ほめて育てる!明るく楽しく愛情にあふれた子育てを

子供たちと明るい未来の為に、そして自由な人生を送るために

世界はすべて愛で救えるのではないか

【愛は地球を救う】
若いころはなに臭いことを言っているんだって思っていた。 でも自分が中年に差し掛かり、人生の折り返しが見えてきたら、 【愛は地球を救う】という言葉が、自分になじんでくるようになってきた。

私の周りには愛が満ちている。 溢れるばかりのとは言えないところもあるが、私は日々人々から愛を受け取っている。 愛というと大げさな表現かもしれないけれど、大げさで構わない。

特に大きな愛は子供たちから受け取る愛。 私はその笑顔を見たいから、たくさん愛を与える。 この子たちが大人になった時に、愛する人に愛を与えられる人になってほしい。

小さな愛だって日常にはたくさんある。 人からたくさんの愛を受け取っている。 そんな愛がたくさんあるから、自分に何があっても大丈夫だって思えるんだと思う。

自分がもっとたくさんの愛を与えられる人間になることで、 自分の周りにももっとたくさんの愛が溢れる。 愛が愛を呼び、大きくなれば、地球は愛であふれるようになる。

戦争も貧困もなくなり、みんなが愛で満たされ、 幸せになる。

少しでも世界が平和になるように。 愛を与える。

LIONライオン~25年目のただいま

今日昼で仕事を切り上げて、家でDVDを見ていた。
こうでもしないと、普段は子供たちの騒々しい声とドタバタに邪魔されて、
ゆっくりDVDなんて観られない。

観たかった映画があった
「LIONライオン~25年目のただいま~」
実話。
ネタばれはなるべくしないようにしますよ~
結論から言うと、とてもいい映画だった。
号泣した。
昼間から号泣したせいで、保育園のお迎え目が腫れてしまって大変だったけど。

インドでは年間8万人以上の子供たちが迷子になる。
迷子になるって日本にいると想像できない。 だって日本ではたった一人の子供がいなくなってしまったって、新聞・テレビのメディアや警察も懸命になって探してくれる。 それが普通。当たり前に思っている自分が恥ずかしくなった。

インドではスラムに暮らす子供たちもたくさんいて、小さいころから労働や手伝いをしていることも珍しくない。 少しでもお金になるようにと危険な仕事や遠出することもあるんだ。
路上生活したり、人さらいや強姦、犯罪等に巻き込まれる子供たちもたくさんいる。
孤児院に入れたとしても、この主人公のように運よく養子として縁があればよいが、
そうではない子はどうなるのだろう。

インドに限ったことではない。
これが世界。
これが現実。
私たちは恵まれすぎていて、そういう現実を目の当たりにするとうまく受け入れることができない。
でも恵まれている私たちだからこそ、なにかできることがあるのではないだろうか。

なにができるのだろうか。 映画観ました、とても良い映画でした。 いろいろ考えさせられる映画でした。 それだけで終わってしまってよいのだろうか。

私にできることはないだろうか。 世界で苦しんだり、辛い思いをしている子供たちのために。

貧困などを支援する団体に寄付することはできる。 窓口を探して。 私たちにとっての少額でも寄付することが出来れば、 その少額は彼らにとって高額の価値があるのだから。

寄付は素晴らしい。
ただただ素晴らしい。

多くの人にこういう現実があるということを発信することはどうだろうか。 現地に行くことはできない。
でもここで知りうる情報を発信することならできる。
発信しよう。
現実を。
想いを。

