1960年代ロックンローラーvs2010年代YouTuber
おつかれさまです。
今年は梅雨すっとばして夏になるのかと思いましたが、しっかりジメジメしてきました。
ここでは「昔のロックンローラーと現代のYouTuberって似たもの同士なんじゃない?」ということについて考えてみたいと思います。
こう言い換えてもいいです、
ヒカキンってビートルズなんじゃね?
はい。
なお、昔というのは60年代〜70年代くらいを、今というのは2010年代を想定していただければ幸いです。
まずはこちらをご覧ください。
https://s.resemom.jp/article/img/2019/04/22/50238/232526.html
子供のなりたい職業ランキングの記事です。
YouTuberがトップ10にランクインしています。
こういうのって、質問用紙を配って親や先生の前で子供に書かせるのと、こどもスマホに直接アンケートを送るのとで大分結果が変わる気もするので、どれくらい実態を表してるのか不明ですが、
少なくともYouTuberという仕事が広く認知されていて、一定数の子達は憧れを持ってもいるというのは間違いなさそうです。
僕ら世代ではまだ存在しなかった人達なので、へえーと思ったものです(ちなみに、ぼくははじめしゃちょーとタメです)
それで、「YouTuberってどうしてここまでポピュラーになったのかなあ」という、手垢のついたテーマを改めて自分なりに調べたり考えたりしてみた結果、
YouTuberが持ってる魅力って、ことごとく昔のロックンローラーが持っていた魅力に似通っているように思えてきたのです。
さて、まずYouTuberについて考えましょう。
人気の理由の一つとして、YouTubeが若い世代にとってとてもアクセスしやすい身近なコンテンツだということが挙げられるでしょう
いまや小学生でも普通にスマホを持っていますし、一歳や二歳の子供さえ、お母さんにYouTubeの動画を見せられてあやされています。コロコロコミックで好きなYouTuberランキングを取ったりもしてるようですね。
こういった背景をふまえると、YouTubeで注目を浴びている人に憧れるのもさもありなんという感じがします。
また、「若い世代の側に立って活動している」というのも一つあると思います。
オッサンが過去の話を延々としているチャンネルがバズったという話は聞いたことがありません。ていうかそういうのは学校に行けばイヤでも耳に入りますね。
人気があるのは、ゲームの実況をしたり、縁日のくじを買い占めてみたり、身近なもので遊んでみたり…というものでした。小中学生向けといったらそれまでですが、それはつまり若者の側に立って活動しているということに他なりません。
分かりやすく若い世代の興味や考え方に寄り添っていて、しかも一個の動画は数分で短く観やすくキャッチーです。
また、このあいだ不登校YouTuberが話題になりましたが、ああいった形でメッセージ性も付加しうるものでもあるようですね。そのあたりはテレビ番組に出る芸能人にも性質が似ていますが、YouTuberは映像作りから編集までDIYでやっているぶん、より身近な印象です。
いい意味で、近所に住んでるお兄さんっぽい。
いわゆるギョーカイ人と素人さん、というような距離感じゃない。あくまで同じ目線でいて、別世界の人間という感じがしにくい、と。
そしてもう一つ、これが大きいと思うのですが、「なんだか自分にもできそう」という感じがすることです。
あくまで「できそう」という「感じ」です。じゃあやってみろよってなったら大変難しいに違いないのですが、この「できそうな感じ」というのが大事です。
YouTubeにおいては、録画録音機材さえあれば、とりあえず動画を作ってアップすることは誰でもできます。機材というと大仰ですが、スマホでも編集アプリを上手く使えばそれなりに何とかできそうです。
どこに住んでいても、何のコネもない状況でも、特権階級でも何でもない普通の人でも、ネタとスマホがあればそれっぽいことはできる、と。
もちろん、それっぽいことを本当に仕事になるような良いものまで持っていくのは大変なことですし、メチャメチャ狭き門だとは思います。でも実際に、小学生でYouTuberとして大当たりしたという話もありますね。
この「自分にもできるんじゃないかな??」という気持ち、10代ではすごく大きな魅力だと思います。
以上まとめますと
・アクセスしやすい、非常に身近
・若い世代向け、短くて観やすい
・作り手と受け手の目線が同じ
・自分にもできそう、と思える
