草間彌生《三つの帽子》
この水玉模様を見てピンとくる方も多いかもしれません。
水玉模様の作品をたくさん残し、水玉模様の眩しいくらい派手な服装に身を包んでいるその姿が印象的な、草間彌生の作品です。
ここは福岡市中央区舞鶴。
福岡いちばんの中心部である天神から少し歩いた静かな場所にある「あいれふ」という福岡市健康づくりサポートセンターです。
そこに三つ並ぶ大きな帽子。白地に赤の水玉、赤字に白の水玉、紫地に白の水玉の三種類で、どの帽子もりぼんがついています。
よく見ると帽子の内側は色が反転していてお洒落です。
さらに、りぼんの部分はそれぞれ微妙に模様が違います。
水玉へのこだわり
先に述べたように、作者は草間彌生です。
草間彌生と言えば水玉模様の作品がたくさんあります。
特に有名なのは黄色に黒の水玉模様が配された大きなかぼちゃでしょうか。
直島にあるものがよく知られていますが、福岡市美術館の前にもあります。
しかし、それだけに留まらずあらゆる作品に水玉模様が描かれています。オブジェだけでなく、絵画やインスタレーション作品など単に水玉模様を描いている作品だけではなく、丸い物体をたくさん置いて水玉に見立てたり(《ナルシスの庭》)、たくさんの電飾が水玉のようだったり(《無限の鏡の間-愛はとこしえ》)、水玉から不気味な作品やポップな作品まで生み出されています。
では、彼女がこんなにも水玉にこだわるのはなぜなのでしょうか。
もとは彼女が幼少のときに視界が水玉や網目に覆われるなどといった幻覚体験から、それを絵に描くことによって彼女の水玉模様が生まれたと言われています。
しかし、わたしが思うに、それは単なるきっかけに過ぎず、その水玉というモチーフを発見して、それを活用した作品が思いがけずおもしろかったということではないでしょうか。
なぜ帽子をモチーフにしたのか?
今回のこの作品ではなぜ帽子がモチーフに選ばれたのでしょうか。
ちなみに、帽子の作品はこのオブジェだけでなく版画でも何枚か作品を残しています。さらに言うなら帽子だけでなく靴や洋服にも草間は水玉模様を取り入れ作品にしています。
わたし自身も大好きですが、水玉模様はファッションと非常に相性が良いです。
草間自身も水玉模様の派手な洋服で登場することが多く、それが彼女のトレードマークでもあります。
最近で有名なのは草間彌生とヴィトンとのコラボレーションではないでしょうか。
ショーウィンドウで華やかな水玉模様の服や鞄、お財布を身につけたマネキンを目にしたことがある人も多いかもしれません。
水玉模様のひとり歩き?
草間の華やかな水玉模様が有名になるにつれ、水玉模様を美術作品にしたいからそれを中心とした活動をしているというよりも、消費者へのウケがいいから作品にしているように見えてしまうこともあるかもしれません。
ヴィトンのような有名な商品とコラボレーションし、奇抜なかぼちゃで景観を彩り、そのポップさゆえにアートと言うよりはデザインではないか?と感じてしまうのではないでしょうか。
華やかでかわいらしいようで、でもどこか不気味なのが草間作品の魅力なのに、単なるデザインとしての水玉になってきているのが少し寂しい、とわたしも実は感じていました。
しかし、そんな考えは近年の草間の作品を見ていたら吹っ飛んでしまいました。消費者へのウケが良い作品は草間作品のほんの一部であり、最近ではさらにおもしろい作品をたくさん制作しています。
『別冊太陽 草間彌生 芸術の女王』に記載されている草間の世界各国での展覧会の様子はとても華やかであり、実際にその場で見てみたい作品ばかりでした。
80歳を超える草間が、商業主義に走らず、いまもなお新しい作品を作り、展覧会を開く姿を見て、「水玉がウケたからいろんな商品とコラボして…」と単純に感じていた自分が恥ずかしくなりました。
個人的には草間の作品は絵画よりもインスタレーションがとてもおもしろいので、ぜひ一度見てみたいです。
草間彌生経歴
1929年に長野県松本市で生まれました。
先に述べたように幼少期から幻覚や幻聴を体験し、水玉や網模様の絵を書き始めたそうです。
1957年にはニューヨークで活躍し、インスタレーションや過激なパフォーマンスも行っています。
1973年に帰国し、東京で版画や小説を制作し、1993年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表に選ばれています。
近年は大型のインスタレーション作品を中心に制作しているそうです。
参考文献
バリー・フラナガン 《ミラー・ニジンスキー》
踊る野うさぎ
福岡の百道浜の川にかかる橋の両端に一体ずつ今回の彫刻は設置されています。
今回掲載している写真の上2枚と下2枚は別の彫刻です。とはいってもほぼ左右対象の同じ形をしています。
片足でいまにも飛び立ちそうな、人間のようにも見えますが、大きな耳からうさぎだと判断できます。
手も足も胴体も細く、とても軽やかな動きをしています。手と足が左右長さも違う上にうねうねしていて、とても躍動感が出ています。
Vatslav Nizhinskii
タイトルが《ミラー・ニジンスキー》となっていることから、この作品は鏡に映るかのように彫刻が左右対称に作成されています。
ニジンスキーは、1890年から1950年に生きたロシアのバレエダンサーで振付師です。
彼が関わったバレエ作品は多数ありますが、バレエにあまり詳しくないわたしが印象に残っている彼の作品の中に、ドビュッシーの管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」による『牧神の午後』があります。
Nijinsky and Rudolph Nureyev L'apres midi d'un ...
