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シンプリストになりたいのです

映画・「ゴジラ-1.0」の感想

Amazonのprimevideoに「ゴジラ-1.0」が5月頭に追加されました。アカデミー賞で視覚効果賞を受賞するなど華々しい賞を受賞しているのを聞いて、ぜひ見てみたいなと思っておりまして。

やっと拝見することができましたので、感想やあらすじなどを ネタバレ交えて 綴っていきたいと思います。

ゴジラ-1.0 の あらすじ

1945(昭和20)年、第二次世界大戦末期。

主人公である敷島浩一は特攻隊として出撃するはずでした。敷島は一人、機体が故障したと小笠原諸島 大戸島にある臨時飛行場に不時着します。しかし整備兵が機体を確認するも、異変は何も問題は出てきません。機体故障は偽りだったからです。

「いいんじゃないですか、あんたみたいなのがいたって。死んでこいなんて命令 律儀に守ったって、この戦争の結果はとうに見えてる」

ふと海を見ると、なぜか数匹の深海魚の死骸が浮いていました。その夜、突然サイレンが鳴り響きます。全長15メートルほどの巨大な恐竜のような生物が彼らに襲い掛かります。

ゴジラってやつじゃ…」

「なんだそりゃ」

「島のやつがそう言ってたんだ。今日みたいに深海魚が浮いた日はゴジラが来るって」

整備兵たちと敷島はなんとかゴジラから逃れようと隠れます。そこで整備兵の一人である橘は、敷島に零戦に搭載されている銃でゴジラを撃ち落とすように言います。しかし、敷島は恐怖で身体が固まり撃つことができません。結果、敷島と、橘以外の兵隊たちはみんなゴジラに襲われて命を落とすのでした。

その後、敷島は船で東京の実家に帰ることになりました。道中、橘はゴジラによって命を落とした整備兵たちが持っていた写真を敷島に渡すのでした。

なんとか敷島が帰宅するも、自宅周辺は空襲のせいで焼け野原でした。隣家に住む女性 太田澄子は、特攻隊になった敷島が戻ってきたことに驚きます。そして我が子を亡くしていたしまった恨みを、彼にぶつけるのでした。そして、敷島の両親も空襲で亡くなってしまったことを告げるのでした。

「生きて帰ってこい」そう言いましたよね…

敷島が闇市で食事をしていると、見知らぬ女性に赤子を託されます。見捨てることもできず困り果てますが、なんとか女性と再会することができました。女性の名前は典子、そして赤子はアキコと言います。典子とアキコの2人は親子ではなく、空襲の際に託されたのだそうです。そして典子も空襲により、家族を失っていたのでした。その後、成り行きで共同生活が始まります。

面倒はごめんだよ

最初こそツンケンとした態度の澄子も手伝って、アキコは少しずつ成長することができました。

敷島はなかなかに職に就くことができないでいましたが、何とか職をみつけることができました。それは米軍が戦時中に残した機雷の撤去作業です。給金ははずみますが、命の保障はない…そんな仕事です。機雷に反応されないための木製の船に乗って、機雷を撤去していく日々が始まりました。

船に同乗しているのは船長の秋津、乗組員の青年 水島、そして元技術士官の野田でした。それからは何とか生活に余裕もでき、バイクを購入したり、家も新にすることができました。

しかし、敷島は過去のトラウマから典子を妻として迎えることはできないでいました。

そんな敷島にいつまでも頼るわけにはいかないと、典子は銀座で事務の仕事を見つけてきました。勤務中は澄子がアキコの面倒を見てくれます。

1947(昭和21)年。再び、敷島の前にゴジラが現れます。以前みたときよりさらに巨大に、そして強靭になっていたゴジラ、なんとかその場でダメージを与え逃げることはできました。しかし、ゴジラはこのまま日本へと進行してくることは目に見えています。なんとか住民の避難や対処をと敷島は言いますが、日本政府は情勢や責任逃れから誰も対処せず、かん口令が出されたのです。

敷島のトラウマも改善されず、ゴジラに襲われ、整備兵たちが殺されていく日々を今でも毎日夢に見ます。

「また悪い夢?」

「…夢?あぁ、そうか。夢…だよな。それとも君が夢か…」

自分が生きているのか、実はすでに死んでいて、これは死んだ自分が見ている夢なのか、それすらわからなくなっていったのです。

「生き残った人間はきちんと生きてゆくべきです」

「典子さんに何がわかるって言うんですか」

「わかります。私の両親は火に焼かれながら生きろと言いました。だから私はどんなことがあっても死んではいけない。そう思ってきました」

そこから、敷島は典子とアキコのためにもう一度、きちんと生きようと心に誓います。

しかし、またもゴジラは敷島の前にやってきます。現れたのは、典子が働いている銀座だったのです。戦争や、それによる空襲をも耐えた銀座の街がゴジラによって壊されていきます。そしてついに典子の目の前にゴジラが迫ってくるのでした。

盛大なネタバレを含んだ感想

ゴジラ映画と戦争映画をうまく融合させた作品だな、というのが一番の印象でした。予告の段階で、戦後すべてが無(ゼロ)になってしまった日本。そこにさらに追い打ちをかけるゴジラ(-1.0)がやってくる…!みたいな内容だったように記憶しています。ですので、戦後日本というのはわかっていましたが、私はどちらかというと、当時の(今よりは乏しい)技術力でいかにしてゴジラを倒すのか?みたいな話だと思っていました。

全体を通して描かれているのが、戦争を生き抜いた(というより生き抜いてしまった)男たちがいかにして自分の中での戦争を終わらせるのか みたいな物語です。

あなたの戦争もおわっていませんよね

であったり、

「今度は役に立てるかもしれないってことがな」

「役に立つ…か」

「俺たちは戦争を生き残っちまった。だからこそ今度こそはってな」

という台詞からそういったテーマが読み取れます。ここまでだと、まぁ今までの戦争もの映画の段取りだよなぁという印象です。

けれど、ここからが個人的には新しい展開なのかな?とも思います。ここからは賛否別れるのかなぁ…と思ったり。

今度の戦いは死ぬための戦いじゃない。未来を生きるための戦いなんです。

そう、ゴジラを倒すために命をかけて戦うぞ!ではなく、ゴジラを倒して かつ みんな生き抜くぞ!というのが目標なんですね。でもそれって、敷島の言う「戦争を終わらせる」とイコールになるのかなって。でも散華することが終わりではない。踏ん切りをつけることがゴールであるというのも、個人的には悪くはないと思いますけれど。

”神風”という言葉は世界的に使われているというのはご存じですか?

神風特攻隊。爆装航空機に乗って、敵艦隊に突っ込んでいく。「死ぬかもしれないところで戦ってこい」ではなく「死んでこい」という命令が成り立っていたのは、世界的に見ても日本くらいだそうです。個人的・組織的な自爆テロなどで、自らの命をかける…という事件はありますが、国がそういう作戦を実行していた。今考えると恐怖でしかありません。

この映画ではそれに対してNO!と表明しているように見えます。だからこそアカデミー賞という舞台にあがったのかな…なんて思ったり。ある意味、日本がつくるポリコレ映画だなとも感じました。

山崎監督は台詞や行動ですべてを説明してくれる監督なので、わかりやすい作品です。とても現代向きなのではないでしょうか。フラグを立てるにしても、とても大きく立ててくれます。ラストシーンは続編に続けますよー!ゴジラ細胞ですよー!というのがよくわかる描写で。

ゴジラとのワクワク戦闘シーンあり、胸熱シーンあり、感動シーンあり、人間ドラマあり!なので、全体的に楽しむことができました。

個人的なおすすめ鑑賞法

ゴジラ-1.0はカラーバージョンとモノクロバージョンがあります。個人的には、モノクロバージョンがおすすめ。

なぜかと言いますと…ですね。これはあくまで個人的な感想ですけれど。全体的に役者の演技が濃いんです。くさい演技というとオーバーなのかもしれませんが、表情も台詞もすべてが濃い!カラーで見ると情報量が多いんです。