気はながく、勤めは堅く、色薄く、食ほそうして、心ひろかれ

気はながく、勤めは堅く、色薄く、食ほそうして、心ひろかれ ~天海~

生きる基本。シンプルですが、なかなか奥が深いです。 たったこれだけ。 でもこれがうまくいかないがゆえに、人と人の間でトラブルが起きるのです。

現代は豊かになって、便利になって、どんどん進化しているように思いますが、どうしてか人々は昔よりも忙しそうで、心に余裕がなくて、イライラしているように思います。

時代の流れとともにライフスタイルが変化していくことは、仕方ないことです。その流れの中で、トレンドや情報をうまく取り入れていくことも大切です。

ただ一度何も考えずに、目を閉じて呼吸してみてください。 自分は毎日急ぎすぎていないかな。 自分の事だけじゃなくて、他人の事を思いやれる心の余裕はあるのかな。

自分の人生において、大切にしたいもの常に心においておけるように。

子供の世界は無限に広く、可能性に満ちている。

子供の世界を理解するのは大変なことだ。
自分がかつて子供だった頃なんてすっかり忘れて、
なんで?どうして?の繰り返し。

一本道でさえ、まっすぐ歩かない。
これだけやってと言っても、それだけやらない。

あまのじゃく。
先回りしてしまいそうになる。

そこで一旦立ち止まる。黙る。
結構しんどい。でも耐える。

子供は子供なりの感覚で、物事をきちんと見ている。
大人が気が付かない視点も細やかにみる能力がある。

なにげなくやっていることでも、わざとやっていることでも、
なぜそれをやっているのか、なぜそんなことを聞くのか。

子供のなぜ?どうして?に答えるためには、
大人が子供に対してなぜ?どうして?を子供の目線で理解しないといけない。

子供たちの心は、大人の時間で計ってはいけない。
子供の時計は、大人が思っているよりも、もっとゆっくり進んでる。
待つ。黙る。見守る。

推察と沈黙。
よく観察し、焦らず待つ。

好きな人、嫌いな人。

うちの小1の長男は、気持ちをため込んでしまうことがある。それが溢れ出して、涙にかわることがよくある。

昨日も夕ご飯を食べているとき、いきなり泣き出した。

夕飯は冷たいお蕎麦にした。大皿にお蕎麦を盛り、子供たちも上手にお蕎麦を自分のお椀に移して食べていた。途中でお蕎麦が皿の半分に偏り、下の子が取りにくくなってしまった。 それを上の子が面白がって、余計に皿の位置を自分のほうに引いて取りにくくした。

「弟はお蕎麦食べたいのに、こんな風に意地悪されてうれしい?」上の子に聞いた。

隣で上の子が必死に泣くのをこらえている。そんなにきついこと言った??って感じで見ていると、どんどん口がゆがみ、もう涙をこらえきれなくなっている。

今日の言葉、そんなに心に沁みたのか??なんて少しうれしく思っていると、いきなり「わ~ん!!!」と激しく泣き始めた。

ん??何かが違うぞ。これは何かあったのか。「どうした?」と聞くと、「ママはいつも人にされてうれしいと思うことをやれっていうけど、学童の男の子は僕がされてうれしいこと、してくれない」。。。

まあ、確かにね。小学生同士、特に男の子同士って、結構遊びが激しいからな。言葉遣いもヒートアップしてくると、荒れてくるし。 いちいち「大丈夫?」「痛かった?」「少し休もうか?」なんてままごとみたいなことしないよね。

でもそれが子供と子供の関係。その中でたくさんの事を学ぶ機会。だから自分で答えを見つけなくてはならない。

「学校も学童もいろんな子がいるよね。好きな子もいれば、嫌いな子もいるでしょ。それが普通。ところで嫌いな子って、いるの??」

わざと聞いてみた。
しばらく考えていた。
ジーっと考えていた。
そして「いない」
そして「ママは?」。。。

困った。。。私もしばらく考えてみた。
ジーっと考えたみた。
そして「いる」
「嫌いな人でも、好きなところはある」(若干必死)

また考え出した。「やっぱりいる。でも、今度ママみたいに嫌いな人の好きなところ探してみる」

そして今日も楽しそうに学童に行った。

人間はみな、欲の病人です。

人間はみな、欲の病人です。 ~アルボムッレ・スマナサーラ

人間の欲が大きくなれば大きくなるほど、トラブルが増えたり、戦争がおきたり、世の中の歯車が狂いだします。

人間が人間らしく、お互いを尊重しながら共存していくために必要となるのは最低限の衣食住、そして人間社会で生きていくための労働。もう少し豊かになるために望むとしたら、恋人や家族です。

自分だけ得をすればよい、自分だけ金持ちになればよい、自分だけ恵まれればよいと思いながら生きることが当たり前になってしまうと、 学歴、仕事、収入、家、車、貯金こういう物差しで人間の価値を計るようになります。

