ヨングダHP

日々の事、趣味、気になった事の徒然。

大人って自由過ぎてむしろ不自由。

今週のお題は「大人になったなと感じるとき」である。皆さま、遅ればせながら明けましておめでとうございます、と時候の挨拶をして大人感を演出するところから始める。

 

さて、大人を実感する時などは、割と日常にありふれているものである。

夏休みを迎えた子供達を羨望の眼差しで見つめながら駅の改札を通過したり、早朝から鏡越しに自らのデッドフィッシュな眼を確認しつつ流れるようにネクタイを結んでいる時などがソレに該当する。

 

いずれも大人を感じるというより突きつけてくるという残酷案件である。もう少し大人ならではの利点を、探してみよう。

 

例えば自らの給料については、生活が破綻しない程度になら趣味に費やすことが出来る様になったことは実に良い。

 

子供の頃であれば、多くがお小遣い制度であろうし、その金額が諭吉さんを超えている裕福なご家庭を除けば、せいぜいが漱石さん、今で言うなら英世さん辺りが相場であろう。

 

漫画なら数冊、コンビニお菓子でも一週間位で使い切ってしまう。

欲しいものがゲームソフトなんぞであれば、一本買うのに数ヶ月の財テクを要するという、FXで預金を溶かす大人よりよほど堅実な生活を求められる存在が、小遣い制の子供である。

 

しかと大人になってみると分かるが、三食しっかり食べて風呂に入る人間的な生活を送る位なら、必要とする生活費はそれほどの金額にはならない。

「口座がトントンならいいや」という宵越し銭フリーダム派の人ならば、ほぼ給料を趣味につぎ込むことだって可能となる。

むしろ三食風呂すら抑制して趣味に財を投じる猛者すらいる程だ。

 

だがしかし、それで子供のころに比べて幸福指数が上がったかといえば、それほどでもなかったりもする。

 

お小遣いという制限があればこそ熟考し、手に入れた物が特別に感じていたわけで。

部屋の隅に積みっぱなしのDVDやゲームソフト、筋トレ道具を見るたび「これが大人か、、、」と詫びしい気分にもなるのである。

 

子供の頃は「早く大人になりたいな」と羨ましがっていたものだが、むしろ今となっては「戻れるものなら子供に戻りたい」。

家への帰路につきながらそんなことを考えている、まさに大人になった証ともいえる。

合宿中に親に頼んだ番組録画の成功率は、ジャンケンより低いと思う。

今週のお題は「もう一度見たいドラマ」とか。ある意味で、伝説になったドラマが脳裏を過ぎる訳であるが。

 

我々が幼かった昔において、テレビドラマというのは、なかなかハードルが高いものであった。

 

今でこそ『ネットさえあれば月額見放題』という、当時の人々からすればお大尽のような環境が当たり前となっているが、当時はまずドラマを見る、という行為自体に超えるべき障害が多かったと記憶している。

 

まず放送時間である。小学生位の子供は21時には寝るべし、という教育が幅をきかせている時代のことである。

 

『見たいドラマがあるから21時まで起きててもいい?』という発言は『喉が渇いたから冷蔵庫の缶ビール飲んでもいい?』くらいのレベルで扱われていた。

 

就寝時間が寛容な親だとしても、次にはチャンネル権という熾烈な争いが控えている。

 

父親や母親が仕事や家事を終え、リビングで落ち着く時間帯というのがちょうどドラマの時間である。

 

同じドラマが好み、という奇跡でもなければ、仕事や家事をする父母のチャンネル権が優先されるのは当たり前のことだ。

 

加えて爺ちゃん婆ちゃん、兄弟姉妹がいたらさらに状況は混迷し、概ね大河ドラマなどのNHK番組に落ち着くこととなる。

 

だったら録画すればいいのに、という発言をする者は、当時を知らない勝ち組世代だろう。

 

当時の録画機能は笑える位に味がある(無能)なものがほとんどで、2番組録画なぞは当然ない。というか『裏番組録画』すらハイテクな時代である。

ごく一般的な録画機の場合、ドラマがスタートする頃にテレビの前で正座して録画ボタンを押すという、「そんならもうライブで見ろよ」という状況となる。

 

録画予約をしていたら野球などで放送時間が押して冒頭15分で終わる、というのも良くある話だった。

 