それが不思議とモノクロで見ると、そこが中和されるんです。ちょうどいい塩梅になります。背景を知らないので名言できませんが、それが前提で作られていると思うと納得だなと思います。

あと、私はあまり見たことがありませんけれど、昭和・平成初期のちょっとレトロな作品ありますよね。モノクロ時代の映画とか、活劇みたいな。あれを見る感覚で見ると、そこまで違和感はないんですね。

2023年の映画を見る!というよりは、現在の技術を持って、ゴジラが上映された1954年当時風の映画を作りました!だと大成功なのでは?と思います。

 

本・『一汁一菜でよいと至るまで』の感想

専業主婦の私にとって、一番の業務は毎晩の夕食づくりです。幸い夫から「まずい」と文句を言われたことはありませんし、たとえ失敗しても「今回が失敗ということであれば、また今度リベンジということで」と言って私を責めることはありません。けれど、どうしても料理が得意とは言えない私。

算数であれば「1+1=2」と明確な答えがありますけれど、料理に正解はありません。これでいいんだろうか?どこまで追求すればいいんだろうか?自信もなく、けれども超絶怠惰な私にはその不安定な感覚が不快だったのです。

そんななかで出会った本が、土井善晴さんの「一汁一菜でいいという提案」でした。

yu1-simplist.hatenablog.com

料理にはハレとケがあるという教えには救われました。祝い事のハレの料理は手を込めて、そうではない日常のケの料理は少し手を抜いて良い意味で「ええ加減」に。その日常の料理というのが「一汁一菜」というわけですね。

毎日の食事は「一汁三菜」でなければいけないと思い込んでいた私には、目からうろこの1冊でした。

今回は同著者である土井善晴さんが、どのようにして「一汁一菜でよい」という考えに至ったのかをまとめた『一汁一菜でよいと至るまで』を読みましたので、それについて綴りたいと思います。

一汁一菜でよいと至るまで はどんな本?

この本は「一汁一菜」について解説する本というわけではありません。

これまでの土井善晴さんの人生を振り返りながら、その時代ごとに自分が向き合ってきた料理について。そしてどうして最終的には「一汁一菜」にたどり着いたのか?を紐解いていくような本です。

65年の人生は、「料理で生きていこうと決心するまでの20年」「料理をつくる最前線でひたすら没頭した20年」「料理指導を通じて料理を考え続けた20年」と大まかに三つに分けられるように思います。そして、そのあとの現在は、一汁一菜を提唱した後の、今に続く食事と料理を深く考えるようになった年月です。

(P5より引用)

第一部『料理は一生のもの ―― 父、土井勝の名の陰で』ではお父様の土井勝さんがどれだけすごい方だったかという紹介から、お父様をきっかけに広がった知識・人脈の輪についてなどに触れられています。

また土井善晴さんご自身の ~高校生時代や、料理関係のお仕事を目指すに至るまでも綴られています。

第二部『料理って、こういうことなんだ ―― フランスでの料理修行』では、大学時代にスイスへ留学された際のお話から始まります。スイスでの料理修行、そしてその後のフランス料理との出会いなどです。

フランス料理から、料理とは何か?自然とのつながりは?料理の価値とは…?と広がっていきます。

第三部『料理の「顔」と「目的」を見極める ―― 味吉兆で学んだこと』。日本に戻ってから自分がいかに日本料理を知らないかに気付き、味吉兆というお店で修行を始めてからのお話。

日本料理ってそもそも何なのか、厨房とはどんなものなのか、修行時代はどんなものだったのか、そして何を得たのかなど盛りだくさんな内容が綴られています。

第四部『家庭料理とは、無償の愛です ―― 料理学校で教える立場に』では、味吉兆の修行を辞め、お父様が運営されていた料理学校の手伝いすることになってからのお話。

日本料理と家庭料理の違いとは、そもそも家庭料理とはいったい何なのか。そして家庭料理と向き合う中で、最終的にどうして一汁一菜を提案するに至ったのかが綴られています。

 

土井善晴さん はどんな人?

土井善晴さん。料理番組などをみる方でしたら、目にしたことがある方が多いのではないでしょうか。私も昔NHKの料理番組を拝見したことがあるのですが、いつも笑顔で優しそうな方という印象でした。

1957年に料理研究家の両親の家に生まれて、物心つく以前から、料理を心においていたと思います。

(P5より引用)

料理研究家として有名な土井勝さんを父にもつ土井善晴さん。大学在学中に語学留学という名目でスイスのローザンヌへ留学、ホテルのレストランの下働きをされます。日本に戻り、大学を卒業後は神戸のレストランで修行をすることに。

神戸のレストランで出会ったシェフのツテから2年ほどフランスへ。フランスのリヨンにいるアレックスさんという有名なシェフのもとへホームステイをされます。そこで格式高いフランス料理だけでなく、フランスの家庭料理にも詳しくなります。

日本に帰国し、料理番組や料理学校で多忙な父の手伝いをすることになります。しかし、自分が日本料理に対して詳しくないということに気付きます。そこで大阪 味吉兆で修行をすることに。

その後、父が経営していた料理学校を手伝うために修行を終える。しかし今度はプロがつくる日本料理と家庭料理の間で葛藤することに。さらに「食」について研究を深めるきっかけとなる。

料理学校勤務後も「おいしいもの研究所」を設立。和食文化を未来につなぎ、持続可能な家庭料理のスタイルとして「一汁一菜」を提案するなど、食に関して様々な情報や考え方を発信されています。

個人的に気に入ったところ

歯医者の先生からもらった1冊の本について。

嶽北先生と出会ってこの本をプレゼントされなければ、私の料理研究の行き先は相当違っていたでしょう。それは、『食生活と身体の退化 未開人の食事と近大職・その影響の比較研究』(W・A・プライス著、豊歯会刊行部、1978年、アメリカでの原書観光は1939年)で、嶽北先生の師匠の片山恒夫先生が翻訳し、自費出版されたものです。

内容はアメリカの歯科医師、プライス博士のフィールドワークを土台にした論文で、アメリカンインディアン、ニュージーランドマオリ族、オーストラリアのアボリジニーエスキモーなどの「未開人」が、入植者(西洋人)が持ち込んだ西洋の近大職に触れて何が起こったかの記録です。(「未開人」と記すのは憚られますが、「未開の人間、つまり原始的な条件のもとで生活を営んでいる部族…と序文にあるままに記します)。

古来の暮らしを続けている部族の村に、入植者が利用するスーパーマーケットができると、それまでになかった問題が村の中で起こります。自然と適合し暮らしてきた彼らが「文明食」に出会うことで、顎が十分に発達せず歯並びが悪くなるのです。咀嚼がこれまでのように行われず、親の顔だちは変わってしまう。人間は伝統ある良き食べ物によって健全な体が受け継がれるのですね。それが長年問題なく続いて、その継続が安全でもある。だからこその伝統なのでしょう。

食の変化で失うのは親に似た顔形だけでなく、精神的な強さもでした。そうした心身の劣化は、人間同士の友情、生活習慣、価値観、文化にも影響を及ぼします。暮らしの秩序を失い、犯罪が増え、それまでと違う病気も生まれます。

(P40-42より引用)

現代の日本でも同様のことを耳にしたことがあると思います。戦後日本に導入されたアメリカナイズされた食文化によって、肥満や生活習慣病が増加したといった内容は耳にタコではないでしょうか。

ユネスコ無形文化遺産に「和食」が登録されているというのは、記憶に新しいことだと思います。その和食の特徴4つの中の1つにこんなものがあります。

健康的な食生活を支える栄養バランス

一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは理想的な栄養バランスと言われています。また、「うま味」を上手に使うことによって動物性油脂の少ない食生活を実現しており、日本人の長寿や肥満防止に役立っています。