特に日本は高度経済成長で豊かになり、先進国として他の国と肩を並べられるくらい成長してきたので、 このようなステータスが蔓延しているように思えます。

勉学に励みたい、研究をしたい、このような向上心とは別に、日本の教育制度自体にも問題があると思います。 点数、順位、評価、こういう基準がそろわないと、日本ではなかなか認められないのです。

成績優秀で、いい学校を受験して、いい大学に進学して、目指すべき会社に入り活躍している人たちの中には、 志高く人格者で広い視野を持ち、素晴らしい方もたくさんいます。

だけど競争社会で、人と比べて人を蹴落としてのし上がってきた人の中には、ゆがんだ価値観を持ってしまっている人が少なからずいるのが現実です。

常に他人と比較して優劣を決めるというのは、なんとも寂しい価値観ですね。

本来人間の価値とは、所有しているものによって左右されるものではありません。

わたしはいっさい批判をしません

「わたしはいっさい批判をしません」
わたしは 人にしてもらいたいことしかしない。
人に対する思いやりや受け入れる気持ちは
そのままわたしに はね返ってくる。
~ルイーズヘイ~

私は常に人を癒し、心に灯をともせるような人間になりたいと思っていますが、 まだまだ人のお手本になれるような、立派な人間ではありません。
そして私の周りにいる人たちの中には、もちろん尊敬できる方もたくさんいますが、 残念なことにそういう人ばかりではないのが現実です。

ただ私たちは毎日いろいろな人と関わり合いながら生きています。
みんながみんな自分に対して友好的なわけではないし、
その人の体調や機嫌によっても自分に向けられる感情は変わるものです。

だけどあまりにも不機嫌な人や、見ていて不愉快な人は、フィルターをかけるようにしています。 攻撃性が強い方や、情緒不安定な方もそうです。 そういう人は負のエネルギーが強すぎて、エネルギーを受け取ってしまうと極度に疲れるからです。

人の不機嫌を自分の感情で量りたくない

あの人はいつも挨拶を返してくれない。
あの人はいつも不機嫌そうだ。
あの人は最近仕事が忙しいから、みんなに不満ばっかり言っている。
あの人は最近、よくわからないけど元気がないな。

人には人の都合があるものです。
人には人の理由があるはずです。

それを自分の受け取った感情で量りたくありません。

あの人はいつも挨拶を返してくれない→じゃあ、私も挨拶するのやめよう。
あの人はいつも不機嫌そうだ→じゃあ、私も不機嫌そうにしよう。
あの人はみんなに不満ばっかり言っている→私もあの人のこと、不満だってみんなに言おう。
あの人は最近元気がない→私には関係ない。放っておこう。

こういう連鎖をしてしまうと、どんどんと周りに広がり、自分の周りの 人間関係がすごく寂しいものになっていきます。
そして自分がされて嫌だったはずの事を、自分が他の人にするようになってしまうのです。

あの人はいつも挨拶を返してくれない。➡それでも私は毎日挨拶をしよう。だって本当はあの人にも挨拶をしてほしいから。
あの人はいつも不機嫌そうだ。➡それでも私はいつも笑顔でいよう。だって、私は不機嫌ではないから。
あの人はみんなに不満ばっかり言っている。➡それでも私はあの人の事を応援しよう。だって、私にも何か助けられることがあるかもしれないから。
あの人は最近元気がないな。➡それでも私は元気に話しかけよう。だって、それで少し元気になるかもしれないから。

こういうやり方はある意味、自己満足かもしれませんね。
相手はそれを望んでいないかもしれないし。
それでも私は人の事をとやかく言う権利は、私には持ち合わせていないと思っています。 だからものさしはいつでも、自分がされたらうれしいのか、うれしくないのか。 それを人にもするようにしています。

仏教でも、自分が他人にしてほしくないものが非道徳・してほしいものが道徳であり、こういう行動を常に心がけることが、人間関係の悩みの解決につながるのだと思います。

それでもし、そんな自分を利用しようとする人や裏切る人がいたとしても、私は静かに悲しむだけです。批判はしません。

自愛~自分を大切にするということ~

私は小さいころからみんなに「変わり者」と言われていました。 話すこともすることも、きっと周りとは少しずれていたのでしょう。 学校にもなじめず、友達ともあまり仲良くなれない。 いつも誰といても独りぼっちのような気がしていました。