さらに言うなればドラマ一話を録画するのにカセットテープ1個が必要となる、というのもハードルが高い。

その大きさを今の子に分かるように言うと、なかなかのサイズの筆箱くらいの大きさだ。 

 

ワンシーズン録画したらそれが10個以上積み上がることとなり、たちまちこころと棚が折れる。

 

結局一話でも見逃すと、再放送などを待たなければならず、シーズン全てを見るというのは初期のマリオ位の難易度があったのだった。

 

だが、そもそも再放送すらしてくれないドラマというのもある。

 

昔、キムのタクさんが主演するドラマで『ギフト』というのがあり、当時のジャニーズ人気もあって、私のような情弱でも視聴していたドラマである。

 

毎回親に録画して貰い、欠かさず見ていたのだが、親というのは必ず録画をミスるという生まれながらの欠陥を抱えて生きているため、ご多分に漏れず私もその被害にあった。

 

仕方なく再放送を待つ訳だが、待てど暮らせどその気配がない。なぜか。

 

実はキムのタクさんがドラマ内でイカした手捌きでバタフライナイフを扱うシーンがあるのだが、とある人命に関わる刃傷沙汰を起こした犯人が、「このドラマの影響です」と述べたのである。

 

今風にいえば、Twitterに炎上動画を上げて逮捕された者が「人気ユーチューバーを真似ました」といったようなものか。

 

お陰でドラマの再放送はおろか、レンタル場ビデオ店にも並ぶことはなく、今持って私ははなしのオチを知らない訳である。

 

多分、今ならばドラマの続きも入手できるのかもしれないが、今は今で、見ているドラマもある。

 

20年後くらいにSMAPの皆様が再結成したら、記念に再放送される可能性もなくはないので、私としては大人しくNHK大河ドラマを見ながら、再結成から待っていきたいと思う所存である。

 

 

自分へのご褒美裁判は、裁判官の判定がザルである。

今週のお題は「自分にご褒美」だった。人間らしさを象徴する言葉の極みであると思う。

 

そも言葉とは、お人間さまが太古の昔に手に入れた文明革新ツールであり、その重要さは現代人のスマホに匹敵する。

 

言葉がなければ今でも密林でジャガーを追いかけてうごうご暮らしていた可能性が高いし、現代人とてスマホを取り上げられたら時候の挨拶すら碌に書けず、親族同僚から爪弾き待ったなしとなる。

言葉もスマホも、今や我々にとってはライフラインな訳である。

 

だがスマホの場合、頼んでもいない歩数カウント機能で運動不足を突きつけてきたり、誘われていない同窓会の画像をタイムラインでお知らせしてくるという、有能すぎて残酷まである機能も搭載している。

使いこなすのは難しく、情緒が安定した大人向けのツールと言える。

勿論私のように情緒が安定しない味が強い大人は、前述の通り日々傷ついているのだが。

 

一方で言葉の場合、その目的はいたってシンプルである。

即ち「他者に意思を伝える」というものだ。

 

シンプルが故に新規ユーザーにも優しい仕様である。オギャアスタートの赤子でさえ2、3年もすれば「ヤー!!!」と深夜にストロングな怒りを伝えてくるほど、使いこなすのは容易だ。

 

だがこの言葉というツールは大人向けのアレンジ機能も搭載している。

他者に意思を伝える、という本来の機能から外れた使用方法であり、詰まるところ、メッセージの送り先を「他者」から「自分」にする機能であった。

 

それこそが、そう「自分へのご褒美」である。

ようやっと本題に戻ってこれた。

 

さてこの言葉は一体、どこを向いて発信しているのか。

 

自分へのご褒美というくらいだから、十中八九自分でブツを購入し、自らのために使用しているのだろう。

直訳すれば「物欲センサーが反応したのでポチりました」くらいの情報量だ。

これを聞かされたところで、他人様は「はーん?」と耳を穿るくらいしかすることはない。

 

日常会話で使えば友人が勢いよく減少しそうな言葉であるにも関わらず、お題になるくらいに市民権を得ているのは何故か。

 

要するに、皆便利に使っているからであろう。

主に自らを騙す手段として。

 

思うにこの言葉のキモは、ご褒美という響きにあるのではないか。

あたかも誰かに頑張りが認められ、推しいただいたかのような、まろやかな口当たりである。

冷静に考えてみれば犯行から判決まで全て自分のガバガバ裁判であるのだが。

 

