Jellyfish*1

日記だったり、思い浮かんだ言葉だったり、独り言だったりを淡々と書いてます。自分の気持ちをまとめる為に書いてることが多いです。 🪼クラゲの話題は全然出てきません ;⁠-⁠)

日常

目をあげると梅雨の合間の、やわらかい日に照らされた緑が目に入る。

私がいる、空調の効いた白い光の室内とは別世界。

きらきらきらきら、陰りのない緑が憎い。ゆらゆらゆらゆら、風にされるがままの葉っぱが羨ましい。

私もきらきら陰りのない人間になりたい。

晴れた日はハンモックで、ゆらゆらゆらゆら風に揺られたい。

と思いつつ、視線を目の前のパソコンに移しキーボードをカタカタカタカタ言わせる。

そうだ、ビニールシートとパソコン、飲み物も持って少し外で仕事をしよう!と、実践できたらいいのになぁ。

と、カタカタカタカタする手を止めて、外をボーと見ながら思ったいつかの昼。

いつか実践できたらいいなぁ。

 

わからないなら否定しないで

自分の理解できないこと、わからないことを否定する人っていやだ。

 

理解できない、わからないなら、そういう人もいるのだ、そういうこともあるんだな、で終わらせればいいのに。

 

理解できないから、わからないからって否定したがる人は何と言えばいいんだろう。

自分を守っているんだろうか、と思う。

 

そんなに相手を否定しなくても、あなたはあなたでいれるし、

あなたに理解できない私は、あなたを否定する存在でもないのに、

 

だからそんなに意固地になって否定しなくてもいいのに。

 

それに、否定っていうのは、理解できるからするものだと思うけどな。

好きな人

好きな人がいた。

私はその人がつらい時に側で支えることができるような人になりたかった。なれるものだと思っていた。

でも実際は違った。

 

私、どうすればよかったんだろうと思う。

 

私はどうすればよかったんだろうと思うけど、人間関係は双方向だとも思う。

だから全部、私に問題があったとは思わない。

 

けど、やっぱり私の何か一つで変わったのかな、とも思う。

でも、こうなる予定だったのだとも思う。

 

私の何か一つで変わったのかなという思いと、なるべくしてなったのだという思いを行き来して、つらい。

 

幸せになっていればなーと思う。反面忘れないで、とも思う。私に言ったことを忘れないで、時々思い出して苦しめばいいと思う。

でも笑っていればな、と思う。

 

行き来する、定まらない感情が苦しい。

 

それでもいつか、私は、私がなりたいと思った、なれると思っていた、その人を支えることができるような人になりたい。

その人が、その時、私の支えを必要としていなくても、だ。

 

私は、そのために、ここにいることを決めたんだ。

私は、ここで、できることからやって、少しずつ積み上げて、自分を支えることができるようになって、人も支えることができる人になりたいと、

そう思ったから、ここにいようと決めたんだ。

 

前払いだから、私はもう、この先、同じような思いはしない。

だから今、離れようと思ったんだ。

 

”connecting the dots”

 

絶対にいつか、どんな形であれ、この思いが繋がるときがくる。

私はそう信じる。

 

だから、私は今ここで、やると決めた事を泣きながらでもやるんだ。

 

 

 

自分の信じていたものが不健全だと思ってしまったとき

 

私のやっていたことは、不健全だったんだ。

 

そう思ってしまった瞬間、頑張れなくなった。歩き方がわからなくなった。どう考えながら過ごせばいいのかわからなくなった。

 

私の中の、絶対の指標が壊れた。

 

「自分を否定すること」これが私のアイデンティティーであり、生き方であり、私をよりよいものにしてくれるはずの考え方だった。このアイデンティティーが形成されたのは高校生のころだったように思う。自分の思い込みを否定することで私は変わることができた。だから私は私の考え方を否定することで、もっと変わることができると思ってた。そしてその変わり続けた先で、自分を好きになれると、認めることができると思ってた。

 

自分を否定することを常に意識していたわけではない。もう、刷り込まれていた。

自分を否定して、自分のやったことに満足しないことが私の普通だった。

苦しかった。なにをやっても何か足りない気がした。達成感なんてなかった。達成感が欲しくて、達成感を得られることを期待して、挑戦したこともあった。でもそれを終えたとき、私の中には何もなかった。得ることができると思っていたものなんてなくて、空っぽだった。

 

私にとっての普通は、みんなにとっても普通だと思ってた。

 

