沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

春と夜更かし

ようやく春うららかな季節になってきたと朝飯食べながら感じる。暖房をつけずとも部屋は暖かく、上着を羽織ることもない。

冬はあまり好きではない。メンタルが落ちる。寒さで気持ちが塞ぎ込むのは誰でもあるだろうけれど、この頃は特に冬季うつってやつなんじゃないかって思うほどやる気が減退していた。昔は汗っかきで夏の方が暑くて苦手だったのに、最近は夏の方がいいな〜って思うのは代謝が弱くなったからだろうか。

メンタル安定させるには暖かさとご飯と睡眠が大事だよな〜と思ってはいるけれど、今は特に睡眠がやばい。ここ最近は毎日4、5時間しか眠れていない。「寝たら明日が来るから眠れない」ってどうすれば解決するんだろうね…。寝なくたって明日は来るよっていうのは頭では分かってるんだけど、どうしても「まだ12時か…、まだいけるな」「1時か…、布団直行ですぐ寝れば6時間くらい寝れるな」「2時か…、流石にやばいが、ギリギリまで寝れば5時間寝れるからもうちょい…」となってしまう。ようやく布団に入っても、スマホをだらだら触って眠れないから子守唄がわりに音楽かけて無理やり目を閉じる。翌日(というか今日)は聞き慣れた目覚ましの音に起こされ、もっと寝ていたい衝動を抑えてシャワーを浴び、ギリギリになって家を出る。

睡眠不足がメンタルにも体にも多大な影響与えてるのは明らかなんだが、なかなか改善できない。なんでこんなに夜更かしって楽しいんだろう。というか楽しいのか? よくよく思い返してみると、別に楽しいから夜中まで起きてるわけじゃないな。なんかゲームしてたらいつの間にか夜中になっているのである。いや時間は確認しているんだ。「ああ5時か、これやったら飯食わねえと(食わない)「もう8時じゃん、もう少しやったら風呂入らないと(入らない)」って感じで、もう後これだけしたらって思ってると数時間たってんだよな。不思議!

これ改善するために、1日にやることでスケジュール組んで毎回通知が出るようにしたこともあったんだけど、しばらくやったら通知来ても無視しはじめて結局続かなかったことがあったなって今思い出した。

「あとちょっと…」の気持ちってどうやれば切れるんだろうねと思ったところで今日は終わり。

仏教徒ちゃんとご飯食べた話

この一連の日記ポストで彼女と別れたことを書いたら、仏教徒ちゃんこと遊民さんが食事に誘ってくれた。

前回の座禅会の時に、彼女ができたことを少々いじられ(祝福され)たことがあり、そのうえで別れたと聞いて少しばかり責任を感じていたらしい。私としては別に気にしていなかったが、ちょうど誰かに話を聞いてもらいたいタイミングだったので、渡りに船でありがたく誘いに乗らせてもらった。

普段あまりこういうことは人に相談しないのだが、リアルの人から第三者的な意見をもらえて、かなりエネルギーをもらえたように思う。人とサシ飲みすることなんて人生で数えるほどしかなかったので、少々緊張していたが、遊民さんが色々と話を掘ってくれて色々話ができた。

自分で思っていた以上に書き留めておきたいことが出てきたので、久しぶりにブログに書き残してみよう。正直自分の恥部をさらしているようで恥ずかしいところもあるが、まあそういうのもたまにはいいだろう。

 

席についてとりあえず乾杯した後、「おめでとう!」と遊民さんは言った。

「おめでとうなんすかw…?」

あまり想定していなかった言葉に思わず苦笑する。

なんでも、彼女と上手くいっても別れてもどっちにしろ「おめでとう」になるらしい。上手くいけばそのままおめでとうだし、上手くいかなくても今みたいに他の人との縁が強くなるからみたいなことらしい?(この辺曖昧だったんで勘違いだったら申し訳ない)