この振付はとても性的で、現代のわたしにとってもかなり衝撃的でしたので、ニジンスキーの振付は当時もっと騒がれたことが想像できます。
フラナガンと野うさぎ
フラナガンはニジンスキー作品を見て、その動きを兎で表現したいと思ったのでしょう。というのも、フラナガンは野うさぎをモチーフにした作品をバレエに限らず多く制作しているからです。
ボクシングをしたり、歌を歌ったり、フラナガンはうさぎを人間のようなさまざまな動きを表現しています。
そもそもわたしたち日本人にとってうさぎといえば「ウサギ」としか言い表せませんが、英語では"hare"と"rabbit"の二種類あります。
"hare"は野うさぎで大型で平地に住み、"rabbit"は飼いうさぎで地下に住むそうです。
フラナガンのうさぎシリーズは野兎シリーズと呼ばれており、大地を駆けまわるような姿で表現されています。
うさぎと言えば日本では月の中で餅をつくうさぎが思い浮かびますが、他にもアリス物語のうさぎなど、うさぎは多くの物語に登場します。
おもしろいのはうさぎと月との関係は共通していて、フラナガンも月とうさぎが一緒になった作品を制作しています。
フラナガンがうさぎを一連の作品として制作するようになったのは、ある日フラナガンが車を運転しているとき、たまたま垣根の向こうを走る野うさぎと、それには気がつかない父親と子どもと犬の姿を見て、「これは自分のオリジナルなものとして再現できる体験だ」と思ったことがきっかけらしいです。
Barry Flanagan
バリー・フラナガンは北ウェールズのプレタティンで生まれました。
彼はバーミンガム大学で建築を学び、1964年にロンドンのセントラル・セント・マーチンズで彫刻の資格を取っています。
野兎シリーズについて、彼は1979年に最初のうさぎの作品を制作しており、1980年代初期に多くの作品を残しています。
1983年には一角獣の作品も残しており、うさぎだけではなく馬、単に動物というだけではなく、神話的な要素にも関心を持っているようです。
2011年にテイトではバリー・フラナガンの1965年から82年の作品を公開しています。
参考文献
『美術手帖』美術出版社、1983年7月号
『美術手帖』美術出版社、1985年12月号
参考サイト
THE ESTATE OF BARRY FLANAGAN/BRIDGEMAN ART LIBRARY
中村晋也 《春を奏でる》
春の妖精
福岡の西鉄天神駅のそばに、福岡に住む人ならおそらく誰でも知っている警固公園という公園があります。
天神の中心部の公園で、クリスマスシーズンのイルミネーションは有名です。
そんな公園に佇むのが、中村晋也作《春を奏でる》です。
裸体の羽が生えた女性はおそらく妖精で、バイオリンを奏でています。
タイトル通り、春の訪れを迎えているのでしょうか。
腰をくねらせてバイオリンを演奏する姿は大きな動きで生き生きとしており、女性の表情は真剣そのものです。
※今回の写真はクリスマス前に撮影したものであるため、彫刻の背後にある黒い布で覆われたものはクリスマスイルミネーションの設営中のものです。
中村晋也と祈り
作者の中村晋也は宮城県にある文化体育センター「ホワイトキューブ」にも、作品を二つ置いています。
タイトルは《春に奏でる》と《春の調べ》となっていて、今回の作品と同様、裸体の羽が生えた女性が楽器を奏でています。
また、彼の作品で有名なのは、大レリーフ《愛の国伝説》、そして《薬師寺十大弟子》などがあり、神や人間、仏などに深い関心を抱いていることがわかります。
個人的な感想ですが、上記の作品はインターネットや図録で見ただけでも迫力があり、わたしは大変感銘を受けたので、いずれ是非本物を見に行きたいと思っております。
中村晋也自身、長年にわたって「神とはなにか?」「人間とはなにか?」「仏とはなにか?」を考え続けてきたと述べており、その考えが作品にも現れ出ていると感じました。
また彼は、「子どものときに体験した戦争や淡路大震災などを通して突き動かされた祈りや鎮魂の思いは今も変わりません」とも述べていて、今回の《春を奏でる》は中村晋也の思いを考えると、まさに精霊が人間に祈りを捧げているようにも見えました。
作者の経歴
中村晋也は1926年に三重で生まれました。
