間として淡白に接していた遠藤くんは元気だろうか。あの黒いランドセルは病みでもなく光でもなく 疲れ とも似ているが それももう諦めてしまったような 教科書 という社会の為に作られた 物体 が入っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

体調が悪くなりたい。そしたら休める。

すぐに寝込める人が羨ましい。ずるい。だからとっととしんでほしい。ほんとうににくいのでしんでほしい。入院患者もしんでほしい。みんなしねばいい。わたしもしんじゃえばいい。ちきゅうなんかぶっとんじゃえばいい。もうなんもかんがえたくないし もうなんもみたくない もうなんもききたくない もうなんもかんじたくない。もうなにもしたくない。わたしに がんばれといったにんげんを ゆめのなかでころす。ゆめのなかでみんなころす。わたしもころす。せんそうをする。ころしあいをする。そしたら せいしんがやんでいようと からだがよわかろうと ぜったいやすめない。みんなびょうどうにたたかわなければならない。からだがよわくてすぐやすむひと たたかわなきゃいけない。だれもたすけない。たよったってだれもたすけない。きらい。だいきらい。ほんとうに にくい。しんじゃえばいい。しんじゃえばいい。しんじゃえばいい。

書いてはならないと分かっていながら書くことを、逃避というのなら、素敵な冒険をしていたね、と言ってあげたい。冒険をやめないで。でも、やはりそれを冒険と捉えるにはあまりにも夢の話なので、だれも現実の話だなんて信じてくれない。矛盾する2つを統合してどこかの答えに辿り着きたいという思いさえあれば、いつだって冒険家だ。旅を続けよう。

結婚指輪が光るあの女の人は旅を続けているだろうか。社会情勢を嬉々として語るあのサラリーマンの旅を旅と言っていいのか。無理矢理、歩かされてる人間達を哀れな目で見たり、嫉妬に狂った心で見てるので、私たちは疲れる。

旅をするのには軽装が良い。荷物はなるべく少なくしたい。そうした方がいろいろな景色が見える。

私たちは小さい頃、みんな冒険家だったじゃないか。どうして旅をやめてしまった。あの子が持ってた宝物、優しい顔した男の人に話しかけられて安い紙幣と交換したのを私は知ってる。あの子が大切に抱えていた本は、優しい顔した女の人に、表紙が綺麗な本と取り替えられてしまった。紙幣をもらって嬉しそうだった。「たくさん買えるよ!」綺麗な本と取り替えられて嬉しそうだった。「その本は世界一綺麗だ。」だから寂しい。冒険家が消えていく中で、しかし、冒険家を名乗るのをタブーとされるのは時間と共に大きくなる。冒険家じゃなくったっていい、誰しもが物語の主人公だったはずなのに、ひとつのおおきな物語で主人公は1人しか選べません!と何者かがいうから、今まで主人公だったみんなは、主人公になりたがる。争う。

 

争いは嫌いだ。という人間が、物語から消えようとすると、ほかの人々は、俺の主人公になるための物語の続きに困るから居てくれと、社会不適合のレッテルを貼って無理矢理閉じ込める。私たちはもともと自分達の物語の中で主人公を持っていたはずなのに、訳の分からない物語に引きずり込まれた。

しかしだからと言って、無理矢理抜け出すのはあまりにも無理難題だ。抜け出したくなるけれど、それでは旅が終わってまう。

じゃあどうするか。

みんなが争う中で主人公になる方法はたった1つ。争わないことだ。

争うのが本当に好きなのか?争うから私たちは物語の中でしか疲れられない。争うから私たちは物語の中でしか気が狂えない。それは虚像だろ。物語の中で争わなかった人間は疲れもしないし気も狂わない。物語の主人公になることに熱中しすぎでないか。それ以前に私たちは冒険家だ。私は確実に疲れたい。私は確実に気狂いするべきだ。なので私は争わない。

とりあえず後ろの方でボイコットのまねっこをして、片手でiphoneで次の旅の行き先を検索。教えてGoogle。airportsをしてればボイコットの内容は聞こえないのでスティーブ・ジョブズに感謝する。しかしボイコットの内容も把握しておかねば後々、スパイだ(社会不適合者だ)と疑われてしまうので、ボイコットに染まりきった機械人間のお話は聞いておくべきだ。たまにそうでない人間に出会うと私は嬉しい。ボイコットの内容だけでなく、電波越しの外の世界の話だけでなく、やはり生の旅の話が聞きたいし、生の旅の行き先を話したい。次の旅の行き先について話せる人間もいた方が良いだろう。私たちは誰しもが1人だ。旅は1人だから面白い。2人で歩いていても、3人で歩いていたとしても、その中には1人がある。

とりあえず何が言いたいかというと私はairportsがすごく欲しいということである。