ここまで考えて、こう思うわけです。
これ、ロックンロールじゃん。
60年代前半にビートルズが世界中で大ヒットした理由は様々ですが、その中の一つに、彼らがいたって「普通の若者」像を持っていたという事実があります。
作っている音楽こそとても革新的なのですが、インタビューや記録映像でみる彼らは、はしゃいでみたり冗談言っておどけたり、ごくごく普通の若者です。カリスマ風の雰囲気も出しませんし、実は全然スター然としていない。だからこそ、世界中の若い世代が彼らに共感したわけです。
また、YouTuberの動画がDIYであるように、ロックンロールは自作曲の文化でもあります。それまでのポピュラーミュージックは作曲者が別にいて歌手がいてというのが普通だったのですが、バディホリーやビートルズが自ら作詞作曲を手がけて演奏まで行うというスタイルを打ち立てました。
また、多くのロックンロールは一曲せいぜい3分、短い演奏です。その中にカッコいい音と綺麗なメロディが詰め込まれていて、楽しく歌って踊れるという音楽でした。また創成期はシンプルなラブソングがほとんどでしたが、やがて社会的なメッセージや思想を組み込むようなジャンルにも成長していきました。
そして演奏するには熱量さえあれば高度なテクニックは必須ではない、という音楽でもあります。だからこそ「これならオレにもできるぞ!」という気持ちでギターを手に取った若者は数知れず。僕もその端くれです。
はい。
このように並べて考えると、何となくロックンローラーとYouTuberは時代の中でのポジションが似通っている気がしてはこないでしょうか。
最初の話に戻ると、いまYouTuberに憧れてる子供の何割かはもしかしたら昔ならロックンローラーに憧れてたのかもしれません。
ヒカキンの動画にはしゃぐ子供は、60年前ならビートルズを聴いてはしゃいでいたのかもしれない。
また、これ大事なのですが、YouTuberおよびその一連のムーブメントを「よくわからん、なんとなく面白くない」と毛嫌いしてしまうことは、60年代当時にビートルズを「幼稚だ、音楽的深みがない」といって否定していたつまらない大人たちと同じになってしまう事に他なりません。
僕はやっぱり音楽が好きなので、じゃあロック聴くのやめて実況動画を毎日観るかって事にはならないのですが、そのへん柔軟に楽しんでいけたらなーと思います。
ストーンズ展に行ってきた
おつかれさまです。
遅ればせながら、件のローリング・ストーンズ展に行ってきました。
やー面白かったです。
ベロッと。
見慣れたマークですが、改めて大きいモニュメントでみると迫力ありますね。
場所は五反田、駅から少し歩いたところでした。外から見ると住宅街にポツンとある感じで、ほんとにここか?なんて思いましたが。
いやはや、中は別世界でした。
バンドの変遷をたどるパネルはもちろん、楽器の展示、各時代ごとの衣装の展示、実際のジャケットのアートワーク、セットリストや歌詞のメモ書きに至るまでストーンズに関するあらゆるものが集められています。
ギター好きとしては、雑誌で何度も見てきたテレキャスターやレスポールジュニアのホンモノを間近に見られたのが嬉しかったですね。
恐らくはオークションに出たなら数千万はくだらないギターたちですが、一見そうした高級感はなく、ただ使い込まれた跡が何とも言えない凄みを放っていました。いい音するんだろうな。
しかし、なにより特筆すべきはメンバーの部屋やレコーディング室の「完全再現」です。
見るのに夢中で全然写真撮ってなかった。
これは、駆け出し時代の若きストーンズが暮らしていた部屋や、レコーディングを行った部屋を細部に至るまで徹底的に復元したというものです。これがホントに凄かったです。
衣装や楽器というのは雑誌や映像資料でもまあ見られるといえば見られるわけですが、このほぼほぼ現実そのものな部屋の空気感、当時の生活感というものはこういった展示モノならではのものだと思います。
まるで自分が60年代に迷い込んだような。
そういう意味では、こういってはなんですが、ディズニーランドに行った気分にも似てます。
ベッドに脱ぎっぱなしの靴下、洗わずに積み上げられている食器、テーブルに置かれたチャックベリーやマディウォーターズのレコード。
そういう細かな所を自分で見つけていく楽しさもありました。
当時のイギリスの若者の一般的な暮らしぶりを良く知りませんが、おそらくこのくらいがフツーの男子大学生の生活だったんでしょう。
ネットやテレビがない以外には、今とさして変わらないようにも感じます。
