よ た し の き

書食系男子のブログ

『書きあぐねている人のための小説入門』(保坂和志)

普通の小説入門かと思ったら、違った。

「普通の」とは何なのか自分でもよくわからないが、とにかくこの小説入門は、読んでいて「面白かった」。そこが普通ではない。

この本は、(文中でも何度も言われているが)小説を書くテクニックを伝授するようなものではなく、「小説とはどういうものか」「小説とはどうあるべきか」という論がメインなのである。

いわば、小説哲学である。

だからこそ、普通の「テクニック本」「ハウツー本」とは一線を画している。

以前どこかで、小説の歴史を振り返って今の小説はああだこうだと論じている(たしか対談形式だった)本を読んだことがあるが、あの時ははっきり言って、あまり読んでいて面白くなかった。対談していたのはどちらも小説家(片方は翻訳家だったか)だったのだが、それを読んで私が思ったのは「ぶつぶつ言ってないで自分の思うような小説を書くことに専念しろよ」といった感であった。

なんだか「五月蝿い年寄りだな」という感じだったのだ。

この本はどうも違った。

何がどう違うのかはっきりとはわからないが、とにかく読みやすいし、それでいて内容が深い。

 

私のようにそんなに深い小説経験のない者でも共感できる部分が多いというのは、一見不思議な事である。

だが案外、芸術とはそういうもので、絵にしろ書にしろ詩にしろ音楽にしろ、そしてもちろん小説も、深いところでは似たような精神的営みが行われているのかもしれない。

 

たとえば、小説は、ある意味「時間芸術」なのだ、というくだり。(保坂氏自身がそういう表現をしたかどうかは忘れたが。)

小説が意図するのは、世界をある言葉で定義づけることではなく、世界を叙述することなのだ。叙述とはつまりプロセスである。

その意味で、小説は音楽に似ているのだな、と思った。

前者は抽象、後者は具体という部分では異なるが、どちらにせよ求めているのは「結論」とか「まとめ」ではなくて、時間に即した「体験」なのである。

小説というものが一気に自分に近い存在になったような気がした。(このブログの筆者は、読書が趣味であるが、本業は音楽なのである。)

 

たぶんこの本の著者は相当哲学を勉強して、頭の鍛えられた人に違いない、と本文の端々から思わされた。

哲学を勉強することの大切さは本書の最初の方でも述べられていたが、たぶんこういうちょっとした部分に哲学の経験というものはにゅるりと顔を出すのであろう。

私ははっきり言って哲学という終わりのない学問態度が嫌いな種類の人間であるが、こういう頭脳に触れると、哲学も悪くないのかもしれない、とつい思わされる。

『思い出す事など』(夏目漱石)

死に瀕した筆者自身の回想録であるから、内容はすこぶる重苦しい。

だが私の心に一番強く残ったのは、高等遊民夏目漱石の「意外に人間味あふれる一面」であった。

色々引用したいところはあるが、あまりやり過ぎると全体の分量が馬鹿みたいなことになるので、ほんの一部をここで紹介したいと思う。詳しい文脈などはご自分で買ってお読みなすってください。

 

二十三(章)

 余は好意の干乾びた社会に存在する自分を甚だぎごちなく感じた。

 人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論難有(ありがた)い。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。従って義務の結果に浴する自分は、難有いと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を起し悪(にく)い。それが好意となると、相手の所作が一挙一動悉(ことごと)く自分を目的にして働いてくれるので、活物(いきもの)の自分にその一挙一動が悉く応える。其所(そこ)に互を繋ぐ暖かい糸があって、器械的な世を頼もしく思わせる。電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、人の脊に負われて浅瀬を越したほうが情(なさけ)が深い。ー中略ー

 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていないことは勿論である。彼等を以て、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、身も蓋もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれ程尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。

 

なんと情味にあふれた文言であろうか。

情味と言っても、他人に対する優しさとかそういうものではない。

むしろ人間の生に対する心細さとたよりなさ、難しく言うなら無常観とでも言えるだろうか、そういう感じである。

病魔が体を蝕み、いよいよ生命の危機ともなって、漱石の心中も人並に気弱だったのではなかろうかと私は想像する。

病気をすると人は気弱になる。

いかに自分を強く信じている人でも、またいかに敬虔な宗教的信仰を持っている人も同じである。

漱石自身は臨死体験の直後期も頭の中は平然としていた、などと述べているが、実際のところ、漱石自身も掴みきれなかった死というものへのおぼろげな恐怖、不安のようなものが心の底には流れていたに違いない。

 

この記事の執筆者はまだ20代前半だが、こういう死と隣り合わせの文学に触れるのもたまには大事なのかもしれない、と思わされた。

自分は死ぬまでに、何を成し遂げられるのだろうか。

『辞書はジョイスフル』(柳瀬尚紀)

言葉が大好きな人間が書いた文章は、やはり読んでいて楽しい。

私自身は、ありもしない日本語を次から次と創造するという所業にはいささか抵抗があるほうなのだが、ジョイスの作品やそれを訳した柳瀬氏の作文を覗いていると、なんだかそういう日本語との付き合い方もありなのかもしれない、と惑わされる。

日本語には仮名と漢字とがあり、その漢字というのも一字に対して読みが一通りでなく実に多層的で複雑なシステムを構築しているから、欧米の横一列の言語とはまるで勝手が違う、それが日本語の魅力でもあり外国人から見たむつかしさでもある、というようなことを、最近読んだ『閉ざされた言語・日本語の世界』(鈴木孝夫)という本でも言っていた気がする。

多分柳瀬氏の訳した『フィネガンズ・ウェイク』をフルに理解しようと思うと、柳瀬氏の使用した辞書を残らず揃えて7年半かけて読まねばならないかもしれない。

だがそれほど深長で重層的で猥雑な意味と音韻とのせめぎあいを追求した作品というのも、あって良いのだ。単なる心理描写や行動描写、情景描写だけが小説ではない。

言葉遊びに目のない方は是非ご賞翫あれ。

遊びと言っても単なる戯れではない。

至極真面目な、生死をかけた、丁々発止の千本勝負である。