ロックンロール紙芝居電子版

Rock 'n' Rollの「'n'」になりたい

たのしいアルペジオ入門

アルペジオという奏法がある。これはギターでも重要な技法のひとつである。wikipediaに頼るまえに自力で説明してみると"音をひとつずつ伸ばして複数の音を奏でる技"という感じになるだろうか。口で説明してみると(よしなさい)"たららら~ん♪"という感じになるだろうか(伝わるだろうか)。
たとえば任意の、ギタリストが所属するロックバンドのアルバムを通して再生すれば必ずどこかに出てくるはず。そう、日常にアルペジオは潜んでいます(と、ここまで書いて思ったのですがRage Against The Machineにはまず出てきませんねアルペジオ)。
念のためwikipediaを紐解いてみます。

アルペッジョあるいはアルペジオ(伊:Arpeggio)とは、和音を構成する音を一音ずつ低いものから(または、高いものから)順番に弾いていくことで、リズム感や深みを演出する演奏方法。日本においては順番に弾くことだけではなく、コードを抑えた状態で弦を一本ずつ弾く事全般を言う場合もある。「ハープ(伊:arpa)を演奏する」という意味のイタリア語"arpeggiare"を語源としている。

wikipedia完璧、これ以上云うことはないという感じ。勉強になります。アルペジオはコード弾き、単音弾き、と同じくらいポピュラーすぎる奏法なので、とくに技という意識もなく半ば無意識のうちに採用される非常に日常的な奏法だ。だけど音の選び方と弾く順番と譜割(音の長さ)の選択で印象があまりにも異なりすぎるため、奥が深すぎる奏法でもある。
そう、比較的簡単なプレイなのに個性が出やすくて非常におもしろいのがアルペジオ

だからつまらないアルペジオというのもある。たとえばコードがCのときにそのまんまCのコードをおさえて低い音から順に"ドミソドミ~♪"なんて弾くと、そのまんますぎてなんの意外性もフックもなくてつまらないな、なんて思う(もちろんそれがアンサンブル上の正解であるケースもあるわけだから奥が深いわけなんだけど)。

では逆にいいアルペジオとは何か? えっと、なんだろう・・・・・・(考えています)。音数が少なくても印象を残すやつはいいなと思う。たとえばNIRVANASmells Like Teen Spirit」のヴァース(Aメロのかっこいい云い方です)のあれ、"たた~ん♪"ってやつ。あれはいい。わずか2音なんだけどアルペジオ。あとで演奏が爆発するからこの音の少なさが生きる。あと、かかっているコーラス(音に揺らぎを与えるエフェクターの名前です)も超効果的で、コーラスの代表的使用例でもあるこのフレーズは印象に残りすぎてすごくいい。

あとはコードを分解して伴奏にするパターンで思い浮かぶいいアルペジオが、たとえばスピッツの「ホタル」。これはイントロがアルペジオ一本と歌で進んでいくのでアルペジオが低音もある程度担保しなくてはならず、アルペジオがひとり()で低域も中域も高域も担うんだけど音の選び方と並べ方あと音色がめっちゃ綺麗でうっとりしてしまう(これもコーラスが薄くかかってるね、アルペジオはコーラスが際立つんだな)三輪テツヤさんもアルペジオの名手のひとりだと思っている。

別のパターンだと曲のなかでずっと鳴っている系のやつも好きで、これはたとえばBUMP OF CHICKENロストマン」のイントロのアルペジオ(これもまたコーラスが薄くかかってる)。このアルペジオは曲中でテーマ兼隠し味としてわりとずっと通して鳴っていて、ギターロックとかでは定番のアプローチなんだけどちょっと説明してみるとコードが変わっても同じフレーズをただただ弾き続けているので、これをやると各コード時に音が緊張感のある感じにぶつかったり、手軽で楽に()偶発ラッキーパンチ的ないい感じの響きが生まれたり、知的でクールなループ感を演出できるのでおすすめのやり口です(弊害として飽きるみたいなときもあるけど)。

三つくらいにしておこうと思ったんだけどもういっこ思いついたので書きます。UNISON SQUARE GARDENに「クローバー」というとても素敵な曲があって、この曲はずっと同じリズムでルートだけを変えていくアルペジオが一曲を通して弾かれているのだけど、このアルペジオが主役ですといわんばかりに曲をずっと牽引していく様がすごくかっこいい。まさにアルペジオ曲というか、ここまでアルペジオな曲はなかなかないなと思う。このバンドは三人でいろいろやるのがほんとに巧い。スリーピースの音の薄さを逆手にとって際立たせているんですね、アルペジオを。

といった感じにアルペジオはいろいろなやり方があり個性やセンスが出まくる。
最後に、いちばん好きなアルペジオを奏でるギタリストについてすこし触れたい。僕はL'Arc-en-Cielのkenのアルペジオがいちばん好きで、この人のアルペジオの特徴はというと"どんなkeyでも開放弦を狙ってくる"ところだろうか。
キーや開放弦の細かい説明は割愛せていただいて(書いてみたんだけど結構な長さになってしまったので・・・・・・)kenが多用する開放弦を用いたアルペジオについてざっくり解説すると、どんな音程のルール(keyのことです)の曲でもギターの開放弦であるE(6弦)・A(5弦)・D(4弦)・G(3弦)・B(2弦)・E(1弦)という固定された音を強引に頻繁にアルペジオに織り交ぜてくる。それによってどんな効果が得られるかというと、音楽のルールや人間の指の動きの限界から外れた"やばい響き"が得られる。