「50年間全世界で活動し続けるロックスター」という前例のない歴史を刻んできた彼らですが、始まりは普通の音楽好きの若者だったんだろうなーと改めて思いました。
また展示のラストは「リアルに再現されたステージ裏の楽屋を抜けると、そこで大迫力の3Dライブが観られる」という演出になっていまして、これもまた粋でした。
楽曲制作の裏側、衣装や楽器や部屋の展示が続いて、最後に見慣れたステージでのストーンズがバーン!という構成はお見事です。
映像そのものは最近のライブのsatisfactionで、youtubeにも落ちてるものでしたが、一通りの展示を見てからだとまたひと味違ってきこえるから不思議ですね。
ストーンズのことを深く知ることができると同時に、ストーンズのメンバーになったかのような追体験ができる展示だったと思います。
とてもよかった、2回目いくか悩み中です。
Gibson J-45をてにいれた話
お久しぶりです。
久々の更新になります。
最近どうも仕事が忙しくなりまして、なかなかこちらに手がつけられずにいました。
忙しい中でも今日はビートルズだ明日はストーンズだ、ドレスコーズだクロマニヨンズだと毎日変わらず音楽は聴き続けています。しかしこう、新しいバンドやアルバムを探しに行こうというのがどうにも難しくなりますね。生活にゆとりがなくなるほど、聴き慣れたものに手が伸びがちです。
なるほどそうやって人は学生時代の音楽を聴き続けるのだなあ、と実感しているここ最近です。
しかし音楽とは、ロックンロールひとつをとっても、宇宙ほどの広がりを持ったおーきな文化であります。これを探検せずにいま知りえたものだけに留まるのは、スペースシャトルを持っているのに地球で膝を抱えて過ごすに等しく、なんとも勿体ない話です。
ということで、今後ともあれやこれや様々聴き込んでいきたいと思います。はい。
・・・という気持ちを込めて、新しくギターを買いました。
Gibson J-45 Ebony です。わーパチパチ
初ギブソンです。やったー。
このGibson j-45というギター、アコースティックギターの中でも王道中の王道モデルです。
使用アーティストを調べればキリがないようですが、個人的にはボブディラン、斉藤和義、奥田民生、藤原基央、志磨遼平などが浮かびます。あとジョンレノンのトレードマークの1つでもあるJ-160Eも、見た目はj-45とよく似ていますね。
結構こう、ジャカジャカとピックで弾くような使い方をされてるイメージです。
奥田民生のひとり股旅ツアーで使われてるのは、ヴィンテージのJ-45ですね。
まーこれはもうJ-45の中でも当たり中の当たり個体であり、さらに弾き手が奥田民生なのもあるのは思いますが、ギター1本とは思えないほど力強い音です。
エボニー、黒のボディに白ピックガードといえば斉藤和義ですね。
このギターを求めて御茶ノ水の楽器街をさまよっていたところ、何も言ってないのに「斉藤和義さんお好きなんですか?」と聞かれたほどです。ばれた。
あと僕らの世代からすると、BUMP OF CHICKENの藤くんのギターというイメージがあります。なんとなくorbital period〜COSMONAUTあたりの時期で特によく使われていた印象ですが、最近のMVでも弾いてる姿が見られますね。
この色だけ人気ですぐになくなってしまうそうで、実際御茶ノ水中を回っても1〜2本しかなかったほどです。結局試奏して回って、渋谷の島村楽器で見つけたヤツを引き取ってきました。
1日に同じ型のアコギを何本も弾いたのは初めてでしたが、エレキ以上に個体差がすごくあって面白かったです。中でも特に気が合う人を連れてこれたと思ってます。
というわけで、記念に弾き語り動画作りました。
このギターが似合うくらいのロックンローラーになれればいいなと思いつつ、
とりあえずは部屋に飾って、日々手に取って爪弾く今日この頃です。
ギタアルアレイのこと②〜Live編〜
こんばんは。
一気に冷え込んで、年末らしくなってきました。今年も終わりですね。
今年は本当に色々と身の回りの環境が激変して多忙だったのですが、振り返るとポールマッカートニー、リアム武道館、サマソニでノエルを観ることができて、他にもThe Birthday、ドレスコーズやヨギーやネバヤンなどなど色んなライブに足を運ぶことができました。幸せなことです。
大変なことは沢山あっても、音楽もといロックンロールと共にあれば何とかなるということを実感した一年だったように思います。
あんまり新しいバンドが掘れなかったのが心残りですが、焦ることはないですね。
そして、そんな一年の終わりに、
