となりのネギトトロ

人生、千鳥足

「○○○が流行らない理由」な記事より「○○○が流行る理由」を語れよ

「○○○というサービスは流行らない」

だとか

「○○○という製品は流行らない」

といったような意見の記事をネット上で見たりする。

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例えば、Apple Watchの話だとしよう。

Apple Watchが流行らない理由」という記事を読んでどうすれば良いのだろうか?という気持ちになる。

流行らなければ、自分の目に止まらないだけであり、製品/サービスが気に入れば、そういった記事とは関係なく使ってみれば良いだけである。

それよりも「意外にも○○○というサービスが流行る理由」

だとか

「○○○という製品は流行らないけど、好きな人には堪らないこの機能」

といった記事の方が読みたいと思う。

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そもそも、「○○○は流行らない」という記事を書いた著者は、その製品が流行らなかったら、後日「ほら、言ったとおりだろう」と、自ずから「流行らなかった製品の話」を引っぱりあげる気なのだろうか?

流行る価値もないのであれば、過去の話をわざわざ持ち出さなくてもいいじゃないかと。

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もちろん、「○○○は流行らない」という記事には、「流行にのせられるな。思っているほどのモノではないぞ」と注意を喚起、または抑止力といったような価値があるのはわかる。

じゃあ、そのようにストレートに言って欲しい。「このサービス/製品は、ここが未熟だけどOK?」と。

なのに、気のせいか「俺はわかっている。○○○は流行らない」といったコンテキストな記事が多い気がるのだ。

そこには、自己顕示欲が見え隠れするのだ。

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そんなこんなで、重複するが「○○○は流行らない」という内容よりも、「○○○という製品は流行らないけど、好きな人には堪らないこの機能」のような記事を読みたいなと思うのである。

なお、Apple Watchを購入して満足をしているにも関わらず、「Apple Watchは流行らない」といった記事を読んだから、こんなブログを書くにいたった訳ではないのである。

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なぜPC1台で仕事ができることと、世界一周旅行が結びついているのであろうか?

題名どおりなのであるが、今の時代は素晴らしいことに、(業種によるが)PC1台あれば仕事が出来てしまう。

かくいう、自分が基本的にはPCで作業がメインなので理解はできる。

というより、それば普通な仕事であるだけなのだが。ずっとPCの前にいるだけである。

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ところで、ブロガーやらPCで生計をたてようとする流れが、昨今ではネット上でよくみかけるのである。

Youtuberでも、「好きなことで生きていく」というコピーがあるように、理解はできなくても、ネットを使って生計をたてる人が現れてきているのである。

それは、ネット社会の一員であり、一因の自分には、時代の流れを感じれる素晴らしいことと思っているのだが、なぜか、例えばブログで生計を成し得たブロガーが「世界に行こう!」とか、言い出すのである。

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会社員の皆さんは、あたかも「忙しすぎて、世界に旅にいけない人」というのが前提かのような流れを感じるのである。

ちなみに、誤解なきように言っておくが、自分は海外旅行が大好きである。

いつのまにか、世間の台流にのり、代弁したかのように「世界を旅する」のが大正義的なのが嫌だなぁ。と思うのである。

プロブロガーになったら、世界を旅しないといけないのかぁ。

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そういえば、風俗業界で働いたことがある人は、何故に人の酸いも甘いも知ったような口ぶりになるのであろうか。

Youtuberが、ブロガーが旅を訴えるがごとく。

バイラルメディアは、なぜ自分から虎の威を借りるのか?

Facebookをしていると、バイラルメディアの記事がタイムラインに流れてくる。

自分の友人が「イイネ」を押したり、広告だったり、何はともあれ、えらくポジティブな記事が流れてくるのである。

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そんな度に想像するのは、バイラルメディアの中の人はどんな気持ちで記事を更新しているのか?ということである。

もし、仮にもし、本当に毎回毎回、紹介する記事に心を打たれているのであろうか。

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世界が絶賛したこの記事は素晴らしい!あなたは知らないの?