実際、今回のことがなければこういう話をする機会もなかったと思うので、確かに遊民さんとの縁を深める機会を彼女からいただいたという見方もできるかもしれない。

 

そのあと、ツイッターで書いていた内容の話に移った。

この一連のポスト

 

自分で書いてた日記みたいなのをとっかかりにして話をしてくれるのめちゃくちゃ助かった。共通のコンテンツから話ができるからかなり話しやすかった。「さびしい夜にはペンを持て」に影響されて試しに書いてみたものだったが、今後も定期的に書いてみると面白いかもしれない。

 

そんなわけで、ポストの内容について話していた中で印象に残ったのが、君は他人に興味ないんだよって言われると心がざわつくってところを遊民さんが上手く言語化してくれたことだった。

自分としてはこの言葉を言われると、まあ間違ってはないのかなって思ってた

話の中で、子供の頃はどんな感じだったのかと聞かれた。小中高とか女の子に興味はなかったの?

学生時代を思い出す。そういうわけじゃなかった。人並みに興味はあったと思うし、気になる人だっていた。しかしまあ、当時は今の数十倍ひねくれていたから、自分なんかに好かれても迷惑なだけだろうとかなり強烈に信じていた。だからまあ、気になる人がいてもアプローチとか考える前に、何もしないって選択をしてきた。

遊民さんが言う。そういう色々な葛藤とか過去の経過とかがあって、今のこの状態があるってことを言ってもらえればいいんだけど、今の結果だけを見て、「他人に興味ない」って評価を下されるからざわざわするんじゃない?

ああ、そうだなと、スッと合点がいった。今の状態に至るまでの流れを聞くのでもなく、今の結果だけを見て、まるで評価を下されるみたいに「他人に興味ないんだ」と言われるのが嫌だったのか。

そんなことにようやく気付けたのだった。霧がようやく晴れた気分。これに関しては人に興味ないってところは正しいのかもしれないと思ってたから、そのジャッジのプロセスに納得いってないってことが分かってよかった。

 

あと良かったこととして、「人間に擬態するの大変っすね」って言って、共感してもらえたように感じられたこと。

「人間に擬態」ってワードを出すと、今までリアルで出会った人は「どうした? 大丈夫か?」と心配するか、「どしたんすかw? なんか悩みでもあるんすかw?」と単芝生やして半笑いしてくるか、ハア???となるか、その辺だと思ってる。

だから、あんまりリアルでこういう言い回しはしないようにしてる。しかし、今回は婚活で女性と知り合うときに義務みたいな質問するのマジきついってところでお互いに共感できて、盛り上がった流れで、ふと「人間に擬態するの大変」って話をしていた。

遊民さんは「あ!、そうだね!」と返した。

何というか、ほっとした。外国で日本語が通じる人を見つけたようなそんな感じ。「人間に擬態」って言葉が同じ言語として通じ合ったように思えた。

普通に女性と知り合って、普通に何か質問し合って、共通点見つけて、交際して、結婚してって一般人の流れが、どうも無理そう!ってなった同士で同じ言語で話せたような安心感があった。

ああ、俺はこういう風に共感してもらいたかったんだな。心配も笑いも疑問もなく、「だよなー」と言ってほしかったんだなと気づけた。

 

そのほか、別れた人と面白いってことを結局共有できてなかったな~とも感じた。相手の面白いと思うことも最後まで分からなかったし、自分が面白いと思うこともできなかった。なので、遅かれ早かれ別れてはいたんだろうなと思う。相手も自分も面白いと思うものをどうすれば共有できるのかよく分かっていなかった。そういうところで共感しあえるかと思っていたけど、結局コミュ障とコミュ障がぶつかり合って対消滅しただけだったな。

 

遊民さんに言われて、俺はどんなことに幸せを感じるんだろうと改めて考えてみる。例えば、旅行に行った街中でいい感じの路地裏を見つけたとき。池島に行ったときはマジでテンション上がったなー。