(農林水産省のHPより引用/「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されています:農林水産省: https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/)

日本人の伝統的な食文化が崩れてきた結果が今だとすると、日本料理を意識するということも健康につながるのでは…?と思っています。

 

自然と人間の間に料理があるというあたり前のことを教えてくれたのです。森にキノコが生え、野鳥が飛び、畑には季節の野菜や果物があって、調理場で愛おしみつつ、下ごしらえする。料理ってこういうことなのだと、実感できました。

(P101より引用)

フランスのロワイエット村にあるレストラン・ラテラースでのお話。昨今の暮らしの中ではつい忘れてしまうことですよね。私達が食べているものはすべて、自然の中から生まれたものであること。

魚も切り身を見慣れてしまって、その魚が本来どんな姿で泳いでいるのかも知らない…なんてことが多々あるそうな。私も切り身であれば魚の判別はべきるかもしれませんが、魚の姿なら難しそうです。

自然とのつながりは忘れないでいたいですね。

 

「ガストロノミ」という言葉は、美食術(学)と翻訳されていますが、2010年にユネスコの世界無形文化遺産に登録されたフランス人の食の概念です。「ガストロノミ」とは、単に贅沢なおいしい料理を食べることではなく、よりおいしく食事をする慣習で、自然との恵みとの調和、料理とワインの組み合わせ、食器のセッティング、マナーなどと共にある食事文化ですから、フランス人のアイデンティティそのものです。日常の生活の中に当たり前にある人生の哲学を礎にして、芸術と生活を結び付けているのです。

(P102-103より引用)

食文化についてあまり明るくないため、ガストロノミという言葉を初めて聞きました。おいしい!栄養満点!とかそういうベクトルで私は料理を見てしまうのですけれど、フランスの方々はその上(?/上下ではないかもですが)をいく概念をお持ちなのだと、勉強になりました。この辺りはまた深堀してみたいなと思います。

 

全力で仕事していると、体力がついてきて身体が正確に動かせることを実感できます。少し余裕が出てくると、先輩の動きと、自分の身体の使い方(音やリズム)の違いに気がつくのです。力任せにするよりも、力を抜いて、床のタイルの目に沿って縦横に磨いた方が実際きれいになるとわかる。手が自由自在に動いて合理的な作業ができてくると、仕事は楽しくなってくる。鍋磨きも同じで、力を入れて磨くよりもきれいにしてやろうと思えるようになると、タワシがいい音を立てて鍋が光り出す。そうなると、鍋や道具にも愛情をもてるようになってきます。調理場や道具をきれいに手入れしておけば、不思議なことに、仕事に追い込まれた時に道具が味方してくれ、自分(の仕事)を守ってくれていると感じるのです。

(P114より引用)

先日、たけのこご飯を琺瑯鍋で作ったところ盛大に鍋に焦げ付きました。幸い、おこげがあるたけのこご飯には問題なかったのですが、鍋の方は大惨事。なかなか焦げ付きがとれません。重曹を使ってみたり、ブラシでこすってみたり…。でも力任せにどれだけこすっても取れないんですよね。

最終的には無事、綺麗にすることができました。しかし、その時にただがむしゃらにこすっていてはダメなんだなとふと思いまして。思考を巡らせて、どうすればいいのか考えて、道具に愛着を持って接しなければ汚れは落ちないのだとしみじみ。こういったことが自然とできる境地に立ちたいなぁと思ったりも。

 

食材の鮮度が落ちないように手早くする、その前提として手は抜けません。もちろんお客さん第一で時間に間に合わせることは必要ですから、時には、1時間かかる仕事でも10分でなんとかしなくてはいけないこともあります。融通を利かせていつでも臨機応変に最善を尽くす。それができないと「間に合わんやっちゃなあ」となるのです。誰かが補ってくれている内は、仕事をしていることにならないのです。

おまけに、丁寧も度が過ぎれば「くそていねい」、真面目も過ぎると「くそまじめ」になるんです。「どんなええことでも過ぎたらあかん」。だめなんですね、なんでもちょうどいいところを、自分で見つけなあかんのです。そういう意味で、「ええ加減(にしなさい)」という言葉は真理です。「ええ加減」は、常に自分で判断することですから、ほんまのところは、何も悪い意味やないんです。

(P115-116より引用)

冒頭で料理にはハレ・ケという考え方があって、ケの料理は良い意味で「ええ加減」であることについて触れました。良いことも悪いことも過度であると、それは「ええ加減」ではなくなってしまう。

私はどうしても良いことを極めなくては…!と息巻いてしまうのですけれど、もうすこし「ええ加減」になれたらいいなぁと思います。とはいえ、それを求めるとそればかりに気を取られて「ええ加減」を追求しなくては…!みたいになってしまうので、自分でも面倒な人間だなと思います。怠惰な自分と息巻く自分との調度いいバランスを見つけたいものです。

 

「水晒し」の起源は、どんぐりを貯蔵し、水に晒してアクを抜いて食べた縄文人の暮らしに遡ることができます。縄文人にとってアクは、苦くてエグくて、体を傷つける「悪」でした。日本料理は煮炊き文化です。縄文土器で煮炊きしてアクを抜くことで、食べられないものが食べられるようになる。アクという毒素をのぞいた浄い状態、掃除して整ったところに、神様がおりてくると信じたのでしょう。

日本文化では生々しさを嫌う傾向があります。静かなものを好むのです。味覚に心奪われないようにしたのかもしれません。強い刺激は感性を奪います。懐石料理でこのアク抜きを徹底するのは、日常の親しみから離れた、非日常のきれいなお料理の世界に入るためです。舞妓や芸妓の白化粧や、神世と現世の仮死状態にも通じます。あの世とこの世をつなげるもの、それが縄文時代以来行われてきた「澄ませる」意味だと思います。

(P138より引用)

日本のハレの料理。例えば懐石料理であったり、お吸い物って透き通るような美しさがありますよね。と、言いつつそんなに食べたことがあるわけではありませんけれど。

若いころは味が濃くて、見た目にもインパクトがあって、という料理を求めていましたけれど、それもどんどんと薄れてきました。旬の食材を食べるにしても、和食でいただくことが増えているなぁとしみじみ。先ほどあげたたけのこご飯もそうですけれど、福神漬けを自分で漬けるようになったり、随分と家庭的な料理を求めるようになったものです。

老けたわぁ~みたいな意味ではなくて、体がどんどんと自然を求めるようになってきたのかなぁと思っています。昔は刺激的なものに中毒的になって求めていましたけれど、今は自然と身体が本来求めているものに寄り添えるようになってきたのかなと。とはいえ、まだまだですけれどね。少しずつ、澄んだものを体に入れることが習慣になるといいなぁ。

 

そんなあるとき、京都の東山区五条坂鐘鋳町にある河井寛次郎記念館を訪ねました。記念館は、寛次郎自身が設計し、家族と過ごし、作陶し、多くの客人を招き入れ、喜びに溢れる暮らしをした場所です。そこにあるもののすべてが美しく調和し、とても居心地が良く感じます。そのとき私は民藝の意味もまだ知らなかったのですが、河井寛次郎の作品とともに展示されていた、寛次郎の言葉に出会うのです。

「仕事が仕事をしています……苦しい時は仕事にまかせ さあさ吾等はたのしみましょう(仕事のうた)」「物買って来る 自分買って来る」「美の正体 ありとあらゆる物とこととの中から見つけ出した喜」「美を追わない仕事 仕事の後から追ってくる美」「美しいものしか見えない眼」そうした言葉が私の胸には響きました。