ライブをやりました。
ギタアルアレイで。
ギタアルアレイて誰だよ知らんわという人が10割だと思うのでご紹介しますが、私です。
ぼく、ヨシマがやっている架空のロックンロールバンドです。
「架空の」というのは、存在しないからです。そんなバンドは。
「こんなバンドがいて、こんな曲で、こんな歌詞で、こんな演奏してたら格好いいのになあ」という中学生レベルの妄想を、ちょっと現実寄りに引っ張ってきたのがこのギタアルアレイです。
架空のバンドなもんで、現実に人前で演奏するって本来ありえないことなのですが、「俺の考えたカッコいいロックバンドの曲は、もしライブハウスで鳴ってたとしたらこんな感じになるぜ」ということをその場に居る人と共有する、というスタンスで今回やってみました。
あまり具体的なやり方に言及すると野暮ではありますが、
要は「『ギターを持った岡崎体育』方式」です。
感情のピクセルをライブでやってる時の感じ。
…自分で考えたものの、表現が的確すぎて悲しくなってきます。
ロックンロールとは何だったのか。
このくだり書くために岡崎体育聴き直しましたが、なんや普通にめっちゃ格好いいですね・・・。
どうして普通にバンド形式でやっていないかというと、ひとつはもう単純にこのぼくの不徳の致すところです、ロックンロール的な意味で。
ロックンロール好きな仲間を集めて、バンドを組んで、喧嘩別れせずにちゃんと鍛え上げて、ライブを企画して、聴く人を集めて演奏する。シンプルにそのこと自体のハードルの高さがしんどいです。なんでみんなできるんだろう。
何ですかね、なんか、人を誘ったりとか、声かけたり巻き込んだりとか、気持ちを伝えたりとか、そういうのが特に、昔っから上手くいかないですね…。
やめましょう、暗い暗い。
なお、かつて昔、そういう色々で悩んで閉じこもっていた時期の自分に歌うつもりで、魂を削って作ったのがこの2曲です。ベイベー。只々つらい。
なお、一連の演奏を後輩に聴かせたところ「なんか、あのめっちゃ逃げてる曲すごいよかったっすね」と言われました。
はい。街の灯っていいます。街の灯です。
話が逸れましたが、あともう一つ、このバンドを架空のバンドとしている理由があります。それは、
ドレスコーズの「平凡」のような作品が出てくる時代になって、「2018年からロックンロールバンドを新しく始める」というのが自分の中で納得いかなくなって悩んでしまった…ということです。
ビートルズ、ストーンズ、オアシス、クロマニヨンズ、The Birthday、毛皮のマリーズ、、
自分がかつて憧れたような、そんなロックンロールバンドを「今から、新しく」結成するというのは、時代を考えるとどうしてもしっくりこない。それは今が音楽が売れない時代だという事とか、または音が古いだとかいう事ではありません。
現代の人々が、何より自分が今の時代を生きるにあたって抱えている問題や悩みというものが、ロックンロールで解放されない質のものになってきている…ように思える、ということです。
このあたりあまり言語化できていないのですが、具体的に言えば
「個性を大事にしよう」「好きなことをして自由に生きよう」「差別なんかやめよう」
これらはどれも、とっても大事なことで、50年近くロックンロールがずっと言い続けてる大きな主張のひとつだと思います。
でも今ぼくらが苦しんでるのって、こういう事とは別の何かのような気がしてですね、、。
例えばSNSでいいねとリツイートの数に振り回されてうんざりする感覚なんかは、むしろ「個性」や「好きなこと」の尊重のしすぎから来ている気さえします。
だとしたら、ロックンロールってむしろ正にその「個性」や「好きなこと」を全力で持ち上げるものなので、むしろ人を疲れさせる音楽に成り下がっていないでしょうかね、、。いや、元々別にヒーリングミュージックじゃねえのは勿論ですが。
またこれは別の話ですが、曲を生産する事自体、聴き手の疲れを助長させることにつながりうるんじゃないか、という悩みもあります。音楽を掘るというのは、本来は楽しいものを見つける楽しい作業のはずでした。しかし、今は指先1つで数千万曲に行き当たるわけで、情報量が多すぎて探すにも疲れてしまうという事態になっています。そういう状況下で、さらに曲を、コンテンツを増やして聴いてくれって押し付けるというのは、ただ疲れの元を増やすだけになりえないかな?とも思えてしまうのです。
だとすれば、二重の意味で解放の音楽としてのロックンロールってもうありえないんじゃないかと。そんなものがあるとすれば、それは架空の存在でしかないんじゃないか?
