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なにもしていません

[映画]「ラ・ラ・ランド」を観て

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「ラ・ラ・ランド」本予告

Twitterより転記

‪「ラ・ラ・ランド」鑑賞。とてもよかった。ミュージカル映画として最高に楽しんだけれど、それ以上に感じたことがあった。僕なりに一言でまとめるなら「ハリウッド映画の最高にキュートでプリティーな"鎮魂歌"」だった。‬

‪冒頭4:3の画面から始まると、劇場の幕が広がる「かのように」画角を広げ、堂々とシネマスコープと宣言する。続けて高速道路でモブによる見事なオープニング。ハリウッド映画の豊かさを歌詞で称えながら、コントラストの強いフィルムの質感も相まって、古き良きハリウッドの手触りを伝えてくれる。‬

その象徴はライアン・ゴズリング演じるセブだ。ピアニストの彼は古き良きジャズとハリウッド映画(made in USA!)を愛し、アメ車やレコードに囲まれて生活をする。対してエマ・ストーン演じるミアは、現代の役者の卵。プリウスに乗りスマホももちろん持っている。セブとは対照的だ。

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‪ハリウッドの厳しさに揉まれるミアは、セブと出逢い恋に落ち、セブを介することで古き良きハリウッド映画やジャズを知り、時に叱咤しあいながらも、おのれがなぜその夢を目指したのかに気付いていく。ミアはハコを借りてオリジナル脚本で一人芝居を決行するが、しかし現実はままならない。‬

‪これ以上書くとネタバレになるので続けないけど、僕が映画を見ながら、ずっと頭の中に浮かんでいたのは「なにもかも、変わらずにはいられない」(CLANNAD)だった。わたしが愛したものはもう誰にも観られないし求められない。いつかなくなってしまう。そう、名画座が潰れてしまうように。‬

きっとハリウッドには劇中のようなあんな書き割りはもう置いてないし、バカみたいなセットも作っていないだろう。もはやCGの舞台で役者もキャラがシームレスに演じているのだから*1。"LA LA LAND"を一歩出れば、ハリウッドですら謝々と頭を下げて中国資本が入れてもらうのが現実なのだ。

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しかし映画は、その現実に抗うのだ(「理由なき反抗」!)。しかしそれは過去に引きこもることではない。映画のラスト、その答えとしてD.チャゼル監督は眩い夢をみせてくれる。涙が出るくらい美しい夢だ。それは幻想でしかないけれど、その幻想こそが現実を強く、作り出しているのだと訴えるように。

*1:そういえば、本編前に「モアナ」と実写版「美女と野獣」の予告が流れていたけれど、映画の最前線はCGという舞台で、キャラが動くのか人間が動くのかどちらかになったのだ、それこそ押井守が予告したように。

[映画]忘れられた〈ふたり〉より愛をこめて|「君の名は。」について

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だいぶ前になるのだけど、「君の名は。」を観た。

この頃はまさかこんなに売れるとは思わなかったけど。

もはや色々議論されているだろうし(大して追ってはいないんだけど)、今更記事を書くのはどうなんだろうと思いつつ、別に自分のための言葉を書くんだからいつでも大丈夫だろうと思い書くことにした。

結論をいえば、これまですれ違っていた「ふたり」の出会いが実現した奇蹟、を描いた作品。このことは、これまでのフィルモグラフィからも、また新海誠じしんにとっても、「ふたり」の出会いが実現したのだと考えている。そのことを語るために、まず僕にとっての深海作品について話そうと思う。

やっと出会えた主人公たち

話そうと思う、なんて大げさな言い方をしたけど、これまで良いファンではなくて、一応作品をこれまで追ってきたにわかファンでしかない(ちなみに「言の葉の庭」だけは観ていない)。

そんな僕にとって心に残ったのは、やはり「秒速5センチメートル」。

「秒速」がまさにそうであるけど、作家・新海誠というのは、ひたすら「すれ違い」を描く作家なんだと僕はこれまで思ってきた。

「秒速」の主人公、貴樹と明里は冒頭から運命のふたりであることを期待させるけど、しかし第一話「桜花抄」のラストシーンの時点ですでに、高樹は未来で起きるかもしれない別れの予感をモノローグで語っている。

