憂鬱

 今回も憂鬱な期間がやっと終わりました。成績(通知表)を作成することです。
 現場に戻ってから自分に起きた一番の変化は、「自分の信念に合わないこと」が、これまで以上にやりにくくなったことです。折り合いをつけられなくなった。評定をつけることは、その最たるものの一つです。
 観点別の評価をつけるのはまだいい(いくつかの単元を総まとめしてABCをつけるのも乱暴だと思いますが……)。フィードバックになると思うから。それを基準に5段階評定をつけることの価値がまったく理解できない。この出てきた数字は何を意味するのでしょうか。学習者に何をフィードバックするのでしょうか。どうしてこんなに誰の役にも立たないと思われることを続けなければならないのでしょうか。
 さらに学習者や保護者の方が「こんな数字に意味は無い」と思ってくれていればいい。だけど現状は「とても重要なもの」(場合によっては観点別の評価や普段の授業での個別評価よりも)と捉えている。それはおそらく受験システムに絡む問題だと思いますが。
 現場を離れる以前は、もっと割り切って捉えられていたと思います(あるいは思考停止していたか)。でも久しぶりに現場に戻ってこの作業をして、とても苦しんでいる自分に気づきました。
 まあ何とか、今年度は修了しました。

義務教育の多様性の限界

多様な学習促す? 差別を助長? 不登校の生徒を支援する「教育機会確保法」を分析 - 弁護士ドットコム
 このニュースには前々から注目していた。ついに日本でオルタナティブ・スクールが認められると思ったからだ。不登校の子どもと接する度に学校に戻そうとすることは違うんじゃないか、と感じ続けてきた。そのうちの何人かは学校に通うようになったが、それは「自分にとってここにいることが最善だから」と思って通うようになったわけではないと感じる。
 この事案は日本という国が、学びの多様性をどこまで認められるかが試されているのだと感じていた。そう考えると、この結論は残念だ。様々な主張が交錯しただろうことは予想できるし、高度な政治も行われたのだろう。しかし教育する権利を握ってきた国が既得権益を守ろうとした、と見えてしまった。公立学校の教員もそう考えたのだろうか。現在の教員の中で、「子供は学校で学ぶことだけが一番幸せだ」と信じているものがどのくらいいるのだろう。一度でも登校しない(いわゆる不登校の)子どもと接したことのある教員は「学校に行かなければいけない」という思いが、どれほどその子を苦しめているのかがわかるだろう。記事の中の「休息」というのも曖昧な言葉だ。学校に登校しない子は別に休んでいるわけではない。むしろ自分の居場所を求めてもがき苦しんでいる。なんの疑問も持たず、学校に行っていればいいと思っている子よりも必死に考えている。
 この次の段階として、フリースクールやホームスクールが義務教育として認められるための検討が行われるのはいつのことになるだろう。中途半端な前進が、ゴールを遠ざけてしまった気がする。

迷惑をかけずに生きること

人に助けを求めることは、その人に迷惑をかけることではなく、幸せを与える行為です | ハフポスト
 たぶん他の人もそうだけど僕も「人に迷惑をかけてはいけません」と言われて育ってきた。家でも、学校でも。だから極力注意を払って、自分の力で何とかしようと思ってきた。でも無理だった。苦手なことはいつまでたっても苦手だし、どうしてもやりたくないこと(やらなくてはならないことで)もあった。人に助けてもらわなくては、ここまで来られなかった。でも「人に迷惑をかけてはいけません」と言われて育った自分は人に助けてもらうことが「迷惑をかけていること」だと思って、とても辛かった。どうして自分の力で生きていけないんだろうと、自分を責めた。身動きがとれなくなった。
 今になってわかる。人は一人では生きていけない。これからはさらにそんな時代になる。同じ苦しみを味わってほしくない。迷惑をかけたっていいよ。その分、迷惑をかけられよう。そう言っていくことにする。

思考停止

なぜあの人は成果をあげるの? 伸びる人が言わない『3つのNGワード』 - STUDY HACKER|これからの学びを考える、勉強法のハッキングメディア
 3つに共通するのは思考停止。学校でも「どうして〜したの」と聞いている場面を見かける。でもそれは聞いているのではなく、教師側の理由に引き込みたいだけのことが多い。それを読み取った子どもは、上手にそれを答えて反省した振りをするし、読み取れない子どもは先生が答えを出してくれるのをじっと待てば良いことを学ぶ。いかに思考しないですむかを学んでしまうのだ。
 「どうして〜したの」と聞くのは良い。でも子どもが答えを出したら「本当にそれが原因?」と問い直したり「どうしてそれが原因だと思うの?」とさらに突っ込んだりすることが大切かも知れない。

LC始めます。

 今年度もLC(リテラチャー・サークル)を始めます。今度のテーマは「人は何のために働くべきか」。仕事に関わるフィクション、ノンフィクションを集めてみました。2学年は職場体験や進路学習で自分の将来像について考える機会が多い。そこで本を通じても考えてみて、最後には意見文を書くという活動です。
 この子たちは、すでに疑似LCは体験済み。読書会の流れにも慣れています。どこまで任せていいか。探りながら、相談しながら進めていきたいと思います。今から楽しみです。

平安時代の人々と交流しよう

 古文の単元が終わりました。これは校内の研修会のために自分のクラスだけ先行して行った実践。「平安時代の人々が考えていたことを知るために随筆『枕草子』を読む」という単元です。事前に選んでおいた章段一覧(現代語訳も数種類用意)から自分の読みたい章段を選び、同じ章段を読みたい人同士がグループになって、リテラチャー・サークルの手法を用いて読んでいきます。例によって、私は何も教えません。まずは自分の選んだ章段を,グループ全員がすらすら音読できるようにすることが課題。国語が苦手な学習者も意欲的に取り組み、かなりスラスラ音読できるようになりました。そして話し合い。常に「平安時代の人々と交流すること」という課題を意識させて話し合わせました。
 単元のまとめの交流では、各グループから「平安時代の人々についてわかったこと」を発表してもらいました。「平安時代の人は普段着を見られるのが嫌いだった。」「よく働く人よりも働かない人が評価を得ていた。」など独特の気づきが共有されていました。現代の自分たちと比較するグループも多く、自然と平安の人々との交流がなされていました。

目標を明確にすること 番外編

 いやぁ、いろいろなことを考えてみるものですね。興味を持っていると情報は向こうからやってくるとはこのことかと思いました。『仕事は楽しいかね?』をKindleのオーナーズライブラリーでダウンロードした。内容はよく知らなかったが、以前から気になっていた本だ。
 この本、ビジネス書として有名だが読んでみると、まさに「目標を立てること」について書いてある。ドンぴしゃ。たとえば「夢や目標こそが成功の秘訣だということは数え切れないくらい耳にするけど、いざその夢なり目標なりを実行に移して入り込むと、十中八九が失敗する。ろくでもない秘訣だね、そんな目標や夢なんて」なんて文章が普通に出てくる。
 成長社会を信じ続け(アベノミクスもそうかもしれないけど)、努力が報われると信じさせることはもう、限界が来ているのかもしれない。もちろん経済崩壊が起きて、また戦後の日本のような状況に陥れば、成長し直すことはできるかもしれないけど。