中学校、高校になると、そんな自分は世の中のどうでもよい存在なのではないかと思い、 生きる意味を見出せなくなっていました。 それでももしかしたら、違う場所には自分の居場所があるのではないかと考え、 海外に飛び出しました。

言葉もままならない状態で、現地の高校に編入し、ホームステイをしました。 そこでの生活と人々との出会いは、とても刺激になり、少しだけ自分は自分のままで生きればいいのではないかという勇気をくれました。

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日本に帰国しても、自分らしく暮らせると思っていた

それから数年、また日本で暮らし始めた私は、やはり生きづらさを感じていました。 そんな自分から卒業したくて、新しいことを始めてみたり、資格を取ってみたり、 引っ越しをしてみたり、付き合う人間を変えてみたり、そんなことをしてだいぶ長い時間を過ごしました。

答えが見えないまま、何かを探そうとしていた時、もしかしたらずいぶん遠回りをしてしまったけれど、 答えははじまりの場所にあるのかもしれないと思い、地元に帰りました。 小さいころよく遊んだ場所、父が連れて行ってくれた場所、なんとなく好きな場所、好きではない場所、 時間をかけてゆっくりと一人でいろんなところを歩きました。

一週間ばかりそんなことをしていたら、ある森の中を歩いていた時、足をくじいて歩けなくなりました。 周りに人もいなく、聞こえるのは風の音と、虫の音、木が重なりあう音、そして自分の呼吸。 その時、やっと気が付いたのです

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30代、やっと自分に気が付くことができた

私に足りなかったものは、自分自身の声を聞くことだったと。 環境や他人が自分を変えてくれると思っていたけれど、自分を変えるのは自分しかいない。 自分が困難だと問題にしているものを解決できる力は、自分自身なのだと。

それから私は自分に向き合う努力を日々しています。 体と向き合い、体調を見極め、心を見つめて、自分に素直であるように努めています。

なかなか自分を変えるのは難しいです。 ただ努力は必ず実ります。 自分と向き合うことで、自分の本当の気持ちに気が付き、本当にしたいことが見えてくることで、 自分の為に手放さなければならないものもたくさん出てきました。

たくさんの困難があったからこそ、私は今たくさんの気づきを得ました。 人よりどうしてこんに大変な人生を送らなければならないんだって自分の運命が嫌になった時もたくさんありました。 それでも自分を信じて歩み進めてきたことを誇りに思えるようになりました。

生きるために必要なものは私たちが考えているよりも、もっとシンプルなのかもしれません。 シンプルだからこそ、体は、心は必要なものを教えてくれるのかもしれません。

自分の声が聞こえる、自分の気持ちを知る、自分の向かうべき方向が見える。 いつも自分を大切に考えることで、自ずと困難にも立ち向かえる力が生まれるのです。

「熱中症」「熱射病」って何が違うの??

熱中症とは高温や多湿の環境にいることにより起こる体の症状で、 脱水・めまい・湿疹・倦怠感・頭痛などが起こる。 この熱中症のなかでも特に重症な症状がでている状態を「熱射病」というようです。

軽度の熱中症であれば、涼しいところで休み、大きな血管の通っているところを氷や水で冷やし、生理食塩水を摂取するなどの処置で落ち着くようですが、 熱射病になると体温調節機能は失われ、意識障害や痙攣などの症状が現れますので、一刻も早く救急要請が必要になるそうです。

筋肉と熱中症の関係

子供やお年寄りは体の筋肉が少ないため、水分を溜めておくことが成人よりも難しいため、こまめな休息や水分補給が必要になるとはどういうことなのでしょうか。

「筋肉」は体に水分を溜めておくためのタンクの役割をするそうです。 筋肉が80%の水分を溜めておけるのに対して、脂肪は20%しか溜められません。

それともう一つ筋肉がある人が熱中症になりにくい理由に、筋肉を維持している人というのは、労働であっても運動であっても、普段から汗をかきやすすい状態を作り出しているため、汗をかくことでうまく体温調整を行えるので、熱中症にはなりにくいということです。

汗をうまくかけない人も、熱中症になるリスクが高くなりますので、注意が必要です。 うつ熱(体に熱がこもってしまう)や熱中症を回避するためにも、運動して発汗しやすい体に整えるなど徐々に汗腺を活性させるとよいでしょう。

こんなに暑いなら屋外活動を控えるべきか?