美しいものを追いかけると逃げていく、淡々と仕事する後から美は追いかけてくる、それが仕事だというのです。一生懸命生活し、一生懸命仕事した場所が、これほど美しいとは。その美しさは、素朴で、無骨でしたがとても温かく微笑んでいる。物が呼吸し生きている。その一生懸命の結果の美しさにハッとしたのです。

ああ、自然と繋がる家庭料理は民藝なんだ。

それは私にとって大発見でした。普通の家庭料理がある暮らしがどれほど美しいものか、人間の原点を見たように思えました。家庭料理研究の先には、とても豊かな展望が拓けているのではないか。

(P176-177より引用)

「家庭料理は民藝」。わかったようで、どこか掴み取り切れていない感覚が残りました。これは本の問題ではなく、自分の知識不足です。民藝が何か、食が何かが私にはまだそもそもの土台が足りていない。この辺りは、改めて深堀したい。そのためには、基礎知識をつけなくては…!ということで。記録しておきたいと思います。

 

美とは何かを考え抜いた柳宗悦と同じように、料理の美を民藝の美と重ねて、美とは何かと考えました。民藝は美の問題ですから、料理もまた美の問題なのです。一流の料理人を目指して修行した頃のプロの料理に対する強い思いもありましたが、もっと大きな家庭料理の世界があることに少しずつ気づいていったように思います。

(P178より引用)

民藝のお話に引き続いてですけれど、美って何でしょうか。普段から「綺麗だね」「美しいね」って言うことはありますけれど、この辺りを深く考えたことってなかったなぁ。自分の中の美ってなんだろう?この辺りも深堀したいなぁと思います。

 

『祝いの料理』の出版を経て、日本の伝統的なハレの料理に注目することで、日常のケの料理の意味を改めて考えることになりました。

それは、私の料理観を分類整理することにもなり、意識しないうちに展開していきました。フランスの三ツ星レストランやビストロ、そしてフランスの家庭料理、日本汚家庭料理と、最高峰といえる料理屋の仕事、そして日常の中のケ・ハレの料理、といった項目で一つの食文化を多角的に見る視点が、私の中にいくつも生まれていました。

多様な料理観のそれぞれを掘り下げながらもブレなかったのは、『食生活と身体の退化』で読んだ民族文化それぞれの持つ食の形にあったと思います。料理とは好き勝手にしてよいものではありません。一つの料理、一つの調理には意味があり、幾つもの観点があるのです。それだけ複雑で、一元論的に考えられるものではないのです。

ここまでの体験や学術的な考察のおかげで、ようやく自部の立ち位置がわかってきたということなのです。それが、家庭料理を研究するという立場です。

でも、民藝と結ぶ家庭料理は、地球と人間の命を繋ぐものです。家庭料理ではお金はいただけません。お金を貰えば家庭料理ではなくなります。家庭料理の現実は愛情にあるのです。もちろんお金をいただく仕事もまた厳しいもので簡単ではありませんし、大事なのですが別ものなのです。

(P215-216より引用)

私は料理するという人間の行為そのものに興味があるのです。「人間は、何を思い、何を料理してきたのか」という料理する人の気持ちを深く考えて書かれた本は一冊もありません。日々の料理は単なる楽しみ、快楽(欲望)であると軽んじられ、なめられてきたのです。

私の仕事は料理研究です。フランス料理や日本料理の現場で修行した後、家庭料理指導者という命を育む料理の仕事をしてきました。和食は何もしないことを最善とするといったことをすでに書きましたが、その思想は原初よりの人類の行為としての料理と一致して、お金を取ることはありません。家庭料理は無償の愛の行為だと言えるのです。お金を取れば家庭料理ではありません。ゆえに経済行為としてあるプロの料理に対して家庭料理は純粋料理、原初の料理です。

(P229より引用)

日常のことですので、そこまで深く考えたことのなかった家庭料理。食材や栄養なんかに注目することはあっても、家庭料理の重要性についてそこまで考えたことって10代、20代の頃はありませんでした。

夫が仕事から帰宅するのは早くても20時を超えます。遅い日では23時くらいになることも。それでも夫は飲み会の日 以外は我が家で夕食を摂ります。私は夕食をいただかないことの方が多いので、一緒に夕食を摂るということは致しません。

けれど、用事が住んだら一緒に食卓を囲むようにしています。夫からの要望なんですけれどね。一人で食事をするのは虚しいんだそう。そんなわけで私も食卓を囲み、だいたいはその日あったことの報告や、ポケモンスリープ(ゲーム)についての雑談をしています。

無償の愛と言えば大仰な気もしますけれど、これもその延長なのかしらん。大切にできるうちは、大切にしていきたいものです。

感想

一見すると土井善晴さんの自伝のようにも見えますが、読んでみると少し違うことがわかります。論理の流れをたどっているような感覚と言えば伝わるでしょうか。その時々での考えがあって、最終的にこうなったというのがよくわかる1冊でした。

どちらかだけを読むのではなく、可能であれば両方を読んでいただければ、より深く「料理」というものを理解できるように思います。

個人的に一番面白いなと思ったのは第三部の味吉兆で修行されているときのお話。厳しいながらも夢を追いかけて一意専心するお話は、文章で読んでもかっこいいと思いました。

これを読めばお料理に関する問題がすべて解決!というわけではありません。けれど、こういう考え方もあるという、別の道を知っているだけで少し楽になります。自分のやる気ばかりが暴走して困ったときは、「でも土井善晴さんが一汁一菜でええって言ってはったし」とブレーキにもなるように思います。

今日の夕飯も、気楽に頑張ろう❀

 

映画・「パプリカ」の感想

もし、眠っている間に見る夢を自由自在にできるとしたら何がしたいですか?

私だと夢の中でも推しに会いたいなんて、欲望丸出しなことが浮かびますけれど。そんな夢にまつわる映画「パプリカ」をみました。

感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

パプリカのあらすじ

主人公である千葉敦子は常に冷静沈着な美しい女性。彼女は精神医療研究所に勤めており、セラピー機器の研究者をしています。

しかしそんな彼女には”パプリカ”という裏の顔がありました。パプリカは千葉敦子とは違い、明るい髪色に天真爛漫なまるで少女のような女性です。DCミニという、他人の夢を共有、また夢の中に入ることができるという装置をつかい、患者の夢の中に潜り込み、悪夢の原因を探る治療をしていたのです。

「パプリカ。開発されたサイコセラピーマシンで勝手な治療を行う女がいると聞いた」

(作中より引用)

そんなある日、DCミニが何者かに盗まれてしまいます。まだアクセス制御をしていない状態のDCミニを盗まれたとあっては一大事です。

「盗んだ人間はDCミニを通じて、いつどこからでも他のサイコセラピーマシンに、それを使っている私たちの意識に侵入することができる」

(作中より引用)

夢という無意識の世界に自由自在に侵入できるということは、人間を思うままに操り、洗脳することができるということ。

「科学技術を制御するのは人間だ。」

「理事長」

「他者の夢を共有する。まさに夢の科学だ。だがじかに夢に触れることは暴力にさえつながる。あれは作るできではなかった」

「また、そのお話でしたか。DCミニは精神治療の新地平を照らす太陽の王子様です」

「夢を支配する。思い上がりは隙を生むものだ」

「支配ではありません。我々はクライアントとのより深い共感を目指しているのです」

(作中より引用)

敦子やDCミニを開発した時田、開発担当責任の島たちはDCミニを探し、盗んだ犯人を追うことになるのでした。

感想

夢同士の境界が、夢と現実の境界がどんどんと曖昧になっていく世界観にぐっと引き込まれるものがありました。

序盤はわかりやすく蝶がとび、あぁこれは胡蝶の夢を表しているだろうから、ここは夢のシーンだと表しているんだな…とわかるのですけれど、これがどんどんと困難になっていきます。