この試みを無理矢理ピアノで換言すると弾いた白鍵の右上の黒鍵やすぐ隣の白鍵を同時に弾くようなもの、またはピアノではあり得ない"同じ鍵盤を二つ同時に弾く"ような裏技めいたことを(ギターではそれをたしか異弦同音といいます)するようなものだろうか。
ギターの特性、あるいは制約を逆手にとって強引に音同士をぶつけて複雑な響きを醸しだしていて、L'Arc-en-Cielの楽曲の持つ妖艶さみたいなものはこのやばい響きの妖しいアルペジオによるところも大きいと、これは断言できると思う。
一例として「虹」や「浸食 ~lose control~」や「winter fall」や「いばらの涙」や「forbidden lover」や「finale」なんかでこの人の変で妖しくてすごく綺麗なアルペジオが堪能できると思う。ただこれ、オリジナル曲なんかで真似しようとすると妖しくなりすぎてしまい雰囲気の調節が難しくなってしまうのだけど。

あたりまえに使っている用語であり技であるアルペジオを、趣味まるだしになりながらもあえて零から考えたり文章にしてみようという試みでした。

ストレイテナーはひねくれることにまっすぐなまま

1998年という年に何をしていたか? 僕はその年だいたい高校一年生であり、始めたばかりのエレキギターを毎日練習し、次第にヒットチャートを飾る音楽だけではなくロックを聴き始めるようになった年であったように記憶している。
1998年は音楽シーンでいえば、くるりナンバーガールスーパーカーGRAPEVINETRICERATOPSらがこぞってデビューをした翌年で、革ジャンやスーツや花柄のシャツではない普段着のまま、決して愛ばかりを歌わないバンドが僕の視界に多く現れ、ロックの風向きが変わっているのかなと感じさせていた頃だ(というのは錯覚かもしれない。若い頃の、遠い昔の記憶は美化されてしまいがちなのかもしれないなと警戒しつつある昨今だ)。

その1998年に結成されたストレイテナーが2018年に結成20周年を迎える。
結成20周年。バンドを20年続けることの長さや重さは想像もできない。しかも彼らはメンバーの加入という非常に大きな変化を二回も選び、その契機のたびに表現のスケールを一段一段とわかりやすく大きくしていった。

結成20周年の年をまたいだ2019年の1月19日、20周年のあれこれを締めくくるライブを幕張メッセ・イベントホールで観る。
公演のタイトルは『21st ANNIVERSARY ROCK BAND』というもので、これはまえのベスト盤のタイトルである「21st CENTURY ROCK BAND」のもじりかと思う。個人的には21世紀のロックバンドを名乗っているのがすごく好きだった。なぜならまんざらでもなさそうなその自負が頼もしすぎるから。

メンバーを紹介する映像がステージ上のスクリーンに投影され、ひとりひとりの名前が紹介されるたびに歓声があがる。四人が登場してそれぞれが軽いソロを取る短いセッションを終えて始まったのが「BERSERKER TUNE」、そして2曲目が「The World Record」、速い四つ打ちとミドルテンポの四つ打ちの並びにテンションがあがる。このバンドの演奏の特徴である動物っぽい獰猛さ(まるで噛みついてくるような)がよく出ている曲たちで、たぶんフルスロットルなライブになるんだろうなという予感がする。

続いて「Alternative Dancer」「DAY TO DAY」「タイムリープ」と聴かせる曲が続き、ここはいまの彼らの表現力が冴えるところ。というか、デビュー初期の猪突猛進ぶりからは信じられないような演奏でありアレンジだなと思う。その後の「Man-like Creatures」「Lightning」「Braver」の流れは圧巻で、ロックバンドがこんな緻密で繊細な表現ができるんだなとため息がこぼれる。"おいおいこのバンドはあのストレイテナーだぞ"なんてつい思ってしまうのだけど、ほんとうにいつからこんなバンドになったんだろう。もうなんでもできてしまうじゃないか。

なんでもできてしまう。ストレイテナーがロックバンドとしてなんでもできてしまうようになったのは、先述の通りそしてご存じの通り、ふたりから、三人、四人とメンバーを(それも最高の奏者を)増やしてきたからだと思う(こんな例、ないんじゃないか)。
いまでこそこの四人ならどんな激しさも優しさ明るさも暗さも表現でもできるといった貫禄があるけれど、三人の頃は三人の、ふたりの頃はふたりの制約をうまく逆手に取った楽曲を彼らは発表してきた。ふたりの頃は、私見ながら普通ではない形態ゆえに色眼鏡で見られていたこともあったように思うけれど、その編成でも楽曲を見事に成立させる創意工夫はさすがだった。そしてメジャーデビューとほぼ同時に三人になりキャリアやセールスを重ねたころ、スリーピースのギターロックバンドとしてできることはやり尽くしたと云わんばかりに最後にもうひとりのギタリストが加入していまに至る。そこからは表現への制約が遂に無くなってしまったというか、楽曲が天井知らずにカラフルになっていく。

「SAD AND BEAUTIFUL WORLD」「冬の太陽」「TRAIN」と得意の(超得意の!)疾走感に溢れた曲を畳みかけてライブはひとつのピークを迎える。やはりこの疾走感というか、これくらいのBPMの曲をこの四人が演奏すると無敵だよなと思う。続いてバンドはセンターステージ()へ、そうセンターステージである。となるとアコースティックセット?(これも上手) と慣例的に思いついてしまうがそこはひねくれているとこの日も自称するストレイテナー、ホールの上空ど真ん中のミラーボールをきらきらと回して「VANISH」「瞬きをしない猫」「KILLER TUNE」「DISCOGRAPHY」と主にダンスチューンを立て続けに披露する。ほんとに曲調の間口が広いなと半ば呆れてしまう。