参考記事

numamemo.hatenablog.jp

 

例えば、仕事で使うエクセルファイルをいじって、いい感じに新しい関数を使えた時。

 

…人と共有しづれ~

 

そういう楽しみを上手く人と共有できればいいのかもしれないけど、なかなか難しいですね。この辺はまたぼちぼち要調整かな。

 

最後に、遊民さんからブログとかツイッターのことを結構良く言ってもらえて恥ずかしいやら嬉しいやらであった。人に感想言ってもらえるとめちゃくちゃモチベが上がる。結婚的な話も、最初にブログから入ってもらって、興味持ってくれた人と仲を深めてった方がいいんじゃないかとアドバイスをもらった。逆に、リアルで会った後にブログを教えるのはNGだそうだ(実際にやってた)。俺のことを一般の人間だと思ってた人があれを見たら当然引くらしい……。

まあそれはそれとして、友人からもブログから入るルートをおすすめされていたので、もうちょっとブログを定期的に書いていこうかなと思った。今までは書きたいときに書きたいようにと思って最近は更新もしないでいたけど、もうちょっと負荷かけて「育てていく」イメージでやってみようかと思う。

遊民さんの野望としては、座禅のことを定期的に書いてもらえると励みになるってことだったので、やれる範囲で書いていければいいな。

 

そんなこんなでたっぷりと話をして最後に「ご愁傷様」で別れたのだった。

書くことと私

この度、リアルの人に自分のブログを教えるという経験をした。

感想として印象的だったのが、「ちゃんと人間ぽかった」という言葉。

 

ふと、高校の時を思い出した。

「何を考えているかわからない」と今まで度々言われてきた。

「君はどう思う?」って何か聞かれて、自分なりに答えたんだけど「それは一般的な考えでしょ、君がどう思ってるのかを聞きたいの」って言われた思い出がある。具体的にどういう話をしてたのかはもう忘れてしまったけど、返答に困った印象だけが頭にこびりついている。

 

私は何事もパッと答えられない。

根本的に記憶力がないのか、記憶を引き出す力が弱いのか、とにかく頭の引き出しの中からパッと言葉を出して話すのが難しい。

好きな料理や食べ物という簡単な話でさえ、改めて聞かれると「うーん、何なんだろう…」とうまく言葉が紡げない。大体はハンバーグとかカレーとか「嘘では決してないんだけど、それが完璧な正解かと言われると疑問がつく」みたいな回答をしてしまう。いやそもそも別に完璧な正解なんて求められてなくて、ただ話のタネにしたいだけなんだから、そんなのパッと思い浮かんだやつ言っておけばそれでいいとはわかってるんだけど、こう、どうしても性なのか「自分自身も深く納得するような回答」を探しちゃうんだよね。

何か質問を受け付けると、頭の中で自動的に反証を始めてしまうような気がする。「ハンバーグが好きって言ってるけど、どんな具材を使っててもそう言えるの?」とか「もうお腹がはちきれそうになっていてもハンバーグを食べたいと思うの?」とかとかとか…。

私の頭もそんなに高性能ではないので、無限に現れる反証に処理能力が奪われて、いよいよ何もしゃべれなくなる。

 

そういった場面を離れて、ぼーっとテレビ見てたり、ネットの情報を浸かってたりする時にふと、「あ、こういうのいいな」って納得する回答が出てきたりする。

こういう納得した回答が出てきたときは、何かしらメモったりして、さらに興が乗ったときはブログに書いたりする。

そんなわけで、自分の納得できるような言葉はブログに多い。書くことで私が形作られていくような感じ。もちろんそれだけが私の全部ではないけどね。

このブログは自分の説明書になるようにという目的もあるため、ある程度その方向では成功しているのかもしれない。今後はもう少し素朴なこと(好きなところや行きたいところとか)について、自分の納得する答えを書ければいいかなーとか考えている。