1966年にフランスに留学し、アぺル・フェノサに師事しています。
また、1949年に鹿児島大学に勤務したことによって、鹿児島との縁ができ、作品作りの拠点を鹿児島にして活動されています。
鹿児島駅を降りるとすぐに、彼の作品である《若き薩摩の群像》が出迎えてくれますし、中村晋也が制作活動をしているアトリエのそばには中村晋也美術館もあります。
1000点を超える作品群があるらしいので、こちらにはぜひ足を運んでみたいと思います。
参考サイト
公益財団法人中村晋也美術館
http://www.ne.jp/asahi/musee/nakamura/index.html
『いぬはりこ通信vol.12』2010年、ジャクエツ
http://www.jakuetsu.co.jp/jkmagazine/documents/inuhariko12.pdf
オシップ・ザッキン 《恋人たち》
黄金の恋人
背の高い方が男性で低い方が女性でしょうか。
全身が金色で輝いた二人の人物が手を取り合って肩を寄せています。
しかし、身体はカクカクと無機質に表現されています。しかし、お尻や太ももよあたりは腕や胸のあたりに比べるとふっくらと表現されています。
彫刻のまわりは花で囲まれ、彫刻自身も金色で、人通りも多い場所なので、とても明るい印象です。とは言うものの、パブリック・アートの宿命なのか、この彫刻に目を留める人は誰もいません。
福岡に滞在の方であればご存知の方も多いかもしれませんが、この場所は宝くじの販売場所で当たりがよく出ると有名なところです。
六枚目の写真、彫刻の裏側(道路側)に
この彫刻は宝くじの普及宣伝事業として設置されたものです。
と書かれています。
彫刻が黄金なのも、幸せそうな恋人が題材なのも、「宝くじの宣伝」という目的のためかもしれません。
ザッキンとその時代
この作品はオシップ・ザッキン《恋人たち》という作品で1955年に制作されました。
この時代は、黒人彫刻の影響を受けたモディリアーニや、キュビスムのピカソが活躍し、彼の作品にもその様子が表れています。
特にこの頃のキュビスムの彫刻は、絵画と同じように、大胆に対象を解体し、再構成して、構成主義や表現主義にもつながる新しい造形表現をもたらしました。(高階秀爾監修『西洋美術史』2007年、美術出版社)
また、キュビスムの絵画が立体的な対象を平面化したのに対し、キュビスムの彫刻はその過程を逆にたどり分析したものを立体化しようとしており、このことは彫刻の伝統的な概念を壊すほど革新的であったといいます。(末永照和監修『20世紀の美術』2013年、美術出版社)
経歴
オシップ・ザッキンは1890年にロシアのスモレンスクで生まれました。
1909年にパリに行き、「エコール・ド・パリ」の画家たちと親睦を深めました。
このときにキュビスムにも触れています。
1940年に戦争でアメリカに渡っていますが、4年後にはパリに戻ってきています。
彼は彫刻の素材のなかでも特に木が好きだったようです。
モンパルナスに残る彼のアトリエには、木の彫刻がたくさん展示されているとのことでした。
わたしは実際に見たことはありませんが、写真でみる限り、滑らかな木で制作された女性の裸体像が今回の作品とはまた違って、比べてみるとおもしろいかもしれません。
参考サイト
Zadkine Reserch Center http://www.zadkine.com/
柳原義達 《道標・鳩》
風景に溶け込む鳩の彫刻
福岡銀行本店広場、というよりは広場の脇のほうにひっそりとこの彫刻は潜んでいます。
小さな彫刻で、実際の鳩よりひとまわり大きいぐらいです。茂みに紛れてよほど意識していないと気がつかないかもしれません。
石の上なのか木の上なのか地面の上なのかはわかりませんが、台座の上に足を溶け込ませるように鳩がとまっています。
著者が日頃公園でみかける鳩とは違って、尾羽がふわりと広がっています。この作品では、クジャクバトという種類の鳩をモデルとしていたそうです。
鳩のモチーフ
それにしてもなぜ鳩を作品のテーマに選んだのでしょうか。変わった鳥を選ぶのではなく、そしてその鳩をデフォルメすることもなく、そのままの姿を表しているようです。