と。
いまいち正鵠を得ていないようですが、ギタアルアレイを架空のバンドとしているのはこういった気持ちからです。
架空のロックンロールバンド、架空の存在だから、そもそも個性も何もない。生身のカラダを持たない分、コンテンツとしても軽く、聴くことも聴かないことも強制せず、イメージだけでただそこにある。それでも、しっかりとしたルーツを持って、歴代のロックンロールバンド達への憧れを持って、音を鳴らしていく。
そんなふうにできたらいいなあ、と。
上記のようなことをダラダラダラダラと一年近く考えているわけですが、実際のところギタアルアレイで主張したいことはとてもシンプルです。
「ロックンロールは宇宙だ」
そしてぼくがギタアルアレイに望んでることは1つ、
「ロックンロールに帰属したい」
ということです。
色々書きましたが、やっぱりぼくはロックンロールバンドに憧れていまして。ロックンロールという宇宙みたいに大きな文化が好きで、そののなかの住人のひとりでありたいと。
ロックンロールの歴史というか、奔流というか、そういうものの中に自分を置いておきたいと、ただそれだけの事なんです。
もっとも、考え込むのが性分なので、そこに至るまでに今までも恐らくこれからも色んな葛藤があるわけなのですが…。そこも含めて横目で見てくれたなら幸いです。
ギタアルアレイです、よろしくお願いします。
来年はもうちょっと動けたらいいなあ、でもゆるゆるやります。
ドレスコーズ 「どろぼう」考察
こんばんは。
今月半ばに、ドレスコーズの映像作品がまた出ましたね。"dresscodes plays the dresscodes"どろぼう、僕はグラン・ブーケ盤を買いました。1番装丁が凝ってるやつですね。
今回はライブでありながら、演劇やミュージカルの要素も取り入れたステージだったということで、また昨年の平凡とは違った意味でエキセントリックな仕上がりになっています。
僕はこの作品、一度観てすごく惹きつけられ、二度観て鳥肌が立ちました。
ここでは二度目に観た際に気がついたことの話をさせて下さい。個人の妄想で合ってるかどうか分からないのですが、なんとなくどこかに書かずにはいられない心境なのです。
(ネタバレを多分に含むので、気にされる方はご注意ください。)
いつかの付録ラジオかインタビューだったと思います、この作品について志磨さんが「画面のアスペクト比が変わる瞬間に注目を」という風におっしゃっていました。
アスペクト比が変わる、というのは映像の上下の黒い幕がなくなる瞬間のことですね。
この点に注目して見直すと、とんでもない大仕掛けがあった事に気付かされたのです。
黒い幕がなくなる瞬間。
それはマックがメリー・ルウに別れを告げ、「あんはっぴいえんど」が始まる瞬間でした。
そしてこの黒い幕、間を置いて再び現れます。それが、「欲望」のラスト、マックが銃弾に倒れるその瞬間。そして本編ラストの「ダンデライオン」が歌い上げられるまで、この幕は現れたままです。
この黒い幕。
これは、演劇でいうところの「第4の壁」を表したものなのではないでしょうか。
「第4の壁」とは、観客とステージの間の壁、つまりフィクションとノンフィクションの壁のことでした。
この壁をあえて打ち破り「この劇を観ているお前はどう考える⁉︎お前は何者なんだ⁉︎」と問いかけることこそが、ブレヒトの大きな発明の一つである…の、だそうですね。人聞きですが(出典:山田玲司のヤングサンデー)。
今回の黒い幕の仕組みは、そのブレヒトの発明を、衝撃を再現しようとしたものなのではないでしょうか。
「あん・はっぴいえんど」の歌の中では、志磨さんの動きとカメラワークにそれまでとは大きな違いが見てとれます。
まずステージ上の動きに関してですが、この曲から明らかに「観客を意識した動き」になっています。それまでは観客をまるで無視していたのが、「あん・はっぴいえんど」に入った途端に観客に視線を送り、観客席から飛んできたバラも受け取るようになります。
「バラを受け取る」という行為が特にミソで、これはつまりステージと観客席との間に垣根がなくなったことを意味します。
また、カメラワークも大きく変わります。というのも、この曲から明らかに観客をしっかりと映すようになります。それまでは観客の存在も忘れてしまうくらいにステージの上ばかりが映っていたのに、観客の顔までしっかりと観てとれるようになるのです。