胡蝶の夢 - Wikipedia

胡蝶の夢だけでなく、スフィンクスオイディプス、度重なるワードサラダにどこまで意味があって、もしかしたらこれらは無意味なのかと、どんどんと難解になっていく。けれど、話の根幹にあたる部分はぶれないで、ちゃんと追いかけていくことができる不思議。

きっとすべてに意味があるのかもしれない。でも、それがわからない恐怖と、だからこそ引き込まれていく感覚。まるで狂気性をまざまざと見せつけられている感覚がたまらなくよかったです。

調べてみると、ワードサラダについて研究されている方もおられました。大阪公立大学の学術リポジトリより。とても面白い考察で、なるほどそういう意味なのか…!とふむふむと思いながら読みました。

 

大阪公立大学 学術機関リポジトリ

 

「映画『パプリカ』におかえるワードサラダという表現:作中における2つのワードサラダの考察」

作中、いくつかのシーンで同性愛やトランスジェンダーを表しているような暗喩がありました。2006年公開作品のようですが、当時は今ほどオープンではなく理解も進んでいなかった時代です。そんな時代だからこそ、自身に内在している問題が夢の世界で顕著に表れている。これらについても、今と当時では違った受け取り方だったのではないかと思います。このあたりも、考察してみるととても興味深かったです。

また、ネット上でのバー「RADIO CLUB」というお店が出てくるのですけれど、ここはネット世界と現実世界を結ぶ場所。要は仮想空間(画面の向こう)と作中を結ぶ場所。バーテンの声を監督である今敏さんと作者である筒井康隆さんがされているところから、世界を結ぶ仲介役という役割を果たしているのかと推測。そうだとしたら遊び心のようなものと、訴えたい何かがあるのだと感じます。

雰囲気はセクシャリティなんですけれど、卑猥ではなくて、でもやっぱりセクシャリティという微妙な塩梅が個人的にはとても好きでした。

見るたびに発見があるから、これは何回も何回もみて、楽しむ映画なのかなと思います。どんどんとそういう映画がたまっているような気がする…。

よもやま話

上映時間は90分と、割と短めの作品なのに、見終えたあとの満足感がすごかったんです。よくこのストーリーを90分にまとめたなぁと。だからといって、展開が雑だとも感じませんでした。テンポよく進んでいくという感じは、むしろ昨今の映画になれた私には心地よくもありました。

調べてみたところ、原作の内容を一部変更しているとはいえ、根っことなるところは忠実だという評価でした(個人的に重要なところ)。原作をそのまま1本の映画にするには、あまりに長尺になってしまう…ということでこれは致し方無いことですね。

そんなわけで、原作の単行本を手に入れまして。ページを見てみたところ、394ページとのこと。ほうほう。近日中に読めたら…いいなと思っています。忘れないうちにね。

今日はこの辺りで❀

 

おでかけ記録・クレヨンしんちゃん聖地巡礼(春日部市 ララガーデン、ぷらっとかすかべ)

クレヨンしんちゃん聖地巡礼をしに、春日部市へお邪魔してきました。前回は春日部駅イトーヨーカドーに。今回はまた別のスポットを巡っていきたいと思います。

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ララガーデン春日部 ゲーセン クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ ブリブリ シネマスタジオ

こちらも春日部駅西口から徒歩5分ほどのところにあるララガーデン。そちらの3階にあるゲームセンターがクレヨンしんちゃんだらけでした!

オフィシャルアミューズメント&ショップということで、いたるところにしんちゃんたちが…!

ゲーセン クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶブリブリシネマスタジオ

入口から可愛いっ!

入口は3か所あるのですが、こちらもすべて看板が異なります。野原一家バージョン。

カンタムロボ、アクション仮面、ぶりぶりざえもんバージョン。私の大好きなぶりぶりざえもんが❀かわいいです!

看板だけではなく、館内にはフォトスポットもあります。野原一家に交じって写真を撮ることもできます。

全てというわけではありませんが、クレヨンしんちゃんになぞらえたアトラクションも。こちらはお子さんたちに大人気のようでした❀

「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」での、あのワンシーンが再現されています。このほか、キャラクタごとの手形足形なんかもあって、テンションがあがりますね❀

歴代映画を見ていると「これは!」ってなるものも!こういう遊び心満載なのっていいですよね。

エリアは大きくわけると3つ。クレーンゲームのあるエリア、グッズが販売されているエリア、メダルゲームエアホッケー・プリクラなどがあるエリアの3つです。どのエリアもクレヨンしんちゃんの映画をコンセプトにした装飾がされていて「あ、ス・ノーマン・パーだ!」とか言いながら見ているだけでも楽しかったです❀

LIBRO(本屋さん)

ララガーデン春日部の中にある本屋さんのLIBROへ。

今、クレヨンしんちゃん双葉文庫がコラボをしているそうです。Xで仲良くさせていただいている方がポストをされているのを拝見しまして。これは春日部の本屋で買いたい!ということで。

www.futabasha.co.jp

双葉文庫が厳選された8作品がクレヨンしんちゃんのカバーになっています。かわいいっ!私が購入したのは坂木司さんの「先生と僕」、浜口倫太郎さんの「お父さんはユーチューバー」。書籍1冊につき、しおりが1枚ついてきます。こちらを2つ並べるとしんちゃんのおしりができあがる…という、かわいすぎるしおりがついています。たまりませんね~

ぷらっとかすかべ

今度は春日部駅東口の方へ。マンホールが藤の絵でした❀

本当は藤の時期に行こうかな…と思っていたのですが、もうすでに散ってしまっていたようで。来年…リベンジするかもです!

東口駅からこれまた5分くらいのところにあるのがぷらっとかすかべ。

春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」/春日部市公式ホームページ

春日部情報発信館ということで、市内の観光情報や特産品などについての情報を発信されています。

館内にはクレヨンしんちゃんにまつわるグッズがたくさん!

かすかべ市のおでかけMAPやスタンプ巡りの台紙をゲット!首都圏外郭放水路にもスタンプがあるので、夏くらいにいきたいなぁ…と検討中。

夫はポストカードを購入していたようで。少しでも春日部市に貢献出来ていたらいいあと思います。

春日部駅 東口

春日部駅は現在工事中ということですが、現在もしんちゃんがちゃんとお出迎えしてくれているようです。駅内の看板にもしんちゃんがいると、「おっ!」と嬉しくなって、つい写真を撮ってしまいます。どれも可愛かったです。

よもやま話

夫と交際するようになるまでは、そこまで深い関係性ではなかったクレヨンしんちゃん。かわいいなぁとか、映画は感動するなぁとかそれくらいの、ごくごくフランクな関係性。

それがいつの間にやら、JR東日本さんで開催されたスタンプラリーに参加したり、映画を全作コンプリートしたり、今回は聖地巡礼をしてみたり。どんどんと、しんちゃんとの距離が近づいているような気がしています。

今年の映画公開ももうすぐ。恐竜がテーマなんですって、きっと感動して泣いてしまうでしょうね。今から楽しみです❀

今回は春日部駅周辺を中心に回ったのですが、市役所などは回れなかったですし、少し離れた首都圏外郭放水路にも行けませんでした。次回、お邪魔するときはそのあたりを回りたいと思っております❀楽しみだなぁ

 

おでかけ記録・クレヨンしんちゃん聖地巡礼(春日部市 イトーヨーカドー)

埼玉で観光と聞いたらどこを思い浮かべるでしょう?川越とか長瀞とか?今回は春日部市にお邪魔いたしました。

春日部と言えば、クレヨンしんちゃんに登場する野原一家がお住まいの街。そんなわけで、クレヨンしんちゃん聖地巡礼をしてまいりましたので、綴っていきたいと思います。

春日部駅

春日部駅を下り立ったら早速!駅名標の上にしんちゃんたちがお出迎えしてくれていました❀

しんちゃんとシロ

アクション仮面としんちゃん

ひまわりちゃん

まずは西口出口から観光していきたいと思います。駅の看板にも❀

駅を出てすぐにも しんちゃんが。こちらは原作漫画の絵ですね。随分と以前からこちらの看板はあるそうです。さすがしんちゃんの生まれ故郷!

