BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

240509-晩ごはん。

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晩ごはん

鶏ささみチャップ
ブロッコリーミニトマトのマヨガーリック温サラダ

キャベツとブロッコリーとベーコンのコンソメスープ(チーズイン)✳︎お昼の残り。写真なし。

 

 

ポークチャップならぬ鶏ささみチャップ。

たまねぎの甘みがなんだかすごく宝物。あと、ケチャップベースのソースにもちょっとお砂糖を加えてて、この甘みも鶏肉にめちゃめちゃマッチしてる。

 

ポークチャップよりも、わたしとしてはこっちのほうが好きかな☺️

とりにく好きだし。


手順はこっちのほうがやや大変だったけどね。

 

またたべたい!

あしたは出社だからお弁当に入れよ。

加賀恭一郎シリーズキャッチアップ-240509。

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孤高の敏腕刑事・加賀恭一郎シリーズ まともに「シリーズもの」と意識して読んだことなかったので いまさら読んでみている。

シリーズ1作目の『卒業』はずっと前だけど読んだことがあるので(そしてあんまり面白いと思えなかった覚えが。)飛ばして、2作目の『眠りの森』から。

 

 

『眠りの森』

早朝のバレエ団の事務所で、身元不明の男が死んだ。取り調べによると、団員の女性が彼と遭遇して揉み合いになり、部屋にあった置き物で殴ったところ、死なせてしまったとのこと。不審な点がみつからなければ、身を守ろうとしてとっさにした行動「正当防衛」が成り立ち、女性は放免となるはずだが、どうもこのバレエ団の面々はみんな、なにかを隠しているような・・・。そしてそんななか、バレエ団の関係者に第二、第三の死者が。

おもしろかったけど、90年代あたまの作品てことで、さすがにかなり古さを感じた。それに、天下の東野圭吾にも、こんな時代があったんだなーとおもった。どこか幼さと浅さが感じられた。でも一定以上にはおもしろいんだけど。いまの東野圭吾がこの作品を書くならもっとバキバキにおもしろく仕上げるんだろうなー。

テレビで特別ドラマとして放送されたことがあったみたいで、U-NEXTで観られたので、観た。おもしろかった。一般受け用にわかりやすくアレンジされていた部分はあったし、加賀とヒロインのロマンスの要素は、役者の実年齢などを考慮してか、薄められていたけど、大筋では原作をゆがめることもなく、うまくまとめられていた。というかむしろドラマの脚本の方が、原作のやりたいことを上手にとりだして、よりはっきりと伝わるように、メリハリつけた演出がなされていたようにおもう。ヒロイン役の石原さとみが、良かった・・・。彼女のラストシーンは、さすがにわたしもうるっときた。

 

 

どちらかが彼女を殺した

離れて暮らしていた妹が死んだ。直前に落ち込んだ様子で電話をかけてきたため、自殺かとも思われたが、交通課の警察官である兄は、事故現場の検証で培ったするどい観察眼で他殺を疑い、重要な証拠資料をひそかに独占、自力で事件の真相に迫ろうとする。
加賀恭一郎シリーズの第3作。

これはいわゆるリドルストーリースタイルってやつだな。
犯人が結局はっきり明かされないようになっている。

うまいぜー。こんちくしょう。

犯人が誰かを考えること以外に、ドラマとしてもすごくおもしろい。

かわいい妹の、知らなかった横顔。

 

 

『悪意』

人気作家が他殺遺体となって自宅で発見される。被害者は海外への移住を目前にひかえており、荷物はほとんど発送ずみだったので、綿密な下調べをしたうえで侵入することが多いとされる強盗などのしわざとは考えにくく、加賀恭一郎刑事はすぐに、顔見知りによる犯行をうたがう。そしてまもなく犯人があきらかになるのだが、その人物は犯行の動機について頑なに口をつぐむ・・・。

加賀恭一郎シリーズ4作め。

おもぴろい!!!