「今日は1万歩歩いたからご褒美にハーゲンダッツ」。

「給料日だからご褒美にガチャ」。

 

ストレートに「腹が減ったので甘味を喰らった」「金が入ったのでぶん回した。推しは出なかった」でよいではないか。

それを聞いたところで責めるような暇な他人様はおるまい。

 

我々は、唯一残された「己の良心」に苛まれたくないがため、このように欺瞞の言葉を紡ぐことを止めないのである。

 

世界から戦争が無くならないように、己を偽ることが無くなる事はない。仕方のないことだろう。それが人間というものである。

私もまた同様だ。

こうして書き上げたご褒美に、返す刀でアプリを起動して、ガチャを回してくるつもりである。

 

 

 

感謝をするにも素直さというカロリーを使う。

今週のお題は「感謝したいこと」である。

どちらかといえば感謝より謝罪が多い日々なのだが。

 

さて、感謝というのは、はたして喜怒哀楽のいずれに当たるのだろうか。

 

喜や楽での感謝については大変分かりやすい。

レアなガチャを一発で引き当てた日には全身から変な汁が出てきて、地下帝国から救い出された45組を超える勢いで圧倒的感謝を捧げている。

 

哀の場合なら、どうだろうか。

腕の中で死んでいく戦友に対して「ありがとう…!」と思いを告げる場合などは、悲しみつつ感謝の思いが湧き出てくるのかもしれない。残念ながら当方が立ったことのある戦場はフォートナイト位なので、仲間が散っても「奴は我らの中でも一番の小物…」と四天王ムーブを決めていたため、よく分からないが。

 

怒についてはもはや意味不明で、

「てめえ!ぶっころしてやるありがとうよ!」

というツンデレを超えた情緒不安定にも程がある謎の言動となる。もはやツン怒羅だ。

 

とまあ感謝とその付随する感情について考えてみた上で、お題に戻るわけなのだが。

ここ最近で感謝したいこと、というと驚いたことに、特にない。

 

先回りしての言い訳となるのだが、別に他人に礼の一つも言えないような無礼者というわけではないし、感謝の言葉を告げる機会ならいくらでもあった。

 

ただそれは、例えばコンビニでの「ビニール袋はご入り用ですか?」という確認に対して「あだいじょぶすあざす」と高速で応答したアレであったり、ゴミ捨てに行った際に先客がダストボックスの蓋を開けたまま保持してくれているのに対して「あさーせんたすかりますあざすさむいすねふひひ」という3バイト位に挨拶、謝礼その他を無理やり詰め込んで言語崩壊したソレであったりする。

 

「感謝」という尊い行動に対して、当方の感情は喜怒哀楽のいずれでもなく「無」であり、さらに強いていうなれば「恥」が一番近いのだ。

 

人は大人になって社会性を身につけていくと伝え聞くが、こと感謝については幼少期のほうが上手に出来ていた気がする。

 

近所の見知らぬお婆さんに謎のお菓子一つ貰っても、テンション最大値でありがとう!と告げることが出来ていた。

 

大人になるにつれて、感謝ひとつ示すにも余分な感情が邪魔をして素直に告げられなくなってしまったのは、悲しいことである。

 

ということで、今一度幼少期の率直な感謝を示すべく、直近で感謝を捧げることができる対象を探してみた結果、ソシャゲのクリスマス&福袋イベント一択であった。

 

今年のイベントでは推しキャラが引けた際には運営に感謝のメールを送るなどして、失った感情を取り戻したい所存である。

 

 