こんな事をやる奴は許せない!

成功者が語る秘訣!あなたはやっていませんか?

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こんなことに全てに本当に共感しているのであろうか。

恐らく、自分の気持ち悪さは、記事自体ではなく、人の記事を紹介するだけならまだしも、何故その記事を上から目線で語ってくることだと思う。

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例えば、太宰の「人間失格」を読んだ翌日に「やっぱ太宰だよね」と言い、

次の日には、深夜特急を読んで「俺、インドに行ってくるわ。やっぱ世界をみないとね」って言う人間のようである。

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ちなみに、バイラルメディアを全体を批判したようになってしまってるが、時には良いなと思う記事もある。

でも、基本的には誰かの記事を紹介しているわけであって、こんな良い記事あったと紹介した最後に

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「世界とつながる、MOVEする」

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とドヤ顔で締めの言葉を残されてもなぁと思ってしまうのである。

締めの言葉があるにしろないにしろ、人の記事で何故そこまで言えるのだろうかと思い、記事を見るたびに「おぉ、自分から虎の威に入った」と思うである。

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ノマドは自分の価値観ではミジメである

今、タイにいる。

半年前にLCCの格安チケットを買ったのだ。

往復で3万円以下。お買い得であった。


しかし、半年前に今の仕事量が予想できたであろうか。

無理だ。と言いたいが、心のどこかで想像はできていたのかもしれない。

何はともあれ、タイに仕事を持ちこみのバカンスである。

便利は世の中になったのもので、ネットさえ繋がれば仕事ができるのである。

つまりは、タイでも仕事ができるのである。


ところで、昨今、ハイパーメディアクリエイターやら、ノマドの女王(名前忘れた。マフラーもどきみたいのを巻いている人)とかで、「ノマド」とかいう言葉が耳に届いた。

何やらカフェやら場所にとらわれず仕事をする、新しいライフスタイルらしい。

確かに、街中にwifiが張り巡らされ、PCを使う仕事なら、あらゆる所で仕事ができるようになっている。

つまりは、このタイで仕事をしている自分もノマドと呼べるのではないであろうか。

やった!我はノマドなり。ファック。


ところで、SNSやブログなどで、この「ノマド」を発している人が、何かひっかかるのである。


ここからは自分の偏見である。ノマド族に対する偏見である。

このノマドであることを誇る民族であるが、気のせいか「仕事の効率化」や「場所にとらわれない」とか言うことが多いのである。

自分の中では、カフェまで仕事が追ってくることは「ミジメ」であると思う。

以前、Facebookで海辺で仕事をしている人がいたので、「あれ、まじすか?」って聞いたら、褒め言葉で聞き取られたことがあり驚いたことがある。


ということで、自分の価値観では、タイという海外にまで来て、仕事をしているのはミジメである。

これが不思議なもので、ノマド族の手にかかるとFaceBooktwitterでは、タイで仕事をしている写真をアップするのである。

仕事の効率化よどこにいった。


関係ないが、こんな言葉を思いついた。「ノマド 2.0」である。

なんとなくだが、ノマドをこじらせた方が言いそうだ。


一応、言っておくが、どこでも仕事ができる状況自体は素晴らしいものである。

しかし、ノマドという言葉は万能ではない。

多くの時、ノマドはミジメである。

最後に意味もなくパンチライン溢れる名コピーを言って締めくくりたい。

さて、そろそろ反撃してもいいですか

たいていのことは、「本」に書いてある。