鳩は日本では神の使いとして神社やお寺の庭で飼われていました。また、中国では鳥を放つと幸福が訪れるという民間信仰があり、祭事や祝い事のときには鳩を放つ習慣があったそうです。そしてキリスト教では聖霊を表しています。
しかし現代に生きるわたしたちにとって鳩といえば、こういった神聖なイメージよりも、もっと日常的な穏やかな存在ではないでしょうか。
作者の柳原義達もこの後に示す彼の言葉からそのように感じていたことがわかると思います。
<道標>シリーズ
作者の柳原は《道標・鳩》という作品をたくさん残しています。その他にも《道標・鴉》という作品もたくさん残しており、どちらも日常よく見かける鳥を異なった表情で表しています。
彼はなぜこのような日常よく見かける親しみやすい鳥を制作対象に選んだのでしょうか。
彼の著書では以下のように述べられています。
私は今、主題「道標・からす」、「道標・鳩」を制作しているのも、「みちしるべ」として私の歩んだ道に目標をつけて、私なりの人生に置きかえているつもりである。野仏やお地蔵様を路傍でみかけたとき、それを建立し、拝み、親しんだ人たちのそれぞれの時代やその景観が美しい詩的な空間図となり、道標ともなって私たちをよろこばせる。そのような道標を積重ねて、二度と私というものを見失わないためにも「道標」という主題は意味がある。
柳原は作品を通して、普段は意識していないけれど、自分が日頃お世話になっている人や周辺にある自然、社会を表現しようとしているのかもしれません。
<道標>シリーズに至るまで
<道標>シリーズを制作する前に、柳原は《犬の唄》という作品を残しています。
「犬の唄」は、普仏戦争敗戦後のフランス人が、ドイツ人に対して、ちんちんをして媚びながら、内心は咬みつきたい抵抗の心情を歌ったシャンソンです。
この「犬の唄」を歌う光景を、エドガー・ドガが《カフェ・コンセールにて。犬の唄》として、美しいパステル画に描いています。
柳原は、その自虐と抵抗の心情を、ちんちんをする若い女性のポーズに託して、《犬の唄》を制作しました。
柳原自身も《犬の唄》は抵抗する自身の気持ちを表現したと述べており、この抵抗する気持ちが<道標>シリーズにつながっていきます。
抵抗行為が自己を存在させ、位置づける。この「孤独」の世界をつくりつつ、自分が生きている意義をたしかめるのである。自分の行為に記号をつけて私の孤独とその影に安らぎを得られるならば、そこから次へのみちしるべになって歩めるだろう。
柳原は戦争を経験し、《犬の唄》を制作し、とても疲れていたのではないでしょうか。抵抗と孤独な気持ちから安らぎを求めるようにこの《道標・鳩》を制作したのではないでしょうか。
柳原義達
柳原義達は1910年に神戸市に生まれました。
東京美術学校彫刻家に入学し、戦後1953年からパリで彫刻を勉強しています。
1958年に高村光太郎賞を受賞し、2004年に94歳で死去しています。
<道標>シリーズの他にも裸婦像やデッサンを多く残しています。
参考文献
柳原義達『孤独なる彫刻』1985年、筑摩書房
参考サイト
三重県立美術館
ナム・ジュン・パイク 《Fuku/Luck,Fuku=Luck,Matrix》
整然と並ぶテレビ画面
キャナルシティ博多の正面玄関から中に入ると一番最初に飛び込んでくるのが今回の作品です。
縦10台、横18台のTVモニターがずらりと並んでいます。デジタルではなくブラウン管です。
著者がキャナルシティがオープンして初めてこれを見たとき、実はアート作品だとは全然思っていませんでした。まるで監視カメラの映像のような雰囲気を出しています。インパクトはあるのですが、「各階の監視映像を流しているのかな」と錯覚してしまうほどキャナルシティの入り口に溶け込んでいます。
画面の映像はいろいろ変わります。映ってない画面もあるのはわざとなのか節電なのか壊れているのか。もしかしたらこれも演出なのかもしれませんね。
映像は様々です。人の顔や唇やお弁当など、映りが良いわけではなのでなかなか特定するのも難しいです。
今回著者が撮影した写真を見るとわかりますように、ただ映像を流しているのではなく、歪んだ映像を使っているようです。
ひとつひとつの映像がどうこうと言うよりは、いろんな国とか文化とかがぐっちゃぐちゃになって歪んでテレビというデジタルに集約されてしまった雰囲気が出ています。