それから次の瞬間、たまらなく悲しくなった。

明里のそのぬくもりを、その魂を、
どのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか。
それが僕には分からなかったからだ。

僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、
はっきりと分かった。

僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、
茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。

でも、僕をとらえたその不安は、やがて緩やかに溶けていき、
あとには、明里の柔らかな唇だけが残っていた。

 ―「秒速5センチメートル」第一話 桜花抄

第三話「秒速5センチメートル」においては、そんな高樹がその喪失感を仕事で埋めようとしたものの、燃え尽きて仕事を辞め、社内恋愛も「1000回メールしても、心は1センチくらいしか近づけなかった」と言われるくらいにしか、のめり込めなかった。明里を忘れられない、そんな姿の高樹がいる。

一方の明里は、田舎から帰京するシークエンスから推測するに、既に他の知らない誰かと結婚することになったことがわかる。

それを観て僕は当時、「やはり男は恋人を忘れられない“別名で保存”で、女は忘れて別のところに行ってしまう“上書き保存”なのだ」と、われながら身も蓋もない感想をいたく思った。*1

ラストの踏切シーンをバットエンドと取るか、逆に高樹が成長する契機として肯定的に取るか、それは人それぞれだと思うけど、ともかくも僕のなかでは痛みの所在を示してくれた作品だった。

そこから「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」と遡りつつ、劇場に足を運んで「星を追う子ども」を観に行ったりもして作品を追っていた。*2


で、「君の名は。」である。

そもそも劇場に入ったら両隣を男子中学生の集団に取り囲まれ、上映前はなんだか新海誠というかワンピースでも観に来たような不思議な気分だった。

けど観終わってみればまさに新海誠だし、内容は新海誠ぜんぶ詰め合わせだった。

これまで作品を曲がりなりにも追ってきた僕としては、この詰合せの内容なのにもかかわらず、出会いが実現されていること、そのことがとても嬉しくなった。

というのも、先に述べたようにこれまでの過去作の主人公たちは、「秒速」を代表としてずっとすれ違っていた。

しかし「君の名は。」において、これらの作品たちは、それぞれ構成要素となり断片とひとつとして物語を形作っている*3

だから僕には、その断片たちが、「すれ違」ってきた思いの断片たちが、この出会いの奇蹟を生み出しているように見えて、とても嬉しくなったのだ。

新海誠じしんの意外な「出会い」

そんな気持ちで劇場を出て、パンフレットを買って帰った。実はパンフレットを最近になってちゃんと読んだのだけれど、ここでさらに「出会い」を見つけたのだ。

パンフレットには新海誠監督のインタビューが掲載されているのだけれど、ここにこんな言葉があった。

その前に『秒速5センチメートル』という作品を作って、ある程度の評価や支持もいただいたんですが、自分の思いとは随分違う伝わり方になってしまったという感覚があったんです。自分ではハッピーエンド/バットエンドという考え方をしたことはなかったんですが、『秒速~』は多くのお客さんにバッドエンドの物語と捉えられてしまったところがあって。
(中略)
そう思わせてしまったとしたら、そこはもう技術の問題だな、と。

―『君の名は。』パンフレット 新海誠監督インタビュー

もう気づいた人がいるかも知れないけれど「秒速」以降、観客、言うなれば愛されているファンに誤解されてきた。つまり「すれ違い」が起きていたのだ。

その後いかに、思いが届くように、コミュニケーションが通じるように新海監督が努力してきたかが、後段に続くインタビューから伝わってくる。

物語を作るということを一から自分なりに勉強し直しました。今更ながらですが、脚本術の本を読んだり、古典を読み直したり。その上で『星を追う子ども』という作品を作って、ある程度の手応えも感じられた。それでも公開したら、『秒速~』のときと同様に、観客には自分の意図が思うように伝わっていない感覚が残ってしまった。どうしたらもっとうまく語れるのか。そう思いながら次の『言の葉の庭』を作り、その前後にも30秒CMや小説等で、物語を作るということに向き合い続けました。
(中略)
そうした経験を経て、次こそはもっと言いたいことをストレートに語れるんじゃないか、伝えられるんじゃないかと思えてきたのが、『君の名は。』を作り始めたタイミングだったんです。自分の良いところも悪いところも分かってきて、良い部分で良い作品を作れるんじゃないか、と。