最近思うのだが、大体の事は「本」に書いてある。

「人生の大切なこと」といった話ではなくて、本という懐の深さは、もっと広いので、知りたいことの、ほとんどは「本」に書いてあるのだ。

ただ、それが読み取れないのは、自分の理解力や反抗心がないからな事が多いのだ。

間違えやすいのは、それは読解力が足りないということではないのだ。「

もちろん、大したことのない本も多数あるが、難しいのは、それは作者の力量で書ききれなかったとしても、読者の力量で読み上げれることがあるからだ。

「本」は凄い。ただただ、凄い。

確かに「ベラベラ」と口にした。

「ベラベラ」

その言葉を今日のいつかの自分は、そう口にしたんだ。

しかし、いつだったのかが思い出せない。

「ベラベラ」

と、思い出せないので、試しに口に出してみた。

頭の片隅に記憶の破片を見つけたような気がした。

「ベラベラ」

もう一度、口にした。

口が、体が思い出す。ベラベラを。

ーそうだ。

ーー思い出した。あの時だ。


夜が明け、日が昇ったくらいの時間。

朝食を買いにコンビニエンスに向かった。

適当に惣菜パンと牛乳を購入して、レジに並ぶと前には、祖国が欧米のガイジンさんが料金を払っている最中だった。

何やらコンビニで売っていうる、できあいハンバーガーを購入して、電子レンジで温めてもらおうとしているようだ。

そこで、レジ打ち店員さんはガイジンさんに言った。

「袋をベツベツにしますか?」

オモテナシ精神の一つか、日本では温かいものと冷たいものを買うと、それぞれを別々の袋に入れるという選択肢を与えられる。

その選択肢を受けて、ガイジンさんは言った。

「バラバラにしてください」

その言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。

いや、正しくいうとニヤリとほくそえんだ。

バラバラというと、ハンバーガーをパンと肉に別けてしまうイメージがある。

そんな間違いも可愛らしいと思っていたら、自分の番にレジがまわってきた。

私の手にも惣菜パンと牛乳。

きっと尋ねられるであろう、「袋をベツベツにしますか?」と。

案の定、レジ打ちの店員さんは質問をぶつけてきた。

「ベツベツにしますか?」

自分は日本語はネイティブである。

「バラバラ」などとは口にしないのだよ。

普通に「ベツベツにしてください」と言えばよいのだ。

これが正しい日本語だよ。

「バラバラ」ではなく、「ベツベツ」と言うのだ。

と、思いつつ先程のガイジンさんに聞こえるように、口にだした。

「ベラベラにしてください」


ーそうだ、あの時だ。

確かに、「ベラベラ」と口にしたのだ。

思い出さないようにと、自ずから深くしまっておいた記憶が蘇る。

「ベラベラ」

そう。確かに私は言ったのだ。

日本生まれ、日本育ちで、日本語がベラベラなのに。

群集の中、目の前で落ちていた十円玉

池袋駅東口前の横断歩道を渡っていると、「チャリン」と小銭が落ちる音がした。

3、4メートルほど先に10円玉が見えた。どうやら、誰かが落としたようだ。
しかし、拾う者はいない。
 
池袋駅の前なので、横断歩道を渡る人は多いのであるが、誰も拾うものはいない。小生もその一人である。
 
落ちている十円玉を拾うか考えてみたが、拾ったとしても持ち主は立ち去っており、既に群集に紛れてわからない。
 
また周りの人々も、この十円玉が今しがた落ちたことを知っている為、どうも拾うのは躊躇いがある。
小銭が落ちる音というのは、不思議と耳に残るのである。
 
何よりも、この十円玉の所有権を持っていた人間が数メートル先にまだいるのだ。
この時代、落ちてる十円玉を懐にいれても咎められることはないが、正当な持ち主がいるのならば、その権利はその人のものである。
 
いや、何より私は十円が欲しいわけではない。目の前で発生した事象に少し揺さぶられているだけで、可能であれば解決したいだけなのだ。
 
しかし、良い案は思いつかぬまま足は進み、落ちた十円玉の横を通り過ぎる。
 
この決着の行方を願わくば、持ち主が拾いに戻ってくるのではなく、自分と同じように気にかけた人間がいたことである。
 
十円玉の所有権は消えていく。