しかしキャナルシティというお洒落なショッピングセンターの雰囲気のせいか、妙にポップで風景に溶けこんでいます。もしこの作品が展示室の真っ暗な部屋に飾ってあったらかなり不気味ではないかと思われます。
ビデオ・アート
この作品はナム・ジュン・パイクの《Fuku/Luck, Fuku=Luck, Matrix》です。
ナム・ジュン・パイクはビデオ・アートの創始者と言われています。
ビデオ・アートとは、その名の通りビデオ媒体を使った芸術表現です。1960年代にナム・ジュン・パイクによって創始され、その後ビデオシステムが発展して低価格化するとさらに広がっています。
ビデオ・アートが生まれた背景には、まずパフォーマンス・アートがあると言ってもいいかもしれません。パフォーマンス・アートでは人間の身体や動きが重視されていて、特に非言語的な特性に重点が置かれています。
なかでも「ハプニング」と呼ばれる偶然の芸術を音楽で表現したジョン・ケージにパイクは大きな影響を受けています。
早くから「ハプニング」や電子音楽に触れてきたパイクだからこそ、テレビという新しい媒体にすぐに反応できたのかもしれません。
今回の作品はさらに180台のモニターを使用するというとても規模の大きな作品です。
パイクはこの作品以外にも「ビデオ彫刻」として《TVブラ》や《TVチェロ》といったテレビ自体を素材として作品にしています。
《Fuku/Luck, Fuku=Luck, Matrix》もテレビ画面に映る映像というよりもその規模の大きさやさまざまな色がピカピカ光るその感じそれ自体を作品としているのではないでしょうか。
タイトルの《Fuku/Luck, Fuku=Luck, Matrix》意味はなんでしょうか。
わたしが考えたのは”Fuku”は「福岡」のことで、"Luck"は「幸運」、”Matrix”は「母体」という意味だから、福岡を生み出したのは、様々な文化(主にアジア)であって、その幸運を表しているんじゃないかということです。
インターネットで彼について調べていたらこの作品の動画が出ていたのでそれも載せておきます。
"Fuku/Luck,Fuku=Luck,Matrix" — ナム・ジュン・パイク ...
しかしこちらの作品は、制作当初がどうであったかはわかりませんが、何も映っていない画面が多数あります。
節電なのか、壊れたのか、わざとなのかはわかりませんが、デジタルテレビが普及した今となっては、この少し古びたブラウン管が妙な味わいを見せています。
何もついていない画面があるのもまた良いのではないかと。
しかし「壊れたのそのまま放置してるのかよ」と思われる不安もあります。
ナム・ジュン・パイクは1932年に韓国のソウルで生まれました。
1956年に東京大学文学部美学・美術史学科を卒業し、20世紀音楽を学ぶためにドイツに渡っています。
1964年にはニューヨークに活動の場を移し、1977年にはビデオ・アーティストの久保田成子と結婚し、この年からハンブルクで教鞭をとっています。
そして2006年にアメリカで死去しました。
ビデオ・アートという一大ジャンルを築きあげ、いまもなおキャナルシティの入り口を現代的な印象にしてくれています。
この記事をきっかけに監視カメラの映像ではないということに多くの人に気がついてもらいたいものです。
参考文献
福岡市美術館『ナム=ジュン・パイク展』1994年
松永真 《おかえり》《大きな一歩》《顔が西向きゃ尾は東》《見晴し台》《平和の門》
天神西交差点広場にあるシリーズ作品をご紹介します。
全部で5点あります。
まずはひとつめは《おかえり》。
『帰る』と『カエル』をかけているんでしょうね。
笑顔のカエルがお出迎えしてくれています。
《大きな一歩》
大きな一足の赤い靴。ギザギザ模様が特徴的です。
《顔が西向きゃ尾は東》
青い色のキリンです。
撮影した時間は木の影がキリンにかぶさり、それが作品の印象をより良くしていました。
《見晴し台》
一見すると抽象的な形でなにかわからないかもしれませんが、タイトルをみるとそれが椅子の形を表していることがわかるのではないでしょうか。
《平和の門》
ここまで紹介した《おかえり》《大きな一歩》《顔が西向きゃ尾は東》《見晴し台》すべてが集合しています。動物も、人間も、モノも、すべて一緒になった《平和の門》は見ているこちらの気持ちも笑顔になるようなあたたかい作品です。