ステージに戻ってからはゲストにシンガーソングライターの秦基博を招いて「灯り」「鱗」の2曲を演奏。ストレイテナーはバックバンド的位置づけになってもすごいし贅沢。しかし秦基博、はじめて観るけれど歌の表情付けがすごい。あ、ポップスの人はちがうな・・・・・・と唸ってしまった(さすがのオフィスオーガスタ)。
ミドルテンポで聴かせるモードのまま「Boyfriend」「彩雲」と続け、最後は「REMINDER」「The Future Is Now」「原色」「Melodic Storm」「シーグラス」と新旧の代表曲を織り交ぜて本編を閉じる。最近の曲はメロディも曲調もとても開けていて大きな会場が似合う感じがするけれど、さんざん聴いたり観たりしてきた「REMINDER」や「Melodic Storm」もそういった風格を備えているなと思ったし、この2曲は"みんなの歌"になったんだなという感慨にふけりながら、僕はオーディエンスの合唱を聴きつつじーんとしていた。

ライブのさなか、ステージに立つ四人の男を見ていろいろな事を思う。

ホリエアツシの書く曲はファンタジーの様な物語感のある世界観を有するものから次第に現実に足の着いた、メッセージ性のあるものにシフトしていったように思う。ギターを弾きながら歌ってもピアノを弾きながら歌っても、やっぱり優しさや懐の深さみたいなものを近年は感じさせるし、そんな歌い方ができるようになったんだな、と思う。

ナカヤマシンペイのドラムが僕は好きで、どこが好きかというとその叩き方が好き。モーションというか振りかぶりが大きくて動物っぽいところが単純にかっこよく、近年の複雑な曲の彩り方も見事なんだけど、やっぱり疾走系の曲で本能をむき出しに全身を使って弾けるようなドラムがすごく好きだ。

日向秀和のベースはほんとにもう、いまさら褒めてどうにかなるわけではないのだけれど、この人は確実にベースの人口や売り上げの増加に貢献しているのではないだろうか。あとロックバンドにおけるベースの概念をちょっと変えてしまったというか、こういう風に弾いてもいいんだ、こんな音を出してもいいんだ、という大胆な提案をし続けて、それを実力で認めさせてしまったように思う。

大山純のギターはどんなギターか? そんなことをずっと考えながらライブを観ていたのだけど、このひとのギターはいい意味でエゴがぜんぜん感じられない。曲に対してのアプローチが柔らかい印象がしてなんというか透明になることを目指しているのかなというか、固有のスタイルを通すのではなく常にベストの選択をしているように見えた。たとえば「羊の群れは丘を登る」のイントロのフレーズは本当に凄まじくて、これは曲に寄り添うことを考え尽くした最高の結果だ、なんて勝手に思う。

アンコールでは「From Noon Till Dawn」とその「羊の群れは丘を登る」を、ダブルアンコールでは「SPIRAL」と最後はこれしかないだろうという万感の「ROCKSTEADY」を披露する。
最後にホリエアツシは未来のことは何も決まっていないけれど、いままでもそしてこれからもこの四人で音楽を続けていきたい。という意味のこと語る。彼の形容の難しい独特の歌声(なんて表現すればいいんだろう、この声は)に爆発的かつユニークだったり優しかったり、どんな演奏もできてしまう三人が時間をかけて順番に集まって、はじまりから20年が経ちいろんなオーディエンスやステージや音楽性を獲得して、このバンドはいつのまにか日本のロックの真ん中あたりに立ってしまっているのかもしれない。なんて思う。そして万雷の拍手を受けながら客席に向かって礼をする彼らをみて、ひねくれていることにまっすぐなままここまで来たし、来れたんだな。なんてことを思った。

(1991年/2019年)のシューゲイザー

去年の夏に八王子の実家に帰省したとき、母とこんな話をした。

「今年も音楽のやつに行ってきたん?」
「うん。行ってきたよ。今年は・・・・・・そうそう目玉がおもしろいバンドだったんだ。シューゲイザーっていう妙なジャンルの音楽なんだけど、何がすごいかって音量がすごく大きくて、演奏が始まるまえにそのバンドが耳栓を配ってるんだ」
「え・・・・・・、耳大丈夫なん?」
「つぶれたりとかではなかったけど、すごいよズボンとかびりびり震える」
「やー怖い」
「ロックの一種なんだけどこうやって手を上げてウォー! みたいな感じじゃなくて、テンポもゆっくりで海鳴りを超でかくしたみたいな音楽で、みんな半目で体をゆらゆらさせながら聴くんだ。ある種のトリップというか陶酔を呼び込むんだよね」

息子の説明を聞き、呆れた母が訊いてくる。
「・・・・・・いろんな音楽があんねんな。それなんてひとたちなん?」
My Bloody Valentineっていうんだけど・・・・・・」

いろいろな音楽を内包していま現在も転がり続けているロックミュージックのジャンルの一つに、シューゲイザーというものがある。wikipediaによる音楽的特徴の説明はこうだ。