この先希望しかない、という友達もいた。

今まで何とかやれてきたから、これからも大丈夫だと思う、という友達もいた。

自分のことをよく分かっていて、人に語ることができる友達もいた。

私のいいところはここだと断言できる友達もいた。

自分の思いや考えは正しいと、相手を責める友達もいた。

 

それらは、私のほしいものだった。

私が、自分を否定することで、いつか得ることができると思っていたものだった。

でも、私は持てていなかった。

 

この先、希望なんてなかった。

これからも大丈夫だなんて思えなかった。

私は私がわからなかった。

私のいいとろこを、私はそんなまっすぐ断言できなかった。

私は、私のこの気持ちは正しいと思えず、相手を責めもしなかった。いや、責めた。でもその責めてしまう自分の考え方や気持ちが許せなくて、ずっと「ごめんなさい」と誤っていた。こんな感情を持ってしまって「ごめんなさい」と。

 

私は、一応頑張っていた。ボロボロになりながら泣きながら、下手だったかもしれないけど頑張って、こうやって頑張っているといつか手に入れられると信じてた。

 

実際は、何も手に入ってなかった。いや、何かはあったんだろう。けれど否定癖のついていた私は、自分の中に何か見出すことが、もうできなかった。

 

私違ったんだ、と思ってしまったとき、

私の頑張りと、その頑張りの基礎となっていたアイデンティティーは不健全だったんだ、と自分でそう思ってしまったとき

 

私は初めて、もうだめだと思った。

初めて、自分がどれだけ擦り切れていたのか気が付いた。

 

 

それから今日にいたるまで、いろいろ考えた。

上ばかり、見すぎていたと思う。私はずっと自分が見えていなかった。ずっと今を見ていなかったように思う。だから、まずは今できることからやろうかな、と思う。

 

二年、ずっと苦しかった。もしかしたら、もっともやもやしていた時期はあるのかもしれないけど、ここ二年近くは特にひどかった。

やっと終わった、という感じ。私の中で、一区切りついた。

 

私が信じていたものや、それによって積み上げてきたものは一度壊れた。

実際に壊れたのか、壊れたように感じているだけなのかは、はっきりとわからないけど、

でも、ショックだったし、もう二度と味わいたくないとも思うけど、よかったとも思う。一度壊れることがあっても、また立ち上がれることはわかったし、私はこういう経験とかつらさは前払いだと思ってる。だからよかった。

 

心にずっと引っかかっていた言葉がある。

「何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい」

私がこの言葉を知ったのは、二年前。

その時は、なんて酷なことを言うんだと思った。何年もかけたものが崩れるなんてどんな感じがわからなかったし、しかもそれをまた築き上げろだなんて、酷だと思った。そういう意味で心に残った言葉だった。

 

まさかそれからちょうど二年たった今、その言葉が示すところをリアルに体験するとは思っていなかった。

 

「何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい」

きっとまた、壊れるときはくる。

それでも、まぁ大丈夫かなと、今なら思える。

自分が積み上げたものが壊れることがあることもわかったし、壊れてもまた歩けるようになることも知れたから。

 

これが、まったくまとめるつもりもなく、ここ数か月を思うままに打ち込んだ結果。

ほんと、ここ数か月を含む二年は長かった。

 

引用:佐々木常夫(2010)「働く君に贈る25の言葉」WAVE出版

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その向こう

 電車に乗ったら流れてく外の景色を見るのが好きだ。

人の生活の外観を見ることができるから。ちなみにディティールを見ることができる散歩も好きだ。

先日も、同じように電車に乗って外の景色を見ていた。

そうしたら、ある景色にはっとした。

今でもなぜ、あんなに静かに衝撃を受けたのかうまく言えない

だから書こうと思う。書いてまとめようと思う。

 

電車に乗っていると、人の生活が景色となる。

目の前を流れていく一軒家、セーラー服の学生、田んぼ、軽トラ、公園、遊ぶ子供、美容室、川沿いをはしるママチャリ、

いつもと同じように、景色を眺めていた。

 

気が付いたら電車は陸橋を進んでおり、私は自然と、下をはしる両側二車線の道路を眺めていた。

ここでふっと顔をあげ、私は静かに衝撃を受けた。

眺めていた道路の先に、山と空が見えたのだ。

 

なぜ、これが衝撃だったのか。

 