 ―同前 新海誠監督インタビュー(一部原文より修正)

僕はさきほど、作家論として「すれ違い」の作品を作ってきた新海誠が、過去の作品を用いてついに「出会い」を描いたと語った。

けれど、じつは監督と観客のあいだにも「すれ違い」が起こっていて、さまざまな経験の経て「君の名は。」において(しかも「出会い」の物語を描くことで)、ファンと出会う=ヒットするという結末に至ったことに、僕はなんとも驚いたのだ。

もちろんヒットしたことを持って出会い=コミュニケーションの回路が生まれたと解釈するのは早計かもしれない。しかし先のインタビューからも伝わるように今回は確信をもって作品を作っている。その努力過程は下の記事からもよくわかる。
diamond.jp

この二重の出会いが起こったこと、インタビューを読んだあと、改めて喜ばしく感じてしまった。

〈ふたり〉からの願い~運命の出会いについて

最後にネタバレ部分にはなるが(と言ってももうやったっていい時期だろう)、ラストシーンについて語ろうと思う。

危機を回避した瀧くんと三葉は、かつての出会いの記憶は失ったまま、何かもやもやを残しながらそれぞれの生活を生きている。そのふたりがある日、偶然にすれ違い、そしてラストシーンにおいて、彼氏彼女たちはふたたび出会う。

糸守の山頂で出会うシーンも、違う電車に乗ったふたりが見つめ合うシーンも好きだけれど、このラストの出会いというのは、特別な意味合いを持っていると思う。

この「ふたり」は僕たち観客がスクリーンで観てきた、これまでの遍歴を記憶していない。しかし〈ふたり〉はたしかにすれ違いながらも出会い、絆を深めてきた(すくなくとも僕たちはそう記憶している)。

〈忘れられてしまった瀧くん〉と〈忘れられてしまった三葉〉の行動によって、ラストシーンの「瀧くん」と「三葉」の出会いは起きた。存在しない〈ふたり〉によって。言うなれば、奇蹟がもたらされている。

この出会いが感動的なのはつまり、かつて存在した、もしかしたら平行世界にいるかもしれない〈瀧くん〉と〈三葉〉が求めた、かけがえのない願いが叶った瞬間だから、だ。

すでにいない、記憶から消えてしまった別世界の〈わたし〉と〈あなた〉からの願い。あえて言いかえれば、運命の相手と出会うということとは、もしかしたら「わたし」の知らない〈わたし〉からの贈り物なのではないか。

僕が「君の名は。」に特別な思いを持つのはそんな、ありていにいえばロマンティックを伝えてくれる作品だからなのだ。*4

*1:そこに山崎まさよしが「One more time, One more chance」と、いる筈のない彼女の姿を探してしまうと熱唱して畳み掛けられれば、同じような経験をしたものなら、そりゃあ大変なことである

*2:とはいえ「星を追う子ども」については、大作志向にジブリ志向で、無理している感も含めて、どーなんかなーとか思っていた。つまり正直に書けば、シネマサンシャイン池袋で知り合いと一緒に見に行き、帰りに寄ったデニーズでボロクソに批判してたのだ。

*3:たとえば「秒速」のMV的要素に電車要素、「ほしのこえ」の電話がつながらない要素、「星を追う子ども」の彼岸の世界描写は糸守の山頂に、等

*4:ここには東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 』の強い影響があることは言うまでもない

虚構の未来からみえること

高レベル放射性廃棄物処分、ようやく終了

放射性廃棄物を処分するのに10万年かかるというニュースを見るとき、世界史で習ったレバノン杉の事を思い出す。紀元前数世紀に伐採のし過ぎで、レバノン杉はほぼ絶滅し、今は僅かにしか残っていない、という歴史のいちエピソードなのだけど。これを愚かな事だと授業で習うわけだ。

翻って放射性廃棄物のことは、何百年先の誰かが、僕と同じように21世紀初頭の愚かなエピソードとして習い、しかも現在にも続いている、そのことへの憎しみを込めて僕たちを目差すのかと思うと、ほんとうにいたたまれない気持ちになる。