フィードバック・ノイズやエフェクターなどを複雑に用いた深いディストーションをかけたギターサウンド、ミニマルなリフの繰り返し、ポップで甘いメロディーを際立たせた浮遊感のあるサウンド、囁くように歌い上げるボーカルなどがシューゲイザーの一般的特徴として挙げられる

wikipedia完璧、これ以上云うことはないという感じ。聴くまえにこれを読んでもたぶんぴんとこないんだけど、聴いたあとだとこれこれ、これで充分。となるんだけど、どうでしょうか。

 

僕がはじめて聴いたシューゲイザーのことはわりとはっきり覚えていて、それはAIRの代表曲のひとつである「Hair do」という曲だった。正確には知識が無くてそれをシューゲイザーだと当時は認識できていなかったのだけど、ライブの終わり際のいいところでいつも演奏するその曲のことをとても不思議な曲だと思っていた。
どんな曲かというと、まさに深い歪みと、執拗にリフレインしてどこか気の触れた感のある短いフレーズ、そしてあえて単調にしたリズムの上にのっかっている甘いメロディのぼやけたボーカル(文章がデジャブってるな)。壮大で(なにせ9分35秒もあるのだ)混沌としたとてもいい曲なんだけど、このアレンジはなんなんだろう・・・・・・と当時は考えていた。

そこから数年経ち友だちからMy Bloody Valentineの『Loveless』を借りて聴いた瞬間、僕は"そういうことかよ!"と憤ったり笑ったりする。「Hair do」がこのバンドのサウンドを下敷きにつくられたことが一瞬でわかってしまったからだ。ここまで潔いなぞり方もなかなかないし、とてもいいなぞり方だと思う。

余談と弁護だけど、AIRこと車谷浩司というひとは、ほんとうに既存の音楽のトレースというか吸収しての表現に長けた器用なミュージシャンだ。オルタナシューゲイザーもヘヴィロックもジャズも取り込んで、どれも「ごっこ」にはとどまらない高いレベルでじぶんのものにしてしまう、できてしまう(しかもアコギ1本の弾き語りもすごくいいんだ)。逆に、そのまるでカメレオンのように柔軟に音楽の色を変えられることこそが、このひとのオリジナリティになっている。

 

という流れでマイブラに行き着いて、シューゲイザーというものを知ってからはディスクガイドをもとに他にもRide、SlowdiveSwervedriver、Chapterhouse、The Verve等々を聴いてみた。聴いてみて思った。それはMy bloody Valentineはジャンルの代表、筆頭とされていながら、実は異端児なんじゃないの? ということだ。もちろんシューゲイザーのすべてはおろか、表層でさえさらいきっていないのだけど、そう思った。
特に『Loveless』はいわゆる轟音具合が過剰なのだ。前述の他のバンドはまだ聴きやすさがあるし、各楽器の芯がわかるし、歌やメロディを立たせたりしているが、マイブラはそこが極端に振り切れているように思う。極端だから代表するようになったのだろうか? たしかに特徴がわかりやすい。特徴的すぎるといってもいい。ただ・・・・・・これを入門書にするのはひとを選んでしまいそうな気もちょっとする(なにせ過剰で大袈裟で極端で刺激的だから・・・・・・)。

ただ、やっぱりマイブラシューゲイザーは聴いていて特に気持ちがいい。歌はあるんだけどそれは主役じゃなくて、ギターも実は主役じゃなくて、歌も含めたすべての楽器が溶け合ってひとつのうねりをつくっている様に感じるからだ。それは快感の体験といってもいいかもしれない。芸術性、なんて云ってしまうと大袈裟かもしれないけれど、描く音楽的理想の高さ、あるいは深さを感じてちょっと身震いしてしまう。ケヴィン・シールズというひとの頭のなかはいったいどうなっているんだろうか。何を思い描き、何を想像しているのだろうか。なんてふと思ってしまう。

 

シューゲイザーの特性である深い残響、あるいは残響の衝突で生じる不協和音についてはある気づきを、2016年のホステスクラブオールナイターというイベントにて得たことがある。
僕はその夜、Deerhunter、Dinosaur Jr.、Saveges、Templesのライブをたて続けに観て(とても贅沢な夜だった)、どのバンドにもシューゲイザー的な残響やノイズをまき散らす瞬間があることに気がついた。
Deerhuunterを除けばどのバンドもシューゲイザーの文脈で語られることはないように思うけど、それでも表現のオプションのひとつとして残響やノイズを操っている。
これについては仮説大爆発なんだけど、たぶんイギリスやアメリカでは、ロックバンドの表現技法のひとつとしての残響やノイズが身近だったんじゃないかなと思う。かたや日本だと深い残響やノイズは"音楽に不要な余計で汚いもの"とまず捉えられていて、進んで手にする技としては挙げられにくかったのではないだろうか。
表現の認知度の違いというか、例えば日本の高校生が文化祭にてそういう表現を駆使ししていたら(いるだろうけど)、うるさい、音楽じゃないと正されてしまいそうな気配を感じる。
それはどうしてもロックとの(物理的な/精神的な)距離が関係しているのではないかなと勝手に睨んでいる。ロックだってもちろんその距離の差を感じることがままあるが、そのなかでの枝葉の枝葉で徒花の感もあるシューゲイザーのマナーまではなかなか手が届かない。並べるなという感じだけど、僕がマイブラをはじめて聴いたのも20代中盤のときで、遅かったし(並べるな)。

 