これだけ熱中症になる方や、救急搬送、死亡者が出るような状況なので、 不必要な外出や作業は控えるべきだと思います。

ただ世の中にはこういう状況でも仕事をしなくてはならない人たちがたくさんいます。 暑いから、熱中症が心配だから、休みー!!なんてことをしていたら、 やっぱり世の中回らないです。

今日もこんな暑い中で、一生懸命汗水流して働いてくださっている方のおかげで私たちの生活が成り立っていることを感謝したいと思います。

小学校とはなんと過酷なところか

愛知県豊田市の小学校で、小学校1年生が熱中症でなくなった。
全国的に先週末から高温が続いているため、注意を呼び掛けていたにも関わらず、このようなことが起きてしまった。

今回校外学習をした目的は「虫取り」。
校長は「こういう結果になったことは判断が甘かったと痛感している」と謝罪し、市教育委員会学校教育課長は「高温注意情報は夏に出ることが多く、発表後にすべての学校行事を中止するのは現実的に難しい」と語ったそうだ。

たかが虫取り。
そんなに虫取りが大切か。
虫取りの校外活動って、そんなに中止にするの難しいこと??

私も小学校1年生の男の子をもつ親です。
小1ってね、「暑いから、汗かくから、ちゃんと水飲むんだよ」って毎日言っても、出来ないもんだよ。
幼稚園・保育園って、時間になればちゃんと先生がお茶とか水とか持ってきてくれて、しっかり水分補給できた。
小学校1年生って、まだそういう感覚の延長にいる。

うちの子も5月から水筒持参になって、450mlの水筒でさえ、6月下旬までほぼなくならない状態で帰ってきた。 かといって、学校の水道で水を飲んでいるかといえば、そうでもなく。いちいち都度都度言わなきゃわからない。
「お願い、ちゃんとお茶とか水とか飲んで!じゃないと死んじゃうから!!」こんなお願いを毎日毎日子供にした。

年々気温が高くなって、30度超えなんて当たり前になってきたけど、大人だって体に負担がかかる。

そんな過酷な状況でも、子供たちは「わーい、虫取り楽しい~」「やった~、公園で遊べる~」って夢中になってしまう。 暑さなんて忘れて、遊びに夢中になってしまう子供たちからは暑さと共に体力や水分が失われ、危険な状態になってしまう。

まだまだ小さい体で、心も未熟です。
どうか学校は学びを得られる恵まれた場所であるとともに、子供たちにとって安全な場所であってほしい。

こういう事故が起こったのに、また宮城県の小学校で校庭で人文字をやって、38人搬送だって。。。

全国の教育者たちは、こういう事故をきちんと情報共有しているのでしょうか。
こんなことばっかり、本当に悲しくなります。   
自分の子供を任せても大丈夫なのでしょうか。

被災状況だけじゃなくて、伝えてほしいこと

まず今回の西日本豪雨で被災された方、心よりお見舞い申し上げるとともに、お亡くなりになった方のご冥福をお祈り申し上げます。

日本はこれまでも大きな災害に見舞われてきましたが、そのたびに人々は助け合い、励ましあってきました。

自分が被災しているのに、食料を求めて行ったスーパーでは商品が棚から落ちていれば棚に戻して、きちんとレジに並んで買い物をする。 物資の受け取りも順番を守って何回も何回も並ぶ。 親切で助け合いの精神、律儀で礼儀正しい。そういう日本人の心が、困難な状況でもきちんと現れるのです。

でもこういった人たちに紛れて、強奪・窃盗・強姦等の犯罪を起こす人が必ずいるのが事実です。 被災して避難所などに避難している家を狙って、金品を盗んでいったり、商品が散乱している店舗から物を盗んでいったり、避難所や半壊等で戸締りのできなくなった家では特に若い女性や子供を狙った性犯罪が起きています。

そういう注意をもっと被災地で呼びかけてほしいのです。

特に女性や子供がそういう卑劣な犯罪に巻き込まれないように、こういうときにこそ連携して警備を強化する、一人にならないようにする、できるだけ知っている同士で固まり、身の安全を確保してください。

災害ですでに心身共にたくさんのダメージを受けているんです。不安な中で毎日を過ごしているんです。

もうこれ以上苦しむ人が出ないように。

どうかこれ以上の犠牲が出ないように。