私はしばらく都心に滞在していた。その間、電車に乗る機会はくさるほどあったが、ふっと目をあげた先に見えるのは大半がビルだったように思う。

だからだろうか、まっすぐ続く道路の先に山と空が見える、その、自然と人口物の近さに驚いたのか。

都心では、空をさえぎっていたのは、たいてい見上げるほど高いビルだった。

それがここでは、山であった。山が一番高いものだ。それに驚いたのか。

 

それとも、山にさえぎられた空が、山のその向こう側があることを表しているように感じたからか。

山は、視界の右半分に位置していた。視界の右半分と左半分では、見える「キョリ」と「空の広さ」が異なる。陸橋から見ると、左側は山に邪魔されないため、より遠くを認識でき、遮るもののない空を見ることができる。反面、右側は、見えたはずの遠くが山によりさえぎられており、空も遮られている。

 

 

「左では見える向こうが、右では山によって隠され見えない」

 

それが、山の向こう側を強調していた。

 

山の向こう側にも、私が電車から見ていたような、景色が、人の生活があるのだと連想させた。

 

見えないものを連想させたことに驚いたのか、

 

書いてまとめたけど、うまく表現できない。

 

言葉には収まらないものもあるのだろう。

 

私はそれを、きっとあの景色に感じたのだ。

だから、私もよくわからずにはっとしたのだろう。

今日の出来事

相変わらずベットから起き上がるのは遅い。

早く起きたとしても、3時間ほどベットでだらだらしてしまう。

今日の行動し始めは、11時だ。8時に起きて。

 

13時からバイトの面接だったから、12時40分に家を出るとして、12時30分から準備を始めるか、と考えるけど実際は12時50分に家を出ることなった。予定通りに準備ができず、遅れてギリギリになるのは、よくある。もっと余裕をもって準備する習慣をつけたい。

13時ちょうどに面接場について、担当の方と顔を合わせる。小さい売店だったから、面接もゆるい感じかと思っていたら、担当の方は予想以上にきっちりされている。履歴書を見ながら、予想以上にきっちりした話をされる。意外だ・・・。

こういう、バイトの採用・面接方針、雰囲気は会社あるいは店舗によって変わってくるのだろうな、と今までのバイトの面接を振り返りながら考える。

 

「生活費を稼ぐためです」とストレートな言葉が書いてある志望動機の欄が気になりだす。今まで「社会勉強のため」など、取り繕った理由を書いてきた私にとって、素直な志望動機はちょっと挑戦だ。それが今までで、一番きっちりした雰囲気のバイト面接と重なってしまった。

 

しかし私の心配とは裏腹に、志望動機の欄に目は通されない。担当の方が志望動機をあまり気にされていないことが、話し始めてしばらくしてわかる。

印刷を頼んだ弟とのコミュニケーション不足で、2枚になった履歴書の1枚目がずっと上においてある。経歴が書かれたそれはめくられる気配がない。

よかった、と少し安心する。

 

けれど、やっぱり、苦手だ。私が量られるような試されるような、、私の価値を証明するための場は苦手だ。それが自分の言葉で求められるとなるとさらに身構えてしまう。息がつまる。

私は今、どんな表情をしているのだろう、今なんと思われているのだろう、、目の前にいる人の表情から、目線から、それを読み取ろう、無意識が頑張っている。

そしてなんと答えるのが正解なのかを押しはかる。

 

この一連の流れが、今の私にとっては一息つきたくなる。思い出してもきりきり軋むようだ。

いつか、自然とできるようになるのだろうか、それとも慣れるのだろうか、それとも人とコミュニケーションをとるときこんなぐちゃぐちゃ考えるのは、違うのだろうか、それともバイトの面接でこんなに一息つきたくなる、私の耐久性の問題なのだろうか。

 

何が問題で何をどうすればどうなるのか、そういう基準がわからなくなってしまって、しばらくたつ。

とりあえず、目の前にあるものを一つ一つこなしていくことが、つながっていくんだと気づいてからも、しばらくたつ。

 

そういえば、「得意なことは?」と聞かれた。

聞かれて、ああ、と頭の中で思った。

私は、以前なんと答えていただろうと考えをめぐらすけれど、思い出せなかった。かろうじて「学ぶことは好きです」と答えた。心の中で笑った。

 

 

 

朝起きたら、ヨガをしようかと考える。きまった1日にするためには、すっきりした目覚めとかっこいい朝の過ごし方が必要だ。

うん、とりあえずヨガと題して軽くストレッチでもしてみよう。