最後に、冒頭で挙げた2018年のソニックマニアで観たMy Bloody Valentineのライブについて少しふれたい。
演奏が、ほんとうにすごかったんだけど、予想していたシューゲイザーぶりの炸裂のほかにも、バンドがかなりアグレッシブというか、リズム隊が攻撃的に獰猛にまえに出てきていて驚いたことが記憶に強く残っている。それは音源では感じられなかったことで、聞いてないぞ! という嬉しい悲鳴とともに、すごく痺れたしとても格好よかった。マイブラは実験室じゃなくてバンドだったんだな、みたいな、変なことを、真夜中の幕張メッセにて轟音に疲れた頭で思った。

 

最後に最後に、この文章のタイトルはもちろん村上春樹『1972年のピンボール』のパロディなんだけど、汎用性が高いためシューゲイザー史総括みたいな意味にとらえられる可能性がなきにしもあらず(悲哀のネタばらしだ)。そんな壮大な意図は微塵もございませんゆえ、なにとぞなにとぞ。

和田唱のソロアルバムがすごくソロアルバム

トライセラトップスのボーカルである和田唱がソロアルバムをリリースすると聞いたときはけっこう驚いた。ロックバンドのボーカルがソロでデビューするのは珍しい話ではないけれど、なにせバンドでデビューして21年経ってからのソロデビューだ。トライセラでアルバムを11枚を重ねた彼がひとりでどんなアルバムをつくるのか。また、事前の情報ではほとんどの楽器もひとりで演奏しているという。どんな作品が届くのか、興味深かったし、とても楽しみにしていた。

初のソロアルバム『地球 東京 僕の部屋』を発売日に買って聴いて、また驚く。そして同時になるほどなとも思う。それはこのアルバムがソロで発表する意味にとても満ちあふれていたから。
演奏は音数が少なくシンプルで、得意の(超得意の)エレキギターはなりを潜めている。アコースティックギターを基調に、シンセサイザーやピアノやコーラスで彩りを加え、ベースもドラムもトライセラのあの最強のリズム隊がいないなか極力シンプルに曲に寄り添うような演奏をしている。
スリーピースというある意味制約のあるフォーマットから解き放たれて、しかしだからといって豪華絢爛に音を埋めるわけるではなく、自身による演奏でささやかに控えめにそして温かく楽曲を彩っている。

その歌もいつもよりさらに優しいだろうか。得意の(超得意の)力強く歪んだエレキギターが響かない中、バンドよりもさらに彼の歌が近くに感じられる。これは後述する非常にパーソナルな歌詞によるところも大きいのではないかと思う。

こんな風に、21年間ずっと聴いてきた彼のバンドとソロとの差異を確かめながら感じるのは、作詞作曲とボーカルが同じでありながら、やはりこれはトライセラトップスの音楽とは別の、和田唱の非常に極めてパーソナルな、文字通りのソロアルバムなんだ。ということだった。
あと、聴きながらこの人は本当にビートルズマイケル・ジャクソンとディズニーが好きなんだなと思って、なんだか嬉しくなってしまうし、そんなところにもソロでやる意味なんかを感じてしまう(特にある曲でのマイケル的表現は甚だしくて、ここはつい声を上げて笑ってしまうし、なんならポウッって合いの手を入れたくなる。ほんとマイケル好きだもんね、この人は)。

そして歌詞。ここが本当にソロ的というかまさに和田唱というか、トライセラでもかなり個人的だった印象のある歌詞がよりさらけ出されているのではないかと思う。僕はこの人の歌をずっと聴いてきていてたまに、なんでこんなに自信なさげなんだろう? なんでこんなに弱気なんだろう? と思うことがあった。憧れのミュージシャンが吐露する弱さに、親近感やほんの少しの違和感を感じ続けていた。

 "空を群れで飛ぶ鳥達の中にも 
  こんな僕みたいなのがいて
  先の道を示す者への劣等感持った奴がいるかな"
 「Fly Away」(TRICERATOPS)

 "ニュースを見てたんだ
  僕の影響力ってどんくらいなんだろうな
  そんなの悩みつつあの子の幸せ 嫉妬してる男さ"
 「Jewel」(TRICERATOPS)

弱さの吐露。僕は音源やライブでこういう言葉たちを聴きながら、なんでこんなにかっこよくてオリジナルな音楽をやっているのに、あなたはすごいミュージシャンなのに、もっと自信を持ってくれよ・・・・・・。なんて勝手なことを思わずにはいられなかったのだけれど、このソロ作でもそういう面がやっぱり遺憾なく発揮されているように思う。

 "年がら年中明るくないし あのバンドの悪口も言う
  でもパブリックイメージ 壊したくないし 濁す僕は
  矛盾矛盾矛盾矛盾"
 「矛盾」

 "随分弱ってるみたいだね
  大人になるって大変なんだね
  僕に出来ることは限られてるんだ"
 「アクマノスミカ」
  ※自分の中の悪魔が自分に語りかけているという設定

弱さの吐露。やっぱり個人的だ。そんな和田唱はこのアルバムにて愛も歌っている。この人はトライセラのハードなサウンドに乗せてあの甘い声で実はけっこう具体的で個人的な甘い事柄を歌ってきているのだけど、そこもソロ、こちらもより高濃度で発揮されている。

 "仕事先のベッドはどうも寝れない
  君の寝息とか寝返りがないと
  宇宙の果てにいるようだ"
 「地球 東京 僕の部屋」

 "僕がいちばん好きな音がある
  それは愛する人が帰ってくる時
  鍵がガチャって開く音さ"
 「Home」

なんというか愛しか感じない(そして具体的で個人的だ)。"僕"と"君"の愛のアルバムだなとさえ思う。
だから、この和田唱のはじめてのソロアルバムを聴いて思ったことを一言で表すとこうなる。こう云いたくなる。
・・・・・・ただこういうのは所詮ゴシップだし、Silly Scandalsだし、無粋中の無粋で、ミュージシャンの私生活に首を突っ込むべきではないし、それは音楽自体の価値とは全く関係のないことなのだけど、それでも、それでもこれは云いたい。いまさらだけど、これだけはどうしても云っておきたい。和田唱さん結婚おめでとう。と。