わたしは「犯行の動機」を語ることに重点をおいた推理小説には繰り返し読みたくなるような傑作がおおいと思っていて、そういう小説がじっさい好きでもあるので、犯行動機にテーマ全振りのこの作品は楽しかった。
作者による地の文で展開していくのではなく、登場人物たちそれぞれの日記や手記、インタビューの書き起こしなどといったいわゆる「記録」によって全編が構成されている というスタイルが、すごくこの作品にマッチしていたとおもう。

いやー良いですね。

240509。

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今朝の熱。ほんとは36度を切ってくれると安定の平熱なのだが まあこれで一安心かな。

 

お昼ごはんは

ハムチーズたまごトースト

キャベツとにんじんとブロッコリーコンソメスープ(チーズイン)

きのう同じトースト作ってちょっとパンを焦がしちゃったのだが 今日はうまくいった。でもチーズはもちろん焦がし放題が好き。

 

昼の熱。

ごはん食べたから多少は熱上がったが 37度にはなってないから大丈夫。体調も悪くない。ただ少しセキがある。夕方ねんのためもう一回だけ熱をはかって そのとき上がってたり いまよりも体調悪くなってたりしたら 病院いくことも検討する。

 

240508。

YouTubeとかで、
カルトやマルチに勧誘されたらどうする? みたいな内容の動画や
ある種の組織やイデオロギーの信奉者だったけど辞めた人、
二世信者だったけど辞めた人、などなど
そういうのの動画を少し観てみている(昔からけっこう観てたけど)。
きのう観た動画は、かつて幼なじみから勧誘を受けたという人が、当の幼なじみ(いまは脱会している)とふたりで出演して当時の体験を語ってた。
そこで、
「『カルトでもなんでも、本人が入りたくて入ってて、そこで困ったことや傷付くことがあっても、それは本人の責任のことで、周りには全然関係がないから、本人の勝手だ。周りがとやかくいうことじゃない』という意見もある。でも、『周りには関係ない』なんてことはない。周りの人もとても困るし、悲しむ。悲しませないで欲しい」
ということを言っていた。

「悲しませないで欲しい」。

ほんとにそうだなあと いまのわたしは感じてる。

悲しかった。
そう思っていいんだなとおもう。

あの子と仲良くしてた期間は短かった。
いろいろ めんどくさいやつだなー笑 と思ったこともあったけど
楽しい時もいっぱいあった。
わたしが好きな古い映画や俳優の名前を知ってくれていてうれしかった。
本好きの友だちができたと思ってうれしかった。
友だちになったとおもってた。

断ってごめんね。
でも わたしじゃなくても良かったんだろうなとしか思えない。
悲しかった。

たぶんあなたは 寂しさとかつらさとか怒りとか
人生への不満をかかえているんだろうな、と
それくらいは わたしもわかってる。だけど、
「わたしと遊んだりして楽しく過ごすなかで、心が少しでも軽くなれば良いな」とか
友だちだったら当然思うようなことを
思うことができない。ごめんね。

もう会えない。さびしいよ。

240507。

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カゼなので消化の良いものを食べようとおもいネットで調べてたまご雑炊を作った。水が多すぎてサラッサラになってしまったのと、塩気がちょっと足りなかったけど、やさしい味になった。これはこれで美味しかった。次はもっとうまく作れるとおもう。

 

葛根湯をのんでるので体温が上がるのはしかたがないのだが 平熱がとても低いので 37度やそこらでもフラフラになってしまう。けっこうしんどい。

 

今朝、かかりつけの近所の内科クリニックに、ネットで診察予約をいれようとしたら、連休明けで忙しいのか、すでにきょうの朝から今週木曜の午後17時くらいまで予約がいっぱいで、今週木曜のいちばん最後の時間帯で、やっと予約を入れることができた。葛根湯はもうあしたの朝のぶんしかないんだよなー

 

買ってくるしかないかなー

 

 

 

240506。

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風邪ひいた。そんなには重くないが、めずらしく熱が出てる。ちょっとお腹の調子も悪い。

1か月くらいまえに知り合って仲良くなった人から、ある宗教団体の信徒さんであるということを告白され、勧誘を受けた。

きのう、その子と一緒に遊んだときに、勧誘を受けた。会う場所はむこうから指定されたのだが、そこにわたしを誘ったのも、結局、その近くにある団体の施設に、あわよくばわたしを連れて行きたかったからだ、とわかった。

遊ぶ約束をした当初は、ちょうどラフォルジュルネの開催期間なので、わたしから、有楽町に誘ってみた。フリーライブもあるからそんなにお金もかからないし、都内在住ときいてたので、距離的にも近いだろうとおもったから。すると、それは断られ、なぜか、きのう会った場所にさそわれた。わたしの住んでいるところに近いでしょ、って。じつはそんなに近くもなく、有楽町に行くとしたら1時間くらい、昨日会った場所に行くにせよ、45分から50分。そんなに変わらない。まあ、別に良いのだが、なんでこんなにその場所にこだわるのかな?とはおもった。