 

リビングのマットが直せない

リビングにマットが敷いてある。ニトリで買った正方形のマットをいくつもつないで1枚のマットにするやつ。それがグチャグチャになっている。

 

www.nitori-net.jp

こんなやつ。

 

何年か使っているうちにジョイント部分がへたって、うまく繋がらずグチャグチャになってしまい、そこここにフローリングが丸見えになっている。グチャグチャになっているのに直せない。

グチャグチャのマットは椅子を動かすたびに引っかかる。邪魔だな…って思いながら椅子を直して、マットはそのまま。新しいものに換えれば綺麗になるのにと話す天使を、惰性の岩で押しつぶす。どうせ直したってまたグチャグチャになるんだから。

 

グチャグチャから目をそらすようにiPadYouTubeを開く。ホームに出てきた動画を見る。Vtuberの切り抜きを見たり、アニメを見たり、音楽を聞いたり。1時間くらいそうしていたらもうマットのことなんて忘れてる。見えているはずが見えないようになっている。

適当に動画を見てると色々な「やらないとな…」が忘れ去られていく。グチャグチャのマットも、かごに積もった洗濯物の山も、油で汚れたキッチンも、とっくに必要なくなった書類で埋もれた机も。

一通り忘れてしまえばもう明日が来る。「やらないと…」を明日に持ち越しながらずっと暮らしている。

 

いいじゃないか。どうせ困るのは私しかいないんだから。私が許容できる範囲で部屋が汚れるのはなんの問題もないはずだろう。

そう、問題ないはずなのに私はこれを書いている。このグチャグチャのマットのことを書いておきたいと思っている。それはやっぱり心のどこかでマットのことが引っかかっているのだろうと思う。

今日は帰ってから動画を開かず、これを書いてみた。動画を見るというルーティンが崩れたからか、みぞおちのあたりがどーんと沈んでいるような気持ち悪さがある。単に腹が減っている可能性もあるけど、お腹が空いたー!って感じとはやっぱり少し違うように思う。この気持ち悪さは「やらないとな…」が降り積もってできてるように感じた。

今の私の家はそこら中に「やらないとな…」が降り積もってて、動画を見て一息つかないとやってられないんじゃないだろうか。それならこれはお酒を飲んで気持ちを紛らわすのとほとんど違いがないな。

とはいえ、そう考えたからって、じゃあすぐに積もり積もったやらないといけないことを解消できるんかっていうと、そう簡単に体は動いてくれないようで。とりあえず、もう完全に使えないようなマットは今ゴミ箱に捨てたけど、それは結局「マットを何とかしないと」が「ゴミ捨てに行かないと…」に変わっただけなんだから、なんか元の木阿弥って感じ。

やっぱりなんか、「やらないとな…」って面白くないんだよな。もっとなんかこう、自分を駆動させる面白さが欲しいなーなんて思いながら、収集つかなくなってきたので、ここらで閉じよう。そうして私はYouTubeを開くのだった。

コンテンポラリーダンスのワークショップに行ってきた

こちらのワークショップに参加してきた。

以下の記事を偶然見たことがきっかけとなった

dialogue.panasonic.com

 

何を検索してここに辿り着いたのかは忘れてしまったのだが、興味をかきたてることが書いてあった。

その場の状況に合わせた居方を自然に整えていくためには、「感覚」を研ぎ澄ませて身体に意識を向け、今この瞬間の自分に集中することが必要です。

もともと座禅を通して、身体感覚に注意を向けることに関心を持っていた。上記の記事の中でも身体感覚を研ぎ澄まして、今この瞬間の自分に集中することが書かれている。身体感覚への集中を通して、ワークショップの経験が座禅に上手いこと繋げられないか?というのが気になった。

鈴木さんは定期的にワークショップを開催していることを知り、それもダンス未経験者でも全然可とのことだったので、これは参加するっきゃねーと東京まで赴いたのだった。

 