イトーヨーカドー

春日部駅西口のロータリを抜けて、5分ほど歩いたところ。

イトーヨーカドーにやってきました。ごくごく普通のスーパーです。クレヨンしんちゃん内では「サトーココノカドー」と名前を変えて度々登場しています。

なんでもお店の看板やレシートが「サトーココノカドー」になるというイベントも過去にされていたそうで。次回開催されることがあれば、私もお邪魔したいなと思います❀

イトーヨーカドーの3階にはクレヨンしんちゃんの特設コーナーが!

シロのお人形が…!超絶かわいいっ…!ちいさなあんよがかわいいですね❀

しんちゃんとひまちゃんも!背景のサトーココノカドーがいいですね❀鳥のマークがコウモリになっています。

こちらでは埼玉県内の観光地の紹介。春日部市のみどころ案内。そして、春日部市の家族都市である、熊本・秋田についての展示もあります。熊本はみさえさん、秋田がひろしさんの実家がある県ということで所縁があるんですね。

色塗りができるスペースもあって小さいお子さんでも楽しめますし、歴代映画のCMが流れているので、大人がみても楽しいスペースでした❀

サトーココノカドークッキー

グッズ販売のスペースも。サトーココノカドークッキーなるものが販売されていましたので、実家に帰省する際のお土産用に購入いたしました。クッキーの表面に野原一家のイラストがプリントされているようです。どんな柄が入っているのか楽しみです❀

次回はまた別の場所で聖地巡礼をしていきたいと思います!

ちなみにこれまでのクレヨンしんちゃん関係はこちら❀

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本・『片をつける』の感想

GW、皆さまいかがお過ごしでしょうか。おでかけをしたり、お買い物にでかけたり。中には長期休暇を利用して大掃除や断捨離をされているって方も多いのではないでしょうか。

今日はそんな”お片付け”にまつわる小説を読了しましたので、感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

片をつける 物語冒頭の詳細

マンションの薄暗い廊下の突き当り、805号室が阿紗の住まい。買い物から帰宅してみると、扉の前には謎の物体が。よく見ると、巨大化したねずみのような老婆がびしょ濡れの恰好でしゃがみ込んでいたのです。老婆は突然の雨に打たれてしまったのだそう。

阿紗はその老婆と会うのは初めてでしたが、彼女が誰なのか知っていました。マンションの契約の際、管理している不動産会社の担当者が言っていたのです。

「お隣の804号室には、ばあさんがひとりで住んでるんですがね。これが相当な変わり者でして。

(P16より引用)

「世の中に対しても人に対しても、とにかくいつも怒っている。不機嫌が服着て暮らしているみたいなばあさんです。つかず離れずっていうより、つかないほうがいいですよ」

(P16より引用)

阿紗は厄介ごとに巻き込まれたくはないと思いつつも、部屋を無くしてしまって困っているという老婆を置いておくこともできません。管理会社の人がくるまで部屋にあげることにしました。

よくよく老婆の話を聞いていると、紛失した鍵はスペアで、部屋の中に本来の鍵があると言います。これ以上、老婆と関わるのは面倒だと思った阿紗は、自宅のベランダから老婆宅のベランダに移動できないかと思いつきます。老婆のベランダを見てみると窓も空いているようです。勝手に眠りこける老婆を置いて、阿紗は老婆の部屋に向かことにしました。

無事、老婆宅のベランダに足を踏み入れてみると、目の前には衝撃の光景が広がっていました。十畳ほどの部屋は足の踏み場もないほど物が散乱し、なんとも言えない臭いが部屋に充満していたのです。

なんとかその部屋に足を踏み入れ、鍵を探しますが見つかりません。老婆はチェストの引き出しの真ん中にちゃんとあると言っていたのに…です。

しばらくチェストの中やあちらこちらを探していたら突然、老婆の低い声が。鍵を開けて扉を開けているのではありませんか。どうしたのか聞いてみると、なんと首から鍵をぶら下げていたというのです。阿紗はどっと疲れてしまうのでした。

 

阿紗はもうすぐ齢40歳を迎えようとしていますが、男性との縁はありません。複雑な家庭環境に育ったため、出産も望んでいませんでした。とはいえ子どもと触れ合わずに歳をとっていくのも寂しい。そんなわけで自宅で子ども達に絵本の読み聞かせをする仕事をしています。

幸い、阿紗には、不労所得がある。

正解でそれなりに名の知られていた母の愛人、つまり阿紗の生物学上の父は、生前、母にこの都内のマンション、三部屋分の所有権を譲った。

三年前に母がなくなり、それがそのまま一人娘の阿紗の物になった。

あれほど嫌っていた男の持ち部屋を譲り受けるのは抵抗があった。だが、これは不幸な生い立ちに対する慰謝料なのだと思い直した。現金な人間だと思う。それでも女ひとり、贅沢しなければ、なんとかやっていけるくらいの保障がほしかった。そんな中で見つけた読み聞かせの仕事だった。業務委託先の会社にしっかりマージンを取られるのでスズメの涙にも満たないほどの収入だ。それでも週に二回、一時間半。近所の子供たちを集めて絵本を読むことに、それなりにやりがいを感じている。

母に絵本を読んでもらった記憶はない。だから、こんなふうに聞かせてほしかったと思うトーンで、大袈裟にならない程度に感情を込めている。

(P32-33より引用)

阿紗の母親は、愛人として我が身を飾ること以外、何もできない女でした。家事も育児もしない。週に1~2回、男が訪ねてくる日はリビングと寝室に散らばっている物全てを阿紗の部屋に押し込めるだけ。阿紗の部屋はゴミ溜めでした。母親のいらないものをすべて押し込んだその部屋で、母親からいらないと邪見にされている阿紗も同様に籠らざるを得なかったのです。

片付けの仕方を教えられることなく社会人になった阿紗ですが、職場の先輩から”片付け”の方法を教えられ、今はきれいで片付いた部屋で過ごすことができています。

 

老婆の部屋から戻り、子ども達に絵本の読み聞かせをしている最中のこと。先ほどの老婆が礼をしに、再び阿紗の部屋にやってきたのです。子ども達に招き入れられ、そのまま上がり込んだ老婆は絵本の読み聞かせが終わり、子ども達が返っても帰宅せず部屋に居座っています。老婆の名前は八重というそうです。

「まぁ、しかし。あんたにも長所はある。まぁ、この部屋を見る限り、掃除はうまい。うちと同じ間取りとは思えないね。絵本を読むより、掃除のほうがうまいんじゃないか」

褒められているのか、けなされているのか。

「それはどうも」

「その長所を見込んでだ、お願いがある」

「お願い?」

思わず身構える。

「実はね」

八重はワンピースの襟ぐりに手を突っ込み、首にかけていた鍵を取り出した。

「これ、預かってほしいんだ」

(P50より引用)

「それと、これからが本題だ。実は昼間にあんたが出ていってから、チェストの中を見たけど、いくら捜しても、あるはずの鍵がないんだ。で、見るけるの、手伝ってほしいんだよ」

不気味な笑顔でこちらもを見る。

「で、ついでに、部屋の片付けも、手伝ってほしい。さっき見ただろ。あのザマだからね。こっちもどっから手をつけていいかわからない」

ゴミ箱をひっくり返したような部屋が思い起こされる。

隣の部屋ではない。

子供時代を過ごした部屋だ。

ゴミの海に浮かぶいかだみたいなベッドの上でヘッドフォンで音楽を聴いている少女。

あの頃、自分も、どうすれば部屋が片付くのかわからなかった。どうすればこのわびしい匂いがなくなるのか、どうすればベッド以外の自分の空間が作れるのか。なんとかしたいのに、なんともできなかった。