ふたをあけてみれば結局こういうことだったとわかり、ショックだったし、がっかりもした。
こんなことになるんだったら ひとりで有楽町に音楽を聴きに行きたかった・・・。

ただ、勧誘の意思を打ち明けようとするとき、あの子は、すごく逡巡する様子をみせた。わたしがどんな反応をするか予測しきれなくて不安だったのかもしれないし、何にせよ、この1か月、きっとずいぶん悩んだんだろうな、とおもう。あの子があんなにも、ためらいの表情を浮かべていたことをおもいだせば、いつかは今回のことも「ま、いいか。」と思えそうな気がする。今はそう思えなくても。

正直に言えば、知り合ってからここ1か月、あの子と接してて、
ちょっと、うーん? とおもうところがあった。
わたしが感じてたあの子の「ある一面」と 
あの子の宗教への傾倒のしかたは
何か、通じるものがあるというか、
「そうだからこうなった」というつながりを感じる。
そういう宗教だからあの子はそうなった なのか
そういうところのある子だから その宗教を強固に信じるようになった 
なのか どっちが先かわからない。
絶えず両者が関係しあい、他の介入を許さないくらい固く結びつき、
いっそうほどきにくく、ガッチリ結ばれていってる、そんな感じかも。

ある一面、ていうのは、
たとえば、あの子は、物事に対して、いつもなんだか否定的な態度だった。わたしが言うことも、面と向かってけなしたりはしないものの、きもちよく受け入れてくれないのが常だった。「そんなのだめだよ」「ぜんぜん違うよ」。あと「お金がもったいない」「なんであんなことに労力を使うのかわからない」みたいなことも、すごく頻繁にあの子は口にした。
そのくせ、自分はこうしたい、したくない、ということを、その場ではっきり言えない一面もあるようだった。昨日の約束をしたとき、当初は「映画も観に行きたいね」と話してた。わたしが有楽町に誘ったのは、ラフォルジュルネに一緒に行きたいのもあったけど、あのエリアなら映画館もあるので、ついでに映画も観に行けるとおもってのことだった。映画観たいねという話に、その場では、あの子も乗り気みたいだった。直近で連絡をとったとき、「結局なんの映画を観るか決めなかったから、当日考えようね」と言ったのも、あの子だった。でも、きのう会って話すなかで、急に「ほんとは、映画館で映画を観るのも好きじゃない。1800円もかかって、高いから」と言われた。

あの子自身が信じてる何かただひとつのこと以外は受容したがらない、
そんなところがあることを、うすうす感じていた。
もちろん誰だって、「こうだ」とおもっていることや、好きなものとかがあったら、
他の何よりもそれが一番だというきもちにはなるかなとおもう。
でも、あの子のそれは、やや度を越し気味だった。
アレはだめ・これはイヤ・違う・そうじゃない・・・
というかわたしたちくらい良い大人になれば、基本的に、人との関わりのなかで、否定ばかりの態度はとらないものだとおもってた。「否定の言葉から入るコミュニケーションは、嫌われやすい」ということを経験から学んでいるから。わたしのまわりの、すでに付き合いのある人たちのなかには、ここまで否定、否定、の態度の人はいない。そういう人は嫌われる。いっしょにいても楽しくないから。
あの子の「否定」の態度は、けっこう顕著だったから、気になってはいた。

ただ、そういうことばっかりでもなかった。そんなになんでもかんでも嫌なら、じゃあ、なんだったら良いの? と意地悪なことを聞いてみたくなったりしたのだが、当人も、同じタイミングで「否定的なセリフばっかり言いすぎちゃったな・・・」と気づくのか、「自分だったらこうしたい」「でもこんなところは良いとおもう」とか、前向きなことも言ってきた。そんなときはおもしろかった。

それに、きのう遊んだ時のことだけど、ある展示をみるために待ち時間がかなりかかることをしって、あの子が難色をしめした。わたしが「まあ、ほかの展示をみながら、気長に待とう。」と声をかけたら、はっとしたようにわたしを見て、「うん、そうだよね」といって、表情をゆるめてくれた。あのときの顔つきの変化は印象的だった。

そんなことも確かにあった。否定的なもののいいかたやとらえかたをしがちなのを自分でもわかってて、改めたいと思っているんだろうな、と感じていた。あの子のそういうところは、なんだかけなげで、良いなと思っていた。