ワークでは肩や背中、胸、腰に注意を向けながら、体を動かしていくことが主になっていた。後半では自分で各々が自由に体を動かしたり、他の人が動かす新聞紙を真似て体を動かすワークを行った。コンテンポラリーダンス自体が、型や決まりのないダンスであるらしく、体の動きを意識しながらもできる範囲内で自由に動かしていく。要所要所で緩急や強弱を意識してみるようアドバイスが入るが、あくまでそれもできる範囲内でできればいいといったものだった。

ダンスと言えばバレエやヒップホップダンスのイメージで、決まった型や技を上手く出していくものしか知らなかったので、この自由さがとても面白かった。

 

肝心の身体感覚については、ワークの間中ずっと意識していた。肩、背中、胸、腰の感覚を普段の何倍も意識しながら動きを付けていく体験はとても新鮮なものだった。あと、こういう踊りとかって、他の人から見られるのが恥ずかしいかもと思っていたのだが、他の参加者もみんな自分の動きに集中していて、いい意味で無関心というか自分の世界に入っている状態で、自分としてはとても居心地が良かった。

ただ、最初のテーマであった「座禅との接続」については、カチッとした何かは得られなかった。これから座禅するときに身体感覚をより意識できたりするかもしれない。座禅前の準備で少し今日のような体の動きをしてみてもいいかもしれない。

 

さて、当初は座禅に関連した興味で参加したが、それはそれとして単純に体を動かすのが楽しかった。

運動らしい運動なんてここ数年してきていないが、体を自分のペースで自分の好きに動かすのが許されている環境というのが心地よかった。これが「この型の通りにこの順番で踊れ」っていうワークだったら、多分こんな気分にはなっていなかっただろう。

どうも自分は決められた規則通りに何かをやるのが苦手らしい。ギターでも一番楽しいのは自分で譜面とかなく無茶苦茶に弾きまくっているときだ。楽譜を持ってきてその通りに演奏しようとすると途端に苦しくなってしまう(それでも技術あげるためにやらざるを得ないのだが)。そんなわけでワークショップとはいえ、楽しく体を動かせた体験はなかなか貴重なものであった。

最初は正直このためだけに東京行くのか?って迷っていたけど、結果的に凄く面白い体験ができた。名古屋あたりで同じようなワークショップあったらもう一度行ってみたい。

 

 

弱さで繋がることの困難さ

先日コンプレックスを持つ者同士が自身のコンプレックス体験を話し合うという会に行ってみた。自分自身にコンプレックスがあるものの、そういったことは友人やましてや家族にもなかなか言えない物がある。前々からコンプレックスについて誰かに話してみたいと思っていたので良い経験になった。なお、ナイーブな話になるのでどのようなコンプレックスについてかは伏せておく。

 

個人的には普段話せないようなことを安心して話すことができる場だったので、行ってみてとてもいいなと思った。人のコンプレックスの内容を聞いて、「あ、自分もそういうのが嫌だわ」と言語化できたり、反対に「うーん、そういうところは相容れないな」と違うところを発見したり、自分のコンプレックスの解像度が上がったと思う。

ただこういったみんなで話すという場で、癒されるとか心が軽くなるとか人と繋がるといった気持ちにはあまりならないなと感じた。もちろんこの辺の効果というのはとても個人差があることは前提の上で、自分が感じたことを言語化してみたい。

 

自分がこの会でポジティブな効果を感じにくかった原因は嫉妬だった。

会の中では、自分の苦しかった経験とか困ったことを話したりするのだが、当然人ごとに体験にグラデーションがある。同じコンプレックスを共有しているとはいえ、人によってははっきり言って羨ましいと感じるような体験をしている人もいる。自分が求めても全く手に入らなかった体験をしているのに、それが苦しいと言う人がいる。それを聞く私はどうしても嫉妬心を感じてしまう。まさに隣の芝生は青い色。