(P51-52より引用)

「ちょっと待ってください。どういう論法なんですか、あたしまだOKしたわけじゃ――」

「論法も文法もへったくれもない。きょう、この部屋に来ておもったんだよ、やっぱり、片付いている部屋はいい。汚い部屋は汚いなりに味があるし、落ち着くなんて思っていたけど、とんだ間違いだった。やっぱり部屋はこうでなくちゃ。すっきり片付いて空気まで澄んでいる。この辺がすっとするんだよ」

八重は胸のあたりを撫でた。

「あたしの部屋だって昔はこんなだったんだ」

嘘だ、絶対に。

「だけど、どこでどう間違えたのか、気がつくとあのザマさ。明日こそ片づけよう明日こそって思ってるうちに気が付いたら…。きょうあんたに会ったのは天の思し召しだ。そろそろおもえもいい年だ、万一のときに備えて、部屋の片づけを始めろってね。何度も言うが、あたしも見かけほど若くはない。残り少ない人生、きれいな部屋で過ごしたいじゃないか。流行りの終活ってやつだよ」

(P53-54より引用)

そしてなんだかんだと阿紗は八重に言いくるめられ、半ば強制的に八重の部屋のスペアキーを預かり、マスターキーの捜索と部屋の片づけの手伝いを引き受けるのでした。

阿紗は八重の部屋の片づけを通して、少しずつ八重のことを知ることになります。ペットであるコノハズクのヨハネのこと、実は修道院で見習いをしていたが、分け合って逃げ出してきたこと…。そして同時に、阿紗自身の過去を振り返ることにもなるのでした。

感想

冒頭は少し時系列があちらこちらするので「ん?」となることがありましたが、全体的に小説として読みやすく、起承転結がしっかりしていてとても楽しく読むことができました。

お片付けの方法もわかりやすく、物語に絡めて書かれていて、その辺りも好きなポイントでした❀

何より八重さんのキャラクターがいいですね。憎まれ口をたたきながらも、どこか憎み切れないそんな人。

『殴られたからって、ののしられたからって、あんたの価値が下がるわけじゃない。逆も同じ。褒められたからって、あんたが立派になるわけじゃない。あんたはあんたのままでいい。自由気ままにおやり』

(P169より引用)

そのままでいいよって、なかなか言ってもらえることってありませんから、染みる台詞でした。

気に入ったお片付けポイント と 私の過去回想

私も今は、ミニマリスト的なシンプルな生活をしていますけれど二十代半ばくらいまでは本当に片づけることができませんでした。部屋の中に服の山や飲みかけのペットボトルなんかを放置して…というわかりやすい汚部屋を錬成していたのです。お恥ずかしや。

禅やお片付けの本と出会ったことで今はすっきりとした暮らしができていますが、出会っていなければ と思うと背中がゾワっとします…。

個人的に作中でいいなと思ったお片付けシーンをいくつかご紹介します。

「細かいゴミの分別はあとでこちらがしますから、いらない物はミネラルウォーターの箱のほうに。紙クズとか布きれはポリ袋にいれてください」

分類しすぎないのも、片づけの基本だ。最初から細かく分類しすぎると、「これはどっち?」「どうしたらいいかわからない」と仕分け自体が億劫になってしまう。

「いる、いらないを見極める基準はおまかせしますけど、取っておく物は、ひと目で把握できる数にしてください」

八重は「終活をしたい」と言っていた。人生を畳む準備をしたいのなら、物への執着は極力おさえたほうがいい。

「『これはいる』と思っても、もう一度自問してみてください。『はたしてほんとうにいるのか』と。そこまでして大切な物なら、なぜチェストの底で眠っていたのかと考えてみるといいですよ」

(P59より引用)

お片付け経験者の私としても、まさに基本中の基本であり、すっごく難しいのがここなんです。

いる・いらないの判断は今でも難しいです。意気揚々と初めても、根を詰めすぎるとあとでしんどくなってしまう。最初はざっくり、あとでしっかりの塩梅が難しいんですね。いらないとわかっていても、いまだに捨てられない物も多々…。次の引っ越しではバイバイしようかと思ってはいます。

八重の膝の上には筆記具の山ができている。一日一本のボールペンを使い切るという勉強法を聞いたことがあるが、これから医学部をめざして浪人でもしない限り、すべてを成仏させることはできない。

「ポストカード一枚にスマイルマーク600個。それを四十九枚。29249個書き終えてようやくボールペン一本の寿命が尽きるっていう実験結果を前になんかで読んだことあるんです。ボールペンのインクってそれぐらいたっぷりあるんですよ」

スマイルマークをひとつも書かないままボールペンを死蔵しているほうがよっぽど勿体ない。

(P62-63より引用)

これ、私の実家もなんですけれど、あの大量のボールペンって何なんですかね?文房具を入れいている引き出しには、それはもう山のように筆記具が入っているんです。ボールペン、鉛筆、色鉛筆、シャープペンシル蛍光ペン、マジックペン…それが各種各色ずつとかならいいんですけれど、ボールペンだけで20本、鉛筆だけで30本…ってなると、もう「なんで?」と思うんです。使わないなら処分するか、メルカリにでも出せばと言っても減らずじまい。今度、この話をしてみようかなと思います。

「ふーん、捨てる神あれば拾う神ありだねぇ」

「そうなんですよ。いらないと思った物でも、どこかで誰かが必要としている。そうしてその人がちゃんと使ってくれる。そうやって物のいのちをつないでいくほうが、捨てるより気持ちが楽ですよね。だから、家で死蔵しているくらいなら売ったほうが――」

「はいはい、わかりましたよ」

(P93より引用)

初めての私の断捨離ではゴミ袋は20袋以上を処分し、車で数回の往復が必要な量の衣類やら何やらをリサイクルショップで手放しました。これが結構な金額になりました。その何十倍も無駄遣いしたということです。

こんな無駄買いが抑えられるようになってからも、1~2年に1回くらいはリサイクルショップで物を手放しています。捨てられなかった物をやっと手放せたとか、買ってみたけれど合わなかったとか、理由はいろいろありますけれど。それでも、随分と減ってよかったと思っています。

リサイクルショップやフリマアプリは本当にありがたいものです。私は使い切ることができなかったものを使ってくれる人がいるのは、免罪符のようなそんな気持ちにもなります。ごめんね、ありがとうと。

片づけをしていると、途中で懐かしい物が出てきてしばし作業が中断する。いつまでも思い出に浸っていてはダメだと思い直して再開するが、すぐにまた別の物を見つけ記憶を手繰る。その繰り返しで片づけがなかなか進まないという話をよく聞く。

そんな時間が少し羨ましい。

十八で独り暮らしを始めたとき、荷造りは簡単だった。最低限必要な身のまわりの品と祖母からもらった鳩時計だけを段ボール箱に詰めた。その他の私物は家具以外、すべて捨てた。母と暮らした家には、手にして心が温かくなる物も、振り返りたくなるような思い出も何ひとつなかった。

(P153より引用)

思い出あること、メリットもあればデメリットもあるもの。片づけは確かに捗らないけれど、思い返すことができる思い出があるということはいいことだなと思います。

私は随分と捨ててしまいました。後悔はほとんどしていません。捨てたからこそ解放された柵もありますからね。

ただ捨てるものがないということも、メリット・デメリットあるのだなとしみじみ。

「うまく言えないんだけど、あたしは大きなものを捨てたんです。後悔はしていません。でも、捨てたあとの穴からときどき隙間風がはいってくるんです」

同じ歩幅で角を曲がる。

「だから、なんだってことでもないんですけどね」

「穴は穴さ。小手先のもんで埋めないほうがいい。いつかピタっとした穴塞ぎが見つかるかもしれないし」

(P194より引用)