そんなわけでこの『地球 東京 僕の部屋』は聴いていてたのしかったし、20年以上触れてきたと思っていた和田唱の表現にまだまだ知らないところがあったんだな、バンドにそのすべて(音楽性も歌詞もだ)を持ち寄ってはいなかったんだな(俺もまだまだだな・・・・・・)、ということが思い知れてとてもおもしろかった。彼がより近くに感じられる、素晴らしいアルバムだと思う。

ジャズマスターをめぐる冒険

エレキギターにはいろいろな種類があって、くるり岸田繁はこのように歌っている。

 "テレキャスター フライングV SG
  レスポール ダン・エレクトロ
  ジャズマスター グレッチ ストラトキャスター
  It's Only R'n R Workshop! 

  リッケン・バッカー! Right!"

 「(It's Only)R'n R Workshop!」

 野暮を云えば抜け漏れは多少あるにせよ、このようにエレキギターにはいろいろな種類がある。車や煙草や冷蔵庫のように好みのものを選ぶことができる。

ジャズマスターというギターに昔から憧れていた。高校生の頃からだろうか、当時はヴィジュアル系のバンドが大好きだったので誰々が使っているから、とかではなかったのだけど(そもそもこのジャンルはフェンダー率が異様に低い。LUNA SEAINORANジャズマスターを弾くようになるのはずっと後のことだし)バンド雑誌に載っていたフェルナンデスというメーカーの広告の中の、中途半端でどこか不真面目な印象のする形のギターをずっと眺めたりしていた。
子どもの頃から王道でも邪道でもない中途半端なものが好きだったように思う。ギターでいえばストラトは真面目すぎて、レスポールはマッチョすぎる。テレキャスターは玄人好みすぎて、SGはやんちゃすぎる。もうちょっとダラっとしたギターを弾きたいという思いがあったのだ。

当時(僕がギターを弾きはじめた90年代後半のことです)は誰が弾いているイメージがあっただろうか、僕の観測範囲では田淵ひさ子(Number Girl)、車谷浩司(AIR)、上条盛也(PENPALS)たちかな。今思えばその頃からなんというかジャズマスタージャズマスターだったなという感じがする。もちろん、その頃の僕はグランジオルタナもインディも理解せず、同級生たちと組んだバンドでひたすらGLAYLUNA SEAやL'Arc-en-Cielのコピーに明け暮れていただけだったけれど(あれ、いまとやってることが変わらないな、どういうことなんだろう・・・・・・)。

海の外に目を向ければこのギターの使用者といえば、なんといってもケヴィン・シールズ(My Bloody Valentine)、J・マスシス(Dinosaur Jr.)、サーストン・ムーア(Sonic Youth)たちが挙げられるだろうか。彼らが植えつけたイメージはなかなかに強固で、ジャズマスターはギターを飛び越えて"概念"・・・・・・は云い過ぎだけど"姿勢"みたいにはなってしまったふしがある。付与されたのは王道に対して斜に構えてしまうひねくれた姿勢のイメージ。個人的にこの三人それぞれがライブにてジャズマスターを弾くさまを観ることができたのは、とても嬉しく大事な思い出になっている(すべての元凶をこの目で見てしまった。みたいな感じだ)。

僕がこのギターを買ったのは実はそう昔の話ではなくて、ほんの二年前のこと。ささやかな紆余曲折の果てに杉並のとある小さな楽器屋にてフェンダーのメキシコ、エンセナダ工場産のサンバーストのジャズマスターを中古で買った。
重たいハードケースを抱えて家に帰ってから、10時間くらいぶっ続けて弾く。いろんな曲やいろんな弾き方や音色を試して、これがどんなギターなのかを確かめてみる。いささか気障になるけれど、それはギターと会話をするという表現が一番しっくりくるようなとても楽しい時間だった(メタリカやハイスタが致命的に合わないと弾いた瞬間にわかり、ひとりで大笑いしたりした)。

ジャズマスターというギターはどんな音がするのか? もちろん文章にするのは難しいのだけれど、ここはそのためのブログなので諦めないで考えると・・・・・・高音も低音もしっかり出るけど固さや重さや芯の詰まった感じではなく、まるで空気が入っているかのように音がふっくらとしている(抽象的だ)。あと鈴みたいな変な音もする(抽象的だ)。実はボディの中がけっこう空洞になっていたり、鳴ってはならない部位がこっそり鳴ってしまっていたり、変なスイッチ(たまに使ってます)が付いていたりすることがこのギターのいささか普通ではない音を作っている感じがする。
だからか、変な意味でオケの中で浮くことがあるためポップスやハードロック・ヘヴィメタルなどの音のイメージがはっきりしているジャンルにはあまりその音色ははまらないけれど、逆にロックという実はなんでもありでぼんやりしているジャンルには向いているのではないか。なんて思う。

そもそもジャズ用に作られたがさして流行らず、楽器屋で安くなったところを若者がロックをやるために買いじわじわ広がっていったジャズマスターはいまでは結構人気があるらしいし(ギターマガジンにそう書いてあった)、Twitterを眺めるかぎりでは最大のシェアを誇る人気ギターという感じがしてそうそうひねくれ者でもなくなってきた様子があり、驚いたり嬉しかったり勝手だけどほんのすこしだけそのイメージの変遷が寂しかったりもする。