その意味で、この虚構新聞の記事を見たとき、悲しい気分でありながらも、なにかほっとしたような、そんな気持ちにさせられた。ここには何と書かれているのだろうか。

[読書]春日太一『市川崑と「犬神家の一族」』(新潮新書) 感想

先日の「タマフル24時間ラジオ」で著者がゲストに呼ばれた際に興味を持って本書を読んだ。これの「シン・ゴジラ」評が面白い。


タマフル24時間ラジオ2016!!! 春日太一の早朝映画談義

かんたんに言えば「『シン・ゴジラ』は、市川崑岡本喜八の現代版アップデートだ」という解釈。庵野さんといえばこの二人の名前はよく出るのだが、具体的な演出手法の影響までは知らなかったので大変勉強になった。

私は市川崑は実質「細雪」しか観ていない*1情弱なので、一応本書を読む前に「犬神家の一族」はAmazonPrimeで鑑賞したのだが、とても面白かったし、本書を読んだ後にはまた観返したくもなった。

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市川崑と『犬神家の一族』 (新潮新書)

市川崑と『犬神家の一族』 (新潮新書)

本書は、市川崑についてコンパクトに纏められたブックレットという体裁。
短い序章のあと、市川崑の経歴を追いながら、彼の特徴を浮かび上がらせている第1章、それを踏まえ「犬神家の一族」の作品解説をしている第2章、最後に石坂浩二にロングインタビューを敢行した第3章、というシンプルな構成になっている。

じつはタマフルの文脈からすると序章*2が大事なのだ。つまり、市川崑の演出手法が現代日本の映画界にとって必要なのでは、と問うている。

筆者は、自身の好みは深作欣二五社英雄の情念をほとばしらせた作品であって、クールでスタイリッシュな作品をつくる市川崑は「乗り切れない監督」という評価であったという。

しかしある番組で市川崑の解説を依頼されたことを機に作品を観返していくなかで、あることに気付く。

今、日本の娯楽映画の多くは面白くない。その要因は、心情の全てを語りつくす饒舌な脚本、凡庸なキャスティング、テンポの悪い演出と編集……といった点が挙げられる。
今回の検証をしているうちに「市川崑の演出にこそ、その打開策がある」そう思えてきたのだ。俄然、燃えてきたのと同時に、その作品が好きになっていった。
春日太一市川崑と「犬神家の一族」』p.6(一部引用者改行)

この「打開策」について、詳しくは是非本書を手にとって読んでいただきたいが、私なりに気になった点をいくつか。

市川崑の映画を観るとスタイリッシュな映像演出に目がいってしまうが、本書を読むにつけ、妻であり脚本家の和田夏十*3の存在が大きいのだと感じた。昭和58年に亡くなるまでほとんどの市川作品の脚本を手がけた彼女。なんと夏十の実質的な遺作となった「細雪」以降、市川は迷走を続けると筆者は述べる。

夏十の特徴について、小説を"脚色"することの魅力について述べたこととして、彼女の言葉を引用している。

脚色は原作をバラバラに分解してそれを又組立直すので、読書などよりは数段原作に肉迫出来ます。波乱万丈などとは程遠い私の日常生活は限られた枠の中でしかあり得ません。狭く深く掘り下げることは出来ても浩く経験することは不可能です。他人の経験を食って太ろうとは太い考えかも知れませんが、自分を虚しくして他人の人生感に同化してみる事は、思いもかけない程の収穫をもたらすものなのです。
前同 p.51(筆者引用元は市川崑和田夏十『成城町271番地 ある映画作家のたわごと』)

和田夏十が原作を徹底的に解体して現代的にアレンジし、それを市川崑がスタイリッシュな映像で取っていく、という共同作業」(p.52)で、文芸作品の観念的な内容を具体的で即物的なものへと見事に「コード変換」し、「炎上」や「鍵」「破戒」などの傑作が次々と生まれていく。

たとえば「野火」の場合、「人肉食の葛藤と罪の意識」「神との対話」といった原作の観念的な内容を、飢餓状態の戦場での地獄を引いた目線で描くことで解決しているそうだ。夏十は「脚色できない小説はない」と言い切る。

私はおおよそなんでも映画になるんじゃないかと思っています。映画とはそれ程融通無礙の表現形式であると信じます。深刻な心理劇はもとより哲学でも映画に出来るかもしれません。映画に出来にくかったり映画に出来ないと云われたりするのは、まだそれが成功する方法がみつけられていないからだけのことでしょう
前同 p.55 (筆者引用元も前同)