とはいえ、それは多分私についても同じことで、誰かから見たら私の体験も、もしかしたら羨ましいものに思えるのかもしれない。「そんな幸せな状態で苦しいとはなんだ」と思われることもあるのだろう。

これがどうでもいい話題の時ならそんなに嫉妬することもない。だが、えてしてコンプレックスや弱さというのは適当には済ませられないところがある。普段の生活では抑えられていても、いざそれに向き合おうとすると傷がえぐられるような気持ち悪さを覚える。だからこそ弱さで繋がるというのは、ただ趣味とかで繋がることよりもよっぽど難しい。

 

苦しみは個人特有のもので、比較してもしょうがないんだけど、どうしても「いや、私のほうがよっぽど苦しいが??」と自分の中で不幸自慢が始まってしまう。不幸自慢をし始めれば、自分の不幸を立証する証拠集めをし始める。その先はどこまで行っても誰かと自分を比較し続ける無間地獄だ。

そんなわけで、同じコンプレックスを持っていたとしても結局どこかで断絶を感じてしまうなーというのが参加してみた感想だった。こういう感情をうまく処理して繋がりを作っていける人もいるんだろうけどね。嫉妬心はなかなか処理するのが困難だ。

 

実際のところどうしようもないのだ。嫉妬心とか人と比較してつらいとかって話をすると「人と比較しないようにしよう」とか言う人もいるが、それはその人にとってどうでもいいことだからそんなことを言えるのである。人間が人間の世界で生きる以上、比較する心はどうしようもなく存在せざるを得ない。ましてや自分が気にしている弱さならなおさらだろう。比較をするから嬉しいし、楽しいし、悲しいし、苦しい。比較する心から離れようとするアプローチもあるにはあるけれど(仏教とかね)、どうしたって一般的なアプローチではないし、単純に難しい。

だから、嫉妬心も比較もそれ自体は仕方ない。それがあるまんまコンプレックスについて話したり、繋がったりできんもんかなーとか考えている。もちろん、そんな嫉妬心を掻き立てられる人と繋がる必要はないといえばないんだけど、せっかく同じようなコンプレックスで話ができるのであれば、そのほうがいいだろうとも思う。

 

この辺ほかの人はどうしてるんだろうね。うまく嫉妬心と付き合いながら、人と付き合う方法はないものだろうかと考えるこの頃。

 

読書感想文「なめらかな世界と、その敵」 

伴名練さんという名前はツイッターか何かで見たことがあった。ただ「SF」というジャンルにあまり興味を見いだせず、面白いと聞いて気にはなっていたがそのままスルーしていた。しかし、エオルゼア読書クラブで読んでいる人がいて、自分も触発されて読んでみたところ、私の想像していなかったSFがそこに広がっていた。

私がSFと聞いて思い浮かべるイメージは以下のものだ。宇宙、異星人、星間戦争、ロボット、AI、クローン、汚染された地球、惑星移住、コールドスリープ、ワープ移動etc…。

また、それまでのSFでは「何が起きているのか、どんな技術があるのか」というあったコトに焦点が置かれているようなイメージがあった。何年に〇〇があって、こんな技術が生まれて、こんな問題が起こって云々って感じ。

本書では、そのイメージをバキボキに破壊された。本書では「何が起きているのか」より「誰がなんでやったのか」という人同士の関係に焦点が当てられていると感じた。サイエンスの部分が背景情報になって、「それを使ったら、それがあったら人は何をして、何を思うんだろう」みたいな人間の感情や情動がもっと前面に出てきているようなイメージ。本書の解説の言葉を使うなら「エモさ」の比重がとても高い。各話ごとに読み終わった時は青春小説を読み終わった時のように、本を置いてハーっと余韻に浸る。私はこういう話が大好きなのだ。

全体を通して、SFのイメージを一新させた本であった。

以下で各話ごとの感想を書いてみる。

 