でも・・・

わたしと あの子とでは 結局、この1か月、時に一緒に過ごし、時に同じものを見てても、考えてることがあまりにも、むちゃくちゃ全然ちがったんだなとおもう。わたしはあの子と友だちになったと思っていて あの子と向き合っているつもりでいた。でもあの子はわたしを勧誘の対象としてしか見てなかったし、わたしとの付き合いも、そのための導線でしかなかったんだろうとおもう。わたしがどんな人間であったとしても関係なく、あの子はわたしを勧誘しただろう。勧誘しか、しなかっただろう。それは要するに、わたしじゃなくても良かったということだとおもう。

あるいはわたしが、宗教にでも見境なくすがりつきそうなほど、心に苦しみをかかえてて、満たされてないようにみえたのかな? そうだとしたらすごく悲しい。

コンビニでおやつと飲み物を買って、川沿いの公園のベンチで、一緒に川をながめながらおしゃべりしてたときに、打ち明けられた。
あの子は自分の信仰のことをいったん切り出すと、そこからは、わたしに一瞬たりとも口を挟ませまいとするかのように、饒舌に語った。
「世界はいま、末法という時代にあって、ただひとつの教えを信じ実践すれば、世界の終末から救われるし、悩み苦しみからも救われて、人生が上向く」というようなことをいってた。
そんな話がひとしきりすんだあと、ご本尊? が置かれている施設があるから、そこにこれから一緒に行ってみないか と熱心に誘われた。
わたしは 「信仰を否定するつもりはないけど、興味がない。とても行く気になれない、行きたくない」と 断った。「その施設に連れて行きたかったから、ここに誘ったんだね、正直がっかりだな」とも伝えた。

あの子は、わたしのリアクションが思いのほか強くてあせったのか、いや、もちろん遊びたいとおもってたし展示も見たいとおもったから誘ったんだよ、でもね、・・・と、早口で必死に取り繕い、リカバリーをはかろうとしてきた。わたしは内心ちょっとあきれながら「その論法だと『結局ほんとうにしたかったことは施設に連れていくことでした』ということになるじゃん、それじゃ状況は何も変わらないぞ・・・」と思ってた。

つらかった。

あの子は、信仰のおかげで救われた、といった。
もし信心していなかったら自分は犯罪者にでもなってた、と。
もちろん、そういうこともあるとおもう。人を苦しみから救うのが宗教だろうから。でもその信仰を、近しい関係の人に、こんなやりかたで(なんだか騙しうちみたいな形で)すすめているんだとしたら、あの子はずっとずっと、人から疎んじられ、孤立を深めているのではないかな。
その孤独の苦しみから、いっそう意固地になって、信仰活動に頼っているのでは。

よけいなおせわだけど。

だってなんだかあの子はあまり幸福そうではないから。狭量で、否定的で、他人が言うことすることダメだダメだとおもってて、そんなんでは毎日イライラしてしょうがないだろう。「ただひとつの真理を教えてあげようとしているのに、みんなはそれを拒絶し、自分から離れていく」って思って、イライラしているだろう。本当は哀しくて、寂しいんじゃないのかな。正しいことをしてるはずだけど独りぼっち、それではたして幸福だろうか。自分はみんなが知らないことを知ってる、という優越感にひたれるとか、そんなことはあるかもしれないが。

わたしにはわからない。

あの子が口角に泡して語るのを聞きながら 川や 晴れ渡った空や 鳩や 散歩する人や あそぶ家族連れや子どもたちをみて きれいだなあ、切ないなあとおもってた。

わたしは、
この世界の混沌がきらいじゃない。世界が間違っていると、おもわない。混沌そのものが自然のようにおもう。たしかにこの世界はいったん何かの終わりに向かってる気もする。でもどんなものもいつかは終わる。終わりとか始まりとか良いとか悪いとかは 人間がそのようにとらえるからそのようになるだけだとおもう。うまくいえないけど。

ただひとつの正しい教え、それは良い。けれども、それ以外の教えはみんな嘘で、みんな金儲けだ、などといって、ろくな根拠もなく非難しているのだとしたら、それはあんまり良くないかなとおもう。他の宗門のことを言うならその宗門のこともよく勉強して、ある程度正確に知ったうえで、のほうがいいのかなとおもう。
具体的にここがおかしいと、指摘できるなら、それは議論になる。でも、よく知りもせず、ぼんやりとした悪口しか言わないなら、「理由はないけどなんとなくあいつが嫌い」と言ってるのとおなじだ。