ここまで言い切れるとはなんと格好良く、とはいえ恐ろしいか。宣伝文句で「映像化不可能と言われた作品」というのがよく使われるが、そういったものに限って大したことはなかったりするものではあるが(映像が凄いのはあるものの)、その理由に和田夏十は「それは成功する脚色の方法でないからだ」と言っているのだから。

その意味で「犬神家の一族」とは、ミステリー映画という不可能をやってのけた作品だと、筆者は解説する。ヒッチコックが「ミステリーの映画化には否定的」と評価していると前置きしたうえで*4、第2章では「ミステリーの退屈性に挑む」ため、編集による時間操作、キャスティングの妙、情況説明とコメディ要素の掛けあわせ等、いかにエモーションを保ちながら観客に興味を惹き続ける演出をしているかを説いている。

特に面白かったのは、石坂浩二のナレーターとしての声色の重要性の点で、これはなるほどと唸らされた。再び観る際に注目したいポイントだ。

第3章では石坂浩二のインタビューから、市川崑がいかにこだわったか、その結果当時の撮影がいかに贅沢に時間をかけて行われてきたかが垣間見える。そして「これは今の時代では無理なのでは……」と痛感してしまうわけだが、ここで思い出してしまうのが「シン・ゴジラ」のことであった。

そもそもこの体制は、70年代の映画界の衰退とともに一度危機的情況に陥る。市川が「木枯し紋次郎」の撮影中に拠点である大映京都撮影所が潰れてしまう。彼はスタッフをひとりひとり口説いて新たなプロダクション「映像京都」と言う会社を作り、時代劇作品のクオリティを維持したとのことだが、この歩みは「シン・ゴジラ」を介すと庵野秀明がカラーを立ち上げた経緯を想起させる。

またこと特撮について言えば、特撮が撮影所というシステムがあってこそ出来るものだ、ということを樋口さんが語ったことを思い出した。
(下の動画、24分50秒以降)

平成極楽オタク談義 第三夜 「ゴジラ1984」 (2002年)

84年ゴジラは、樋口さんの言葉を借りれば「撮影所というシステムが崩壊した最後」の作品だそうだ。市川崑は83年の「細雪」以降低迷したということだが、なにか符号的なものを感じてしまった。それだけに「シン・ゴジラ」が果たした意味というのは大きいように感じるし、タマフルで著者が興奮する意味もわかる気がする。

補足だが本書の面白さのひとつに、著者の正直な感想がある。先ほども述べたが、「細雪」以降を"迷走"と評し、「犬神家の一族」のリメイクは「残念な遺作」、とりわけ凄いのが「監督クラッシャー・吉永小百合」という見出し。すごい。とはいえ、感覚に好き勝手言っているのではなく、筋を立てて解説しているので、なるほどと思ってしまう。そこは上手い。

(執筆時間 3時間弱)

*1:正確に言えば「夢十夜」も劇場で観たが内容を全く覚えてない

*2:というか実質的なあとがきでもある

*3:読みは"わだ・なっと"。当初は市川との共同ペンネームだったとのこと。本名、市川由美子

*4:ちなみにヒッチコックはサスペンス・ミステリー・ハプニングを娯楽映画の三大要素としている、とのこと

[映画]「バケモノの子」感想


バケモノの子」視聴*1。映画館で観た以来だが、やはり良かったし、今回は違う視点で観れた。公開当時は人に話をしても批評とかを読んでも、「いいんだけど惜しい」という感じのものが多くて、じつは私もそれは半ばわからなくもないんだよな…、という気分ではあった。

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で、今回観て素朴に思ったのは、(擬似)親子の話や、もちろん恋愛の話ではなくて、私たちが(男の子が、としたほうがいいのかもしれない) 成長するためには、「私を信頼する誰かが必要だよね」ということを、映像と(評価はわかれるだろうが)ことばを尽くして描いているのだと思った。*2

九太にとって、九太が成長するためには、熊徹も楓もともに必要な存在なのだ。それは逆に言えば、九太も熊徹と楓を支える存在でもある。その関係とは、いわゆる親子関係や恋愛関係として捉えてしまっては逃してしまう。つまりは志を同じくする者=同志なのだろう。武道を高め合う同志、 学問を究めようとする同志。