そんなジャズマスターを毎日自宅でたのしく弾いているわけなのだけど、個人的にはいつか、50~60年代につくられたじぶんより年上のヴィンテージのジャズマスターを弾いてみたいなと思う。買うのはいいんです、すごく高いし、そもそもバンドを組んでいたりアンプを通して弾くことがないので完全に分不相応だから。でも、どんなものなのか弾いてみたい。10分でいいから弾いてみたい。たぶん、感動すると思うから。

LUNKHEADのライブをぴかぴかの渋谷ストリームホールで観る

銀座線の渋谷駅を宮益坂方面に降りて、ヒカリエのまえを通り渋谷署の方面へちょっと歩くと右手にあるのができたばかりの複合施設渋谷ストリームで、そこにライブ会場である渋谷ストリームホールがある。ぴかぴかのビルの6階にあるホール(ホールの定義がわからないのだけど)で中身がうまく想像できずわくわくする。思えば会場だってずっとそこにあるものではなく移り変わりがあり、この街で云えば今日ライブをするバンドを14年まえにはじめて観た渋谷AXはもうない。

この場所には以前別の建物があったが取り壊され更地になり山下書店もなくなり工事現場になり欅坂46がデビュー曲「サイレントマジョリティー」のMVを撮ったのちに渋谷ストリームはできあがった。「ストリーム」は"流れ"の意で、きっと真下に流れるとても小さな渋谷川(この川そんな名前だったんですね)から取ったものなのかなと勝手に思う。
ここでランクヘッドのライブを観る。「road to 20th Anniversary」というタイトルが付いているが、これは来年2019年が結成20周年なので19周年目にあたる今年からもう前のめりに祝ってしまおうという名目で回っているツアーであり、今日はそのファイナル公演なのだった。

ストリームホールはただの立方体、四角の箱といった風情で段差等はないけれどステージが高めで遠くでも見渡しがよいし天井も高いため広く感じる。体感と目測によるとたぶんリキッドルームよりは多く入るんだろうか、スピーカーが小さくてこんなサイズでもいけるのかさすが最新のホールだな、などと思う。でもこんな都会で地下でもないビルの真ん中で大きな音を出して大丈夫なのかな、なんてちょっと不安になる。

ライブは「闇を暴け」で始まる。この曲は6枚目のアルバム『AT0M』の一曲目を飾る曲なのだけど個人的にはこのバンドの"一曲目の長男"みたいに見なしており、イントロが非常にイケメンだというのもあってこの曲で始められると非常にテンションがあがるのだが、その後「冬の朝」「閃光」「HEART BEATER」「WORLD IS MINE」と続いてあれ? これはおかしいぞと思う。こののっけからの5曲はすべていままでのアルバム、ミニアルバムの(実質)1曲目で、わざとらしいというか組み立てがおもしろくてつい笑ってしまう(しかしこのバンドはアルバムをゆっくり始めるということを知らないな・・・・・・)。
アルバムを11枚重ねた彼らは常々"同じセットリストだと自分たちが飽きてしまう"と発言しており、そんなものなのかななんてのんきに思ってしまうけれど、近年はどんなツアーでも会場ごとにセットリストが大幅に異なりもうなんでもありになってきていておかしい。
活動の中でライブを重視しており、且つ演奏の上手さとそこに自負があるからこそ出来る芸当。だなんてファンの僕は思ってしまうけれど、昔の曲への久しぶりのうれしさとか、いまのバンドがやることによるバージョンアップとか、何が飛び出すかわからない楽しさがこのバンドのライブにはある。

中盤には新曲「心音」とデビュー当初の代表曲「体温」を続けて演奏する。このバンドを追ってきた者としては「心音」が誰のどういう状況に対して歌われている歌かはいやでもわかってしまうし(邪推なんだけどたぶん合ってる)、この曲の後だとさんざん聴いてきた「体温」もちがう響きかたをするので音楽はおもしろい。この2曲は曲名もキー(Em)も編曲も似ているので、ライブで並べることはバンドも絶対意識してるのだろうなと思う。

 "温かい手 やめない鼓動 命が燃えていることが"
 「心音」(2018年)

 "真夜中 君の手 耳に当てたら 命が燃える音がした"
 「体温」(2005年)

ランクヘッドの音楽は醒めているのに熱くて、尖っているのに優しい。という相反する要素が同居しているというか、そんな矛盾をずっと歌っているのだと思っている。だからライブだと特に年々表現力が増している小高芳太朗のボーカルに突き放されたり手をさしのべられたりと忙しい。また山下壮のハードロック上がりの音符の小さいエレキギター然としたギターも、合田悟のベースをわきまえないベースも、櫻井雄一のこれまた符割の細かく怖いくらい正確なドラムも、どんどん歯止めがきかない感じになっていて各々の音の上がり下がりがえぐいのでつい笑ってしまう。

小高芳太朗はMCで、メジャーデビューして想像した未来と今は違うものになってしまっているけど、それでもいまでもこうしてみんなの前でライブができているから、悪くない。なんて意味のことを笑顔で云う。それでもって、これからも永久保証のランクヘッドですからなどと叫ぶのを聞いて僕は笑えず決して笑えず下を向いておまえ云ったな、なんて思ってしまう(ファンなので)。