子供にとってのピザ=ガン極まりするヤベー奴。

今週のお題「ピザ」である。あんなに薄いのにハイカロリーとか物理法則先生に謝罪すべき。


さて、日本におけるピザの食べ方といえば概ねにおいて二通りであろうと思う。


即ち、外食で少人数用のオサレなピザを食べるのか、デリにバリーして自宅でピザパーティーを開催するか。

当然我が家においては、自宅で食べるの一択である。


そもそも外食で食べるピザというのは、古来から日本で愛されてきたピザとは異なる、別物の何かだ。


超絶技巧かよ、と突っ込んでしまうような芸術的に薄い生地に、今日野菜やら熟成ハムやらが乗り、ハーブが散らしてある状態である。


私のようや空気を読めない不適合者でも、て手掴みで食らいつくには抵抗がある。

「フォー…ク…?」と生まれたてのように不器用にカトラリーを使うしかないのだ。

正味、窮屈である。


ピザを食べる時は自由で、何というか救われてなきゃあダメなんだ…と孤独のグルメモードとなってしまう。


やはり、我々が愛すべきピザはデリのバリであろう。


ジャンボサイズのピザがデン!炭酸飲料がドン!なんかクーポンでついてきたサイドメニューがポツリ。もはや様式美だ。


そして思い出して欲しいのは、子供の頃のピザを食す際のトキメキや興奮である。


他家は知らないが当家では、ピザはクリスマスや誕生日など子供心にスペシャルな日に決まっていた。


まず、選ぶ段からして既に楽しい。

店ではないので、幾らでも悩むことが出来る。

ハーフアンドハーフなぞ無いから、真に食すべき一枚が決まる迄、チラシと睨めっこ。


親が痺れを切らしてアンチョビなど入った子供受けしないピザを頼んでしまうまでがお約束であった。


届くまでの楽しみもまた格別である。

昔はよく30分以内に届かなければ無料!という交通事情を無視したチャレンジ企画をやっていた。


電話を終えてから「スタート!」と時計を見つめる。


早く食べたいが、遅れたら遅れたでタダで食べてしまえるというお得感。


どっちに転んでも嬉しい楽しいというスター状態に陥るのである。


このサービスは、流石に最近では聞かなくなったが、代わりにテイクアウトはもう一枚無料、という謎サービスが変わりできた。


元々デリピザのサイズ感は異常なのだが、それがもう一枚無料。


モヤシの値段と同じくらい経営が心配になるレベルである。


まあ大抵食べきれずに翌日の朝食となり、朝から胃もたれ胸焼けするまでがワンセットな辺り、人間の業を感じさせる哲学的な食べ物とも言える。


大人なるとさすがに物の単価も分かるようになり、デリピザのお高さも充分承知している。


それでも臨時収入などあれば「今日はピザでも」といそいそ電話をしてしまう私がいる。


そしてまた届いたピザの楽しさと旨さは、あの頃と相違ない。

むしろ変わってしまったのは私のほうだ。

今回もまた胸焼けを耐えながら体重計と睨めっこするのであった。



心弱きモノ、迂闊に鍋に手を出すべからず。

今週のお題は『鍋』である。

この件について語るのは墓穴の香りが強い。

どうにか毎週のお題に参加しよう、という意思で書き綴っているのだが、なんだかダイエットのために走っているのに給水と称してコーラを飲むかの如き味わいの今日この頃である。

 

さて、当家においては私が料理担当であるのだが、ローカルルールとして、手抜き料理が3日続いてはならぬ、という鉄の掟が存在する。

 

何をもって『手抜き』と判断するかについては、各ご家庭で意見の分かれるところである。うちの場合なら、カップラーメンやレトルトカレーは手抜き、トッピング増しの袋ラーメンやパスタは料理である。クックドゥ様?料理に決まっているだろうが。

 

では『鍋』についてはどうか。

かなり個人的な認識となるが、料理ではある。しかし、常に我々を堕落へと誘う、悪魔のような料理という事を、決して忘れてはならないのだ。

 

勿論、鍋といっても色々だ。スープの素から配合し、季節のお野菜を美しく盛り付け、下処理した肉や魚をメインに添える。そんなものは料理以外の何者でもない。

それが出来る人というのは、恐らく夏休みの宿題は早めに終わらせ、お腹が減った時の夜食も春雨ヌードルで済ませるような、自己管理能力高めの方々だ。堕落の心配はせずとも良い。

 

私がいう堕落の鍋料理の第一歩は、鍋のスープの素を手にとる所から始まる。というか、実際に始まった。

 

【レベル①】

ある日のスーパー。今日は何にしようかと思い悩むも面倒さがあり、そこで手に取った鍋の素。

一つで主菜も副菜も賄う万能選手である。

これは良い、と裏面に書かれたお勧め具材を買い求め、その日の夕食としたのである。

家族にも好評であった。

 