それに、何かひとつのことを一心にやってれば、人生すべてうまくいく、という主張も、好きじゃない。
というのも、あの子は、知力になんら問題のない、りっぱな大人でありながら、自分の信じているものの教義を、理論体系としてはすこしも理解してなかった(理論体系は存在するようだが、教わっていないらしかった)。
自分の宗教の理論をぜんぜん理解していないのに、それを恥ずかしいとも疑問ともおもっておらず、「むずかしいことはどうでも良くて、ただお題目を唱えればいい」みたいなことを言ってた。
それも、なんだかおかしいと思った。
あの子は、緻密なロジックによって展開していく推理小説がすきで、わたしも本が好きで、わたしたちはそれがきっかけで仲良くなったのだ。「むずかしいことはどうでもいい」だなんて、そんなあの子らしくもない。

そんなもんなのだろうか?
わからない。
わからないけど でも率直に すごく変だなとおもう。

教団の施設に行くことを、2回説得されたので、2回繰り返し拒んだ。あの子はそれ以上は無理強いしてこなかった。
そのあとちょっとだけ、どうでもいい内容のおしゃべりをして、気まずくならないように、お互いに雰囲気を取り繕った。
けど、その後、早々に別れた。
わかれぎわ、あの子は気まずそうで、でも、かたくなで、目も合わせてくれなかった。

あの子が、これからまた、何か連絡をしてきたとして、
それがどんな内容でも、もはや、わたしはうれしくないだろうとおもう。

それに、あの子の心や人生に、どの程度まで、「信仰」というものが、入ってきているのか、わからない。

もしあの子に、信仰や勧誘を介在させない付き合いをしようよ、と 求めたとしたら、あの子は表向き、わかったよと言って、いったんは勧誘をやめて、普通っぽい友だち付き合いをしてくれるかもしれない。
でも、そもそも心からよかれとおもって勧誘してきているので、早晩、勧誘を拒まれているという状態に、不満をおぼえるだろう。
そして、がまんできなくなって、結局はわたしを勧誘したくなるだろう。
いまはイヤでも絶対気に入ってもらえるはずだからと、後悔はさせないからと、信仰することをよりいっそう強く求めてくるようになるとおもう。
だってあの子は、そうすることがわたしのためだと信じているのだから。
あの子にとってみれば、わたしを信心に導かないでほうっておくことは、乾電池をバリボリ食べてる人を見て見ぬふりするのと同じことなのだ。
もちろん、相手に拒絶されることにも、慣れているだろうが。

たぶん 信仰が介在しない人間関係、自分の信仰をうけいれてくれない相手との人間関係は あの子にとって無駄なんだろう。わたしのことも、たくさんいる勧誘するべき相手のうちのひとり、迷える罪深い仔羊くらいにしか思ってない。

こうなったいま、わたしはもう、あの子との交流を心から楽しむことはできない。

あの子にとっても、勧誘に応じないわたしと関わり続けることは無意味なのだろう。

わたしは拒絶し、あの子は勧誘する。それ以外に自然な道がない。

わたしはわたしの、したいようにしていいんだとおもう。
あの子のLINEアカウントをブロックし 削除した。

あとでネットで検索してみたら 複数人でとりかこんで、相手がうんというまで入信を迫ったり、車に閉じ込めて連れ回したりといった強引な勧誘で通報沙汰となった例も、かつてはあったようだ。
あの子は、そういうことはしないで、一人でわたしに当たってくれた。
それは、まだよかったのかな。
待ち合わせ場所に指定された、ホテルの1階のカフェで、あの子と一緒に何人もの信徒仲間が、わたしを待ってた可能性もあったのだ。

断ってごめんね。

でも 友だちでいられそうにない。
だって わたしは友だちだとおもってたけど あなたはそうじゃなくて
勧誘の対象としてしかわたしを見てくれてなかったようだ。
なんかショックだった。
友だちになれたとおもったのに あなたの頭のなかでは全然ちがうこと考えてたんだろうなあとおもうとショック。
だまされたという気持ちになってしまった。
頭では理解してるけど、心では受け入れられない。

なんかタイミングが違ったのかなあとか
わたしが予想する展開以外の わたしたちが普通に友だちでいられる
流れはありえたのかなあとか
わたしが間違っていたかなあとか いろいろ考える。

