伊丹空港

 家族で東京に居を構えるようになってから大阪の実家からはますます足が遠のくことになった。大阪に住んでいた頃でさえ数年にわたって両親と顔を合わさないことが常態となっていたので、むしろ子供が生まれた最初の年末や夏休みには孫の顔を見せてやろうというような気分にどういう風の吹き回しかなった場合に帰っていたのだから、僕にしてみれば以前より頻度が上がっているので何の文句があろうかというようなものなのだけど、向こうがどう思っているのかは知らない。
 最後に大阪に帰ったのは昨年末だった。
 朝一の飛行機に乗るためには家を5時過ぎには出ないといけない。とんでもなく早起きしないといけないというこのことはいつも僕の気を重くさせるのだけど、朝一の飛行機の良いところは料金が他の時間帯と比べて安めに設定されていることと、現地についてもまだしっかりとした朝だということだ。その2点がなければ誰も朝一の飛行機になんて乗ろうとしないと思う。
 その朝は自分の着替えを済ませてから子供を起こして着替えさせ、キャリーバッグと子供を連れて電車を乗り継いで空港に着いてはじめて落ち着くことが出来る。もちろん朝ごはんを食べる時間はないので(子供には家でパンを食べさせてるけど)、妻がお土産と一緒に食べるものを買ってくる。その間、飛行機を見て喜んでいる息子と一緒に椅子に座って僕も飛行機を見ている。飛行機に乗ることはいまだに好きじゃないけれど、以前のような恐怖心を維持し続けるにはあまりにも回数を重ねていると思っている。あるいは睡眠不足で眠いのと体調が万全でないこともあって、それが恐怖に対する僕の感受性を鈍らせているのかもしれない。
 朝一の飛行機でビールを飲むわけにも行かないので、妻が買ってきたおにぎりを食べておとなしくしている。妻はだいたい途中で眠ってしまうので息子と2人きりになるのだけど、息子はだいたい途中でじっとしていることに耐えられなくなって散歩に行きたいとぐずり出すので、僕はだいたいいつも『向こうに着いてからね』と言って聞かせる。
 大阪の上空にさしかかると窓の外を見て知っている建物を探してみる。空港に着陸する際にはあまりにも機体が低空飛行しているのでビルにぶつかるんじゃないかという錯覚に襲われる。しかし機体は何に接触することもなく滑走路に着陸する。無事到着したという安堵感と共に飛行機を降り荷物が出てくるのを待っている間、これから実家に向かわないと行けないのだということを思い出して気が重くなる。
 そう、伊丹空港はいつも僕の気を重くさせるのだ。

阿波座

 僕が今よりもずっと若かった頃、自分はひとりで生きていけるのだと思っていた。十数年が経った今になってみればそれが間違いだったとわかる。全ての人がそうだとは言わないけど、少なくとも僕はひとりで生きていけるような人間ではない。そのことに気がつくまでに費やした年月は長かったけど、けしてそれだけの価値がないものでもなかった。そのことを理解したときにはじめて僕は僕自身になれたのだと思う。はじめて自分が何者であるのかを理解できたのだと思う。
 しかしひとりでいることには大きな魅力があることもまた確かなのだ。誰かと一緒に生きることが不自由だと言いたいわけではないが、ひとりでいることの自由さ、何をするにしても誰の意見も聞かなくて良い自己完結性というものが生活の隅々にまで行き渡った状態は維持できないだろうと思う。それはしばしば身勝手さという形で生活のパートナーとの間に諍いをもたらしたりもするのではないだろうか。その点ではひとりでいることのメリットはそもそも諍いを起こす相手が存在しないということに尽きるだろう。球は壁に向かって投げるしかないし、どんな球を投げようと常に一定の跳ね返り方しかしないのだ。
 ひとりでいると好きな時間に好きなことが出来る。どこへ行くにしてもそもそもひとりなのだから、場所や時間についての細かなやりとりを誰かとする必要もない。好きな時間に好きなところへ行けばいいだけなのだ。明け方ようやく空がうっすらと色味を取り戻しつつある時間に長い散歩に出たり、気が向かなければ大学の授業を休んでひたすら小説を読んでいたり、タイトルを聞いたこともない映画を映画館のオールナイト上映に見に行ったり。そういう暮らしが出来ることを自由と呼んでいた。しかしその自由は何からも制約を受けないがために輝きを、充実度を失っていく類のものだった。今になってわかるのは、自由は不自由と対比されてはじめて輝きを増しはじめるものなのだ。簡単なことですね、求めるものがいつでも手に入る状態よりもなかなか手に入らない状態の方が、より求める力が強くなるものではないですか?
 映画のオールナイト上映には何度か足を運んだ。オールナイト上映に足を運んだのは人生のその時期だけだったと思う。もしかしたらこの先足を運ぶことになるかもしれないけど、どうしてもその映画が見たくて他に見る手段がないような状況でもない限りは足を運ばないのではないかと思う。そしてその頃はそうではなかった。オールナイト上映の良いところは映画館が混雑していないこと(僕が足を運んだ2番館や名画座と呼ばれる類の映画館は元々混雑していないのだけど)、面白いところは映画の途中で眠ってしまうことに対して特に罪悪感も何も感じないこと。眠りは自然な形で訪れ、眠りに落ちる瞬間に見ていた映画と次に目が空いたときにスクリーン上に見付けるシーンが果たして同じひとつの作品の別の部分なのか、それとも僕が眠っている間に映写技師はフィルムを入れ替えたのかどうか、決定的に判断する方法がないままに映画を見続けなければならない(あるいはもう一度眠りに落ちてもいい)。それはそれで不思議な経験だった。しかしそのとき僕はこのようにも思った。はたしてそれは映画に限ったことだろうか、夜に眠りに落ちて朝目覚める、そのような当たり前のような生活を人は毎日送っているけど、眠る前と起きたあとが同じひとつの物語の別の部分だとどうして断言出来るのか。少なくとも起きてから証拠となる事柄を集めるべきではないか、そしてある程度の根拠が出揃ってから『これは昨日と同じ自分の物語だ』と認識すべきではないのか。
 そんなことを考えながら明け方の町に出て、ぼんやりとした頭と刺激的な思索を抱えながら地下鉄で家路に向かうときに電車を乗り換えるのがいつも阿波座だった。