アンコール。真新しい渋谷ストリームホールで懐かしい「白い声」や「僕と樹」を演奏する彼らを観ながら、思えばいろいろな会場でこのバンドのライブを観てきたなと思った。
ぱっと思いつくままに並べると、渋谷AX(もうない)、渋谷クラブクアトロリキッドルーム恵比寿、新宿ロフト、渋谷O-CREST、新木場スタジオコーストCCレモンホール(うれしかった)、横浜クラブリザード(もうない)、名古屋クラブクアトロ、下北沢ガレージ日比谷野外音楽堂(うれしかった)、赤坂ブリッツ、渋谷O-EAST、・・・・・・そんなに多くないか。どの会場でもそれぞれの思い出が紐付いているし、このバンドにいろんなところに連れ出してもらったなと思う。
でも、まだ観てなくて、どうしても観たい会場がひとつだけあって、そこで観たいと思い続けることは絶対にやめないです。

GRAPEVINEが16枚目のアルバムを出してくれる

GRAPEVINEが16枚目のアルバムを出してくれる。出してくださる。
実に16枚目とのことで、もう16枚も・・・・・・と思う。そこには感謝の念しかなく、その念の赴くままに書いていこうと思います。

16枚。すごい多いと思う。多すぎるといってもいいと思う。シックスティーンアルバム、なんて発声したことがない。たとえばメジャーデビューしてデビューアルバムをリリースするバンドが100組いるとして、そこからアルバムを16枚リリースできるバンドはたぶん1組もいないと思う。音楽の話に量を持ち出してどうするんだ? 続けることが偉いのか? 偉いです。そういう話を、延々とするつもりです。

まず前提としてアルバムを16枚リリースするためにはバンドを維持しつつファンの支持を得続けなくてはならない。前提というか、この二つの要素がすべてで、ただの至難の技だ。

バインは1997年デビューで今年がデビューから21年、で次のアルバムが16枚目。あとミニアルバムが3枚とベスト盤が2枚にB面集(『OUTCAST2』はぜひCDでも出して下さい)やらライブ盤やらリミックス盤やらを発表。ぱつぱつというか、休んでいない(悲しいメンバーの脱退はあったけど)。リリースとそれに伴うライブをただただ繰り返すだけの21年間。個人的にこのバンドの活動の仕方は逆に"仕事"みたいなんだよなとよく思う。ロックバンド幻想にありがちな刹那性とは無縁に、淡々とリリースとライブを繰り返すだけ。変わったことは一切しない。それだけでいつの間にか、まわりに誰もいないとても特別なところに立ってしまった。

ちょっと脱線して他の日本のベテランたちが何枚アルバムを残したか数えてみる(例示バンドは思いつきです、あと数え方変なところがあるかもしれない)。TRICERATOPSが11枚、奥田民生が13枚(数え方が難しい)、くるりが12枚、スーパーカーが5枚、THE YELLOW MONKEYが8枚、LUNA SEAが9枚、GLAYが14枚、L'Arc-en-Cielが11枚、BUMP OF CHICKENが6枚(少ない)、syrup16gが10枚、ASIAN KUNG-FU GENERATIONが9枚、ストレイテナーが10枚、THE BACK HORNが11枚。16枚は多い。
あ、でもMr.Childrenスピッツエレファントカシマシthe pillowsならそれくらい出していそう(これらのバンドはアルバム全作聴いていないからそらで数えられないし、うまく喋れないのです)。比較対象がさすがどころになるな。16枚は多い。

いま気づいたアルバムを16枚リリースするための要素その三。逆説的に、売れすぎると16枚出すのは難しいんじゃないのかなとも思う。皮肉な仮説だけど、自分なりに見渡すとこの説はけっこう正しそうだ。慎重になるのか身動きが取りづらくなるのか制作以外のタスクが増えるのかリリースしなくても食べていけるからか、リリースペースが開くのは間違いなさそうで、バインはご存じの通り売れすぎてはいない(学生の頃はミュージックステーションで何回か見かけましたが・・・・・・)からこそアルバムをこれだけ積み重ねてこれたのかもしれない。まあこのひとたちは"わざと売れてない"みたいなところありますけど・・・・・・()。

音楽の話をしていない。16枚を経て(16枚目はまだ聴いていませんが)音楽性はどうなっているのかというと、"すごくなっています"みたいなてんで気の利かない言葉しかでてこない。個人的な印象を振りかざして大雑把にたどると『退屈の花』から4枚目の『Circulator』までがいわゆるギターロックで一区切り、『Another Sky』から8枚目の『From a smalltown』までが表現の深みにずぶずぶ沈んで一区切り、『Sing』から11枚目の『真昼のストレンジランド』で日本のロックを全面クリア、その後の『愚かな者の語ること』から15枚目の『ROADSIDE PROPHET』まではさながら終わったゲームのレベル上げというか神々の遊びというか、遊んでいただいて、それを記録に残していただいてありがとうございます、という思い。曲作りも編曲も演奏も発想もWilcoごっこも肩の力は抜けたままよくわからない高いレベルを保ち続けている。

続けることがまず偉いのだけど、しゃかりきになっている風でもなく平熱のままただただ時間を作品に変換しているかのようなGRAPEVINEは、たくさんのロックバンドの中でも逆に不思議で希有なバンドになり終わりのイメージが湧いてこない。だからこれからもふつうにアルバムを出してツアーを回ってというのを続けるんじゃないかなと思う。たまにはお祭り的に武道館で、とか観てみたいとか思うのだけど、やらないかなここは(希代の天の邪鬼だから)。