今、とある大きなものを捨てたくて仕方ないんです。けれどそれを捨てることは、物理的にはできないんです。人間関係で、それはそんなに簡単に手放せる関係じゃないから。捨てることができない、だからこそ距離を置いている。臭い物に蓋をするみたいで、現実から目を背けているだけと言われればそうなのですけれど。

それでもいつか手放す日が来たとき、きっと私は後悔するだろうし、穴も開くと思うんです。そのときのために、この言葉は覚えておかなくてはと思います。

部屋は頭ん中と似ている。あの頃のあたしの頭の中は部屋と同じくらいぐちゃぐちゃで、これが自分の望んでいた生活なのか、考える隙間もなかった。物がないと不安だから買い物がけはやたらとする。それ以外は、何もする気が起きなく、いつもイライラしていた。

そんなときにあんたに出会った。

(P218より引用)

私がミニマリスト的な生活をするようになって、よく言われるのが「なんのためにそんな侘しい生活をするの?」という言葉。

部屋に物が少ない状況は人によっては”侘しく”見えるのだそう。ただ、当の本人は詫びしいどころか、物が溢れかえった頃よりも豊になった気持ちでいます。自分はもうすでに必要な物に満たされている。禅の本には「知足」とか「足るを知る者は富む」なんて表現をされていましたが、そんな状況です。

物が自分のキャパシティーより多くなってしまうと、何処に何があるのかがわからなくて、それはただの障壁になります。物ではなくなってしまう。障壁は私にとってはとてつもないストレスですから、何も考える気もやる気もなくなってしまう。物や周囲の人を大切にしない、そんな私になってしまうんです。

必要最低限の量まで所有物を減らすことで、障壁は物に戻ります。心にゆとりもできますから、どうすべきか考えることができるようになるわけですね。

まとめ

『片をつける』はお片づけの流れについて、結構網羅的に描かれていると思います。お片づけを始めるフランクな導入本になると思います。それに、これからお片づけをされる方のモチベーションアップにもなるのではないでしょうか。

お片づけに興味がありましたら、ぜひ読んでみてください❀

 

映画・「シティーハンター」の感想

普段、Amazonのprime videoとNETFLIXで映画やアニメ作品を楽しんでいる私。実写化されると聞いてから楽しみにしていた作品が公開されましたので、ネタバレ交えて感想を綴っていきたいと思います。

シティーハンター のあらすじ

現代の新宿。相棒の槇村秀幸とともに、有名コスプレイヤー・くるみの捜索という仕事を請け負った冴羽リョウ。その頃、新宿では謎の暴力事件が多発し、警視庁の敏腕刑事・野上冴子も手を焼いていた。息の合ったコンビネーションでくるみを追うリョウと槇村だったが、突然起こった事件に巻き込まれ、槇村がこの世を去る。

現場に居合わせた秀幸の妹・槇村香は、事件の真相を調べてほしいとリョウに懇願するが…。

(映画ドットコムより引用)

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感想

実は私…原作は読んでいません。実家にあったんですけれど、家族が所有していたもので、勝手に読むことはできなかったんですね。

ただ家族がリビングで映画を見ているところに何度か出くわしたことがありました。そんなわけで私がシティーハンターと出会ったのは、アニメ映画だったのです。どの作品かはわかりませんが、子どもの頃に2作ほど拝見しまして。近年でも夫が主人公の冴羽獠の声優をされていた神谷明さんが好きとのことで、「新宿PRAIVATE EYES」は拝見して、冴羽獠のオンとオフのギャップに惚れ惚れしたものです。

シティーハンターのことが詳しいわけではない、でも結構好き!くらいのポジションの私の感想でございます。

 

やぁあああ……、めちゃくちゃ面白かったです。

実写化が決まったときには正直、「え?また漫画原作の実写?やめてよ…」って思いましたよ。でも、でもです!冴羽リョウ役をされるのが、鈴木亮平さんと聞いた瞬間に「いや、それなら絶対面白いやろ。鈴木亮平さんなら大丈夫やな」と思いまして。

楽しみだなぁ、あわよくば海坊主の役はマフィア梶田さんがいいなぁと当時のTwitterで呟いたものです。そうしたらですね、なんと本当にマフィア梶田さんが海坊主役で少しだけですけれど出演されている…!?という情報解禁がありまして。もう、そりゃぁ見なければなりません。そんなわけで急遽みたのでございます。

 ストーリーはリョウと香の出会いから…ということで、終始面白いというわけではありません。かなしいシーンあり、アクションあり、シリアスあり、笑いあり、下ネタあり…あれ?。結構下ネタやセクシーなシーンが強めですので親子でみるのは向かないかもしれませんので、そこだけはご注意を。あと個人的には、敵がもう少し強ければ尚よかったかなって思います。ちょっとどのキャラクターも小物感がありまして。そこだけ、それ以外は本当に面白かったですね❀

冒頭、香のキャラクターが姫ポジであることに違和感がありました。けれど、どんどんと強くなっていき、ラストシーンで今までアニメ映画でみていた あの芯があって強くて、優しくて…でも正直じゃなくて…っていうキャラクターが作られていく。その過程がみれたのも面白かったです。リョウのキャラクターが確立されている分、他で成長をみせるっていうのは個人的にはありだと思います。

もうなにより鈴木亮平さんがね…かっこいいんですよ。冴羽リョウなんですよね。鈴木亮平さんといえば、役柄に合わせた肉体改造が有名ですよね。巨体の男性役のために太ったり、逆に病気を患ってしまった役のために激痩せされたり。もちろん冴羽リョウとしての役作りも完璧で、あの逆三角形の筋肉美…たまらない美しさでした。全裸になるシーンがありますが、どこみても完璧なプロポーション冴羽リョウを演じるにあたって、どれくらい本気か…っていうのが素人目にも伝わってきます。

あとこれは私の勘違いかもしれませんが、ところどころで声もそっくりだったんですよね。特に高音が神谷明さんの獠さんを彷彿とさせて、本当にリスペクトをもって演じられているんだなと思いました。アニメでみていた冴羽獠のオンのカッコよさと、オフのギャップと面白さを存分に楽しめました。

映画をみるぞー!と意気込んでみるというより、もう一段階ラフな感じでみるのが個人的に好きです!下ネタや流血シーンが大丈夫で、何か笑える、けど良いシーンもある…的な映画が見たいという方には おすすめ作品ですね❀

マフィア梶田さんを探せ

そういえば、肝心のマフィア梶田さんが海坊主役で出ているということなんですけれど。1回目はついつい夢中になってしまって梶田さんを探すのを忘れてしまいまして。エンドロールで梶田さんの名前を見て、そうだそうだと本来の目的を思い出しました。

そこでもう一度。2回目は1.5倍速でみましたが、なかなか見つけることができません。これかな?と思うシーンがあったんですけれど判別がつかず。リョウと冴子がADについて話しているシーンで少しだけアニメーションっぽいシーンがあるんですけど、その画面の右側にムクリと体を起こすシルエットがあって、それが海坊主なのでは…?と思っています。

マフィア梶田シン・ゴジラ石原さとみさんのSP役として出ているんですけど、もう唯一無二の存在感なんですよね。あのビジュアルは、他ではなかなかできないです。


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↑右側の坊主頭の男性が梶田さん。ね、海坊主そっくりでしょう?(褒めてる)

マフィア梶田さんの興味のある方はぜひ「わしゃがなTV」がおすすめです。声優の中村悠一さんとの掛け合いが滋味深く面白いですから。なんか普通に笑うというより、じわじわ面白いんですよ。おじさんが二人でプラモ作ってるだけみたいな配信もあるんですけどね、なんか面白くて。噛めば噛むほど旨味が出てくる食べ物みたいなね。