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ここで補助線を引こう。前作「おおかみこどもの雨と雪」において、娘の雪と比べて、息子である雨の物語はあまりうまく描かれなかったように私には思われた*3。狐の師匠というところも近いわけだが、そんなところも含めて「バケモノの子」はこのやり残した雨の物語を描いたものなのだと感じる。

バケモノの子」では、九太のほんとうの父親がいるが、それはいわゆる「父親的」な振る舞いができない優しい、悪く言えば気弱な父親だ。これに対照的なのが猪王山*4であり「父親的」な立派な振る舞いをする。そのふたりと違った人物が熊鉄だ。

ここからあえて読み替えるとしたら、じっさいの父―息子という関係性も、同志としてあるほうがよいのだ、というのが細田守の回答なのでは、と私は考えている。

あえて難点を言えば、"心の闇"というモチーフは表現として定型的すぎるのではないか。これは公開当時にも感じ、今回も正直変わらなかった。とはいえその延長としてのクジラは、細田監督のエンタメ大サービスとして楽しんた。代々木体育館の上を跳梁する姿は、いやーうつくしすぎる! これに意味なんて求めてはいけない。
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※補足
どうせ楓批判があるだろうけど、さっき語った通り理論的に擁護できる。初見時は「貞本絵のショートカットは正義」と押し切ったのであった…
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(楓かわいいよ、かえで…)

*1:16.7.22のTV放送時に書いたツイートを改変

*2:たとえば宮台真司の批評では、登場人物が言葉で説明しすぎていることを批判している

*3:ちなみに公開時は「おおかみこども」についてはあまり評価していなかった。しかし2回目では、雪の成長物語として素晴らしい作品だと私は涙を流した

*4:読みは"いおうぜん"、"ようぜん"だと思ってた…

「子どもが欲しい」について考える

件のツイート

二村ヒトシ氏からリツイートで回ってきたセックスやらないマン氏のツイートなのだが(ちなみに私はこれで初めて氏を知りフォローしました)、この意味とはどういうことなのだろうと気になったので考えてみたいと思う。*1

まず大前提として、今日の日本における「子ども産め」社会圧力がいまだ現存するなかでの対抗言説として、正当なものだと思っている。また内容に不足があるかもしれないが、140文字にすべてを言い切ることはとうぜん不可能であろう。

それを前提としたうえで、このツイートを出発点として私としていろいろ考えたいと思う。

論の展開

まずツイートを私なりに明確化する。要旨は3点に分かれる。


第1段落では、

「子どもを欲しがるのは生物の本能」とか言う人がいるけど、それはない。

と述べている。

すこし言いかえれば、「子どもを欲しがる」という(感覚/欲望)は「生物の本能」ではない、ということだ(「感覚/欲望」は以降用いられる用語で補足した)。

そもそも、人間に「生物の本能」を想定するのか、という問いがあり得るが、次の段落で「本能としてプログラムして」という記述があるので、人間には本能がある、という想定をしていると推測できる。



次の第2段落はこうだ。

セックスすれば子どもはできるのに、わざわざ「子どもが欲しい」という欲求を本能としてプログラムしておく必要性はないからね。

文意を明確にしにくい文章であると感じる。

というのも素朴に見れば、「セックスすれば子どもはできるの」だから「『子どもが欲しい』という欲求」は(プログラムされた)本能ではない、と読める。

だが、この言明は「セックスしたい」という本能はある、ということを前提としていないだろうか。それが悪いと言っているのではない。勝手な印象ではあるが、セックスやらないマン氏のような意見を持つ方が「セックスしたい」という本能の存在を認めるだろうか、というのが私の疑問である。

読み間違いの可能性はあり得るものの、もし「セックスしたい」本能がないと解釈するならば、「セックスすれば子どもはできる」という言葉は、いったい何を指しているのだろうか。端的に言えば、なぜセックスするのか、ということだ。

ここで気にすべきなのは、「欲求を本能としてプログラムしておく」という点だ。おそらく「プログラム」とは、ヒトが種の保存のために次世代をつくることがアプリオリに埋め込まれている、という意味だと推測できる。ドーキンス的に言いかえれば、わたしたち生物は遺伝子によって次世代の生産をはじめから動機づけられている、ということだ。