もしあの子の信仰する宗教がキリスト教とかの伝統宗教だったら?
わたしの友だちにもクリスチャンは何人かいて
わたしはその子たちと普通に付き合えているぞ。

まあ、その子たちはわたしを勧誘しないけどな・・・。
それに、わたしに信心がなくてもそれをダメだとは言わない。
「かわいそう、なんとしてでも入信させて救ってあげなきゃ」
みたいな態度で接してくることは、ない。



わたしは一生涯 誰からも愛してもらえないのかなあと おもう。
そうはおもいたくないけど。

なんだか、誰もわたしと向き合ってくれない。
わたしの何かが間違っているから 誰もわたしと向き合ってくれないのだろうか。
そうならば、何が間違っているのか知りたいし
わたしは 変わりたい。
わたしはとても寂しい。
わたしはわたしと向き合ってくれる人を求めている。

ラフォルジュルネ2024-240504。

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今日は、日中はお洋服を買いに行ったり図書館に本を返しにいくついでに散歩をしたりしてのんびりすごした。

 

わたしはワイドシルエットのデニムが似合わないなーと、つねづね思っている。なんでなんだろう。ほんとにわからん。みんなに似合うのに。わたしがはくとなんか違う。だからいつも細身のストレートジーンズやスキニージーンズばかりはいている(こっちはちゃんとサマになる。)。ワイドシルエットのデニムが似合うようにするためにはどうすれば良いのだろう。あこがれて買うんだけどなんか似合わなくていつもあんまりはかずにタンスのこやしにしてしまう。

 

夜から有楽町にいきラフォルジュルネ2024のホールAの本日ラストの公演を聴いた。

ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』とラヴェルの『ボレロ』のジャズアレンジバージョン。

 

ガーシュウィンは、ピアノがなんだかうわすべりしてたというか、音の重量が足りなくて、最後までいまいちハマってこなかった感じがあった。運良くすごく良い席で聴けてたんだけど・・・ プレイヤーが悪いとかいうわけじゃない。なんか音響の関係かなーとおもう。なんかもうすこし硬質な、クリスタルみたいな星屑みたいな響きが聴きたかったのだが、そうじゃなかった。

 

ボレロは最初のほうはオリジナルのとおりの進行をしていって、途中からフルオーケストラ・ジャズアレンジにきりかわる、という構成。まあ蛇足といえば完全に蛇足な企画なのだが、こういうのやりたくなる気持ちはわかる気がしたし、形にしちゃうんだから、やっぱすごいよな、と思った。

ラヴェルの音って、潜在的ブルーノートになりたがってるような、わずかになんかそういう指向性、欲求?みたいなものをはらんでるんだよね。わかるよ。めっちゃわかる。

蛇足なんだけどすごく楽しかった。べつにこれを聴いてもラヴェルは怒ったりしないだろう、と思った笑 ラヴェルとは違うけど、すごくさわやかでキッパリとした清潔感のあるサウンドだったし、全然悪くなかったとおもう。

 

ミュージシャンはみんな一流だったしなー。

 

ソロをつないでいくところはただでさえスリリングだけど、普段ボレロなんて演奏しないであろうゲストのジャズメンたちが該当の楽器のソロをそれぞれ担当してたので、まことに失礼ながら、ミスらないかどうか、音とか外さないかどうか、とか無駄にハラハラしてしまい、ソリスト3人いたのでスリルも3倍増しの大サービス。もちろんミスなんてしてなかった。けどサックスの人はソロの基本的なリズムをさりげに間違えて暗譜してたな😆 とても有名な旋律だし、このたったひとつの主題をさまざまな楽器でかわるがわる演奏するのだから、何度も聴いているうちにみんな覚えちゃうので、間違えるとバレちゃうよねー笑

 

アンコールもたのしかったー。

 

今年のラフォルジュルネは女性の指揮者が活躍してる。みんなかっこいいし、素人がみても(いや、わたしは素人なのだろうか笑)その指揮によって何を伝えようとしているのか、意思がはっきりとわかる、わたしとしてはすごく好きなタイプの指揮。練習でガッチリ握るから、本番の指揮はちょいちょいと要所要所で棒をふりまわすだけです、みたいなスタイルの指揮者も世の中には全然いるとおもうのだが、それだと演奏者としては本番が死ぬほど怖いし、鑑賞者としてはみてて楽しくない笑 

本番も練習みたいにちゃんと振ってくんないと笑