【レベル②】

翌週の事である。

またしても献立に悩み、スープの素を手に取る。

手抜きではない。鍋は野菜の栄養素を余さず取れるらしい。正義。理論武装は当に終えている。

そこで問題となるのは、具材である。

何しろ、モチベーションとしては『面倒だ』が先に立っている。

 

タマネギ…皮を剥くのが面倒である。あと目が痛い。根元切るだけの小松菜にする。

ジャガイモ…皮をむくのが以下略。キノコで。

魚…皮を以下略。安い鶏胸で十分である。

 

鍋は良い。全てを受け入れてくれるのだ。

 

『レベル③】

鍋でいい。鍋はいい。鍋がいい。

 

そろそろ3週目になろうかと思うキムチ鍋の素を手に取る。何故か。味が濃い方が色々誤魔化せるから、という孔明ムーブ。

 

ついでにいえば、包丁も使いたくない。家内で刃物を振り回すとか正気の沙汰ではない。

 

袋開け→投入可能なモヤシ、豆腐、豚コマをチョイス。

ついでにうどんを購入。お察しの通り、明日の朝ごはんまで、この一食で賄ってやる腹づもりである。

ーーーー

しばらくして、我が家では奥さんが「汁気が無いものを食わせろ」とジャンヌダルクの如く立ち上がったのであったが、割とどうでもいい、別の話である。

 

鍋は旨いし手軽であるが、無限に手抜きが出来る。鍋料理が続いたら当ブログお得意の老化のサインであるため、家族配偶者は目を光らせているが良かろうとおもう。

 

 

 

 

 

映画の感想は、映画を完走した者のみ語ると良い。私はググるが。

今週のお題は「最近見た映画」とのこと。

最近。見た映画。

お題にはなるたけ参加したい所存であるが、初手から詰んだ感が強めのお題である。

 

まあ私が普段生活しているのは何の変哲もない地方都市である訳で、普通に生活していれば映画の一つや二つに触れる機会は十分にある。

 

ついでに言えば私の場合、Amazonプライムという時間崩壊サービスにも加入しているので、スマホさえあればいつだって視聴可能な環境と言える。

 

じゃあ何に詰んでいるかといえば、映画の部分ではなく、最近という部分だったりする。

 

最近、といえる位の記憶の中で、果たして最後まで見切った映画があっただろうか。

 

例えば先月位だったか、夜のロードショーで映画を見ていた。うろ覚えだが、惑星移住船の中でトラブルにより自分だけ目覚めてしまった、みたいな映画である。

 

食後の大福&ソシャゲ周回しながら見で大層恐縮だが、葛藤や人間ドラマもあり、面白く見ていた。途中までは。

 

22時を過ぎた頃だろうか。

映画も中盤となり物語が動き出す最中、私はこう思ったのだ。

 

「眠くなってきたな」

 

しかし、映画の続きはとても気になる。

なので私がとった行動は、Googleで映画の結末を検索する、という行動だった。

 

この時点で、目の前に熱烈な映画ファンなどいれば刃傷沙汰待ったなしだが、申し訳ない。

私のような者では思いつかないような考察まであり、なんなら得した気分すらあった。

 

そもそもである。

人は年々老化していくわけで、特に集中力などその際たるものと言える。

割と全盛期に近そうな大学生でさえ、一度に集中出来る時間は90分程度であり、講義の時間もそのように調整されている。

 

翻って、映画というのは本来、レクリエーションの筈である。

にも関わらず、うかつに再生ボタンを押すと、なんと120分もの間、集中を求められるトラップが発動するわけだ。

それも、老いた我々に対してである。

 

これで楽しめというのは、初心者をゴンドラ無しの登山に連れていくようなものだろう。

膝に手をつき過呼吸気味のところ、「ほら、いい景色だろ!」と意見を求められても「いいから酸素缶もしくはビールをよこせ」としか言いようがないのだった。

 

なるほど。映画館のフードが充実しているわけである。

あれば、要するに、麻酔。

 

ということで、今回のお題に関して言えば、まともな内容はとても書けない。

 

せいぜいが、

「今流行りの映画を(横目で)見てきました」「買って積んだままのおすすめ作品3つ」

「こだわりのホームシアター、をポテチを触れた手で弄る」

しかない。

最後の一つは訴訟案件と思慮される。

 

私のような者は、朝ドラか30分のミニドラマ、世にも奇妙な物語を一週間かけて見てろ、ということなのだろう。