次世代の生産の手段として"何かしらの"本能が埋め込まれているとして、それがセックスしたい(快楽)欲求かもしれないし、(あえて言えば)「子どもが欲しい」という欲望かもしれない。

ひるがえって難しいのは「セックスすれば子どもはできる」という文面が、欲求や意志と切り離されたニュートラルな筆致である*2という点だ。価値中立的な書き方に見える。

私の推測ではあるが、氏はおそらく「セックスしたい」という本能は認めないのではないか。だから「セックスすれば子どもはできる」というニュートラルな言葉にしているのではないだろうか。

このニュートラルさというのは、セックスが何か"端的な行為"であって、「子どもが欲しい」などの欲求とは別物である、と切り分けているということのように思われる。というのも、このツイートのいくつか前に以下のようなことを書いている。


これは必ずしも氏の意見を表明しているとは言い切れない文面であり、私は「性の解放」運動に関してはほとんど知識はないが、第2段落の文意に通じるものがあるように思う。



そして最終段落で

「子どもが欲しい」という感覚は、特定の文化・環境の下で形成される特殊な欲望なんだよ。

と締める。「子どもが欲しい」という「感覚」は、文化によって構成された「欲望」なのだと定義づける。ここの「感覚」「欲望」というワードは、「本能」「欲求」に対になるものとして選ばれているのであろう。

つまり「本能」とは生物的・アプリオリなものに対して、「欲望」とは文化的・アポステリオリなものである、ということだろう。加えて「特定の」という言葉を加えているので、フーコーのいう「エピステーメー」に近いニュアンスを持っているように思う。

以上の解釈をまとめるならば、「子どもが欲しい」という感覚は、ヒトにプログラムされている本能ではないことはおろか、文化的に構成された相対的な「欲望」に過ぎない、ということを意図したツイートだと私は思う。


いくつかの疑問点

これまで論旨を追ってきたが、私の疑問は以下の点だ。

  • ① 「セックスしたい」という「欲望」は、本能ではないのか
  • ② 本能でないとした場合、子どもができるとはどういう動機によるものなのか(もしくは動機のない端的な行為なのか)
  • ③「子どもが欲しい」という「欲望」は、ほんとうに「文化によって構成された「欲望」」なのか


上記については、気が向いたら考えたい。

*1:ちなみに私は『すべてはモテるためである』『恋とセックスで幸せになる秘密』を読み、ツイッターを追っかけている程度の二村ヒトシファンである。

*2:とりわけ「子どもは」の「は」という助詞

[映画]「時をかける少女」についてメモ

時をかける少女 [Blu-ray]

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今回で3度目の視聴になるのだが、やはりとてもよい作品だと思った。

時かけ」について他人と話す時、ラストの評価について意見が分かれるような気がする。未来人である千明が真琴へ最後にかける「未来で待ってる」という言葉について、肯定的か、否定的か。

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否定的の場合、千明が「未来で待ってる」というのはあまりに無責任すぎるだろうというのがその理由だ。そもそも千明は何年、何十年後の人物なのかもわからない。どうして千明は、ちゃんと真琴に「好き」と言わないのか。その「好き」という言葉を、真琴だけでなく、観客である私たちも待ち望んでいるのに。それが批判の内容だ。


確かにこの批判は当たっていて、その意味では告白を期待する(少なくともそういう演出で進んでいる)観客にとっては肩すかしを食らったような印象を受ける。ほんとうは好きなのに誤魔化されたと、そういう風に見える。しかし、「ほんとうに」そうなのだろうか。千明は「ほんとうは好き」と、なぜ「知っている」のか。僕がこのエントリで考えたいことはこのことである。


話は逸れるが、シーン序盤のほうも僕はけっこう好きなのだ。タイムリープができると知った真琴が、妹に食べられたプリンを食べ、朝早く起きて、小テストで100点を取り、つい友人に「留学するんだ~」と発言してバカにされる下り。真琴がとても自由に感じられて印象に残っている。よく考えなくともわかることだが、これらのことはタイムリープがあろうとなかろうと関係なくできることばかりだ。

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タイムリープが意味する寓意のひとつは「たとえ失敗してもやり直せる」ということだと思うが、だからこそ真琴は自由に選択をしたのだと思う。