「なめらかな世界と、その敵」

表題作。量子論多世界解釈みたいな、様々な可能性の私を自由に行き来できるのが普通になっていたらどうなるのだろうという思考実験のように感じた。

暑さで目が覚めて窓の外を見ると、青々と茂った草木に雪が舞い降りている。序盤から不思議すぎて????になるが、この世界ではこれが普通。無限にある様々な可能性の私の意識を行き来できるのが通常の状態なのである。その中に私達と同じ「今のこの私」しか生きられない人が現れたらどうするんだろうみたいな話。

読んだときに、こんな設定を入れてくるのか~と感嘆した。「私以外が私であったらどうなっていたんだろう」みたいなことを考えた人はそれなりにいると思うんだけど、意識を自由に選べる人の中に、選べない人を入れたらどうなるだろうなんて考えたことがなかった。色々な世界を行き来する不思議な小説になっていて、特に終盤の疾走感は脳内イメージが素早く切り換わっていってとても面白かった。

 

ゼロ年代の臨界点」

これ読んだ人の中で「あれ、もしかしてこれって結構な程度、史実に沿って書いてるのかな」と無邪気に信じた人はどれくらいいるのか分からないが、私がその1人だ。だって具体的な西暦年もあれば、具体的な人物名もあり、挙げ句注釈まで備えてあって、実際にあった体で書かれてるから、かなり終盤になるまで「もしかして史実として実際にあったんだろうか」とちょっと信じかけていた。女性作家3人の文学を通した悲喜こもごものやり取りが印象的な作品だった。

 

「美亜羽へ送る拳銃」

伊藤計劃「ハーモニー」にオマージュされた作品。インプラントを脳に埋め込み、永遠に特定の人間を愛するように仕立てることができる技術が確立された世界が舞台になっている。

読んだ後にこんなギャルゲーありそうだなって思った。いやあるはず。意図的に作られた愛情を受ける主人公が、その愛情に嫌悪感を抱く展開あると思います。ギャルゲー小学校卒業生だからやっぱり恋愛要素のある話は好きよ。

 

ホーリーアイアンメイデン」

その手で抱いた人を全て倫理的な思想にしてしまう姉と、姉に変えられていく世界を見る妹の話。全編、妹から姉に宛てた手紙の形式で物語が進む。妹の視点から見た姉妹のあり方の変化が見どころ。

 

「シンギュラリティ・ソヴィエト」

人工知能が極度に発達したソヴィエトを舞台にした話。見渡す限りの路面を赤ん坊が這いずっていたり、赤ん坊を通して人工知能が司令を下したり、一般の労働者がいきなり工作員に変貌させられるといったなかなかに薄気味悪い舞台設定となっている。ソヴィエトの工作員アメリカの工作員人工知能バトルとミステリー要素が面白かった。

終盤の展開では、人工知能が個人レベルの認知まで操作できるような世界でやることがそれかよと驚いていた。

 

「ひかりより速く、ゆるやかに」

本書で一番好きな話。シュタインズゲートの「跳べよおおおおぉぉぉ!」が好きな人は多いと思うが、あれと同じような感情を味わえるぞ。

特定の場所の時間経過が極端に遅くなるという舞台装置が面白かった。亡くなったわけじゃない。停止したわけでもない。ただ極度に時間の進みが遅くなっている。救出は絶望的だけど、いつか普通に動き出すんじゃないかという希望も捨てきれないという葛藤を生み出してるのがずるい。気づいたら数千年後の未来にいましたって話はいくらでもあるけど、残された側の視点での話は私は初めてだったので新鮮だった。

あと、終盤の2人のやり取りがな、最高なんだよ。朝の静けさの中で、久しぶりに再開した2人のやり取りに万感の思いみたいなものが込められてて、しばらく余韻に浸っていた。

 

こんなところかな。

伴名練さんの他の著作もまた読んでみたいと思える、ガツンと来た本になった。