松永真の昼の顔と夜の顔
この一連の作品は松永真の作品です。松永真という名前をデザイナーとして認識している、あるいは名前を知らなくても彼のデザインを見たことがある人は多いと思われます。
阪急百貨店のショッピングバッグ、ティッシュ『スコッティ』のパッケージ、西友・バンダイ・カゴメ・カルビーのロゴマークなど、彼はグラフィックデザイナーとして多くの場で活躍しています。
そんな彼がアートの世界にやってきたのは《メタルフリークス》シリーズが最初です。
このシリーズを彼が制作しだしたきっかけは、富山県高岡市で1986年から「工芸都市高岡クラフトコンペ」というデザインコンペが開催されており、1990年から彼が審査員を務めるようになったことです。
そこでつながりが生まれ、高岡市の鋳物会社の社長からブロンズ彫刻制作をもちかけられたことからこのシリーズは始まりました。
フリークとは「気まぐれ、酔狂、自由気まま」といった意味です。
松永真は以下のように述べています。
デザインの仕事が理性と客観を要求される昼間の仕事とすれば、フリークスは直感と本能が解放される夜の世界と言えるだろう。
(松永真『グラフィック・コスモス-松永真デザインの世界』集英社、1996年)
彼が制作する《メタルフリークス》シリーズは動物や人間などさまざまなものをシンプルに、そしてユーモラスに制作しています。今回の作品もこの《メタルフリークス》シリーズに共通する作風です。
松永真も述べているように、彼はデザインというある程度制約があることから自由になってこの一連のシリーズを精力的に作り上げています。
わたしは彼の有名なデザインを知っていても彼の名前は知らなかったのですが、これはデザインが匿名性を重視しているからだと思われます。それとは逆に彼はこのフリークス作品で自身のサインを大きく作品に取り入れ、強調しているようにすら見えます。
松永真はもしかするとデザインでは出すことができない自分の思い、自分の名前、自分の存在、そういったことを伝えたかったのかもしれません。
鉄板フリークス
松永真は《メタルフリークス》シリーズに引き続き、《ペーパーフリークス》シリーズを制作しています。
《メタルフリークス》が立体作品で、《ペーパーフリークス》が平面のドローイング作品ということになります。
そしてさらにそこから展開したのが《鉄板フリークス》シリーズです。今回ご紹介している作品たちがこの《鉄板フリークス》シリーズのひとつになります。
この《鉄板フリークス》シリーズの最初の作品はハービス大阪にあります。この作品は実は最初はブロンズで制作するはずだったらしいのですが、予算が許さなかったために鉄板を紙のように切り抜くというアイデアを思いついたとのことです。
こういったローコスト化のための策が愛らしい作品を生み出したというのはおもしろいことですね。
《おかえり》《大きな一歩》《顔が西向きゃ尾は東》《見晴し台》《平和の門》という一連の作品は福岡市の「天神西交差点歩道広場パブリックアート」の指名コンペで採用となったものです。これはゴミや自転車が放置されている小さな歩道交差点を「市民の憩いの場に変えたい」という趣旨で福岡市が始めた企画です。
わたしは朽ち果てた状態のこの広場は見たことはありませんが、現在ではたくさんの草花が植えられ、松永真の作品たちが明るく笑いかけてくれて、人通りも多くてにぎやかで、とてもおだやかな雰囲気になっています。
緑、赤、青、黄色、黒、彼の作品のカラフルな色合いがさらにこの小さな広場を明るい雰囲気にしてくれているような気がします。
松永真について
1940年に東京府で生まれ、第二次世界大戦中から戦後の幼少期を福岡県筑豊地域、次いで京都で過ごしました。1964年、東京藝術大学を卒業し、同校卒業後、資生堂の宣伝部に勤務、1971年に独立し、松永真デザイン事務所設立しています。
先にも述べたように、彼はグラフィック・デザイナーとして多くの場で活躍しています。
デザイナーとしての経験と、それに反発、自由に作りたいという思いから、彼のパブリック・アート作品は制作されたのかもしれません。
参考文献
松永真『松永真、デザインの話』アゴスト、2000年