(この「途中から観客の姿を映す」という仕掛けは、トーキング・ヘッズの「ストップ・メイキング・センス」にもあったものですね)
この瞬間から、いわば「ステージ上のロックスターと観客」という関係が観てとれるようになるわけです。この関係の中には、僕らはみんな同じなんだ、ここにいる人達はみな一緒なんだ、というロックショーお決まりの図式が成り立ちます。
それを「あん・はっぴいえんど」「スーパー、スーパー、サッド」「欲望」という、ファンからも人気のある曲で十二分にアピールした上で、
ステージ上のロックスターを殺す。
殺した瞬間から、黒い幕がまた復活します。
この瞬間から、再びステージ上は隔絶されたフィクションの世界となるわけです。
この表現の何がヤバいかというと、つまり第4の壁を一度取っ払った上で、さらにロックの力でステージと観客を1つにして、その上で突然それをぶっちぎって一瞬のうちに再び分厚い壁を作り出してしまう…ということで。
極端な話、「ステージ上のロックスターを殺す」というのは、観客を皆殺しにするのと同じことなわけです。ありえないんですね。
だからこそ、これはお芝居なんですよ、ということが嫌という程突然強調されるわけです。
それによって、自分が殺されたような衝撃とともに、より第4の壁の存在がエゲツなく提示されると…。
「ダンデライオン」を歌うステージ上の男、いや女の姿は、最早ずっと遠い世界の住人のように思えます。その人はついさっきまで、皆と共にあったロックスターであったのに。
第4の壁を使い分け、遊び、突きつける。
それを、ロックと演劇という2つの概念を行き来することで、よりエゲツない形で提示する仕組みになっているのではないでしょうか、この映像作品は。
正直、1920年代のドイツの演劇に現代日本の僕達が共感するのは難しいことです。
しかし、ブレヒトが当時の世間に与えた衝撃はこういうものであったのかもしれない、と。この作品からは、そんな想像すら掻き立てられました。
「ドレスコーズ やべえ!」だけでなく、
「演劇やべえ!ブレヒトやべえんじゃね!?」
というところまで思わされる、そんな素晴らしい作品でした。
路上のジャズとパンクロックと
ごぶさたしています。
秋ですね。今年こそはサンマ沢山食べたいです。
中上健次の「路上のジャズ」を最近読んでいます。ドレスコーズマガジンで勧められていたからなのですが、読んでみたらすごく面白かったです。
舞台は60年代日本、ジャズ喫茶にたむろする若者の話です。一部は作者の経験に基づいた実話なのだそうで、当時の空気感がリアルに伝わってきます。
ジャズ喫茶にたむろする、なんて書くと小洒落れた大人が思い浮かびますが、ここで描かれているのはむしろ正反対の、クスリ、酒、暴力にまみれた荒れに荒れた生活です。社会から弾かれたアウトローな若者達の聴く音楽として、モダンジャズが登場するわけです。
フーテン暮らしで働きもせず、仲間とつるんでトイレの水に溶いた薬を注射器に吸って打っているような奴らが、コルトレーンは素晴らしいって話をしてるんですね。
カフェ ジャズ で検索したら出てきました。
現代で暮らしているとジャズは「お洒落なもの」というイメージで、小綺麗なカフェなんかでかかってる事が多いと思います。しかしそれは時代の流れでそうなっていっただけであって、本来は人間の生々しさが剥き出しになったヤバい音楽なんだということが分かります。
そこで、これ実はパンクロックに近いものなのではないでしょうか。
この「路上のジャズ」の時代のジャズがどんなものだったかというと、ちょうど既成概念が塗り替えられる過渡期にあったようです。ざっっくり言うと元々40年代ごろにはビッグバンドでスウィングするための「ダンスミュージック」であったのが、60年代になったあたりでフリージャズという形でコードやメロディが複雑化し、より内省的で文学的なものに発展していったそうです(間違っていたらごめんなさい)。つまり元々あったものをぶっ壊そうとして作り出された音楽なんですね。
酒やドラッグや暴力と共にあって、既成概念をぶっ壊す音楽。
それはもうパンクだろ、と。
「白い暴動がパンクロックで、黒い暴動がジャズなんじゃねーの!?ヒャー!!」
とぼくの中のパンクスが申しております。許してやってください。
パンクロックは圧倒的にシンプルで、フリージャズは無限に難解なものなのに、根っこにあるものは実は同じかもしれないというのはなんとも奇異なハナシです。しかし、時代背景を考えてみると、パンクロックは当時どんどん複雑化、技巧化していたハードロック界隈への反抗であって、フリージャズはコードや拍の縛りの強かったハードバップへの反抗であったということで、要はどっちも跳ねっ返り野郎だと考えればなんとなく納得な気もします。
個人的には、パンクロックがアッパーに他者へ強く訴えかけるものであるのに対して、フリージャズはダウナーで自己破壊的な印象です。表現方法が異なるだけで、そこに込められる熱には通じるところがあるのかも知れません。
だとするなら、パンクロックに痺れる感性を持ってれば、ジャズ方面にも心打たれる出会いがあるかもしれないということになります。
いずれにしてもこの本に出会ってジャズへの見方が変わったといいますか、一度じっくり聴き込んでみようと思いました。
今のところアルバートアイラーがぶっ飛んでいて好きです。かっけえ。
クロマニヨンズ「生きる」
おつかれさまです。平成最後の夏から、平成最後の秋を迎えようとしています。
クロマニヨンズの新譜を聴きました。
やー、もう、やっぱり格好良くて。
今までタワレコに電話して予約していたのですが、今回はAmazonで買ってみました。
EP盤って普通の郵便受けに入るんですね、買いやすい。
レコードプレーヤーがポンコツなので、最初めっちゃめちゃ回転数が遅くてヒロトの声が野太くなってしまってびびりました。
それはさておき、
最高。
クロマニヨンズに関しては15の頃から聴いていて10代をかけてひたすら憧れ続けた人達なので、自分にとってはもう良い悪いという以前に血肉の一部と化してる感じがあります。
なんでか分からないけど、ただただ泣いてしまう。
生きるはヒロト曲でしたね。
タメの入れどころがちょっとモダンというか、新しいなーという印象です。
この人達のやってることは、王道のパンクロックと見せかけて実はかなり特異だと個人的には思っています。
歌詞はかなり抽象的ですね。タイトルだけ見てエイトビートのような直球かと思っていたので、意外でした。
三億年か四億年、そんな風に時間の概念も超えたところで冒険をする人の歌のようです。たどり着けない答えはないという、迷いなく進んでいく姿が伺えます。
ヒロトが冒険というときは、もうこれはロックンロールを探し求めてディグることだと勝手に思っています。60年代のどこかの国のバンドの曲が突き刺さる事があるように、その冒険には時間など関係ないわけです。
そういったスケールの大きな曖昧な話の中で、フッと差し込まれてる2番の歌詞がまた良いですね。ヒロトのように好きなものがハッキリとあって、それを全力で楽しんできた人が、「好きなものが見つかるまで空っぽでいい」という歌を歌ってくれるのはなんというか救いです。
今回の曲は「ロックンロールと、好きなものとどう関わっていくか?」ということがテーマにあるように感じられます。それに「生きる」というタイトルが付いているというのがもう、ああもう。
カップリング曲は、、またまたボ・ディドリービートですね。好きだなあと。このビート、ジャングルビートとも言うくらいで、クロマニヨンズの雰囲気に合ってるなあと思います。
生産終了とか便利とか、「こんなにはいらない」といったこととか、ちょいちょいマーシーは資本主義の崩壊を思わせるテーマを挟んできますね。資本主義の崩壊なんていうと大袈裟ですが、要は「沢山色んなものが作られて、沢山色んな物を買って、どんどん便利になって、でもそういうのって疲れるし言うほど幸せじゃないんじゃないかな…」という。
かなりシンプルにはなってきましたが、情報時代の野蛮人あたりの時代から、実はテーマは一貫しているのかもしれません。
ボ・ディドリービートって、ライブで聴くと横揺れですごく踊れる曲に化けることが多いので、これは生で聴きたいところです。
去年はライブに一回も行けなかったので、今年は行きたいです。最近なんだかチケットの倍率が上がってるような…。